『オディロン・ルドンー光の夢、影の輝き』展
内容の一部を加筆修正しました(2025年5月30日現在)。
《窓》が一番好きだった。
画面中央に描かれる尖頭アーチの向こう側に広がるのは神話のような世界。右端に佇むのは、背中に羽を生やす天使のような存在。「彼」のようでいて、「彼女」のようにも見える。その周囲に咲く花々は窓枠から視認できるスペースの三分の二を埋め尽くし、尖頭に最も近いスペースに僅かばかり描き込まれた空の、極めて穏やかで、平和と安寧の象徴のような優しさ。その有り難さを思わせる水色が生み出す奥行きの感覚によって、その量を窓枠の外へとさらに増やしていく。風も、確かに吹いているだろうか。雲のようでいて、綿毛のような柔らかさで引かれる白色が、さきの天使のような存在の身にも衣服にも溶けて消えていく。語り継がれるべき統一感。私たち人間とは関わりのない超越を携えて、そこは「今」も動いている。余りにも見事な心象風景。
うっとりとするような時間を窓の向こう側で暫く過ごした後、戻って来る感覚で鑑賞する《窓》のこちら側は一転して古ぼけた印象を受ける。木製の作りを感じさせる茶色ばかりの部屋。ところどころに塗られる赤に緑、主に上部に集中して塗られたカビのような青。黒。紫。
本好きに特有の突飛な発想で見れば、そこはもう既に朽ち果てた教会の一室で、物好きな画家以外は誰もそこを訪れたりしない。窓の外側に広がるものとして画家が描く不自然な光景も、「こちら側」を強く意識すれば、気が狂った画家が幻視する「それ」なのかもしれないとさえ思えてきて、最初に覚えた感動が薄れる。
と思った所で、今度はその画家になったつもりで画面全体を見れば、文学好きの妄想はさらに暴走する。
《窓》のこちら側を画家が手にしたパレットと思えばどうだろう。壁や窓枠に塗られた茶色以外の色。これらは全部、画家が試行錯誤した痕跡で、窓枠の向こう側に描いたものこそ、描こうとした本命の絵だった。それを邪魔する窓の「こちら側」。現実の物と付き合い、現実に生きねばならない足枷。神話のように存在する向こう側は、画家がどれだけ筆を動かし、手を伸ばしても届かない精神の輝き、痛みある憧憬。その葛藤を含めて描いた《窓》。理性が作り上げる奇想の暗がり。
理性と感性との間に一線を引く画面の作りは、1867年頃に描かれた《自画像》にも認められる。「こちら」と「あちら」の応答はオディロン・ルドン(敬称略)が終生持ち続けた関心でもあった。鉛筆や木炭を手にして、奇抜で不気味な絵を初期に数多く残している。漫画が好きな方にはあのベルセルクのような世界観だといえば、そのイメージが一目瞭然だと思う。
正直に明かせば、筆者はこの時期の作品にはあまり心を惹かれない。面白いとは思うが圧倒はされない。個人の奇想を一枚の絵としてしっかりと描く。その作業が、本人の頭の中で暴れ狂うイメージを他人に理解可能な段階にまで下げているように見えて、どこか冷めてしまう。画家が活動していたのが印象派と同じ時期。サロンの権威が十分に有効だった画壇事情を思えば、黒の時代と評される奇抜な作風に認められる歴史上の意義を「理解できる」というのも、そこに一役買っているのかもしれない。
上記したこととの比較で見れば、ルドンが色彩豊かな表現に軸足を移して、聖書に由来する場面や神話の悲劇を題材に描いた作品から受ける感銘は、理性的に描こうとしているのに、完成する一枚のどれもが理性で処理できない越境を果たしてしまっている点にあると筆者は思う。
画面に描かれるもののフォルムや、文脈に沿って見れば判然とするはず意味合いを曖昧にする色と色のハーモニー。その本質を存分に活かす為に組まれた画面構成の妙は、例えば大きく咲き乱れる花々を生けた《日本風の花瓶》に数羽だけ描かれた蝶々となり、その羽の動きで、茎を折られた花弁が画面下部から上部へと命を散らす様を残酷なまでに美しく描く。《眼をとじて》の女に施された寒色系の色たちは、死んだように眠る現実を温かく包み込むせかいの色を教える。《読書する人》に使われたたった一色の濃淡は奔流のような興味と関心を引き起こし、吟遊詩人、オルフェウスの死を描いた一枚ではその絵具の軌跡で湛えるべき悲しみを、まるで歌うように昇華してみせる。
いわゆるナビ派に属する画家たちから称賛され、彼らが手がける装飾に凝った表現からも影響を受けたルドンの画風は、目に写る世界を写実に描こうとした印象派の技法と並行する形で展開され、内面世界を探求するものとしてシュルレアリスムに多大な影響を与えている。
その全容を概観するのに十分な逸品を揃えた『オディロン・ルドンー光の夢、影の輝き』展はパナソニック汐留美術館で現在開催中である。期間は来月の6月22日まで。筆者にとって忘れられない展示会となった。興味がある方は是非。
『オディロン・ルドンー光の夢、影の輝き』展