
琥珀の茸
琥珀の茸
琥珀展に行った。彼女にプレゼントするつもりで、ブローチだとかネックレスを探すつもりだ。行く前に琥珀について少しばかり調べた。何しろ宝石には縁のない生活をしている。琥珀を選んだのもきらきらするほかの宝石より手が届く値段のものが多かったからだ。
琥珀(アンバー)は宝石の仲間だが鉱物ではなく、植物の樹脂が土に埋もれ長い時間をかけて化学変化した化石のようなものであることは知っていた。樹脂という言葉が頭に残っていて、プラスチックに似ていると気になっていたことから、だまされないように調べておく必要性を感じたからだ。
日本でもとれるがポーランドのグダニスク地方、ロシアのカリニングラードなどの有名なところではたくさん産出し、特にポーランドはすごいらしい。日本では岩手の久慈から白亜紀(9000年前)の古い琥珀が有名だそうだが、日本産は希少性から値が張るから買うのは無理だろう。
面白いことがのっていた。中国では虎が死んで石になったと考えられ琥珀と名付けられたということだ。琥珀の琥は虎の玉(ぎょく)、虎の宝石で、色や模様などからその漢字が使われたのだろう。もう一つの珀は大事な存在を意味するという。古い日本では琥珀のことを赤玉と言ったらしいが、日本の「赤」という範囲は黄赤色から赤褐色まで幅広く、瑪瑙も琥珀も赤玉といったとあった。
さらにネットを探ると、琥珀は海岸にうちあげられることから、西洋では海に沈む太陽のかけらだとか、人魚の泪などといわれたそうである。琥珀の科学分析結果などより、そういった話のほうがずっと興味がわくし琥珀を好きになっていく。
もっとも科学による琥珀の解析から、それがいつの時代に作られたかわかるわけで、夢が広がる。科学者の努力と執念には敬意をはらうべきなのだろう。人間の行動は表面的なこと、人々の口に上ることに影響されてしまう。それは楽しいことでもあるが、他の人の言っていることに簡単に同調していく人間の性質を考えると、ことばは怖いものでもある。
ともあれ、琥珀を一つ選ぶのに、自分のようにどうやら生活できている程度の人間には、せいぜい本物か作り物かだけにこだわるぐらいしかできないかもしれない。
あった。本物の琥珀は濃い食塩水の中に入れると浮くが、プラスチック製は沈むとある。としても、その場で調べることはできない。ルーペで見る方法が書いてあった。本物は空気の入っていた跡だとか小さな亀裂などがあるそうだが、プラスチックは均一だそうだ。見てわかるだろうか。そのほかナイフでちょっと削ったり、熱したりする方法もあるようだが傷をつけることになる。正直な店を見つけ、それなりの対価を払うしか、本物を買う方法はないなという結論になった。
日曜日琥珀展にでかけた。若いカップルの姿もあったが、多くが我々を産んだ世代だとおぼしきおばさんが多い。そうでなければ、余裕がある顔をした、経験豊かそうなオフィスレディーのような女性たちである。男は少ない。
人にばかり眼がいってしまうのは劣等感のかたまりだからだろう。
いろいろな琥珀専門店が軒を並べている。まずはざっとみてみよう。店員さんに説明を聞いている人の脇で琥珀を見る振りをして話を盗み聞きする。
「ご自分のものをえらんでいらっしゃるのですか」
見入っている若い女性に店員が声をかけてる。
「ええ、ルビーとかサファイヤーが好きなんです、琥珀にはあまり興味がなかったんだけど、友達がとてもきれいなブローチをしていたので、見てみようと言う気になったの」
「そうですか、あなたのようにしっかりした綺麗な方には、大きめの琥珀のブローチも落ち着いていてすてきですけど、ダイナミックに大玉のネックレスなども洋服に合わせると目を引きます」
大柄な女性へのうまい言い方だと思いながら、店員が指差しているネックレスを見た。大きな琥珀の玉が中くらいの数珠玉の下についているネックレスの値段をみた。50万とある。とんでもない、その十分の一のものだっておいそれと買えねえよ。
そう思ってみていると、
「これなんかきれいかなと思ったんだけど」
その若い女性が店員に泪の滴型のネックレスを指差している。
「お目がたかいですね、そうですね、それは虫入りで、虫の形もいい状態のものです」
蟻のようだ。ありんこが胸のあたりにのぼってきたら大騒ぎするだろうに、死体をぶらさげてみせびらかすのか。
「おもしろいわね、いただこうかな」
「銀の枠もいい職人の作品です、ポーランドのものです」
値段をみたら15万もしている。
次のブースに行った。
男性の客が陳列されている琥珀をながめている。化石琥珀の店だ。切り出されたままのような形の琥珀がプラスチックの箱に入っており、取れた場所、出てきた地層の年代が書かれている。虫や植物の葉のきれはしなどがはいっている琥珀ばかりである。石マニア向けの店だ。本当はこういったもののほうが自分の好みなのだが。
「珍しいのがはいりました」
初老の店員が手元の箱から小函をとりだしその男に手渡した。常連のようだ。
「なんだかよくわからないけど、なかのものなに」
「茸のかけらです、鑑定書もついています」
「ほう、でも、茸の形していないとな」
「ええ、丸ごとなどはなかなか無理ですが、かけらが入っているのもとても珍しいもので、研究者には貴重なものでして」
「うん、それはわかるよ、柔らかい茸は石の化石にはならないから、古代の茸を研究するとなると地層に混じった胞子ぐらいだものね」
「いや、よくご存じですね、やっぱりいつもの虫入りをお探しですか」
「うん、アリや蚊の仲間なんかはかなりもってるけど、ほかのがいいな」
「いいのがあるんです」
「なに」
客の男は眼がかがやいている。早く見たいのだ。コレクターというのはこういうものなのだろう。
「団子虫の丸まっているのがあるんです」
店員は手元の箱から取り出した小箱を客に渡すと、客は眼を近づけて、何もいわずに固まった。
ふっと顔を上げて、「高そうだなあ」とつぶやいた。
「はい、三十万です」
男はやっぱりそのくらいかという顔をした。
「一割お負けして、月賦でかまいませんが」
男はちょっと考えて、「もう少し引いてくれたら、月賦じゃなくてほしいな」
「二十七万までなら」と店員がいい終わらないうちに、男はうなずいて、カードを財布から取り出していた。
コレクターを目の当たりに見て、違う世界だと次の店に行った。
若い女の子のグループがのぞき込んでいる。小さなイヤリングやブローチがつるしてある。若い子向けの琥珀の店だ。
通り過ぎた。客がいない店があった。ふつうの琥珀がおいてあるといった雰囲気だ。こういったところが自分にはあっている。並んでいる品物をみた。値段も1万から五万、高いのでも15万ほどだ。
琥珀の模様は様々で、値段は模様の出方にもよるが、産地と周りの細工によってきまってくるようだ。有名な細工師がつくったものでなくていい。しかしきれいに見えなければ。そう思いながら眺めていると、女性の店員が、
「どのようなタイプのものをおさがしですか」
ときいてきた。ちょっとこまったが、「本物ならば」と答えると、「焼きなどがいれてないものですね、うちのものはほとんどそうですが、だけど、そういった操作はむしろ値打ちを上げることになりますから、気になさらないでいいとおもいますよ」
と説明してくれた。
模様の少ないものは以外と高いが、いくつか安いものがあった。5万ほどのペンダントだ。それでも高いほうだ。彼女は本物志向だから、このくらいのものは買わないと。
「これきれいだけど、やすいですね」
「はい、正真正銘のポーランドでとれたいいものですけど、見た目にはあまりわからないのですが」
店員が、それを手にとって、ペンライトでうしろからてらした。
そのままではわからないが、通過した光がすこしばかりちらばっているように見える。
