試作【TL】夏の日のサマーデイ

男性側三人称視点×複数/姉×異母弟/陰気無愛想バブバブ美青年弟/強姦/擬似寝取り・擬似寝取られ/以上すべて予定・その他すべて未定

1

 姉が寝ているのを、渚砂(なぎさ)は見つけてしまった。扇風機の弱い風が軽快な音とともに左右に振れ、姉の髪を遊んでいく。
 彼は生唾を呑んだ。喉が渇いている。けれども目当ては、二人を隔てる卓袱台の上の麦茶ではない。
 りん、と軒先にぶら下がった鈴が鳴る。短冊が揺らめいている。
「姉さん……」
 姉への想いが、薄い胸板を内側から抉じ開けようとしている。その痛みが、卓袱台の上のグラス同様に、彼に汗を流させるのだった。




 父方の親戚の家は田舎にあった。生まれ育った都会から在来線で行けるものの、空は拓かれ、田園に囲まれている。自給自足というほどの田舎ではないのだろう。しかし上へ上へと居住地を増やし、空は明るく、田畑のひとつも見当たらない都心近郊の地区とは大いに違っていた。
 電車といえば、自動開閉ではなかった。初めて来たときは戸惑ったものだった。しかしやはり田舎といえども現代社会は侮れない。改札はカードが対応していた。
 改札を抜けたときに、昔来たときとの違いを思い出した。駅舎には大した変化はない。
「渚砂ちゃん……?」
 女性の声だった。彼は咄嗟に振り返ってしまった。壁沿いに佇む人物と視線が搗(か)ち合う。相手は目を見開いていた。夏の空のような瞳のなかに、渚砂は吸い込まれそうになった。電車酔いをしたつもりはなかったが、微かな目眩を覚えたのだった。同時に、自身の勘違いに気付くのだった。淡いブルーのワンピースの女に覚えはなかった。
「すみませ――」
 時間が止まったようだった。驚いた表情を見合わせていた。
 父方の親戚に、年上の女の子がいたことを思い出す。しかし名前が思い出せない。
「晴海(はるみ)さん、ですよね……?」
 相手の女が訊ねた。その目は揺らいでいる。胸元に組まれた白い手の細さに、渚砂は息を呑んだ。白と水色のチェック模様は大きな丸みのために歪んでいた。
「そうですが……」
「晴海渚砂さん……?」
「はい」
 けれども彼女は、人違いをしたかのようなばつの悪そうな表情を見せた。一瞬のことだった。
「久し振りだね。とても昔に会ったことがあるのだけれど、もう覚えてないよね。雨崎(うざき)梅子(めいこ)です」
「は、はあ………」
「お父さ……涼歌(りよか)おじさんからお話は聞いていたから、予定の時間から電車調べて迎えに来たの。この辺だとタクシーもあまりつかまらないと思うし……」
 案の定、父方の親戚であったが、告げられた名前について、渚砂に懐かしさはなかった。下の名前は初めて聞いた気すらしている。
「ありがとうございます……」
 渚砂は目を伏せた。女性と関わる機会は多かった。美形の父親と可憐な母親の艶と華を引き継いでしまった彼の周りには蜂や蝶よろしく女性が集まるのだった。しかし、性分はこの運命を受け入れていなかった。
「荷物、半分お持ちします」
 しかし渚砂は首を振る。差し出された手の細さに釘付けになった。白さと相俟って、手提げのカバンを預ければ最後、忽(たちま)ち折れてしまいそうである。
「結構です。自分で持てますから」
「でも、長旅で疲れたでしょう?」
 大学の知り合いには、実家に帰るため新幹線に乗り、電車を乗り継いで飛行機に乗る者もいる。渚砂はといえば1回乗り換えがあるだけである。とても長旅とは言い難い。
「いいえ。お心遣いありがとうございます」
 駅舎の階段を降りていく。
 梅子と名乗った女の車に乗せられ、父方の実家に向かっていった。国道を抜けると田園風景が広がっていた。しかし昔来たときと違うのは、雑草にまみれ雑木林と大差のなかった空地は新興住宅地と化し、その付近には疎らなソーラーパネル畑が開墾されていることだった。
 投げかけられる問いに答えながら、車窓を流れる景色を薄ている記憶と比較する。しかし元の記憶も怪しいものだった。
 川を越えて、神社を横切り、踏切が見えるとそこが父方の実家だ。
 駐車場に車が停まる。
「渚砂さん。あの……涼歌おじさんから聞いてるかな……その、今はわたしも住んでて……ごはんも洗濯も家事は全部、わたしがするから、一緒に暮らすことになるのだけれど………それでもいい?」
 運転席の梅子が振り返る。渚砂の胸が跳ねた。長い髪が靡き、大きな目は吸引力を持っている。
「……家事の一切をお任せするわけには……」
「でも、住まわせてもらってるんだし、1人分も2人分もそう変わらないから」
 鼓動が速まる。息が詰まった。喉が絞まるようだった。
 ドアが開かれ、専属の運転手よろしく梅子が控えていた。
「お腹は?」
 渚砂は澄んだ瞳を覗いてしまった。
「お腹は? 空いてない? 何か作ろうか」
 彼女はすでに後ろへ乗せた手提げカバンを持っていた。
「結構です。自分で持ちます」
 渚砂は彼女の前を通り抜け、荷物を引き手繰(たく)る。
 広い庭を歩いて玄関へと向かう。芝生のなかに石畳が敷かれていた。
 玄関アプローチで待っていると、駆け足で梅子がやって来る。
「あ」
 梅子の身体が傾く。渚砂は手提げカバンを放り投げた。彼女の羽織っていたカーディガン越しに腕を掴んでしまった。掌に衝撃が走る。柔らかな感触の奥に骨の硬さがある。反射的に込められた力では折れてしまう。渚砂の判断はすばやく下される。彼の手は弾かれた。
 転倒を免れた梅子は屈み込む。
「大丈夫ですか」
 彼は転がっている手提げカバンを拾う。振り返りもしなかった。
「うん……ごめんなさい。今、開けるね」
 梅子は玄関扉に鍵を挿し込む。細い指が銀色に絡み、手首を捻る。
 胸の奥で弱い電流が迸る。
「あまり片付いてなくてごめんなさい。すぐお掃除するから……」
「自分で片付けます」
「奥のお部屋が空いているから好きに使って。お布団もすぐに出すから」
「はい」
 梅子の前を横切り、渚砂は家の奥へ入っていった。
 この家は何人で住むつもりだったのだろうか。開け放たれた部屋がいくつもある。渚砂は最も玄関から遠い、北向きの日当たりの悪い部屋を自室にした。荷解きをしながら考え事をしていた。同じ屋根の下にいる人物のことが頭から離れない。黒蜜にまみれたタピオカを思わせる瞳が、まだ目交いに据え置かれているようだった。強く思い浮かべると、腹と胸が重くなった。気怠い。立ち上がれなくなる。畳に腰を下ろす。北の窓の外には裏庭越しに畑が見える。枝豆を作っているようだ。その奥には線路が見える。線路の向こうには国道があり、さらにその向こうには小学校だったか中学校があったはずだ。校庭を囲う木の陰から校舎が見える。
 窓を開ければビルか家が空を遮っている母方の親戚の家とは別世界のように思えた。けれども二つとも同じ陸地の上にある。
「渚砂さん」
 渚砂の肩が跳ねる。磨りガラスの嵌められた障子が開く。草臥(くたび)れた半袖のシャツに、地味なロングスカートの梅子が現れる。
「ホットケーキを作りました。おやつにいかがですか」
 彼は話を聞いてはいなかった。声ばかり聞いていた。そして人の話を聞いているふりをして、黒真珠のような輝きを持った瞳ばかり凝らしていた。
「嫌いだったかしら……?」
「あ……いいえ。いただきます」
 台所に取りに行くと、甘い匂いが鼻に届く。
「夕飯は何か食べたいもの、あるかな。美味しく作れるか分からないけれど……」
 渚砂は皿を受け取り、フライパンの上の移す。家はそうとうの建築年数を感じたが、ところどころに最近の文明が混在している。IHなどはまだ新しかった。ガスコンロを撤去した跡が油じみたステンレスの台に目立っていた。
「あ、バターとか、メープルシロップとかもあるからね」
「はい」
 渚砂はフォークをもらい、皿を運ぼうとした。
「お部屋で食べるの? リビング……ってほどでもないけれど、そこも空いているし、広いよ……?」
「結構です。部屋でいただきます」
「じゃあ……うん。扇風機、持っていくね。クーラーの気分じゃないときもあるものね」
「自分で運びます。どこですか」
 テーブルにホットケーキの皿を置く。
「食べたあとにしましょう。埃っぽいし……綺麗にしておくから」
「借りるのは俺ですから、俺がやりますよ」
「ううん。用意しておかなかったのはわたしのほうだし、渚砂さんも長いこと電車に揺られて疲れたでしょう。わたしが綺麗にしておくから、じゃあ、そのあと、よろしくね」
 渚砂はホットケーキを食らった。耳鳴りを起こしていた。共に暮らすことになった女の声が耳の奥を巡っている。
 使った皿を洗っていると、隣の風呂場から扇風機の部品を洗っている音が聞こえた。彼女は水道を止めたようだ。渚砂が捻った蛇口の水の量が増す。
「な、渚砂さん……! いいんですよ。お皿洗いはわたしがやりますから……」
「ですが……それでは俺は居候どころか……」
「いいんです。本当はここは渚砂さんのご実家なのを、わたしがタダで住まわせてもらっていたんですから……」
「実家といっても今は行方知らずの父親です。ここも、あまり実家だなんて認識はないです。空き家になって、不要な出費になるのも癪ですから、誰か住んでくれるのなら、それが一番です」
 皿の水を切る。何気なく振り返ると、視界に扇風機の羽を抱く梅子が入った。彼は咄嗟に水道へ向き直る。一緒にして身体が熱くなった。手を洗い、体感温度を下げる。
 梅子と接すると具合が悪くなる。夏は父方の実家で過ごすという選択は間違っていたのではなかろうか。


 虫が鳴いている。母方の親戚の家でも聞こえていたが、規模が違う。焼き切れていくような虫の音が眠気を誘う。しかし腹も減っていた。
 もうすぐで夕食だ。
「渚砂さん」
 磨りガラスの障子に梅子の影が映る。
「はあ」
 横になっていた身体を起こす。
「夕飯、ハンバーグなんですけれど、お部屋で食べる? リビングにしますか」
 居間にはこの女がいる。喉を締め、腹と胸を重くする女の目の前で飯など食えない。
「部屋でいただきます」
 梅子は微笑を浮かべる。それが返事のようだった。
「じゃあ出来上がったら持ってくるね」
「いいえ、自分で取りに行きます」
「分かった」
 磨りガラスの障子が閉まる。外が暗くなっていることに気付き、カーテンを閉めた。明かりを点ける。
 隅に畳まれていたテーブルを組み立て、ウェットティッシュで拭き取る。そのうち梅子が夕飯ができたと告げに来た。
 台所に行くと、すでに盆の上に米と味噌汁、漬物とハンバーグが並べられていた。
「いただきます」
「美味しく作れているといいんだけれど……」
「ハンバーグは不味くならないと思いますが」
 実際、梅子のハンバーグは渚砂の舌に合った。皿の上に4つ盛られた肉塊に、彼女の小さな手を感じる。腹が重くなる。胸が痺れ、身体が蒸されるようだった。熱い味噌汁のせいではない。
 添えられたミニトマトでも身体は冷えない。キュウリとナスの漬物も、熱い米を促すだけだ。
 汗を流しながら台所へ食器を返しにいく。
「もう食べ終わったんですか」
 居間から梅子がやって来る。夜だというのに朝露を思わせる輝きを帯びた瞳は、渚砂の持つ盆を彷徨う。しかしその表情には戸惑いが滲んでいる。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「よかった」
 梅子はそのままシンクに立つ。すでに水場には空いた食器が積まれていた。彼女は待っていたのだ。
「手伝いましょうか」
「ううん。休んでて。お風呂沸いているから、少しお腹が落ち着いたら入ったら。熱いと思うからお水入れて冷ましてね」
 梅子の手が油に汚れた皿を取る。泡立ったスポンジが表面を滑る。食器棚に大皿があったはずだ。ホットケーキをもらったときに見つけた。しかし小皿が2枚。
「次からはリビングで、一緒にいただきます」
「え……? うん。分かった」
 後ろで束ねられた髪の陰から項(うなじ)が覗けた。白く、細い。後れ毛が張り付いている。渚砂は顔を背けた。
「渚砂さんがお風呂入ってるときにお布団のご用意をしておきますから」
「自分で運びます。あとで場所を教えてください」
「分かりました。何もできなくてごめんなさいね」
「俺は客ではありませんから」



 布団に入り明かりを消す。胸が苦しくなった。心臓に病を抱えているわけではなかった。先程台所へ水を汲みに行ったとき、隣の風呂場からシャワーの音が聞こえたのだった。淡いブルーのワンピースに包まれた撓(たわ)わな胸と、とてもその大きな部位を二つも支えられそうにない括れた腰と細長い脚のことを考えてしまうのだった。華奢な線と豊満な肉感を併せ持つ梅子の肉体を打った水滴の音を思い出していた。
 今日はそこまで暑くはなかった。渚砂も寒さには弱いが暑さには強かった。しかし熱い。灼けるようだった。汗ばむ。
 枕が変わったからに違いない。
 彼は布団を捲った。上体を起こすと、運ぶだけ運び、部屋の隅に放っておいた扇風機と目が合った。まだ点ける温度には思われなかった。
 新しい住処を見回しているうちに汗が乾いていく。もう一度布団をかぶる。
 息苦しさに身悶えているうちに、彼は眠ってしまった。
 踏切の警報機の音で目が覚めた。朝の空に谺(こだま)しているようである。遮光カーテンの奥が白く光っていた。
 枕元のスマートフォンを手繰り寄せる。時計を見た。電車が通過していった。始発のようだ。
 もう一眠りしようかと目を閉じたが眠れず、起きることにした。遮光カーテンを捲り、レースカーテンから朝の光を採る。北向きだが、土地が開けているために朧げな白い明かりが十分入る。
 国道を通る自動車やトラックを数台見送ってから部屋を出た。
「おはようございます」
 渚砂の眉間に皺が寄る。
「……おはよう、ございます………」
 梅子はすでに起きていた。七分丈のシャツとロングスカートは寝間着代わりではなかろう。
「早いんですね。眠れませんでしたか」
「寝られました。梅子さんこそ、早いのでは」
「偶々。今日だけ。目が冴えてしまって。すぐ朝ごはんを作るから、リビングで待っていて」
 渚砂は言われたとおり居間に向かった。テレビには朝の情報番組が流れている。卓袱台と扇風機があり、縁側の奥には家庭菜園が広がっている。梅子が世話をしているのだろうか。支柱が立てられ、活き活きとした蔓が巻き付き、青々と茂った葉に覆われている。ミニトマトが生っているのはよく目立った。
 それから彼は、抽斗(ひきだし)の上の位牌に目を留めた。漆黒に青金で「童子」と入っている。晴海家の若い男子が亡くなったのだろうか。裏面を見ようと、傍に寄る。
「渚砂さん」
 手を伸ばしとき、居間へ梅子が顔を覗かせた。渚砂の手は瞬時に引き戻される。
「はあ」 
「パンとごはん、どちらがいいですか」
「ごはんでお願いします」
「分かりました。お布団は食べ終わったら、片付けますから」
「いいえ、自分で片付けます」
 渚砂は部屋に戻った。布団を片付け、顔を洗い、着替えを済ませる。脱衣所で洗濯機を眺めていると、梅子が隣の台所から様子を見にきた。
「お洗濯は、ある程度溜まったらやりますから、脱衣籠に積んでおいてください」
「たまには俺も何かやりますよ。洗濯機のボタンを押すくらいはできます」
 梅子はばつの悪そうな顔をする。そして強張った笑みが浮かんだ。
「あ………き、気持ちは嬉しいのですけれど、洗濯物はわたしの脱いだものもありますから……申し訳なくって……」
 何故、「申し訳なく」なるのか渚砂には分からなかった。脱いだものを洗うのが洗濯である。汚さの話をしているのならば、彼からみて梅子は拒否するほどの不潔さは感じられない。仮にそうでなくとも、衣類の汚れを落とすのが洗濯の目的のはずだ。
 狼狽える黒真珠を見詰めてしまった。
 梅子は俯き、眉を緩ませる、自身の手を揉みくちゃにしていた。
「わたしの下着とかも、入ってて、あの……その………」
 渚砂は稲光に視界を焼かれた気分になった。彼女は遠慮していたのではなかったのだ。婉曲的に断っていたのだ。
「いや、すみません……気が利かなくて、どうも………」
 涼しい朝だというのに、着替えたばかりの服が汗ばむ。
「渚砂さんには、見慣れてるものだと思うんですけれど……」
「え?」
 しかし梅子は安堵した顔で台所へ戻ってしまった。
 暫くすると、居間に朝食が運ばれてきた。盆に乗せた皿が卓袱台へ移される。米と、豆腐とわかめの味噌汁、目玉焼きが2つずつと、たくわんが並べられる。
「これ、足りなかったら」
 そして魚肉ソーセージが寄せられた。
「男の人ってどれくらい食べるのか、分からなくて……足らなかったら言ってください。有り合わせでよければ何か作りますから」
「台所を貸してくださるのなら、その辺りは自分でどうにかします」
 渚砂は両手を合わせる。
「いただきます」
 静かな食事だった。母方の親戚の家にいたときは1人で食べていたが、親戚家族の団欒の声が聞こえていたものだった。今は2人でいるというのに、情報番組がこの場を盛り上げている。
「今日は何か予定はあるんですか」
 梅子は躊躇いがちだった。訊ねていいものか否か、声に出してしまっている今でさえ迷っているようだった。
「何も」
「ウィーオンとかはどうですか。映画館もありますし、送りますよ。帰りも時間が分かったら――」
 大型ショッピングモールは魅力的な提案ではなかった。
「人がいるところは好みません」
「そう……ですか」
 またもや朝の情報番組がひとりで喋りはじめる。
「あの菜園は、梅子さんが手入れをしているんですか」
 梅子に日焼けの跡は見られなかった。家庭菜園といえども農作業は農作業だ。土を耕し、苗を植え、水をくれて、支柱を立てたのだ。彼女の外見と農作業が、渚砂には関連付けられなかった。
「あ、あれは、わたしではないんです。庭が広くて、持て余しても雑草が生えてしまうので、近所の人に貸しているんです。ここは渚砂さんの実家なのに、勝手にごめんなさい」
「はあ」
「いつまで貸せるか分からないと事前に言っておいてあるので、もし渚砂が嫌なら打ち切ります……ここは晴海家の土地ですから、知らない人が出入りするのは困りますよね……」
 晴れ渡る空に飛んでいくしゃぼん玉のような声が澱んでいる。蜜を張ったような瞳が泳いでいた。
「このまま続けてくださって結構です。俺も庭仕事は得意ではないので。放置されるよりはそのほうが安心です」
「よかった……庭を貸している代わりに、お野菜を分けてもらっているんです。昨日のミニトマトと、昨日のお漬物も。庭に出入りしている方なので、今度紹介しますね」
 彼女の声音は元に戻った。表情もカタバミの花が咲くようだった。
「はあ」
 渚砂は目を伏せた。彼女の顔も声も毒だ。胸の腹が重くなる。胃に収めたもののせいではない。
 朝食を終えると、渚砂は食器洗いの役目を買って出た。梅子は風呂場横の脱衣所で、洗濯物の仕分けをしている。
 近くに鶏舎があるらしく、大量のニワトリの鳴き声が混り合い、モーターの回るような機械音を思わせる。野鳥も鳴いている。笛の音色に似ているのはトンビだろう。
 泡を落とす水流を絞る。
「大丈夫……ですか?」
 渚砂は振り返った。梅子が脱衣所の扉から覗いている。
「はい」
「何か気になることでも?」
「色々な音が聞こえたので」
「そうなんです。雨の上がった夜なんて、カエルの大合唱なんですよ。渚砂さんは、都会からいらしたんですものね……?」
「都会は都会ですが、都会といっても、ビルが乱立しているようなところではありませんよ。ビル群は見えますが……住んでいたのは住宅地です」
 皿の水を切る。
「都会のほうが騒々しいと思っていたので、少し意外でした」
「渚砂さんに言われるまで……全然意識していませんでした。聞こえてはいるはずなのに。不思議ですね」
 渚砂は隣に来ていた梅子のほうを向いた。彼女もこちらを見た。無防備なほど真正面から捉えようとしていた。瞳孔の奥を抉じ開けようとしているのだった。渚砂は目を逸らす。
「そろそろ、部屋に戻ります」
「待って。洗剤は手が荒れるでしょうから。ちょっとだけ待っていてください」
 梅子は居間へ駆けていった。渚砂は揺れる髪と後姿を見送っていた。使い古しのロングスカートと縮み縒(よ)れた踝丈の靴下から見えるアキレス腱の凹凸を見つけると、首の絞まる思いがした。
 渚砂が浅い呼吸を繰り返しているうちに彼女は戻ってきた。手にはチューブが握られている。
「大きめのゴム手袋も買ってきますね」
 差し出されたチューブの正体が渚砂には分からなかった。受け取れずにいると、相手も困った様子をみせる。
「あまり付けませんか」
「はあ……」
「少しだけ手に取って、塗り込んでください」
 彼女は自身の片手にチューブの中身を出すと、反対の薬指で拭い取り、渚砂の手を掬いとる。彼の手の甲に、薬指に纏ったクリームを置く。
「ぃっ!?」
 柔らかく円(まろ)やかな肉感と冷たく軽やかな質感に渚砂の口から悲鳴が漏れる。
「え……?」
 彼女は握っていた手を放す。黒蜜仕立ての大きな瞳が丸くなる。そして頬に赤みが差した。
「ご、ごめんなさい。あとは塗り込むだけですから。手の甲と、指に……」
 早口で捲したて、梅子は脱衣所に戻ってしまった。
 心臓の鼓動が速まる。振動によって古いこの家の床は地盤ごと少しずつ沈んでいってしまうかもしれない。
 彼は手を張った異種族めいた柔らかく軽い皮膚の感触を甦らせた。そして慄えた。横振動と縦振動が彼を襲うのだった。

