鉄の鯨

 俺の父親は国鉄の機関手だった。
 広島県は尾道駅の隣、糸崎の機関区で働き、しかも機関区では、甲組と呼ばれる班に属していた。
 甲組とは、特急や急行を運転する資格を持つ機関手たちのことだが、父は決して威張る人ではなかったが、母も俺もたいそう誇りに思った。
 鉄でできた鯨のような大型蒸気機関車を操り、『富士』や『さくら』といった特急をさっそうと走らせるのだ。その制服姿が格好よくないわけがない。
 実を言うと母は、そんな父の姿にあこがれ、嫁に来た。
 生まれた一人息子は山陽本線から一文字取り、陽一と名付けられた。

「もうすぐお父さんの汽車がくるよ」

 父の運転する列車が家の前を通る時には、母はいつも教えてくれた。
 俺たちの家は線路ぎわにあり、父は決まったやり方で汽笛を鳴らし、俺たちに挨拶を送ったのだ。
 幼稚園の遠足の時、他の子達と一緒に尾道駅で汽車を待ちながら、なんと父の運転する急行列車が目の前に停車したことがあった。
 友達が気づき、

「あっ、陽一君のお父さんだ」

 と声を上げたのだ。その時の鼻の高さは忘れようもない。
 俺たち一家の人生は蒸気機関車と共にあったが、ちょうど時代は、山陽本線の電化工事が神戸から西へ向けて進んでゆく頃だった。
 まず姫路まで電化され、それが岡山へ延び、ついには福山へと達した。
 そのたびにたくさんの蒸気機関車が、電気機関車や電車と交代していった。

「糸崎機関区もついに電気機関車に入れ替わることになった」

 という国鉄の公式発表を聞かされた日の両親の顔つきを、俺はよく覚えている。
 恐れていた日がとうとうやってきたのだ。
 父は覚悟をし、電気機関手への転換訓練を受けることに決めた。
 あれだけ蒸気機関車を愛していたのだから、その決断は並々ならぬものだったろう。
 ところが母の思いは違ったのだ。

「あらあなた、電化は西へ向かって進むのでしょう? 今回糸崎が電化されても、広島よりも西はまだ蒸気機関車のままなんじゃありません? ならば私たちがそこへ引っ越せばいいじゃありませんか。あなたの運転技術なら、どこの機関区でも歓迎してくれることでしょう」

 父は驚き、目を丸くした。
 でも母の表情は自信に満ちている。
 父は俺の気持ちも尋ねた。
 生まれ育った尾道を離れるわけだが、俺も反対する気持ちにはならなかった。
 すぐに俺たちは引越し準備を始めたが、電化工事は西へと進んでゆくのだ。
 数年後にまた父は転勤を余儀なくされ、俺たちは再び引越し準備に追われた。
 そうやって俺たちは西へ西へと移動し、ついに俺などは、小学校は広島県内だが、中学は山口県、高校にいたっては遠く九州の学校を卒業したほどだ。
 でも後悔はない。父は定年の日を、蒸気機関車の運転台で迎えることができたのだ。
 その数年後、父が亡くなり、すでに母も亡い通夜の夜、元同僚だった人の口から、こんな話を聞いたことがある。
 この人の名は加藤さんという。糸崎機関区で一時期、父とコンビを組んで機関助手をしていた人だ。


 その日も父と加藤さんは急行列車をけん引して、山陽本線を走っていた。
 広島発の上り列車だったが、ちょうど八本松駅を過ぎ、そこから三原駅の手前まではダラダラとした下り坂が続く。
 しかも急行だから停車すべき駅もなく、楽勝ものの運転だったのだが、ある小駅を通過しようとして異変に気が付いた。

「あれっ?」

 駅の手前、入口のあたりに通過信号機があるのだが、普段なら青であるはずのこの信号が、なぜか黄になっているのだ。
 ということはこの先、駅の出口にある出発信号は赤であるに違いない。
 出発信号が赤なのであれば、本来なら通過する急行列車といえどもブレーキをかけて、停車しなくてはならない。
 もちろん父はそうした。
 普段見慣れない長編成が不意に停車したので、駅にいたお客さんたちも驚いたかもしれない。
 すぐに駅長が機関車の運転台まで現れ、状況を説明してくれた。

「○○駅で、貨車の暴走をやらかした。積荷が火薬なので手が付けられず、自然停車を期待して、下り坂が終わる三原あたりまで触らないことに決まった。あんたの列車もここで退避するんだよ」

 要するに、火薬を積んだ貨車が下り坂を勝手に暴走していて、止めようがないというのだ。
 だから三原までの各駅にいた列車は、みな父の急行と同じように側線に避難したのだろう。

