少欲知足
人間にとっての欲は「食」です。
しかし、動物にとっての欲は「睡眠」です。
野生の動物は、常に自身を危険のなかに置いています。
それゆえ「安心して眠る」ということは贅沢なのです。
人間とともに暮らす動物もいます。
ペットに分類される動物は太ることがあります。
それは「安心して眠る」ことが出来るからです。
「睡眠」が贅沢でなくなれば「食」が贅沢になるのです。
野生の動物は食い合いをして生きています。
そうなると、贅肉は生きるためにむしろ邪魔になります。
贅肉があると、逃げるにも狩りをするにも不利に働きます。
それゆえ動物は、必要充分な「食」で生きているのです。
人間は「社会」に属し、「家」を持ちます。
しかし、「社会」と「家」は相反するものです。
「社会」は他人の集まりですが、「家」は身内の集まりです。
人間は「社会」と「家」で二重に自己を守っているのです。
「社会」は外敵から自己を守ってくれます。
「家」は「社会」から自己を守ってくれます。
このようにして人間は外敵から遠ざかります。
その結果、人間は「安心して眠る」ことが出来るようになるのです。
「眠り」は情報を遮断してくれます。
情報とは、五感の反応です。
眠っている者は、自己に起っていることを知りません。
それは、「眠り」が五感の反応を鈍化させているからなのです。
五感は絶えず情報を伝達しようと試みます。
情報を排斥しようとしても、それは無理な試みです。
情報から逃れることの出来る者はいません。
それゆえ「眠り」は大切になるのです。
物事の判断を下すためには情報が必要です。
しかし、間違った情報は間違った判断に導きます。
情報が間違っていないかは冷静に判断しなければなりません。
それゆえ情報から離れる「眠り」が大切なのです。
動物は危険と隣り合わせで生きています。
そのため動物は正しい判断をしなければ生きていけません。
そのため動物は正しい情報を求めます。
そのため動物は「睡眠」を第一の欲とするのです。
人間にとって「安心して眠る」ことは当たり前です。
「社会」と「家」に守られた人間は命の危機を知りません。
それゆえ人間は贅肉を蓄えたとしても安全でいられます。
それゆえ人間は「食」に対して貪欲になるのです。
「食」を求めれば、安定した供給体制が必要になります。
そのため人間は農業を始め、保存食さえも生み出しました。
そのため人間は社会に余剰価値を求めるようになりました。
それゆえ人間は富の蓄積を追及するようになったのです。
富は分け合うことの出来ないものです。
なぜなら、富はその人の未来を保障するためです。
それゆえ人間は富を保護し、他者を排斥するのです。
それゆえ人間は富を求めて争うことになるのです。
富を求める者は富に自己を左右されます。
富を持つ者は持たない者を支配することが出来ます。
それゆえ富は権力を持ちます。
それゆえ人間は、なおさらに富を求めるようになります。
富による支配体制は平和の象徴でもあります。
富による支配体制は現状の延長線上の未来を想定しているためです。
富による支配体制の崩壊は現状の崩壊を意味しています。
そして崩壊しない現状など、どこにも存在はしていないのです。
「社会」は「社会」の外との関わりを無視して成り立ちません。
ひとつの「社会」は別の「社会」には敵です。
こうして「社会」と「社会」は互いに食い合いをします。
そうしてひとつの「社会」の現状は崩壊することとなるのです。
「社会」の内側には「家」があります。
「家」とは身内の集まりです。
身内とは富によって左右されない関係性のことです。
そして「家」とは自らが作り上げるもののことです。
富とは対極的な場所に「家」はあります。
「家」を形作るのは自らの行いです。
行いは信用と信頼を生みます。
信用と信頼は「家」を形成する他者に安心をもたらすからです。
未来を見通すことの出来る人間はいません。
自己の安全は自己で保障するしかありません。
それゆえ人間は信用と信頼の出来る他者を求めます。
このようにして「家」は形成されてゆくのです。
信用と信頼が続く限り、「家」もまた続いてゆきます。
その信用と信頼は行いによって維持されます。
しかし、この行いが間違っていれば、「家」もまた崩壊します。
そのため、正しい行いが必要となるのです。
正しい行いは正しい情報のもとに行われます。
間違った行いは間違った情報のもとに行われます。
間違った情報とは、誤解です。
誤解とは、自己の一方的な思い込みです。
思い込みは、不確かな情報によってもたらされます。
不確かな情報は自己を不安にさせます。
不安は他者への猜疑心となって表層化します。
表層化した猜疑心は、自己と他者とのあいだに溝をつくります。
人間は間違える生き物です。
それゆえ人間は、自らを疑う必要があります。
それゆえ人間は、情報を疑う必要があります。
だからこそ、情報から離れるために眠る必要があるのです。
「睡眠」を生活の中心に据えたとき、時間はそこで再配分されます。
「睡眠」を行っているときは、生産活動が出来なくなるためです。
一日は二十四時間です。
その二十四時間をどのように再配分するかが大切となるのです。
「睡眠」に時間を割くと、何かしらの時間が削られます。
この削られる何かしらの時間は、情報に接していた時間です。
あらゆる生き物は情報を求めています。
だからこそ、あらゆる生き物はこの情報から逃れようともするのです。