2


 位牌を手に取る。裏面を見た。「雨崎つばめ」享年13。刻まれた日付は10年前。
 渚砂(なぎさ)の知らない人物だ。
「弟です」
 梅子(めいこ)が盆に甘味を乗せて持ってきた。
「梅子さんの弟なら、俺の親戚ですか」
 彼女は顔を逸らした。
「大判焼きです。冷凍のですけれど。バナナとアイスもあります」
 大判焼きの上に溶けはじめたバニラアイスが乗り、バナナのスライスが寄りかかっている。
「いただきます」
 座ると、皿を差し出される。
「それで、あの位牌は」
 逃げようとしている黒豆煮のような瞳を追い回す。皿を手にした手が宙で止まっている。
「……わたしの父親違いの弟です。ですから渚砂さんにも、晴海家にも関係のない子なんです。けれど置き場がなくて……一緒に連れてきちゃったんです。よその子のですし、気味が悪ければどうにか……」
「いいえ。俺はそう信心深い性分(たち)ではないので置いておいても大丈夫です」
 しかし彼のなかで或る疑問が湧く。
「俺と梅子さんは、どういう親戚なんですか」
 親戚だと、ただそれだけ言われて今まで気にしたことはなかった。父に兄弟はいなかった。いとこではない。
「えっとね……」
 バニラアイスが溶け、大判焼きの天端(てんば)に広がっていく。
「はあ」
 液状化したバニラアイスが皿へ落ちていく。
 幼い頃に一度会ったかどうかという人物だ。渚砂は梅子を知らなかったが、彼女は晴海家の家を借りているのだ。知らないはずはない。
「そんなに難しい話ですか」
「あ………えっと………口で言うのは、難しくて……」 
「そんな複雑な関係なんですか」
 とうとう彼は、大判焼きにフォークを下ろした。弾力を持った生地が断たれるのと同時に、玄関戸が叩かれる。この家にはインターホンはない。
 梅子は爽やかな甘い香りを残して居間を去っていく。
 バニラアイスの汁に濡れた大判焼きの欠片にバナナの切れ端を添えて口に運ぶ。
「渚砂さん」
 梅子は戻ってきたが一人ではなかった。
「この人が、お庭を任せている人です」
 渚砂は大判焼きを咀嚼しながら、彼女の後ろに立つ男を窺う。自身より年上だと、彼は踏んだ。しかし梅子とは同じくらいのように思える。白いシャツに紺色のステテコを穿いた気軽すぎる服装だというのに、隙がないのは均整のとれた体格と、爽やかな面構えのせいか。
「片蔭(かたかげ)蛙生(あお)と申します」
 庭仕事を好き好んでやるような印象は抱けなかった。虫も触れず、鋤鍬の扱い方も知らない都会の若者と見紛う佇まいである。
「こちらが晴海家の人で、晴海の渚砂さんです」
「お庭を使わせていただいています」
「どうも」
 渚砂は軽く頭を下げる。
「座って、片蔭くん。片蔭くんにも、大判焼きパフェ、作ってくるね」
「お構いなく」
 梅子の声は先程と打って変わって溌剌としていた。渚砂は、微苦笑を浮かべて卓袱台を前に腰を下ろす男を睨んだ。肉付きは精悍だが、顔立ちに儚さを持った美男子である。背も高く、声も透き通っている。
「とてもいいお庭ですね。野菜の育ちがいいです」
 性格も悪くはなさそうだ。実態は知らないが、喋り方からは知性すらも感じられる。
「そのように耕したからでは」
「嫌いなお野菜はありますか」
「特にないですが」
「そうですか。それはよかった。梅子さんの作る煮浸しはとても美味しいんですよ」
 梅子を褒めているようで、この男は自身で作った夏野菜を誇示しているのだ。自慢だ。自画自賛しているのだ。――否。
 渚砂は柔和な横面を射す。
 梅子の手料理の味を知っている仲だと、暗に告げているのだ。
「はあ」
「もし困ったことがあったら言ってください。ぼくで力になれることがあれば協力しますよ」
 渚砂は白く濡れた大判焼きを食らう。餡にバニラ汁が混ざる。
「大事な話をしていたんですがね」
「大事な話……ですか」
 呑気な男の顔面に、大判焼きごと皿をぶつけたくなった。
「梅子さんとはどういった関係なんです」
 アオとかアカとかいう男はきょとんとしていた。
「高校の同級生です。偶々、住んでる場所が近くて仲良くなったんですよ……中学はぎりぎり、学区が違ったんですけど。もしぼくの家がすぐそこの麦笛(むぎぶえ)川より北(こっち)側だったら同じ中学だったんです」
 梅子のような女性の隣には、このような素朴で退屈げで淑やかな優男が合うのかもしれない。だが、女はそれで満足しないはずだ。女は背丈と美貌だけでは満足しない。悪徳と金が好きなのだ。女性との交際経験はなかったが、渚砂には分かっていた。
「随分長い付き合いというわけですか」
「ええ。ですからよかったです。ぼくも毎日、一日中お邪魔するというわけにはまいりませんから、女性一人で暮らすのでは何かと不便や不安が多いと思っていたので。渚砂くんのような男手があればぼくも安心です……なんて、何様だって話なんですけどね」
「そんな物騒なところなんですか」
 男は一際柔和に微笑する。対話を放棄するような反応だった。そしてそれは反論を持ち合わせていないためではないのだろう。
「こんな家の庭を借りるなんて、そちらの家にはあまり庭がないんですか」
 周りの家には持て余すほどの庭がある。学区が違い、川向うの家といえども大差はないだろう。土地は売るほどあり、売るにはあまりにも安い。
 もし梅子が女の一人暮らしで危険があるとすれば、この男の存在なのではなかろうか。
「父と母がガーデニングに凝ってしまって花畑になっているんです。綺麗は綺麗ですが、ぼくは夏野菜が育てたくて。小さな苗が土に植えておくと美味しく育つなんて、なんだか不思議で……」
「美味しく育つように人間が手を加えているんですから、不思議はないです。それで済めば農家だって世話ないですよ」
「それもそうですね。確かに」
 またもやこの男は対話を拒否するような微笑を浮かべるのだった。
 軈(やが)て梅子が戻ってくる。
「お待たせ、片蔭くん。召し上がれ」
 片蔭蛙生とかいう男の前に、大判焼きのパフェ気取りが置かれた。それからペットボトルの麦茶を湯呑に注ぐ。
「ありがとうございます。いただきます」
 片蔭蛙生は梅子を見上げた。梅子も渚砂の前では見せなかった緊張の解れた表情を見せていた。
 渚砂は空いた皿を片付ける。
「お皿はまとめて洗うから置いておいて大丈夫よ」
 渚砂は返事もせず、言いつけも守らず皿を洗って水切りに掛けた。部屋へと戻ると、窓の外を見遣った。裏庭はまだ雑草に覆われ、朽ちた木が折れていた。伐られた枝木の残骸も山になっている。更に窓を覗くと、裏庭の一部も耕されていた。開墾が進めば、この窓からあの男が見えるのだろう。
 夏野菜に託つけて、梅子に会いに来ているに違いない。あれほど若い男が自由に出入りしているとは思わなかった。
 今日はそれほど暑い日ではなかったが、渚砂の身体には汗が滲んだ。内側からの熱に炙られている。
 梅子もまた、庭仕事だけが目当てではないのではなかろうか。否、あの男は見た目こそ女好みのように思われたが、笑ってばかりで面白みがない。同性でもそう思うのだから、異性それも厳格な審査員の女性ならば尚のことだ。だが、けれども、梅子は軽率で軟派な大学生女子ではない。男の評価技術が大きく変わる年齢だ。
 あの男はおそらく梅子に気がある。庭仕事は二の次だ。物騒なのはこの地域ではない。ヒツジやウサギのふりをしたあのオオカミではなかろうか。
 渚砂は部屋を出た。居間へ戻る。
 片蔭蛙生はまだ大判焼きを食らっていた。男の食事などは数秒で済む。しかし一口食べては1時間喋るつもりなのではなかろうか。アイスだけ消え、大判焼きはバニラ汁に濡れそのまま残っている。
「あ、渚砂さん。どうかしたんですか」
「いいえ、別に」
 2人を背にテレビを点ける。情報番組を眺める。後ろでは近所の老人たちの話で盛り上がっている。稀に混ざる食器の物音に渚砂は苛立ちはじめた。蟻が食うより遅い。
「ごちそうさまでした」
 片蔭の"お行儀"のいい音吐(おんと)が情報番組の司会の濁声を上塗りした。
「お粗末様でした。夕飯どうする? 食べていく?」
 渚砂は思わず梅子を向いたが、彼女は片蔭のほうを見ていた。渚砂も片蔭を睨む。
「さすがに悪いですよ。また今度お邪魔させてください」
 片蔭蛙生は庭仕事に行ってしまった。梅子の溜息が聞こえる。
「どういう関係なんですか」
 想定していたよりも、自身の声が低く出たことに彼は驚いた。
「えっ……いや、あの……」
 皿の上でフォークが跳ねた。
「片蔭さんとかいう人と」
「ああ、片蔭くん……? 高校のときの知り合いです。家も近所で」
「カップルかと思いましたよ」
「そんな……片蔭くんはフレンドリーなだけですから」
 明らかに、先程話していた男に対するものと声音が違っている。冷え乾き、澄んだ質感には芯がある。
「モテそうでしたね」
「かっこいいですからね。やっぱり男の子から見ても素敵な人なんですね」
 梅子は食器を運んでいった。渚砂はテレビを消した。外へ出る。遠くから赤茶色とも橙色とも判じられない猫が走ってきて、渚砂の足に擦り寄った。毛並みも肉付きも良い。どこかで飼われている。だが食い物が得られないと分かるやいなや、猫は踵を返した。室外機へ跳び、テラスの柵へ跳び移り、さらにそこから戸袋へ跳ぶと屋根に上っていってしまった。
 庭を練り歩いていると、作業着と長靴姿の片蔭から声がかかる。菜園へ寄る。
「好きな野菜はありますか。果物でも。サヤエンドウをやめて、何かまた植えようと思って」
 渚砂は足元を這うようにして跳んでいくカエルを眺めていた。
「トウモロコシ」
「トウモロコシですか……トウモロコシはダメなんです」
 ならば訊くなと内心で毒吐く。
「晴海家はトウモロコシを作れないんです」
 片蔭の苦々しい話し方に、渚砂は顔を上げた。
「言い伝えですけど。女子供が死んでしまうんだとか」
「トウモロコシがこの国に来たのは500年ほど前だそうですよ。言い伝えとしてはつい最近ですね。どうせトウモロコシを作られると困ることでもあったのでしょう。それに作るのは晴海家じゃないわけでしょう」
 片蔭蛙生は笑っている。
「そうですね。でも住んでいる梅子さんに障りがあると困りますから」
「信心深いんですね」
 片蔭を横目で見る。俯いている。背丈は彼のほうがわずかに低いようだった。
「まぁ、そうですね……田舎の狭い世界しか知りませんから、ぼくは」
 嫌味なのだとしたら、あまりにもさっぱりとしていた。
「スイカでも作れたら、梅子さんも喜んでくれると思うんですが、いかんせん、甘いスイカは素人には難しいもので」
「はあ」
「呼び止めてしまってすみません」
 渚砂は菜園から出ようとしたが、立ち止まってしまった。家の屋根を覆うほど活き活きと聳え立つ木の下に、土管を叩き割った瓦礫のようなものが置かれていた。渚砂の部屋のすぐ傍だが、窓の死角にある。
「あれは」
「井戸ですよ。危ないので、あの辺には近寄らないでください」
「壊れてますが。埋めないんですか」
「また渚砂くんの嫌いな言い伝えですが、井戸は埋めると障りがあるといいますから。地蔵が沈んでいるんです」
「は?」
 地蔵は手前勝手に歩いて来はしない。
「蓋の上に地蔵が置かれていたんですよ。まだ、あれほど壊れていないときに」
「盗難事件では」
「そうです。警察も呼んだんですよ。でも、蓋が朽ちて、沈んだままなんです」
「どこから来た地蔵なんです」
「小学校の近くにあるお寺ですね」
「物騒っていうのはそういうことですか」
「はい。この辺りの地域は1人1台車があるものですから、つまり車庫を見れば家族構成なんて大体分かってしまうんですよ。だからこの町の人ではなくても、梅子さんのような若い女性が一人暮らしだと分かれば……」
 井戸の場所を示す大木の枝が揺れた。鳥の羽搏(はばた)きが曇り空に消えていく。
「若い女性でなくても、物騒ですから」
 片蔭蛙生は農作業に戻ってしまった。




 渚砂は自転車をもらった。梅子と片蔭が折半して、引っ越し祝いに自転車を買ってくれたのだった。赤いメタリックの自転車で、ハンドルにはアヒルの飾りも付いている。
 彼は買い物の帰りだった。袋を抱える。中にはアイスが入っている。早く梅子に食わせたかった。急いで玄関戸を開けようとしたが、鍵が掛かっていた。車はあった。近所に歩いて出掛けたというのか。
 アイスが溶けてしまう。
 渚砂は裏に回った。菜園脇を通り裏口を開ける。台所に通じるこの扉は常に開いていた。
 家の中へ入り、冷凍庫にアイスを入れた。梅子は不在なのだろうか。台所から、普段とは逆行しながら呼んでいったが反応はなかった。寝ているのかもしれない。声を潜めた。早くアイスが食べたかった。甘く冷たいものが食べたかったのではない。卓袱台を囲み、扇風機を回しながら、退屈な情報番組を流して、彼女とアイスが食べたかった。
 胸の奥の見当もつかない臓器も、アイスを楽しみにしているようだった。そのために昂っている。味覚経由の冷却を求めている。
「梅子さん。アイスを買ってきたよ」
 居間に差し掛かる手前で、物音が耳に届く。小鳥の鳴き声にも聞こえた。しかし空耳とも疑えるほど曖昧だ。
 居間から人影が出てきた。小学時代、中学時代と渚砂を艶福家(えんぷくか)足らしめた反射神経が、とても梅子とは思われない長身を梅子と判断してしまった。
 出てきたのは男だった。派手な身形だった。丸いシルエットの黒髪で、青いインナーカラーが長い襟足に入り、目元はオレンジ色のカラーサングラスが隠している。上着は要らない気温だというのに、光沢のある薄地のジャンパーを抱いている。今は黒いタンクトップで、顔の大きさの割りに隆々とした白い肩には蔦を思わせる模様が入っている。両手をポケットに突っ込み、裸足で、足の爪には色が塗られていた。
「あ?」
 カラーサングラスを鼻頭に下ろし、灰色のカラーコンタクトレンズを嵌めた上目遣いで渚砂の顔面を眺めた。しかし線こそ細いものの、背丈は相手のほうが高いように思われた。
 渚砂はこの人物を問い質すことも忘れていた。居間への出入り口を塞ぐ侵入者を廊下へ引き出した。そのうち解錠と開閉の音があったが、渚砂にはそれどころではなかった。
 居間に踏み入った彼は息を呑んだ。
「梅子さん……」
 梅子は裸で転がっていた。畳の上に横臥している。
「あの男だ……」
 一瞬、捕まえる義務感が最優先事項に挙がった。しかし理性が割り入る。最優先事項は梅子だ。
「梅子さん……、大丈夫ですか」
 嗅覚が働く。甘い匂いに混ざり、木に似た匂いがした。檜の香りから芳香を抜いたような、渋く苦い、微かに蘞(えぐ)みのある匂い――
 渚砂はこの匂いを知っていた。梅子は金銭目的によって襲われたのではなく、通報や逃亡を阻止するために身包みを剥がされたのでもなかった。侵入者は空き巣でも強盗でもなかったのだ。侵入者の狙いは梅子にあった。或いは女体にあった。
「あ………あ、あ………」
 情けない悲鳴が漏れた。悲鳴にもなっていなかった。悲鳴を上げるにも胆力が要る。だが彼にはなかった。掠れた喃語が放(ひ)り出されるのみである。
「ん……」
 白翡翠のごとき裸体が身動(みじろ)いだ。
「あ………ひ…………」
 渚砂の視界は明滅していた。脳裏も白く爆ぜていた。眼球は干乾びてしまうほど目を見開き、慄えた手で青白い肌に触れる。
「大丈夫よ。大丈夫だから、あっちへ行っていて……」
 梅子は胸元を隠し、身を捩る。靭(しな)やかな腿の肉感が渚砂の鼻柱を折るようだった。
「大丈夫よ、大丈夫……ごめんなさい。すぐに片付けるから……」
 胸下と陰部を隠しながら床を這い、脱ぎ捨てられた服を拾おうとする水蜜桃の化身のような生き物を、渚砂は呆然と眺めていた。

『おばさん、やめてよ………おばさん、変だよ………』

 渚砂の手が、果汁を搾る。
「渚砂さん、どうし――」
 いつの間にか掴んでいた細い腕を、彼は引き寄せた。
「なぎ、」
 女体を転がした。梅子の胸には赤い花が散っていた。彼女の片腕に抱えられた乳房が押し合い圧(へ)し合い撓(たわ)んで、弾力と肉感を強調している。
 渚砂は呼吸を止めてしまった。全身の血が出口を求めて激流を生む。煮え滾る。視界は色を失う。直立していられなかった。蹲(うずくま)る女の傍へ、膝から崩れ落ちる。
 罅割れた唇が、渚砂には人体の一部には見えなかった。果物に見えた。食べたことのない、未知の果実に見えた。美味いのか不味いのかも分からないというのに食欲を刺激されている。喉の粘膜が乾ききってしまった。
 渚砂は狩りをするカワセミよろしく白翡翠の可食部に食らいついた。
「んっ……!」
 裸体が暴れる。退化していた狩猟本能は消え失せてはいなかった。まだ残っていたのだ。体重を掛けて動きを封じる。 
「大丈夫ですから……大丈夫です、」
 活き餌を前に凶獣と化した彼は夢中で果汁を啜ろうと口元を寄せる。梅子は顔を背け、譫言を繰り返した。
 果汁は吸えない。果肉は食らえない。
 渚砂は理解した。気にも留めなかった。口に入れたいのではなかった。


