主人公は、こどもたち
車は高速道路を木の多いほうへ走っている。普段は早いと感じるスピードも今日ばかりはもどかしい。もっと早く進めないのかと思う。
「本当に、こっちの方であってるんだよな?」
と叔父のとも兄が言っている。
とも兄は、叔父と言っても十二歳差しかないので、どちらかというと兄弟みたいな感じだ。
「たぶん、あってる」
僕が答える。
「こればかりは、ゆう君じゃないとわからないからね」
美香ちゃんが後ろで、しょうがないという感じでいった。
車は走る。木の多いほうへ。車が少なくなってくる。お昼前に出たはずなのに、少しもお腹は減らない。不安と期待で頭がいっぱいになっている。その時、とも兄が決心したように言った。
「そろそろ、教えてもらえないか」
「え?」
「ゆうたちの今までの話。突然、車出してって言われて、おう、がってん承知!で済ますほど、俺は甘くないぞ。なにより、距離もあるし、高速だし、金が割ときつい」
「ごめんなさい」
そうあやまったのは美香ちゃんだ。
「いやいや。でも、結構無茶なお願いだってのは二人ともわかってたと思うんだ。なんせ二人とも、もう十三になるんだから」
とも兄は左手で顎を撫でながら頷く。
「それでも、行かなきゃ行けないって思ったのはなんでだ?」
そして、少し間をおいてから。
「どうしても言えないってことなら、さすがに俺も諦める。お前らを目的地まで送って、その後、家に帰して、何事もなかったことにするぞ」
言いたくないわけではなかった。ただ、それを信じてもらえるか心配だったのだ。でも、僕はとも兄なら、いつまでも子供みたいで、子供相手にでも本気で相手をしてくれるとも兄なら信じてくれるかもしれないと思った。
だから、話した。
「夢を見たんだ」
言葉は、意外とすらすらでてきた。
今思えば、あの不思議な出来事はその日から始まっていた。その日の朝はいつも通りに朝ごはんを食べていた。
いつもつけている地域密着型のテレビではお天気お姉さんが今日も真夏日で、天気も快晴だと笑顔で言った後、場面が変わって交通事故で意識不明になった女の子が病院に運ばれたと言っていた。
「怖いわね」
お母さんがいつもみたいに、どこか気の抜けたようにいった。
「うん」
と僕もどこか気の抜けたような声でいった。不思議なもので、家族というのは本当によく似るようになっているのだ。僕の見た目はどちらかというとお父さん似で、よく親戚の人たちにわんぱく顔と言われる。その変わり、ほかの細かい妙なところで、僕はお母さんと似ている。それはあくびの仕方だったり、普段の話し方だったり、そういう意識しないとあまり気付かないようなところだ。
箸を動かして、大好物のきゅうりの浅漬けを食べる。ぽりぽりとした食感がたまらない。
「ゆう君も気を付けるのよ」
お母さんが言った。
「うん」
なんて、素直に返事をしたけれど、僕だってもうそこまで子供ではない。内心では、そんなドジはしないよと思っていた。
お父さんは新聞を読みながらご飯を食べていた。お父さんの癖だ。それをいつもお母さんに注意されている。それでも毎日毎日こりずに読んでいる。こういうところって、大人たちにはよくあるような気がする。子供がやったら大目玉をくらうことになるだろうけど、大人というのはつくづくずるい。
朝の七時五十分くらいに、僕はいつも家をでる。そこから仲のいい拓真君を家まで迎えに行って二人で昨日のテレビがどうしたとか、あのゲームはどこまでいっただとか、そういうことを話しながら学校まで行く。話に夢中になって、遅刻しそうになることもある。
一時間目の国語が終わり、大嫌いな数学の授業が始まった。二次関数がどうとか、言っていた気がする。僕はあまりマジメな生徒ではないから、その時間はうとうとしていた。
机などで無理な姿勢をとって眠ると、体がビクンとなって目が覚めることがよくある。その時もそうだった。
夢の中で何かとものすごい勢いでぶつかる夢を見て目が覚めた。あんまり大きく体が動いたから、音もすごく鳴って、みんなには笑われるし先生には教科書で頭叩かれるし散々だった。
数学の授業が終わって休み時間の時に、同じクラスの美香ちゃんが僕の所に来た。そして、ちょっと悩んだような顔をした後、覚悟を決めたように僕の顔を見てこういった。
「最近、変な夢をみたりしない?」
夢と聞いて、僕はさっきの夢を思い浮かべたけど、衝撃を受けて目を覚ますような夢は珍しいわけでもないから僕は特に見てないよと答えた。そしたら美香ちゃんは安心したような、不満そうな顔をして「そうなんだ、ごめんね」といった。
「お前、あいつと仲良かったっけ?」
その後、拓真君が近づきながら小声で話しかけてきたけど、僕も美香ちゃんがなんで話しかけてきたのかわからなかったから。
「ううん、特にそんなことはないと思ったけど」
という歯切れの悪い返事をした。
給食も食べて、五時間目も終わって、今日の授業が全部終わった後、僕は拓真君と一緒に家に帰った。家に着いたのは、大体四時くらい。お母さんはテレビを見ていた。
「おかえり」
お母さんがテレビを見ながら言った。何を熱心に見ているのかなと思って、僕もただいまと言いながらカバンも降ろさないでお母さんが座っている三人掛けのソファの隣に座った。テレビではコンビニ強盗がまだ捕まっていないとニュースキャスターが生真面目そうに話していた。
「なんだ、ただの強盗か。なんで熱心にみてるの?」
僕は不思議に思ったから聞いた。お母さんはあまりニュースに興味を持たない人だった。するとお母さんはテレビを指さしながら言った。
「ここ、見覚えあるんじゃない?」