「おわかりになったようですね、見た目にはわからないほどの濁りがあるのです、粉のようなものが含まれています、それでお安くなっています、濁りがなければ倍の値段です、お買いどくではあります」
「いつごろのものでしょうか」
「けっこう古いんです、白亜紀ですね、日本からはそのくらい古いものがでるのですが、ポーランドではめずらしいですね、もう少し新しいものが多いのです。細工もよくて、何よりも胸の前につるすと映えます。銀ではなくて白金です。銀より暖かくいい光です」
彼女の言ってることは正しい。それをもらうことにした。
出版社につとめている彼女とは、学生時代からのつきあいなのでもう十年になる、仕事に熱が入っていて、とても家庭に縛り付けるような人ではない。自分もマイナーなオーディオ開発会社の技師で、手作りのようなステレオアンプを設計しており、安給料で日々忙しい思いをしている。それでも自分の設計でよい音のでるものを考えつき、その通りのものができたときの喜びはひとしおだ。だが、制作コストがかかるので販売値は高く、受注生産で、たくさん売れるわけではない。
週末も忙しいか彼女とあえるのは、彼女から連絡があったときで、月にせいぜい二度ほどである。しかしお互いそういう生活には慣れた。そのときには彼女の住まいか、自宅でワインをあける。
今年はおたがい30になり、彼女の誕生日にわたすつもりの琥珀のペンダントだ。
その日はジョージアのワインとパンを買って彼女のマンションに行った。
「今日は、シチューをつくっておいた、それとサラダだけよ」
彼女はめったに料理をしないが、するときは手早くて味はいい。
「今誰のやってるんだ」
担当の作家の名前をきいたのだ。
「角山めのめ」
「きいたことないな」
「ちょっとおもしろいのよ、たのしみよ、英詩も書くし」
「詩人なのか、でも小説なのだろ」
「うん、不思議の世界のね」
「そうか、誕生日おめでとう」
ポケットから琥珀のネックレスをだした。
「なに」
彼女は箱を開いて、「あら、きれいな落ち着いたネックレス、本物の琥珀ね、あなた無理したわね」
彼女は大げさなジェスチャーはしないが、眼は気に入ったといっている。
つけると白い肌にあう。
その夜、彼女はベッドでも琥珀のペンダントをつけたままだった。
それから1週間ほどたったある日、彼女からちょっと驚くメイルがはいった。写真が貼付されている。
彼女の木製のベッドの木枠から、橙色の傘を持ったかわいらしい茸が一つはえていた。部屋の中で茸が生えるとはあまり聞いたことがない。彼女のマンションの空調はしっかりしたもので、湿度だって50%前後に保たれている。
きれいな茸がでてきたから写真撮った。とあった。
茸は食べる茸しか知らないから名前などはわからない。
「なんていう茸なんだい」
「わかんない、いい匂いがするのよ、名前を調べたけどのってなかった」
「自分でつけたら」
「うん、もらった琥珀をベッドの脇にかけておいたのよ、その近くからはえてきたから、琥珀茸にした」
それからお互い忙しくなったこともあり、メイルのやりとりはしていたが、会う時間がとれなかった。
メイルには時として、「また茸が生えたの」と写真が添えられていたが、いつも同じ形の茸で、色は黄色や橙色でまるで琥珀のようだ。
ある日曜日の朝、茸を食べてみた。というメイルが入っていた。担当していた本の校了日まじかになり、そういうときは日曜日も会社に行って仕事をしている。大変と言うより、本人は本を作るのが好きなようで、彼女の部屋の本棚には、自分の関係した本がならんでいる。出版社にはいってから八年、関係した本は百冊に近い。
大丈夫だったのかなと思いながら続きを読むと、「今日は会社に来なきゃいけなかったけど、十時までにくればよかったので、五本ほど部屋に生えていた茸をスクランブルエッグに入れて食べた。パンに乗せて食べたけどとても味が良くて、今度食べさせてあげる」とあった。「この本があがると、時間とれるから、次の日曜日にいくね」ともあった。
