蒼い空 深い海1
真白いレースの向こうは、なんてことのない、ただただ晴れている昼下がりで、小さく行きかう車の騒音も聞こえず、ゆっくり右から左、左から右へと滑っていくだけで、当然、この部屋のベッドのきしむ音なんか、かき消されてしまっていて、誰にも聞こえるはずがない。
足音がドアの向こうに遠ざかった。そのまま腕に顔をうずめ、下腹部に手をあて、そっといたわる。少し痒みの残る右腕をつねった。
左上腕に残る痣は、だるさを倍増させていた。
どこから入ったのか。ふわりとイエマダラカは、その腕の上を着陸した。季節は冬だというのに。
体を丸めそのまま動かない。針は皮膚の中に入り込み痛みを感じさせること無くゆっくりと吸いあげる。
指先で後ろ足からおさえこむ。徐々に力をこめると赤色がはじけとぶ。そのまま、ぷっつり途絶えた。
部屋が同じ形で番号が整然と振られ並ぶ廊下が延々と続く。さっきから3度は往復した。
面会の約束をしている教授の部屋があるはずのこの建物で、少し速度を落して番号をもう一度確かめながら奥へと進む。
結局最後のところに戻り、立ち止まり、腕時計を確認した。
今の時間は17時で、約束を10分過ぎている。
ため息をついて、まいったなあと、途切れてしまう連番号札をなんどもにらみつけた。
電話をしようとバックをのぞき、携帯電話を引っ張りだした。液晶は黒く、外の光を鈍く反射する。
「電源切れ?」
トホホというよりも、手持ちのカード切れた手品師だ。肝心なときに道具が役にたたないとは、焦りを通り越して、あきらめる、だ。
待っていたのは、百合からの着いた、コールなのだが、ちっともかかってこない。
淳は携帯電話を開いては閉じ、液晶を睨む。
「スタジオの予約、何時だった?」
「7時。渋滞しているんじゃあないの。」
「予約、間に合う?」
「まだ五時だろう、十分にメシ食える時間もあるって。落ち着かない奴だなあ。」
「そっか。渋滞かなあ。」
涼平は明日の予定をゆっくり立て始めた。
淳は百合と、でかけるだろうから、休日の相棒には見込めない。
スタジオの鈴ちゃんと一日だべってすごすとするか。ひょっとしたら女の子を紹介してくれるかもしれない。
「涼平、この前の子とはどうなの?」
「ああ・・・。あのコねえ。」
食事をおごって、そのままバイバイだったあの子の話を続けようとするのを、さえぎるように淳はけげんな表情になり、すくっと、立ち上がり、涼平に背中をむけた。
「おーい。話し振っておいて。なんだよー。」
開け放していた教室の引き戸際から、淳は廊下をのぞきこんだ。少しふらふらしながらも、急ぐ足元の持ち主の背中に声をかけた。
「・・・君、さっきからなんどもなんども行ったり来たりしていない?」
遠くなりかけたヒールの音が止まった。
恵美は、後ろを振り返る。
「私のこと、ですか。」
「そう。君。どちらまで御用ですか?」
「建築の加藤教授のお部屋です。この建物と聞いたのですが。」
恵美は歩みより、よれよれになってしまったメモを渡した。
「涼平?建築の加藤教授だって。」
「ああ。」
「連れて行ってやれよ。」
んー。あいかわらず、人にめんどうを振るのが上手い。まったく。のろのろと掛けていた足をさげ、反動で前に立ちあがる。
「俺のベース、鈴ちゃんに預けてあるから運ばないでいいよ。」
「じゃあな。」
「百合によろしく。」
「おう。」
涼平の肩をぽんと叩き、淳は恵美に手をかるく振り、恵美は軽く会釈した。
「お願いします。」
ぺこりと頭をさげた恵美に、ここに来るのは初めてなのだろうとすぐ理解した。
「行きますか。部屋はこの先。」
その後を恵美は追ってあるきだした。
「ありがとうございます。とっても助かります。すでに遅刻しているものですから。」
「五分前行動終了、がここの原則なんだけど、君は、外部の人?」
あまり他人に興味は無いが、見たことある、無いくらいはなんとなくわかる。
「来月からこちらの研究室でお世話になることになりました。」
眼鏡をかけた縁にかくれるように傷をつけた目の前の女の子は涼平を見上げて、ここには似つかわしくない、あっけらかんな返答ぶりをすることに、涼平は力が抜けそうになった。
「とりあえず、急いでいる?」
「とっても急いでいます。」
部屋はほんの眼と鼻のさきで、離れになっていてわかりにくいだけのことで、すぐにたどり着くことができた。
「遅いから何かあったかと心配したよ。恵美君。少し座って落ち着いてから話そうか。そして、涼平はご苦労さま。茶でも飲んでいけ。なんなら後で一局相手するぞ?」
「お茶はいただきますが、一局は勘弁ください。」
「そうか。茶はセルフだ。勝手に呑んで、そこで座って待っていろ。」
「ええっ。」
「ゆっくり休んで待機、ってことだ。」
涼平は仕方なく待つことにした。
奥のこの建物のおんぼろさとは似つかわないバルセロナチェアにもたれて、時計をのぞく。まだ約束まで一時間半はある。暇なことは暇だ。少しここで時間を潰してから、スタジオに行けば、二人を邪魔することもなく。
時折、部屋の奥から専門用語の飛び交う会話が流れてくる。涼平を見上げてきた彼女の柔らかい表情がよぎる。なぜか疲れきったという印象とともに。そのまま訳のわからない会話は、涼平の子守唄になり、瞼は閉じた。
「先ほどは、案内いただいてありがとうございました。駅までは一人で大丈夫です」
「送ります。」
加藤から、恵美の送りを命令されたのだ。
「すみません。」
「オヤジは嬉しそうだったなあ。今まで花が足りなかったんだよなあ。この辺り。」
ここは、男所帯の世界で女の子に会うことは早々無い。涼平の所属する永田研究室も同じく、むさくるしいに尽きる。
「それについてはお役に立てそうにもなく。」
さらりと、軽くきついことを言う。
「けっこう、はっきりしているのね。君。」
さらりと、軽く見ていたと白状する。
「建築の世界は男社会です。」
「・・・そうだ、僕は瀬島涼平。君は?」
「城嶋恵美です。瀬島さんは、ここで何をしているんですか?」
「飛行機を研究しているの。さっきの奴も一緒で、一年間訓練し終わってから、戻ってきたんだ。」
「訓練?って。」
「大学でてから、そのあと、また学校行かないと操縦できないの。」
「・・・そういえば、その貴方の格好って、なんですか?」
「・・・ここ、お国を守る人たちの学校でしょ。だから、ほとんどが制服きているの。」
明らかに、この敷地で出会う人々は、私服とはいえない格好をしている人がほとんどだ。
「ここの警備員さんかと思っていた。」
「ええ?」
今まで加藤教授が制服を着ているところを見かけたこともないし、今日も背広だったから余計に気がつかなかった。
「帽子かぶっているでしょ。そういうのが似ていません?」
「まあ、言われてみれば。」
それでも納得いかないという表情に、さすがに申し訳なくなるがこれ以上言葉が思い浮かばない。
「城嶋さんは、飛行機に興味ない?」
困ったのか、目が固まった表情が面白いと思った。
「・・・飛行機は、飛ぶ奴ですよね。」
「そう。ぐおーんと。」
前につかつかと進み出て、振り向きざま、手で飛行機をつくって空を飛ばしてみせる。勢いよく手首を回転させると、恵美は、さらに目を丸くする。
「そういうの、ですか。」
「もしもよかったら、今度見に来てよ。激励だと思って。」
せっかく助けてもらったのだから、そのくらいはいいかもしれないとは思いつつも半分からかわれているようにも思える。
「真面目なお誘いですか?」
「もちろん、大真面目。」
直球で返され、笑いだしそうになるが、冗談で返された恵美は、その表情に少し意地悪することを思いつく。
「それじゃあ、私も真面目に考えておきます。」
にっこり微笑まれ、涼平は両手を挙げて降参だ。
「お断りかと思った。」
大げさにほっと胸に手をあててみせる。
「その際には研究室までお迎えに伺います。これ、サービスね。」
嬉しそうにおどけながらも軽く敬礼をむける、その陽気さがまぶしい。一方の改札向こうの見知った視線がこれから、気を滅入らせる。
「ありがとうございました。」
「気をつけて。」
恵美は軽く頭を下げ、改札に向けて早足で駆けた。中でもう一度振り返り、再度会釈して階段を駆け上がる。
背中を見送り、帰ろうと足を元来た道にむけようとした途端だ。
涼平は腿のポケットで振るえていた。引っ張り出し通話ボタンを押す。
とたんに、耳の中までかっこんできそうな大声に、なんだよとつっこみながら、受話器から耳を離し凝視する。
「涼平?きいているか!彼女、さっさと連れてここへ戻ってこい!」
「・・・そんなに大きな声で叫ばなくても、聞こえています!」
「そうか?あー、駅で、恵美君に、ちょっかいだす男がいたら、そいつから離してやってくれ。」
「ちょっかい?何ですか。それ。」
「・・・人助けだよ。後で説明してやるから。」
面倒くさいことにまきこまれそうだと勘が働く。
「・・・後を追いますから、電話、切りますよ!」
涼平は2段飛ばしでホームに駆け上がった。そのままホームをぐるりと見渡し、上り方面の端に視線が止まる。遠目から見ると普通に電車の到着を待つ二人にしか見えない。そっと二人が座るベンチの真後ろに回りこんで様子を伺った。
全く彼女はこちらに気がつかない。オヤジはオヤジで勝手だし。なんで俺がこんなこそこそしないといけない。時計をちらみし、スタジオに間に合わないかもなあと声にも口にもださずに心底でため息つく、だ。
「迎えにきた。」
途中からエスカレータをゆっくり歩く恵美に隼はついていく。
「もう、会わないって。あなたのお母様の前で、約束したでしょ。」
少しでも離れたいのに。ホームまでぴたりとついてこられる。仕方なく、ホーム端にあるベンチに座る。
「俺は納得していないよ。」
「・・・納得しない?冗談でしょ。全部めちゃくちゃにしてしまったのは誰?」
「俺、バンドはどうでもいい。でも恵美が離れて行くこととは違うだろう。」
恵美は耳を疑う。
「・・・悪かった。謝る。この通りだから。僕は、一緒でないと、困る。だから話し合わないか。」
バンドには未練が無いけれど、私にはまだすがりたい。恵美の心臓がぐっと押さえつけられた痛みを感じる。私は何を怒っていた。
彼の暴力。
彼の女性関係。
彼の酒癖の悪さ。
何も言えなかった私がここにいる。
被害者とされる私。
その私は彼にわかってもらおうとしただろうか。
彼に上手くいくように促すことしてきただろうか。
右手をつかまれ、我に返る。
電車がホームに入ってきた。
「電車来た。」
立ち上がり、乗り込もうとドアに近づく。隼もその後を追う。
「城嶋さん。」
恵美は先ほどまで左横から聞こえてきた声に脳裏での考え事が全て吹き飛ぶ。
「今しがた、教授から渡し忘れた資料があるので、取りに戻ってきてくれないかとの連絡があって追いかけてきました。僕も研究室に戻ります。どうします?」
カッと耳下が熱くなる。
今まで全部見ていたのか。そう返したくなったが、平静を装って、目を見張ってうなずくと、左手を軽く引かれ、階段を指す視線に従う。強く掴まれた右手は、突然現れた涼平に驚いて、ひきつけていた力がすっと抜けた。
それでも強くつかまれた手首は、痺れていた。
うながされた通り恵美は階段をゆっくりと降りた。
涼平は、恵美が階下に下りたのを確認してから、ぐっと彼を見据える。
「すみません。担当教授も忙しいので。」
恵美は改札を出る前に、もう一度ホームの辺りを振り返った。見られたことが、恥ずかしいというよりも、他人事のように感じた。
車輪が廻り、街へ向かって走り出す。
遠ざかる音に、時刻掲示板が次の電車の表示に変わった。
しばらくすると気が抜けたような表情で涼平が階段を降りてくる。改札傍の売店の横で待っている恵美を見つけると、憮然とした表情に変わる。つかつかと歩み寄るなり、間もおかない。
「君の目の上の傷、さっきの彼の仕業?」
鋭い視線で、見上げる眼鏡の蔓に隠れた傷をとがめるように見やる。
「・・・ありがとうございました。先生のところ戻りましょう。」
「無視?」
「・・・会ったばかりの方にそこまでお話しできません。」
ホームで例の彼は何も言わず、電車に乗り込んだ。太刀打ちできないと思ったからだろう。
「ご両親、その怪我のこと知っているの?俺は教授からの、電話無視して、そのまま帰ってしまってもよかったのだけど。」
「そんなことはしない方かなあと思っていました。ちなみに、両親は他界していますから。心配もなにも無いです。」
「へえ。会ったばかりなのにわかるんだ。俺のこと。それに、ご両親が生きていようが、いまいが、女の子がそんな怪我したら心配するよ。」
「私、口が滑らかな男の人、苦手です。」
涼平はつんとしたいい様に、むっとした表情をさらに露にする。
「君にそこまで言われる程、お話したことないです。」
「お互いさま、ということです。・・・先生から、連絡あったというのは本当なんですか。」
「研究室に戻ってくるように。って。さあ、戻ろう。」
まったく、オヤジから頼まれていなかったらこんなことは二度とこりごりだ。
恵美はさっと歩きはじめたが立ち止まり振り返る。
「一人で戻れます。ここまでで大丈夫ですから。お友達と約束あるのでしょう?ありがとうございました。」
「・・・君を送り届けないと、明日から路頭に迷うことになるんですけど。」
「・・・面倒くさいですね。」
一応、ここがどういう所かは想像がついたようだ。それとも解っていて、先刻も、つっかかってきていただけかもしれないが。
「あのさ。ここはそういう所なんだよ。君は現実ちゃんと認識して、早く慣れないとね。」
現実。
そうだ。もう、唄もないし、残るつもりだった大学の研究室の部屋へ戻ることは出来ない。
「私、変なところに来ちゃいましたか?」
涼平はまじまじと恵美を見る。現役の人間前にして、そんなことを聞くのがどこに居る?って目の前に居るが。全く失礼極まりない。
「変なところって、ひどい言い様だねえ。ここでみんな真面目に汗水かいて働いているんですけれど。」
「・・・。」
「あまりそういうことは、ここにいる限りは滅多やたらに口にしないほうがいい。冷たーい床の部屋にぶち込まれたい?」
ここで何ができるのだろうか、不安になるのに、さらにこの目の前の男は知ってか知らずか、不安を増長させる。
「遠慮します。」
「女の子なんだから、おしとやかにしていれば、すぐにいい人が見つかって、ここからすぐ、おさらばーできるだろうし。それまでの辛抱さ。」
さっきもつまりかけたが、この目の前の男とは年はそんなに離れていないと見えていて、話すことが隔世しすぎている。やはり本当にここで、研究できるのかと不安になる。
「・・・女の子はみんなお嫁さん候補じゃなければいけないって言っているみたいなんですけど。」
「男尊女卑の塊だから。ここは。」
「瀬島さんも。」
「そうでもなけりゃあ、ここで仕事できません。なめられたら、やっていられないから。」
ばしっと切り捨てるまで。
今回起きていることはそもそも、自分が男だったらこんなことにならず。そう思うと、目の前の奴は気ままに言葉を投げつけてきて。