本当にそうだった。よく見たらそこはいつも学校に行く途中に通るコンビニだった。帰りはいつも、遅刻するということがないので、グダグダとでたらめな道順を通って帰るから、そこを絶対通るわけじゃない。だから気付かなかった。
「近くて怖いわねぇ。気を付けるのよ、ゆう君」
お母さんはテレビに目を向けながら気の抜けたように言っていた。
午後七時くらいに、お父さんが帰ってきた。それから、みんなでご飯を食べた。メニューはハンバーグ。きゅうりの浅漬けも欠かさずにあった。
お父さんは車で三十分くらいのところで働いている。仕事の内容は覚えてないけど、お父さんはすごいことをしているんだぞ、と、昔僕の頭をなでながら言っていたから、きっとすごいんだろうなと思っている。
そして、その日はご飯を食べて、お父さんとちょっとだけゲームをして遊んだ。いいところだったけど、お母さんが食器を洗いながら。
「もう寝なさい」
と言ってきた。言うことを聞かないとお母さんはすごく怖い。だから、仕方なくやめた。従う僕も僕なのだが、お母さんはいつまでも僕のことを子ども扱いする。拓真君はもう十二時くらいまで起きていたりすると言っていた。うらやましいような、そうなると、いよいよ子供期間が終わるような気がして少し怖いような気もした。
そんなことを考えながら歯を磨いて、二人におやすみなさいとちゃんといって、押入れから布団を自分で敷いて、僕は十時半くらいに眠った。
夢をみた。すごく生々しい夢。こんな夢を見たことはなかった。感覚がおかしいくらいに現実とそっくりで、僕は道路の脇でぼうっと立っていた。
そこはどこか田舎か、山に近いのかわからないけど、僕側の道路の脇はすぐに木が生い茂っていた。それと、バス停があった。向かいには田んぼが道路を挟んで一面に広がっていて、ちょうど漢字の丁のようになっていた。田んぼの手前には電柱が一本立っていた。向うの道路から、家族が歩いてきた。
お父さん、お母さん、女の子。僕の家と同じような構成だった。
三人はバス停に向かおうとしたんだろうと思うけど、道路を渡ろうとしていた。でも、その道路は結構なカーブを描いていたから、僕から見て右側からあり得ない速さのトラックが来ていることに三人は気付かなかった。僕にはトラックが見えていたから、なんとか知らせようとしたけれど、何故か体が動かなかったし、声も出なかった。ただ、このままじゃ三人がぶつかってしまうという怖さが全身を走っていた。
トラックが歩行者に気付いた時にはもうブレーキを踏んでも間に合わないだろうという距離だった。
鈍い音が聞こえた。三人が飛ばされる。視点は勝手に飛ばされた家族の方へ向かった。
男の人が慌てて車から飛び出した。そして、三人を見た瞬間、笑った。ケタケタと狂ったように笑っていた。そして、そのまま三人へ近づいていく。
三人は体中が血まみれだった。お父さんの脚が変な方向へ曲がっていた。僕はそれを見て吐きそうになったけど、吐くことも、目をそらすこともできなかった。
男が三人のそばで止まった。止まったままだった。そのまま三十秒くらい止まって、男は動き出した。
最初に、三人のカバンやポケットの中身をすべて取り出した。そしてそれをトラックから取り出した大きめのビニール袋に入れて、トラックにしまった。
次に、女の子を担いだ。何をするのだろうと思っていると、男は女の子を、僕が最初にいたほう、バス停のある方へ歩き出した。そして、その奥にある森の中へ女の子をおいていった。それを残り二回。お父さんとお母さんも森の中へと連れていった。
男はトラックに乗り込む。そして、何事も無かったかのように発進させた。
僕は、それをずっとみていることしかできなかった。
土曜日、目が覚めた時は気が気でなかった。いつもならぼやっとしか覚えていない夢をおかしいくらいにはっきりと覚えていたし、そもそもあんな夢を見たことはなかったから。
ひどく気分も悪かったので、しばらく寝込んでいたら、いつも起きる時間に来なかったことを心配したのか、お母さんが部屋まで来た。夢で気分が悪いなんて言えないから、その時になって僕はようやく布団から這い出た。
もうお昼に近くて、真上に上った太陽が地球全部を熱で溶かそうとしているんじゃないかというくらい暑かった。リビングに入って、冷蔵庫から冷たい牛乳を出して飲んだ。そしたら気分が少し良くなった気がした。
「いつもならもっと早く起きるのに珍しいね」
お母さんがキッチンで洗い物をしながら言った。お母さんというのは、いつもなにか家事をしている気がする。お父さんと違って、土曜も日曜もないんだなって思った。
「うん、ちょっと眠くて二度寝してた」
やっぱり、恥ずかしくて本当のことは言えなかった。
少し早いお昼ご飯を食べたあと、どこか買い物に行くか、とお父さんが言い出した。
「どこに行くの?」
僕はほとんど条件反射で答える。気分の悪さは、いつの間にか消えていた。両親がどこか出かける時、ゲームコーナーがあるお店だと僕は決まって付いていく。逆に、洋服だったり、食料品だけだったりすると、「家にいる」と、まるでこたつの中の猫みたいに動かなくなる。今、こたつがあっても僕は、「暑い!」と叫びながらひっくり返してしまうだろうけど。
そこまで想像していると母が案を出した。
「そろそろ冷蔵庫の野菜全般が品切れだからスーパーにでもいきましょう」
そこまで聞いて僕は、冬のこたつ猫と同じような例えで、夏にも通用するものはないかと考え始めていた。
「ゆうはどうする」
お父さんがきいてくる。
「いつもどうり」
そういうと、二人ともそそくさと準備をして車にのって行ってしまった。