『おばさん、嫌だ……! 怖い!』


 彼の指は猛禽類のように鉤状を描き、皮の剥かれた白桃と見紛う肌を握る。腿を開いた。
「渚砂さッ……」
 だが梅子は股座に手をやり、膝を閉じようと身を捻る。彼女は畳の上に白いものを漏らした。米の研ぎ汁に粘性を加えたような液体が、藺草(いぐさ)の編み目を辿るでもなく、丸みを帯びて形状を保っている。居間に入ったときに鼻が拾った異臭の正体。
 猛獣に頭を引っ掻かれるような衝撃があった。口呼吸に切り替わる。顎を閉じて息ができなかった。蝶番いの硬くなったドアの軋みが喉を擦り切らせる。  
「見ちゃいや……っ、!」
 しかし、複雑怪奇な形状の粘膜が勃起し、その陰から粘液を漏らす様を見ずにはいられなかった。
 腹の奥底に圧迫感を覚える。吐き気を催した。原因が身体の内側にあるのか、身外側にあるのか彼自身にも分からなかった。穿いているものを寛げる。しかし解決しない。布による窮屈さのためではなかった。灰赤色に腫れ上がった巨大な肉棒が跳ねる。心臓が胸元と下腹部に分けられてしまった。
「あぁ………嫌…………」
 梅子は睫毛に涙を絡ませて首を振る。彼女の腰を左右から押さえる。
「冗談だよね……? 冗談だよ……」
 女の甘い匂いと、牡の生臭さが混ざり合う。眠気に似た欲求に身体を支配されてしまった。
「待っ――」
 粘液果汁を溢れさせた白桃が畳に引き摺られ、肉串に貫かれてしまった。


『おばさん、なんで……、どうして……』
「渚砂さん、なんで………っ、なんで、」

「ああ………」
 渚砂は呻かずにいられなかった。熱く柔らかな感触が強い電流となって下腹部から駆け上がる。脳天が左右に抉じ開けられそうな快感に襲われた。一瞬で彼を病みつきにした。
「だめ、だめ……、抜いて……!」
 肉牙を打ち込まれた被捕食者は頻りに首を振り、捕食者の肩を押す。まだ食い散らかされる覚悟はできていないようだった。
 渚砂は彼女に絡みつく。脂肪がついているというのにその躯体は目で感じるよりも細かった。抵抗の意思を削ぐのに大した力は使わなかった。
 最後の反抗だとばかりに、小動物は爪を立てる。
「だめなの……、だめ………っ、わたしたち、姉弟(きょうだい)なの………だから、ね……?」
 渚砂は力任せに腰を押し付け、彼女の陰阜(いんぷ)を潰す。
「あ、ひっん」
「は?」
「姉弟だから……お父さんが、同じなの……っ、だから、今なら、なかったことにするから……なかったことに、しよ? いい子だから………」
 梅子の目は汚泥を注いだように濁り、焦点が合っていなかった。
「梅子さん。ひとつ、思い出したことがあるんですよ、俺」
 激しい抽送で女肉を擦る。激しく扱うだけ、括約筋に力がこもり、渚砂の剛直を締め上げる。
「あ……、もぉ………だめ………」
「俺、昔、犯されたことあるんですよ。梅子さんの母親に」
 梅子の澱んだ目が滲んでいく。罅割れたきり水分の染み渡らない唇が小さく動いたが、渚砂は掌で塞いでしまった。
「んっ………ふ、んんんっ、!」
 悩ましく寄せられた眉間を彼は見下ろしていた。粘こく降ろされた目蓋から涙が一筋落ちていく。
 綺麗な姉だった。
 理性も本能も危機を訴えていなかった。肉体は、番(つが)いにしろ、自分の女にしろとまで指令を受けていた。
「梅子さん………、梅子さん………!」
 すでに注がれている牡の粘液が活塞(かっそく)を助ける。滑稽なほどすばやく渚砂は腰を振った。誰に教えられたわけでも、何で知ったわけでもなかった。彼のなかに生まれながらに備わっていた。強靭なばねが女体を突く。
「は……っ! ぁんっ、んん……」
 隘路に扱かれてピストンを急かすのか、ピストンを急いたために隘路に扱かれるのか、渚砂には分からなくなっていた。熱いものが腹に溜まり、収縮の兆しを感じた。寒気に似た恍惚によって、彼は身震いした。御せない排泄欲が満ちた。
 全体重で梅子のなかに埋まる。射精がはじまった。
「う、ぅ……」
 脈動のたびに拳大のものが通り抜けていったような気がした。
「やぁああっ!」
 梅子の身体が強張る。彼女の爪が肩の細胞を削いでいく。隘路はさらに狭まり、牡蘂を咀嚼する。渚砂は前にも後ろにも動けなくなった。種汁を吐いた後は死骸となり果てるつもりなのだろう。強い眠気に身を委ねる。手頃な抱き枕もすぐ傍にあった。
「あぁ……、うぅ………」
 呻いた抱き枕の項に鼻先を突き入れる。女の汗は甘美な匂いがする。虫や魚のオスのように、本当にこのまま精根尽き果て死んでしまっても構わない気になっていた。
 啜り泣きが聞こえる。
「姉弟でこんなことしちゃ……いけないの。もっと早く、言っておくべきだった………」

3

 麦笛(むぎぶえ)川を流れる水は入浴剤を溶いた風呂と似た色味をしていた。緑色だ。
 欄干に突っ伏して潺(せせらぎ)を聞いていた。南側には国道が通り、走行音も曇って聞こえる。
 前に一度だけ来たことのあるこの橋は砂利道が舗装され、国道に通じる道路になっていた。それまではトラクターや軽トラックが主に使っていたようだ。
 トンボが渚砂(なぎさ)の視界を横切る。2体は繋がっていた。彼は嫌気が差した。川に背を向け、欄干に凭れかかる。真後ろに人がいた。渚砂の眉間に皺が寄る。利き手が跳ねたが思い留まる。
 日焼けが健康的な茶髪の若い男だ。年上にも見えたが、年下のようにも思えた。
「見ない顔だネ」
 外見はそう怪しい人物ではなかった。服装こそ白いシャツにハーフパンツと気楽すぎているが、都会の大学にいそうな雰囲気である。最近の若者のようだが、物理的な距離が異様に近い。蜂蜜色の目が逆光し、姿勢の低くなっている渚砂を見下ろした。
「君みたいな子、いたっけ」
 いつの間にか、蜂蜜色の眼は虚空を見ている。眼球や神経の疾患とは思われない。怪しい男は何かを見ていたか、もしくは何も見てはいなかった。
「住人全員の顔を把握していると?」
「若い子は、ある程度。だって若い子、少ないから」
 怪しい男は渚砂の隣に来た。欄干を握り、川を見下ろしている。
「自殺するん?」
 渚砂の眉根に深い皺が刻まれる。蜂蜜色が細まり、とても話題と表情が釣り合っていないように思われた。
「その質問の意図は?」
「川見てたから。ここ浅いよ。首吊るなら別だケド……」
「しない」
 もし会話さえ聞こえなければ、はたから見るとこの男は人懐こく、人当たりの好い陽気者に見えたかもしれない。
「ふぅん」
 怪しい男の首が勢いよく回った。渚砂は気味悪さに後退る。
「なんだ」
 しかし気味の悪い男は、渚砂を見ていたのではなかった。川の北側を見ていた。この橋は堤防の脇についた傾斜によって住宅地と繋がっていた。母方の親戚の家がある都心とは違い、高い建物はあまりない。晴海(はるみ)家も見下ろせる。
「あの辺りの、新しい家」
 渚砂は視線を誘導された。指された場所には建売住宅が並んでいる。
「この川が氾濫したら、浸水しちゃうネ」
 渚砂は気持ちの悪い男を睨む。
「いきなり、何の話だ……」
「せっかく買ったおうちなのに、可哀想だなって思って」
「事前に説明くらい受けているだろう。告知義務があるんじゃないのか。それより……」
 蜂蜜色の目が丸くなる。この怪しい人物は髪型や手首の飾りに瀟洒(しょうしゃ)な印象を残しながら、白痴のような雰囲気を醸し出す。
「おでは礁鯉(しょうり)。礁ちゃんって呼ばれてるから、礁ちゃんって呼んでネ」
 しかし呼ぶ気にはなれなかった。仲良くなれそうにはない。感情ではない。直感が告げている。
「君はどこの子?」
「そこ」
 渚砂は晴海家を指で差す。
「晴海家の子?」
 口をききたくなかった。首肯した。
「最近来たん?」
 頷く。
「じゃあ、あんまり歩いて、南側(こっち)には来ないほうがいいヨ」
「何故」
「北側の人だから」
 礁鯉とかいった怪しい男は川を見下ろす。
「昔ここでかわいい子が死んじゃったんだ」
「かわいい子?」
 骨を圧(へ)し折るように、怪人物は渚砂へ首を曲げる。瞬きもせず、渚砂の一挙手一投足を見逃さないつもりらしい。
「そうだヨ。かわいかったな。おでには……」
「人間か?」
 日焼けに負けていない杏色の唇が吊り上がる。
「君は晴海家に帰るんでしょ?」
 奇妙な男は欄干から身を剥がす。後ろに手を組み、光の入らない蜂蜜色を真ん丸くして渚砂の瞳孔を覗く。
「プールの匂いがするな。塩素の匂いがする。栗の花の匂いかな」
 鼻を鳴らすこともなく、奇怪な男は鏡面と化した蜂蜜色を虚空に溶かす。
「……は?」
「若い男の子だもんね」
 渚砂には思い当たる節があった。同性といえどもばつが悪い。初対面でも気が合えば会話の種になり花も咲くのであろうが、彼にはこの怪人物とそのような話をするような仲になった覚えはない。
「歳はあまり変わらないだろう」
 蛾の模様を思わせる目玉が震えながら渚砂の眼差しに合流する。
「おではダメだヨ。"壊れ"ちゃったから」
 渚砂には友人が少ない。いないといってもよかった。そのために同性といえども、初対面時から性機能の話をするものなのか否か、判断ができなかった。
「もう帰らないと、おうちの人が心配するよ」
「子供扱いするな」
 背を叩かれ、肘で払う。奇態な男は笑った。軽快な声をたてている。先程の様子とは打って変わって、活力に満ちた輝きを眸子(ぼうし)に宿している。




 電子地図が案内を終えた。目的地には広い庭とガレージがある。2台、車が止まっている。DENEV(デネヴ)製の赤い軽自動車と、RIKKAN製の白い車が並んでいる。
 望夏(もか)も並べて車を停める。エンジンを切る。車内が暗くなる。夜だった。
 降りると靴の裏で砂利が軋む。息を吸えば草木と土の匂いが鼻を掠めた。
 家の裏から小さな明かりが差し、強い光芒が顔面に寄せられた。彼は顔を顰めた。
「お前がオレの弟?」
 色濃い人影の詳細は分からなかったが勘が男だと告げた。望夏は問いかける。この家は晴海家である。住んでいるのは晴海姓であるはずで、この地を踏むのも晴海家の人間であるはずだ。そしてそれは弟であるはずなのだ。
「え……?」
 戸惑いの声とともに懐中電灯が下がる。薄らと面構えが見えた。
「よぉ。オレのこと知ってるべ? 母親違いの兄ちゃんだよ。オレに似てなかなかイケメンぢゃん? ヨロシクな?」
 望夏は懐中電灯を持った人物の肩に腕を回した。母親は違うが、父親側の遺伝を同じくする身内の肉感が、彼には新鮮に思えた。
「なんですか」
 異母弟は刺々しい語気で望夏を突き放す。
「なんだよ、ひでぇな。オレは弟に会えるってんで楽しみにしてたのによ」
「どなたですか。警察を呼びますよ」
「ハァ?」
 望夏は自身に腹違いの弟がいることを知っていたが、当の異母弟は兄がいることを知らないらしい。
「あのな、よく聞け。驚くなよ。オレは晴海望夏。お前と母ちゃんは違うが、父ちゃんが同じ兄弟ってワケ。分かるか? お前の父ちゃんの晴海(はるみ)涼歌(りよか)の、オレも息子ってこった」
 望夏は嫌がる異母弟に無理矢理肩を組ませる。背丈は同じくらいであった。弟は母に似てしまったのだろう。自然な親近感は湧かなかった。
「晴海家の息子はぼくではありません。ぼくはこの家に遊びに来ている片蔭(かたかげ)です。渚砂(なぎさ)くんなら家の中にいますよ」
「ハァ?」
 腹から声が出た。肩を組んでいる見ず知らずのあかの他人を突き飛ばす。
「ふざけんなよ。知らん野郎触っちまった。なんか妙に湿ってるし……」
「汗ですよ」
「オレの弟はナギサっつーの?」
「晴海渚砂くんですよね」
「名前は知らん」
「案内しますよ」
 懐中電灯のあかの他人が砂利を鳴らして歩く。軈(やが)て足音が消えたかと思うと、明かりが差した。軒先に付けられたライトが望夏たちに反応したようだ。生い茂る芝生と石畳が見えた。
「ああ、待って。先行っててくれや。忘れもの」
 望夏は車に戻った。後部座席に積んだ米袋を抱える。遅れて玄関に向かうと、あかの他人の顔と、彼と対峙する男女2人組みが見えた。
「あ、来ました。この方です」
 中学時代や高校時代の学級委員をそのまま大人にしたような雰囲気の男が望夏を一瞥して、男女に語りかける。
「よぉ、お前がオレの弟?」
 問いかけると、背の高い男子が隣の女性を後ろに下げた、さらに半歩前へ出る。温度も態度も冷たげな美男子だった。
「誰だ」
「望夏だよ、望夏。お前がナギサ? 晴海涼歌の息子?」
「晴海渚砂は俺だ」
 望夏は弟と思しき美男子の爪先から脳天を何度も見上げては見下ろした。目元は父に似ているかもしれないが、雰囲気はまったく似ていなかった。先程異母弟と思い違いをした他人を睨む。
「これがホントにオレの弟なのかよ?」
「ですよね?」
 見ず知らずの他人は異母弟と思しき弟に同意を求める。
「俺は知らない」
「まぁいいや。ここが父ちゃんの家ならオレん家(ち)だからな。で、そっちのネエチャンは? カノジョ?」
 目と胸の大きな色の白い女だった。望夏の人工的な黒髪とは異質の、自然な黒髪に玄関の緋色の明かりが輪を架けていた。
「姉だ」
「ハァ?」
 望夏は腹から声を出したが、思い直した。異母弟にとっての異父姉か義姉かもしれない。
「ああ、なるほど……」
 異母弟の後ろの女は小さく頭を下げた。話しかけようとした途端、異母弟が身体で隠した。
「ンだよ。米持ってきたぞ、米。今、米売ってねぇンだろ?」
 望夏は米袋を置く。
「ぼくはもう帰りますね」
「あ、でも……」
「急用ができてしまったので。また来ます」
 見ず知らずの他人が帰っていく。
「あれがカレシってことか」
 夜に裏庭を徘徊していた。異母弟の異父姉の交際相手に違いない。
「違う」
 食い気味に否定したのは異母弟の異父姉ではなく異母弟だ。
「じゃあ、誰なん? 頭オカシイやつに脅されて知り合いの振りしてるとかじゃねぇよな。ぶん殴ってきてやろうか」
「そんなんじゃなくて、」
 異母弟の異父姉が口を開くが、異母弟が彼女を制した。
「庭仕事を任せている近隣住民だ。それ以上、それ以下でもない」
「ふぅん。まぁいいや。上げてくれや」
 望夏は異母弟とその異父姉を退かして家へ割り入る。
 古臭い家だった。けれどもテレビで観るような老翁媼の暮らす"田舎の古民家"とも違っていた。玄関付近の部屋は増築されたらしく、台所とは築年数に隔たりがある。絨毯や壁紙で古さを誤魔化してもいた。
 実父の生まれた家だというのに望夏の肌は馴染まない。匂いが違った。他人の家だ。片親が同じ姉だという理由で、望夏には他人を住まわせているからだろうか。
「も、望夏くんだっけ……今、夕飯にしようとしてて……」
 台所に佇んでいると、後ろから弟の異父姉が顔を出す。
「おう、いいぜ」
 振り返ると、女の首筋に赤い跡が散っていた。
 望夏は頭を掻いた。そして汗疹用に手荷物に放り込んだ液体式の冷感 鎮痒(ちんよう)剤を女の首に当てた。
「きゃっ!」
「蚊がいるのかよ。オレ、日本脳炎のワクチン打ってねぇんだケド」
 3つほど集中して刺されている。掻いた跡はなかった。てん、てん、てんと先端のスポンジを当てる。
「ごめんなさい……」
「夏の田舎だ。蚊くらいいる」
 弟は缶型の蚊取線香を持ってきた。
「さすがオレの弟。気が利くな」
 弟と肩を組もうとしたが、先程の庭を徘徊していた他人と違って容赦がなかった。
「なんだよ」
「俺はまだ納得していない。あんたが俺の兄とは思えない」
「似てるべ?」
 望夏は困惑している弟の異父姉に同意を求める。
「彼女は関係ない」
 しかし弟が彼女を隠してしまった。独占欲が強いようだ。
「ごはんの用意、しちゃうね……」
 弟の異父姉は、自身の弟と望夏をすり抜けていく。
「オレは親父(パピィ)に似てるってんでよく可愛がってもらったんだがな」
「目付きの悪さは似ているかもしれない」
「そういうお前こそ、親父(パピィ)に似てねぇじゃん。オレ様と親父に似て、そこそこイケメンってとこくらいだろ。でもオレは一目見て、"ピン"とキちまったんだよ。カワイイ可愛い自分の弟だぞ? 間違えるワケねぇだろ! 辛谷駅に放流されてたって、オレはお前が弟だと一発で見抜けたね」
 異母弟の神経質げな眉が寄る。大型で利用者の多い複雑怪奇な構造の駅でも、血の繋がった弟ならば見極められるのだ。誇張はあれども嘘ではない。一度たりとも、他に目移りすることなく、弟を見つけることができたのだから、嘘ではないのだ。
「その軽薄なところも、父に似ているかもしれない」
「ふん。親父(パピィ)はフレンドリーなんだよ。可哀想に、哀れな我が弟よ。ツラの良さしか遺伝しなかったとゎ。天はそう誰にも彼にも二物を与えないってワケだ。オレ様だけイケメンで性格が良くて申し訳ないね。でも我が弟よ、案ずる事勿れ。"歩くパワスポ"のオレが、かわゆい弟を守ってやろう」
 ふたたび腕を組もうとしたが、払われた。
「俺は姉さんを手伝う。あんたは箸でも並べていてくれ」
 弟は弟の異父姉の横に立つと、今の今までの声音より間延びした話し方で指示を待っていた。怜悧な面立ちもまるくなる。弟は兄との対面を喜んでいない。否、忽如として現れた眉目秀麗、完全無欠の兄に戸惑っているに違いない。照れてもいるのだろう。或いは劣等感を覚えたのかもしれない。
 望夏は弟とその異父姉の仲睦まじい姿を眺めたが、そのうち割って入った。
「塩揉みくらいオレもできるケド? 貸しな」
「手が荒れちゃうよ」
 望夏は自身の手を見遣った。アイドルを辞めてきたばかりの手は、まだ保湿の習慣の跡があった。肌理は細かく、ささくれひとつない。弟の異父姉は、この玉のような肌に気付いていたようだ。
「そうだ。あんたの塩揉みは食べたくない」
「ハァ?」
「卓袱台を拭いてきてくれ。居間の卓袱台だ」
 弟は使い捨ての台拭きを濡らし、絞ってから広げ、スプレーを吹きかける。
「卓袱台ってなんだよ」
「丸いテーブル」
 望夏は唸ると、居間を探した。アップライトピアノと仏壇のある部屋は暗く、そこは居間ではないようだった。玄関近くの明かりの点いた部屋に、大型の円卓がある。テレビが喋り、扇風機が緩い風を振り撒きながら左見右見(とみこうみ)している。
 望夏は卓袱台を拭いた。位牌に気付く。まだ新しい。手に取った。位牌に書かれた人物は夏に夭折(ようせつ)したようだ。小型の座布団に乗った椀型の鐘を鳴らす。室内に甲高い音が響く。
「何をしているんだ、あんたは」
 盆を抱えた弟が呆れた顔をして居間へやって来る。
「コイツ、なんで死んだん」
 弟は卓袱台の脇に座ると箸を並べていく。
「知らない」
「なんで知らねぇの」
「俺の知る必要のないことだからだ。もちろん、あんたも」
「こんな若死にしてりゃ気になるだろ」
「老衰ではないのは確かだ」
 弟は鉢を置いていく。きゅうりとたまねぎの塩揉みが入っていた。
「そんなに皿使ったら洗い物が大変じゃね。あのな、弟よ。女は家政婦じゃない。いいか、女は家事をやるのが趣味ってワケじゃァねぇんだよ」
「洗うのは俺とあんただ」
「あの姉ちゃんは」
「姉さんは炊事に洗濯をしてくれている。女は家事をやるのが趣味ではないと、今言ったのは誰だ」
 望夏は唸った。それならばひとつの皿に纏めれば済む話だ。この家には大皿がないらしい。明日買いに行くことにした。
「女ってのは小分けにするのが好きだからな。ワンプレートで済むところを5倍くらいの食器で出す。そのうちカレーの具材まで分けて出すぞ」
「それなら盛り付けはあんたがやればいい。ここはレストランじゃない」
 弟は飯の盛られた茶碗を置いて、台所へ戻っていく。
 望夏は弟の背中が消えたあとも、呆然としていた。自身と父に似て類稀なる美男子ではあるが、性格は程遠い。去勢されている。晴海の家系は女性の尻に敷かれるような軟弱者ではない。
 弟はまたもや盆を持ってきた。柑橘の輪切りが添わる鶏の照り焼きが本日の主菜らしい。卓袱台に配られていく。
 台所と居間を行き来する姿はまさに持来欲を煽られた飼われ犬ではないか。牙も爪もあったものではない。嗅覚すら失っている。
「なんだっけ、お前。名前」
「渚砂」
「ナギサちゃんは、玉ついてんの」
「なんだ、急に」
「よく見たら女みたいなカオしてるし……あ、分かったゾ」
 世は言う。多様性の時代である。肉体に反した性別に自意識を持つことがあるのだ。
「我が妹よ」
「俺は男だ」
 盆を持って、台所に向かおうとする半同胞を引っ張る。
「ああ、なるほど。お前がどんなヤツでも、お前はオレ様のかわゆい妹、いや、いや、いやはや、いじらしい弟だ。チュウしてやるよ。おら、チューっ」
「よせ」
「うん、うん。オレ様の妹なんだ。よく見たら蛍塚(ほたるづか)のトップスタアみたいだな。誰が何と言おうと、お前はオレのホタルジェンヌのトップスタアだよ」
「暑苦しい。暇なら姉さんを手伝え」
 弟と入れ替わりに、弟の異父姉が夏野菜の焼き浸しを持ってくる。
「オレ様の弟、どうよ」
「……え?」
 彼女は焼き浸しの入った容器を卓袱台へ置くことに意識を取られていたようだ。行動に鈍さがある。胸の大きさが重さとなり、動作を遅らせるのだろうか。
「渚砂はオレ様に似て、カワイイだろ?」
「そうですね。しっかり者で……頼もしいです」
 彼女の目が揺れ惑った。望夏は前職業柄、華美な女性たちと関わりがあった。顔立ちや服装、髪や肌の手入れは確かに彼女たちのほうが美しく、丁寧で、手間暇かかっていたが、彼女等にはない素朴な艶を帯びていた。
「オレ様の弟なんだ。当然(あたぼう)よ」
 彼女は苦し紛れの微笑を浮かべる。望夏は訊きたいことを思い出す。
「あの位牌のガキ、なんで死んだの」
「水難事故なのです。川で溺れて……」
「夏に水場は、まぁ、危険だわな」
 弟の異父姉の目は水底に沈む石を思わせた。重く座り、潤む。
「そうですね……」
 扇風機の繰り出す弱風が彼女の前髪を撫でていく。居間に弟がやって来る。
「どうかしたのか、姉さん」
 弟は硬直していた自身の異父姉の顔を覗き込む。
「え………っ?」
 弟は望夏を睨んだ。
「姉さんに何か言ったな」
「ううん。望夏くんは渚砂さんに似ているね、って話をしていただけです」
 弟の異父姉が食い気味に答える。
「似ていませんよ。やめてください。似ていません……」
「そう謙遜すんなよ」
 望夏はそそくさと扇風機に近い席を陣取る。
「ごはん、食べようか」