「ご説明、ありがとうございました。」
「本当にありがたいって思ってる?」
さあ?と恵美は視線をおくったが、そんなの意に介さず、自分の胸に手をあてて、意地悪く、視線を流しながら、涼平はため息をついた。
「親切を無にされた気分。」
「すみませんね。まだ、私、置かれた状況についてこられていないので気の利いたこといえないです。」
何が出来るか判らないが。ゆっくり考えないといけない。ため息だけがついて出てくるばかりだ。こんなところで更に気が滅入る。
「君、学部生?」
「4年です。来年の春から院に上がります。」
の予定なのだが。教授は籍を残したままに通うように手配してくれているが、先にこちらが根をあげそうだ。
「まあ。せいぜい、気張ってください。」
なるほど、と思う。道理で、気ままそうに見える訳だ。今まで自由だった雰囲気とはすっかり間逆なのだから慣れるまで、これは相当苦労するだろうと想像する。土日と長期の休みに訓練と講義に来ていた時も、大学とここでは全く正反対の生活だったから。
再びゲートをくぐり、敷地に戻った。
人もまばらで、すれ違う人間は戻る人間を珍しげに見る。
「さっきの建物入ったら、ぐりこしよ。」
「ぐりこ?」
「俺が勝ったら、見学する時差し入れも頂戴。負けたら君の言うことを聞く。でも、出来ないことかもしれないから応相談でもいい?どう?」
「・・・見学、ああ、それで?」
「俺、勝負事、好きなの。今なら君、負け組オーラ出ているから。勝てそうだし。」
「・・・なんですそれ。」
「勝負は勝てる、と思ったときでないとしないの。それ、当たり前。」
「受けたときから勝負が見えているってこと?」
すたすたと前を行く背中を小走りで追いかける。
さっき迷った建物の入り口の玄関をくぐると、この時間帯はもう人気がなく、しんとひんやりとした空気がオレンジ色に帯びていた。
「さあて、最初はグー。じゃんけんぽい。」
恵美は、パーを出す。
「ちぇ。」
パイナップルと先に進む。
「じゃんけんぽい。」
チヨコレートと、あっというまに離れていく。
「じゃんけん、ぱー。」
涼平はまじかよーと離れて行く恵美に向かって叫ぶ。
「わざと負けています?」
「ご冗談でしょ。」
肩をすくめて見せて、まだこれからーと返す。
「マジ。」
「さっさと、追いついてきてください。ほら、じゃんけん・・・。」
研究室へ続く渡り廊下に来ると、外の騒々しさと、ちっとも戻ってこない二人しびれをきらし、部屋をでてきた加藤に会う。
「何、してんの。お前ら。」
「涼ちゃん、遅かったわ。もう、3人きているわよ。」
入り口でベースを渡されながら、鈴ちゃんは教えてくれたが、待っているのは2人だけのはずだ。
「鈴ちゃーん。あら、涼平お久しぶり。遅かったわねえ。あっ、ウーロン茶追加でもらっていい?」
「そっから、ボトルでもっていきなさい。」
「ありがとう。鈴ちゃん。涼平、行きましょう。」
百合に手をつかまれて、奥の練習場に向かうが、人数がよくわかっていない。
「なあ、3人いるって、あと誰?」
「ああ、さっき、伯母さん所に荷物置きに行ったとき、今日から住むっていう子がいたんで、連れてきちゃった。」
「・・・あん?」
「だって、淳が、涼平も知っているからっていうから。」
「・・・マジかよ。」
さっき、加藤から無理やり護衛を押し付けられ、憂鬱だったのと、送った際に疲れている様子だったのもあり、抗議の意味で百合を視線で突くが。まったく意に介さずの百合は楽しそうだ。
「とにかく、行ってのお楽しみ。涼平も喜べると思うから、はやく行こう。そうだ。ご飯は?食べた?」
「食っていないよ。」
「ええ?てっきり、食べていて遅くなったんだとおもっていた。」
「淳の奴、俺に押し付けやがって。呑気に唄っている場合じゃあないぜ。」
「じゃあ、さっきまで恵美と一緒だったの?」
「恵美って?」
「名前くらい、ちゃんと覚えなさいよ。さっき、あんたが伯母さんの家まで送っていったんじゃあないの?」
「あーあー、そうだよ。送ってから、オヤジに報告して、それから話しに付き合わされて。お前らは飯食ったのか?」
「淳と私はハンバーグ。」
「むかつく。俺にもなにか食わせろー。」
「鈴ちゃんに弁当作ってもらうわ。先スタジオ行っていて。」
「弁当は二つ、な。」
ウーロン茶を渡され、スタジオのドアを押して入る。背中をこちらに向けスタンドマイクの前に立つボーカルのがグワンと押し寄せた。
「おつかれ。」
「ああ。」
ドアを閉めると、喧騒が静まり、アカペラで歌声が穏やかに流れている。
ソプラノではないが、とても通る声に涼平はまじまじと恵美の背中を見ていると、淳が目でOKかと合図してきた。
涼平はだまったまま、ベースをセッティングし始めた。シールド線をアンプに突っ込むと、ブーンとしびれる感覚が走る。
恵美はマイクから一歩離れ、しばらく立ち尽くした。久しぶりに唄いきった。満足な気分で息を整えながら後ろを振り向く。
「すげーな。全然練習していないって言っていたけど、そんなことないんじゃない?」
「まあまあ?」
「これでまあまあ?さっき百合もすごいって言っていた。」
「ありがとうございます。で、百合さんは?」
「ウーロン茶取りにいったのだけど。ねえ」
さっき涼平が長机にのせたボトルが2本立っている。
「鈴ちゃんに弁当たのんでくれているよ。城嶋さん、夕飯食べたの?」
「忘れていました。」
間抜けかもしれない。そう確信した涼平は淳を見やると、淳はお腹をよじって転げそうになっている。まずは、こいつを尻からおもいきり蹴り上げたい気分にもなったが、ぐっとこらえる。
「瀬島さんは?」
「百合に弁当を2個たのんだから、1個は君の分。」
「ありがとうございます。・・・夕飯食べそこなったんですか?」
「そういうこと。俺も君もね。」
「すみません。」
この街までは、3時間近くかかってやって来た。
待ち合わせが五時だったなら、昼食とれる時間はなかったのか。
くるくると胃が鳴っている。
「送って行く時、静かだったのって、お腹すいていたからだったの?」
「ここに来るのに、緊張していて昼ごはん入らなかった。」
「そりゃあ、まずい。いざって言うときの為にきちんと食事はとらないとなあ。」
淳が話に割り込んでくる。
「いざって?」
「俺たちは、勤務中はいつ飛ぶかわからないから、食べられるときはキチンと食べておく癖をつけさせられるの。それはちゃんと3回とるっていうのが基本プラス、なんだけど。」
「馬鹿食いですか?」
「体力も頭も使うしね。頭も消耗するから、甘いものが無性に欲しくなる。」
昔住んでいた近所のレストランで食事をしたとき、恵美はホットパンケーキを頼んで、父親はフルーツパフェを頼んだのに、反対におかれたことがあった。そんなことが蘇る。
百合がもってきてくれた弁当を隅で並んでつついた。
「君、はっきり主張できない人?」
「相手次第と優先順位で主張するかどうかを決めています。」
おかずはビッグミートボールで、突き刺すが二三度、するりと逃げてしまう。ようやく突き刺して、お行儀悪くかじりながら。
「さっきだって、昼食べてないって言ってくれたら、俺も夕飯がてら食事付き合ったのに。」
そうすれば、弁当じゃなくて選択肢もっとあったのになあ。
「野菜少ないし、こういうの、美容にわるいでしょ。」
恵美は当たり前に言っているのがおかしく、ふきだしてしまった。
「何か俺、可笑しいこと言った?」
「勇ましいことしている人が可愛いこと言うのだもの。」
「所詮、人の子です。ロボットと間違えていない?」
