たーみなる
ぼんやりした人生のどこかに、煌めきの様なものがだれにでもあるのではないだろうか。人と人が寄り添うための嘘で固められた現実の中で、大人として生きている。
1
通勤電車の中では本を読むことが習慣になっている。ここ最近は歴史物が多い。学生時代も日本史が好きで、古代のロマンを追ったり、戦国武将のストイックさに心酔し、体制に反発した若者たちの怒りに共感を抱いたりした。マニアというほどではないので、特に持論はない、あこがれがあるだけだ。
最近読んでいるのは、平安朝の貴族の生活を描きつつ、フィクションで男女の恋愛を描いているものだ。それが今の時代からは考えられないほど、若年齢であったり、血縁の近いものであったり、略奪愛だったりするのだ。学生時代に比べて純粋に歴史を楽しむということは、なくなってしまったようだ。
朝は座れないほど混んでいる車内で、吊革に体重を預けながら、文字を追っている。帰宅時は始発ということもあり、まず座れる。ただしこの座れるというのはくせ者で、文字を追いかけているいるうちに底知れぬ睡魔がおそってくるのだ。それが実に気持ちいい。
仕事は、ほぼ一日じゅう部屋の中にいて、コンピューターを操っている。大手家電企業の下請けで、新製品の取り扱い説明書、いわゆるマニュアルを作成する仕事なので、やはり文字を追っているわけである。
私の場合、ディスプレイ上の文字はいわゆる活字というイメージはない。本を読む感覚とはまた別の感触がする。まあそれで仕事が終わっても本を読めるわけである。
今日も昨日と同じリズムで時が流れていった。マンネリと言えばマンネリだが、このマンネリの中にこそ真の幸せが隠れているのかもしれない。最近特に強くそれを意識している。
私の生まれは雪国の富山で、環境が人をそうさせるのか、地味で大人しい人が多いように思う。北陸特有の冬の空を想像できるだろうか。そんな空の下に1年の4分の1も閉じこめられていると、私のような人間がクローンのように輩出されるのである。もっとも同郷の知人の中には、私と違い平気で誰とでも気兼ねなく接触できる者もいるので、環境に流されない者もいるにはいるのだ。
高校を出て東京の大学に通い始めたはいいが、友人知人も少なく、それでも20代で結婚できたのは大学時代に所属していた考古学サークルのおかげだと思われる。あの頃は、邪馬台国がどこにあったかを本当に熱く論争したものであるが、近畿説を唱える私とは真っ向相容れない九州説を唱えていた一つ年下の一見文学少女が、今の私の家内であり、二児の母親でもあった。
上の子供が高校に上がったとき、自身の年齢を改めて省みてしまった。鏡を見れば確かに白髪が増え、皮膚の弛緩が確認できる。まあ誰しもが味わう感慨なのだと心の隅っこに追いやった。現在上の男の子が高校二年で、下の女の子が中学三年という非常に難しい年頃の子供を抱えているわけである。
私が難しいと言ったところで、実際多くの時間を彼らと共有しているのは家内の方なので、偉そうなことはいえない。また彼らにしたって私に何か訴えることはない。相談事は決まって家内とだ、私の出る幕はない。
私の居場所は、どちらかといえば家庭でなく職場なのだろう。管理職になってからは、自分一人ででマニュアルを作成することはなく、部下の書いたものを確認、あるいは校正することで、最終的にすべてに目を通してサインをするわけである。
部下は現在6人いて、私の肩書きは課長だ。課長代理が1名、主任と呼ばれる入社10年以上のベテランが2人、入社5年が1人、昨年と今年の入社が1名ずつというラインナップだ。ちなみに入社5年目の咲坂たづえが現在休暇を取っている。
12月に入ってすぐに具合が悪いので病院に行くのだと連絡があった。その病院は京王線の府中駅下車、バスで10分程度の場所にあった。彼女の住まいからはさほど遠くはないが、会社のある橋本からだと調布で八王子方面に乗り換えて、待ち時間も入れると1時間、行って帰って2時間になる。
私は課長代理に私自身の体調不良を申し出て、後の業務を引き継いだ。もちろん咲坂の病気見舞いを理由にすることもできなくはないが、私たちには周囲の者に気づかれたくない秘密があったのである。
咲坂が入社した5年前、私はまだ課長代理という肩書きだった。後にも先にも一目惚れをしたのは、その時が初めてだった。咲坂は誰が見ても美人の部類であったが、その意外性は日本史を趣味としていたことだ。
私も舞い上がっていたのかも知れない。元々大人しい、表に出ない性格の私が、酒の力も手伝ったか、いつのまにか口説いていた。それも周りに数人見ている中だったので、誰もが冗談だと思った。彼女も最初は相手にしなかった。もちろん素面の時はいっさいそんなことはしない、むしろできない。
その後も酒の席になると私は酔っぱらって彼女を口説いた。みんなはまたかと段々相手にしなくなった。彼女はというと段々気を良くしていたようで、その成果は半年たって現れた。それも素面の時に彼女の方から、行動に現してきた。
私にメモを渡しながら「仕事が終わってから連絡を下さい」と囁いた。メモに目を走らせると携帯の番号が書いてあった。何事かが起こった。私はなにやら期待が半分と何か人をバカにするいたずらの類のような不安半分が入り交じった様な複雑な心境で退社時間を迎えた。
2
咲坂たづえから携帯にメールが入り、なんだか恐いので一緒に来てほしいという文面を少しめんどくさいような気持ちで眺めていた。トイレの中から返事を出して、まず欠勤報告を今私がトイレにいる間にかけること、抜け出すとすれば早退ということにするが、会議があるので、午後になるということを伝えた。
5年前、彼女が入社してきて、私の人生は急に活気づいたようだった。それまでの人生が決められた平坦なレールの上をひたすら大人しく走ってきたとすれば、起伏にとんだレールをギリギリ外しはしない程度に突っ走る感覚で、いつ外れるか分からないスリルと共にころころ変わる風景を楽しんでいるようだ。
彼女が私にメモを渡した日、私は仕事を終えてすぐにメモに書いてある携帯の番号に電話をかけた。
「課長代理ですか。ぜひご相談したいことがあります」
そう言って彼女が指定してきた場所が調布であった。お互いそこが乗換駅となるので、確かに都合がいい。それに分けありの人間にとって、会社の近くでないことは必須条件でもあるだろう。
私は、家に帰っても特に趣味といったものはなく、せいぜいテレビを見て寝るくらいのもので、仕事が好きだと言うわけではないが、結構残業を好んで引き受ける手合いだった。家にいる時間は寝る時間くらいのものだったかもしれない。家内も子供もその辺は心得ていて、3人でうまく家の中をかき回している。
咲坂たづえは、北口のデパートを抜けた商店街の喫茶店ともスナックともとれる店の奥のテーブル席でコーヒーを飲んでいた。素面で見てもその姿は優雅で美しかった。座り方、カップの持ち方が、どこが違うのか分からないが、絵になっているのだ。
アルコールの入っていない私は、仕事の延長のような口調で相談したいことの全容を追求せざるを得なかった。そんな私の言い方を全く気にせずに彼女は朗々と話し始めた。
「実は、今の職場はもの凄く気に入ってるんです。皆さん親切で優しいし、お酒の席に行っても楽しくて、私ここに来てほんとに良かったと思ってるんです。ですからこうしてお逢いしていることも内緒にしたいんです」
そう言われると、こうして彼女の思うままにここに来ているのが、なんとなく後ろめたく、秘密めいて思われた。もちろん何かしらの期待も働いていたことは否定できない。
私もコーヒーを口に運びながら、声をひそめ始めた。
「そうか、わかった、内緒にするよ」
なんだ、やはり願いが叶ったということか。ただし余りにも自然であるだけに何か拍子抜けした感もあった。
彼女は私の返事を聞き、「ありがとうございます」と一言だけ囁いた。それから特に話しもせず我々は店を出て歩き出した。夏が過ぎ秋になったが日中はまだ残暑がきびしい。しかし夜になるとそれなりに過ごしやすい気候になる。
子供が中学生になろうという時にこんなことに現をぬかしていていいものか、複雑な思いの中、身体だけが勝手に先へ先へと進もうとしていた。彼女は美しくもあったが、それ以上に一緒にいて自然だった。歴史という趣味の一致はもちろんあるが、その事実をどう受け取るか、敗者と勝者のどちらに親近感を持つか、そういった細かい部分で共感できることが数多くあった。
居酒屋とバーをはしごして、私たちはまるで青少年のように大声ではしゃぎ、しまいにはとうとうホテルへと向かった。罪悪感のかけらもなく、どのホテルにするか楽しそうに選び、まるで修学旅行にでも来たかのように部屋の作りを確かめた。私たちは時間をかけて大人に戻り、大人の恋愛に浸った。
肌と肌を合わせる感覚にめまいが生じることなど、以前家内との関係でもなかった気がする。お互いの身体を細部までさぐり合った。あくまでも自然の成り行きだった。骨まで溶けるという意味を悟った。
我々には節度というものがあったので、毎週木曜日以外に関係を持つことはなかった。そして仕事中にそれらしい素振りを見せることはせず、ひたすら上司と部下の関係を保持することにつとめ、それはここ最近まで、何の障害もなく続けられてきた。
月曜だというのに、咲坂たづえからメールをもらうのは初めてだったし、今まで無遅刻、無欠勤を貫いてきた彼女にとっても初めての事態だったろう。それも具合が悪くて病院へ行くなどというのは、頻繁にあるものではない。
それでも私の胸に去来したのは、面倒くさいことになったという意識と、いかに不振な感じを与えず職場を抜け出せるかという自己保身の考えだった。きっと今頃はもう誰か別な人間に欠勤届を済ませたところであろうし、ゆっくりと顔を出し、何食わぬ顔でその報告を受ければいいのだ。
案の定、課長代理から彼女の欠勤報告が告げられた。
「ああ、そう。珍しいね。よっぽど具合が悪いのかな」
私は、用意しておいたセリフを感情を押し殺しながら、いや多少は心配の振りをしながら、もっとも課長らしく発言したつもりだった。おそらく誰も不審には思わないだろうが、私一人がびくびくしていた。最後の「具合が悪いのかな」は、後で私が早退する時に何か共通するものを連想させないかなどと考えた。
3
京王線府中駅の北口からバスに乗って10分程度、彼女のワンルームマンションを訪ねる。週に一度は訪れているが、夜遅くか、朝方しか見たことがない風景にいつもとは少し違う感覚を味わう。
彼女はすぐに外出できるように着替えを済ませていた。
「遅くなったけど、まだ病院は間に合うのかい」
「2時頃になるってあなたが言うから、3時に予約したの」
彼女は、お湯を沸かし始めたが、お茶を飲んでる場合でもないので、とにかく病院へ出向くことにした。
病院の受付で彼女は診察カードを取り出した。ここに来るのは初めてではなさそうだった。彼女の行くようにエスカレーターを昇り、廊下を歩く。その傍らにいる私は、連れ合いに見えるだろうか、多少年の離れた夫婦には見えるだろうななどと周囲の目線ばかり気にしていた。
3時を少しまわって彼女の名前が呼ばれた。さすがに同室するのははばかられ、大人しく待合いのソファーに座って、彼女を待った。壁に貼ってある健康保険証の案内やら、うがい励行を促すポスターなどに眼を留めながら、ゆっくりとした時間の流れを味わっていた。
病院などというところに普通はやってこない。健康など当たり前のことのように感じている。ところが、ここにいる人たち、特に年輩者が多いが、彼らにとっては、これが日常であり健康というありふれたものこそが理想であるというわけなのだ。
しばらくして彼女が診察室を出てきた。表情は決して明るくない。
「入院しなくちゃならないかも……」
「どこが悪いんだって」
「これから調べるのよ……」
そう言った彼女の後に付いて、ワンフロア下に降りた。そこではレントゲンを撮った。
その後CTスキャンも行い、再び待合室へ戻る。
長男が生まれたときに、初めて大きな病院に入った。産婦人科にたどり着くまでの迷路をわくわくしながら歩いた記憶がある。予定日を過ぎていたので、いつそうなってもおかしくなかったが、仕事は休めなかったので、連絡を受けて駆けつけた格好だった。
私たちは家内がまだ在学中に結婚したので、出産時にはまだ入社したての新米だった。新米のくせに結婚なんかしやがって、新米のくせに子供なんかつくりやがって、等々冷やかしの洗礼は受けてきたが、それもまたうれしかったことを覚えている。
2年後の長女が生まれた時も、同じように病院の迷路を歩いたし、冷やかしを浴びた。長男の時はお昼頃だったが、長女は退社時刻間近だったような記憶がある。
生まれてからも小さい内は、とにかく手が掛かる。母親の苦労に比べれば父親のそれはたかが知れているのかもしれないが、てんてこ舞いの家内をサポートしながら、仕事に出かけるのも結構たいへんなんだと主張したい。