 前職ではタワーマンションに住んでいた。風呂上がり、夜風に吹かれる余裕はなかった。望夏は浴衣を身に纏い、柱に背を凭れさせ、扇風機に当たっていた。自然の風では足らなかった。居間から流れる高校野球の情報が懐かしい気持ちにさせる。
 星空を視界に納めながら、茫乎としていたが、菜園の影絵が揺れたのを見て、我に返った。野良猫だろう。田舎ならタヌキかもしれない。キツネや野ウサギもいるのかもしれない。何せ、緑も虫が豊かな田舎だ。淡い肥やしの匂いに蚊取線香の匂いが横切っていく。
「おい」
「おお、弟」
 明るい灰色のスウェットを履き、黒い半袖シャツの弟は、昼間に見たときよりも大人びて見えた。髪を拭きながら立っている。
「アイス買ってきてやろうか」
 しかし望夏は酒を飲んでいた。台所に自家製の梅酒があった。炭酸水で割って、湯呑で飲んでいた。
「いいや、いい。それより、姉さんのことだ」
「あの巨乳な姉ちゃんがどうしたよ」
 今頃風呂に入っている。田舎にも甘い香りの瑞々しい花が咲くようだ。
「位牌のことは訊くな」
「もう訊いちまったよ」
 弟は今にも頬を膨らまし、唇を尖らせんばかりだった。兄と異父姉が内緒話をしているのが寂しいのだろう。
「ヤキモチ焼いてんだ? 可愛い弟(ヤツ)め。でも、オトナの話は弟(ガキ)には聞かせらんねぇなぁ」
「違う。デリカシーがないやつだな。そういうところは父親によく似ている」
「おいおい、大胆不敵といってくれや」
「俺は父が嫌いだ。遊び回ってはあちこちに女を作って、母を困らせ、壊した。壊された女性は、他にもたくさんいるのだろうな」
「バカ言え、親に感謝だぜ。金持ちで土地持ちで勝ち組遺伝子。それ以上何を望むんだ? 引っ掛かる女に問題がある。女はバカだから、罠に嵌めちまう男が悪いんだって? 女性差別はいけねぇぜ。女どもは真っ当な判断力を以ってして、爆心地に身を投じたのさ。少なくともオレの母ちゃんはそうだ。こんな立派な息子を産んで、母親冥利に尽きるだろうがよ」
 弟は反抗的な目を向けている。
「弟よ。お前はツラがいい。蛍塚歌劇団(ホタルジェンヌ)みたいなもんだ。だからこそあの姉ちゃんも傍に置いてくれてんだよ。逆だな。傍にいることに甘んじてんだよ。わざわざこんな古臭い晴海家の住居(いえ)によ。お前が無能、無価値、ブサイクの有象無象(モブ)男ならその辺のアパート借りて一人で暮らしているさ。我が弟。まぁ、妹かもしれんが。お前はお前が嫌っているお父ちゃんの遺伝子の恩恵に預かってるわけだ」
「だからより……憎いんだ」
「愛憎渦巻いてるわけだな。若いな。割り切っちまえ。まだこのイケメンぶりを堪能できてないんだな。それはお前が童貞だからだよ。童貞だな? 異性自認(オンナ)なら仕方がないが……見りゃ分かる。お前はまだ息子気分でいる。独り立ちできてねぇんだよ。あの姉ちゃんが、お前を男児(ガキ)にしてるんか? その気の利かなさは童貞だ。恋だね。恋愛をするこった。セックスだな。風俗でもレイプでもいけない」
 弟は目を伏せた。悄然としている。兄としての助言を、痛罵、叱責、詰問として受け取っているかのような反応だ。
「おい、泣くなよ」
「泣きたくもなるがな」
 かといって弟に落涙の様子はなかった。
「いいお兄ちゃんだからな。胸くらいは貸してやるよ。間違っても、あの姉ちゃんのでっかいおっぱいに泣きつくんじゃねぇぞ」
「よせ。姉さんをそんなふうに言うな」
 弟は身を縮め、腰を下ろす。胡座をかき、膝を揺らす。多動症なのだろうか。しかし望夏は見逃さなかった。ライトグレーの布が盛り上がっている。望夏は顎を撫でた。
「フーゾクにでも行くか」
 図体ばかり成長し、精神は中学の入りたての頃の変わらないようだ。
「一人で行け」
「はっはっは。ガキはシコって寝ろ」
 望夏は梅酒を呷る。三杯目がほしくなった。

4


 4杯目を飲み干すと、望夏(もか)は菜園に忍び込んだ野生動物のことが気になりはじめた。田舎といえば野生動物だ。野生動物といえばジビエだ。
 望夏は菜園に野生動物を捕まえる気になった。彼の脳裏には瀟洒(しょうしゃ)な肉料理がこびりついて離れなかった。フルーツソースと厚切りのハム……
 望夏は玄関から菜園へ回った。イノシシか、タヌキならば美味そうだ。
 虫の鳴き声を聞きながら、裏庭を歩いていたが、彼は酒に呑まれていた。蹌踉(そうろう)とした足取りで食べられる実を付けた雑草を踏む。畝を踏み、野生動物の動きに耳を欹(そばだ)てる。小鳥の囀りが聞こえた。女の淫声のようにも思えた。千鳥足が向く。好奇心や邪心ではなかった。明かりに惹き寄せられ、雷撃に焼き殺される蛾のようなものだった。
 網戸の張られた部屋に辿り着く。考えはなかった。酔っ払いに思想はない。思考も意思もない。
 拍手が聞こえた。手を打ち鳴らしていたのかは定かでないが、肉のぶつかり合う音だった。酒が入っていなければ、彼もその音の正体を知れたのだろう。彼の知らない音ではなかったし、以前は彼も奏でる機会に恵まれていた。
「んあ?」
 望夏は網戸を開いた。
『あ、あんっ、あんっ、ああんっ……!』
 暗い部屋で小鳥は甲高く鳴き続けている。
 望夏は腰が重くなってきた。そして眠くなってきた。窓を掴みながら、強い眠気に耐える。
『あ………も、赦して、ああっ……!』
 速く断続的な破裂音が暗闇に染み渡っている。
『ああ、ああ、ああん! ィく……んんんっ!』
 望夏は頭を抱えた。艶気を帯びた小鳥の囀りが、血の巡りを好くする。けれども酔っ払いにとっては眠気を助長するのだった。
 枯葉を布団に彼は寝てしまった。地球など、巨大な寝床に過ぎない。
 網戸のわずかな隙間がさらに開いていく。部屋に充満する暗闇から人影が浮き出た。そして酒気を吐く望夏の傍へ飛び降りた。
『弟は確か、死んだずーはーなんだけどな』

――

--

「起きてください」
 頬を叩かれ、望夏は目蓋を持ち上げた。淡い灰色の斑模様は空だ。
「はぇ?」
 身体が生温く濡れている。
「起きてください。死んじゃいますよ」
 望夏は頭痛に顔を顰めた。外にいる。周りは緑が生い茂り、生臭く、土臭い。そして自身は酒臭い。
「オフィーリアじゃないんですから」
 見覚えのあるような、ないような同年代の男が目の前にいた。抱き合うようにして川の中にいる。色素が薄いらしき染めていない茶髪に、雰囲気に似合わない日焼けした肌。特徴はあるが印象がない。
「誰だ、お前」
 溜息が返ってきた。川の中で男に抱きつく男は不審者なのであろうが、その焦げ茶色の目には理性が宿っているようにも思えた。
「ゲイ?」
「違います」
「河童なん?」
「河童っているんですか」
「いるだろ。田舎だし」
 見ず知らずの男は首を傾げる。
「田舎にはタヌキも河童もいんだよ」
「はあ、そうですか。酒臭いんで、放しますよ。自分で立てますよね」
 見覚えのある男は望夏を放し、一人で岸辺に上がる。放された望夏は沈む。だが足はついた。
「昨日が雨でなくてよかったですね」
 橋の下はコンクリートで舗装されていた。見覚えのある男は座り込み、橋の裏天井を仰ぎ、濃いシミを作った。
「ここどこ」
 望夏も川から上がる。身体中が臭い。
「麦笛川です」
「マジ?」
 知らない場所だ。
「晴海(はるみ)家は坂を下って突き当たりです」
「なんでオレのこと知ってんの」
 前職業柄、知られていても不思議ではない。
「もしかしてオレのファン?」
 気の弱そうな面構えが歪む。
「まさか」
「じゃあなんで」
「自分で、言っていたじゃないですか。まさか忘れたんですか。ぼく、あなたの弟にされかけたんですけれども。梅子(めいこ)さんのところで野菜を作っている片蔭(かたかげ)です」
「そんなこともあったっけな。ま、気が向いたら覚えといてやるよ」
「あなたに気が向かれても困るので忘れてどうぞ。早く帰ることですね。朝の5時ですよ。梅子さんが心配します。梅子さんが困るのは、ぼくも困るので」
「ハァ? 5時?」
「そうです。このことは梅子さんには言わないことですね。泥酔して川で溺れるなんてダサいですし」
 望夏は唸った。気の弱そうな面構えと口煩い優等生を思わせる雰囲気に反して、性格は悪いようだ。
「はん。水も滴るいい男で困っちまうな」
「まぁ、そうですね。そう言われると照れますよ」
 性格の悪い男は濡れたシャツを絞る。元は色白のようだ。
「お前じゃねぇよ。オレ」
「どっちでもいい。何時だと思っている。姉さんが心配するだろうが」
 生い茂る雑草を掻き分け、法面(のりめん)を降りてくる奴がいた。弟だ。
「おお、なんと孝行な弟なんだ。お兄ちゃんが恋しくて寝られなかったってか? お? ん? チュウしてやろうか?」
「違う。どこに行こうが構わないが、居間の電気は消せ。玄関の鍵は締めろ。洗濯物を増やすな」
 望夏は弟に飛びつこうとしたが躱された。弟は性格の捩じ曲がった男を一瞥する。
「兄というか、同居人というか、そいつが世話になりました」
「いいえ。でも、このことは梅子さんには秘密ですよ。"心配"しますから……」
「前にここで変な男に会ったんです」
 弟が不審者に遭遇したと聞いては、望夏は優秀な兄として黙っていられない。
「誰だ、そいつは。オレの弟に……赦さんぞ」
 性悪男は緑色の川を見下ろす。
「"春には紅梅、夏には河童、秋にはヒグラシ、冬にはキツネ"。この町は不審者がたくさんいるんですよ。河童じゃないですか。そちらのお兄さんが言うように、ぼくが河童かもしれませんし」
 弟は性悪男に眉を顰める。それを面白がろうとしたが、望夏の動きは止まった。河童といえば妖怪だ。この町では夏に出るらしい。居間に置かれた位牌の子供は水死で、忌日(きじつ)は夏だった。
「ナントカつばめだか、かもめだかいうガキも、河童に足引っ張られて死んだってか」
「おい」
 弟に睨まれるが、望夏は性悪男の横面を凝らす。
「言い伝えって愚かですよね。なんでもかんでも神の所為、妖怪の所為、呪いの所為って」
 近くの畑で鳥の羽搏(はばた)きが聞こえた。
「もう帰ったほうがいいですよ。帰ってください。このことは梅子さんには内密に。心配しますから」



 小さな石碑が花道を作っている。奥に向かって狭まっていく様は本殿に吸い込まれるようだ。蛙生(あお)は草毟りの最中、ふと立ち上がり、緑陰に抱かれた社(やしろ)を見つめた。
 麦笛川の南側、国道を越え、工場に挟まれた道を抜けると旧・浦しろざ区、現・あかざ区がある。数えるほどの民家と田畑、潰れて放置された飲食店の建物があるだけの殺風景な土地だった。この一画に移世観(うつせみ)祭祀社はある。管理は主に片蔭(かたかげ)家の務めだった。
 この祭祀社は、"雨止(あやめ)の輩"だの"鴉蚰(あゆ)狩り"だの呼ばれた連中を祀っている。蛙生の先祖でもある。
 作業に戻ろうと向き直ると、今度は隣の畑との境界に紫色の花が咲いていた。舌を出すように花弁が垂れ下がり、黄味の入ったモンシロチョウが停まっているかのような模様が入っている。あやめか杜若(かきつばた)か花菖蒲(はなしょうぶ)か、彼には判断がつかなかった。花には興味がない。
「アヤメがどうかしたのか」
 振り返ると、片想いの相手の家に身を寄せる晴海(はるみ)の息子が佇んでいた。強い日差しに頓着のない白い顔で、セミもうんざりしている暑さに平然としている。
「これ、アヤメなんですか」
 誂(からか)うつもりも、嫌味を言うつもりもなかった。
「黄色と白の模様。こういう土に咲くのもアヤメだったはずだ」
 長く白い指が花弁を差す。
「詳しいんですね」
「前に絵に描いたことがある」
 蛙生は改めてアヤメの花を眺めていた。"雨止の輩"は天の怒りを買い、旱魃(かんばつ)を引き起こすなどと疎まれ、"アヤメ降し"とも呼ばれていたが、それは杜若のことではあるまいか。正しくは"杜若降し"だったのだ。
「姉さんから弁当だ」
 物思いに耽っていると、晴海の息子は保冷バッグを突き出した。
「ありがとうございます。ここにいるってよく分かりましたね」
「車が見えた」
 この祭祀社の近くに蛙生の家がある。周りは田畑で、見通しがいい。
「自転車ですか」
 晴海の息子は頷いた。
「そうですか。暑いのに、お疲れ様です」
「いつもは姉さんが届けに来るのか」
「いいえ」
 保冷バックは外側も冷たかった。汗ばんだ身体に心地よい。しかし彼は俯いた。
「じゃあ誰が届けに来る?」
「カレシです。梅子さんの」
 顔を上げた。晴海の息子の美貌に強い眼差しをくれた。神経質そうな眉に稲光が走る。
「……そうか」
「聞いていませんか」
「……」
「カレシさんが嫌がるんです。梅子さんがここに来るの」
「カレシは、入墨が入っているのか」
 睫毛に蚊が止まるかと思うほど、蛙生は晴海の息子を見詰めてしまった。
「入っていなかったと思いますよ」
 晴海の息子は目を伏せた。田畑を2つ越えた先の道路は最近拡張されたばかりで、雑木林が走行音を絡め取る。
「カレシっていうのが、姉さんがここに来るのを嫌がるのは、俺たちが北側に住んでいるから?」
 晴海の息子のなかに2人の選択肢があったようだ。
「ぼくもそのカレシも、現代を生きているようで古臭い人間なんですよ。車を乗り回して、スマホも使いますけれど。言い伝えでは、雨崎(うざき)家はここに来てはいけないんです」
「また迷信か」
「そうですね。でも、これは迷信ではなくて、歴史です。ここは――ここは、元は被差別部落なんです」
 晴海の息子は額を撫でた。今日は特に暑かった。
「車のなかに入りましょうか。熱中症になっちゃいますから」
 蛙生は道路脇に停めた車へ案内する。エンジンを掛け、クーラーを点け、風向きを後部座席へ向ける。
「飲み物どうぞ。常温ですが」 
 助手席に放置されたペットボトルを差し出す。 
「いいのか」
「ぼくは冷えているのが1本ありますから」
 助手席の足元に置かれたクーラーボックスからペットボトルを出して見せた。
「すまない。それで……姉さんがここに来てはいけない理由は?」
 クーラーの過呼吸に、蛙生の吐息は掻き消される。
「昔、川北の"しろざ地区"と、この被差別部落とで争いが起きたそうです。麦笛川を巡る争いだそうで」
「はあ」
「裁判だの一揆だの疫病があって、その争いは埒が明かなくなって、まぁ、最後は神頼みというわけです」
 ルームミラーには、左右反転しても変わりのない美貌が首を傾げている。同父兄を名乗る横暴な男が子供扱いしたくなるのも分かる純朴さが時折覗える。
「"浦しろざ地区"は移世観祭祀社を、そちらの"しろざ地区"は緋冥(ひぐらし)祭祀社を建立(こんりゅう)したそうで。家の西側、国道から外れてすぐにあるでしょう」
「あったな」
「互いの祭祀社に宣誓書や御神酒(おみき)を奉納することで決着したそうですよ。でも、晴海家は確かに宣誓書を納めたんです。ただ、雨崎家は、御神酒を奉納しなかったそうで」
「何故、そこに晴海が出てくる」
「え。晴海家ってあそこじゃ一番偉いんですよ。梅子さんの雨崎家は3番目で、御神酒が担当だったそうで。まぁ、梅子さんは分家筋らしいのであまり関係ないとは思うんですけど」
「知らなかった」
 蛙生も微苦笑を浮かべる。この祭祀社の管理を請け負わなければ、知らなくてもよかった話だ。
「終わった話をいちいち引き摺っているぼく等がおかしいんです。ただ、本題は梅子さんのカレシでしたね」
「ああ」
「御神酒を奉納しなかった雨崎家がこの祭祀社に来ることがあれば、呪われるらしいです。どのように呪われるのかは分かりませんが」
「呪いで死んだのか」
 とても呪いで死んだとは思っていない様子だった。
「つばめくんと梅子さんのカレシが、ここに遊びに来たんです。理由は知りません。虫を捕りに来たんだか、花火をしに来たんだか。その翌日に、つばめくん、遺体で発見されたんです。麦笛川で」
 クーラーの風間に、息を呑むのが聞こえた。ルームミラーを見遣れば、据え置かれた瞳が目動(まじろ)ぐ。死んだことは知っているはずだ。表現が良くなかったようだ。
「望夏さんが"水遊び"していた橋の、もう少し西側ですね。清和(せいわ)ふれあい広場というのがあるのですが、行かれましたか」
「いいや」
「そうですか。いや、大したものはないんです。ただの散歩道ですから。そこで。梅子さんのカレシは、まったく迷信や言い伝えなんて信じない人だったのに……つばめくんが亡くなったのを、"浦しろざ区"の呪いだなんて思っているんです。くだらないですか」
「くだらないといえば、くだらない。だが、分かるには分かる」
「あ、分かっていただけます?」
 都会の荒波に揉まれ、捻くれて屈折したこの若者にも、超自然的な信仰を解す心があるというのだろうか。
「俺は飼っていたハムスターの死骸を生ゴミには捨てられなかったし、天国なんてものを発想してしまったことがある。そういう信仰は、誰にでもあると思う。長くは続かないが……」
 彼はペットボトルの茶を飲み干した。
 蛙生は脱力した。弁当をもらったはいいが、午後の作業には戻れそうになかった。
「こんな調子で、昔、話してしまったんです。梅子さんのカレシに。きっと渚砂(なぎさ)さんに話したことを、あの日のように後悔する日が来るのでしょうね」
「何故」
「いいえ、別に。でもこれだけは、梅子さんのカレシの名誉のために言っておくんですが、彼は決して差別主義者というわけではないんです。ただ、つばめくんのことがあったから……」
「あんたが姉さんの家に入り浸るのはいいのか」
「好くないんでしょうね。好くないとは思います。好くないんでしょうけど……こうでしか、ぼくには梅子さんの傍にいられる口実がありませんから」
 晴海の息子は車のドアを開けた。
「そろそろ帰る。ペットボトルはもらっていくぞ」
「ええ。配達ありがとうございました」
 車のドアが開閉を聞いた。蛙生はルームミラーを覗く。晴海の息子の長い脚が、日光に炙られた自転車に跨る。晴海の家に帰るのだろう。工場の脇道を抜け、国道を横切り、"しろざ区"内最東端の麦笛川に架かる橋を渡り、緋冥祭祀社の前を通れば晴海家だ。家族が待っているのだ。料理上手な女が、昼飯を用意して待っているのだろう。
 晴海家の息子は「姉さん」と呼んでいた。晴海家の長女はその出生を話したのだろう。蛙生には安堵があった。同時に羨望が気を重くした。片親の血は繋がっている。正気の人間に備わる潔癖性が、2人を隔てるはずなのだ。けれども、あの男は、弟の立場に収まり、梅子の傍にいられるのだ。
 蛙生はクーラーを切った。後部座席に流す風は強く、汗は冷えきり、寒くなっていた。興奮して、喋りすぎた。疲れが一気に押し寄せた。石碑周りの草毟りなど大した労働ではなかったのだ。しかしまた戻る気にもなれなかった。