「ふうん」

 加藤さんの言うには、そのとき父の目が、なんだか不思議な具合に光ったのだそうだ。

「それじゃあ、暴走貨車が通り過ぎたらまた来るよ」

 と駅長は去ってしまった。

「おい加藤」

「なんです?」

「後ろの客車を外せ」

「なんでです?」

「客車はブレーキをきちっとかけとけ。いいな」

「やりますので?」

「ここから三原っていうが、新川の手前にカーブがあるじゃないか。あそこを貨車が曲がり切れるわけがない」

「あのあたりじゃあ相当にスピードがついてますもんね」

「俺はポイント扱い所へ行ってくる。切り離しは2分で済ませろ。それと、機関車の前連結器も開いといてくれよな」

 本当に父はポイント扱い所へ行き、2分後には機関車へ戻ってきていたそうだ。
 もちろん加藤さんも、2分間で仕事を済ませていた。
 その時、ホームにけたたましい笛の音が響いたのだ。

「暴走貨車がやってきたぞ」

「やってきたぞーっ」

 駅員たちが口々に叫んでいる。物見高い乗客たちを少しでもホームから下がらせようというのだ。
 加藤さんの話では、なんでもない2両の有蓋貨車だったそうだ。
 黒く塗られ、他の貨車と何一つ変わったところはない。
 機関車につながれているわけでもなく、まったくの無人で下り坂をここまで暴走してきたのだ。
 轟音を立てて、暴走貨車は隣の線路を通り過ぎて行った。

「加藤、石炭はくべてあるな?」

「蒸気圧力はほぼいっぱい。もうちょっとで安全弁吹きます」

「そりゃいい」

 このとき父は考えられないことをした。
 加藤さんを運転台から突き落としたのだ。
 アもウもない。加藤さんは砂利の上にしりもちをついてしまった。
 その隙に父は運転席に取り付き、後も見ずに加減弁を開いたのだ。
 すると当然、機関車は発車することになる。
 本来なら、前方のポイントがまだ正しい方向に開通していないのだが、父は扱い所に話を通していた。
 だから父の乗る機関車は側線を抜け、本線へとスムーズに乗り出していったのだ。
 加減弁をさらに開き、父は機関車を加速させた。なにしろ暴走貨車に追いつかなくてはならないのだ。
 あっという間に最高速に達するが、客車を引いていない荷の軽い機関車は、ゆるい下り坂ということも相まって、心地よく進む。
 胸ポケットから取り出し、父はタバコに火をつけた。
 ところがその時、父の背後で物音が聞こえたのだ。
 何かと思い振り向くと、炭水車の石炭の上を乗り越えて、加藤さんがやってくるところだった。

「親方、突き落とすなんてひどいよ」

 あの後とっさに加藤さんは、炭水車の後部にあるハシゴに取り付き、乗り込んできたのだ。

「バカ野郎。死ぬのは俺一人で沢山だ」

「そりゃ失礼しましたね。でもこの速度じゃ、もうオイラを突き落とすなんてできませんや…。怒んない怒んない」

「……」

「ほら、もう例の貨車が前方に見えてきやしたぜ。さすがのオイラも、走行中の貨車に連結するなんて芸当は見たこともないが、一丁うまくやりましょうや」

 そして父は、本当にうまくやったのだ。
 貨車の背後にそっと近づき、カチャンと連結する。
 口で言うのは簡単だが、それなりの技術が要求されるのは間違いない。
 あとはもう、空気ブレーキをかけるだけのこと。
 機関車と貨車はしっかりとつながり、三原駅へと入ってゆくことができた。
 だがこれは、第二次世界大戦中の出来事だ。父はそんなころから機関手をしていた。
 軍用貨車の事故であり、戦争中のことゆえニュースにはならず、新聞にも載らなかったそうだ。

「糸崎機関区に帰ってからも、別に怒られはしませんでしたよ」

 と加藤さんは続けた。

「…ほめられもしませんでしたが、その後でオイラはきいてみたんです。『ねえ親方、今日はなぜあんな無茶をしたんです?』」

「どういう答えでした?」

 俺の知る限り、父はそんな無茶をする人ではなかった。

「返事はこうでしたよ。新川のカーブのところには一軒の家がある。そこの娘というのがときどき機関車の車窓からも見えるが、なかなかの美人で、そんなところへ火薬を積んだ貨車を行かせるなんてとんでもない、ということでした」

「へえ」

「それで後日、その家の主人がどこかで話を聞きつけ、感謝して、糸崎機関区へお礼に見えたそうで…」

「ふうん…」

「おや陽一さん、お分かりになりませんか? あなたのご両親の縁結びをしたのは火薬を満載した暴走貨車だったのだ、ということですよ」 

鉄の鯨

鉄の鯨

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-28

Copyrighted
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