
百合の君(57)
ぼんやり光る命のような虫の声が、部屋の中にまで届いていた。それは幽かではあるがあまりにはっきり聞こえるので、隅に一匹いるのではないかと思い、蝶姫は暗がりを目で探った。闇はそれ自体が生きているかのように動いていた。正巻川が岩を削る音が絶え間なくしていることに、その時になってようやく気が付いた。
私がいるのは古実鳴ではない、と改めて蝶姫は思った。そして、視線を浪親の瞳に移すと、その中の氷を溶かそうというように熱く見つめ、いざり寄った。
「な、何をしておられる」
浪親は目を逸らした。追いかけるように、蝶姫はその袖を掴む。絹の感触は、ずいぶん久しぶりのような気がする。
「妻が交換されたのですから、私は百合の君の代わりをしなくてはなりませぬ」
蝶姫は浪親の手を取った。剣で鍛えた筋肉を、滑らかな肌が覆っている。そのたくましい手のひらが自分の細い指をすり抜けて手首を通り、腕を這いあがってくる様を想像して、蝶姫の体に震えが走った。
「そこまでは言うてはおりませぬ」
浪親はその手を振り払う。この意志の強さだ、と蝶姫は思った。この意志の強さで、一時は野盗にまで身を落としながら、ここまで身を立てて来たのだ。しかし、浪親がどんな城でも落とすように、蝶姫にもこの男を篭絡できるという自信があった。
「浪親様のお子様は、珊瑚様しかおらぬではありませんか。珊瑚様に万一のことがあったら、どうなさるのです」
蝶姫はわざと困ったような表情を浮かべた。浪親の目が、こちらに向く。蝶姫はその目の下の傷跡を軽く撫でた。
「そんなに怖い顔をなさらないでくださいまし」
「しかし、それでは喜林殿に申し訳が立たぬ」
蝶姫は自らの襟元に手を差し入れた。胸が浪親から見えるようして、蝶姫は一枚の紙を取り出す。
「喜林の事などお気になさらずとも良いのです。あの男はすっかり百合の君に夢中で、毎晩呼び出しているとか。国の叔父から文が届きました」
思った通り、浪親の顔が豹変した。蝶姫は、自分を抱きたいと思わない男がいるなどと、考えたこともなかった。彼女はただ口実を用意してやり、そしてこみ上げてくる笑みを押し殺しさえすればよかった。
「まさか・・・」
「御覧になりますか?」
「それは、私に対する裏切りではないか」
「なんでも、百合の君はあの赤目の山猿と以前からお知り合いの様子だとか」
赤目の・・・!? どうして気付かなかったのだろう! 浪親の頭の中で、すべての事が符合した。喜林義郎は珊瑚の父、穂乃の元の夫だ! あの樵がまさか侍になり、喜林臥人の娘婿になっていようとは!
灯りが蝶姫の瞳の中で揺れている。浪親は初めてその顔を正面から見た。その濡れた瞳は、浪親を誘い包み込んでいる。浪親は自分の心臓が激しく脈打つのを感じた。目に見えるように濃い空気が、二人の間に流れていた。浪親はやっと、蝶姫の唇が動くのを見た。
「私も悔しゅう存じます」
流れる涙を見て思わず抱き寄せようとする腕を、今度は蝶姫が拒んだ。浪親は一層の力を込めて、その小さな体を胸の中に収めた。甘い香りがして、これは仕方のないことなのだ、と思った。
浪親と蝶姫の心音がひとつになり、もう虫の声も川の音もしなくなった。
百合の君(57)