
百合の君(59)
蝶姫は廊下で珊瑚とすれ違った。その赤い瞳を見た時、どうして昨夜、浪親が木怒山の文をあんなにも簡単に信じたのか分かった。この子の父親は、私の夫(喜林義郎)だ。
蝶姫は着替えて珊瑚の部屋に行った。人形や千代紙に囲まれたその姿は、武家の男子というより公家の女子だった。蝶姫はこれから対決する子供の繊細さを感じ、努めて優しく声をかけた。
「珊瑚様、わたくしも一緒に遊んでいただけませんか?」
その流れる川のように冷たいが澄んだ声と金箔をまぶしたように輝く瞳は、珊瑚の心を捉えた。それに、珊瑚はその言い方が気に入った。今まで「一緒に遊んで差し上げましょう」という大人はいたが、「遊んでいただけませんか」と言う大人はいなかった。
守隆さえも一瞥したまま、見とれてしまっている。
「わたくしは他国から来た者ゆえ、友がいないのです」
竹が割れたような音がした。美しく、孤独でどこか高慢さを感じさせる。かぐや姫だ、と珊瑚は思った。かぐや姫が、来てくれたのだ。
珊瑚は守隆には決してやらせなかったかぐや姫の役を、蝶姫にはやらせた。
『これをわたくしだとおもって、とっておいてくださいまし』
一緒に遊んで間もなく、蝶姫は、夫には一目で感じた嫌悪を珊瑚に感じなかった理由が分かった。その目の色こそは実父(喜林義郎)のそれと同じだが、控えめな所作や真剣に言葉を選んでいる時の顔などは、養父(出海浪親)とそっくりだ。蝶姫は、昨夜の浪親の肌の感触を思い出し、そして、珊瑚の運命に同情した。
いつまで経っても、珊瑚は人形遊びに飽きなかった。蝶姫は、その集中力に驚いた。出海の跡取りは阿呆だと聞いたことがあるが、それを吹聴している者は、実際に珊瑚と会ったことがないか、己が阿呆かのどちらかだろう。愛情が不足しているせいか自信に欠けるが、それさえ手に入れれば、己の運命を克服し、天下を統べる男になるかもしれない。
それに、その女子のような顔が蝶姫の気に入った。
先に疲れた蝶姫は、いつの間にか珊瑚や、人形や、周りの小物をぼんやりと見ていた。長く伸びた影は、その輪郭を失いかけていた。宿に向かう鳥たちの声が聞こえる。
「このにんぎょうは、ははうえがおいていってくださったのです」
台詞を間違えたのかと思った蝶姫は戸惑ったが、真っすぐ向けられる珊瑚の瞳は、人形劇をしているのではなかった。
「え、ああ、そうだったのですか、どうりで大切にしてらっしゃると思いました」
「あなたは、かぐや姫ですか」
「いえ、違いますよ、蝶と申します」
「そうですか」しかし、珊瑚はさほど残念そうにも見えなかった。「蝶様、また明日も遊んでくださいますか?」
蝶姫は上衣を脱いで珊瑚に掛けた。
「もちろんでございます、これからはわたくしを母と思ってくださいまし」
珊瑚は薄く笑った。その笑みは控え目だったが、心からほっとしているらしいのが見て取れた。これほど複雑な環境で育ち、今後より困難な立場になるであろう少年が、これほど素直な心を持っているというのが、幸福な事なのかどうか、蝶姫には判断しかねた。
守隆は翁の人形を持ったまま、すっかり眠ってしまっている。
百合の君(59)