ドーナッツの祈り

小児病棟で出会った子供たち。サオリちゃんとアユム君は退院していくが、一番元気なマキちゃんは……。

小児病棟で知り合った子供たちの祈りと、お地蔵様の物語。

 ちり紙に薄墨をぼたぼた落としたような雲から、ねずみ色の雪がわらわら湧いてきます。サオリちゃんが入院したのは、そんな寒さ厳しい朝の事でした。
 クリスマスには家族四人で、大きなチキンとケーキを美味しく食べたのに、翌日からお腹が痛くなり、何にも喉を通りません。いくらお薬を飲んでも、ゲーゲー吐いてしまいます。脚は自分のものじゃないみたいにだるく、肌には、不気味な紫色のはんてんが浮かんできました。
 近所のお医者さんでは手に負えないと言われ、お父さんが自分の足で立てなくなったサオリちゃんを抱き上げて、町の大きな病院へと連れて行きました。
一週間、サオリちゃんは怖い夢を見ていました。真っ黒いとげとげの体をした悪魔がお腹の中で暴れています。サオリちゃんの視界は気味の悪い赤に染まり、痛くて苦しくて、死んでしまうんじゃないかと思うほど。
 「サオリ、お母さんが付いているからね。」
 泣きそうなお母さんの声が聞こえてきます。
 「お地蔵様、お地蔵様、サオリちゃんを元気にしてください」
 それとは違う所から、サオリちゃんの知らない、花びらのように優しい声が、エコーをかけたように響いてきました。
 「誰だろう? 」
 同じ年ごろの子供の声のように聞こえます。その声が繰り返されるたび、血のようだった辺りの色は、うっすら青く光り始めました。
 ぽうっと、暖かい金の光に包まれた、優しいお顔のお地蔵さまが、手を合わせながら降りてきました。その輝きに、悪魔は解けて消えてしまいます。お地蔵さまはサオリちゃんの前に降り立つと、にっこりしながら右の手をお腹に当ててくれました。痛みがすうっと引きました。

 サオリちゃんはぱっちりと目を開きました。そこは薄暗い所でした。ピーッピーッピーッっと、何かの機械の音がします。子供の泣き叫ぶ声。大嫌いな消毒液の匂い。サオリちゃんのか細い腕には、点滴の針が刺さっていて、そこへ透明なお薬が、ポタリポタリと落ちています。 
 「あっ、サオリ、起きた、よかった! 」
 かたわらでは、見たこと無いほどげっそりとしたお母さんが、起きあがったサオリちゃんを見て、目頭を押さえました。
 「良かったね、サオリちゃん。きっとすぐに、お地蔵さまが治してくれるよ。」
それは、小麦色のつやつやした肌の、ふっくら丸い女の子でした。柔らかい茶色の髪を、高いポニーテールに結んでいます。
 「あたし、マキ。隣のベッドなの。よろしくね、サオリちゃん」
 マキちゃんはにっこりと微笑みました。マキちゃんの声は、あの夢で聞こえた声によく似ていました。
 「ここって、どこなの? 」
 お母さんが言いました。
「イダイの、ショウニビョウトウよ。病気になった子供が入る病院」
 サオリちゃんは周りを見回しました。暗いと思っていたお部屋には、ちゃんと窓がありました。でも、外側にくっつく様に建物が立っています。薄茶色の床に、真っ白い壁で仕切られた部屋には、六つのベッドが並んでいて、サオリちゃんを含めて五人の子供がいます。それぞれ、看病するお母さんが付きそっているようです。どの子もお母さんも、灰色のセロファンをかぶせたように、うっすらかげった顔色をしています。
 サオリちゃんはマキちゃんに目を戻しました。小麦色の丸い頬は、バラ色に染まっています。腕も首元も、小さくて細いサオリちゃんのとは、比べ物にならないほどふっくらつやがあります。
(マキちゃんはどこが悪いんだろう? )
 サオリちゃんは不思議でした。

 「お向かいのベッドのシン君は、カワサキ病っていう、お熱が高くなる病気なの。まだ一歳なんだよ。鼻にチューブが入っているのは、ユウ君。二歳なのに歩けないの。心臓が悪いんだって」
 マキちゃんは301号室の子供達のことを、色々と教えてくれました。
 同じ五歳なのに、背も高くてマキちゃんはお姉さんみたいです。あともう一人いる同じお部屋の子供は、アユム君という、メガネザルみたいな男の子でした。サオリちゃんと同じ病気のアユム君は、ずっと軽くて、廊下を走り回っては、看護師さんたちに叱られています。
 同い年の三人は、すぐ仲良くなりました。
 「早くお家に帰りたいね」
 みんな口々に言い合いました。