「私、命のやり取りする職業系の人と話すの初めてなんで妄想一杯で、怖いです。」
「じゃあ、百合や淳は?加藤教授だってここの人だけど。どう違うのさ。」
「教授は、制服きていらっしゃらないでしょ。」
「それ、白衣みて泣き出すちびっこみたい。これから、そんなのに囲まれて研究室にいるのに、うざった。」
思いっきり嫌な顔をしてみせる。
「あー、それ、可愛くない。」
さらにつんけんしながら、恵美はウーロン茶を取りに立ち上がる。
「あ、俺にも頂戴。」
無言でコップ2つとボトルを取ると、机に載せる。コップを並べて、8分目まで注ぎ、自分の分と涼平の分と離し、もう一回継ぎ足す。そこへギターの調整が終わった、淳がやってくる。
「三人とも高校は同じだけど、百合はここの大学校の六年生、俺と涼平は同じ大学の工学部出身でここの専門課程で院生みたいな感じ。恵美は?」
恵美は研究施設集まる一角にある大学名を告げる。
「それで、加藤教授なのか。」
ゼミをそこにも持っているから、週一日いない日がある。
「でもさ、経歴で加藤教授、こういう所の人間だって知っているでしょ。」
「教授は母の幼馴染みで、小さいときからの顔見知りです。」
「そうなの?あのオヤジ?」
涼平はお箸にさそうとした肉団子を滑らせそうになる。
「涼平、なに慌てているの?」
淳がわざと指摘するが楽しそうだ。
「こいつ、血が繋がっていないけど、加藤教授の義理の息子。」
そして、今日はまとめ髪にしているしメークも薄いからわかりにくいが、本人だと確信する。
「そして、君はコンストラクションズのボーカルエミちゃん?だよね。」
恵美は淳をまっすぐ見つめる。にっこりしているこの彼も結構な探り上手だ。さてどうしたものかと思うが、ここで嘘をついてもなんにもならないと腹をくくる。
「・・・。」
無言でグッジョブ、で答える恵美に淳は苦笑い。
「簡単にそうだと、白状する人間がある?」
「今更隠しても。元、ですし。」
「元も子もあるか。だいたいそんな君がここにいるの?」
「加藤教授の研究室にお世話になる為です。」
「デビューほとんど決まっていたのに?」
「先に話が進んだ方にしようと決めていたんです。こっちが先に決まったので、事務所にごめんなさい、して抜けました。」
「へえ。がっかり。俺、デビュー楽しみにしていたんだよ。」
「私、固い人生選びたかったから、向かないです。ああいう世界。」
「の、わりに、あのスチール、かっこよいよなあ。」
「スチール?」
「ネットに出ているでしょ。君たちのデビュー用の写真。」
恵美は思い出す。あの時の写真のことだ。
「とりあえず、その憧れバンドの歌姫さまとお知り合いになれてよかったなあ。じゅーん」
くるくると頭の中で、ポッと耳元を通り過ぎる、燃え尽きるようなフラッシュが時間差でいくつもいくつも輝く。
「ねえ、城嶋さん。」
「・・・。」
「聞いている?君、うちのボーカルに決定。」
「はあ。」
そういいながら、涼平はさっきの彼氏のことが気になるが、今は振り払う。
「唄うの?唄わないの?」
さっきと同じだ。
怪我のこと言われたときの鋭い視線と。
「唄います。唄わせて下さい。」
今日は、嫌なこともあったが。とりあえず笑うことにしよう。ふっと緊張が解けたと同時に、涼平の目が笑ったように見えた。
「ありがとうございまーす。」
「それと、お茶、こんな。なみなみいれるなよなあ。」
コップを机に置いたまま、口をつけて、危険回避だ。
「喉渇いたかと思いまして。」
しらーっととぼける表情からさっき見つけた傷が目立たなくなったように思えた。
「お礼の大盛りのつもりでした。お弁当頼んでくれた。」
本当は可愛くないといわれたから、それまでの事をした、だけ、なんですが。
涼平は淳の言っていたスチールを確かめることにした。やはりどんな者なのか、興味が沸いたのもあるが、メンバーの顔を知る必要もあるかとも思ったから。
「なあ、かっこいいだろー。」
ツイギーチックな髪型で、ヘルメット斜め被りして、ウインクする恵美の腰に腕を廻して後ろから抱き寄せるように立つ、昨日見た男を涼平は見つけた。
「こいつは?」
「久保木隼。ベース担当。学生のくせして建築コンペの世界でも有名なんだってさ。
「天は二物を渡すものだなあ。」
「二物だけじゃないぞ。久保木真理って、議員さん知らない?」
「さっぱり。」
「・・・副大臣の息子。」
「お前良く知っているなあ。」
「ネタは俺にお任せを。」
涼平はつっかかりながら頭が痛くなりはじめてきた。
「まったく。」
面倒なことを頼まれた。
ただのストーカー彼氏だと思っていたが、昨日怪我させなくて良かったと、内心あせる。
「こういうことは、先に言ってほしいよ。オヤジの奴。」
「そういえば、今朝、恵美を連れに行ったの?」
「しばらく、行き帰り頼まれたんだよ。お前も暇なときは頼むよ。百合には事情話しておけよ。」
「・・・へえ。」
「俺、よく解らなかったけど。結構、訳あり?」
「そんなんじゃあ、お前は知らないよなあ。ファンの間では久保木隼の暴力と酒が原因でコンストラクションズは解散って騒がれているのに。」
「昨日、確信犯か?お前?」
「夕方、恵美と久保木隼を見かけたスレが立っていてさ。お前の武勇伝も。でも、すぐにキレイに削除されていた。残念だったなあ。」
「ふーん。俺のところだけ残しておいてくれよ。」
昨日の追い返したときのことがよみがえりぐっと心臓がおさえられるのを感じた。
「涼平、大変だなあ。すっかり巻き込まれた。」
「・・・お前もそう思う?」
「ああ。気の毒に。」
「むかつくその言い方。俺が疎いといっているじゃないか。」
「そうだよ。疎いよ。だから人の色恋沙汰の後始末に巻き込まれるんだよ。」
「・・・お前、良く知っているなあ。」
「そこはネットワークですよ。」
「百合はそのこと知っているの?」
「勝手に話していいの?これ。」
プライベートなことだという意味だ。
「じゃあ、そのままにしておけよ。」
まったくもって、迷惑だ。淳にまで気の毒がられ情けない。
「俺一人で、かよ。・・・。結局。」
昨日の晩は鈴ちゃんスタジオ主催の忘年会ではしゃぎすぎて、けだるい。今日の大掃除も適当に終わらせ、永遠の建設中、書類タワーの合間でほっと息をつく。
年末は加藤教授が車に乗っていけと言ってくれたので実家に帰ることにした。
淳と涼平の二人は勤務だし、百合は最後の年末年始だからと実家に篭ると言っていたし
丁度よかった。作品の仕上げに入りたいからこちらも一人篭るのは非常に都合がよい。
フェリーで海を渡り、陸路は車だ。道も混雑なく快調。
「運転するのは年寄りで。すまないなあ。」
「こちらこそ、毎日先生に、息子殿におんぶに抱っこで、すみませーん。」
「ほーんとうに、そんな殊勝なこと思っているのかよ。」
「ちっともでーす。」
「まーったく、相変わらすだよなあ。」
年末年始の予定を3人で話したときに涼平はまじかよーという顔をした。
この中で一人だけ勤務が入っている。
「ちぇっ。俺は寂しく働くよ。」
「ははは、よろしく。」
「それで、二人で車でいくの?」
「お前が無理なら減って二人だな。」
燃料もったいないし。
「城嶋、大丈夫?」
突然振られて、何を言おうとしているのか解らない。
「はあ?」
「女の子が独り身の男と車で移動はまずくない?」
「ふーん。お前、どういう想像するんだ。」
加藤はからかう。
「なんで、そうなるの?」
「そりゃあ。一般的に。」
「いままでも、なんどか大学と実家の間、同乗したことありますよ。ね、せんせ?」