僕は暇つぶしに、やりかけの携帯ゲームをやり始めた。ソファにごろんと横になる。誰にも文句を言われることもなく、最大音量で臨場感もばっちりだ。お母さんがいると、いつも音量を小さくしなさいと怒られるから、こういう時にたっぷり楽しんでおく。
ゲームもひと段落すると、あれだけ寝たのに、夢で疲れてたのか、また眠くなってきた。
風の通りもよかったし、ソファはふかふかで気持ちよかった。きっと、不眠症の人もこんなところにいたらたちまち眠ってしまうだろうと僕はうとうとしながら思った。
また、夢を見た。
今度は前の夢とは逆の道路脇にいた。隣には女の子がいた。楽しそうに隣のお母さんと話している。お父さんは、そんな二人といるのがうれしいのか、ずっとニコニコしていた。
僕は、この後に何があるのか知っていた。なんとなく、わかっているみたいだった。だから、僕は渡っちゃだめだと言おうとした。でも、あの時見た夢のように、僕の体は何一つ動かなかった。声も出ない。何もできない。助けられない。
カーブを曲がり切って、トラックが見える。男の人がこちらに気付かずに直進する。女の子のお父さんはそれに気づいて声を上げた。
ぶつかる。
そう思ったけれど、どうしようもなかった。トラックは三人にぶつかった。僕もぶつかったはずだけれど、痛くもなんともなかった。僕の目の前にはさっきまで笑っていた三人の血だらけな姿があった。
また吐き気に襲われる。でもやっぱり吐くことも目をそらすこともできなかった。
遠くからではわからなかったけど、この時、三人はまだ意識がまだあったみたいだった。
目が覚めた。汗がだらだらと体中からあふれていた。ソファから体を起こす。外はまだぎらぎらと太陽が照りつけていたし、吹き込んでくる風も変わらずあったから、そんなに長い時間寝ていたわけではなさそうだった。
一体どうしたんだろうと、この時になって考え始めた。朝に見た夢も、今見た夢も、視点が違うだけで同じ夢なのは間違いなかった。しかも、どちらの夢も感覚が嫌にリアルなのも同じだった。
そして、考えていると、あることを思い出した。昨日の数学の授業のことだ。その時にも僕は、何かにぶつかって目を覚ますという夢を見た。これも、同じ夢だったのでは?
そして、授業が終わった後、こういわれたのだ。
「最近、変な夢をみたりしない?」
これは、美香ちゃんに相談した方がいいのかもしれない。月曜日に相談してみようと、まだはっきりしない頭で思った。
「誰もいないや」
はやる気持ちを抑えきれずに、朝早く来た学校の教室は、しんと静まり返っていて、僕の独り言が教室全体に響いて溶けていった。心なしか、土曜と日曜の二日分、この教室の時間が止まっていたようにも見える。教室の窓を開けて、外と時間を繋げる。こもっていた空気が、夏の朝のさわやかな風で綺麗になっていく。
拓真君には電話で一緒にいけないと知らせておいた。ただ、拓真君は時間にルーズだから遅刻しないか心配だ。
僕はというと、土曜の夜から月曜の朝までずっと落ち着かなかった。もしかしたら、寝るたびにあの夢をみるんじゃないかという予感は当たっていて、寝るたびに違う視点から交通事故を見てしまうのだった。
その繰り返しで、わかったことがある。
ひとつは、どうやら女の子は僕と同じくらいの年齢の子だということ。ふたつ目は、あの一家はこれからおばあちゃんの家に行こうとしていたらしいということである。
不思議なことに、夢は見るたびに鮮明になっていった。そのおかげで、会話もはっきりと聞こえ、このふたつのことが分かったのだ。僕が少し慣れて、余裕ができたということも原因のひとつだろうけど、そう思うと少し人としての何かが欠けてしまったみたいで怖かった。
徐々に人が教室に入ってくるようになった。いつもは学校に来るのが最後から数えたほうが早い僕がいるのにみんな驚いていた。
美香ちゃんが来たのは、朝のさわやかな空気がどこかよそへ追いやられ、外、教室ともに夏の熱気に染まりかけたころだった。
僕は遅刻しそうなときよりも早く美香ちゃんの前まで向かった。
「ちょっと、話があるんだけど、いい?」
あまりに勢い込んでいたから、美香ちゃんは驚いていた。外から来たばかりで、額に汗をかいている。
「え、な、何?話?」
「そう、話」
と言った後、忘れているみたいだから、付け足したほうがいいと思ったので。
「夢についてのこと」
と言った。すると、美香ちゃんはすぐに合点がついたように「あっ」と言った。そして、その後に頷いたので、僕は廊下のあまり人気のないところまで向かった。
人気のないところまでいったのは、あまり聞かれたくなかったからだけど、よく考えれば、ほかの人からみると、これは告白なのではないかと疑われるような状況だった。幸い、そんな噂は立たなかったが。
「で、どういう夢だったの?」
美香ちゃんが落ち着いた感じで聞いてきたので、僕は今まで見た夢を話した。そして最後に。
「これが、美香ちゃんの言う変な夢だとして、なんでそれを見るってわかったの?」
と聞いた。すると、彼女は話そうかどうしようかと悩んでいたみたいだった。そして、
「絶対に誰にも言わない?」
と心配そうに言ってきた。
「僕だって、こんな変な夢について話したんだ。誰かにばれたら変人扱いされちゃうよ」
と僕はおどけながら言った。すると、美香ちゃんはそれもそうだ、と笑いながら言った後、信じられないことを言った。
「私、幽霊が見えるの」
パカッと口を開けたまま、僕は美香ちゃんを見ていた。すると、何を勘違いしたのか美香ちゃんは。
「あ、でも、話したりはできないの。見るだけだよ」
と慌てて付け足していた。
しばらく、口を開けていたが、いいかげん、痛くなってきた。でも、その痛みで、僕は我に返った。
