生の痛み、死の贖い
時間遡行軍を率いていた、黒々とした喪服を着た女が膝をつくところを、刀剣男士はじっと見ていた。女が率いていた者たちはもういない。全て刀剣男士たちが斬った。
「おい、大将……前に出るなって」
後藤藤四郎が不安げに審神者の青年に言う。この歴史修正主義者の女は、直接彼の本丸を狙って攻めてきた。新月の夜にも関わらず、女の冴え冴えとした月色の金髪は美しく光り輝いて見えた。青年はそんな女の前に、靴音を響かせて近寄る。
「おんし、何するつもりやか」
青年のはじまりの一振りである陸奥守吉行が、冷たい声で青年に問いかける。その問いかけに青年は答えなかった。
青年は服の内ポケットに手を入れる。ごそ、かちゃり、と音を立てて取り出したのは、真っ黒な鉄の塊───拳銃であった。
周りがざわめく。彼が何をしようとしているのか、察しがつかないほど青年の刀剣男士は馬鹿ではなかった。
女は立ち上がる力も無いのか、膝をついたまま青年を見上げる。だらりと下がった金髪の間から彼を見つめるその瞳の色は、彼と同じ色をしていた。
青い青い、遠い海の色。
「お兄、ちゃん」
女が存外、か細い幼い声で呟く。青年は、そんな彼女の額に、銃口を押し当てた。
「お兄ちゃん、一緒に行こう。審神者なんてやめよう。お兄ちゃんだって、『私』がいない世界なんていやでしょ?」
呪いのように、祈りのように、女は言う。その言葉は、青年の元に攻めてきた時、最初に口にした言葉と同じだった。……もうそれしか、言えないのだ。女は、狂気に呑まれていた。
青年はぐっと唾を飲み込み、その拳銃のセーフティーを外し、引き金に指をかけた。
「……俺の妹は死んでる。死んでるんだよ」
「お兄ちゃん」
「俺はお前の、お兄ちゃんじゃないよ」
タン。と軽い音が響く。音とは裏腹に、撃つことに慣れていない青年の体はよろめき、後ろに倒れる。
それを受け止めたのは、陸奥守吉行だった。
「……陸奥守」
「ようやった」
「……、……」
青年は陸奥守吉行の腕の中で、がくりと項垂れる。気を失ったのだ。
───女は、二度と動かなかった。
審神者の青年が、仕事が手につかなくなってもう一週間になる。
「あるじさん、まるで魂が抜けちゃったみたい」
そう言ったのは、近侍の乱藤四郎だ。彼は今まで青年を近侍として支えてきたが、青年が『妹』を撃った日から、彼とまるで会話が成り立たないのだ。青年は乱藤四郎の姿を黙って見つめて、ふいと目をそらしてしまう。
「心配だな……あの時、止めていればよかったのかな」
「後藤もそう思う? 歴史修正主義者だからって、あくまでも別の歴史の妹さんだからって、家族を撃つのは……あるじさんには、重かったのかな」
そう、あの歴史修正主義者の女は、青年の妹だった。厳密には、生きて成長していた歴史の妹だ。青年の妹は幼い頃に交通事故で亡くなっていると、彼の刀剣男士たちは彼に教えられたことがある。長い金髪に青い瞳の少女だったという。青年が乱藤四郎を見る時の目が、悲痛さと共に愛情に溢れていたのは、自分を妹に重ねているからだと乱藤四郎はとっくに察していた。
「……妹さんが、あるじさんの前で二度も死んだようなものだもんね」
乱藤四郎は目を伏せた。
「大将が、向こうに行かなかっただけ良しとしようぜ」
後藤藤四郎が乱藤四郎の頭を撫でる。その目は主への心配に満ちていた。
後藤藤四郎は青年が陸奥守吉行の次に出会った刀剣男士だ。陸奥守吉行と共に青年をずっと支えてきた。だからこそ、青年が───主が、大将が、敵に回らなかったことに感謝をし。そして、今ぬけがらのようになってしまった彼を、心の底から心配していた。
「陸奥守さんは、どう思ってるんだろう? 後藤、聞いてる?」
「いや、聞いてない。……大将が元気ないと、本丸もバラバラになっちまったみたいだ」
「そうだね……」
青年のはじまりの一振りは、この状況をどう思っているのだろうか。元気になれ、と無理は言わないから、せめてまた話してほしい。そう、本丸の誰もが、思っていた。
心の柔い青年は、案外刀剣男士に慕われていたのである。
「今、良いがか?」
「……寝るところ」
「まあそう言わんで。おんしの好きな甘い酒を持ってきたがや」
「好きだけどさ……酒弱いの知ってるだろ……?」