日曜日になると、彼女はお昼近くにやってきた。彼の住まいは三階立てアパートの三階の角にある。
彼女は持っている鍵で、戸を開けると、「ヒギンズかけているのね」と言って靴を脱いだ。
居間には自分で作ったステレオ装置がおいてある。いつもは、現代音楽調のジャズが流れているが、今日は彼女の好きなピアノを中心とした静かな曲をかけておいた。
はいってきた彼女の胸のところをみて彼はおどろいた、黄色っぽい茸がゆれている。
彼女は持ってきた紙袋をさしだすと、
「そうなの、部屋の茸は琥珀からはえて、外にとびだしたものなの」
そう言った。琥珀のペンダントから茸が生えて、それが外に出てくるなんてことがあるはずはない。
「寝る前にネックレスをはずしてベッドのわきにおくでしょう、朝になると琥珀から茸がはえてきて部屋に移動するのよ、それだけじゃなくて、部屋の壁からも生えたりするし、茸の胞子が部屋にだいぶ飛んでいるのかもしれないわね、だけどおいしい茸よ」
彼女はペンダントを首からはずした。
「朝起きるとペンダントから茸がはえているので、それをとって会社にいくようにしていたの、会社にいるときにペンダントから茸がでてきたことはないわ、今日は琥珀からとらないでそのままきたら、ほら大きくなっているわ」
ペンダントはほんの2センチほどのしずく型のものだが、茸が上に向かって傘を開いている。茸の傘の大きさは3センチほどにもなるだろうか。ペンダントからはみ出している。
「この茸、ひっぱても抜けないの、はさみで切るのよ、弾力があるの、でもすっと縦には裂ける」
彼女は居間にはいると、琥珀の表面を上に向けてペンダントをテーブルに置いた。
すると横になっていた茸がむっくりと立ち上がり、上に向かってすっくとのびた。
「いつもこうなるのよ、みてて」
彼女はテーブルのネックレスをもう一度首にかけた。すると琥珀の茸がぐっと曲がって上を向いた。
「必ず上を向くの、おもしろいでしょう」
「うん、そうだな、反応が早いな」
「動物みたいでしょ」
「重力に逆らっているね」
「あ、そうか、あなたは科学ね」
彼女はまたはずすとテーブルに横向きにしておいた。それでも茸は上を向いた。
紙袋の中にとってきた琥珀茸がはいっているからこれお昼に食べましょう。
「毎日撮って冷蔵庫に入れておいたの、これから茸のサンドイッチ作るわね」
ハサミをもってくると、琥珀に生えていた茸を根本から切った。琥珀に残った部分は、しゅーっと消失して、つるつるのもとの表面になった。
「ふしぎねえ」
「うん、茸は琥珀の表面についたごみかなにかから生えているのかもしれない」
茸を持って彼女はキッチンに行った。
しばらくすると、茸とハムとレタス、それにゆで卵を混ぜたサラダをはさんだトーストサンドをもってきた。
「いつもはやいね」
早いだけではなくて、見た目も綺麗に盛り付ける。バスケットにトーストサンドが美味しそうに盛られている。
彼は紅茶をいれた。
「たべましょう」
かぶりつくと、茸の匂いがして、さくっとした茸の歯ざわりが気持ちがいい。
「うまいね」
「茸の香りがいいでしょう」
「たしかに個性的な茸でうまい」
「そうでしょ、茸と言うより、動物の肉を食べているかんじなのよ」
彼女が胸につるしたペンダントを見た。表面に茸のあとはまったくなく、ただ透明な琥珀の中が少しくすんで見えた。
「ねえ、琥珀に虫の入っているのがあったでしょ」
「たくさんあったよ」
「それって、琥珀ができたときの動物よね」
「そうだよ、化石ってことだね、その琥珀は白亜紀のものだって、9000年前のものだって」
「生えてきた茸はそのころの茸ということね」
「そういえばそうだな」
「恐竜が食べていた茸かもね」
「茸を食べる恐竜もいただろうな、草食恐竜はあまり大きくない奴だ」
「恐竜はは虫類でしょ、今の爬虫類で草食性のものはいるかしら」
「テレビでやっていたけど、海のイグアナが海草を食ってたよ、イグアナは爬虫類だろ」