「見えるって、見えるの?」
「うん。あまり、はっきりっていうわけでもないけど」
「で、でも、それと夢に何の関係が?」
「信じてくれるの?」
「とりあえず、話して」
「あなたには今、女の子の霊が憑りついています。その女の子があなたに夢を見せています。夢枕に立っているみたいなものかな。」
驚いた。実は、僕はそこまで話していなかった。女の子などの登場人物は二の次で、同じ交通事故の場面を何度も何度も違うアングルで見る。しかも、嫌に感覚がリアルで普通の夢みたいに忘れることがない。としか言っていなかったからだ。
「そして、女の子は私たちと同じくらいの子ですね」
美香ちゃんが満足げに僕の顔を見る。僕は思わず後ろを振り返って、そんな女の子はどこにもいないことを確認してしまった。
「ありゃー」
後ろを向いたまま、情けない声を出したのは僕だ。
「信じる?」
「信じた」
「それはどうも」
美香ちゃんはまたまた満足げに、安心したように僕を見た。
「で、続きなんだけど」
彼女が言う。
「その女の子が見せてる夢って交通事故の夢なのよね?」
僕は頷く。美香ちゃんがうーんと唸ってしばらく黙りこむ。何か言おうかなと思った時、美香ちゃんは顔をあげてこういった。
「たぶん、犯人を捕まえてくれってことなんじゃないかな」
あまり自信はないけど、とぼそりと付け足しながら美香ちゃんは言った。
「そんなこと、僕たちにできないでしょ」
かといって、警察に相談できるような内容でもない。
幽霊に、夢枕に立たれました。犯人の風貌はこんなんです。
なんて言ったとしても学校と保護者に連絡が言って手痛い説教を食らうだけだろう。
どうしたものか。そもそも、女の子の目的が犯人捜しかどうかも確かではないのだ。誰かに伝え損ねたことがあるから、その人にどうしても伝えたい。という可能性だってある。どうも、あの女の子は犯人を捜してくれと言ってくるようには思えなかった。
「とりあえず、なにが目的であろうと、事故現場をみなきゃ始まらないよ」
美香ちゃんはちょっとわくわくした様子で言った。
美香ちゃんが、わくわくしていたのには理由があった。美香ちゃんとは同じ小学校だけど、美香ちゃんは転校してきたので知り合いになったのは小学校三年の頃だった。
「で、幼稚園の頃とか、なにも考えないで後ろに誰かいる、とか言うわけ」
美香ちゃんがどこか嬉しそうに僕に語った。昔、まだ見えているものが幽霊だと気付かなかった頃、美香ちゃんはよくそう言ったらしい。
「おかげで、嘘つき、怖い、気持ち悪いの三拍子で」
幽霊らしいと解ったのは、小学校一年の頃。もうそのときは、美香ちゃんに話しかける人はいなかったらしい。なぜ解ったのか、と聞いたら美香ちゃんは、お話を読んだ、と言った。
「幽霊が見える子供の話で、それを読んだ後、あれ、これって私もじゃないかなって」
その後、注意深く自分の姿を鏡で見ると、自分の後ろにあった、ぼやけた感じだった姿がだんだんくっきりしてきて、おじいちゃんの姿になったと言う。
「おじいちゃん、その一年前に死んじゃっててね。あ、私のこと守ってくれているんだってわかったの。理屈抜きでね」
自分が見えているものが幽霊と解って以来、美香ちゃんはそのことを誰にも言わなかったそうだ。二年になってできた友達にも。言った後、どうなってしまうか不安だったからと、美香ちゃんは言っていた。
強いのかな、と思った。
美香ちゃんはきっと強いんだと思う。他人の僕が、人の過去を聞いてそう思うのはなんとなく無責任な気がする。でも、強いから辛くない訳ではない。幼稚園児が転んだら、大体みんな泣いてしまう。でも、中学生になってまで泣く人はそうそういない。同じ痛みでも、我慢ができるからだ。美香ちゃんはきっと寂しくて辛かったはずだ。それなのに、こうして笑って話している。そこが、すごい。
「でも、僕にはなんで話したの?」
当然の疑問を口にする。
「それは、言うつもりはなかったんだけど。普段のゆう君を見てたら、たぶん大丈夫かなって思ったの。それに、夢のことをいっちゃったから、もう後戻りはできないなって思って。」
「そもそも、なんで夢のことを僕に話したの?」
「今まで見たことのない霊だったから気になったの。なんとなく、ゆう君に馴染んでなかったというか」
守護霊だったり、近親者の霊だと、どことなく包み込むような雰囲気がある、とのことだった。
「それが、僕の後ろにいる子にはなかった?」
僕は指を後ろに指しながら聞いた。
「そうそう」
そして、続けた。
「ちょっと不謹慎かもしれないけど、嬉しかった。自分のことを隠さなくてもいい相手が出来たって」
美香ちゃんは心底嬉しそうに、僕の顔を見ながら言った。僕は照れ隠しに、強い口調で。
「早く、図書館に行こう」
と言った。
図書館に行こう、と最初に言ったのは僕だ。事故現場に行くとしても、僕の夢の話だけではどこかさっぱりわからない。だから、新聞を調べてみようと僕が提案した。
美香ちゃんは、習い事や塾、家事の手伝いがあるから平日はいけない、と言っていたので、土曜日に行くことになった。
その間も、僕はいろいろなアングルで夢を見ることになった。ある時は空から、ある時は女の子の視点から。でも、犯人側の視点で夢を見ることはなかった。
そして、先ほどの会話があり、僕らは今、大量の新聞が入っている棚を前にして口を開けたまま立っていた。
「多すぎない?」
彼女が小声で僕に言う。
○○新聞、○○民法、○○経済、ありとあらゆる新聞が、何十年分もそこには置かれていた。
「とりあえず、僕が夢を見始めたのは、たぶん数学の時間。だから、それより前から探さないとね」
僕は先週の木曜日の新聞を片っ端からとりながら言った。美香ちゃんもぶつぶつ言いながら水曜日の新聞を取り始めた。最初のわくわく感はどこかへ飛んでしまっているみたいだ。
席に着くやいなや、嫌気がさしてきた。目の前には新聞の山、ただし一日分。隣には渋い顔をした美香ちゃんが居た。
「やるか」
美香ちゃんに言う。本当に、さっきまでの元気はどこへやら、という顔だ。少し面白いくらい。
「はぁい」
美香ちゃんが言う。
僕たちがいる街は、都会と言う程都会でもない、くらいの場所だった。少し歩けばちょっとした森があったし、そこには川もあった。それを利用した森林公園もあり、夏場で、しかも休日の今日はきっと子供連れの家族が多くいるだろう。子供が水辺ではしゃぐ様子を、少し遠くからまぶしそうに眺めていた親子を、昔、見たことを思い出す。
その森林公園程ではないが、この図書館の周りも結構木や緑に囲まれている。国道が近くにあるのだが、風にそよぐ木のざわめきと、セミの元気な鳴き声で車の音は聞こえない。自然の音に囲まれて、とても気持ちのいい図書館だ、と近所では評判なので、人が絶えることはあまりない。冷房がないのがたまに傷だが、緑に囲まれていると、どことなく涼しく感じられる。
しかし、今日は緑を見てもなお、とても暑い日だった。汗を袖で拭いながら新聞をめくり、めぼしい記事がないか目を走らせる。見出しにはない。めくる。ない。めくる。ない。横を見る。いない。
「あれ」
新聞の山もない。どうしたんだろう、と思っていたら新聞の山をもって美香ちゃんが戻ってきた。
「火曜日の分」
そういって美香ちゃんはまた座った。
「僕、まだ木曜日の一部目も終わってないんだけど」
「私、速読できるの」
美香ちゃんが誇らしげにそう言った。
それらしい記事を探しては、美香ちゃんがこれは違うか、と新聞を見せてきたけれど、どれも違った。
「あ、あった」
僕が思わず声を上げた。周りの視線が集まって身を縮こめる。
見つかったのは結局木曜日の地元を集中的に掲載するローカル新聞だった。美香ちゃんが僕のことをにらんでいる。
「これ、木曜日の新聞でも下の方にあったんだ」
平静を装って、言い訳する。
「私が何部も新聞見てきた意味がまるっきりないじゃない」
声が据わって、凄みが効いている。
「はい」
美香ちゃんが怒ると、意外と怖いとは知らなかった。今度から気を付けよう。
新聞記事を見やすいように、美香ちゃんの方へ寄せる。
新聞の記事を読むと、夢でしか見ていなかったことが、本当にあったことなのだと思い知らされた気がした。
新聞によると、事故のあったその直後、たまたますぐに通りがかりの人が道路に染みついていた血に気付き、何かがあったのかとあたりを少し散策したらしい。そこで、血まみれの三人を発見、救急車を呼んだとのことだった。幸いにして、お父さんとお母さんは通行人の応急処置が良かったのか、命に別状はなかったらしい。女の子は意識不明の重体と書かれていた。あの現場の田舎具合を考えると、直後に人が来たのは不幸中の幸いと言えなくもなかった。
「でも、僕の後ろに女の子がいるということは」
美香ちゃんに言った後、僕は少し俯いた。この女の子は、僕と同じくらいの年齢だというのに、理不尽な事故で亡くなってしまったというのだ。わかっていたことだが、文字にして見ると、改めてショックがあった。
「そうだね、でも、お母さんとお父さんが助かっただけでもすごかったかも」
泣いているのかな、と美香ちゃんは言った。たぶん、女の子の両親のことだ。僕も考えてみる。もし、お父さんやお母さんが突然死んでしまったら?朝起きても、ごはんが用意されていない食卓。新聞を広げながらごはんを食べる人もいない。そして、それを注意する人も。僕は、食卓のいつもの席に一人で、自分のつくったおいしくもない朝ごはんをもそもそと食べる。
震えそうになった。きっと僕には耐えられない。でも、それは決してありえないことではないのだ。現に、女の子は唐突に、あっけなく死んでしまった。
僕が死んだら、その先にあるものはなんだろう。僕も、幽霊になって誰かに憑りつくのだろうか。気になって、最近、お父さんに聞いてみたことがある。答えは解らないと解り切っていたけれど。
「さぁ、なんだろうね。お父さんがいつか確認するから、一番に教えに行くよ」
明るく笑いながら言ったお父さんだったが、僕はその時、怖かった。そうだ、死ぬんだ。お父さんもお母さんも、友達も、死んでしまうのだ、と。いっそのこと、時間が止まればそんなことにもならない。だから、止まってくれ。そう何度も思った。でも、朝起きると、カレンダーの日付は必ず一日進んでいた。
そんなことを考えるようになったのは、奇妙な夢を見始め、女の子が憑りついていると言われてからだった。僕は、本当なら、まだ生きるとか死ぬとかそんなことは考えずに、毎日を気楽に過ごしていたと思う。でも、僕にとって、「死」はとても身近なものになってしまった。
おかげで、家族がいかに大切か、わかった。時間がいかに大切かもわかった。
たぶん、年の割に色々と達観しすぎている気もするけれど。
事故現場は、僕たちがいる街から電車で三時間ほどの田舎だった。特急で行けばもっと早いのだろうけど、小さい駅には止まらないので、各駅停車しか手段はないみたいだった。それに、僕らが住んでいる場所から駅まではバスで三十分くらいかかる。僕は、持ってきたノートに電車やバスの時間、事故現場を書き込んだ。
「そしたら、これからどうする?」
美香ちゃんが聞いてきた。
「僕、ちょっと見たい本があるからもう少しここにいたい」
じゃ、私も面白そうな本を探してこよう。と言って美香ちゃんは棚のむこうに消えていった。僕も、美香ちゃんがしまい忘れた分の新聞を持って棚へ向かった。
「ただいま」
家に着いたのは、夕方六時くらい。庭にある木に掴まっているヒグラシが一匹、鳴いていた。
図書館を出たのは、新聞を読み終わって三時間後、つまり、閉館時間だった。木の間から落ちる夕陽と、閉館を知らせる「蛍の光」が、とても哀しげで、どこか美しかった。そんなことを言うとお母さんは、「爺くさいね」と笑って、お父さんは「お前も、そういうところに目を向ける年になったか」と言っていた。
晩御飯を食べ終わると、僕は図書館から借りてきた本を読み始めた。医療系の本。と言えば聞こえがいいが、子供向けの簡単そうなのを選んだので、あまり堅苦しくない。
死は、どこにでもあるもの。突然襲ってくるもの。それにどう対処すればいいか。もし、身近な人が危険な状態になったら少しでもなんとかできないか、そう思ったからこれを借りた。
女の子の両親は、応急処置がうまかったから一命を取り留めたと新聞には書いてあった。別に、医者になろうなんて大層なことは考えていない。とにかく、少しでも夢の中で味わった、「自分は何もできない」という状況から抜け出したかった。
前に昼寝したときのように、ソファでごろんと横になり、腕をあげて本を読む。この姿勢は、すぐに腕が疲れるが、何故か本を読むときはこの姿勢になってしまう。
夜風が開け放たれた窓からさぁっと入ってきて気持ちいい。
「足」
とお父さんがソファに近づきながら言ったので、僕は横になってすぐに座る姿勢にもどることになった。
人間の体内にある血液は体重の七、八パーセントで、そのうち二十パーセントで出血性ショック、三十パーセントが急激になくなると、命の危険性がある。出血には動脈性出血という赤い血が脈打つように噴き出す出血、静脈性出血という赤黒い血がどくどくと湧き出るような出血、毛細血管性出血という血がにじみ出るような出血がある。一番危険なのは動脈性出血で、静脈性出血も止血の手当てが遅れると失血性ショックの恐れがある。ちなみに、出血性ショックとは血液の循環の量が減り、内臓に十分な血液が送られなくなり、満足に機能しなくなること。
ふんふんと頷いていると、お父さんがテレビから目を話して言った。
「お前、そういうのに興味あるのか」
僕は本から目をあげてお父さんの方を向いた。
「ちょっとね」
と言葉を濁す。この本を借りるに至った理由は、お父さんには言えるようなものではない。幽霊だとか、夢だとか、あまりにも非現実的すぎるから、医療の勉強の前に頭の病院へ連れて行かれるかもしれない。
「そうか」
とお父さんは少し微笑んだ後、またテレビに戻った。
ふと、美香ちゃんが言っていた守護霊などに感じる、包み込む雰囲気、というのは、こんな感じなのかな、と思った。
それが起きたのは、僕が朝早く学校に行くことを気に入り、たまに拓真君に電話をして、一人で早めに学校へ行く、というのが日常的になったころだった。
朝早く学校に行くのが気に入ったのは、教室の窓を開けた時の風がさわやかで気持ちがよかったのと、なにより、誰もいない教室は時間が流れている感じがしなかったからだ。
図書館で借りた別の本を朝の教室で読んでいると、美香ちゃんが来た。
「あいかわらず、難しそうなの読んでるねー」
僕はあいまいに頷き、美香ちゃんとしばらく話していた。すると、意外にも拓真君が三番目に来た。
「母さんが、あんたもゆう君見習いなって追い出してきた」
と少し不機嫌そうに言ってきた。そして、僕と美香ちゃんを見ると、「お前ら、いつのまにそんな仲に!」と芸人みたいなオーバーリアクションをして、僕と美香ちゃんに手痛いツッコミを喰らった。
この三人で話すのは初めてのことだが、意外に馬が合っていた。僕らはそのまま教師が来るまでひたすらおしゃべりをして、ボケて、ツッコミを入れて、そしてひたすら笑った。
四時間目の授業が終わり、「給食だ!」とお調子者タイプの山根君が叫んだとき、放送がなった。
「不審者が、校内に入り込みました。担任の方は、生徒をまとめてください。また、教室内に不審者が入らないように気を付けてください」
それは、今までに聞いたこともないくらいに、焦っていることがわかる喋り方だった。教室内に不審者が入らないようにするってどうすればいいんだよ!と誰かが叫んでいるのが聞こえた。
担任の教師が教室へ戻ってくる。パニックに陥っている生徒をなだめて、点呼をとる。
「それじゃ、とりあえず、避難だ」
きっと、マニュアルがあるのだろう。マニュアルでは避難第一なのか、それとも教師たちも焦っていて、頭が真っ白になっていたのかわからない。
ともかく、この時は、素直に放送に従い、扉を無理やり机などでふさいでしまった方がよかったのだ。
ケタケタした笑い声が聞こえた。扉の方を向くと見覚えのある男がナイフを片手に立っていた。
教室中が静まり返る。みんな、唖然として男を見ていた。異質だった。顔は痩せこけていて、目がくぼんでいる。全身の雰囲気も、なにか人間とはかけ離れたものに感じられた。
一番に我を取り戻したのは先生だった。先生は犯人に飛びかかったのだ。
「みんな、早く逃げなさい!」
生徒たちも我に帰った。とたんに、教室中は悲鳴が飛び交うことになった。僕だけは、その犯人から目を離せないでいた。美香ちゃんが僕の腕をひっぱる。その手に引かれて教室から出ようとしたその時、目の前で先生が刺された。もみ合っているうちに、ふとももに、ナイフの刃の部分がすべて突き刺さったのだ。
美香ちゃんが悲鳴をあげたのと、騒ぎを聞きつけた教師陣が教室に駆け付けたのとはほとんど同時だった。
ナイフを片手にもった男は、不意を突かれて教師陣に取り押さえられた。床には、ふとももを刺された先生の血が広がっていた。
「美香ちゃん、保健室の先生呼んできて!」
僕はそう叫んだ。美香ちゃんが戸惑っていたので、「早く!」と怒鳴ると、急いで走って行った。
「先生!携帯で救急車!」
男を押さえつけに来たけれど、結局なにもできなかった先生にも怒鳴りつける。その先生ははっとして、携帯を使って電話を始めた。
僕は、担任の先生に駆け寄って、意識を確認した。まだ、意識はあるみたいだった。こんなことになるとは思わなかったが、この時ほど、悲惨な事故現場を何度も見て、血になれたことを感謝した日はなかった。
ガーゼがなかったので、先生の足をあげて、その下にカバンを置き、ハンカチを使って傷を直接圧迫する。本当はもっといろいろと止血方法があるらしいのだが、僕が今できるのはこれくらいだった。
少しでも、少しでも力になりたかった。
ハンカチが真っ赤に染まっていく。それを見ていると、そのまま先生の命が流れているように感じる。
美香ちゃんが保険室の先生を連れてきた。先生は、僕を見ると、変わりなさいと言って、てきぱきと対処していた。
「手、真っ赤だよ」
そう震えた声で美香ちゃんが僕に言いながら、僕をおびえた顔で見ていた。
僕は、取り押さえられてもなお、ケタケタと笑い続ける男を見ていた。
救急車が来て、先生を連れて行った。幸い、命に別状はなかった。
遅れて、警察もやってきた。大人数でやってきた警察のうち何人かは犯人を連れて行き、残った大多数は現場を調べたり、僕ら生徒や先生たちに事件の状況などを聞いていた。
僕は、その時思い切って、男がひき逃げの犯人だ、と言うべきか悩んだ。しかし、とうとう言うことはできなかった。
しかし、それは言わなくても大丈夫なことだった。後日、ニュースで、警察が男の余罪を追及したところ、ひき逃げのことや、近場であったコンビニ強盗のことも自白したという。
生徒の聴取が終わり、外も夕焼けになりかけたころ、僕たちは解放された。同じクラスの人たちは、さっさと避難していたので僕の手が真っ赤であることに驚いていた。
夕陽が入った水飲み場で手を洗う。乾いた血は、石鹸をつけても、こすっても、簡単には取れなかった。
足音が聞こえたので振り向くと、美香ちゃんが居た。
「帰ろう」
美香ちゃんは、おびえた顔ではなく、優しい笑顔をして言った。
夕陽の中を歩く。どことなく、今日の夕日はでかくて、無駄に明るい気がした。沈黙が続いていたので、思い切って話しかける。
「ごめんね、あの時、怒鳴ったりして」
美香ちゃんは肩をぴくっとさせた後、僕を見て、
「ううん。私、あの時すごくこわかったから。怒鳴ってくれて、助かったよ。それに」
美香ちゃんは少し溜めて、
「ゆう君が居れば大丈夫って気がしたから」
僕は足を止めた。この気持ちを、美香ちゃんには伝えておこうと思った。美香ちゃんは、僕に本心をぶつけてくれている。霊が見えるという、ともすれば異端者として見られるリスクを冒して僕に真実を話してくれた。だから、僕も本心から話そうと思った。
「一番怖かったのは、たぶん僕だよ」
僕の少し先にいた美香ちゃんが振り向いた。
「夢で何回も家族が撥ねられるところを見た。数えきれないぐらい」
美香ちゃんが僕の目を見る。
「僕の体は動かないんだ。ちっとも。僕が少しでも動ければ、事故も起きないし、誰一人として辛い思いをしなくても済む。そうでなくても、僕が通報でもすれば、女の子は助かったかもしれない。でも、僕には何もできなかった。それがすごく辛くて、怖かった」
「うん」
美香ちゃんが小さい声で相槌を打つ。
「目の前で、人が死にそうになる。その状況には慣れたけど、それはイコール平気になったってわけじゃない」
まだ少し赤い手を無意識に握る。声が震えていたかもしれない。
「怖かった。また何もできないで、目の前で誰かが血を流しているのをみるのが。人が死んでいくのが怖かった」
うまく伝えることができた気はしない。
「今回は、動けたじゃない」
美香ちゃんは、僕に言ったのか、それともどこか遠くへ向かって言ったのかわからない調子で言った。
「帰ろう?」
そこには、いつもの美香ちゃんが居た。
学校は、先の事件以来、休校になっている。テレビでは、男がいかに残忍で、恐ろしい人物なのか、説明した後、これはなにかの精神病を患っているのではないかなどと専門家が話していた。
そして、その話題も尽きると、今度は学校側の不手際をこき下ろすのだった。
事件から数日、僕は知らない間に一部で有名になっていたらしい。これは、後で聞いたことなのだが、どうやら、遠くで僕が先生に怒鳴りつけたり、真っ先に応急手当をしようとしていたところを見た人がいるらしいのだ。それも、二、三日もすれば学校にもいけないので収まったとのことだった。
異変に気付いたのは、その二、三日が過ぎたあたりだった。
夢の内容が変わったのだ。
今までは、車に轢かれる夢だったが、ある日突然、その夢は病院の治療室で、女の子が治療されているところを上からのぞきこむ夢に変わっていた。
そして、さらに思い出したのだが、美香ちゃんの推測では、犯人が捕まればこの霊はいなくなるのではないか、とのことだった。それも、内容が変わっているとはいえ、いまだに僕が夢を見ているということは、間違っているということになる。
美香ちゃんに電話をして、その日のうちに会うことになった。
開口一番、美香ちゃんが言った言葉は僕を動揺させるのには十分だった。
「影が薄くなってる」
