落下から始まる物語16

世界政府と言うのは、19世紀的な夢の形なのかも知れません。
「世界政府」とか「世界共和国」とか書くと、セテムブリーニ氏に会いに行きたくなります。

00210906-2
 エリナリスとジョエル(大統領府)


 その日、ジョエルがエリナリス大統領の執務室を訪れたのは、彼女からの、滅多にない緊急呼出しを受けたからだった。
 だから、執務室の長大なデスクについたエリナリスが、満面の笑顔だった事に意表を突かれた。
「どうしました、大統領」そう言うジョエルの笑顔には、珍しく探るような気配が透けて見えた。
「オシリスがね。」
「はい。」
「アメリカンショートヘアとジャパニーズボブテイルなら、どっちが好きかって、聞いてきたわよ」そう言って、ジョエルをじっと見つめるエリナリスの眼は、子供の悪戯を咎める母親のそれと、殆ど同じだった。
「あ、あー、そうですか」ジョエルは吹き出しそうになるのを堪えて言った。平静を装うのは、諦めた。
「ちょっと、アドバイスを、その、大統領を喜ばしたいと、言うので。」
「そりゃあ、大喜びよ。」
「そいつは良かった。」
「なので、私の任期中は、今後二度とあの姿を使わないように、固く約束してもらいました。」
「駄目でしたか。」
「あんな、ガラス玉みたいな目をキラキラさせて、尻尾を振り振りしながら話されたら、私、内容なんて一つも頭に入って来ないわよ」エリナリスは、苦笑いを浮かべて言った。「あの格好で、オシリスが何か提案して来たら、どんな内容だって承認しかねないわ。」
「ああ、なるほど。」
「あなたには、重要機密漏洩について、追ってしかるべき処置を考えます。覚悟しておくように。」
 軽口めいた口調と裏腹に、エリナリスの目には本気の色が滲んでいた。
「以後、気をつけます。」
 素直に頭を下げたジョエルに、エリナリスは一瞬微笑んだが、直ぐに姿勢を正して口を開いた「さて、では本題に入るわよ。T計画について、今朝の報告書を見ました。アナリスト達は、あの文書がニュートーキョー攻略作戦の計画書、少なくとも、その資料と言う結論に達していたわね。まずは、あなたの感想を聴かせて貰える。」
 ジョエルは、少しホッとしていた。大統領に報告書を提出する前には、それがどんな案件であっても、必ず幾つもの回答を用意してあった。言うまでもなく、悪戯を咎められるよりは、対応はずっと簡単だった。
「はい。量子暗号の文章は、原理的に解読不可能ですが、個々の語句ではない、言語空間のサイズや構造について、ある程度の情報を読み出すことは出来るそうですね。言ってみれば、接続詞以外全て空欄の文章題を与えられたようなものです。結局、あれは、そこに嬉々として手当たり次第に物騒な言葉を投げ込んで、一番危険性の高いシナリオを作ったのだと思いますよ。」
「真実性ではなく、そこに私達が備えるべき物が含まれていると言う前提を、一番満足させる事を追求したってことよね」エリナリスの言葉はどこか冷ややかだった。
「仰る通りだと。」
「私が一つ腑に落ちないのはね、ジョエル、彼等に、世界を引っ繰り返したい理由が、本当にあるかしら。」
「どう言う事でしょう」そうは言いながら、ジョエルにはエリナリスが何を言いたいのか良く分かっていた。
「ニュートーキョー攻略と言うのが、現在の世界共和国政府を停止させる為の一番効果の高い作戦である事は、私も理解しているわ。でも、もし、それをやってしまったら、彼等はその後、どうするのかしらね。」
「第二共和国を作るつもりは、ないでしょうね」ジョエルはきっぱりと言った。「彼等に世界運営についての興味は無いでしょう。」
 そう、彼等にそんな意思は存在しない。自分達の不満は良く分かっているが、自分達の理想は分からないのだ。
 いや、今の現実と折り合える形で描ける理想像が無い、と言うべきか。
 しかし、不満があるのなら、その鏡像として理想像があるのではないか、少なくとも演繹出来る筈ではないか、と言う疑問に、未だにエリナリスは時として立ち止まり、その矛盾に戸惑うのだ。
 実務屋としてのジョエル自身は、現実を受け容れる事が出来るかどうかは、生死に関わる絶対条件だと信じていた。相入れない、根本的な立場の相違と言うものは、現実に存在するのだ。
 しかし、世界共和国政府の長にあるエリナリスがその矛盾を抱える事は、実は良い事なのかもしれないと、ジョエルは思っている。
 一部の人々にとって、世界共和国の建設とは、旧世界の破壊に他ならなかった。
 そのことで、最も大きな犠牲を払ったのは、旧世界の破壊を望まなかった者達、即ち、世界共和国の建設を望まなかった者達とも言えた。
 もし、払った犠牲の大きさが、何かを手に入れる権利の大きさと等価ならば、彼等がそれに相応しい報酬を手にしていないのは間違いないのだ。
 その報酬が、新たな破壊だったとしても。
(残念ながら世界はそういう風には出来ていないのだ。)
 その自嘲気味の考えが、ジョエルの表情に浮かんだのかも知れない。
 エリナリスは言った「そうね。ごめんなさい、今の話は忘れていいわ。選挙も近いものだから、ね。では、あなたも合理的に考えて、何らかの対策は必要だと感じる訳ね。」
「そうですね。共和国警察が出入国チェックの強化を、各所の防衛施設の稼働状況確認を陸軍の方で始めています。海軍も第一艦隊の帰港を早めるよう、スケジュール調整に入ったそうです。調整室長も各官庁の連携について、準備を進めています。」
「物々しいわね。」
「何事も無かったとしても、我々が失うものはありませんから。」
「あなたが最近欧州からお客様を招いたのも、その準備の一環なのかしら。」
 不意打ちだったにも関わらず、ジョエルは半秒の沈黙を挟んだだけで答えた「ご存知でしたか。」
「彼は著名人よ。私もロンドンで一度お会いしているわ。心配された夫人とミュンヒェン博物館の館長から、問い合わせが来ています。」
「ああ、そうでしたね。あの時は田中研究所の前所長も一緒でした。」
 ジョエルが次の言葉を探す一瞬の隙をついて、エリナリスは言った「詳しい事は、今晩、カーペンター教授と夕食をご一緒する時に聴かせてもらいます。」
「何ですって。」
「安心して。勿論、あなたとオシリスも同席していただくわ」エリナリスは真顔で言った。「料理は教授に選んで頂いて。調整室長に言っておきますから、手配は調整室のスタッフと相談しなさい。」
「分かりました」それ以外の言葉があり得ないことは、ジョエルにはよく分かっていた。
 彼女の灰色の眼は、自分の秘密を何処まで見抜いてしまうのだろう。
 エリナリスの洞察力は彼の恐怖の対象でもあった。

落下から始まる物語16

叱られる男の子の話が続いてしまいました。

落下から始まる物語16

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-27

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