「あ、そうか、日本にはいないけど、外国にはいるわね、あ、亀さんも爬虫類だったわね、大きな亀がサボテンを食べていのをテレビで見たことがある、日本の亀も雑食よね」
「そうか、そうだね、爬虫類も草食性のものがかなりいるね」
〔どうして、爬虫類をきにしたんだい」
「最近ね、うちの部屋にヤモリが入ってくるのよ」
「あんなコンクリートの部屋にかい」
「そうなの、ヤモリは小さな隙間から葉言ってこれるそうよ、でもどこからきたのかしらね、それにね、どうもこの茸がお目当てのようなのよ」
「茸がかじられたのかい」
「いいえ、ヤモリは茸のそばにいるけど、かじったところは見たことないし、茸にかじられたあとはないわ」
「なにしてるんだろうね」
「それからね、ヤモリは一匹や二匹じゃないのよ、数匹いるわ、わたしがいるとどこかにひっこんじゃう」
「ヤモリは虫食ってくれるんだ、いいやつらだよ、そうか、茸の匂いがヤモリたちを集合させるホルモンかもしれないな、動物の番組で、集合フェロモンとか言っていた」
「そうね、でも、糞が落ちているのには困るわ、壁にもくっついていたりする」
「そりゃこまるね」
「でもこの茸のにおいは人間にも魅力的よね」
サンドイッチを食べていて、どこかでかいだことのあるにおいで、思いだそうとしたのだがでてこない。
「ネットで調べたら、ヤモリは焼いた肉の匂いなんかが好きなんだって、タンパク質がいいみたい」
「だとすると、茸の匂いにひかれてきたんじゃないな、この茸は植物的な香りだよ」
「うん、バナナかな」
「あ、そうだ、バナナにも似ている」
ふと、彼女の前においてある琥珀をみたら、濃い黄色の点が表面に現れている。
指さして彼女におしえると琥珀を持ち上げて、
「そうなの、こうなって、茸が生えてくるの、ゆっくりだけど」
と言ったとたん、黄色の点が大きくなり、小さな茸の傘が表面にあらあれると、あっというまに1センチほどの茸になった。
「うわーなんて早いの、うちでは大きくなるのに早くても1日よ」
琥珀の茸は1分もたたないうちに2センチほどに伸びて傘を開いた。
バナナのような匂いがただよってきた。
「バナナの成分を見てみるね」
彼女はスマホでバナナを調べている。
「GABAがあるし、トリプトファンが多いみたい」
今はやりの気分を楽しくさせるGABAである。
「トリプトファンって、アミノ酸なんだって、それからセロトニンができるそうよ」
セロトニンといえば足りないと鬱病になる奴じゃないか。
「みんな頭、脳や神経に利くんだな」
「だからヤモリが好きなのかしら」
茸が傘を開くと小さな煙がたちのぼった。
「これ胞子じゃないのかな、私の部屋でも飛んでるのよ」
「この琥珀の中の粉は胞子かもしれない、茸のはいった琥珀は何十万もするよ」
「胞子じゃ駄目ね、でもこのペンダントすてきよ」
彼女がペンダントを指で目の前にかざすと、生えている茸からますます煙りがでた。
「この胞子、白亜紀のものよ」
「しかも生きている」
「胞子入り琥珀なんて持っている人はいないわね、大事にしなくちゃ」
彼女は琥珀をテーブルに戻した。
「あ、ヤモリ」
彼女の指が天井を指さした。一匹のヤモリが天井の隅に張り付いている。
「うちにもでてきたんだ」
ヤモリは一度だけ窓の外に張り付いていたことがあるが。
彼女は琥珀のペンダントをヤモリの真下にあるステレオのスピーカーの上にのせた。
「きっとおりて来るわよ」
二人で天井を見上げているたがなかなか動かない。ふと、スピーカーの上の琥珀を見て驚いた。彼女もあっと声を出した。すでに三匹のヤモリが琥珀の周りを囲んでいた。琥珀から三つの茸が延びてきて大きく傘を開いた。
「なんなの、もう茸が大きくなっている、ヤモリがいるとすぐ大きくなるようね」
茸は傘をふるわせて粉をまき散らしながら揺れている。
一匹のヤモリが茸の根本にかみつくと、すっと引っこ抜いた。ほかのヤモリもそれぞれに茸を抜くと咥えてテーブルから飛び降りると、壁を上り、天井の隅で先ほどから動こうとしないヤモリの脇にいった。
