鉄の龍と砂の城
「昔の戦争では、空を鉄の龍が飛んでいって、ごーうごーうって炎の雨を降らせたのよ」
「そうなんだ」
「私の時代の話。安定の時代に比べたら未来だけれどね。……此度の戦争は、そういうわけにもいかないみたい」
「……僕らがその、鉄の龍の代わり」
「ええ、そうみたいね」
夏の夜、審神者の少女と大和守安定は月明かりに濡れて白く光る浜辺を歩いていた。波のさざめき。ふたり以外には誰もいない。普段着として和服を着ている少女は珍しく、薄い生地の白いワンピースを着ていた。いつもは二つに結っている髪は下ろしており、その頭から生えた、人ならざるものの血が混ざっている証拠であるツノを隠す頭飾りも着けていない。ありのままの姿の少女がそこにいた。
いつもその姿でいればいいのにな。と大和守安定は思い彼女を見つめる。……と、少女の体のラインが月光に透けて見えて、彼は慌てて目をそらした。
「……そう。安定たちは、兵器なのよね」
「うん。そういうことになるね」
「あ、貝殻」
「もう……話が散らかるんだから」
歩きながら何かを思案していた、かもしれない少女は、ふいに座り込む。大和守安定が覗き込むと、その手にはぼんやりと七色に光る小さな貝殻。刀剣男士たちが連日に渡り集めていた貝殻の破片だ。演習として集めているそれは、どうやらこの二千二百五年代には珍しくなってしまった種類のものらしく、研究サンプルとして大量に集めさせられている。というのが、最近の時の政府からの指令。
「踏まなくてよかった。あなた、裸足だから」
「ふふ、ありがとう安定。……きれいね、これ」
光る貝には興味は無いよ。言いかけて大和守安定は言葉を飲み込んだ。今彼が見ているのは、その金の瞳で貝殻の破片を見つめる少女の姿だけだった。
「浜辺で貝殻を集めるのが好きだったの。そうね、シーグラスも好き。昔は、海に行くと港に鉄の鯨が見えたわ、小さいのが駆逐艦って言って、大きいのが戦艦。そのくらいしかわからなかったけれど、短刀とか、打刀とか太刀とか、大きさで役割が違うのね。人間の兵器は」
「そうだろうね。人間の手は、持てるものが限られているから」
「そうね。私は……持つなら、あたたかいものが良いわ」
───兵器。
そう、自分たちは、武器だ、兵器だ。『鉄の龍』の話をしている時のこの龍の少女の瞳は、ほんの少し昏かった。大和守安定には、この少女の心の内まではわからない。だが、もしかしたら、怖かったのかもしれない。
炎を降らせる鉄の龍、その話を今したのは、やはり少女が大和守安定たち刀剣男士と、それを同一視しているだろうと、大和守安定は考えた。少女にとっては、刀剣男士は怖いものかもしれない。
……それは少し、寂しかった。なぜ、寂しいと思うのだろう? 大和守安定は考える。そうすると、やはり、この少女を見ていると、刀から刀剣男士となり、人間に程近い肉体を手に入れたことによる副産物である『心』が疼くのだ。
「……あ、なあに? 安定」
「……ねえ、あなたは僕が怖い? 僕、炎も出せないし空も飛べないけれど、血まみれで帰ってくるでしょう」
座り込む少女の背中に覆い被さるように、大和守安定は後ろから彼女に抱きついた。
少女は少し驚いたように肩を揺らし、それから、やわらかく微笑んだ。月明かりが彼女のぬばたまの髪を照らし、まるで潮騒の中で瞬く星のように揺れた。
「いいえ、安定は怖くないわ」
ぽつりと、けれどはっきりとした声だった。
「だって、安定は……抱きしめてくれるから」
その言葉に、大和守安定の手がわずかに強くなる。抱きしめた腕に力がこもる。少女の身体は思ったよりも小さく、細くて、けれど確かにそこに在る。兵器でも、神でもなく、ただのひとりの心臓が、大和守安定の胸の中で、鼓動を打っている。
「空を飛ぶ鉄の龍が、街を焼いたの。燃えた家の中で泣く人がいて、燃えた空を睨む人もいた。私も、その光景を見ていた。……何もできなかった」
それははっきりとした記憶か、それとも曖昧な幻か。誰にもわからない。ただ、彼女の声の中に宿る熱だけが、真実だった。
「でも、安定は違うの。あなたは、血まみれで帰ってきても、私を抱きしめて、あたためてくれる。……それって、鉄の龍にはできなかったことよ」
その声に、大和守安定の心の奥がふるえた。兵器として打たれたこの身が、ただ斬るために生まれたこの身体が。誰かをあたためるためにあると、言ってくれた。それは、とてもとても、やさしくて───あたたかい呪文のようだった。
「ねえ、安定」
少女がふと、首だけを捻って、彼の顔を見上げる。
「鉄でできているって、同じでも。魂は違うのね。私は、あなたが傷つくと少しだけ心が痛む。でも、あなたが誰かを守って、帰ってきてくれるたびに……ほっとするの。……嬉しいの」
「……うん」
「だから、好きよ。安定」
その言葉に、彼は目を見開き、そして、すぐに静かに瞼を閉じた。
「……僕も、あなたが好きだよ」
月の光が二人を包む。砂浜に寄せては返す波の音が、さざめく花のようにふたりの時間を縁取っていた。
鉄でできた刀と、空を見上げる龍。違う形、違う時代、違う命。でも、今、抱きしめ合うこの瞬間だけは確かにひとつの運命だった。
潮騒が、やさしく砂を撫でている。
ふたりの影を、月が長く引いていた。白く、揺らめく波の音だけが世界のすべてであるかのように、静かな時間が浜辺を満たしている。
大和守安定は、ずっとそっと、少女を抱きしめていた。
それはまるで、ひとつの願いのような抱擁だった。奪うのでも、支配するのでもなく、ただそこに居てほしいという、静かな、けれど決して手放したくないという想いが宿っていた。
少女の髪が風に揺れる。黒の糸が夜の闇にほどけて、大和守安定の頬をかすめた。
彼の胸に背を預けたまま、少女はそっと自分の手を、彼の腕へと重ねた。その手はとても小さくて、けれど確かに、大和守安定の腕をたどり、指先でそのぬくもりを確かめるように触れていた。
「……冷たくないのね」
ぽつりと、少女が呟く。
大和守安定はそれに、返す言葉を見つけられなかった。ただ、自分の手を重ね、包み込むように彼女の指を握った。
あたたかい。それは、刀だった頃には知らなかった感触だった。
「鉄なのに……ね。あなたの手は、ちゃんとあたたかい」
少女の声は、波の音に紛れるほど小さく、それでも確かに届いた。
「……あなたが触れてくれるからだよ」
大和守安定の声も、囁くようだった。
その腕は、抱きしめるたびに意味を持つ。斬るための腕ではなく、守るための腕として、少女の中に残ってゆく。それが嬉しかった。
少女はそっと目を閉じた。背中に感じる彼の心音が、波の音と重なって、まるで深い深い眠りの中にいるようだった。
夜の海は、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。
波は打ち寄せ、また引いて、ふたりの影をなぞってはさらっていく。けれどそのぬくもりだけは、どこにも消えてはいかなかった。
それは、いつか大きな愛になるための、静かな約束のかたち。
少女は大和守安定の腕を撫でながら、そっと囁いた。
「……今夜が、終わらなければいいのに」
その言葉に、大和守安定はただ、少しだけ彼女を強く抱きしめた。
答えはなくても、その抱擁がすべてだった。波の音だけが、やさしく、ふたりの時間を刻んでいた。
そして少女は思う。
この世界が、どれほど儚く、崩れやすい砂の城でも。
彼が傍にいるなら、崩れたあとにまた築いていける。そう思えるのは、大和守安定が、ただの兵器じゃなくて、『彼』だから。
「安定、もっともっとぎゅっとして?」
「……もう、甘えすぎだよ」
けれどその声は、どこまでも優しくて、少しだけ照れくさそうで。抱きしめる腕の強さが、すべての言葉よりも雄弁だった。
───砂の城が崩れるその日まで、どうかこのぬくもりを忘れませんように。
鉄の龍と砂の城