それでも何の苦労もなくなった今よりは充実していたし、夫婦で同じ目的を共有している安心感のようなものがあった。それが二人とも小学校に入り、高学年になるころには、彼らの考えていることが分からなくなっていたし、家内の言う受験のシステムも複雑で、私の考えも及ばず、結果的に父親不在で決まってしまうのだった。
咲坂たずえと関係が出来た頃、長男は6年生で、有名中学の入試に向けて日夜勉学に励んでいた。母親は長男のモチベーションを高めることに神経を注ぎ、私のことをまるで無視しているような有様だった。
家庭内でそんな状況にあったことも、私を外の世界に誘いだした要因の一つだったのかも知れない。またそんな状況が幸いして、私のそんな変化を家庭内の誰にも知られずにすんだと言えるのだろう。私のしていることは誉められたことではないが、誰かを傷つけようとするものでなく、勝手に言わせてもらえば、もっと意義のあるものだ。
長男が無事に中学に合格すると、家庭内はお祭り騒ぎとなった。私もお祭りに便乗して、というよりは便乗させられて、長男にプレゼントを贈った。まあかなりの難関であったのは間違いなく、彼なりに頑張ったのだから、その努力を称えるべきだろう。
入学祝いだから、ゲームとかDVDといったものでなく、中学に入って役に立つものという母親の意見が、長男を一瞬冷ややかな顔にして、さらに最終的に私に判断が委ねられると長男は合格の喜びから覚めて、ひたすら夕飯にくらいついていた。母親は責任回避で私に選択権を託したが、私のセンスを小さいときから見ている長男は、諦めに近い気持ちになったに違いない。
そんな話を、付き合って半年になる咲坂たずえに相談したことがあった。
「まあ、おめでたいじゃないですか。今日は飲みましょう」
「ありがとう。家庭内のことで、恐縮しちゃうなあ」
「今時の中学生なんて、何を喜ぶのかしら」
「ほんとはしばらく勉学から離れて、苦労してきた分遊びたいと思ってるんだろうなあ。奴の欲しそうなものを買い与えれば、家内が何を言うか分からないしなあ」
「奥さんが恐いのね」
「そりゃあそうだ。まさかこんな風になるなんてなあ。女は結婚すると変わるんだよ」
「私も変わるかしら」
その言葉に彼女の結婚願望を感じて一瞬沈黙した。そんな私の反応を察して彼女は笑いながら言った。
「私に結婚させない気でしょ。いつまでもあなたのそばにいるとは限らないのよ」
私も合わせて笑ってみたが、自分の欲望のために彼女の人生を踏みにじってしまうのは、罪ではないかと感じ始めていた。
窓の外はもう夜の帳が降りていて、待合室の人影もまばらになってきた。私たちは会話もせず、時々呼ばれる他人の名前に一々反応していた。私は過去を振り返りながら思い出に浸っていた。診察室から出てきた彼女は、私に向かって笑顔を見せた。さては特に問題が無かったのか。
「どうだった」
すぐには答えない。
荷物をまとめながら、彼女がぽつりと呟いた。
「腫瘍があるみたいなの」
口調は、あまりにも自然だ。まるで「明日は雨みたいね」とでも言わんばかりの抑揚の無さだった。
彼女の口調に乗せられて、私も深刻ぶることが出来ず、ただ「へえー」としか答えられなかった。
4
いつもと変わらぬ新年を迎え、三賀日をおとなしくすごした。仕事が始まればまた例によって、読書三昧の通勤時間を過ごす。成人式を過ぎ、節分をすぎても咲坂たずえはずっと仕事を休んだままだ。彼女の机がぽつんと空いているのを見ては、私の中の罪悪感がこっそりと頭をもたげてくる。
実は、彼女の入院準備を見届けていらい、病院へは足を運んでいない。子宮に腫瘍があると言われ、彼女は落ち込むどころか、私に冗談さえ飛ばすようになった。
「生命保険の受取人をあなたにしておけば良かったわね」
「告別式なんかやっても誰もこないでしょうねえ。きっと無駄よ」
「化けて出てきたって、私って分かるかしら。元々影が薄いし……」
私は少しそれに閉口してきて、相づちを打ちながら仕事の事などを考えていた。彼女が荷物をまとめ終わったらしく、私の顔を見ながら言った。
「心配してくれてありがとう。後は自分で出来るから、今日はもう帰った方がいいわよ」