『片蔭くんとは何もないのに……周りに誤解されるの、片蔭くんは嫌じゃない? 本当にごめんなさい』

 ふと、一昨年頃の会話が甦った。近所の媼に結婚の話を振られたのだという。
 蛙生はハンドルに顔を伏せた。人間関係とは厄介なものだった。都会の人は冷たいらしい。薄情者で、無関係を気取るらしい。けれど、その冷たさとは寛容さにも近いのではないか。

『ぼくは光栄ですがね……礁鯉(しょうり)さんには悪いですけど』

『片蔭くんは優しくてかっこよくて素敵な人だから、結婚相手なんて、他にすぐ見つかるよ』

 先程、晴海の息子に話したことをすべて打ち明けてしまえば、彼女の弱みに付け入ることはできたのだろうか。我が先祖はお前の家に酷い仕打ちを受けた。末代まで償え、尽くせ、詫びろと言えば、彼女の心も身体も手に入るのだろうか。


『礁(しょう)ちゃんに、もう気持ち、冷められてるかもしれなくて……でもわたしには、礁ちゃんのこと引き止める資格がないから……』

 蛙生は後悔に苛まれた。
 卓袱台の上で震える手を握ってしまえばよかった。その選択が浮かびもしなかった。泣き噎び、縮こまった身体を抱き締めてしまえばよかった。しかし臆病風に吹かれた。否、やはりその選択すら浮かんでいなかった。

『最近ね、また来てくれるようになったの。仕事が忙しかったんだって。転職したばかりで大変だったみたい……』

 蛙生は車のエンジンを切った。外へ出る。熱気に包まれる。乾いた肌がまたたくまに蒸れていく。
「いい休日だネ、蛙生くん」
 祭祀社の前に梅子の交際相手が立っている。蜂蜜色の目がカメムシの甲羅のようだった。
「さっきの"おにいちゃん"は、梅ちゃんのところの子?」
「はあ……まぁ………」
 曲がりなりにも梅子の交際相手である。片親違いの弟とはいえ彼よりも端麗な若い男の出入りが増えたことを告げるのは憚られた。
「この前、川で男の子が溺れてたネ」
「あれは礁鯉くんの仕業ですか」
「違う、違う。違うヨ……」
 油膜を張った目とは視線が合わない。
「梅子さんのところには戻らないんですか」
「ねぇ、蛙生くん」
 祭川(さいかわ)礁鯉(しょうり)は平然と話しているが、突然暴れ出し、叫び出しそうな危うい空気を漂わせている。
「なんですか」
 蛙生の応答は震える。
「君、梅ちゃんにコクりなヨ」
「本気で言っているんですか」
 優越感を得るためにここへ来たというのか。愚弄し、嘲笑のために顔を見せに来たというのか。
「本気だヨ。おでは壊れちゃったんだから。それに配達員も降ろされちゃったみたいだからネ」
「だからって、梅子さんを見捨てるような真似、ぼくは腹が立ちますよ」
「蛙生くんだからだヨ。蛙生くんだからおでは身を引けるんだヨ。君は以外は嫌だナぁ」
 礁鯉は油泥のような眼を開け広げ、蚰蜒(げじ)よろしく間合いを詰めた。異性であれば親愛を意味する距離感であるが、男同士では威嚇を意味する距離である。
「大体、決定権は梅子さんにあります。ぼくが告白したところで……」
「梅ちゃんは、君のことを天使や菩薩様だと思っているからネ。フられちゃうかもナ……」
「ぼくがフられるのを見たいんですか」
「ねぇ、蛙生くん。君はおでよりずっと顔がいいケド、天使ってブサイクらしいヨ。綺麗なのは悪魔なんだって。だから悪魔に取り憑かれちゃうんだナ」
 トンボの目のような捉えどころのない眼差しをしている。眼病や怪我のようには思われない。内側の問題のように思われる。
「みんな、美しい悪魔を抱えているんだヨな。おでもだヨ。おでもなんだ」
 この人は外を悠々と歩いていていい状態ではない。しかし健常な外貌と、ある程度通じる会話のために、異常性は隠れたまま増大していっているようだ。
「配達員がやりたかったんですか。そんなにぼくに会いたかったと? それなら、梅子さんのところに行けよ」
「あの"おにいちゃん"も、おでを壊すんだ」
 礁鯉の声に感情が混ざる。蛙生は怯えた顔を瞥見する。
「どうしてみんな、おでから梅ちゃんを奪うんだろう……? どうしておでは梅ちゃんを守れないんだろう? ……うぅ、うぅ………」
 油気の抜けた蜂蜜色が滲む。
「ぼくに訊くのはマウントですか。嫌な人だな。もしぼくがあなたの立場にいたら、絶対に、何があっても、梅子さんを放しません"でした"。壊れてる暇なんてないんですよ」
 礁鯉は干乾びた側溝を覗き込むように蹲(うずくま)る。
「蛙生くんが梅ちゃんのコトもらってヨ。蛙生くんが……」
 気違いの戯れ言は、耳障りになるほどの価値も意味もなかった。しかし片想いの相手を侮辱するのならば、気違いの戯れ言は耳にも気にも障る。
「梅子さんは物じゃない。お前のおもちゃでもない。ぼくのことを嗤いにきたのなら好きにしろ。でも、梅子さんのことをバカにするのなら絶交だ! お前なんか知るか!」
 蛙生は気違いの胸ぐらを鷲掴む。蜂蜜色が潤んでいる。
「助けてヨ……助けてヨ…………おでを助けてヨ……」
「助けません」
 理知の閃きが溶けかけの蜜玉を転がしている。
「梅ちゃんのコト、助けてヨ……」
 振り翳(かざ)した拳は行場を失った。
「あなたがやることです、それは……」
「おでは弱いオスだったんだヨ。おではダメなオスだったんだ。おでは梅ちゃんに相応しくない負け狗だったんだヨ……」
 蛙生には理解できないことだった。好いた相手と恋仲になっておきながら、みすみす手放そうという考えが、蛙生には理解できない。
「梅子さんのこと、もう好きじゃないなら、消えたらどうですか。所詮、罪悪感で成り立っていた関係でしょう。つばめくんはいい仕事をしましたね。可哀想に……」