情報は危険を察知するために必要不可欠なものです。
あらゆる生き物は、危険を察知するために情報を求めます。
しかし、危険とは関係のない情報は生き物を疲れさせるだけです。
それゆえ生き物は、情報の取捨選択をしているのです。
危険は不安を生みます。
不安は猜疑心を生じさせます。
しかし、人間は猜疑心から逃れるために情報を求めます。
危険を避けるために情報を集め、猜疑心から逃れようとするのです。
猜疑心から逃れるために集めた情報は猜疑心を深めさせます。
危険を避けるためには危険について知らなければいけないからです。
そうして人間は、危険に関する情報を得ようとします。
その結果、その情報は自己の猜疑心を裏付けることとなります。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があります。
猜疑心が枯れ尾花を幽霊に見間違えさせるという例です。
猜疑心を持たない者には枯れ尾花が幽霊に見えることはありません。
しかし、猜疑心を持つ者には、それが確かに幽霊に見えるのです。
人間は、情報を求めれば、それを敏感に感知することが出来ます。
職人は指先の感覚だけで微細な違いを感知します。
この感知する能力は生得的なものではありません。
この感知する能力は訓練をすれば誰もが得られるものなのです。
このようにして特定の情報は優先化されます。
優先化された情報は、他の情報の伝達を阻害します。
何かを思い返している人間は、目からの情報を見てはいません。
情報を受けてそれを実行するには、限界があるのです。
人間の行いには限界があります。
限界のある人間が、あらゆる物事を思い通りにすることは出来ません。
思い通りにならないことに囚われていては苦しむだけです。
それゆえ、この囚われた苦しみを手放す必要があるのです。
人間は危険を避けようとして情報を集めます。
しかし、どれほど情報を集めたとしても、危険は避けられません。
あらゆる生き物が死を迎えるように、人間もまたいつかは死にます。
その死を避けることが出来ない以上、危険は避けられないのです。
死が避けられないのであれば、それ以上の危険は存在しなくなります。
死は、いつ訪れるのか分かりません。
それが明日か数年後か、それともこの瞬間なのかも分かりません。
このようにして分からないものは、自己の思い通りにはならないのです。
思い通りにならないことに一喜一憂していては心を保てません。
しかし、これをなんとかしたいと願うのもまた人間です。
そうして人間は、そこから逃れるために情報を集めます。
そうして人間は、自ら集めた情報で自己を縛ってゆくのです。
一日は誰にとっても二十四時間です。
二十四時間のなかで処理できる情報には限りがあります。
そのため、情報は取捨選択をされなければなりません。
そのため、情報を自己で選んでゆかなければなりません。
世の中には、ありとあらゆる情報があふれています。
ありとあらゆる情報に囲まれて私たちは生きています。
しかしこの情報は、自己と同じ人間によって発せられています。
そして私たちの行動は、この情報によって左右されてしまいます。
情報を疑うことがなくなったとき、行動は過ちを生みます。
流行は一過性のものでしかありません。
しかし、その流行に乗せられた自己の過去は変えることが出来ません。
そして過去は現在の自己に返ってくるのです。
他者と関わりを持たずに生きていける人間はいません。
人間は分業を前提に「社会」を構築しているためです。
そのため、「社会」はそこに関わる者の人間性を確認します。
「社会」に害をもたらす存在は「社会」を損なう危険があるためです。
情報は自己の判断を誤らせる危険性を持っています。
そのため私たちは、この情報を疑わなければなりません。
そのため私たちは、この情報から距離を保たなければなりません。
そのため私たちは、この情報を一時的に遮断する必要があるのです。
情報の遮断、それは「睡眠」によって実現することが出来ます。
「睡眠」によって、私たちは一時的に情報から離れることが出来ます。
そうして情報から離れると、私たちは冷静になることが出来ます。
冷静になった私たちは、自己の判断を下すことが出来るようになるのです。
人間は他者をうらやみます。
それは自己と他者を比較しているためです。
しかし、他者もまた誰かと自己とを比較しているのです。
そうして誰かとの比較のなかで幸不幸を判断しているのです。
人間は誰かの食べているものをうらやみます。
それが美味しい食べ物なのだろうと想像します。
そうして人間は「食」を求めます。
そうして人間は際限のない欲のなかに身を投じてゆくのです。
誰かにとっての幸せは自己にとっての幸せとは限りません。
自己の食べたいものは、本来は自己の胃袋が答えてくれるものです。
そうして自己の食べたいものを知るとき、人間は幸せを感じます。
自己の求めているもので満たされたとき、人間は幸せを感じるのです。
自己の食べたいものを食べることが出来ることは幸せです。
自己の食べたいものを知ることが出来ることは幸せです。
自己を知ることが出来ることは幸せです。
自己で判断することが出来ることは幸せです。
自己はこの世界にただひとりしかいません。
自己の行く先を決めることが出来るのは自己だけです。
自己の行いを正すことが出来るのは自己だけです。
自己はそれゆえに尊いのです。
少欲知足