「大丈夫か?結構重そうだけど……」
「大丈夫よ。かさばってるけど、軽いものばかりだから……」
彼女はそう言いながら顔を背けて斜め後ろ側を見ていた。
私は彼女の部屋を出て、いつもよりは早めに帰宅した。
玄関を開けると家内が眉をしかめながら言った。
「あら、今日は遅くなるんじゃなかった?まあいいけど」
そう、ここ5年間、ずっと木曜といえば残業ということが、家庭内では当たり前になっていた。
果たして本当に残業と思われているのか、意外と私の不義を知りつつ、大目に見てくれているのか。実際何を考えているか、分かったものではない。
着替えてボーッとしているところに、食事の支度ができてテーブルに付く。高校2年の長男は、友人との語らいということで、不在だった。中3の娘は参考書を片手にテーブルに付く。
「食事の時くらい、勉強の事は忘れられないのか」
「そんなこと言って、落ちたらお父さんが責任取ってくれるわけ?」
予想通りの返事が返ってきたので早々に退散する。やはり家庭内の事は母親に任せよう。
「あら、お父さんの言うとおりよ。あなたは女の子なんだから、あんまりがり勉だとかわいげがないわよ」
台所から姿を見せながら、私に同調してくれたのである。
娘は返事こそしないものの参考書を閉じて、脇のいすの上に置いた。私は家内が味方してくれたことに久しぶりにいい気分になり、早く帰宅したことをうれしく思った。同時に咲坂たずえの気遣いを感じることになった。
それから約2ヶ月が過ぎていった。その2ヶ月はほとんど残業せずに帰宅するようになった。
以前よりも家内は大人しくなったような気がする。長男を有名中学に入れることに没頭していたときの家内ではなかった。思えば、そこで多くの労力を使い果たしてしまったものか。長女は普通に公立の中学に進学させたが、長男は再び高校受験を向かえ、そこでも残りの労力も惜しみなく使い果たした。
長女の初めての受験も前述のごとく「女の子だから」という理由で、クールを決め込んでいる。私の食事の支度も以前よりはちゃんとしている気がする。少なくとも手を抜いているという気配を感じなくなった。
随分家庭を顧みてこなかったなあという感慨を受けた。私は一家の大黒柱と言われながらも実際はアウトローという気持ちだった。しかしアウトローいう身になってこそ、咲坂たずえとの5年間を過ごすことが出来たのだ。
新宿行きの始発に今日もお決まりの席に陣取って本を広げる。歴史物であることは変わりないが、最近読んでいるのは明治新政府の改革を綴ったもので、征韓論で西郷らがその地位を追われ、野に下っていくあたりに、いわゆる政治力を感じるのである。
先を見る目を持つ者が生き残るということなのだろうか。雰囲気に流されるのは、やはりリーダーとしては失格に違いない。しかし人間すべてがリーダーというわけではない。流されるのもまた人生かと思ったりもするのである。
電車は調布駅を出ると明大前まで止まらない。いつも調布駅で降りてちょうど反対ホームに停まっている各駅停車に乗り換える。そして仙川という駅で降りて歩くのである。
調布に付く寸前、携帯電話が着信メールに反応する。
(ご無沙汰してます。1月5日に手術を受けました。結果は良好です。退院後、部屋で療養をしてましたが、なかなか以前の様には動けませんでした。今日は退院後、初めての通院でドクターからお墨付きをいただきました。来週には職場復帰できそうです。食欲も見る見る沸いてきて、動かなかったせいもあり、どうも以前よりぽっちゃりしています。嫌われないと良いんだけど……)
文の最後に挿入された顔文字は困ったような表情だった。
アナウンスが調布到着を告げ、私は本に栞を挟んで立ち上がる。ホームの反対側に停まっている各駅停車に目をやるも、乗り換えのエスカレーターに身を委ねる。八王子方面は別のホームである。
新宿方面からやってきた満員の八王子行き特急に飛び乗る。私は吊革に掴まりながら、栞の挟んであったページを開くのである。そこには感情に流された者の末路が書いてある。
「所詮、私はリーダーではない……」
心の中で呟いた。
たーみなる
考えてみれば、人生はいくつもの分岐点で構成され、そのどれかを選ぶ事で未来が決定されてゆく。その一つ一つがターミナルです。あの時こうしていれば!後悔先に立たず!!