天井にいたヤモリは茸を咥えた三匹がくると、ちょろっと天井の隅に消えた。三匹もそのあとをおって消えてしまった。
「どこにいったの」
ヤモリの消えた場所を見ると小さな隙間がみえた。穴ができている。天井裏につながっているのだろうか。こんなものなかったはずなのだが。
「あそこから消えたのね」
「このアパートは古いけど、つくりがよくて隙間なんか今までなかったよ、がたついたのかな、どこかに移ったほうがいいかな」
「わたしのとここない、一人だと広すぎるくらいだから」
「うん、そろそろ結婚しようか」
「私の作った本の本棚とあなたの作ったステレオ、とてもあいそう」
本気でそれもいと思った。
「予定をたてようか」
二人はその日、夕食を外でとることにして、そのまま彼女は自宅に帰ることになった
「寿司屋行かない」
彼女とたまにいく寿司屋がある。気取らない店だけど、とてもいいネタを使っているし、値段もリーゾナブルだ。といってもいつも彼女のおごりだ。
テーブルの上の琥珀のペンダントからでた茸がまた大きく育っている。
二人の時間を過ごして部屋を出る準備をしていると、彼女は、
「茸がなくなっているわね、ヤモリがたくさんでてきたのよ」
と琥珀のネックレスを首にかけた。
そのあと寿司屋に行き、彼女はタクシーをひろって家に帰り、地下鉄で自分の部屋に戻った。
部屋にはいると、ヒギンズのピアノが聞こえてきた。でるとき消し忘れたようだ。CDはオートチェンジャーで10枚、繰り返し聞けるようになっている。
居間に行くと、テーブルの上から茸が数本生えていてヤモリが数匹、ちょろちょろと茸を咥え天井に消えていった。
琥珀がないのに茸が生えている。胞子がちらばったようだ。だがなぜこんなに早く大きくなるのだろう。
小さな茸もいくつかテーブルから生えている。
彼はステレオのスイッチを切って風呂に入った。
風呂からでると、テーブルの茸は小さいままである。彼はもしかするとと思いステレオのスイッチをいれた。ヒギンズのピアノの音が流れると小さかった茸が目の前で大きくなっていく。
音楽が茸の成長を促している。植物の成長にも音楽はいいという話だからおかしなことではないのだろう。それにしても茸の成長は早い。
まだ地下鉄の中と思われる彼女のスマホにメッセージを入れた。家についたら私もやってみるという返事だった。
次の朝、彼女のメイルを見ると、ラジオの音楽番組を流しっぱなしにしておいたら、茸が部屋中にでていて、とても大きくなっているということだった。しかもヤモリが部屋の中に入ってきているという。ヤモリの糞が多いと書いてある。
自分の部屋でもテーブルの上には糞が点々とあるし、壁には糞の垂れた跡もある。アパートの管理会社に言ったほうがいいだろう。勤めに行く前に電話を入れた。
その週の日曜日に管理会社の人がきた。
天井の隙間が広がっている。
「おかしいですね、このアパートは古い建物ではあるのですが、当時としては相当こった作りの家で、地震があってもきしみが残らない頑丈な家なのですけど」
そう言いながら脚立に上り風呂場の脱衣場の天井にある屋根裏への入り口から中をのぞいた。天井裏の中に懐中電灯を向けると、下にいる彼のほうを向いて、
「うわーすごい、茸が生えている」
と驚いている。彼に「のぞいてみますか」と言った。
彼がうなずくと、脚立をおりて彼に登るようにうながした。
彼は脚立に登ると中を見た。
天井裏の床の上などにたくさんの黄色い茸が立っていた。茸の柄の先が床にくっついていない。しかも、黄色い茸たちは、彼の部屋から聞こえるジャズのリズムに合わせて体をくねらせている。ヤモリたちが現れた。茸を囲んだ。
茸たちが動物のようにおどっているのだ。
そのまわりでヤモリたちが茸の動きに合わせて首を振っている。床の上の茸は彼の部屋で生えヤモリが運んだ茸たちに間違いないようだ。