「まあそう言わんで」
「強引」
夜、陸奥守吉行は青年の部屋に押し入った。甘い甘い梅酒の瓶と杯二つを持って。青年は何やかんや、いつだってこういった酒の誘いは拒否しない。だが、その言葉には勢いが無く、明らかに元気がなかった。
あの新月の日から一週間、ようやく月が出てきた空を見上げながら、陸奥守吉行は青年の杯に酒を注いだ。甘い香りが漂う。
「つまみは?」
「おんしがいつも持っちゅーやつ。チョコレートがあるろう」
「あー、まあ、確かに。梅酒には合うな」
ごそごそと青年は箱を机の引き出しから取り出す。甘いものが好きな彼が、ひっそりと大切にしていたお高めのチョコレート。陸奥守吉行は、美しい装飾が施されたその粒を何てこともなく自分に差し出す青年に、微笑ましい気持ちになりながらも、大切なものへの執着も失ってしまったのだろうかと、怪訝な気持ちになった。
口に含んだ梅酒の甘さが、喉の奥でほのかに焼けていく。
静かだった。まるで時間が止まったように、本丸の広い部屋はしんとしている。月の光が障子越しに差し込み、ふたりの影をぼんやりと浮かび上がらせていた。
青年が、杯を見つめながらぽつりと呟く。
「……この一週間、夢を見てた気がするんだ」
「どんな夢やった?」
「妹が、まだ生きててさ。俺の後ろをちょこちょこついてくるんだ。泣き虫で、怖がりで、でも無邪気に笑ってて。俺、なんか、ほっとして……。それがさ、急に、血まみれで俺を見上げて、『なんで?』って言うんだよ」
杯を置いた青年の指先が、かすかに震えていた。
「……俺が殺した。二度も、俺が、俺の手で」
その声は笑っているようで、泣いていた。
陸奥守吉行は何も言わなかった。ただ、そっと自分の杯を置く。しばらく、ただ波のように静かな沈黙が流れた。
「……俺さ」
青年はぽつりと、呟くように言った。
「俺が死んでればよかったのかもしれない、って。……そう思ったんだ。ずっと。あの日から、ずっと。妹が死んだ時から、俺が代わりだったら、って。母さんも、父さんも、泣いてて。妹だけがいなくなって、俺だけが残って……」
彼の指が、机の端をかすめた。まるでそれにしがみつくように。
「今回のことだって、あれは確かに別の歴史の人間だったんだろ。でも、俺の目には……生きてたはずの、俺が救えなかったはずの……妹で。俺が、生きてる意味なんてあるのかなって……そう思っちゃったんだ」
その言葉には、もう強がりも理屈もなかった。ただ、心の奥底からあふれた、生の痛みそのものだった。
陸奥守吉行は、静かに立ち上がった。
そして、迷いも照れも見せず、座ったままの青年の背後にまわる。
青年が振り返る前に、彼の肩を、腕を、そっと包み込むように抱きしめた。
背中から、体温が伝わる。
───自分は背後にいる。けれど、支えている。いざというときには、自分がこの背を守る。そういう抱きしめ方。
「……何してんだよ、陸奥守」
青年の声は少しだけ掠れていた。
「おんしが泣くときは、いつもひとりで泣くろう。……そんなん、わしは好かん」
陸奥守吉行の言葉もまた、ささやくようだった。
「誰かが死んだときに、生き残った側が『代わってやりたかった』って言うのは、決して間違いじゃない。けんど……おんしが死んだら、また誰かがそう思う。そんで、今度はそいつがまた『自分が死ねばよかった』って、そう言うがや」
彼は、青年の手を握った。
「それは、あまりにも苦しい連鎖ぜよ。わしは、もうそんなの見たくない」
青年は、黙っていた。
夜の静けさの中、遠くで虫の声が鳴いた。
「おんしは、生きちゅう。妹さんの分まで生きちゅう。それは、ようやっとる証拠や。……わしは、誇らしいき」
少しして、青年が笑った。いや、泣きながら笑ったのかもしれない。
「……なあ、陸奥守」
「なんぜよ」
「お前が俺のはじまりの一振りで、本当によかった」
「わしもぜよ。……生きちゅうおんしと、ここにおれて、ほんまによかった」
杯の中の酒は、いつの間にか空になっていた。
「陸奥守」
「おん」
「俺、明日早起きするよ。それでみんなに謝る、心配かけてごめんって」
「おう、それがえい」
ふたりの間に漂う甘い香りは、ほんの少しだけ、悲しみをやわらげていた。
生の痛み、死の贖い