「なあ。そうだよ。まったく、これは逆パワハラだと思わないか?」
むっとして涼平はオヤジを睨む。
「勤務は持ち回りなんだから、残念。」
すっかりむくれた雰囲気のままで、いつものように永田家まで送る為に研究室を出た。
「いつも護衛ありがとうございまーす。」
歩き出したところで、恵美はからかい半分。
「なんだよ。気味悪い。」
「年末のお礼のご挨拶。来年もよろしくお願いしまーす。ちょっと早いけれど。」
「おーおー。ありがとな。でも、言葉だけかよ。」
すっかり忘れていた。クリスマス終わってから百合と買い物へ出かけたときに、携帯ストラップを買ったこと。
「百合は淳に買ってあげていたから、はい。これは私から瀬島さんの分。」
金属製のベースが名前のプレートとぶら下がっている。
「すっかり私、渡すのを忘れていました。」
「俺、ついで?」
渡されたよれた紙袋のシールを剥ぐとなかから滑り出した。
「それは失礼しました。」
手でぶら下げて、眺める。ベースがぶら下がっている。
「こんな感じで、かわいいでしょ。」
恵美は自分の携帯を出して見せる。
マイクと名前がぶら下がっている。
「ほら。」
のぞきこむように、滅多に無い笑顔を向けられると涼平もむっとし続けるわけにもいかないと思いなおす。
自分の携帯を取り出し、今までのただのストラップを外して、貰ったストラップに変える。
「比べてみません?」
涼平の携帯の横に恵美は自分のストラップを並べる。
「四人で、おそろ。どうですか?余り者じゃあないですよ。」
押されるように言われると、だんだんまんざらでもない。
「で、年末お仕事する気になりました?」
涼平はすっかり嫌そうな表情に戻し、真横を睨む。
「ちっとも。」
そう答えるが、さっきよりは気分はよい。
百合が任官する直前のライブの日に、恵美は良子おばさまにキッチンを借りてスポンジを焼くことになった。お祝いのケーキを作りたいという淳の希望をかなえるため。
おばさまはお菓子を焼くことが無いらしく、恵美が手際よく卵分けてを泡立てるのをものめずらしく眺めてる。
「恵美ちゃん、上手ねえ。」
「そうですか?まだ、泡立てているだけですけど。」
「私こういうことしないのでねえ。」
「クッキー焼いて、好きな人にあげたりとか、しませんでしたか?」
「しなかったわねえ。私、こういうの苦手なのよ。」
「お料理上手なのに?」
一人で暮らしていたことも長いから、手伝ってもらうときも手際が良いとは前から思っていたが、こういうことが好きだとは思っていなかった。
「そういう恵美ちゃんは好きな人にクッキーを焼いて渡したの?」
「渡しましたよ。見事玉砕でしたけどね。」
「・・・恵美ちゃん、積極的?」
「高校生の頃の話です。怖いもの知らず、でしたから。」
時計を見る。
呼び鈴が鳴る。
「はーい。」
涼平と淳が到着したらしく良子の声はご機嫌になる。
「うそでしょー。早い。」
約束したのは一時間半後のことだ。
スポンジ冷めないじゃないの。デコレーションする頃までに焼いて冷ましておく約束だったのだが。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
恵美はかちゃかちゃ泡だて器を手首で廻しながら答える。
「今作り始めたばかりなんですけれど。」
「最初から見てみたくなってさあ。」
「百合は?」
「衣装合わせがあるから、実家に置いてきた。」
「ふーん。」
ライブは夜からだからいいのだろうが、結婚式の決め事だよなあと思う。
「一緒に行かないでいいの?お婿さんは?」
「こういうのは、女同士がいい、でしょ?」
そうねえ、と思う。百合のお母様は長らく心臓を悪くして入退院を繰り返している。さっさかお嫁さんになる理由を百合はそう話していた。
「水入らず?」
「そういうこと。」
「優しいね。」
話しているとつい、手がおろそかになる。
「城嶋、泡だては?」
少ししぼんだ気がする。
「あーあ。戻っちゃったよー。」
「・・・手伝おうか?」
「お願いしまーす。・・・で、手洗いました?」
「まだ。」
「それなら、洗ってからにしてください。」
「焼けば一緒じゃないの。」
恵美と淳は顔を見合わせる。
「そういう問題じゃあない!」
うるさいせえなあと文句を言いながらじゃぶじゃぶ水を出し、食器用の洗剤を思い切りあわ立てる。
「盛大にやってくれましたね。」
「おーおー、こっちに負けるなよ。ささっと終わらせてしまえ。」
「流しに泡、残さないで下さい。」
そんなことを言っても、最後に泡が残っていて膨れている。頬が。
「そうだ、城嶋の学校は、どうなっているの?」
「学校?」
恵美はそういえば、そろそろテストの時期だ。
「単位全部終わっています。って言いませんでした?」
「余裕かよ?」
「あー、そうだ。先生の気が変わらなければ、だわ。先生のご機嫌伺いちゃんとしておこうっと。」
そのまま、ここに通うまま院へ在籍することになっているが、ゼミの人間のことも不思議と懐かしくも感じず。
「卒コンとかは?」
「参加する義務はないでしょ。」
同学年のゼミの人間には、研究所で研修していると伝えているが、具体的には話していないらしい。加藤の所属を知っている彼らは薄々解ってはいるだろうが。
「今で精一杯ですよ。」
「ふーん。」
ボールを傾けながら、かき回していく内に白い塊がまとわりつくようになった。
「瀬島さん、上手い。」
「そう?」
急に角がたつようになってきた。
「そろそろ、粉まぜちゃいます。」
手早く粉を混ぜいれ、最後に溶かしバターを入れ、オーブンにさっさと投げるように入れてしまう。
流しには、洗い物の山が残っていて、ひと段落した後のけだるさとが合わさると、しぶしぶ動かないといけなくなる。
「オヤジに、頼んだらどう?戻りたいって。」
「・・・それは、言っても仕方ないことです。」
しょうがないと解っている。
「ああ、でも、瀬島さんにとってはその方が楽だよね。お守りから解放。」
涼平はそういうのとは違うでしょとむっとする。
「自分のこと、大事じゃあないの?」
さすがに恵美もそれには反論。
「自分が大事だから、ここにいるんです。」
「好きな道、拓けるの?」
ここに居なかったら、自分の将来はおろか、身の危険かもしれないのだから。
「いつか夢を実現も出来かもしれないし、見続けることもできるでしょ。だから私、今はしっかり生きること選びますよ。」
オーブンを覗きこむ恵美の顔はオレンジ色に照らされる。
真剣に表面を観察している視線の向こうに見えるもの。
「・・・気長だなあ。」
恵美は横を振り返る。
「てっきり、拗ねていたかと思っていたからさ。安心。でも、君の場合、しっかり生きる、じゃなくて、ちゃっかりの間違いでしょ。」
「ちゃっかり?」
「・・・城嶋がしっかり生きているっていうなら、真面目な俺たちは一体どうなるんだ。」
「自分のこと、良く評価できますね?」
淳はオーブンを覗き込みながら争う二人にため息をつく。
「スポンジまずくなったら、お前らのせいだ。」
あなたの背中に見た。
羽はいつでも
飛び立つことができる。
私はいつでも
見上げているだけ。
弱さや怖さや迷いも
全て捨て去って振り返ること
それさえもない。
ぐんぐん進むあなたの後ろを
私はなぞって たどって
追いかける。
私の心も解けていく。
なんだか馬鹿馬鹿しいね。
こんなにも広いキャンバスの中で
せせこましく考えないでも
どこでも構わない。
あなたが息する場所を
ちゃんと見届けてしまえば。
あなたも私のこと
見つけて。
ほら、指差した先に。
雲が描いている。