「茸が生えてよごれていますね、これからそうじします」
ヤモリをみていない、事情を知らない管理会社の人が、屋根裏を覗き込んでいる彼に声をかけた。
彼は脚立おりながら「あの茸は、太古の茸なんですよ」いったが、意味が通じるわけはない。管理会社の人は、なにを言っているんだろうと言う顔をして、ちりとりと箒を持って脚立を上った。
「うわー」
その人は大きな声をあげて脚立からころげおちた。
その人の顔には、びっしりとヤモリたちがへばりついている。
かれはあわてて、「だいじょうぶですか」と声をかけ、顔からヤモリを振り払おうとしたのだがなかなか動かない。近くにあったバスタオルでヤモリの上をはたくと、やっとヤモリたちは壁から天井裏に消えていった。
管理会社の人は意識を失っている。血は出ていない。動かさない方がいいだろうと判断し救急車をよんで管理会社にも電話した。
脚立を登って天井裏の中をみた。
ヤモリたちが、茸をみんなでもちあげてどこかに運んでいるところだった。
しばらくすると救急車が到着し、隊員を部屋に上げた。隊員たちは、脱衣場で倒れている管理会社の人の様子を確認し、
「ひどい怪我じゃありません、すぐに病院に運びます」
タンカにのせた。
「屋根裏にはいろうとして脚立から落ちたのです」と彼は救急隊員に説明した。ヤモリが顔についていたことは言わなかった。
「頭は軽く打ってますが、命には別状がないですよ」。
一人の救急隊員が脚立に上り中を覗いた。
「これから、中にはいるところだったのですね、バランスを崩して落ちたのでしょう」
ヤモリたちはどこかにいったのだろう。救急隊員は茸を見なかったようだ。
運び出す前にタンカの上の管理会社の人が気がついた。その人も屋根裏をのぞいたときにすべって脚立から落ちてしまったと救急隊員に言った。
「頭をうってますから、しゃべらないで、肩の骨はおそらくひびがはいっています、これから病院に運びます」
救急隊員たちは、救急車に運び、病院に行った。管理会社の人がきたが、そのまま病院にむかった。
彼は置きっぱなしになっていた脚立を上り天井裏をのぞいてみた。なにもいない。
居間にいって、ステレオのスイッチをきった。
その夜、彼女に電話をいれ、1日の出来事を見た様子を話した。
「茸はうちでも大きくなっているわよ、だけどおどったりはしていないわよ」
「ほんとにヤモリに囲まれて茸がおどっていたんだよ」
「うちには屋根裏部屋がないから、だいじょうぶ、だけど、音楽を流すと、茸が大きくなるわね、それは事実よ」
そこにヤモリがぞろぞろと居間にはいってきた。
「ヤモリがたくさん部屋にやってきたよ」
「ヤモリはおとなしいから大丈夫」
ヤモリたちはステレオのスイッチの周りにへばりついた。
スイッチを取り囲んだのだ。
ヤモリたちが自分を見ているようだ。
彼はヤモリをみた。
スイッチを入れろといっているようだ。
彼はヤモリにうながされて、ステレオのスイッチをいれた。
自分の好きなタンジェリンドリームの曲が流れた。
ヤモリはさーささーっとステレオから離れると壁を昇り、隙間から天井裏にはいった。
「いまさー、ヤモリがステレオのスイッチいれろといってきたからつけたんだ」
「そう、それで」
「ちょっとまってて」
彼はスマホをもったまま、脱衣場のそのままになっていた脚立に上り天井裏をのぞいた。
「天井裏でねー、茸たちが踊ってるんだ、そのまわりで、ヤモリたちがうれしそうに見ているんだ」
「あなたー、やっと文系人間になったわね、わたしがあなたのアパートのほうにひっこそうかしら、来週の日曜日にはあえるわよ」
天井裏のヤモリたちが、彼を見て、はいってらっしゃいと、いっているのが聞こえた。
彼女にはヤモリに誘われたことは言わなかった。
「早く結婚して、君のところに行くよ」
かろうじて、そういうことができた。
手に琥珀茸を持ってくねくねと二本足で踊っているヤモリは魅力的だった。
彼はあわてて天井裏の蓋をしめた。
琥珀の茸