名と芽生え

 サナトリウムの中庭には、午前の光が柔らかく降りていた。
 冬芽をつけた枝が風に揺れている。
 審神者……花は膝に毛布をかけ、車椅子に腰かけながら、陽の当たる場所で本を読んでいた。

 そのすぐ隣に、加州清光はいた。
 何も言わず、ただ静かに、花の横顔を見ていた。

「……ねえ、加州さん。もうすぐ来るの」
「誰が?」
「私の……後継。新しい審神者」
 その言葉に、加州清光のまぶたが僅かに揺れる。
 花の指は薄いページをそっとめくりながら、静かに続けた。

「私と同じ遺伝子、同じ人工子宮。けれど……私ではない、子」
 加州清光は少し口を開きかけて、けれど閉じた。
 そしてそのとき、遠くから足音が聞こえた。
 小さく、小さく、軽い音。
 風のように駆けてきたその子どもは、職員に手を引かれていた。白い服、まるで蕾のような幼いまなざし。
「こっちにいらっしゃい」
 花が微笑んで呼ぶと、幼子は一度だけきょとんとした目で加州清光を見て、それからおずおずと歩み寄った。

 加州清光は何も言えなかった。
 その子は、花に似ていた。
 けれど、違った。
 目の色も、声も、歩き方も、すべてがどこか、空白を抱えていた。

「この子は……そう、蕚。あなたの……未来を託す子よ」
 花がそっと蕚の頭を撫でる。蕚は小さく声を出した。
「……うてな?」
「そう。蕚。あなたは私じゃないのよ、あなたは、あなた」
「うてなは……うてな……」
「名前、嫌だったかしら?」
「ううん! うれしい」

 たった今、幼子の空白がほんの少し埋まったような気がして、加州清光はようやく、口を開いた。

「……はじめまして、蕚さん」
 彼に声をかけられた蕚は一瞬だけ戸惑ったような顔をして、それからぽつりとつぶやいた。
「……清光は、おかあさんのこと、すきなの?」

 その瞬間、時間が止まったようだった。
 花は目を伏せ、微笑んだ。
「おかあさん?」
「うん、なまえをくれた。だから、おかあさん。清光、おかあさんがすきだから、ここにいるの?」
 加州清光は、ほんの少しだけ瞳を伏せて、答えた。
「そっか……うん。世界で一番、だいすきなひとだよ」

 加州清光の言葉を聞いた蕚は頷いた。そして───とても静かに、小さな声で言った。

「……じゃあ、うてなも、きっと清光のことだいすきになるね」
 加州清光はその言葉に、はっと目を見開いた。
 けれど蕚は、ただ風を見るように視線を逸らしていた。
 その目は花に似ていて、けれどまるで、花のいない未来を見ているようだった。

「ふふっ。蕚、加州さんはとっても優しいのよ」
「うん。わかるよ」

 その声に、加州清光は胸の奥が痛んだ。花に初めて名を呼ばれた日を思い出す。うれしくて、このひとならと思って───でも、きっと、いや、必ず、このひとの命は……終わる。花と自分に未来はない。
 そして、この幼子、蕚との未来が始まる。それは明るくも───加州清光にとっては寂しいものであった。

 蕚はまた、ちらりと清光を見上げた。幼い目には迷いがなく、ただまっすぐで。その瞳の中に、「いずれ花は消え、あなたと自分は残されるのだ」という、あまりに冷静な未来が、確かに映っていた。

 加州清光は、ふっと笑った。

「……ねえ、蕚さん」
「なあに?」
「その名前、すごく綺麗だね。“花”を包む“蕚”。あんたに、ぴったり」
「うてな、きれい?」
「うん、きれいだよ。すごく、すごくね」

 そう言って、加州清光はそっと蕚の頭に手を伸ばした。細い髪を、優しく撫でる。ぎこちなく、でも心をこめて。

 ───この手が、花の髪を撫でていたときと、同じように。

 蕚は目をぱちぱちと瞬かせて、それから小さく、にこ、と笑った。
 その笑顔は、やっぱり少しだけ、花に似ていた。

 だけど違う。
 この子は、花じゃない。
 この子は、蕚。
 これから命を育て、やがて加州清光と向き合っていく、新しい主。

 ……そうだ。
 もうすぐ、この手は、あの人を撫でられなくなる。
 けれど、それをこの子に悟らせてはならない。

 だから、加州清光は笑ったまま、撫で続けた。

「……よろしくね、蕚さん。これから、よろしく」
 蕚はこくんと頷いて、少しだけ加州清光に身を預けた。冬芽の風が通り抜け、空には白い雲が浮かんでいた。

 花の傍らで、加州清光は思う。

 さようなら、花さん。まだ言わない。けれど、もう準備をしているよ。
 この小さな頭を撫でながら、俺は今、あんたのいない世界に手を伸ばしている。

 ───優しく、少しずつ、そっと、そっと。

名と芽生え

名と芽生え

加州清光と花と蕚 出会いの話

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-18

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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