あなたの道を。
私の道を。
輝いているから。
放課後の屋上で
空から眺める
ビルのシルエットを
澄んだ秋の夕暮れに
一粒の涙。
これからは別々に
歩くと決めた。
それでも。
ビニールに入れて冷ましたジェノワーズにナイフを入れる。
レールにした棒に沿ってまっすぐ切れた。
「すごーい。」
「涼平、褒められたよ。」
「そう?」
「こいつがケーキ屋さんの実演を観察してきて、作ってくれたんだよ。」
へーえ、と恵美も感心する。昨日サンドペーパーをかけていたのはこれだったのだ。
「早く飾っちまえよ。」
カメラマンは時間がもったいないと急かす。
「おお、そうだった。」
豪快にクリームをスポンジに載せ、イチゴを縦に並べて、またその上2段にも同じようにのせる。かなりの高さになって。
「淳?」
「なあに?」
「すごい高くなったんだけど。これ、スタジオにどうやってもって行くの?」
「・・・こりゃあ。無理かも。なあ。」
淳が消えそうな表情で、涼平にどうしようと視線を送る。
「・・・しかたないだろ。ここで食っちまうしかないでしょ。」
「・・・仕方ない。百合に電話するか。」
電話を掛けると、早く終わったからと、こちらに向かっている途中だという。
「ちょうど良かった。」
淳は反省する気はなく、口笛吹いている。
「この棒、ここで預かっておいてくれない?」
「私じゃなくて、おばさまにお願いして下さい。あー、おばさま。百合が今からここにくるそうです。」
丁度ダイニングに戻ってきた良子に声をかける。
「衣装合わせ、終わったの?」
「そうみたいですよ。」
テーブルの上に置かれた皿を見て良子は笑う。
「かなり高いケーキねえ。」
「世界に一つしかないんで貴重ですよ。」
答えになっていない。高い、違い。
「ケーキ入刀の練習?」
「違いますよー。百合の任官祝いです。あー、そうだ。」
淳は恵美に向き直る。
「俺たちの任官祝いにも、スポンジ焼いてくれる?飾りは百合にお願いしてさあ。」
うるうるした目で見詰められる。
そんな風に言われると断りきれない。
「おばさま、また焼かないといけないみたいです。さて、この棒どうしましょう?」
「それ邪魔っていうような言い方だなあ。」
「そうです。」
「なんだよ。手間掛けたんだからなあ。ただの棒切れじゃないぜ。」
作った本人が抗議の声を上げる。
「長いし、3ヶ月使わなければごみです。」
「はっきり言うねえ。」
淳はおもしろそうに突っ込む。
「使えばごみにならないでしょ。恵美ちゃん、それぞれの誕生日に焼いたら?」
「そうだ。使えばごみじゃない。」
涼平がたたみかける。
「百合の誕生日の五月よろしく。」
午前に仕事が入っていても、百合は必ず練習に来る。今日も鈴ちゃんに頼んであった弁当を大口あけて放り込む。
「お前、家のこと大丈夫?」
「別に。」
「淳はさらに、俄然やる気まんまんだしなあ。まさか妬いて、向きになって毎週きているの?」
「まさかあ。だったら、さっさと辞めて別れるわ。それ言うなら、私たちお邪魔?」
「なんで、邪魔なの?」
「最近、他の女の子と一緒にいるところ、見たことないので。あんたの親衛隊から、探るように言われて。困っているの。」
親衛隊って、なんだよ。
「俺、いつから囲われたんでしょう?」
「女の子の看護官に君は人気だからねえ。たまには怪我でもして、病院に来て欲しいわ。」
仲間売る気かよ。
「病院に厄介になる予定はないです。」
「ふーん。じゃあ、いつでも歓迎。」
「いやだ。」
「それなら、お茶でもしに来てよ。コーヒーくらいは出すわよ。心療内科。」
「風邪のセンセ、じゃあないの?」
「心だって、風邪ひくのよ。」
にやっと笑う。美人がそんな笑い方するなよ、と言っているのに。
「そりゃあお前ら見ていれば、そりゃあ、俺も、かわいい、彼女欲しくなる。いいよなあ。」
心にも無いことを言うのは、滑りそうだ。
「恵美がいるでしょ。」
「城嶋?」
「噂になっているよ。涼平の彼女?って。」
「城嶋は、単なる護衛対象だし、彼女にも失礼だ。みんなにそう言って置いて。」
「ひどい。その言い方。」
「そう?」
そういわれても、恵美には彼氏がいるのだから。別れていることになっていて会うことはできないけれど。百合は恵美がここにやってくる派目になった、理由を知らない。百合は、いつも1番の女の子であることが相応しい女王様タイプだから淳はよくやるなあと感心する。
「だから、だれか紹介して。」
いつもはお節介な伯母も、放って置いている雰囲気なのも、気味が悪いと言えば簡単だが、毎日の送り迎えについては、女の子の伝で別校舎にいてもすぐに耳に入ってきたのだ。
「涼平君に学校でのことはお願いしてあるのよ。」
と、まで伯母にまで言われてしまったら、百合も黙るしかない。
「ごめーん、最近そういう情報が無くてね。」
まじまじと百合を見る。
「そうなんだ。残念。」
「その任務が終わったら、紹介してあげる。」
「その時は、まじ頼むよ。しかし、毎週練習あるっていうのも、俺には嬉しいことだねえ。」
実際、週末行くところないしなあ。
「それで、今度のお祭にどうかなあなんて誘いがきているんだけど。」
「早いなあ。」
「壁に向かって、唄っているのがいるらしくて。」
「ふーん。」
あれのことねえと、涼平は思い出す。
「・・・叫んでいるの?」
歌詞をつなぐのを止めて、声のほうに振り返る。
「そう聞こえます?」
「そう聞こえるけど。」
「ってことは。発声が足りない。あーーっ。」
耳元で、お腹の中から響く音量に背筋がのけぞる。
「恥ずかしくない?」
「だったら離れていてください。」
にっこり言われて引き下がるしかない。
「私しばらく、ここで練習してから帰るので。たまには先に帰ったらどうですか。」
「お気遣い、どーも。任務ですから。」
「・・・かなり、うざい。かも。」
「はあ?」
「いいかげん、行きかえり、ずっと、ついてこないで欲しいです。税金の無駄遣い。」
先日も、セキュリティゲートを内緒で一人出ようとすると、傍の控え室に連れて行かれ、涼平がくるまで、かっちり2時間拘束されたばかりなのだ。
「不審者?私。」
ドラマの見すぎ?じゃあないかと思うが、普通の日にスーツを着ているとはいえ、学生の女の子が歩いていれば、ここでは変な人、だ。この手の話をするときはまともに取らないことにしている。
「そりゃあ、君はお客さんだからねえ。信用ないかもねえ。」
なんて、言うのは大嘘で、そっと抜け出そうとしたら留め置くように手配している。
「貴方じゃあ、お話にならない。」
「君のその口どうにかしてくれると非常に助かるんですが。」
「どういうことですか?」
「無口が最強の武器ってこと。」
「・・・しゃべるな?」
「そう。とても目上に対しての口の利き方に聞こえない。俺、もう少し研究室にいるから。気が済んだら顔出して。」
しっかり、出入りはチェックされているお陰で、勝手に帰ることは無いので、涼平も時間に拘束されること無くこの任務をしているが。
「お連れの研究生の方、奥にいますよ。」
「すみません。」
喋らなければねえ。と密かにつぶやく。壁の向こうから、リズムにのった知った声が聞こえる。
「今日も乗っていますねえ。」
「迷惑掛けて、すみません。」
「いつでも、歓迎ですよ。」
涼平はため息をついて、それで、と百合をにらむ。
「そんな怖い目つきしないでよ。で、様子をみていた委員の子が、涼平が送り迎えしていることを見かけたらしくて、私の所に、涼平経由で恵美を紹介してもらえないか相談があったのよ。それで、うちのバンドのボーカルだって言ったら、参加して欲しいって。」