5

 2人の男が出てくるのを、望夏(もか)は見てしまった。スーツ姿の畏まった身形(みなり)は冠婚葬祭にそのまま紛れ込めそうでさえある。あまりに仰々しい風采は営業で来た人間ではない。隙も愛嬌もない。あるのは威厳だ。庶民が相手では契約は取れなかろう。否、恫喝に似た口八丁手八丁で騙すことはできよう。
 先頭に立って歩く男は、深い皺の刻まれた厳格な顔立ちと雰囲気を醸し、半歩後ろの男は側頭部は刈り込み、長い髪を括っていた。
「ナクルトっすか?」
 黒光りする革靴が石畳を鳴らす。望夏は道を塞いだ。
「そ、そ。ナクルト5000は売り切れでーす」
 表情のひとつも崩さず、後ろの髪の長いのが答えた。すると先頭の堅物そうなのが制した。
「失礼。私たちはこういう者です」
 "銀行員物語"の中盤で観た形式張ったやり取りが目の前にある。
 礼儀作法、常識、マナー、エチケットなど知らない望夏は渡された名刺を捥(も)ぎ取った。
「ほぉん。ニジモリさんね」
 紙には"虹守"と記されている。
「梅子(めいこ)さんに用があって参りました」
 望夏の目はまだ紙面を這う。眼球が眼窩から溢れ落ちそうになった。"クモリグループ専務取締役"と書いてあるのだ。"クモリグループ"ならば聞き覚えがある。CMで聞く。聞き覚えがあるどころか、前職の事務所の近くに本社が建っていた。否、クモリグループの製品のCMの曲を歌ったこともあったかもしれない。
「ハァ? おたくさん、お偉いさん?」
「滅相もない」
 謙遜はしているが、表情は堅く、厳しく、隙がない。
「で、そんなお偉いさんが"うちの"に何の用なんすか」
 望夏は腕を組んだ。堅物なほうは40代手前といったところだ。その後ろの髪長は30代半ばか後半といったところだろう。
 堅物はその面構えには合わない嘘臭い笑みを浮かべている。目には不遜な態度が透けて出ている。
 堅物の色の悪い唇が開いたとき、玄関戸が開いた。
「何してるの、望夏くん」
 梅子が飛び出し、2人をすり抜け、望夏の傍へやって来る。
「―弟がすみません」
 望夏は口角を上げた。この場では弟ということになっているらしい。
「"他にも"弟がいたのですな」
「ええ………まぁ、はい………」
 梅子は背を丸め、俯き、肩を縮めていた。
「うちの愚弟と違って、"三晴(みはる)冷夏(れいか)"が弟とは羨ましい限り」
 望夏は片眉を上げる。やはり専務取締役だ。自社がタイアップしたアイドルのことをよく覚えている。
「それほどでも」
「望夏くん。お忙しい方たちの邪魔しないの」
 梅子の手が肩に乗った。軽い。骨だけのような気がした。肉が付き、血が通っているとは思えなかった。女性に触られたことなど星の数でもまだ足りないほどあるが、異母弟の異父姉から触られるとは思っていなかった。
「ああ、悪かったよ」
 梅子に促され、道を開ける。スーツ姿の2人組みは頭を下げて石畳を踏んでいった。家の前から離れて停まる車は、見るからに高級だと分かる。国道に乗って都会から来た、都心部に向かう途中で休んでいる車だと望夏は決めてかかっていた。まさか梅子に用があるとは想像に及ばなかった。
「どういう知り合いなんだよ」
「わたしの継父(ままちち)の先妻の……」
 "ママ"なのか"父"なのか、この女ははっきりしない。
「ハァ?」
「えーっと……望夏くんのお父さんの前の前の奥さんの次の旦那さんと前の奥さんの……」
 梅子も家系図を頭に浮かべ、途切れ途切れに喋る。
「余計分かんねぇんだケド」
「だからその……位牌の子の、お母さんが違う兄弟」
「………ハァ? ………はあ」
「だから、つばめくんで繋がってる関係ってことです」
「でもソイツもう死んでるじゃん。遺産寄越せって? 金持ちのクセに」
 梅子は苦々しさを残して笑っている。
「まぁ、高額納税してるんだろうからな。他人様を助けるってのは気持ちがいいぜ。こちとら税金がっぽり持っていかれて、すっからかんなんだからな。まったく、貧乏人が羨ましいぜ」
 望夏は築50年と築30年が混在している実家家屋を見上げた。
「建て直しちまおうかな」
「その間は、どこに……」
「アパート借りてやるよ。3人で暮らそうぜ。なぁ、"お姉ちゃん"。オレと"お姉ちゃん"が付き合ったら、渚砂の弟(バブ)ちゃん、喜ぶんじゃねぇかな」
 望夏は手垢を拭うように梅子の肩を抱いた。彼女は戸惑っている。
「渚砂は?」
「出掛けています」
 望夏は口笛を吹いた。
「中入ろうぜ。暑くってよ」
 梅子は焦っていた。肩に掛けた腕から逃げようとしている。汗と女特有の甘い香りがする。桃の匂いに似ていた。
「汗臭いから……」
 望夏は白い項を見下ろした。虫刺されがある。
「虫刺されてんぞ、首」
 ここだ、と教えた。指で触れた。
「んっ……」
 梅子の身体が仰け反る。
「蚊が一番人を殺してるっつーからな」
 望夏も虫に刺されたのを思い出す。葉のせいかもしれない。気触(かぶ)れ、痒みよりも痛みがある。酒を飲んで酔っ払い、夢遊病よろしく行ったこともない川へ飛び込んだらしいのだ。前職ならば大問題になっていた。
「薬塗ってやるよ。ちょっと待ってな」
 望夏は中へ入ると、真っ先に占領した部屋へ向かった。冷感鎮痒剤の入った鰐皮のポーチを手にすると居間へ戻る。
 居間には線香の煙が漂っていた。卓袱台の傍には座布団が置かれ、梅子はグラスを片付けていた。
「持ってきたぜ」
 大きな目に下から捉えられ、望夏は狼狽えた。計算も作為もない。
「首出せよ」
 望夏は梅子の髪に触った。毛束を避け、項を露わにする。
 彼は目を屡瞬(しばたた)かせた。自身の腕にある腫れ方と違う。皮膚の下で起きている。
「これ、虫刺されじゃねぇんじゃね?」
 前職は、本業はアイドルであったが、その知名度のために俳優をやったこともある。初主演でヒットしたドラマ「白い疑念」で、ヒロインの患った病の症状に発疹があった。
「あんた、病気なんじゃねぇの」
「え?」
「大変だ! 病院行くぞ、ばか。何、放ったらかしにしてんだ」
「びょ、病気って……」
「やべぇ病気だよ。死んじまうぞ!」
 そうだ。ドラマのなかのヒロインは最終回で病没した。
「だ、大丈夫よ。病気じゃないわ」
「病人ほどそう言うんだよ」
 望夏は彼女の肩を掴む。痩せている。細い。肩の骨は桜桃ほどしかない。掌が余る。やはり病人ではなかろうか。
「病院行くぞ。車出してやるから」
 今度は腕を掴む。肩よりも細さを感じ、力加減を意識せざるを得ない。
「違う、違うの。病気ではなくて……」
 梅子は抵抗する。線香の匂い一際濃く薫る。望夏の脳裏に先程のスーツ姿の男たちが過る。すでに一財産築いているというのに、庶民から金をせびろうという連中だ。
「ア、分かった。さっきのおっさんたちに搾り取られてすっからかんなんだな? 治療費、入院費くらいオレ様が出してやるよ。オレの弟の姉ちゃんなら、オレの家族みてぇなもんだろ。気にすんなよ」
「違、くて……」
 玄関戸が開いた。ガラガラがしゃんと特徴的な音が鳴る。
「姉さん、ただいま。片蔭(かたかげ)サンに届けてきたよ……」
 弟だ。
「おお、弟よ。おかえり。待ってたぜ。お兄ちゃんと遊ぶか?」
「いいや、遊ばない。それより――」
 弟の目が望夏に腕を掴まれている彼の姉に滑る。
「――姉さん!」
 弟は彼の姉の細い腕を支え、望夏の手から引き離す。
「怖いことをされたのか。姉さん……大丈夫だ」
 望夏は、姉想いな弟を眺め、顎を撫でる。弟は姉を抱き締め、その髪に頬擦りしていた。優しく繊細、感受性の強く寂しがり屋な弟だ。愛しさも一入(ひとしお)、感じられるというものだ。
「"姉ちゃん"の具合が悪いみてぇなんだよ。病気かも」
 告げた途端、弟は目を瞠った。
「本当なのか、姉さん。いけない。しっかり病院で診てもらうべきだ。タクシーを呼ぼうか」
「オレが車で連れてくって言ってるんだケドよぉ、聞いてくれねぇんだよ」
「ああ……姉さん……」
 虚勢を張ってばかりの寂しがり屋の弟は異父姉の額に唇を落とす。仲が良い。片親違いなのは望夏も同じである。年上なのは、望夏も同じだ。男の子というのは、異性よりも同性の同胞に懐くべきだ。
「おい、オレにもやれよ、そういうコト!」
「姉さん、病院へ行こう。怖くない。俺も一緒に行くから……」 
「望夏くんが誤解しているだけ……本当に何もなくて……ちょっと、変なところ、虫に刺されただけなの……本当よ。きちんと会社の健康診断も受けているのだし……」
 弟は異父姉を見詰めていた。無愛想なのか常時緊張しているのか判断のつかない顔が、何度も搗(つ)かれた餅よろしく柔軟性に満ちている。
「信じていいのか」
「うん。健康だけが取り柄だから……」
「ああ、よかった。とりあえず、信じることにする。姉さん……」
 弟の異父姉は、異父弟に懐かれているというのに青白い顔をして、強張った笑みを浮かべている。
「姉さん………姉さん………」
 望夏は、ゾンビと化した弟に違和感を覚えはじめていた。
 弟は、姉の首筋へ頭を捩じ込み、浅く息を吸う。
「渚砂さん……待っ、……」
「ああ………姉さん………」
 弟は親ツバメを気取り、姉の顎を摘むと彼女の口腔に侵入を試みている。
「ハ……? え、あ………?」
 望夏は呆然としていた。彼のなかで時は止まっていたが、彼の外では止まっていなかった。証拠に、弟は姉を押し倒す勢いで餌付けよろしく口元同士を減り込ませている。海外でもやらない挨拶だ。
 姉弟であるはずだ。しかし片親が同じだけである。否、連れ子ならば血は繋がっていない。血の繋がっていない男女が一つ屋根の下で暮らしていれば、市中のカップルのようになるのだろうか。2人とも若く、見目も悪くない。望夏にとって、弟は母親が違えど、他人ではない。
「ぁ………っ、ん………」
 座ったまま上方前部から力を加えられた弟の異父姉は仰け反る。今にも畳に倒れそうだった。
 弟は接吻相手の様子に構うことなく、夢中で唇を吸っている。自分勝手な口付けだった。偉大な父の息子、プレイボーイで名を馳せたアイドルの弟として情けない、稚拙な技巧である。血縁の有無にかかわらず姉弟で珍奇なコミュニケーションをとることよりも、晴海家男子の面目が潰れるのは赦せない。
「童貞(バカ)か」
 望夏は姉弟を切り離した。
「姉さん……」
 弟は蕩けた目のまま望夏を睨む。
「あのな、そんな鳥みてぇなキスがあるかよ。キスってのはこうやるんだ」
 望夏は弟の姉の後頭部に手を回す。そして濡れた唇を塞いだ。考える必要のない流れと勢いだ。教示することではないもののはずなのだ。
 柔らかな唇は触れるやいなや望夏を包み込む。冷めた体温も心地良い。暑苦しいのは好きではなかった。
 舌先を捩じ込もうとした途端、外野から肩を掴まれる。
「おい!」
 しかし微睡みに似た実感だ。掴まれた肩を引かれ、唇の交接は解かれる。
「姉さん、可哀想に……」
 望夏が舐めたことも厭わず、弟は姉の口腔を啜る。女の口にはそうとう美味い蜜が溜まっているようだ。
「バカ、お前。独り善がりだぞ。女を気持ち良くしようってサービスの心がねぇンだわ。晴海の息子の名が泣く! 男なんてのは女のイき様オカズに後からシコっときゃいいんだ。まずは女を気持ち好くする。男がチンポで気持ち好くなろうとするな。男が気持ち好くなるのは、女を硬いチンポで突いてイかせてやるためだろ。男なんてのはインポでも女のイき様で脳イきしときゃいいんだ。男たるもの、潔くバター犬になんだよ、アホ。陽有水(はるうみ)砂凪(さな)先生もそう書いてた」
 陽有水砂凪著"愛とセックスのバイブル"というエッセイに書かれていた。イチジクの水彩画の表紙で、絵も作者が描いたのだという。繊細な色使い、緻密な線画、瑞々しい文体は女性を思わせた。けれども望夏はこの本を読んだとき、感動したのだ。そして実践したのだ。それこそが、強く賢い男の在り方なのだ。
「書くのは簡単だ。でも、やるのは難しいんだ……」
 弟は自分の姉を望夏から遠ざけた。切れの長い目を潤ませ、上目遣いで兄を睨んでいる。喋り方は間延びし、声は上擦り、巨躯を窄(すぼ)めて子猫を気取っている。
「まぁ、セックスの話は言い過ぎだな。さすがに姉弟でセックスはしないもんな」
「……姉さんとセックスしたい」
 望夏は顔面に殴打を食らった。そういうような気がした。視界が点滅する。聞き間違いであろうか。
「姉さんとセックスしたい」
 弟は、姉とのセックスの与奪権を望夏が握っていると思っているらしかった。姉に止められることも構わず、望夏へと首を伸ばす。
「よして、よして………渚砂さん」
 姉の反応に望夏は面食らった。すでに身体を重ねたことがあるのかもしれない。今、初めて、異父弟の願望を知った反応には思えなかった。彼女は異父弟の願望をすでに知っていたか、すでに事を成しているような気がする。
「姉さんとまたセックスしたい」
 可愛い子ぶっている弟から、必死に彼を止める姉のほうに望夏は目をやった。
「そんなことを言うのはやめて……」
 弟から見た姉も、望夏がこの女を見たときと同じ感想なのであろうか。全体的には細く見えるが、部分として見るとむっちりと肉付いた腿がジーンズのなかで爆ぜそうである。シャツのなかではブラジャーに留め置かれているはずの豊満な乳房が転がり、乳飲み子と化した弟を埋めている。未婚の未産婦のようだが、成熟した女が持つ、妖艶な空気を醸し出している。
「いいぜ、渚砂。お前を大人(おとこ)にしてやるよ」
 望夏は弟の異父姉の後ろに回り、シャツとキャミソールを捲り上げた。羽交い締めにしる。
「あぁっ……! そんな……!」
「弟を立派な男にしてやらなきゃァなぁ、"姉ちゃん"」
 望夏は姉の肩越しに正面に座り込む弟を見た。犬よろしく座っている。股間を覆う黒いスウェット生地が屹立している。姉を指名している。
「よし……て………よして、………姉弟なの……だから………っ!」
「あんだけイケメンな弟なら文句もねぇだろ、な?」
 望夏は暴れる女の耳に口付ける。
「やだ………やっ………!」
「姉さん……、姉さんにキスするのヤダ……」
 弟は目に涙を溜め、望夏を睨む。
「へぇ、へぇ。分かったよ、童弟(あか)ちゃん。おっぱい飲んでやりな。勃たせてやるから」
 藍色のブラジャーのホックを外す。カップが浮いた。
「やだ、やだ、望夏くん……! よして……!」
 大きな膨らみを持ち上げる。指の間から零れ落ちていきそうだ。表面張力が働いているかのように、かろうじて形を保っている。
「や……わらっけ………」
 掌が爛れているのかと思うほど、意識が一点に集まる。下腹部を流れる血が沸騰してしまっている。
「姉さん……姉さん………」
 薄情なことばかり言う弟の唇が半開きになっている。
「やだ、やだ………放して、放して……!」
 望夏は梨瓜(めろん)を彷彿とさせる乳房を揉み拉(しだ)く。肥満体の友人の腹では得られなかった満足感を覚える。
「気持ち良くしてやるから」
「やだ……、やめて……っ」
 乳房を抱えた両手から共に指を伸ばした。左右の指先に小さなものが当たる。
「ぁ、んっ……」
 触れた途端、弟の異父姉の身体が跳ねた。彼女は両手で口元を覆う。
「声聞かせてやれよ」
 張り詰めた胸の尖端を摘む。
「ぁ、ゃあんっ」
 指の腹を押し返すほど芯を持ち、存在を主張している。転がせてしまえた。
「ぁ、んんっ」
 女の下半身が望夏の腰を押し付けられる。
「渚砂、吸ってやれ。歯は立てるなよ。唇とベロで揉んでやるんだ」
 弟は淫魔に操られていたに違いない。彼の双眸は濁りきっていた。
「だめ……渚砂さん……! 赦して……!」
 望夏は女の胸の粒を抓る。よく知る勃起とは異質な硬化だった。
「ぁ、はぁんっ…!」
 女の腰が前後に揺れる。彼女の体熱に望夏は蒸される。
「姉さん! 姉さん!」
 渚砂は乳房を揉んだ。そして唾液に照り輝く薄い唇が、彼の異父姉の胸の先を包んだ。
「ああっ……!」
 口では嫌がっているが、女の背筋は弓なりに反り、胸を突き出していた。揉まれるのも、乳頭を吸われるのも自ら乞うている。
「ぁあんっ」
 弟は夢中で乳を吸い、反対の乳に生った実を指の狭間で擦る。
「ゆる、して………ぁあっ」
「乳首の感度いいな」
 望夏は天井を向く女の耳を舐め上げた。シャンプーと汗の匂いに炙られる。彼女の括れた腹を揉む。大した贅肉はないが、自身にはない柔らかな肌で遊んだ。
「おっぱい変になる!」
「"姉ちゃん"はおっぱいでイくんだよ」
 女は首を振る。
「やだ……ッ、や……ッ、やァ……! あああっ!」
 さらに勢いよく首を振り、彼女は悲鳴を上げた。背筋を伸ばし、強張り、望夏に凭れかかる。軈(やが)て弛緩した。乳頭を吸われて絶頂したようだ。
「ぅう……」 
 拙い技巧のためではないのだろう。肉体の感度の問題にも思えた。しかし腕のなかの痙攣は事実である。
「渚砂、偉いなぁ。"姉ちゃん"、おっぱいでイけたってよ」
 兄弟の証ともいえる父譲りの黒髪を撫でる。手櫛は毛並みに逆らう。整えるどころか乱れている。兄に褒められた弟は、姉の乳房から口を放した。薄い唇から粘水が紡がれる。
「も……やめよ、……? いい子だから……ね?」
 弟は油の浮いた眸子に姉を映していたが、彼自身は何を見ていたのか定かでなかった。
「姉さん……セックスしたい。苦しい………苦しい……」
 態度に見合わない筋張った手が、むっちりとしたデニム生地の上を往復する。
「だめ………もうしないの………そういうこと、もうしないの……」
「まぁ、"姉ちゃん"。ここは弟のために人肌脱いでやろうぜ。性教育はちゃんとしとかねぇと」
「姉弟なのに………」
 望夏はジーンズパンツを脱がせにかかる。ホックを外し、ファスナーを下ろし、弟に裾を引かせた。ブラジャーと揃いの藍色ショーツが露わになる。レースが使われ、繊細な編み目に肌の白さが透けている。身体の疼きが許すならば、何時間でも眺めていられる曲線美に、彼は生唾を呑む。靭やかな脚と、太すぎず痩せ過ぎてもいない肉置(ししお)きに目眩がする。湯剥きされた桃のような皮膚には喉の渇きを煽る。弟に抱かせる前に、望夏は自分が先に犯してしまいたくなった。
「考え直して……」
 女は顔を覆ってしまった。蹲(うずくま)り、声を震わせる。
 渚砂は爛々とした眼差しで女の素肌を舐め舐(ねぶ)っていた。
 望夏は頑なに閉じた膝を無理矢理開かせる。そして目を剥いた。内腿に咲く赤い花!
「う……ぅうう……」
「あんた、やっぱ病気なんじゃ……」
 女は顔を覆ったまま首を振る。すべてを否定したがっているようだった。
「姉さん、綺麗だ。綺麗な、お花……」
 乳房だけでは飽き足らず、弟はすでに花の咲いた内腿を吸った。ぽっぱにょん、すっぺょんと音をたてて、赤い痕を増やす。同じ質感の模様が増える。それは発疹ではなく鬱血痕だ。弟が日常的に吸っていたのかもしれない。内腿を吸うまでの関係でありながら、弟のほうは童貞に等しい有様だ。妙な姉弟だ。
「よ……して、よして……っ、!」
「渚砂。あんまり痣だらけにするとキモいだろ」
 夢中で肌を吸う弟の額を指で弾く。
「すまない、姉さん。痛かった?」
 弟は舌を伸ばし、朱色の痕を舐めていく。
「いいぜ。そうしたら、こっちも舐めてやるんだ」
 姉は暴れ、望夏は彼女を膝裏から抱えた。
「ああ、! よして、嫌! 放して!」
「大丈夫。綺麗だよ。綺麗だ」
 女は陰部の匂いや色味、形状を気にしているのだという。反省と共感の生き物なのだ。
 クロッチを捲る。生地の光沢が波打つ。黒絹と女芯が露わになる。水気を帯び、張り詰めている。
「見ないで、見ないで……っ、嫌ッ!」
 女体の複雑な構造を前に、弟は衝撃を受けたようだった。眉と睫毛が持ち上がり、澱んだ瞳に光が差す。
 刺激が強かったのかもしれない。男の単純なグロテスクさと異なる、猟奇的で怪奇な外貌をしている。同じ種族のつらをしているが、その部位に至ってはとても同じ生き物には思えない。この一部を以ってしても、分かり合える存在ではないのだ。
「姉さん……ああ………」
 弟は通った鼻梁を突き出し、陰阜(いんぷ)に絡まる糸屑を嗅いだ。鼻を鳴らし、長い睫毛を伏せ、神経質げな眉は悩ましく寄せられる。
「嗅いじゃイヤ……!」
「いい匂い……姉さんの、いい匂いがする……」
 恍惚の表情を浮かべ、望夏の想定よりも長いこと女の匂いを嗅いでいた。そのうたま女が痛がり、畳に下ろした。
「渚砂、おい。いつまで嗅いでんだ。舐めるんだよ、ここを。セックスしてぇんだろ? いきなり突っ込めねぇの。"姉ちゃん"に痛い思いさせてぇのか?」
 秘裂を左右から割り開く。より具体的に女蕊の形が浮き上がる。
「こんな恥ずかしいこと……、いや……」
「綺麗だ、姉さん……」
「綺麗だってよ」
 弟は異父姉の秘核を唇で挟んだ。
「ん、ひっ!」
 女が望夏に寄りかかる。
「美味しい………姉さん、美味しい………」
 望夏からはよく見えなかった。けれども弟は畳に這いつくばり、異父姉の股ぐらで頻りに頭を動かしている。
「あ、あん……」
 弟の異父姉は喉笛を晒して艶冶(えんや)な声を漏らす。
「クリトリスばかりじゃなく、挿れるところを舐めるんだぞ」
 望夏は自身ごと傾き、弟の口元を誘導する。
「んんあ……」
「姉しゃん、姉ひゃん………」
 水音がする。扇風機が回っていることに気付く。吐息が攫われていく。

6

 壁に凭れさせた女の脚の間に手を伸ばす。指を当てただけで、中へと引き込まれる。触れた肌は冷たいと思ったが、内部は熱かった。張りのある襞が指の細かな凹凸の陰に吸着する。一度抜こうとした。けれども触手然として絡みつく女筒は引き留めようとする。
 望夏(もか)は指に別の器官を重ね、身震いした。食うつもりが食われてしまうだろう。歯の生えていない獰猛な獣が、可憐な身体に宿っている。一度犯してしまえば、犯される。しかし、恐怖であり、高揚である。矜持が反発している。一方で肉体は求めている。
「姉さん……姉さん………セックスさせて……?」
 白痴の妖怪に憑依された弟は四つ這いで距離を詰める。首を傾げ、拒否と否定を続けていた異父姉に媚びた声音を放(ひ)り出す。誰もが羨み、妬み、惹かれても無理のない美貌の持主だというのに、この一面を知れば、皆、我に返り、各々の生活に戻っていくのだろう。
「それだけは……、それだけは赦して………」
 けれども望夏は聞かなかった。弟に、この女と交合(まぐわ)えるよう取り付けてしまった。
「姉さんとセックスしたい。セックスがいい………」
「また、手でしてあげるから……お願い……」
「手でしてやるよ、オレも」
 望夏は手を動かした。恐れが増す。この指が別の部位であったなら、数度の往復で終わってしまうだろう。
「あ……んっ、あ、あ、あ、あっ、」
 女の弱点は分かっている。数は熟してきた。しかしこの弟の異父姉が相手では、弱味を攻めている間にこちらが負ける。強靭な弾力と、微細な蠕動が望夏を煽る。矜持は守れない。けれども圧倒的な快楽が約束されている。
「姉さん……綺麗だ」
 弟は涎を垂らしながら異父姉の鼻の下の泉を啜る。
「ん、………ふ、んっんっんっんんん……!」
 望夏の指が引っ張られる。彼女の体内に吸入されそうだった。負けてはいられない。プレイボーイと名を馳せてきた。庶民では手の届かない美女を、様々な男が籠絡を諦めた女たちを、市井の女たちでは取って代われない花顔柳腰(かがんりゅうよう)を、意のままに抱いてきたはずなのだ。
 期待の味を与えらない下腹部の愚帝が、指の感触を想像し、理性の統治をやめようとしている。
「ああああ!」
 女は弟の口水の流入をとうとう受け入れ、悲鳴を上げた。そして指を締め上げた。もし彼女のそこに牙が生えていたなら、望夏の指は噛み千切られていた。彼は慌てて引き抜いた。粘液を纏った2本の指を凝らす。何本挿れていたのかも忘れていた。
「は………はは。渚砂(なぎさ)。挿れるときはちゃんと慣らせよ。兄ちゃんが慣らしておいてやったから、ほら、ゴ――」
 弟は、姉の肉体を知っていたに違いない。だからこそ、狂えるのだ。骨抜きにされ、病みつきになり、容易く正気を捨てられるのだ。弟は廃人だ。弟は牙も爪も消えた愛玩肉食動物なのだ。飼主の姿を前に歓喜の小便を垂れ流す駄犬と化したのだ。
「赦して……っ、!」
 女は、鰐皮のポーチを開いた望夏の腕に飛びついた。川に溺れた者が、川べりに生えた葦を掴むようだった。
「姉さん……、姉さん………」
 大きく傾いたポーチから銀色の平たい四角形が落ちる。弟は姉を仰向けに転がすと、括れた腰を掴んだ。長い指の狭間に、白い餅が膨れ上がる。
「やめてぇ!」
 けれども女の嘆願は聞き入れられなかった。彼女は串刺しにされてしまった。
 望夏は鰐皮のポーチを支えながら、惨状を前にして嗤った。咳に似ていた。粘膜という粘膜が乾くようだ。
「ああ……姉さん。気持ちいい………柔らかい、熱い………」
 弟は一息に異父姉を貫き、呼吸を整えていた。
「お前、ゴム無しってマジか」
 避妊具無しでの性交など、望夏もやったことがなかった。
「いや………いや………っ、!」
 女は異父弟の異母兄の腕を強く引いた。人の身体の一部を綱か鈴緒だと思っているようだ。
「ヤっちまったんだ。諦めろ」
 女は首を振った。望夏に縋りつき、身を捩る。
「姉さん………きつい。姉さん、綺麗だ。姉さん……姉さんとのセックス、気持ちいい……」
 俯く弟の睫毛が黒い毛虫のようだった。白い肌から汗が滴り落ちる。
「抜いて………、抜いて……、こんなのダメだから………こんなの……」
「姉さん……」
 弟は牝の腰を抱き寄せ、徐ろに腰を動かした。背を丸め、腰を進め、昆虫のような体勢だった。
「こんなの、ダメ……」
 彼女は目を潤ませ、涎を垂らして首を振る。望夏の腕を上ろうとでもしているのか、何度も握り直す。服と皮膚を雑巾よろしく絞られる。
「姉さん………姉さん………姉さんと、セックスしている……!」
 息を切らして弟は腰を揺らした。
「あ……あ、あ、あ、あ……!」
 徐々に速まるピストンに連動して、望夏の腕が圧迫されていく。華奢な外貌から想像もつかない力強さだった。肩から関節が外れてしまうかもしれない。
「姉さん………姉さん………ああ………」
 弟は必死に腰をぶつける。手叩きの音が居間に響く。
「ん……ぁ、もう、抜いて……っ」
「姉さん……姉さん………」
 腰を押さえていた手が女の脇腹を這い、軈(やが)て抱き枕よろしく覆い被さる。引き締まった尻が激しく浮き沈みする。
 弟の異父姉はまだ諦めなかった。望夏の腕の先に救いがあると信じて疑わないようだった。
「あ、んっ、あんっ、あっ」
 活塞(かっそく)に抱擁が伴うと、女の声が変わった。
「姉さん……かわいい………気持ちいい……」
 乾いた音が水気を帯びる。粘着質な響きが混ざっている。
「姉さん、姉さん、姉さん………出したい………出したい、変な汁、出したい……」
 望夏は、肉体の持主すらももう止めることのできない抽送に視線を注いだ。教える必要などない腰遣いだった。牡の本能に刻まれていたのだ。
「あっあっあっ、動くのダメ、あんっ」
 父譲りの床上手なのか、将又(はたまた)、女の感度が研ぎ澄まされているのか。
「出る、」
「抜いて、抜いて………中は嫌だから、お願い………ああう、」
 弟は異父姉の拒否を悦んでいた。腰の振り方に如実に表れていた。
「うぅ、姉さん……!」
 劣情に焼かれた喉では溶けたチョコレートのように甘い声も焦げていた。
「うっ」
 弟は抜けそうなところまで腰を引き、長いストロークで一突きする。
「あああっ、あああんっイく――!」
 望夏から手を放し、毒霧を吹きかけられた虫ころのように身を引き攣らせた。
「姉さん………」
 弟は異父姉のシャツとブラジャーを捲り上げた。乳房の全貌が望夏にも見えた。柔らかな脂肪は左右に分かれ、膨らみを均している。二つの丘の狭間には赤い花が散っていた。弟は何の疑問もなく花畑を吸う。
「もう……、赦して……」
「姉さん……たくさん出た。姉さん…………姉さん。もう1回したい。もう1回。お願い、姉さん……」
 許可を取るつもりなど最初からなかったに違いない。弟は異父姉を貫いたまま、再び腰を動かした。



