
百合の君(58)
「喜林義郎は、珊瑚様と同じ赤い目をしている」
噂は上嚙島の城内にまで広がった。母に置き去りにされた珊瑚は、すれ違った父の家来たちがひそひそと話す声を聞いて、歩を早めた。うつむいて、自分のつま先だけを見る。そして部屋に入って乳母兄弟の川照見守隆の顔を見ると、やっとため息をつくのだった。
「どうしたのです?」
守隆の柔らかそうな眉が動いて、珊瑚は目を逸らした。
「いや、なんでもない」
守隆と目を合わせられないまま、なるべく明るい表情を作る。
「遊ぼう」
珊瑚が母から餞別にもらったひな人形を取り出し、悲しみに薄く笑顔を貼り付けているのを見て、また「かぐや姫」をやるつもりなのだなと守隆は思った。
守隆の幼い主は、昔から武芸よりも文芸を愛していたが、母が古実鳴に行ってしまってからは、とりわけかぐや姫に熱中していた。その偏愛ぶりは、もはや愛というより病的な妄執に近かった。
ある時、大人がその物語を「あのおとぎ話」と言ったのを聞いて、珊瑚は大泣きした。その大人は自分が君主の子を泣かせてしまったのは分かったが、何が悪かったのか思い当たらないらしく、狼狽しておもちゃを差し出してみたり、変な顔をして笑わせようとしてみたり、守隆から見ても滑稽というか哀れというか、幼心にも、自分が「こちら側」で良かったと安堵したのだった。
珊瑚の淡い水彩絵の具のような笑みを見て、守隆は心の中でため息をつき、お内裏様に手を伸ばした。
『わたしは、この国のものではありません。月のみやこの人なのです。ああ、おむかえが来てしまいました、かえらなくてはいけません』
真剣な表情で、珊瑚はおひな様を震わせる。
『ああ、あなたをうしなったらわたしはどのように生きながらえればいいというのか』
守隆はお内裏様で応じる。
『でもわたしは、この国のにんげんではない。ここにいてはいけないのです』
おひな様だけでなく、珊瑚の声も震えていた。
『これをわたくしだと思って、とっておいてくださいまし』
人影が見えて、守隆は必要以上に大きな動きで振り向いた。そして、人影が父と気付くと、とっさに人形を隠そうと腕が動きそうになったが、珊瑚が目の前にいることを思い出して、留めた。お内裏様は中途半端な具合に斜めになって、その作り物の瞳で虚空を眺めていた。
川照見盛継は女子のように遊ぶ息子の姿を見て目をひそめたが、笑顔をつくって珊瑚に向き直った。その硬直した顔は、鍛えられた体に不思議と合っていた。
「珊瑚様、お父上がお呼びです」
声をかけられて初めて珊瑚は気が付いた。盛継の顔は守隆とよく似ていた。特にその二重瞼の大きな瞳は、盛継のを少し小さく柔らかくして守隆に取りつけたようだった。眠くなると三重にもなってしまう守隆の瞼をかわいいと思っていたが、それもこの父親から受け継いだものだと思うと悲しくなる。自分の赤い瞳は、父が決して信用しているとはいえない同盟相手から譲り受けたものなのだ。
「珊瑚様」
返事をしない珊瑚に対し、盛継は困惑の色を添えてもう一度呼びかけた。その女子のように細い肩は、小さく震えていた。秋の日が愛撫するようにその顔にかかり、下ろした前髪の一本一本が黄金に染まっていた。
不意に起こった畏怖の念に盛継は言葉を詰まらせた。風に落ち葉がかさかさと鳴り、千代紙が床を滑った。室内には手毬や合わせ貝も散らばっている。
「珊瑚様」
「わかっている」
立ち上がると珊瑚はうつむき、その視線はかえって低くなった。
山城の廊下は寒かった。珊瑚は盛継の背中にも紅葉にも目をくれず、自分のつま先だけを見て歩き、そのまま父の前に罷り出た。
「珊瑚」
呼ぶ父の声は、他の大人と同じだった。どこかよそよそしく、自分を見てくれていない。
「人形遊びばかりして、学問も剣術も放り出しているそうだな」
好きで放り出しているのではない、珊瑚は思った。誰も彼もが私の赤い目を珍しそうに見る。それが嫌だと言ったところで、父(浪親)は取り合ってくれまい。
珊瑚は、実の父(義郎)と同じように、その変わった色の瞳のせいで、物心つく前から周りの人間を恐れていた。この城の大人たちが自分によくしてくれるのは、目の前にいる城主の息子だからであるが、母が古実鳴に行き、そしてその古実鳴にいる男との親子関係が取りざたされている今、自分の立場は非常に不安定なものになったと信じていた。
しかし、泣いて詫びるのも、見捨てないでくれとすがるのも、まさに血のつながらない父から受け継いだ誇りが邪魔をしてできなかった。
「そのようなことはございません」言った瞬間、耳栓を詰められたような感じがした。珊瑚は、途切れた音をつなごうとして、言葉を発した。
「まもるはなんでも知っておりますゆえ、ともにまなんでおります」
「そうなのか、守隆」
「さんごさまは大へんかしこくいらっしゃいますゆえ、ついていくのがせい一ぱいです」
つま先を見ている珊瑚の耳に、ため息が聞こえた。
「そうか、ならいい」
衣擦れの音が聞こえた。父が後ろ姿になって、珊瑚は初めて己のつま先以外を見た。
百合の君(58)