
百合の君(52)
狩菜湖は穏やかだった。水辺には葦が茂り、つい今しがた、かいつぶりが小さな頭を水中に突っ込んだところだった。そばにいた別のかいつぶりはつられて潜るでもなく、ただ浮いていた。その小さな体は波を強調して揺れている。
そんなかいつぶりを煽り立てるかのように白鷺が低く飛んでいた。その鳥は湖から出てしまうのではないかと思うほど長く飛んだ後、水面をじっと見つめている仲間の近くに着水した。その波紋で、映っていた白い雲が大きく揺れた。
湖畔の城下町は燃えていた。焼けだされた人々は着物を奪われ、裸のまま磔にされたり、生きたまま埋められたりした。家屋敷にあるものはすべて運び出され、すがりついた住人は、足蹴にされ、時には残忍に手足を切り落として殺された。
小さな山の上に張った本陣から、喜林義郎はその猛禽並みの視力で自分の兵の蛮行をつぶさに見ていた。
「何だ、この兵どもは?」
「出海が配った絵の力です」
木怒山は髭をもそもそさせて答えた。
「絵だと? ただ紙に描いた娘のために、やつらはこんなことをしているのか?」
「あの絵によって別所は悪となりました。ですからそれを成敗することは、義になります」
義郎の見ている城下では、粗末な小屋から父娘が引きずり出されていた。兵たちが父親の背中に刀を当て、なにやら騒ぎ立てたかと思うと、父親が娘を押し倒してその着物を剥いだ。
「これが義だと?」
「義のために戦うことは、気持ちの良いものでございますから」
義郎は胸が悪くなった。彼自身、殺人強盗何をしても全く心が痛まないが、それは人工的な正義によって己の行動が正当化されると考えているからではない。自然の欲求に従っておこなう行為を正しいと信じているのであって、小汚い娘のビラにそそのかされて自己の生存に関係のない殺人を行うというのは、全く信じがたいことだった。ましてや同じような年齢の娘を父親に強姦させるなど、完全な矛盾ではないか。森で出会ったどのような動物にも、そのような愚行を犯すものはいない。
止めさせるつもりで、木怒山の目を見た。その瞬間、義郎は木怒山と初めて会った時を思い出した。
煤又原城の道場で、「赤目の山猿が剣術などできるか」と殴られた。傷口から血が溢れて湯気が立つまで木刀で滅多打ちにされた。その時の木怒山の目は、言葉と同様、人間を見るものではなかった。自分が主となった今、もちろんその時のような目はしていないが、あれからまだ五年しか経っていない。木怒山の軽蔑を恐れた義郎は、止めさせろとは言い出せなかった。
「だがこれでは、私が剣を振るう機会がない」
代わりに六尺の大刀、國切丸を抜いた。期待通り、刀身に映った木怒山の目に恐怖が走った。武道大会であばらを折られたことを思い出したのだろう。
「もはや殿には、その必要はございません」
声にも若干の震えを認め、義郎は満足し微笑んだ。そして再び城下町を見た。炎が燃え盛り、舞い上がる火の粉と灰の中を鳶が悠々と旋回している。とりあえずは勝った、と義郎は思った。しかし、その骨を砕いて木怒山が膝を突いたのを見下ろした時のように、笑いをこらえきれないというのではなかった。
そして、南の丘の上、八津代の方角から出海の旗印が現れた。
百合の君(52)