 サオリちゃんたちが仲良くなったのと同じように、お母さんたちもすぐに仲良くなりました。
 「とりあえずコウイショウは残らないようで、ほっとしています」
 くるくるパーマのアユム君のお母さんが、編み物をしながら言います。
 「ウチはまだどうだか……。心配です」
  一番若くて痩せているサオリちゃんのお母さんも、帽子を編む手を休めます。
 「ウチはタハタが問題で。今はノウカンキだけど。年寄りも四人いるし、この子の下にも二人いるし。マキのご飯を作るお勉強できるかしら……」
 マキちゃんのお母さんは体が大きくて、マキちゃんよりも日に焼けています。
 サオリちゃんは時々、お母さんたちのおしゃべりを、ぼんやり聞いていたのです。

 「サオリ、もっと食べないと病気治らないわよ。」
 お母さんが険しい顔をします。
 「だいたい、あんまり食べないから体も小さいし、すぐにお熱出すのよ」
 「だって、このご飯味がしないんだもん」
 サオリちゃんのお箸は、半分ぐらいで止まります。病院のご飯は、お味噌汁もお魚も、お家で食べるのよりずっと、塩味が薄いのです。
 「おいしくないから食べたくない。ボクナポリタンがいい」
 右側ではアユム君もごねています。
 「サオリちゃん、アユム君、好き嫌いしてると元気になれないよ」
 左側でマキちゃんが微笑みました。
 「マキちゃんは残したりしないの? 」
 「うん」
 サオリちゃんはマキちゃんのご飯を見ました。お魚と野菜は、サオリちゃんの三倍ほど。でも、お茶碗の中のお米は、ほんの一口ぐらいしかありません。
 「それがマキちゃんのご飯なの?残したんじゃないの? 」
 「うん。大事に取っておいて、最後に食べることにしているの」
 「それしか食べられないの? 」
 マキちゃんは、悲しそうに笑ってうなずきました。

 今日はサオリちゃんのおばあちゃんが、弟のレン君を連れてお見舞いに来ました。箱いっぱいのドーナッツを持って来てくれたのです。
 やんちゃなレン君は、お部屋の中をパタパタ駆け回ります。同じ二歳のユウ君につながれた、ピーピー鳴る機械を指さして聞きます。
 「あれなあに? 」
  ユウ君がしゃべるのを、サオリちゃんは聞いたことがありません。立って歩くもの見たことありません。ユウ君のお母さんは悲しそうに、レン君を眺めていました。
 お祖母ちゃんが病室のみんなにドーナッツを配りました。アユム君は真っ先に頬張っています。サオリちゃんもやっと食欲が出てきたところで、大きな口でかぶりつきます。
 「マキちゃんは?ほらどうぞ」
 お祖母ちゃんが言いました。ちょうど三人のお母さんは、お部屋の外でお話しています。
 マキちゃんの眼は、泥棒がダイヤモンドを見た時のようにギラッと光りました。いつもの、お姉さんみたいな マキちゃんじゃありませんでした。
 何かと戦いながら、そろそろと、マキちゃんはその右手を、ドーナッツに伸ばしました。
 ビクリ、ドーナッツを握ったマキちゃんの手が硬くなって震え、ドーナッツは床に落ちてしまいました。
 マキちゃんのつやつやとした顔色は、一瞬で真っ青になりました。目はグリンと白目になって、口からはぶくぶく泡を吹いて、マキちゃんはひっくり返りました。
 「わーっ! マキちゃんが死んじゃった! 」
 サオリちゃんもアユム君も、おびえて泣き出しました。すぐに看護師さんたちがやって来て、マキちゃんを抱えていきました。

 それなのに夕方になると、元通り元気になったマキちゃんは、お部屋に戻ってきました。あれが見られたくはない姿だったことが、サオリちゃんにも良く分かりました。
 「これがあたしの病気なんだ。時々、ホッサっていうのが起きるの。甘いものを食べるとひどくなるんだって。病院に来てからはずっと良かったのに…。やっぱり神様は、あたしにドーナッツ食べるなって、言っているのかな? 大好きなのにな……」
 冷たい蛍光灯は、マキちゃんの悲しい笑顔に、青い影を作っていました。サオリちゃんはマキちゃんに励ましてもらった分、自分も返したいと思いました。
 「大丈夫だよ。マキちゃんもすぐに治るよ。」
 マキちゃんの顔の影は晴れませんでした。

