詩と詩とひと詩と
国民の一人として戦争に加担したことへの後悔をはっきりと言葉にし、その責任を握り拳のように固めた茨木のり子(敬称略)の作品は論理の流れが非常にスムーズで、その水面を覗き込めば、川床を流れる小石の如き思考の痕跡をあちこちに見つけられるぐらい全体の作りがしっかりしている。詩に対する一般的なイメージ、何を言っているのか分からないという評価とは無縁の作風は、けれど、ときおりすっと横切るユーモア。その可笑しみひとつで、紙面の上に形のいい笑みが浮かび、とても綺麗な、でもどこか悲しそうに自分の言葉を乱暴にぶつけることができない。そんな人柄を感じさせる。
だからなのか、この人は、本当は、言いたいことを何一つ言えていないのでないか。遺された全ての作品は、彼女が言い損ねた「何か」なのではないか。そんな思いが筆者の頭をよぎる。
筆者にとって、詩(特に自由詩)はいつまで経っても得体の知れない謎だ。俳句や短歌のような定型がなく、描こうと思えば幾らでも書ける文学でありながら、小説とは一線を画すその括りの中で何が詩を「詩」たらしめているのか。その一端ですら要として知れない。
例えば論理を抜きにした言葉はただの音であり、かつてのダダイズムのように「ただの音こそ詩である」と世間に向かって宣うにしても、「ただの音こそ詩である」という説明を契機にしてこそ立ち上がる詩の有り様が、かえって論理に頼らざるを得ない詩の実情を物語る。
生まれ育つ過程で言語ゲームに巻き込まれざるを得ない人は、赤子の頃に夢中になったあやふやで遊びのある面白さを奪われ、正しい規則に基づく教育を施される。勿論、そのお陰で朧げだった「わたし」の認識は明瞭になり、周囲を取り巻く「せかい」を作り出すことができるようになった。こうして文章を綴れるのも、実に有難いことだと感謝の念を伝えるばかりだ。
それでも「言葉を知らなかったあの頃」と綴れる時間。認識可能な世界の縁に立って見上げる向こう側との間に広がる絶対的な隔たりを思う時、失われたものの大きさに深いため息を吐いてしまう。何度蹴っても、どんなに必死に叩いても、一度覚えた言葉によって世界に敷かれた地盤の固さは揺るがない。私たちがずっと昔に捨てた自由は、私たちと無関係のままに自由でいる。そう知れるのも、きっと言葉があるから。そう気付くのも、言葉を知ったから。
私たちはとことん呪われている。
筆者にとっても、詩は、だから辛うじて作れる事態だ。
作者が捏ねに捏ねた異物。曖昧なルールで、どうとでも遊べる言語内言語。小宇宙(ミクロコスモス)な擬似空間。あらゆる「もの」がするりと抜け落ちて、震えるほどの快感を覚える。静まることのない感動に、熱に、心臓がバウンドする。血が真っ赤に巡りゆく。
ルール、と記したけれどその実際は広義なもの。さきの詩人についていえば「茨木のり子」と名乗れるほどに統御され、洗練され、少しの躓きで瓦解する。気持ちいいくらいに躊躇いなく、潔く。そういう作り手としての感性。制作上の倫理観と言い換えられるものを筆者は想定する。
その空間は、文学的に拵えられるという点でやはり俳句や短歌、小説と変わりなく、完成すれば作り手の手を離れる作品であるにも関わらず、作り手自身もその空間内の事態に巻き込まれ、いつもの「私」じゃいられなくなる。
短歌でも歌人自身の生い立ちや、詠まれた時の社会状況といった情報が作品の真価に迫る大切な要素になるけれど、五七五七七の31音の決まりの中で行われる表現は焼成後の陶器のように揺るがないから、角度を変えて眺められる景色の違いとして解釈できる。詩の場合は違う。事態に巻き込まれた作者と隣り合うほどの近さで、各々の興味の分だけその字面を押せばぐっと凹んで元に戻らない。可塑性に富む粘土のように、詩はすべてを受け入れる。創作者の特権は通用しない。それがかえって詩、特に自由詩という輪郭をはっきりとさせる。
進行する事態。それも、人の数だけ形を変えるほどに無節操な厄介者。厄介なもの。
言葉が見せる夢は数知れない。振り払っても生まれ、振り払っても生まれを繰り返す。哲学者の明晰さはこのしつこさにとことん付き合える粘り強さとなって表される。芸術を生業とする者なら、さらに強烈なビジョンをもって幻想を塗り替える手腕を誇るかもしれない。音楽家なら、音楽という事象で世界の有り様を一変させると意気込むだろう。だから、戸惑うのは、詩人ばかりかもしれない。
人という謎を前にして、言葉の内側に引き篭り、たくさんの夢を見ようとして、ベビーベッドの雛形を真面目に拵える。その見せかけの万能性。未完成で終わる運命を辿る意匠に満足して、皆んなで眠る。大きく眠る。
そこにある意味。ある意味?
謎は人だ。だから詩だ。本物の夢。振り払うくらいじゃ消えない幻想。詩が好きな一人として幸せでいられる。生きている限り、
嬉しい。
嬉しい。
詩と詩とひと詩と