胸がチクリと痛んだら 〜プロローグ〜

朝比奈 旭(あさひな あきら)は、自他共に認める無表情な独身女性。三十四歳になった今でも、恋人は作らず、気ままな独身生活を過ごしている。
変わりばえのない毎日を、ただ淡々と過ごす彼女を囲むのは、旭に懐いて離れない年下の女性、高橋美咲。そして同僚で同い年の迫田正臣。

ある日、旭の周囲が急に騒がしくなり始める。彼女にとっては小さな変化のはずだった。しかし、やがてそれは大きな渦となって、旭や美咲、迫田を巻き込んで行く。

スーパーマン


「なぁ旭」
「なに?」
「聞いて驚け」
「何を?」
「俺、スーパーマンになる」
「・・・なに?」
「俺、スーパーマンになる」
「 あー・・・なに?」
「人間さ、一生かけても、全世界は巡れないじゃん?」
「・・・うん」
「でも、情報を得る事で、記憶に残す事はできるだろ?旅行雑誌を読んだり、テレビ番組を見たり。それで、行った事のない場所でも、仮の思い出にはできる」
「うん。で、それとスーパーマンと何の関係があるの」
「俺はね、その応用編に、チャレンジする。実際に体験しなくても、『経験』として記憶に残すんだ。人から聞いた話を、噛み砕いて想像して、脳内に取り入れる。だから俺は、極端な話、どんなジャンルの人間にもなれるんだ。つまりスーパーマンってわけ」
「・・・はい?」
「わかんない?」
「わかんない」
「つまんないなぁ」
「何でスーパーマンになる必要があるの。生きる上でそんなにたくさんの経験なんて必要ないでしょ。自分の周りにある日常だけで十分だよ」
「それは『生きる』んじゃなくて『生活する』上での話だ」
「揚げ足取らないでよ、湊の妄想に付き合ってるのに」
「まぁつまりさ、俺の日常なんて、ずーっと同じ事の繰り返しだろ?きっと、このままで、人並みの人生すら送れない」
「そんなの分からない」
「分かるよ、俺には」
「泣き言を言うんなら、私は帰るよ」
「違うって、まぁ聞けよ。さて、ここで本題だ。旭、お前は俺に比べて、広い世界に住んでる」
「私?」
「そう。お前は俺と比べれば、数段も広い世界を知る事が出来る。それは、旭が色んな人と出会えて、色んな場所に行けて、色んな物に触れられるから」
「まぁ、言うなればそうだね」
「今の俺にとって、旭はスーパーマンだ」
「はい?」
「お前は、俺のスーパーマンだ。だから、俺はお前と一緒にスーパーマンになる」
「さっきから何の話してるの」
 強いビル風が二人の声に割って入った。
 湊は、隣に座る旭の横顔を眺めた。前髪が風に押されて流れている。細く長い首、すっきりとした鼻筋、薄い唇。切れ長で少し眠たげな二重の目は、遠くに向けられていた。
「旭さぁ」
「ん?」
「なかなか美形だよな」
「そお?」
「お前の顔好きだ。・・・髪、伸ばさないの?長いのも似合うと思うよ」
「長いと面倒くさい」
「でも、似合うと思うよ」
「病室に戻ろう、風が強くなって来た」
「そうだな。押して」
 旭は立ち上がってジーンズの埃を払うと、湊の後ろに回った。車椅子のハンドルに手をかけ、ゆっくりと力を込める。乾いた音を立てて車輪が動き出した。
 ふいに、湊の喉がヒュッと鳴った。旭が顔を覗き込むと、眉間にシワを寄せて息を吸い込む白い横顔が見えた。
「苦しい?」
「・・・いんや、全然。何で?」
「ヒューヒュー言ってる」
「これはデフォルトだよ」
 湊がクスクスと笑う。と、不意に空を見上げた。
「・・・飛行機だ、旭」
 湊の言葉につられて、旭も空を見上げた。二人の頭上はるか高い位置で、太陽に反射した機体が白く光っている。ビル風に混じって、かすかにエンジン音が聞こえて来た。
「飛行機だ。旭、飛行機」
 湊は、独り言のように呟いた。旭は、小さく笑った。
 しばらくの沈黙。突然、湊が「そっか」と呟く。
「俺と旭は、リンクするんだ。お前の経験を聞いて、噛み砕いて消化して、んで想像して、広げて、俺の経験にする」
「またその話?」
「俺は、間接的に、お前の人生を生きるんだ」
「おかしな事ばかり言ってると、婦長さんに告げ口するから」
「それは困るな。これ以上薬を増やされたら、廃人になる」
 湊は手のひらを空に向けると、小さく光る飛行機に重ねた。ゆっくりと握る。旭は怪訝な顔で尋ねた。
「・・・何してんの?」
「捕まえたんだ、飛行機。これで俺は空も飛べるぞ」
「話が変わって来てる」
「何でもアリだよ。俺の頭の中だもん」
「今日の湊は、おかしいな」
「そぉか?」
「支離滅裂だ」
「そぉか?」
 空を仰いだまま腕を下ろそうとしない湊に構わず、旭は車椅子を押した。

 ふと見下ろした湊の口元が、少しだけ笑っているように見えた。

胸がチクリと痛んだら 〜プロローグ〜

胸がチクリと痛んだら 〜プロローグ〜

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-05-21

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