最低な
てっきり今日が僕の彼女、綾子の誕生日だということを忘れ、彼女とのデートよりも友達との飲み会を優先してしまった。その事実に気がついたのは、綾子に密かに思いを寄せていたらしい、三橋からの一言だった。
「光が丘って今日、誕生日だよな?」
アルコールで熱っていた脳味噌が急激に冷えていくのが分かった。そのときの三橋の表情は笑いをこらえている底意地の悪さが露呈されていただろうが、確認する余裕が失われていた。
てんやわんやに騒いでいた友人数人たちも酒を飲む手を止め、眉を吊り下げ僕と三橋の顔を交互に見る。彼らもまた、高校のときの友人であり、僕と綾子の間柄も、三橋の思いも知っているため、どうするべきか悩んでいるのだろう。
言い訳すらも頭に浮かんでこない。僕は最低な恋人だ。「友達と飲み会があるから」と綾子に電話で告げた過去の僕をひたすら批難したい。彼女の変わらぬ、ピアノのような繊細な声が体全体に伝ってく。
早く行かなくては、しかし。ここで忘れていた、と言ったら。確実に友人たちは僕を軽蔑するだろう。今までの態度と一変することはないだろうがどこか余所余所しくなることは目に見えているし、こうして遊ぶ回数も徐々に減っていくに違いない。内気な僕は、三橋を含めここにいる数名しか友人がいないし、大学三年になったいま、新しい友人を作るのにもうまくいっていないのだ。
混乱している脳内で必死に言葉を探す。
「こ、これから会おうとしていたんだ」
はっと口についてでたのは無理やりな嘘であった。冷やされた頭は羞恥で再び熱を持っていく。こんな見え透いた言い訳をするなんて、僕は卑怯者の烙印を押されるに違いない。
友人たちは「そうだよな」と口々に頷きあった。三橋は一口、ガラスに注がれているそれを飲むと「それじゃ早く切り上げなきゃ」となんの感情もこめずに呟いた。
しかし、もう夜の十時を回っている。綾子の誕生日も二時間足らずだ。
さっき三橋が言ったときになにも言い訳せずに彼女の元へ駆けつけてしまえばよかったのではないか。彼女はいま一人部屋で待っているのかもしれない。僕が来てくれることを、祝ってくれることを。
付き合い始めて一年も経たないけれど、僕と綾子は高校のときからずっと、一緒にいたじゃないか。
瞳をぐっと瞑り、僕は全身に力をこめて立ち上がった。
「ごめん。もう行かなくちゃ」
友人たちはどうしたらいいのか分からないといったように顔を見合わせあっている。
「……行ってこいよ」
そんな中、三橋がいつもよりも低い声のトーンで僕を促した。「ありがとう」三橋はきっと、彼なりに僕らを認めようとしてくれているに違いない。
居酒屋を出て、繁華街を走り抜ける。都会のネオンは異常に眩しく、僕の頭を醒まさせた。まず綾子の携帯に電話をかける。息なんてまったく整ってなかったし、彼女に言葉が伝わったか分からない。ごめん、といまから行くから、それだけを告げて電話を切った。
彼女の誕生日をも忘れてしまう最低な男だけど、綾子を愛している気持ちは誰にも負けない。
がらんとした電車に乗りこむ。時間が過ぎていくのと比例して、僕の心もそわそわしてくる。早く彼女に会いたい、彼女を抱きしめたい。
「次は――」車掌の脱力したアナウンスが流れる。彼女が住む街につき、扉が開くとプラットフォームに誰よりも先に降りて改札まで走っていく。夜遅いので人は少ないが、仕事帰りのサラリーマンに当たり横目でちらりと睨まれた。軽く頭を下げて、街頭の少ない駅前を抜けて、閑静な住宅街に足を踏み入れる。
もうすでに十時半を回っていた。幸いなことに彼女の家は駅のすぐ近く。綾子は家の前に立っていた。
「あやこ!」
暗いため詳しい表情は伺えなかったが、彼女は嬉しいような困ったような複雑な顔をしていただろう。僕は確認する前に抱きついた。胸の鼓動が早まっているのは、走ってきたのと綾子の華奢な体を抱きしめているからだろう。
「どうしたの?」
戸惑いの声が耳元をくすぐる。
「ごめん……遅くなって。誕生日おめでとう」
瞳をまっすぐに見つめる。綾子の鼻の頭は真っ赤になっていた。綾子は一層、困ったように微笑み、首をかしげている。
「わたし、誕生日、まだだよ……?」
こんな恥ずかしいことって、あるのか。
三橋のしてやったり顔を思い出し、悔しくなってきた。なんだよ、見損なったぞ、と怒りが湧いてきたが、僕自身に対する呆れが急速に流れてきて、どうでもよくなった。僕が一番哀れで馬鹿なんだから。
グラスに映る自分の表情を見て、三橋は心の中であほらし、と囁いた。
酒に酔っているからって、友人である彼に対しこうした法螺をふいてよかったのか。
どこかレトロな雰囲気漂う掛け時計は十一時を回ろうとしている。もう、あの二人は会っているのだろうな。
友人たちは三橋を若干、除け者にしながら話を進めている。「アイツはだまされやすい」「正直者だけどな」先程出て行った彼の笑い話を延々と繰り広げている。いつもなら同じように笑いあうのだが、今日はそんな気分にもなれない。
綾子に対するほとぼりは冷めてしまっただろうに、こうしてアルコールを前にすると、どうも揺らいでしまう。恋心がぱっと息を吹き返してしまうのだ。
どうにもならないか、と溜め息をつくと三橋は目を瞑った。このまま深い闇の中に墜ちていき、気がつけば朝になっていたらいいのに。そうすれば、この荒くれた心もすこしは落ち着くだろう。彼についた嘘も、清算されていることを願う。
最低な