「それで、百合はどうしたいの。」
「いい話じゃあないの?」
「淳は?」
「反対するはずがないじゃあないの。」
「じゃあ、当人には聞いたの?」
「これから聞いてみるの。」
トイレに行ったまま、恵美はまだ戻ってこない。
「じゃあ、聞いてみるさ。早々、俺の意見を言わせてもらえば、反対。」
「なんで。」
「彼女は学生の立場で研究をしにきているんだ。俺たちは嬉しいし、気晴らしなるかも知れないけど、先があやふやなままでは、公の場は負担だよ。」
「そんなに堅苦しく考えなくても。とは思うけど。」
百合はしばらく天井を睨む。
「うーん。まだ先だろうけれど、研究終わったら、ここからいなくなる可能性が高いものねえ。」
百合も、あと2年は居るらしいことは、恵美からでもきいたのだろう。
「そういうこと。自由奔放が取り柄、に任官に向いていない。彼女はどんぱち最中の戦場にキンキラキンのお城建てちまいそうだ。」
百合はバンド絡みと、女の子同士で出かけることくらいしかないから、普段をあまり知らない。見た目しっかりしているが、この組織の中で上手くやるのは、まだ難しい。
「えらそうに評価、するのね。べつに建物たてるだけじゃあないでしょ。私、恵美がずっと、居てくれたらいいなあって思うわ。」
「・・・ここで、彼女の希望は適うの?」
「それは彼女しだいでしょ。」
もともと涼平は恵美に厳しいと思う。
「何とでもなるって。」
「・・・そんなに簡単?」
「私、この前恵美に、どうして大学に戻らないのか聞いたら、研究途中だから戻れないと言っていた。本当は戻りたいよね。」
「そんなの解らないよ。本人じゃあないし。」
「普通、友達に会いたいでしょ。」
「そう、ばっかりじゃあないかもよ。」
「彼女、そんなに嫌な子?」
切り捨てるみたいに聞こえる。 百合は涼平を睨みつけるつもりだったのにふいっと横をむいてしまう。その視線の先に何かを押し込めているように見え、百合は困った。からかい半分のつもりいたのだから。
「何で涼平は恵美を送り迎えしているの。」
一個目の話を蹴られたのもある。
だから少し意地悪く聞いてみる。
「お仕事。」
「あんたの考え方だと、仕事でも、長続きしないよね。」
「あのねえ・・・どんな状況でも、やり遂げたいことがあって、それに向かう姿勢がある人間の為になら、ちゃんと遂行しますよ。俺、大人ですから。」
百合はここに来る前までのキラキラした世界の恵美のことを全く知らない。そして地味にこつこつと作品を作り、コンペに出し続けていることも。なんどか、あんまりにも酷い顔をしていたので問いただせば、その作業で徹夜したと白状したこともあり、見せてもらったこともある。
「なんだかよくわからない。それ。」
質問を振ったが、体よくいなされ、百合は、涼平の親衛隊の頭から、牽制するようにも言われていたのだがそれ以上聞くのを止めたし、牽制してきた奴にも言うまいと決めた。
「・・いいなあ。お気楽で。」
「・・・。」
「淳に言いつけるぞ。また、お前の彼女は昼からへんなこと考えている。てね」
この彼に送り迎えさせておいて、ありがたがりもしない上に、頭もよい、歌も上手い、かわいい。彼女にこれ以上敵を作ってどうする。ため息をついてから、吹っ切る。
「涼平。この話、断ってくる。」
「助かる。」
最後にようやく笑ったので百合はほっとした。最近の涼平はいらいらしている。バンドの件だけならともかく、恵美のことが絡むと、涼平のガードがさらに急に堅くなるから余計そう思える。淳は放っておけと言うだけだ。
「さすが百合。ついでにお願い。」
「えっ?」
「バンドは続けたい、んだ。4人で。」
涼平は滅多にお願いはしてこない。
「あんたから、そういうなんてびっくり。」
「そうか?」
「いいわよ。歌姫のお守りがてら。」
バンドの練習が無い日以外は毎日夕方五時半くらいには永田家にたどり着ける。
玄関のインターホンを押すと、しばらくして、中からこもった。はいという返事がある。
「戻りました。」
「お帰りなさい。涼平君、今日もご苦労様。」
奥から足音が聞こえ、扉を開けてもらう。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
恵美が中に入ると、涼平は一礼する。
「また明日。」
「ありがとうございました。」
「涼平くん、時間ある?」
あい変わらずはきはきしている。
「はい。」
「お茶をいかが?」
「・・・。」
「頂き物があって、淳君にも、持って行ってほしいのよ。」
少し、考えて、涼平は。どうしたらいい、と恵美に視線を向ける。
「たまにはいいでしょう。どうぞ。」
良子はさっさと、上がるように促す。
「ありがとうございます。お邪魔します。」
「恵美ちゃんを送り迎えしてくれているのに、なかなか機会が無くてごめんなさいね。」
「いえ。」
恵美はスリッパをそろえて、上がりかまちの端に置いた。
「靴はそろえておきます。」
「サンキュ。」
靴を前後ひっくり返してから恵美は自分の靴を脱いで、靴箱にしまい、スリッパをつっかけて追いかけた。
「手伝いします。」
「あらあら。じゃあ、お湯はわいているので、お茶いれてくださいな。」
これなのよ、と良子が取り出してきたのはビスカウトの缶だった。
「ダージリンにしてもいいですか。」
「お任せするわ。」
さっそく大きめのポットを取り出し茶葉6杯計り入れる。
お湯を高いところから落とし、ふたをする。
コゼーをかぶせ砂時計をひっくり返すと、茶漉しが見当たらない。勘で引き出しを引っ張ると、金色のストレーナーが出てきた。
手に甘い紅茶の香りが残る。ティーカップに注ぐと赤いあめ色が広がり、ストレーナーに乗っかった茶葉の湯気がゆっくり立ち上る。
そのまま応接間に行くと、涼平がぽつんと座らされて待っていた。
「おばさまは?」
「淳に持っていく分を分けてくる、って出て行ったよ。」
ソーサーカップをテーブルに滑らせるように、前へ置く。ポットは端に。
「紅茶?」
「ダージリンです。」
「ダージリン?」
「冷めないうちにどうぞ。」
「いただきます。」
ソーサーごと取り、口をつける。甘い香りが鼻を通り、最後に渋味がほんの少し残る。
「おばさまを呼んできます。」
恵美がダイニングに戻ると、袋を探しているらしく、忙しくしていた。
「あらら。この前、小さな袋を一気に処分してしまったのよね。」
「ハンカチに包んで、明日、瀬島さんに持ってきてもらったらどうかしら?」
「あら、恵美ちゃん、涼平君のこと、苗字でよんでいるの?」
「任務でお守りしてくれているので。」
「なるほどねえ。」
良子は恵美なりの気遣いなのだということを知った。
「紅茶冷めてしまいます。後にしましょうよ。」
「そうね。そうしましょうか。」
「私、差すお湯を持っていきます。」
あの調子だと、一杯目は既に飲みきってしまっているだろう。
時間の経ったポットのままだと、少し苦い。
案の定、戻ってみると、濃いお茶を注いで、苦そうな表情をしているところに出くわすことになった。
「昨日、眠れました?」
「ん?まあ。」
「飲みなれていないのに濃いお茶を夕方に飲むからです。」
「・・・なんでわかるの?」
「インドやセイロン紅茶の濃いのを飲むと、たいていそうなるので。」
「それでも、5時間は眠れたかなあ。」
あくびについ口を右手で隠す。
「じゃあ、君もそうなの?」
「1杯くらいではなりませんよ。」
「・・・なるほど。おかわりは危険なんだな。」
「おかわりは、薄めて飲まないと駄目ですよ。」
