うまくいかない日
その日は雨だった。
ぱらぱらと軒先を叩く音は心地よく、いつもより体調のいい花は、縁側に出て穏やかな外気を楽しんでいた。
加州清光が、ふと膝をついて横に座る。
「雨、好きなんだよね、主は」
「ええ。音が優しくて……加州さんの声にも、ちょっと似てる気がするわ」
「えっ、なにそれ。なんか照れるかも」
「ふふっ」
ふたりの間に、微かな笑いと、静かな沈黙が流れる。やがて加州清光が、ためらいがちに目線を落とした。
「……主」
「なあに?」
「その……ずっと、考えてたんだけど……俺たち、こいびとだし……ふたりきりの時は、キス、してもいい?」
花の瞳が、ふいに大きくなった。
「……まあ。あら……ええと、それは……ええと……」
どうしよう、どうしようと慌てているうちに、加州清光がそっと顔を近づけてくる。息がかかる距離。睫毛の震えまで見える。
キスは初めてではない。けれど加州清光が修行から戻ってきた日の夜に、一度したきり。
ああ、こんなに緊張するものなのね、と花は思った。
「……目、閉じた方がいいの?」
「うん、たぶん……」
ふたり、そろってぎこちなく目を閉じて───その瞬間、
「いたっ……!」
「わっ、ご、ごめん! 主、大丈夫!?」
かつん。前歯と前歯が、軽くぶつかる音がした。
花はびっくりして少し顔をそらし、加州清光も慌てて距離を取る。
「……ご、ごめんなさいね、私、ちょっと力が入っちゃったみたいで……!」
「いや、俺のほうこそ! タイミングとか、距離とか……っていうか緊張しすぎだろ、俺……!」
お互いの顔が赤くなっていく。
肩をすくめて笑う花に、加州清光もつられて笑った。
「でも……まあ、こういうもんかもね」
「ええ、きっと。だって……私たち、こいびとになったばかりだもの。初めてのことだらけ」
「……ん。次は、もっとうまくやろう」
「ふふ、楽しみにしているわ」
雨の音は変わらず、穏やかに降り続けている。
しっとりとした冷たい空気とは裏腹にふたりの頬には火照りが残り、心には確かな、ときめきが残った。
うまくいかない日