 サオリちゃんは飽き飽きしてきました。お見舞いのお客さんたちの持ってくるのは、必ず甘いお菓子でした。しょっぱいおせんべいやスナック菓子は、しばらく食べていません。病院のお食事も、とても薄味です。お母さんが夜食に食べているカップラーメンが、お醤油の香りも妖し気に、サオリちゃんの食欲をそそります。
 「お母さん、一口ちょうだい」
 「ダメ! 」
 お母さんはすごい剣幕でした。
 「しょっぱいものは絶対にダメ!きちんと治るまで、ラーメンは食べちゃいけません」
 サオリちゃんは口いっぱいによだれをためて、お母さんのすするラーメンを見つめていました。

 「どうして病院って、おいしいものが無いんだろうね」
 アユム君が折り紙しながら言いました。
 「ほんとほんと。ここのご飯味がしない」
 サオリちゃんもツルを折りながら言います。
 「早く良くなるように、お地蔵さまにお願いに行こうか」
 マキちゃんが言いました。
 「ねえマキちゃん、いつも言っているお地蔵さまって何? 」
 「病院の中庭に、お地蔵さまがいるの。お地蔵さまは子供が好きだから、お供え物を持って、お母さんに気付かれないようにお参り出来たら、すぐに病気を治してくれるの」
 マキちゃんはそう答えました。
 「じゃあさ、マキちゃんの言う通り、みんなでお参りしようよ。折り紙でお供え物、いっぱい作ってさ」
アユム君が眼鏡の奥の目をキラキラさせました。
 「賛成! 」
 三人は一生懸命お供え物を作りました。最初は普通の折り紙だったのに、何時の間にかみんなは、自分の食べたいものを紙で作り始めたのです。
 「これナポリタン、ソーセージ入ってるの」
 アユム君がオレンジ色の紙を細く切って、緑と茶色の切れはしをまぶします。
 「これラーメン。チャーシューがいっぱい」
 サオリちゃんもクリーム色の紙を、さらに細く切ります。
 「これドーナッツ。チョコとナッツがのってるの」
 マキちゃんは茶色い紙を丸く切って、真ん中を空けました。
 三人は、こっそりお部屋を抜け出して、迷路のような廊下を行き、誰もいない中庭へと出ました。
 真冬の高い空は、暗い病室に慣れた三人の目に、まぶしく青い光を投げかけます。しばらく忘れていた外の寒さに、三人はぶるっとなりました。すっかりと綿帽子をかぶったような中庭で、誰かがお地蔵さまから、雪を除けてくれた様でした。
 赤い頭巾のお地蔵さまは、にっこりと微笑んでいます。それを見た時サオリちゃんは、このお地蔵様なら絶対、願い事を聞いてくれると思いました。
 「お地蔵さま、お地蔵様、三人の病気が早く治りますように。食べたいものが食べられますように」
 三人はたくさんお供え物を捧げて、一生けんめいお祈りしました。

 その晩、三人は夢を見ました。
 そこは、懐かしいレストランのようなお部屋でした。オレンジ色の電灯が、暖かな光を投げかけます。
 お地蔵さまが笑っています。よだれかけの代わりに赤いエプロンをしめて、クリーム色のタイル張りの台所に立っています。三人の食べたいものを何でも、お料理してくれるのです。
 アユム君にはナポリタン。ケチャップのたっぷりからんだ柔らかめの麺には、香ばしく焦げ目がついています。
 サオリちゃんにはラーメン。おしょうゆ味で、チャーシューで麺が見えないほど。
 そしてマキちゃんにはドーナッツ。チョコにホイップに、雪のようにお砂糖をまぶしたの。
 台所からはいい匂いの湯気が立ちこめて、オレンジの光が、三人の弾けるような笑顔を包んでいました。
 「好きなだけ食べなさい」
 お地蔵さまは黙っていましたが、きっとそう言っていたんでしょう。みんな分かっていました。

 その二日後、アユム君は退院しました。「これからユキノジ亭に行くんだ」と、レンズで大きくなった目を輝かせ、お母さんをせかしていました。
 その三日後、サオリちゃんも退院することになりました。
 お家からはお父さんとレン君が迎えに来ました。サオリちゃんは久しぶりに普段着に着替えて、お部屋のみんなに挨拶しました。
 「マキちゃん、仲良くしてくれてありがとう。お家に帰ってもお友達だからね」
 「うん、サオリちゃんも元気でね。また戻って来ちゃだめだよ」
 マキちゃんは自分のことのように嬉しそう。でした。
 サオリちゃんは不思議でなりません。一番元気なマキちゃんが、最後まで退院できないのです。
 「シノヤマさん、お世話になりました。娘と仲良くしていただいて」
 「いえいえこちらこそ。すっかりお世話になってしまって。同い年の子がいて、マキも心が晴れた様でした。この先長いトウビョウセイカツとなるでしょうが……」
 お母さんたちは大人の話をしています。
 「マキちゃんもすぐよくなるよ。お地蔵さまが守ってくれるよ」
 マキちゃんはお姉さんの様に、しっかりと微笑んでいました。