寝ぼけている頭で今日は研究資料を整理すること以外はそんなに忙しくないなあと計画をたてる。要は暇ということだ。余計にあくびがついて出てくる。
「今日の予定は?研究室に篭りっぱなし?」
「データの整理が少し残っているくらいで、そんなに急ぎでもないので暇ですかね。」
教授は、今日は出張でいない。
嫌がるかなあと思いながらもお願いのつもりで振ってみる。
「それなら、淳が昨日のお菓子を研究室に持ってくると言っていたから、お茶いれにきてよ。ポットはあるけど、お茶はないから、作業ひと段落したら、茶葉を仕入にいかない?」
「この近くにあるんですか?」
「車で行けば市場があるんだ。問屋で小売もしているよ。」
「テンション上がってきた。2時間で作業終わらせてしまいます!」
こちらの言うことなんて耳に入っていないだろうなあと涼平が思うぐらいの興奮振りだ。
「そんなに張り切らなくても、いいんじゃないの?」
「それ、何もするなといっているも同然です。」
「・・・じゃあ、後でなあ。」
意外なところで食いついてきた。
恵美がお湯を取りに席を外して、さっさと良子はまっすぐ涼平に視線を移す。
「ようやく落ち着いたわねえ。」
「もう春ですからねえ。温かくなりましたねえ。」
「・・・涼平くん、違う。恵美ちゃんよ。」
「ああ、そうですか?」
「そうですかって。」
「半年近く経ちますからねえ。」
とは言え、おとといも抜け出そうとして拘束され、落ち着いたといわれていいのかとも思う。
「・・・候補生になること聞いた?」
恵美がここにやって来たのは昨年の9月だ。卒業単位を心配したら、既に取得済みだと言っていた。この春に学士卒業したはずだが、卒業式に出かけた話は聞いていない。お茶が鼻の奥に入って、ツンとする。
「初めて聞きました。このまま、本気で居るつもりなんですか?」
良子は紅茶に口をつけて、おいしいと息をつく。
「紅茶、もらった?」
「はあ。」
カップの残りを一気に傾ける。
「匠くん、恵美ちゃんを置いておきたいのね。」
「・・・お気に入りですからねえ。」
むっつりとした表情に良子はおかしそうに笑う。
「涼平くん、匠くんを攻めないのよ。」
横で目の前に積まれた缶を前にして今までに見たことの無いご機嫌ぶりを見ていると、お守りも気楽に思えてくるが、何を考えているんだかわからないとも思う。
「・・・彼女、こんな地味なところでやって行けます?」
「それは、恵美ちゃんしだいだから、私だってわからないわよ。彼女が決めたこと、だそうよ。」>
お店のおじさんに、スプーンですくって見せてもらい、少しだけ手にのせ、感触を楽しんでいるかのように指でこすってみたり。試飲させてもらったり、腕をひっぱられそれにつきあわされ。時々確認するように涼平のいるほうに振り向いたり、と忙しい。結局一時間位そこにいて、今日は、欲しかった3種類を購入したと報告してきた。
「ありがとうございます。お待たせして。」
「いやあ。紅茶もいろいろあるんだなあ。」
ずっと立たされぱなし、でしたが。
「すみませんでした。楽しかったです。」
「よかった。それで、今日は何を買ったの?」
「セカンドフラッシュのダージリンと、アールグレーとキームンです。」
「・・・よくわからないけど、よかったなあ。欲しいのあって。」
嬉しそうな女の子を見れば誰も悪い気はしない。
「あのう、ここコーヒーもあるんですか?」
ほんのり焙煎の香りが漂ってきた。
「ああ、あっちにあるよ。行く?」
「行きます!」
そこは生豆を主にあつかっているが、焙煎も頼める。ドリッパーはあるが研究室にはミルとコーヒーポットが無い。ミルとポットとキリマンジャロを600グラム買った。
「ここまで車でくれば近いんですよね。」
思わず、笑顔で聞き返す。
「また、来たいの?」
ここは平日しか営業していない。こうやって抜け出す時か平日に休みが入る日のどちらかしか来ることは出来ないから、車が自由になる涼平が連れてくるしかない。
「・・・すみません。」
「それじゃあ、また来るかあ。女の子が、お化粧品や服や以外でこんなにエキサイトするの、みられるなんてそうそうないからねえ。」
「いいんですか?任務でもこんなことにつき合わせて。」
「いやいや、毎日君がこのくらいご機嫌だったら任務でも喜んで。」
「・・・私そんなにいつも不機嫌?ですか?」
「朝は特に。」
なるべく気をつけるようにしてはいたのだが。おばさまにも朝の不機嫌面について、お小言頂いたばかりだ。
「言ってくださればいいのに。雰囲気怖いとか。言いたいことは言え、といったのは瀬島さんだったでしょ。」
「・・・いやいや。」
「ええ?」
「こんな落差をみられるのも、お守り冥利につきます。」
「・・・気をつけます。」
さっそく永田研究室に戻ると、たらたら作業をしていた淳を尻目に、涼平はお湯を沸かしたり、カップを出したり、ポットを探したりと、恵美を放ってキッチンで探し物をはじめた。
「淳、ティーポット、知らないか。」
「この前、田野倉が割って処分した。」
「なんだよ。それ。」
「こんど、買い足してこないとなあ。」
「だったら、言ってくれれば、さっき買ってきたのに。」
「じゃあ、次、買ってきてくれよ。」
「・・・まったく。」
涼平は引っ張り出したいらないものをしまい始める。
恵美もテーブルの上にでているものをしゃがんでいる涼平に一個一個手渡す。
「コーヒーポットで淹れるから、いらないです。」
「片づけまで付き合ってもらって、すまない。」
「すっきりしてよかったじゃあないですか。」
程なくしまい終わると、お湯が沸き、早速さっき購入したお茶を淹れることにした。
「どれにするの?」
「・・・個人的にはアールグレーですか。」
「わかんないや。お任せしまーす。」
今ここにいるのは6人なのを確認し、3杯3杯で淹れることにした。
「タオルかコゼーあります?」
涼平はタオルを引き出しから引っ張り出した。縦長に半分におり、さらに半分に横折する。その上にポットを置いて、3杯山盛りをポットに落とす。
そこにお湯をさらに落す。
「へえ、お湯は少し多めにいれるんだ。」
「紅茶のほうがコーヒーより濃いんですよ。」
「へえ。」
「へえ、ばかりですね。」
「初めてですからねえ。」
「おうちでこういうこと、しませんでした?」
「全く縁なし。お母さんの趣味?」
「母は紅茶で、父はコーヒーでした。父は生豆を買ってきては家で焙煎して、時々燃やしちゃったり、失敗していましたよ。」
「焙煎なんて出来るの?」
「網が売っているんです。さっきのお店にも、柱に掛かっていましたよ。」
恵美は手首を返し、網をゆする真似をしてみせる。
もしも両親が健在だったら、彼女には建築の世界や音楽だけでなく華々しく活躍する道が開けて、他の世界でゆったりと過ごしていたはずなのだろう。おそらく、こんな世界があるなんて知ることもなく。
ここにずっと居るのならば、彼女を待つものは義務であり、個人の事情と組織の利害関係はいつも組織の方が優先だ。それなのに、彼女がここに流れ着いたのは。他に行く当てがない。
「そんじゃあ、また仕入に行くときに買ってきて、やってみようよ。」
「ずっと振っていないと均等に色がつかないので、難しいですよ。」
「そういわれると、ますます試したくなる。」
そこへ淳がのっそりやってきた。
「お二人さん、お茶は?」
「あっ。」
ポットの中ですっかり濃くなっていた。
慌てて恵美はお湯をさして、すぐにストレーナーで濾しながらカップに注ぐ。
香りは良いけど。濃いかも。なんて。
蒼い空 深い海1