鏡の中


 俺は駅のトイレへ行き、手を洗っているところだった。
 目の前には大きな鏡があり、背後の景色が写っている。
 その中に小さな男の子の姿があり、俺の後ろに並んで順番を待っているのだ。
 俺は急いで手を洗い終え、場所を空けるために振り返った。

「?」

 ところが驚いたことに、そこには誰の姿もないのだ。
 男の子どころか、ガランとして人影もない。
 俺は首をかしげたが、数日後にまた同じトイレを利用する機会があった。
 手を洗いながら、先日の男の子のことを思い出した。そして鏡を見ると、またそこにいるのだ。
 俺は振り返り、場所を譲ろうとした。
 だが今度も誰もいないのだ。
 見回しても、人が隠れている気配もない。
 同じことが、同じ場所で何回か続いた。
 意地になって、俺も学校帰りには、いつもこのトイレに立ち寄るようにしていた。
 そのたびに男の子が鏡の中に現れる。だけど彼は口を閉じたままで、何も言わないのだ。
 そして俺が振り返ると、もう影も形もない。俺はだんだん腹が立ってきた。
 だからあるとき、振り返らずに、鏡の中へむかって話しかけたのだ。

「君は一体、どういうつもりなんだい? なぜいつも俺に付きまとうんだい?」

 すると男の子はにっこりと笑い、ある方向を指さすではないか。
 それが奇妙な方向で、あのトイレには窓があるのだが、そのすぐ上のひさしのあたりなのだ。
 ひさしは瓦屋根になっていて、赤く錆びた雨どいが取り付けてある。
 俺の家は、この駅からそう遠くないところにある。
 両親や祖父と一緒に暮らしているが、俺は祖母の顔を見たことがない。
 祖母は第二次世界大戦中に死んだ。
 祖母はちょうどこの駅で列車に乗ろうとしていた。そこへアメリカの爆撃機がやって来たのだ。
 駅の建物はまわりの家々よりも大きいから、軍需工場と誤認したのかもしれない。
 爆弾が命中し、駅は跡形もなく吹き飛んでしまった。
 祖母はそのとき死に、俺が毎日利用しているのは、戦後建て直された新しい駅だ。
 古い時代の駅は、現代とは少し構造が違う。トイレが駅の外にあり、別の建物になっていることが多かった。
 公園にある公衆便所を思い浮かべてもらえばいい。
 小さな小屋のような建物で、駅のトイレはどこでもみんな、ああいう感じだった。
 だから爆弾が爆発した時も、駅のトイレだけは無傷で残ったのだ。
 戦後に駅は作り直されたが、トイレだけは当時の姿のままで現在まで使用されている。
 祖母は金持ち一族の出身で、嫁入り道具はいろいろと豪華だったらしい。
 中でも一番だったのはダイヤの指輪で、一個でひと財産と言われた。
 しかし今では俺の一家も没落し、先日も両親の内緒話を偶然耳にしたのだが、借金を返すために、いま住んでいる家も売り払わなくてはならないということだった。
 父が経営していた会社が倒産し、債権者に追われる日常になっていたのだ。おそらく俺も転校しなくてはならない。
 そんなところへ鏡の中から男の子が現れ、トイレの窓の外を指さしたわけだ。

「えっ?」

 俺は思わず振り返った。
 そのときには男の子の姿はもう消えていたが、彼がどこを指さしていたのか、俺ははっきりと覚えていた。
 俺は窓に近寄り、ひさしを見上げた。両手をかけ、窓にはい上がってみたんだ。

「あっ」

 ところが突然バランスを崩し、俺は転がり落ちそうになった。思わず手が伸び、雨どいをつかんでしまった。
 だが古い建物だ。雨どいは簡単にちぎれ、ガタンと外れてしまった。
 だけどそのとき、雨どいの中から何かが転がり出てきたのだ。
 大きなものではない。
 床に落ちて、カチンと音を立てた。
 それがダイヤの指輪であると気づいた時、俺がどれだけ驚いたことか。
 銀色のリングに、人差し指の先ほどの透明なダイヤが取り付けてあるのだ。拾い上げて、俺は駅員を呼びにいった。
 駅員は警察官を呼び、警察官は鑑識課員を呼び、ちょっとした騒ぎになった。
 翌日の新聞にも小さな記事が出たほどだ。
 指輪の裏側には刻印があり、製造メーカーはすぐに知ることができた。
 幸運だったのは、製造メーカーが台帳を現在でも保管していたことだ。
 製造番号から、これが俺の祖母の所有物だったことはすぐに証明できた。
 だから俺は、今でも以前と同じ家に住み、転校することなく同じ学校に通っている。
 指輪を売って得た代金は、借金を返してもまだ余裕があり、父はそれを元手に新しい仕事を始めることができたのだ。
 蛇足だが、その後俺があのトイレを何回利用しても、あの男の子が鏡の中に姿を現すことは二度となかった。

鏡の中

鏡の中

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-29

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