鏡の中


 俺は公衆トイレへ行き、手を洗っているところだった。
 目の前には大きな鏡があり、背後の景色が写っている。
 その中に小さな男の子の姿があり、俺の後ろに並んでいるのだ。
 俺は場所を空けるために振り返った。

「?」

 ところが驚いたことに、そこには誰もいないのだ。
 男の子どころか、ガランとして人影もない。
 俺は首をかしげたが、数日後にまた同じトイレを利用する機会があった。
 そして鏡を見ると、またそこに男の子がいるのだ。
 俺は振り返り、場所を譲ろうとした。
 だが今度も誰もいない。
 見回しても、人が隠れている気配もない。
 同じことが何回か続き、そのたびに男の子が鏡の中に現れる。だけど彼は口を閉じたままで、何も言わないのだ。
 だからついに、俺は鏡の中へむかって話しかけたのだ。

「君は一体、どういうつもりなんだい? なぜいつも俺に付きまとうんだい?」

 すると男の子はにっこりと笑い、ある方向を指さすではないか。
 それが奇妙な方向で、あのトイレには窓があるのだが、そのすぐ上のあたりなのだ。
 そこには、赤く錆びた雨どいが取り付けてある。
 実は俺は、祖母の顔を見たことがない。もう何年も昔、第二次世界大戦中に死んだ。
 祖母は、ちょうどこのトイレの前の道路を歩いていた。
 そこへアメリカの爆撃機がやって来たのだ。
 爆弾が落ち、周囲の建物と一緒に、祖母は跡形もなく吹き飛んでしまった。
 だがそれがどうやら、俺たち一家の運気も一緒に吹き飛ばしてしまったらしい。
 その後は没落の一途をたどり、経営していた店や会社も一つずつ人手に渡り、消え去っていった。
 先日も両親の内緒話を偶然耳にしたのだが、いま住んでいる屋敷もいずれ売り払わなくてはならない。
 おそらく俺も学校をやめることになる。
 そんなところへ鏡の中から男の子が現れ、トイレの窓を指さしたわけだ。

「えっ?」

 俺は思わず振り返った。
 男の子の姿はもう消えていたが、彼がどこを指さしていたのか、俺ははっきりと覚えていた。
 俺は窓に近寄り、ひさしを見上げた。手をかけ、雨どいをつかんでみたんだ。

「あっ」

 だが古い建物だ。雨どいは思いがけず簡単にガタンとはずれ、千切れてしまった。
 だけどそのとき、中から転がり出てきたものがある。
 床に落ちて、カチンと音を立てた。
 何だったと思う?
 指だったよ。
 真っ黒な色でカラカラに乾き、サルの手のようにシワが寄っているが、人間の指に間違いない。
 カチンという音は、はめている指輪が発したようだ。
 それが大きなダイヤであると気づいた時、俺がどれだけ驚いたことか。
 震える手で拾い上げて、交番へ駆けて行った。
 その後はちょっとした騒ぎになった。小さな記事だが新聞にも載ったほどだ。
 指輪の裏側には刻印があり、製造メーカーはすぐに判明した。
 幸運だったのは、この会社が台帳を今でも保管していたことだ。
 製造番号から、これが祖母の所有物だったことはすぐに証明できた。
 だから俺たち一家は破産から救われ、以前と同じ屋敷に住み、俺も同じ学校に通い続けている。
 蛇足だが、その後俺があのトイレをいくら利用しても、あの男の子が姿を現すことは二度となかった。

鏡の中

鏡の中

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted