世界最強の男 ROUND 2

世界最強の男 2話目です。美津江と初めて会った頃のエピソードや、川津と猪野中の関係を描きました。よかったら読んでみてください。

世界最強の男 ROUND 2

 格闘家を引退した川津はテレビ関係者に誘われるままに、バラエティー番組や映画にも何本か出演していた。だがそれも、元世界チャンピオンというネームバリューがあるから今の内は仕事を貰えているのだ、ということも彼自身分かっていた。
 物覚えが良い訳でもなく、話し上手でもない上に、なにか他に特技があるわけでは無い川津は、しだいにただ体格の良い口下手なおじさんと言う印象だけになってしまったところから「脳味噌も筋肉で出来ている」だとか「あの台詞覚えの悪さはパンチドランカーだからだろ」などと陰口を他の出演者や番組関係者に囁かれていた。
 時期に消えて『あの人は今!』などといった番組にいつかは出る程度のタレントなのだろうと世間は予想したが、当の本人は廻りに溶け込もうと必死だった。
 たまに出してもらったバラエティー番組では、他のコメディアン達と一緒に熱湯の入った風呂に飛び込んで、派手なリアクションで観客を沸かせたり、マネージャーも断るような仕事も進んで引き受け、燃え盛る火の輪に車で向かって行き、ジャンプして潜るスタントも自分で運転をすると言い出し、撮影スタッフの制止も振り切って挑戦した。 
 だがそれも、いつしか周囲の反感を買っていく結果となった。
 ある日のこと、彼は番組の収録を終え、先に帰ったマネージャーに携帯電話から仕事の報告を済ませると、自分の車が止めてあるテレビ局の駐車場に向かった。
 駐車場に入って行くと、遠くから見ても誰かを待ち伏せしていると分かる男の影が、片足を貧乏ゆすりさせながら立っていた。こちらを睨みつけて立っている小男は、ひと昔前に『キング・オヴ・リアクション芸人』などと言われていたベテランタレント。浅黒く脂ぎった額はオリーブオイルでも塗っているようだ。
 その小柄なベテランタレントは、川津を呼び止めるとこちらに向かってなにかぶつぶつ言いながら近寄ってきて、下から川津をしゃくり上げるように凄んだ。
「おまえなあ……身体を張った仕事は丈夫そうな奴がやっても面白くないんだよ! それにな、お前はリアクションが悪いんだよ! 熱湯風呂に入って大丈夫な顔するなよ、熱くねぇのが分かっちまうだろが! そんなんじゃ客も盛り下がっちまうだろ、お前が鳴り物入りだから、まだ周りは黙ってるけどなぁ、てめえ他人の仕事を取っていい気になるんじゃねえぞ!」と、そんなうっぷんをぶちまけて去っていってしまった。
 返す言葉も出ず、反省した。多少は「いい気」になっていたのかもしれないと。
 体力だけなら生き残れると、運動神経ナンバーワンは誰かという、芸能人が競い合う番組に出場した時もそうだった。一番ではなかったが高記録で気分が良かったとき、収録が終わってからマネージャーに酷く叱られた。勝ってはいけない対戦相手の俳優に、不様な負け方をさせたから、相手の事務所からクレームがきているのだと。そんなことは知らなかったと川津が言い返したときも「あなたはここのルールが解っていない」と蔑まれた。
 また同じ轍を踏んでいる。川津はぼんやりと、その場に立っていた。
 そんな遣り取りを目撃していたのが、番組アシスタントをしていた原田美津江であった。当時の彼女は二十二歳。小さなタレント事務所に入ったはいいが、なかなか仕事を回して貰えず、やっと出演出来た番組が川津も出演していた番組で、クイズに正解出来なければ罰ゲームが待っているといった内容の、秋の特別番組であった。
 川津に罵声を浴びせたベテランタレントは美津江も良くは思っていなかった。
 休憩時間、舐めるような視線でこちらを窺っていたり、噂だが、他に出演していたアシスタントの子で、誘いを断って番組から居なくなったという話しを聞いたからだ。
「川津さん、大丈夫ですか?」
 気付かないうちに美津江は川津の後ろに立っていた。
「は? 嗚呼……。無様なところを見られちゃったね、他のみんなには内緒にしてくれよ、これでも元は世界チャンピオンなんだぜ、知ってるだろ? もしかしたら知らないか? まあ無理もないよな、もう十年も前の話なんだしな、ハハハ……」
 川津は力なく歩き出すと、愛車の白いBMWに近付き、ポケットを弄ると車の鍵ではない別の鍵を出してしまい、大きく溜息を吐いた。上着のポケットや持っていた鞄の中を覗き込んだりしていたが、やっと上着の内ポケットに車のキーが入っていたことに気が付くと、唸りながら頭を掻き毟った。恥ずかしさからか、苛立ち紛れに車のドアを開けると、無言のままこの場を去ろうと車に乗る為に屈み込んだ。
「……いや、その、大丈夫かって訊いたのはそんなんじゃないんです。さっきのあんな奴の言葉なんか、気にしなくたっていいんですよ!」
「じゃあ、なにが大丈夫かって訊くんだい?」
 既に車に乗り込んだ川津はドアを半分開けて、振り向きながら美津江に訝った。
「川津さん、疲れてるんじゃないかと思って。私……原田と申します、父がボクシングをやってたんです。それで、川津さんのことは何度か父から聞いていました」
「え、お父さんて……、あ、あの原田さん? 娘さんが小さいとかっていう話しをしてたなあ、その子が君なのかぁ。うんん、たしか……みっちゃんだよねえ、ああそうだ」
 川津は確かめるように頷くと、キーシリンダーに鍵を入れかけていた手を止め、懐かしい目になった。
 美津江の父、原田光男は川津の大先輩であり、川津が師と仰いでいた人物なのである。
 原田が現役中は自分もスパーリングパートナーを何度か務めたのだった。川津が高校一年でボクシングを始めた頃で、原田は引退間近の選手であった。戦跡は日本ランキング二位だったが、川津は原田のボクシングテクニックに心酔していた。
 現役を引退してからの原田は、川津が高校を卒業するまでの間、トレーナーとして付いてくれていた。原田は自分がプロボクシングの世界に足を踏み入れたことに後悔をしていると語っていた。プロの世界では負けない為の試合をする奴がいるからだ、と嘆いていた。そんな影響から川津はオリンピック代表選手を目指すようになっていった。
 川津は車のドアに手を掛けて身を乗り出し、美津江に向かうと少し恥ずかしそうに送っていくと誘った。だが、こんなおっさんの車に乗っているところを誰かに見られたりして嫌だったら、断ってもいいと付け加えながら……。
 美津江を乗せた白いBMWは十分後には青山通りを渋谷に向かって走っていた。
「……そうなんだ、原田さん、癌でねえ、でも最期は苦しまずに逝ったのかあ、原田さんらしいって言えば原田さんらしいねえ」
「延命治療は嫌だって本人が曲げなかったので、本当は少しでも長く生きていて欲しかったんですけど……。あ、すいませんこんな話しになっちゃって」
いやあ、とだけ返事をするとカーナビゲーションの液晶パネルを一瞥して美津江の自宅までの到着時間を確認した。
 気まずさを感じたのか、美津江は一気に話し始めた。
「お父さんが、テレビを観るたびに川津さんの昔のことを話してくれるんで、川津さんとは初めて会った気がしなくて……、なんだか昔から知っている人と再会したような感じなんです。お父さんは『あいつは俺がどんなに辛い課題を与えても、必ず最後は自分のものにしていたんだ。弱音を吐かない男……レイジング・ブル・川津。俺が昔につけてやった渾名なんだ! 今はあんなにテレビでバカにされてる扱いだけど、いつか絶対世界をあっと言わすようなことをやってくれるさ!』ってよく言ってました」
 すいません原田さん、こんなんで。川津は心の中でそう呟いた。
「明日も来ますよね? 川津さん」
 なんだか変な質問だと美津江自身、解っていた。番組の収録は五日間だと知っているのだし、二日目の今日の次の三日目は来ない方がおかしいに決まっている。にも関わらずそう訊いたのは、美津江が話したいことの振りに過ぎなかった。
「え、収録? いくよ、あれ……? なんか、みっちゃんがゲームにでも参加するんだっけ? あ、俺がなんかの罰ゲームに出るんだっけ?」
「いえ、それは知らないですけど……、来るんならそれでいいんです」
「あ、そう、ふううん……」
 次の交差点の信号が赤に変わり、車のスピードが減速していくと、二人の会話も一旦途絶えた。深夜放送のラジオから流れてくる笑い声が二人の間を埋めていた。
 ふと、美津江は川津の横顔を眺めた。疲れた色も多少は見受けられるが、元はスポーツ選手だけあって、がっちりした体躯に試合中に負ったと思える傷が額や耳にその痕を残している。十歳近い年の差もあまり気にはならない。なぜ「気にならない」と思ったのかも不思議だったが、車を降りるときには携帯電話の番号を川津に告げていた。
 二人は間も無く付き合い始め、週刊誌に写真が載るようになってからは公然と二人の仲は世間に知られるようになった。
 しかし、そんなスキャンダルで注目をされるのも一時で、川津のテレビ出演も次第に減っていった。テレビに出なくなると周囲の眼は冷たくなり、現役時代の苦労話しをする講演依頼でさえ、こなくなった。
 川津の仕事が無くなる一方で、美津江の仕事は徐々に増えていき、地方のグルメ番組のレギュラー出演や、ブログを立ち上げ、本まで出版するようになっていった。
 テレビに出る仕事が一切無くなってから、あの白いBMWを真っ先に手放した。残っていた貯えを掻き集めて飲食店を始めたが、店の経営を任せていた男に、店の売上金と預金口座から運営費の総てを持ち逃げされてからは段々と客足も遠退いていき、結局は店を畳むことになってしまった。
 川津の収入も安定していた頃は、美津江も住んでいたマンションを引き払い、目黒にあった川津のマンションに同棲をしていたが、今ではテレビ局に近いという美津江の都合で越したマンションに、居候のような状態で転がり込んでいる始末。
 普段は知り合いが経営するショーパブにゲスト出演と言う形で毎晩出させて貰って生活の足しにしているが、時々副収入に、昔から付き合いのあるタレント事務所から声が掛かると、売り出し間もないアイドルのボディーガードなどをやっているのだ。
 芸能プロダクションには名前だけが残り、無駄だと解っていながらマネージャーに来月のスケジュールを確認する為の連絡を入れている。
 月に十万円程度の生活費では、美津江にプロポーズする切っ掛けもないまま格闘技界への復帰を考え、燻っている。こんな体型になってまで捨て切れない過去の栄光とは一体何なのか? と自問自答をしても、結局はあの対戦相手、猪野中に掛けられた技を封じさえしていれば、絶対に勝てた試合だったと、今でも諦め切れない自分がいるのだった……。

「でかい大学だなあ」川津は校舎を遠くから眺めて、独り言を呟いた。
今まで自分から奴に連絡を取ることなど思ってもみなかった。ましてや向こうから連絡を取ってくるなんて、なんで今更俺なんかに会いたいんだ……。
 川津は、すでに到着した大学の正門前で携帯電話を取り出しながら考えた。
もしやテレビ局の差し金で、昔の対戦相手と対談を企画しているのか? そんなのはごめんだ……。負けた相手に面と向かって「懐かしいですねえ、お久しぶりです、お元気でしたか」などと笑顔で挨拶が出来るような心の余裕は今の俺には無い。
だが何処かで助平な下心が働いて、彼に会えばなにか転機が待っているような期待があるのも正直な気持ちだ。
最近は新聞をとる金もないので、噂ぐらいにしか知らなかったが、猪野中は革新的なスポーツ科学理論を発表して、その活躍はマスコミに取り上げられたりと、自分が簡単に会えるような人間ではないらしいのだ。
取り出した携帯電話は来月のスケジュールをマネージャーの近江に訊く為。あきらめ半分で呼び出したが、やはり仕事は一切無いらしい。
「……ええ、でもねえ川津さん、解りますよ生活が苦しいことは。あ、そうだ、同棲してる原田さんが、なんか本を出して売れてるそうじゃないですか。だったら川津さんもダイエット本を出すとか……まあ、その前に痩せないとダメか。」
「相変わらず嫌味っぽいね近江さんは。ああそうだ、若い人は知らないかもしれないけど、俺を引退させた『Dr・イノナカ』って呼ばれてたレスリング出身の格闘家を、憶えてるかい? まだ近江さんはこの業界に入ってなかったかな」
「いや、知ってますよ。まあ知っているっていうのも今の猪野中さんですけどね。本の話しで思い出した、猪野中さんってあの人博士になって、スポーツを科学的に研究した論文なんてのも発表しているみたいですよ。猪野中さんは本当に博士号も持ってるし、なんだか整体まがいの自称研究家とも訳が違うらしいんですよ。で、その研究が様々な企業や医療機関に認められて、今じゃ大学で講義なんかをしているらしんですよねえ。なんだか人生って色々あるんだなあって思いますよ」
 受話器の向こうでは笑いを堪えている吐息の漏れが聞こえた。
「で、その大学の前に居るんだよ、彼の本も買ったしね」
「へえ……って! なんで川津さんがそんなところに居るんですか! 勝手に押し掛けて行って『好敵手との再会!』なんて企画をテレビ局なんかに持ち込まないで下さいよ!知ってますからね、昔は人の言うことも聞かないで勝手に仕事を受けて事務所に迷惑を掛けてたって。だから仕事が減ったんだって前任も言ってましたよ」
「勝手に誤解されても困るなあ、相手から来いって言ってきたんだよ」
「え、本当ですか? 今話題の人じゃないですか、それなら凄いチャンスですよ、今居るのってT大ですよね、もうテレビ局は来てますか?」
「知らないよ、向こうが『好敵手との再会!』を企画しているのかもな。約束の時間だから、じゃあまた……」
近江は色めき立って川津に話し出したが、膠もなく切った。いつもの仕返しにしては小さい復讐だと思ったが、少し胸がすっとした。
確かに猪野中は本まで出している。ここに来る途中の本屋に入って、店員に尋ねるまでもなく、彼の本は話題の新作コーナーに平積みにされていた。それも顔写真の入った看板がそのコーナーの上から吊るされてあった。真っ白になった頭髪と銀縁の眼鏡で大分印象が変わってしまったようだが、頬骨が張っているところなど昔の面影が若干残っている。
『神経科学からの提言・スポーツの進化と発展』というタイトルだ。手に取り、立ち読みでぱらぱらとページを捲っている間に、何人かの客が彼の本を買っていった。
他の客に釣られて川津も本を買ってみたが、当人の本を携えて訪問をしようものなら、まるでサインが欲しくて持ってきたようで、なんだか惨めな気分になった。
待ち合わせの時間にはまだ余裕があるので、約束をしていた大学のロビーに適当なテーブルを見付けて座ると、さっそく買った本を読んでみた。
ロビーは吹き抜けになっていて、座っているだけでゆったりとした気分になれた。ふと読んでいた手を止めて、辺りを眺めると、行き交う学生達の顔に高窓から差し込む午後の優しい光線が掛かり、初々しさを際立たせていた。
川津は、なんだか自分が一番惨めな人間に思えて仕方なくなっていた。
「川津さん……ですよね。お久しぶりです、猪野中です」
 川津が振り返る間も無く猪野中は正面に回りこんで、笑顔で握手を求めてきた。
 不意なタイミングで差し出された手に、川津は直ぐには手を出せずにいた。
 見上げた人物は確かに猪野中という男だが、レスリングで鍛えた身体はその肩幅に名残りがある程度で、全体から受ける印象はまさに教授といった感じだ。銀縁の眼鏡に頭髪は真っ白になり、白衣が馴染んでいる。自分とは過ごした時間も場所も違うのは当然だろうが、ここまで差があってはなんだか居た堪れなくなる。
 自分を破った後、直ぐに格闘技界から引退をしたと聞いていたので、多少はダイエットをして痩せたのだろうが、なんだか健康的にスリムになったというよりも、大病の末、肉が落ちたと言う印象すらある。
「すいません、急な御呼び立てをして。私から川津さんの方に伺うべきなんでしょうが、どうしてもここで御見せしたい物がありましてね、無理を言ってすいません」
「あ、いや、別に構いませんよ、忙しくはないですから。それに電話で話された『脳の限界は無い』っていうのが、見せたい物な訳なんですかねえ」
 猪野中は口の両端を上げて頷いたので、それを返事なのだな、と川津は受け取った。
 川津は読みかけの本を閉じて、小さなスチールパイプ組んだ椅子から大きな尻を外すと、猪野中に促されるままに歩き出した。
「私の本ですね、仰っていただければ何冊か揃えて御持ちしたんですが……」
 広いロビーを抜けて、中庭を望む長い通路を通っていく間、話しは主に猪野中から振って、川津が一言二言返す調子で続いた。絶えず猪野中は穏やかな笑顔を湛えながら話しているが、川津の表情は硬いままであった。
 別棟に入ると辺りは急に暗くなり、擦れ違う人もいなくなっていった。
 歩きながら肩越しに猪野中は話していたが、ふと歩みを止めて川津に向き直った。
「それにしても川津さん、すっかり太くなりましたねえ、最初、別人かと思いましたよ」
「はあ、まあ、あのときに食らったジャーマンスープレックスで背骨を痛めましたからねえ、あれ以来激しい運動は出来ないんですよ」
 別に嫌味を言いに来た訳では無いのだが、つい彼と自分との隔たりを感じてしまい、険のある口調になってしまう。
「そうでしたねえ、すいません。私もあの時は必死でしたから。あなたのパンチは脳が揺れるって言うのか、身体の芯まで響くようでした。まるで竜巻を抱きしめて放り投げた感触でした。……ああ、何の言い訳にもなってませんねえ」
 猪野中は言葉を詰まらせたまま、また歩き出した。
 暗い通路を歩いていくと、突き当たりに鉄製の扉らしき物が、うっすらと浮かび上がってきた。扉の右隣の壁面に階表示のランプが3FからB3まであることで、その扉がエレベーターの扉だと解った。
 猪野中は首からぶら下げていたパスケースを、階表示の下にある四角いグレーーの枠に当てた。ケースに入っている顔写真が付いた身分証明書は認証IDが内蔵されているらしく、カードの承認を合図に、扉の向こうの空間から、モーターが回るような音が微かに聞えてきた。やや間があって、ゴトンという音と共にエレベーターの扉が開いた。
 猪野中は、どうぞと言って川津を先に乗せた。川津を先に乗せた理由は客だからという理由だからではなく、中は大変に狭く、行き先階のボタンを押すには自分が後から乗った方が都合がいいからであった。お互いに息苦しさを我慢しての乗車時間が過ぎた。
 B3階の表示でエレベーターは止まり、扉が開くといきなりそこは部屋になっていた。猪野中の説明を聞くまでも無く、ここは彼の研究部屋だということが解った。猪野中に促され、自分には場違いな空間に足を踏み入れた。
 消毒液のような臭いが辺りに漂っている。白い壁に囲まれた二十坪ほどのスペースに見たことも無い装置が所狭しと並び、大小様々な装置の間を、太いケーブルから糸のように細いケーブルまでが入り乱れて繋がっている。低くブーンブーンと唸り声を上げている装置たちはまるで、お互いに呼び合っているように聞える。それだけでも威圧感はたっぷりあるが、更に気分を重くさせるのが、この広さにしては照明設備が足りな過ぎる。
 昔に見た映画に、こんな不気味な部屋で研究を続けている博士が、間違って透明になってしまうか、壁を通り抜けるかしたような……。
 川津は一瞬、何かの見間違いかと思った。部屋の中央に鎮座したそれに、眼を惹かない奴はいないだろう。人間のものであろう眼球の付いた脳髄が、円筒状の透明なガラスケースの中でプカプカと浮かんでいる。ケースの中では下からブクブクと泡が吹き出し、脳髄に付いた眼球が、右へ左と視線を巡らせている。まるで脳だけで生きているのではないかと錯覚してしまう……こっちを見た? まさか。
 眼を凝らしている川津に気が付いたのか、猪野中は平然と答えた。
「死んだ患者の物です。許可は取っていますから、問題はありませんよ」
 先に答えられてしまったので、はあ、という気の抜けた返事をしてしまい、まさかこれが自分に『見せたい物』なのかと不安になった。
「これは実験の一つでしてね、学生時代にレスリングを始めた切っ掛けが、人はどれだけの動作パターンを瞬間的に脳で処理し、行動に移せるのか、という研究を私はしていたんですよ。レスリングはそれを実戦に応用できるかと言う、云わば自らが実験台となった証明だったんです。引退後は本格的に脳神経の研究に打ち込みまして、前は何人かのグループで研究を進めていたんですが、結局は私だけになってしまいましたよ」
 川津は猪野中がなにを言おうとしているのかがさっぱり解らずにいた。
 きょとんとしている川津を「立ち話もなんですから」と傍にあった椅子に座らせ、計器とスイッチが盤面いっぱいに並ぶ大きな装置の裏に回って、コーヒーには砂糖とミルクは要りますか? と尋ねてきた。
「ええ、どっちも入れて下さい……あの、その研究が俺となにか関係があるんですか?」
 猪野中は装置の裏から出てくると、二つのコーヒーカップを手前の机の上に置き、自分も隅から事務用の椅子を引いてきて目の前に座ると、笑顔で川津を眺めた。
 しかし川津の眼に映った彼の表情は、穏やかに微笑んでいるというよりも、痩けた頬と張った頬骨が醸し出す陰影で、不気味に笑うしゃれこうべを思わせた。
 一拍の間があり、カップをゆっくりと口元に持っていきながら猪野中は話し始めた。
「私はあの時あなたに勝った。でも解ったんです、私はあなたを分析したから勝てた。それは脳の処理速度とは何等関係の無いことです。もし、見ず知らずの人間に道でばったり出くわしても、勝てる保証はない。いや、多分負ける確立の方が高いでしょう。出会った瞬間に相手の総ての情報が分かるには卓越した格闘技術が必要です。だがそれもあくまで経験値だ、勘が狂うこともある。データベース化した様々な行動パターンを計算し、脳の処理速度の限界まで私は到達することが出来た」
 自信たっぷりな表情に川津は圧倒され、ただ頷くばかりだが、まだ話しの本筋は掴めないままだった。部屋の温度はそれほど熱くは無いものの、この居心地の悪さに川津の頬は僅かに痙攣し、額には油汗が滲んでいた。
「ふふ、川津さん、私がなにを言っているのか、さっぱり見当も付かないといった所ですか? すいません、私が悪いですね。話しはこうです……早い話があなたにこの力を使ってみて欲しいんですよ」
「え、この力ってどの力なんだ? 見せるって言ってたのは嘘だったのか? いったいあんたは俺に何をさせようっていうんだ、俺が馬鹿だから自分の実験に旨く騙して使うとでもいうのか! 変な事に巻き込もうっていうなら今直ぐ俺は帰るぞ!」
 もたつきながらも椅子を後ろ足で蹴飛ばし、川津は鼻息も荒く立ち上がった。
 猪野中も続いて立ち上がり、宥める顔を作って川津の肩に手を置いた。
 無知を諭すようなその眼差しへの苛立ちと、成功者に対するひがみとが相まって、置かれた手を跳ね返そうと肩に力を入れた。跳ね返った猪野中の手が彼自身の顔面にぶつかるように、あえて相手の手を前へ押し出すように力を入れた。
 ……ストン。川津は椅子へ腰を落とした。
 なにか大きな物に押し返されたような感覚が身体に残っている。
「御見せしたいものが解りましたか、川津さん。この力をあなたに見せたかったんです」
 そう言われても、川津にはまだ理解が出来なかった。
「これは、合気道だとか気孔の類いのものなのか?」
「いや、違いますよ。さっきも言いましたが、脳の力を最大限に使うと、相手の出す手の内が、何手も先まで読めてしまうんですよ。私は、あなたがどんな力の入れ方をするのかが、スローモーションのように見えるのです」
 病弱に微笑んでいる痩せた男の説明では、さすがに説得力が薄い。この眉唾な話しに納得がいかず、川津はもう一度その力を試したくなった。
「さっきは不意を突かれたから腰砕けになったが、今度は違うぞ。知っているだろうが、俺のパンチは今でも破壊力なら負けはしない。あんたはさっき俺を太ったと言ったが、自分は痩せすぎだろうが!」
 言い終わる間も無く猪野中の顔面目掛けてパンチを繰り出した。
 ドンッ。目の前が真っ暗になった。
 薄れる意識の中で懐かしい感覚に包まれていた。現役時代に何度かあったこの感覚。そう、ノックアウトされる感覚だ。カウンターで叩き込まれたときに味わう眠りに落ちていくような、この、かんかく……。
「川津さん、大丈夫ですか、かわつさん!」
 白く周りがぼやけているが、夢の中なのか、さっきまで話していた男が自分を覗き込んでいる。背中に伝わる冷たさで分かるが、俺は床に寝ているらしい。周囲の音……装置の音か、段々輪郭をはっきりさせてきている。
 痛い! 顎がズキズキする、世界がグルグル回っているようだ。
「いったい、なにがあったんだ? ああ、さっき俺はあんたを殴り倒そうとして、それからどうなったんだ?」
「だから説明は、ちゃんと最後まで聞かないと駄目なんですよ。それを言おうとしたら、いきなり殴ってくるから、怪我が無いようにあなたの力を分散するには、さすがにスローで見えても大変でしたよ。ちょっと私も勘が鈍りましたねえ、ハハハ歳ですな。まあ、瞳孔も開いてないようですし、反射もいいですからちょっと横になって休んでいて下さい」
「はあ」と言うため息とも返事ともいえない言葉を吐くと、川津は眼を閉じた。暫く横になっている間にまた、寝入ってしまった。
 次に眼が覚めたとき、川津の頭にはヘッドフォンとヘルメットが合体したような銀色に輝く装置が装着されていた。その装置からは何本もの配線が伸び、事務用机ほどの大きさで、液晶画面の付いた白い箱に繋がっていた。下から見上げているのに、なぜ液晶画面が点いていると川津が分かったのかと言えば、猪野中の顔が、忙しなく明滅する青白い光線を受けて、不気味な面相をゆらゆらと動かしていたからだ。
「あ、ちょっと動かないで。別に危険なテストをしている訳じゃないんですよ。あなたの脳波に異常が無いか調べているんです。そのままリラックスしていて下さい」
 ちょっと窮屈なヘルメットだが、それ以上に痛いわけでもなければ気分が悪くなっているようでもない。だが脳波を調べるとはいったいどんな検査なんだ。
「いつまで俺はこうしていればいいんだ? で、何かわかったのか、教えてくれないですかねえ……、やっぱりパンチドランカーってのがあるんじゃないのかなあ」
「ははは、そうなっていたら、既に症状は出ているでしょうね。全く問題ないですよ、うんん、全体的にもバラつきは無いみたいですから、まあいいでしょう」
 川津から猪野中の手元は見えないが、パチンという乾いた音がした。電源のスイッチでも切ったのだろう、猪野中の顔を下から照らしていた明かりが、ふっと消えた。
 窮屈なヘルメットを脱がされ、猪野中の肩を借りながら立ち上がると、川津は蹴り飛ばした椅子を探した。いや、こっちと言われて手招きされ、装置の間を通って奥へ行くと、モダンなベルベットのパッチワークが施されたシングルソファーがニ脚、向かい合って置かれていた。川津は腰を下ろすと、深く息を吐いた。
 猪野中を見上げると、いつの間にかさっきの窮屈なヘルメットを二つ持って立っていた。だがよく見ると、さっきのヘルメットとは違うところがあった。どちらにも額部分に文字が書いてあり「SEND」と「GET」となっている。SENDと書かれたヘルメットは向かいのソファーに置かれた。二つのヘルメットからは配線が延びて、今度は一段と大きな装置に繋がっている。その装置から、また色々な装置に配線が延びているのだが、中央の脳髄の入ったケース付近でごちゃごちゃしている配線の束の中に紛れ込んでいくまでは見えるが、他の装置に隠れてその先がどうなっているのかは、よく見えない。
「じゃあ落ち着いたところで話しの続きをしますよ、いいですか」
 時々垣間見えていた不気味な表情は一段と色濃くなり『いよいよ死神の正体が出てくるのだろうか』と、子供のような心配をした。
「パラパラ漫画はご存知ですよねえ。最初、ゆっくり捲っているうちは描かれた絵を前後が別の絵だと識別出来るが、段々と速度を上げていくと、残像が重なっていき、絵が入れ替わっていることに眼が追い付けなくなっていく。そして、仕舞いには一枚の動く絵に見えていってしまう」
 川津は分かったような、そうでないような心持ではあったが、質問はしなかった。なぜなら質問に対しての返答に、また質問をしなければ理解出来ない辛さが見えたからだ。
「人間の視神経が捉えられるスピードはせいぜい30Hzぐらいが限界でしょう。蜂なら300Hzぐらいまでの映像を捉える事が出来る。……もうちょっと簡単に言いますよ。Hzとは一秒間に繰り返される振動、またはここで言う『一秒間に点滅する物が見える回数』といいましょうか。つまり人間の眼がボトルネックになり脳の処理スピードを上げてみても、眼だけじゃないですよ、身体の様々な器官、筋肉も含めて脳以外の全てのパーツが、脳の動きには付いていけないのですよ」
 川津の苛々が限界になった。
「だから、つまりはどういうことなんだ、全然解らないぞ! 結局さっきの力はどうやって手に入れたんだ! それになんでそれを俺に使わせたいのか、ちゃんと説明を……」
 さっと川津の目の前に立つと、有無を言わさず猪野中は頭にヘルメットを被せて川津の顔を覗き込んだ。。
「ええ、解りますよ、解ります。証拠が見たいという訳ですよねえ。それなら御自分でこれを体験してみれば、論より証拠と言うわけですよ。ブルース・リーも映画で言ってたじゃないですか、考えるな、感じろってね、ははは……」
 歯を剥き出して笑う顔は、笑顔と言うよりも呪い師が被る面を思わせる。
 川津はなにが面白いのか、さっぱり分からない。それどころか段々と不安になってきていた。猪野中はそれ以上を語るようでもなく、憑かれたように黙々と作業を進めている。
『何か良い事があるかも』そんな期待がこんな所へ俺を連れてきた。そこのデカイ箱も動き出したようだし、なんだか気持ちも悪くなってきた。見せたい物とは実験道具になった自分の姿か? あそこで浮いている『脳みそ』みたいになっちまうんじゃないか……くそ、こいつ、騙したな!
 川津は足に力を入れて立ち上がろうと踏ん張った。だが思うように身体が動かない。叫ぼうとしても、肺に酸素が入ってこない。
「あなたは今、私に向かって胸ぐらを掴むか、突き飛ばそうと想像した。違いますか? それにほんの少し、掴んだシャツの襟を締め上げて早く私に答えさせようと考えたんじゃないですか?」
 そう言われた途端に胸の苦しさや、身体を包んでいた拘束が一気に解けた。まったくその通りだった。まるで心を読まれているようだ。
「別に私はあなたの心を読んだのではないんですよ、先が見えるんです。嘘だと思われるかもしれませんが、先ほどからの一連の出来事を振り返ってもらえば、納得できるんじゃないですかねえ、どうですか?」
「たしかにあんたの言うとおり、胸ぐらを掴んでやろうと思ったよ。で、諦めたら苦しさが無くなった。これはどういうことなんだ、どうやってこの力を手に入れたんだ? あんたは超能力者なのか? だとすれば……昔の試合も、そうやって俺に勝ったっていうのか、まさか、どうやっても俺は勝てなかったってことなのか?」
「いや、あの試合は本当にあなたを研究したから勝てたんですよ。その頃は、まだこの力は手に入れていなかった。それが証拠に私は未だに、あなたにもらった右フックで左の耳が聞えません。まあ鼓膜の再生手術を受ければいいんでしょうが、そのまま放って置いたのは自分が無敵ではない証拠を留めておきたかったからなのかもしれませんねえ」
 猪野中の口調は、まるで他人の話しをしているように呑気だ。
「ああ、すいません、この力をどうやって手に入れたのかを、お答えしないといけませんね、あそこに浮かんでる脳髄がヒントだったんですよ」
 猪野中は水槽の中に浮かぶ脳髄を指差した。
「あの脳髄は死んだ患者のものだと言いましたが、実は我々は極秘にある犯罪者の脳を手に入れたんです」
「さっきは患者と言ったじゃないか」
「そう、彼は患者でもあったんです『山手線事件』と言えば誰でも知っていますよね。朝の通勤時間帯に混んでいる電車の中で始まった殴り合いが、最後は大量殺人事件になってしまった。その経緯はまず、殴り合いを誰も止めなかった理由は、学校や会社に行く途中『遅刻までして面倒な事には巻き込まれたくない』と言うところが正直な気持ちだったのでしょう。でも、次の駅に着いたときに、駅員三人掛かりでも犯人を取り押さえられなかったのは、おかし過ぎる。事件後発表された犯人の体格は小柄で、スポーツもこれといってやっていなかったそうです。そんな人間が誰にも邪魔をされず、ホームから一瞬で何人も転落させる怪力がどこにあったのか? そこである興味深い証言があったのです。
『犯人は最初から誰にも触れてはいなかった』とね。そのまま犯人はその場から容易に立ち去った。現場に落としていった犯人のバッグの中に免許証などが入っていた為、犯人捜査は容易に進み、事件発生から四時間後、犯人は警察官が自宅に踏み込んでくることを予想して、自身が住んでいるマンションの扉の内側に出刃包丁を取り付け、その刃先を咥えて警察官が突入して来るのを待っていたそうです。自宅に到着した警察官達は犯人の名前を何度呼んでも返事が無かった為、止むを得ず扉を蹴って中に進入し、それと同時に犯人は自動的に死んだ訳ですが、どうです、どこかピンと来ませんか?」
「ピンとくるところ……あ、誰にも触れずに人を殺していったという点が、さっき俺が体験した、あんたに触った感覚もなく吹き飛ばされているのに似ているのか……?」
「彼は自分の能力が発現し出している事実を受け入れられなかったのです。自分の意思では無い力が働き、他人を傷付けてしまう症状をストレスから来るものだと捉え、精神科に通っていたんです。しかし投薬や精神分析療法を重ねていっても一向に症状は改善していかなかったのもその筈、病気では無く彼の脳は進化していたんですよ!」
「いや、だからそれも原因は、なんなんだよ!」
「残念ながら解りませんでした。これは死体となった彼から取り出した脳髄を研究した結果なのですが、彼の脳は一般人となんら変わったところは無かったんですよ」
「じゃあ結局は何だか解らないまま、あんたはその力を自分に試したって訳なのか?」
「ええ……、しかしプロセスは解らないが結果は解っていたんです。言葉では言い表しづらいのですが、研究者の勘とでも言うんですかねえ、私は直感的にその意味と使い方が解りましたよ」
 ふ、と微笑むと猪野中は、ゆっくりと事務机の引き出しを開けて、小さなプラスチック製の箱を取り出した。その箱の蓋を開けると、逆さにして何かを掌の上にのせた。
「信じるも信じないもあなた次第。と言っては無責任に思われるでしょうが、今はそうとしか言えません。今のあなたにはこれが何よりも人生を切り開く打開策だと私は思うんですが、いかがですか?」
 奴は自分を何処までも見抜いている。惨めな自分、過去を捨て切れない自分をなぜか見抜いている。川津は差し出された猪野中の掌を見つめた。
「この赤いカプセルが入口です」
 川津は一瞬ためらったが、掌に置かれているカプセルを受け取ると、一気に飲み込んだ。
 向かいのソファーに置いてあったヘルメットを猪野中は深々と被った。腰を下ろし、リモコンを『デカイ箱』に向けてボタンを押した。高速で回転する音が部屋中に轟いた。
 目が合った。猪野中ではなく、あの『脳みそ』と。
 そして川津は深い底に落ちていった……。

世界最強の男 ROUND 2

なかなか資料集めや話しの流を考える時間が掛かりすぎて進みが悪いですが、また読んでみてくださいね。

世界最強の男 ROUND 2

いまではすっかり体形も名残さえない元プロボクシング選手、川津剛男。そんな彼に引退を余儀なくさせた男猪野中。彼からの連絡で赴いた研究室には水槽に怪しく浮かぶ脳髄が……。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-27

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