 サオリちゃんは、退院したのでもう好きなものを食べてもいいと思っていました。しかしそうではなかったのです。お家のご飯も味が薄いのです。ラーメンも食べさせてもらえません。
 毎朝お母さんは、サオリちゃんのおしっこを入れる、紙コップを渡しました。そこに細長い紙を入れて、赤いか青いか見るのです。お母さんは真剣に記録していました。
 一か月後、サオリちゃんはお母さんと病院に行きました。お医者さんはサオリちゃんをのぞきこんでにっこりしました。
 「もう大丈夫だよ。好きなものを食べてもいいよ」
 その帰り、サオリちゃんはお母さんと日光軒へ寄りました。お母さんのお顔は、一足早く春が来たようでした。
 「好きなものを好きなだけ食べなさい。ラーメンも、餃子も、チャーハンも。何をどれだけ頼んでも、今日は怒ったりしないからね」

 それからサオリちゃんは、一生けんめい、ご飯もおやつも食べました。嫌いだったニンジンもピーマンも、シイタケだって食べました。「本当は好きなんだ」と、強く思って食べると、不思議とおいしく感じました。
 げっそりやつれた体もすぐ元に戻り、そればかりか、小さかった身長もずんずん伸びて、毎日お外で走り回っても、熱が出なくなりました。

 一年後、サオリちゃんは再び病院にやってきました。病気になったのではありません。「もうすぐ小学校に上がるから、ごあいさつしておこうね」とお母さんが言ったのです。
 一年ぶりに来た病室は、相変わらず薄暗く、雪雲の下にいるように湿っぽく感じました。
 シン君は退院していました。でも、ユウ君は、一年経ったというのに全く大きくなっていませんでした。サオリちゃんはお家のレン君のことを思い出しました。もう達者におしゃべりできるようになってきたレン君。
 マキちゃんがいたベッドには、知らない子供が横になっています。サオリちゃんは看護師さんにたずねました。
 「マキちゃんは?元気になって退院したの? 」
 看護師さんはしゃがみこみました。その顔は、底の方に悲しさがある分、とても優しい表情でした。看護師さんは、サオリちゃんの目を見ながら言いました。
 「マキちゃんはね、子供病院に行ったの。マキちゃんの病気は治らないの」
 サオリちゃんの心には、薄い氷を踏みぬいた時のように、悲しみが鋭く広がりました。
「学校は? 小学校には行けないの? 」 
「マキちゃんはこども病院の中の学校に通うのよ」
 マキちゃんの小麦色の笑顔と、悲しそうな顔と、最後に見たお姉さんみたいな表情が、光って消えるように浮かびました。
 「じゃあ、マキちゃんは、一生ドーナッツを食べられないの?甘いものは全部、シュークリームもケーキもクッキーも? 」
 看護師さんは黙って頷きました。サオリちゃんはしばらく言葉が出てきませんでした。
 お母さんが、ナースステーションにお菓子を届ける為に、先を行ったのを見て、サオリちゃんはきゅっと行き先を変えました。迷路のような廊下を駆け抜けて、中庭へと飛び出しました。
冷たい雲の向こうで、太陽が弱弱しく燃えています。凍り付いたベンチ。木々に付いたザラメのような雪。ビル風の強い中庭に、あの日のようにお地蔵さまが微笑んでいます。
 サオリちゃんはしゃがみ込んで、一心に祈りました。
 「お地蔵様、お地蔵様、どうかマキちゃんの病気を治してあげてください。どうしてもそれが出来ないのであれば、せめて、夢の中では毎日、大好きなドーナッツを食べられるようにしてあげてください」
 雲は白く光る大粒の雪を落とし始めました。春が近いことを知らせる便りです。それはまるで花びらが舞っているようでした。
 身を切る風の中、お母さんが探しているのも忘れて、サオリちゃんは祈り続けるのでした。

                   了

ドーナッツの祈り

ドーナッツの祈り

小児病棟で出会った子供たち。運命の残酷さを知る祈りの物語。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-18

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