 両手を合わせる。目を閉じる。
 頭上で鳥が鳴いている。空に波紋を描くように谺(こだま)する。背中には西から南へカーブする国道を轟く走行音が渦巻く。緋冥(ひくらし)祭祀社を包む雑木林が外界を遮断しているようだ。
 涼しさを感じる。
 後ろで小枝が折れる。
「あんた、姉さんのカレシだったのか」
 礁鯉(しょうり)は目蓋を持ち上げた。振り返る。冷えた汗がこめかみを撫でていく。
 交際相手の家に住み着く若い男が佇んでいた。手には握り飯が2つ並んだ皿を持っている。
「おにぎり片手にここまで歩いてきたん?」
 頬を持ち上げる。喉玉を震わせ、語気を解す。
「姉さんから頼まれた」
 互いに質問には答えない。礁鯉は小首を捻って交際相手の家に住み着く若い男を眺めていた。シャワーサンダルに、スウェット生地のズボンを履き、白いシャツを着ている。近所にある"ファッションセンターむらじま"の感じがあったが、服などは生地やブランドではない。形と着こなせる体躯、若しくはそれらを見極められるセンスだ。
「退(ど)いてくれないか」
 冷酷そうな薄い唇が「へ」の字に曲がり、軈(やが)て張り詰めると動きだした。
「カレシの座を?」
 口角を上げる。
「そこに置きたいんだ」
 礁鯉に反して、相手の語気は鋭さを増した。言われとおりに道を譲ると、若い男は社(やしろ)の濡れ縁に皿を置く。すでに置かれた土埃まみれの皿を手に取り、乾いた握飯を持参の袋に放る。
「食べ物ムダにするなって言うくせに、お供え物なんかするの、バカらしいよね」
「命をムダにするな、と学校では教わるが、どうせ死ぬ人間を生み出す行為もまたムダだと思わないか。人間さえ生まれなければ命も食料もムダになることもない」
「お、極論。お利口さんだ?」
「ムダという言葉を使うなら、突き詰めなければ意味がない」
 交際相手の家に住み着く若い男は踵を返す。
「梅(めい)ちゃんは元気?」
「カレシなら自分の目で見ればいいことだ」
「そうだね。会いに行こうかな」
「元気だ。俺と暮らすようになってからますます元気だから心配しなくていい。俺がいて、庭いじりの"兄ちゃん"がいて、毎日楽しいさ、姉さんは」
 礁鯉は指を折って数えて見せる。
「もう1人、いなかった? 河童さんごっこしてた男の子がいたよね」
「……会ったのか」
「会ってないよ。川に浮かんでいたのを見ただけだよ。それに梅ちゃん家に車増えてたし。あの紫色の車、蛙生(あお)ちゃんの新車ってワケでもなさそうだし」
「俺の兄……らしい。多分。姉さんの、弟ってことにもなる……」
 若い男は長い睫毛を伏せた。雪女が男装したなら、そういう姿になるのだろう。しかし雪女と表現するには骨が太く、背丈と筋肉がありすぎる。
「かっこいい弟が2人もいて、美少年の蛙生くんが入り浸ってるなんて、梅ちゃんは羨ましいね」
 若い男の眉に嫌悪が走った。
「あ、そういう意味で言ったんじゃないよ。おでがもし、女の子だったらって意味で言ったんだよ。それにもしおでがゲイだったら、君たちみたいな背が高いばかりの色白で線の細そうなもやしっ子は嫌だな。ちゃんとお肉は食べてるん? お米も食べるんだよ。野菜を食えと世間は言うけれども、お野菜ばっかりはいけない」
「生憎、姉さんの手料理が美味しいからな。少し肥ったくらいだ」
「そう。いいことだね。君が健康なのはいいことだ。だって梅ちゃんの弟さんってことは、おでの義弟(おとうと)みたいなものだからね。お義兄(にい)ちゃんって呼んでいいよ。礁義兄ちゃんって呼んでごらん」
「いいや……多弁(おしゃべり)な兄は1人でいい」
「ふぅん。君のお兄さんはおしゃべりなんだな――ますます、おでは要らないな。ははは」
 頭上で囀っていた鳥が飛び立っていった。木々を見上げた。狭まった空は斑模様の灰色だ。しかし眩しく感じられた。
「姉さんと別れてくれるのか」
「おでが切り出すことじゃないよ。それは梅ちゃんが決めることなんだ。おでが梅ちゃんを切り捨てられるわけないでしょうが。梅ちゃんがおでを切り捨てる理由なんてたくさんあるけれどもね!」
「たとえば?」
「おでがだらしのない男だからだよ。違うな、男じゃないんだよ。女の子でもないんだけど。梅ちゃんの望む男じゃないから。この意味、若い君になら分かるだろ? 栗の花の匂いと桃の匂いを漂わせてる君になら」
 若い男は鼻で嗤った。
「よく分からないが、ひとつ分かったことがある。あんたが予想どおり気持ち悪い男だってことは分かった。姉さんにもその態度(ツラ)を見せれば、すぐにフられるさ。早々にフられてしまえ」
 若い男は境内出入り口近くに生えた水道で汚れた皿を洗った。
 掃き溜めに鶴が何羽も舞い降りたなら、そこはもはや鶴の巣だ。そして鶴もまた、近付けばその頭頂部の気味悪さが露わになる。



 交際相手が、台所に立っていた。午前の用事を済ませ、昼過ぎに寄った。
 梅子(めいこ)は鍋の番をしながら洗い物をしている。
「梅子」
 華奢な身体を腕で包み込むのが好きだった。
「礁ちゃん、おかえりなさい」
 少し元気がないと思った。しかし女性の身体には様々なことがある。礁鯉には知り得ないこともあるのだろう。
「ちゃんと鍵を掛けなきゃ危ないじゃないか」
「礁ちゃんが来るって分かってたから……」
「でも危ないよ。女の子の一人暮らしなんだから――」
 続きそうになった言葉を呑み込んだ。何の欠点もない交際相手との間には、墓石がひとつ横たわっている。否、墓石を抱いた礁鯉には、彼女は不釣り合いだ。今はまだ、切った貼ったの恋人関係で済んでいる。しかし関係に進展があれば、そのときは均衡の差を清算しなければならないだろう。
「大丈夫よ。それより………」
 梅子はゴム手袋を外し、鍋の加熱を止め
ると、礁鯉の胸板に頬を擦り寄せた。匂いを嗅がれている。彼は後悔した。風呂には入っているし、洗濯もしている。だが汗のケアを怠っていた。
「いい匂いがする」
「汗臭いでしょ。汚いよ」
「ううん。礁ちゃんの匂いがする」
 鼻先や唇、彼女の柔らかな頬がシャツ越しに肌を擽る。礁鯉はその感触を逃すため、彼女の髪を手で梳いた。冷たく紗々とした毛並みが、彼の胸をいっぱいにする。
「ねぇ、礁ちゃん」
「何?」
 梅子の抱擁が一際強くなる。心地良い圧迫だった。甘い香りが膨らんでいく。
「今日は、色々あって………口でするわ」
「気にしなくていいよ、そんなこと」
 身体を寄せ合い、細く柔らかな曲線を撫でるだけで、満たされる想いもある。
「こうしてるだけで、おれは十分だよ。身体がつらいなら休んでおいで。あとはおれがやっておくから」
 礁ちゃん、料理苦手でしょ。そう返ってくると思っていた。それでも代わる気でいた。
「でも礁ちゃんのこと、感じたいから」
 彼女は背伸びをした。そして礁鯉の頭を下に向けさせ、唇を吸った。
 孅(かよわ)げな腰を抱き寄せ、場所を入れ替わる。礁鯉はシンクの縁へ寄り掛かり、恋人のリクライニングシートになる。
「礁ちゃんのこと、好き」
「おれも好きだよ……?」
 付き合っているのだ。日々共にいて、すでに知り過ぎたことだ。言わずとも伝わらないことは山ほどあるが、言わずとも伝わることは海ほどある。
 梅子は夢中で礁鯉の唇を吸った。自ら求めることは稀だった。慣れていなかった。技巧が育たずにいる。それがまた彼にはいじらしく思えた。
 シートべルトよろしく恋人を胸に縛り付ける。
「んっ……」
 小さな口を漁り、蜜を奪い取る。片手で彼女の耳に触れた。
「ふ………」
「かわいい」
 下唇同士が弾む。
「礁ちゃん……」
 潤んだ目に見上げられ、礁鯉は彼女の額にも口付ける。
「うん?」
 遅れた返事をした。
「ごめんね」
 梅子の眉間に皺が寄る。眼にさらついた水膜が張る。
「どうしたの、梅ちゃん。なんで謝るの?」
 梅子は首を横に振る。
「……ううん。チュウ、下手っぴだから……」
「なんだ、そんなこと? おれは梅子とチュウしたいんだから」
 梅子の表情が、また歪む。彼女の手は、礁鯉の胸板から腹筋を這い下り、下腹部で止まった。
「わたしも礁ちゃんに、何かしたくて……」
 しかし彼女は礁鯉の前で膝を着くと、ベルトのバックルを外してしまった。
「そんな。おれは梅ちゃんから、いつも幸せ、もらってるのに……」
「そういうことじゃなくて……そういうことじゃないの……」
 梅子は情緒不安定だ。珍しいことだった。
「梅ちゃん……身体つらいなら、休まなきゃ……」
 けれども弱いところを撫でられると、強気ではいられなくなる。小さく薄い掌には、彼女を火傷させてしまいそうなほど煮え滾ったものが当たっている。
「勃ってる」
 布の上から何度も撫で摩り、さらに大きく膨らましてから素肌に剥いた。
「無理してない?」
「うん」
 梅子は腹に付くほど反り返った牡芯の先に接吻する。
「あ……梅ちゃん……」
 毛波に指を挿し入れる。撫でるつもりが指を撫でられている。
「礁ちゃ………、礁ちゃ………」
 礁鯉は手櫛をやめた。太腿に置かれた手に手を重ねる。指を握った。梅子の眇められた目が閉じていく。下唇が肉茎を撫で上げる。先端へ上っていくと、上唇が迎えていた。舌が括れをなぞり、露路を焦らす。
「気持ちいいよ……」
 接した指先が蒸れる。片手が礁鯉の体温の下から抜け出ていった。そして髪を耳に掛ける。
 波動が下腹部から先端に走っていく。健全な腫れ物がさらに腫れた。
「んっ……」
 幼気(いたいけ)な口が開いた。透明に濡れた凶棒が彼女の眼前で跳ねる。
「ご、ごめん。大丈夫?」
「うん……平気」
 彼女はふたたび、膨張を口に入れた。そしてすぐさま喉奥まで咥え、頭を動かした。収まりきらなかった根本には手筒が往復する。
 礁鯉は努めて尻をシンクの淵に貼り付けていた。性衝動に身を委ね、喉を穿ってしまいかねない。
 射精感が高まっていく。けれども腹に力を込めた。恋人の口に出すものではない。
「梅ちゃん、口放して……」
 けれども梅子は従わなかった。舌の動きと手淫が急加速する。   
「放して、梅ちゃん………出ちゃう……」
 内側から堰き止めてはいるが、しかし長くは保ちそうになかった。
 だが梅子はやめなかった。先端に口元を構え、扱いていく。
「――く……、梅ちゃん……!」
 双珠が鼓動をはじめる。腹の奥が脈を打ち、快感が逃げ道を見つけ、迸っていく。包まれた掌の中で微かな伸縮を繰り返し、跳ねている。ゼリーのような形の残っているものが通っていくような感じがあった。
 射出された粘液はすべて恋人の口のなかに落ちていた。彼女は射精の終わりを悟ると、喉を軋ませた。そして牡蕊をもう一度吸った。
「あっ、! 梅ちゃん。吐き出さないと……!」
「大丈夫」
 彼女の物言いははっきりしていた。口に何か入っている様子はなかった。
「………もしかして、飲んだの?」
「うん」
 梅子の手が、下着を戻し、パンツを戻し、ベルトを戻す。
「汚いよ。水を飲もう。お腹壊しちゃうよ」
「礁ちゃんの味がした」
 礁鯉はコップに水を汲もうとしたが、生々しく、卑猥な意味合いを持つ言動に、豊かな喜びを覚えた。堪らず、彼女を抱き締める。
「もう、何言ってるんだ」
「礁ちゃんのこと、好き。ずっと好き。大好きなの。礁ちゃん、本当に好きなの。すごく……」
 恋人はやはり具合が悪いようだった。そしてその具合の悪さが彼女を陰鬱にさせているらしい。
 啜り泣く背中を摩する。
「急に何? おれだってそうだよ。だからこうして一緒にいるんじゃないか」 
 啜り泣きに嗚咽が混ざる。
「わたしのこと放さないでね、絶対……離れててもいいから……捨てないで」
「絶対、放さないし、離れない。捨てるわけない。梅ちゃんが嫌がっても、絶対。おれには梅ちゃんだけだから。約束するよ。梅子だけが好き。ずっと。ずーっとだよ」

 礁鯉は、雨崎(うざき)家晴海方を訪ねた。庭には白い車が停まっていた。車庫には赤い車が1台停まっているのみで、黒と見紛う紫色の車はなかった。
 裏庭で草刈機の高音が聞こえる。彼は裏庭を覗きもせず、玄関に向かった。脇にある室外機の上に肥った橙色の猫が横臥していた。高慢な面構えで品定めしている。
「あすぱら、久し振り」  
 手を伸ばしても逃げはしなかった。匂いが覚えているのだろう。猫の"あすぱら" は再会を懐かしむでもなく、転がって、次に撫でさせるところを用意していた。 
 暫く獣毛を楽しんでから、玄関戸を引いた。鍵が掛かっていないのは、裏庭の彼の出入りがあるためか。
「おかえりなさい。車、決まった?」
 玄関を直進の台所からエプロン姿の女家主が現れた。彼女は礁鯉の姿に凍りつき、笑みを繕った。
「しょ……礁鯉くん。いらっしゃい……」
「お邪魔します」
「お茶を出すから、待ってて……」
 けれども礁鯉は梅子の後を追った。孅(かよわ)げな背中に追いつき、腕を絡める。
「礁鯉くん……」
「もう"礁ちゃん"って呼んでくれないんだ? そう呼んでたの忘れちゃった?」
「礁ちゃん……片蔭(かたかげ)くんのこと、殴っちゃダメよ……」
 久々に会った交際相手にまず言うことは別の男のことだ。礁鯉の腹の底には熱湯が滲み落ちていくようだった。
「ははは。だっておでより、ずっと顔がかっこいいのがムカつくんだもん」
「そんなことをしちゃ、だめ……」
「世界の殆(ほとん)どを殴らなきゃいけないんだね、おでは」
 腕に閉じ込めた恋人の身体は強張っていた。ネコのように喉を鳴らせば解れるのだろうか。
「本当に、ダメ」
 彼女は口では諌めているが、礁鯉に触れた手は戦慄いていた。庭仕事中の男を殴った拳が包まれる。
「痛いのは片蔭くんだけじゃない。礁ちゃんだって、痛いでしょう?」
「ねぇ、梅ちゃん。梅ちゃんも痛い?」
「え……?」
 礁鯉は抱擁を解いた。梅子の肩を掴んで、対峙する。彼女は俯き、大きな目を転がしていた。
「シャワー浴びてくるから、舐めてくれる? 前みたいに。嫌……かな」
「……分かった。でも、そのまま。ここでする」
 梅子は屈んだ。ベルトが外れ、カーゴパンツのボタンがファスナーが降りていく。
 以前は毎日のように受けていた手淫と口淫がはじまる。
 恋人の舌遣いと表情で、肉体の一部は膨れ上がる。けれども大人の男の身体構造に慣れてしまうと、驚きももうなかった。
「梅ちゃん……」
 何故、あの日、彼女が口淫で済まそうとしたのか礁鯉は知ってしまった。
 恋人に頬張られていた牡茎が衰えていく。下腹部に一点集中していた活気が全身へ解散していた。
「あ……」
「梅ちゃんのこと、好きなのにな……」
 好いた女の手の中にありながら、それは硬度を落としながら縮んでいく。
「ごめんね、梅ちゃん。梅ちゃんが悪いんじゃないんだよ。ありがとう。嗽(うがい)をしなきゃ」
 礁鯉は服装を整えると、台所の隣の洗面所に入った。コップに水を汲み、以前と同じところに置かれた嗽薬を垂らす。
「礁ちゃん……」
 覗きに来り恋人にコップを突き出す。
「おうちの人たち帰ってきちゃうね。弟とはいえ、かっこいい顔の人は殴らないといけないもんね。おでは帰るよ。蛙生(あお)くんによろしく」
「どうして……」
「おでは梅ちゃんの傍にいるよ。離れないよ。おではずっと梅ちゃんを見ているんだ。だってそう約束しただろ? おでは梅ちゃんを愛してるんだから、ははは」
 礁鯉は恋人の脇をすり抜けた。三和土(たたき)に並べたサンダルに爪先を突き入れる。すると腰が重くなった。
「ごめんなさい、礁ちゃん。ごめんなさい」
「何を謝ってるの、梅ちゃん」
「傍にいてほしいの。もっと傍に……一緒にいたい……」
 絡まる腕に嘘はない。否、礁鯉に彼女を疑ったことはない。
「一緒に暮らすの?」
 梅子は背中で息を呑む。
「一緒に……」
「弟くんたちは、どうするの?」

7


 弟と車を観に行ったが、望夏(もか)の気に入ったものがなく、決めもせずに帰ってきた。弟は大した興味もなさそうで、乗れて動けば良いようだ。
 帰りに外食に誘ったが、弟は嫌がった。早く異父姉に会いたいと言っていた。
 家に着くと弟の異父姉は居間に座り、呆然としていた。一足先に入っていった弟はそういうところに気が回らないようで、姉にしがみついている。貞潔の身でなくなったとしても、成長のない男というものはいるのだ。成長していないどころか、むしろ退化してはいまいか。
「ただいま、"姉ちゃん"」
 浮腫んだ目が望夏を捉える。彼女は目元を拭った。互いの焦点が合った途端に理性の光が射した。
「おかえりなさい。キーマカレーができてるから、チンして食べて」
「姉さん。姉さん……」
 弟は異父姉が望夏と話したのが赦せないようだった。
「ごはん、食べてね」
 彼女は異父弟を突き離し、立ち上がった。突き離した意識もなかったようだ。目の前の羽虫を払うような然(さ)りげない仕草だった。
「姉さん……」
 弟は畳に尻をつけたまま、上半身だけで追おうとしている。姉のほうは居間を去る。
「やめとけ。女には色々あんだよ、多分。夏なんてただでさえウザかろうに」
 しかし貞潔の身を捨てた青臭い小僧には伝わらないようだ。美貌を台無しにする愚鈍な顔を晒している。彼には自覚がない。或いはそこに価値を見出していなち。
「生理だ、生理。生理だよ。蒸れるんだとよ、特に夏は。ナプキンのCM観てねぇのか」
 弟はぬぼぉ、と黒い目を宙に彷徨(さまよ)わせた。
「そうか」
 彼は立ち上がった。間抜け面に険しさが戻る。
「くどいことするなよ。女がああなっちまったら、男なんぞはハエやカよりもウゼぇんだと。昔、情婦(オンナ)が言ってた」
 弟は台所に向かったようだ。電子レンジの振動が微かに聞こえた。
 望夏は縁側の戸を引いた。菜園に立つ麦わら帽子が振り返った。手招きすると、庭いじりが寄ってきた。
 今は日に焼けているが、元は色白なのだろう。顔が赤らんでいる。片頬に痣があるのは農作業中に転びでもしたのだろうか。
「どうかしましたか」
「"姉ちゃん"と何かあった?」
 目元のようすからして弟の異父姉は泣いていたようだ。この男は留守中に共に家にいた。
「何もないですが、どうしてですか」
 恍(とぼ)けている様子はなかった。むしろその澄んだ双眸と語気には、不安が燃え揺らいでいった。
「梅子さん、何かあったんですか」
 縁側から居間に上がろうとする庭いじりを押し留める。
「いや、いや。オレの気の所為だな。何もねぇなら生理だよ、生理。生理!」
 庭いじりは眉を顰めた。侮蔑を惜しげもなく訴えている。
「あまり大声で言うものではないですよ……」
「またスーツの兄ちゃんたちが来たのかと思った」
 庭いじりの反応を窺う。色素の薄い瞳が望夏を睨む。
「クモリグループのお偉いさん方に会ったんですね」
 絹の手触りを思わせる声がわずかに下がった。
「会った」
「……そうですか」
「"姉ちゃん"から金搾り取ってんだろ?」
「あんな稼ぎのある人が?」
「金なんかあればあるだけいいだろ」
 庭いじりは渋い面構えで首を傾げる。何か知っている。
「違うってのかよ」
「田舎者は他人の踏み込んだところをあれこれ言うのが娯楽ですが、時代が変われば人も変わります」
 庭いじりは踵を返す。
「お前の話は回りくどい。校長先生かよ。つまり田舎モンは都会以上に時代に乗っかってるってか? 嘘 吐(こ)け。それなら河童だの妖怪だの言ってんなって。おっかねぇから言いたくねぇだけだろ」
 示指で庭いじりの眼交(まなか)いを突き刺す。彼は不快を見せる。
「田舎モンめ。女みたいにペラペラ、ペラペラ。紙っペラみたいな連帯感で繋がってる近隣住民と、紙っペラみたいな器の紙っペラみたいな信仰心で、薄(うっす)い人生でも送ってろ」
 人差し指を払い落とされる。
「嫌だな、望夏さん。あなたももう田舎者の仲間入りですよ。ですから、次朗系ラーメンみたいなギトギトした都会の空気のことは少しずつ忘れていってくださいね」
「嫌だね!」
「嫌だと言われましても、そうでしょうが」
  庭いじりはもう望夏に構うことはなかった。生い茂った緑に消えていく。
 扇風機に嗤われている。



