縁起を背負う

 ドライブから帰って来た夫は、見知らぬおじいさんを背負っていた。
「誰、その人?」
「いや、縁起を担ぐっていうからさ」
 夫は回答にならないことを言った。
「それは担ぐじゃなくて、背負うっていうのよ」
 私も関係のないことを言った。それはとりあえず、目の前にある、というよりいる問題から目をそらそうとしての事かもしれなかった。

 夫は、縁起物がとにかく好きだ。先週も両手に破魔矢とうちわとお守りを抱えて帰って来た。
「お正月以外でも、破魔矢って売ってるんだ?」
「売ってるんじゃないよ、授与してるんだよ」
 その時は、夫の回答にならない回答に腹が立ったものだ。

「で、その人は誰なの?」
「だから神様だよ」と夫が言った時にはカルト宗教を連想して恐くなったが、
「えびす様」
 と付け加えたとたんに、恐くなくなった。
 夫の背中でぐったりしているその顔を見てみると、確かに缶ビールに描かれているあの人が、身を持ち崩して零落したような感じだった。ぐったりしているくせに、笑っている。
 このほっぺたかな、と私は思った。このほっぺたの具合と笑い方は、カルトとは無縁なものだ。
「で、どうして連れて来たの?」
「神社で倒れてらっしゃったんだよ」
 神様(かもしれない)とはいえ、このように落ちぶれた人に対して敬語を使う夫が立派なのかどうか、私は判断しかねた。
「で、どうするの?」
「しばらく家で静養していただこうよ」さも当然のように夫は言い、
「ご利益あるかもよ」
 と慌てて付け加えた。
「お世話はあなたがしてよ」
 言うと夫は、力強くうなずいた。

 一か月経ってもえびす様は回復せず、ご利益もなかった。えびす様はただベッドで横になって、寝ているのか起きているのかも分からなかった。
「あのさあ」
 晩ご飯を食べ終わって、ビールを飲みながら私は言った。
「そもそも公務員同士の夫婦なのに、商売の神様を養ってなんか意味あるわけ?」
 公務員は一年に一度、決まった時期に決まった金額しか昇給しない。
「えびす様はね、もともと商売の神様じゃなく、漁業の神様なんだ。缶ビールのだって、魚抱えてるでしょ?」
「私たち、漁師でもないけど。それどころか、釣りもしたことないけど」
「まあ、海なし県に住んでるんだから、しかたないよね」
「川でもしないじゃない」
 このような前進しない会話をしながらも、夫はえびす様の体を拭いてあげている。えびす様はただぐったりしているだけだ。
「私たちの親でもない人の面倒見るなんて、わたし嫌よ」
「まあ、人類みな兄弟って言うじゃない」
「人類じゃなくて、神様でしょ」
「まあ、そうなんだけどね」
 えびす様に布団をかけて、やっと夫はビールに手を伸ばした。

 いい事もわるい事もなく過ぎていたえびす様との日々に暗雲が立ち込めたのは、三か月を過ぎたころからだった。
 えびす様のもの忘れがひどくなって、食事を何度も要求するようになった。今までとりあえず波風立たずに過ごしてこられたのは、えびす様が言葉を発することさえほとんどなかったからだと、私たちは(少なくとも私は)、気付いた。
 そのうち昼夜逆転が激しくなり、深夜にどこかに行こうとして、ベッドから転落して膝をケガした。
「あのさあ」
 私には、ビールを飲む余裕もなくなっていた。
「ホームに預けた方が、いいんじゃない?」
 夫もテーブルにうつむいている。
「でも、えびす様には戸籍がないし、介護保険料も払ってない」
 膝のケガも、市販の軟膏を塗っただけだ。
「私の友達が、民間の、有料のそういう施設で働いてるから、話してみても、いい?」
 夫は黙っていた。
「その方が、えびす様のためだと思うよ」
 ケガが痛むのか、寝ぼけているのか、えびす様はうめいている。夫はベッドの上のえびす様を見た。そして振り返ると何も言わずにうなずいて、唇を噛んだ。
 私はもし子どもができて、その子が捨て猫でも拾ってきたら、きっと同じような光景を見るのだろうなと思った。

「あの施設さあ」
 えびす様がいなくなって余裕が出てきた私は、久しぶりに料理をした。味噌で煮込んだ大根は軟らかく、すっと箸が通って、私は小さな満足を覚えた。
「えびす様が入ってから、入居者が殺到してるらしいよ。家賃あげても、希望者が減らないみたい」
「やっぱりさ、ご利益あったんだね」
 ビールを飲みながら夫は言った。その声は、悔しそうというより寂しそうだった。私はテレビに映った建物に、思わず声をあげた。
「これ」
 ん? と夫もテレビに視線を向ける。
「増える高齢者に、施設の建設が追いついていません。東京の施設はすべて満室となり、行き場を失った高齢者が他県にも殺到しています」
 リポーターがマイクを握っているのは、例のえびす様がいる施設の前だ。背景の青空と山の深い緑が、私の心をちくりと刺した。
 夫は平板な瞳でテレビを見ている。
「ふーん」その声は、どこか抑圧されたような、のん気を装っているような響きがあった。
「東京って『都』なのに、『他県』って言うんだね」
 それが近隣に負担ばかり押し付けてくる東京に対するイヤミなのか、えびす様を捨てさせた私に対する怒りなのか、私には分からなかった。
 リポーターは、港区から来たというおばあさんにインタビューをしている。
「あのさあ」
 私も缶ビールを開けた。
「猫なら、飼っていいよ」
 夫は不思議そうに私を見た。
「でもここ、賃貸だけど。ペット不可」
「神様の猫なら、ペットじゃないんじゃない?」
 夫は花が咲くように笑った。もし子どもができて、その子が猫を飼ったら、きっとこういう風に笑うのだろうなと思った。
「やっぱダメ」
「なんで」
「赤ちゃん作ろ」
 もし子宝を授かったとしたら、それはご利益と言えるのかもしれない。

縁起を背負う

縁起を背負う

夫はとにかく縁起物が好きだ。出かけると、いつもお守りや破魔矢を持ち帰って来る。そしてある日、とうとう本物の神様を連れて帰って来た・・・。

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted