黒いオルカ
嵐が通り過ぎたばかりの早朝、その空の青さに、俺は矢も盾もたまらず出漁したのだ。
他の漁師たちは様子見で、昼ごろまでエンジンをかけることはない。
舵を操り、まだうねりがある海上を俺は進んだ。
「今日は西の岩礁へ出かけよう。嵐の後、なぜかあそこには魚が集まる」
それは師匠が教えてくれた知識だった。
師匠は俺よりもはるかに年上で、まだ漁船にエンジンなどなかった時代の生き残りだった。
俺の目にはいかにも年寄りに見え、大酒飲みで体を悪くして死んだが、もう何年も前のことだ。
この日も岩礁は好漁だった。
高価に売れる魚をいくつも引き上げ、漁船の内部はすぐにいっぱいになった。
「ふふ、これが漁師の醍醐味というやつさ」
満足した顔で俺は家路に着いたが、思わず目をこらしたのは、岩礁を離れて40分ばかり過ぎたときのこと。
「おや、あれは何だ?」
波間にチラリと見えたのだ。
水上に2メートルばかり、三角形にまっすぐに突き出すので、最初はヨットの帆かと思った。
「しかし、こんな荒天に出てくる酔狂なヨット乗りがいるのか?」
しかもその帆が、まるでゴム製であるかのように真っ黒なのだ。
その正体に思い至った瞬間、俺の体を電気のような衝撃が走りぬけた。
「あれは黒太郎だ。あれほど体の黒いオルカが、この世に2匹といるはずがない」
俺の胸の中で、心臓がドクドクと激しく打ち始める。
「しかし黒太郎なら、もう少し南の海にいるはずではないか? ははあ、今年の冬はやけに暖かかった。それでここまで北上したのか」
世界中どこの海にも、野生の鯨が存在する。
オルカはその一種。
黒太郎とはその中の一匹で、噂は俺の耳にも届いていた。
いわく、魚網を食い破り、せっかく獲った魚を半分以上持ち去る。
長いさおで一本釣りをして、やっとかかった体長2メートルを越すカジキマグロを、泥棒猫のように盗んでいく。
などなどと漁師仲間からは蛇蝎のごとく嫌われ、恐れられた。
黒太郎を退治せんものと、過去に何人もが挑み、すべて失敗していた。
それで絶命した者もおり、有名な網元の跡継ぎ息子だったから、その死が当時、世間でかなりの騒ぎになったとは、俺も師匠の口から聞かされていた。
その黒太郎が今、俺の船と平行に泳いでいるのだ。
あまりの出来事に呆然としたが、俺の体が動きを止めたのは、ほんの一瞬でしかない。
俺には、黒太郎の心が読み取れるような気がした。
「あの嵐の中では、さすがの黒太郎もエサにありつけなかったろう。獲物を満載した小さな漁船がそこを通りかかるとは、やつにとってはエサ箱も同じだ」
すでに俺の手は、忙しく動いていた。
まずモリを手にした。
長い木の棒の先に鋭い鉄の刃がつき、ヤリのようになっている。
網にかかった魚が大きすぎ、手で引き上げるのが不可能なときに用いるものだ。
このモリでは武器としていささか小さ過ぎるが、仕方がない…。
☆
「それであんたは、貨物船にでも当て逃げされたのか?」
それが、救助してくれた船の船員たちの第一声だった。
もちろん俺は真実を話したが、船員たちは信じない。
「ウソつけ。居眠りをして、大型船の接近に気づかなかったんだろう? 漁船をバラバラにできるほどのオルカが存在するものか」
「いや俺は…」
「何の証拠もないじゃないか。オルカのウロコ一枚、あんたは持っちゃいねえ」
「鯨にウロコがあるもんか」
「あんたの手にも体にも、一滴の血もついてやしねえ…。ああ分かったよ。波に洗われて、血はみんな落ちたというんだろう?」
結局船員たちは、俺の言葉を一言も信じなかった。
しかし親切に、港へ送り返してくれたのだ。
俺が自宅に帰りついたのは翌朝のことだったが、夜通しの漁など珍しくはない。
俺の顔を見ても家族は何も言わず、また一日が始まった。
俺が街道をテクテクと歩き始めたのは、2日後の早朝のこと。
そうやって着いた隣町は、俺が住む町よりもよほど大きかった。
その大きな町でも、すぐに探し出すことができたのだから、春日家の高名は相当なものだ。
江戸時代から続く網本、つまり漁業の元締めの要職を勤めてきた。
俺はその門を叩いたが、拒否せずに門番が中へ通したのは、俺の瞳に何かの光を見たせいか。
春日家の当代は女で、奥まった座敷で俺を迎えてくれた。
目の前に置かれた茶も菓子も高級品で、最初は遠慮したが、俺も空腹には勝てない。
朝から歩き詰めで、昼食もまだだったのだ。
「それで、どんな御用ですの?」
と女主人は言った。
声は少し枯れているが、張りは失っていない。
年齢は60歳過ぎか。
紬の高価な着物に身を包んでいる。
俺は喉を整えた。
「俺は先日、黒太郎を殺したよ」
「なんですって?」
女主人は眉を上げたが、それが精一杯の感情表現だった。
「黒太郎を殺したんだよ」
「そうですか。わざわざ知らせに来てくれたのですね…。黒太郎は当家とも因縁浅からぬ鯨でした。感謝します」
「それだけではないんだ」
その言葉に、女主人は眉をひそめた。俺の訪問を、褒美を求めてのことと疑ったのだろう。
「俺も漁師の端くれだ。動物の弱点がどこであるのか、一目で見破るすべを心得ている」
「それが何か?……」
「長十郎さんと俺は、黒太郎の体のまったく同じ位置にモリを打ち込んだのだろう」
「長十郎? 当家の春日長十郎のことですね。でも、それが何か?」
「俺がモリを打ち込んだとき、黒太郎の断末魔は、それはすさまじいものだった。見たことがあるかい? あの巨体が、まな板の上のコイのように跳ね回るんだ」
「それは大層な眺めでしょうよ」
「その時、裂けた傷口から飛び出してきたものがある」
「何ですの?」
「これさ」
ポケットから取り出し、俺は畳の上に置いた。
一応は布で包んである。
それを開く指先を、女主人は見つめた。
「これは何ですの?」
「モリの柄のカケラだね」
「モリの柄?」
「木の部分さ…。ここに焼印がある。この家紋は春日家のものだろう。これは長十郎さんのモリの柄の残りなのさ」
「まあ、なんと…」
女主人は息もつけない。
俺は柄の一箇所を指さした。
「おそらくモリは、ここで折れたのだろう。刃の部分はやがて錆びて消え、柄のみが黒太郎の体内に残った」
「これをあなたは、わざわざ届けに?」
「長十郎さんの葬式については、俺も師匠の口から聞いたことがある。義理があって、師匠も参列したそうだ」
「……」
「だがその時、遺体のない空の棺だけの葬式だったとかで、俺も少し気の毒に感じていた」
女主人はため息をついた。
「あの葬儀のことは、私もよく覚えています。長十郎は黒太郎に食われ、爪のカケラ一つ残っておらぬのです……。でもこれで、空っぽの骨壷以外のものを墓に入れることができるのですね」
「そういうことさ」
ここで俺は立ち上がろうとした。
「おやあなた、お待ちなさい。こんな大切なものを届けてくださった方を、おもてなしせずにお帰しできません」
「いや、お気遣いなく」
「だけど…」
「まだ寄る場所がある。この町には従兄弟が住んでいて、これが元は捕鯨船乗りで、黒太郎の話をぜひ聞かせてやりたい」
女主人はうなずいた。
「そうまでおっしゃるなら、お引止めはしませんが」
すでに俺は部屋を出、長い廊下を過ぎ、玄関へ達していた。
「では奥様、お父上の遺品をお届けできて幸いでした」
と俺は述べ、口を閉じたが、すぐに目を丸くした。
意外にも女主人は、くすりと笑うのだ。
「奥様、俺は何か変なことを言ったかい?」
それでも女主人はまだ笑い続ける。
「?」
やっと女主人は真顔に戻った。
だが、まだ目じりには笑いが残っている。
「あらごめんなさい。本当におかしかったものだから、ついね……」
「……」
「ねえ漁師さん、人間の一生なんて、はかないものだと思いません? 年を取ると、一日がとても短くなるのね。一年だって毎年毎年、あっという間に通り過ぎる。私も娘時代の出来事が、ついさっきのことのように感じますもの」
話の行き先がわからず、俺は戸惑っていた。
その表情に微笑み、女主人は続けた。
「鯨たちは、いったい何歳なのかしら? きっと100歳や200歳、人間の寿命なんて超越しているのでしょうね」
「何のお話で?」
「長十郎は父ではありません。私の曽祖父ですの」
意味に気づき、俺は深く頭を下げた。
「それは不明だった。お詫び申し上げます」
ゆっくりとぞうりを履き、俺は屋敷を辞去した。
その時の俺の丸めた背中、うなだれた頭の低さは、自分よりもはるかに長命な命をむやみに葬ったことへの、思いがけない後悔の現われだったのかもしれない。
黒いオルカ