 望夏は梅酒を注いだ。他に酒はない。買いに行くのも面倒臭くなっていた。炭酸水で割っているところに、弟の異父姉がやってきた。具合が悪いようで、夕食は望夏が買ってきたのだった。
「夕食を作れてなくてごめんなさい」
 目元の浮腫は解消されていたが、全体的に窶れて見えた。肌は毳(けば)立っている。
「いや、別に。食えたのかよ?」
「うん」
「酒でも飲もうぜ」
 彼女は首を振った。
「何かあるといけないから……」
「何かって?」
「分からないけれど、もし誰かが熱中症とかになったら、病院に送らないとでしょう?」
「ンなもん救急車の仕事だわさ。何のためにバカ高い税金納めてると思ってんだよ。いや、納めてた、か」
 彼女は俯いてしまった。
 居間に運んでから飲もうと思っていた梅酒を、彼は一口飲んでしまった。
「飲もうぜ。いざとなりゃ渚砂(なぎさ)にやらせりゃいい。ペーパーだが腕は悪くねぇと思うんよ。
「でも……」
「飲もうぜ」
 望夏は面倒臭くなった。弟の異父姉に近寄り、肩を抱く。彼女は身を縮めた。揺れる胸を見下ろす。柔らかな肌だった。姉弟の交合いが甦る。惨めな夜を過ごした! 
 あの後、悶々とする肉体を解放しなければならなかったのだ。
「お酌してくれよ〜。渚砂はあんたの弟でもあって、あんたの弟の世話してんだぜ〜、オレは。ああ、オレってやつは、なんて孝行者なんだ」
 グラスをひとつ取り、梅酒を注ぐ。望夏の経験則からして、女は甘いものが好きなのだ。炭酸水ではなく、"六ツ弓ソーダ"で割った。強炭酸の砂糖水で、氷を入れて飲むつもりでいた。
「ほら、飲め」
「……ありがとうございます」
 弟の異父姉はグラスを受け取った。居間へ移動する。扇風機を点け、テレビを点ける。だが音量を下げた。
 弟の異父姉は自宅だというのに正座し、肩は張って、グラスに絡む指には落ち着きがない。これから面接でもあるかのようだ。
「庭いじりの意地悪にいちゃん、痣あったな」
 雑談のつもりが、彼女には打撃を与えたようだった。
「"姉ちゃん"が殴ったんけ」
 梅子の眉間に皺が寄る。間があってから、首を振る。
「じゃあカノジョにでもフられたんだな」
 しかし望夏の見立てでは、あの庭いじりの男に交際相手はいない。望夏の経験則からいえば、女というものはスリルを求めてしまうものなのだ。いくら見目が麗しかろうと、そのようなものは数日もあれば見慣れる。女というものはよく気が付く。数日後には肌荒れや浮腫みが気に掛かるのだ。
「うん……きっと、そうだと思います」
「いや、あいつに恋人(オンナ)はいないと見た。女はオカルトヲタクの男なんざ好まないね。しかもイイコチャンっぽくてつまらなそうだ」
「……そうですかね。モテると思いますよ。優しいですから」
 望夏は梅酒を呷ると舌を鳴らした。指を振る。
「チッチッチ。優しいから〜でモテるのは小学3年生までだぜ。女っつーのは、優しい男が好きだなんて、そんな清純にはできてねぇだろ」
「……そうですね」
「清純じゃねぇんだ、あんた」
 彼女は梅酒の液面を凝らしていた。その目は澱んで見えた。
「昼、なんで泣いてた?」
「泣いてませんけれど……」
「いや、泣いてたね。オレ様には分かる」
 素直な女だった。駆け引きをするという選択も浮かばないようである。そして望夏の存在もはっきりと認めていないのだ。自身の世界に閉じ籠もり、迷路を彷徨っている。現実という新たな解決方法を最初から捨てている。現実逃避などするために迷うのだ。妄想から逃避すべきなのだ。
 望夏は横目で俯く女を眺めていた。迷える人間を肴に飲む酒は美味い。
「弟が死んだのは、わたしの所為かもしれないんです」
「渚砂、死んだのけ」
 望夏は面食らった。確かに、いつもならば四六時中、異父姉に纏わりついている弟の姿が見えない。グラスを置き、部屋を覗きに行こうとした。
「渚砂さんではなくて……」
「あ、」
 ハイブランドのスーツの2組が思い起こされた。弟の異父姉の異父弟とか言っていた故人の異母兄弟だったはずだ。けれども虚空に描像した家系図は曖昧だった。
「河童に召されたやつか。あのな、あんたがやるべきは、なんで死んだ、誰が殺したコックローチって探ることじゃねぇのよ。夏場に水辺に行くやつは自業自得、最悪、人殺しだと、そう啓蒙することなんだよな。分かるか、啓蒙って。毛深いことじゃねぇぞ。女の共感脳はこれだからいけねぇよ」
「そうですね」
 望夏は梅酒を流し込む。
「酒が足らねぇんだよ。飲めよ。蒸発しちまうだろうが」
「はい……」
 彼女はグラスに口をつけた。まるで湯呑で熱い茶を飲むかのような所作だった。望夏は見惚れてしまった。軋む喉に噛み付いてみたくなる。
「で、あんたがめだかくんだかかもめくんだかを突き落としたっ?」
「そうではないんですけれど……」
「じゃあ殺しちまったってなんだよ」
 望夏の脳裏には、庭いじりの胡散臭い痣面が稲光と共に露わになる。
「あのオカルトヲタクのせいかよ。冬にはキツネ鍋、夏には河童そば、秋には栗まんじゅう、春には芋焼酎とか言ってたもんな……オカルトヲタクって周り巻き込むから極悪人だぜ……」
「望夏さんには、嗤われてしまうかもしれないんですけれど……」
「おう、なんだ。嗤ってやるよ、バカじゃねぇのかってな」
 彼女は苦笑を見せた。
「一度、あの子を疎んだことがあるんです」
「だから死んだって?」
 彼女は頷いた。躊躇いがあったのは、嘲笑を恐れたのか。
「あんた、魔女かなんか?」
「意外と、そうなのかもしれませんね」
「かもめくんが邪魔だと思ったから、めだかくんが死んだって? 女はすぐスピる。占いだ、風水だ、霊感だ。しまいには魔女かよ」
 彼女は梅酒を一口飲んだ。
「ばからしい話だとは思っているんです。でも……」
「でもももももものうち。でももすもももねぇよ。関係ナシ。あんたは魔女じゃない。凡人(パンピ)だよ」
 望夏は項を掻いた。陰鬱な女は苦手だ。闊達で溌剌とした女でなければ付き合い甲斐がない。
「酒飲んで忘れちまえ。おら、酒持ってきてやるよ」
 望夏は台所に隠された梅酒の広口瓶を持ってくると、玉杓子で原液を掬う。弟の異父姉のグラスに注ぐ。
「そんなに飲めません……」
「飲め、飲め。飲まないからメンヘラになんかなるんだよ。酒は福祉だぞ? 酒こそ万物を救うんだよ。神だって飲んでるだろうが! 神? 神だと? あのオカルトヲタクの所為だ! 何が神だ。神だって大酒飲みだろうが。凡俗じゃねぇか! 気違い水をありがたかって飲んで、神様仏様夏はSummerってか!」
 梅酒をまた呷る。そして相手を急かす。苦笑しながらも弟の異父姉もグラスに口をつけた。
「わたしのご先祖様……神様にお酒を渡さなかったんです」
「そら、いいことだ。そら、善行だよ。気違い水をばかすかばかすかくれちまうから、地球は年々暑くなってんだろ。地震が起きて、津波が来て、火山が噴火する。気違い水なんぞを、くれちまうからだろうが!」
 望夏は叫んだ。
「でも、だから……」
「だからかもめくんが死んだって?」
「そうは思っていませんけれど……」
「自分が邪魔臭く思った所為でめだかくんが死んだと思って泣いてたワケか? アホくせぇ。それならもっと消してほしい奴等いるんだけど、消してくんね?」
 彼女は無理矢理に口角を上げている。
「そうやって笑うとブスだな、あんた。渚砂が見たらインポになっちまうよ」
 作り笑いは忽(たちま)ち萎れていく。
「付き合ってる人も、そうなのかな……」
「ハァ?」
 恍けた顔と目が合う。
「カレシいんの?」
「自然消滅しそうだけれど、いるんです」
「弟と渚砂とヤっちまってるのに?」
 彼女は目を逸らした。悲痛な面持ちである。
「よしてください……」
 女の肉体の感じやすさに疑問があった。弟の技巧ではなかろう。だが、今、解決した。交際相手に愛でられた身体が、おそらく放置され、欲求の膿を出せず腫れに腫れていたのだろう。
「渚砂にレイプされました、は通用しねぇからな。あんたもイってたんだし」
 肌の感受性を研ぎ澄まされるほど抱かれた恋人がいるというのに、その恋人ではない男に圧(の)し掛かられ、腰を突き入れられ、牡棒に嬌声を上げていた。端麗な外貌の持主といえども、人間には越えてはならない一線がある。人間には倫理と道徳というものがあるはずだ。しかしこの女は弟を相手に、恋人がいる身でありながら強姦で絶頂した。
「よして……」
 一匹の牝だ。
「まぁ、浮気しちまったなら1人も2人も変わんねぇか。オレともヤっちまうか」
 彼女はまたもや笑みを貼り付ける。
「嫌な冗談……」
「冗談じゃねぇよ。本気だって。カレシ持ちって聞いて余計、手、出したくなってきたわ」
 望夏は四つ這いになって弟の想い人に詰め寄った。彼女は腰だけ置いて、上体を逃がす。
「なんで逃げんだ」
 小さな肩を掴んだ。女の顔は酔いのためか青褪めている。
「あ………あのね。知ってると思うんだけれど………」
 彼女は早口だった。
「ああ、知ってる。あんたにはカレシがいるんだろ。だからなんだ? 自然消滅しそうなんだろ? オレが完全消滅させてやるよ。あんたみたいな淫乱(カラダ)には、オレが必要なんだと思うぜ」
 望夏は広口瓶から梅酒の原液を掬うと、玉杓子から啜った。そして弟の異父姉の唇を塞いだ。彼女は頑として口を引き結ぶこともできたであろうに鈍臭いのだった。驚きのあまり口を開いてしまったのだった。梅と氷砂糖の溶けたリキュールが望夏の口から女の口へ移る。
 彼女は抵抗したが、膂力(りょりょく)の差は明白だった。酒を飲ませるついでに、口腔を嬲った。
「も………か、くん………」
 獲物の力が抜けていくのが分かった。望夏は酒臭い接吻を解く。夜の水溜りを思わせる目が、望夏の動きについていけずに、天井に留められたままだった。芯をなくした躯体は畳へと崩れ落ちていく。
 縄も手枷も用いずに、女を拘束したようなものだった。
「望夏くん……、わたしたちだって、……」
 弟の異父姉は腕で顔を覆った。
「静かにしとけよ。渚砂が起きちまう。頭痛ぇって言ってたろ。起こしたら可哀想だ」
 望夏は女体の服を捲った。キャミソールは蒸れて肌に張り付いている。捲り上げる。くすんだピンク色のブラジャーが見えた。媚びたところのない、落ち着いた色味が青みを帯びた血色によく似合っている。レースを携えたカップに、乳房が液体よろしく詰まっている。
 望夏は口笛を吹いた。
「裸にしないで……」
 彼女は緩慢な動作で胸を隠した。間延びした喋り方には隙がある。相手を強者と認めた眼差しだった。崇めているようでもある。
「あのキスマーク、見せろよ」
 細腕を引っ手繰るのは容易だった。左右の膨らみが作る谷間にはまだ赤い斑点が残っている。このひとつ、ひとつに挑発されている気分だった。
「望夏くんとは、変なこと、できないよ。望夏くんとは、変なことできないの……」
「渚砂とセックスしといてそりゃないぜ」
 草臥れたロングワンピースを捲る。部屋着だ。彼女が寝間着ではないことに気付く。まだ風呂には入っていない。
「汚いから……」
 望夏はブラジャーと同じ色味のショーツを覗いていた。月経の様子はなかった。桃を彷彿とさせる淡い香りが汗に閉じ込められ、洗剤の匂いに乗って、鼻をくすぐる。
 シャワー後の女しか抱けないつもりでいた。けれども田舎の暮らしが彼の感性を変えていったのかもしれなかった。
「案外、いいかもな」
「わたしにはカレシがいて、望夏くんとは姉弟だから……」
 弟の異父姉は背中を畳に預けていた。四肢を投げ出している。
「姉弟なのは渚砂だろ。酔っ払ってんのか」
 彼女は瞬きをするのも気怠そうだった。油分を含んだような眸子が焦点を合わせようとしてはいるが、虚空に散漫していく。
「望夏くんとも、姉弟なの。涼歌(りよか)さんは、わたしのお父さん……」
「そんな嘘吐いまで、オレとヤりたくねぇってワケ? カレシに悪ぃから? 渚砂とはセックスしたクセに?」
「本当よ。本当なの……わたしも涼歌さんの……」
「おいおい、よせよせ。オレは弟がいるとしか聞いてねぇぜ」
 弟の異父姉の眉が下がる。下唇を噛み、澱んだ眼の外側から照っている。
「わたしがお母さんに付いていったから……?」
 彼女の表情が滲みはじめた。鼻を鳴らしている。
「わたしがお母さんに付いていったこと、怒ってるんだ……」
 投げ出した腕を引き寄せる所作は重げだった。声が震えていた。
「弟はどうするのって、……言われたの」
 鼻を啜り、彼女は目元を赤らめた。
 望夏のなかに燃え上がった義務感が焼け焦げ、灰と化していく。
「お母さんが死んじゃったとき、お父さんと行きたかったのに……お父さんと、都会に行きたかった。。大学、行きたかった。わたし多分、全然、あの子に悪いって思ってない」
 ぎこちない手付きで顔を覆い、彼女は本格的に泣き出した。
 望夏は嗚咽する異母姉を凝らしていた。アルコールが思考を拒絶する。女の子が泣いているということしか感じさせてくれなかった。
「礁(しょう)ちゃんにも弟どうするのって言われて、そんなのわたしにも分かんないよ……」
 彼女は叫んだ。震えていた。アルコールの匂いが彼女を包んでいる。
 おそらくは"礁ちゃん"が交際相手なのだろう。庭いじりの名前ではなかったように思う。
 目の前で泣く女は多い。別れたくない。他の女のところに行かないで。仕事を辞めて結婚してほしい。理由は様々。
 泣く女は嫌いだ。身勝手で利己的で保身的な理由でなければ、女は泣きもせず怒りもしないのだ。
「ねぇ、お姉ちゃん、おうち出ていっていい……?」
 彼女は浮腫んだ目元を拭う。
「今度は死なせないから……」
 腫れぼったくなった目蓋が降り、睫毛が光る。
「行くアテあんのかよ」
 自己中心的な女の醜い有様は、酔いすらも冷ました。
「礁ちゃんと一緒に……」
 一度落ち着いた彼女の目から、止め処なく涙が溢れ出している。
「あの子殺したお金で礁ちゃんと暮らすの、礁ちゃん赦してくれないよ……」
 殺人稼業でもしているかのような口振りだ。
「殺した金? そんなのあんのか」
 世話をさせるのは好きだが、酔っ払いの世話は嫌いだった。望夏の身体は、自室にしてしまった西側の部屋を向いていた。けれども家主をこのまま転がしておくわけにもいかないような気がしていた。
「あの子のお兄さんたちがお金くれるの……家族だって名乗り出ないでって……お金くれて、わたしのことオモチャにするの……」
「ハァ?」
 アルコールは身体を蝕む。あらゆるメディアが、医者がそれを説こうとも、十分に承知していようとも、楽しいから飲むのだ。健康を害してまで得たい高揚感があるから飲むのだ。だというのに、酒の唯一無二の利点が消え去った。何の旨みもなしに毒液を摂取している。
「オモチャにするって、セックスしてんの?」
「うん……」
 望夏は頭を掻いた。
「カレシいんのに?」
「うん……」
「渚砂ともセックスしてんのに?」
「うん……」
 望夏は溜息を吐いた。否、酔っ払いは話の流れを問わず、空返事を繰り返しているだけなのかもしれない。
「オレともセックスしろよ」
 赤らんだ目元が歪み、酔っ払いは徐ろに頭を擡(もた)げた。
「うん………」
 そして身体は弛緩し、彼女の頭は畳に転がる。広がった黒髪に、白波が走った。
 望夏は遺骸のようになった躯体を見下ろす。姉だと告げられたが、本能は姉と認めていなかった。本能は牝だと認識している。番(つが)う可能性のある雌の個体だと訴えている。血縁者だと、身体のどこも彼女を認めてはいない。
「ヤっちまってからだな」
 鳴りを潜めていた酩酊感が彼女の髪を駆けていった光沢よろしく望夏の全身を突き抜けていった。
 弟に言ったことは忘れ、彼は果物の皮を剥く要領で布を取り払っていく。女は抵抗もしなくなったが、協力もしなかった。蝋人形然として、四肢を投げ出し、油膜を張った眼で天井を凝らしていた。
 無反応な女を抱く趣味はないつもりでいた。けれども無反応な女を相手にしてこなかっただけのことだったのだ。牡の本能が、種蒔き男の遺伝が、女ならば反応の有無にかかわらず、種を植える機会を逃すまいとしている。姉だと女は言い張るが、自然の危機感は働かない。むしろ見た目が嗜好に沿っているために、危機感どころか好奇心ばかりが先走っている。
 靭(しな)やかな脚から擦り切れたワンピースを引き抜いた。ダスティピンクのショーツを、荒くれた眼光で嘗め回す。レースに覆われた小さい骨盤が括れた腹回りを強調する。丸みを帯びた曲線は、時間を忘れて眺めてしまう。
 柔肌に手を伸ばしたとき、視界の横に違和感を覚えた。ふと、そちらを向いてしまった。縁側と、掃き出しのガラス戸がある。居間を映しているが、外の菜園も薄らと透けていた。
 反射か、野生動物だろう。ジビエへの憧れは捨てきれていないが、今はすでに獲物を捕まえている。これから食べなければならない。
 腿に触れた。滑らかな皮膚を撫で回す。細いが肉感はある。膝で括れ、細すぎない、孅(かよわ)さと田舎に住まう逞しさを併せ持った脹脛が伸びている。彼女は小さい印象はなかったが、長身でもないようだった。小さな頭と華奢な躯体、引き締まった胴と長い下肢のために背が高く見えるようなのだ。
「もう大きいんだから………一人でできるよね――……」
 寝言と聞き紛う呂律の回らなさだった。睡眠を邪魔され怒っているようだ。
「――ちゃん」
 子供のうちに死んだ弟と同一視されている。子供扱いされている。弟のセックスの相手をしているのも、おそらくは児戯としか認識していないのではないか。彼女の感度では、弟に遊ばれているようで弟で遊んでいる。姉弟間で異様な関係だが、恋愛感情さえ差し引けば姉弟間であるがゆえに或いは勘定外として扱える。
 弟は美貌が付属した張型に過ぎないのだ。彼女のなかには自然消滅しそうな交際相手と、亡弟の異父兄弟たちとの肉体交渉しか取るに足らないことなのだ。

試作【TL】夏の日のサマーデイ

試作【TL】夏の日のサマーデイ

父方の実家に身を寄せた先にいる"親戚の"年上女性とドキドキ☆同居生活。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2025-06-01

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