霊の影が薄くなっている。それはどういうことなのだろう。成仏するのだろうか。でも、それでは女の子の見せる夢が変わった意味が解らない。
「ごめんなさい。私も、そこまではわからないわ。けど、このままだったら、間違いなくこの子はいなくなる」
女の子がいなくなるということは、あの夢を見なくても済むということだ。それは喜ばしいことだけれど、どこか納得がいかない。
そもそも、成仏するならもっと早くてもいいのだ。なんなら、犯人が捕まったその瞬間にでも成仏してしまえばよかったはずだ。それをしなかったのか、できなかったのかはわからない。どちらにせよ、そうなると、目的は犯人なんかじゃなかったと考えるのが自然だ。やっぱり、言い残したことがあるのだろうか。
家に帰って、しばらく考え込んでいると、お母さんが買い物袋を両手に抱えて帰ってきた。
「手伝ってー」
玄関で叫ぶお母さんの所へ行き、袋を持つ。
「力、ついたねー」
お母さんが笑って言う。僕も、ちょっと苦笑いする。
野菜や肉などを冷蔵庫に入れて、その他いろいろなものをしまい終わったお母さんは、ソファに座っている僕の横に腰を下ろして、テレビを付けた。
『そして、この犯人、今回の学校襲撃事件だけではなく、他にも色々と凶悪な事件をおこしているのです』
テレビの音声が聞こえる。男のニュースキャスターが、視聴者と言うよりは、コメンテーターたちに向かって話していた。午前の十一時頃は、子供が喜ぶような放送はない、ということが、ここ数日でわかっていたから、さして興味もしめさないで考えにふける。
『コンビニ強盗、殺人未遂、さらに、ひき逃げまでしているんですよ』
コメンテーターたちも、すでに知っているはずだろうが、大げさに顔をしかめたり、驚いたりしていた。
『幸い、殺人未遂の被害者は命に別状はありません。しかし、ひき逃げ事件ではいまだに女の子一人が意識不明の重体です』
「え!」
これは、僕の声である。驚いたお母さんが僕を見る。
「どうしたのよ」
訝しむお母さんをよそに、僕はすばやく立ち上がって、再び電話を、別れたばかりの美香ちゃんに掛けた。
「もしもし、ゆうと申します。そちらに美香ちゃんはいませんか」
保留音がしばらく続いた後、聞き馴染んだ声が聞こえた。
「美香ちゃん、僕たちは、すごい勘違いをしていたみたいだよ」
美香ちゃんは、死んでいない。まだ病院で眠っているままだ。それを、なんとか知らせたくて、もしかしたら夢が変わったのかもしれない。少しでも、ヒントになるように。そして、女の子は死んでいないのだから、そもそも成仏する必要がない。それでも、女の子が消えるということはどういうことだろう。
電話をした後、家を出発したのが十一時半くらい。バスに乗って駅まで向かったのはいいが、なんと電車は人身事故で運休していた。
「ちょっと、どうして、どういうことよ」
美香ちゃんが声を荒げている。僕は、ここ何週間も考えている、「死」がまたここで顔を出したかと思っていた。
自分から死ぬ。その気持ちが僕にはさっぱりわからなかったし、わかった時にはきっともう手遅れなのかもしれないと思った。
「どうしよう」
美香ちゃんがおろおろしている。ここで、僕がとも兄のことを思い出したのだ。
「僕の叔父に頼んでみよう」
そういうと、僕は美香ちゃんの腕をつかんで、駅の近くにあるとも兄の家に向かった。
そして、事情説明もろくにせずに車を出してくれとせがんだ。とも兄は、最初こそ戸惑っていたが、とりあえず、一大事だということが伝わったのか、車を出してくれた。
僕がここまで話し終えると、とも兄は難しい顔で考え込んでいた。そして、小声で「すげぇな」とつぶやいた。クーラーが壊れて効かないので、鼻の頭に汗をかいている。
「お前らは、俺が中学ん時よりもよっぽど大人で、頭がいいな」
笑いながらいった。
「ゆう」
「なに?」
「話してくれて、ありがとう」
なんとなく、こそばゆい気がする。自分の話を信じてくれるはず。その思いが、とも兄に届いてくれたようだ。
嬉しい。
人に信じてもらえることは嬉しい。美香ちゃんも、僕に真実を話した時はこんな気持ちだったのだろうか。
心が軽くなるのだ。今まで背負っていた荷物を、俺も、もってやるよと声をかけられた時のように、嬉しい、温かい気持ちでいっぱいになる。
「で、どうするんだよ。このまま病院へ行って」
僕たちは今、高速に乗って、女の子が入院している病院まで向かおうとしている。ただ、病院名まではわからないので、カーナビを頼りに、事故現場から近い病院を当たるしかない。
「もしかしたらだけど、女の子の意識が戻せるかもしれない」
答えたのは僕だ。続けて美香ちゃんが。
「たまに、あるんです。眠っている人からそのまま霊がでてくること。でも、そういう人はいつも時間が来たら自然と身体に戻っていく」
でも、女の子の場合そうじゃない。身体に戻るどころか、消えかかっているのだ。
「だから、僕が女の子の霊を身体まで連れて行く」
今回の場合、僕らは最初から思い違いをしていた。それは、僕の夢の所為でもあるだろう。事故があった夢を見た、そして、僕の後ろにその女の子がいる。そういわれれば、誰だってその子が死んでしまったと思うだろう。
そして、その思い込みは、新聞を見ても変わらない。意識不明だったのが、こと切れたのだと思うのが普通だ。
身体に戻せば、意識が戻る、という確証はない。けど、やってみなければならない。きっと、女の子のお父さん、お母さんも今、すごく辛い思いをしているから。
これが、美香ちゃんと話した結果だった。
「あ、ここ!ここで高速降りて!」
「うぇ!ここか!」
車が急に速度を落として曲がる。美香ちゃんが後ろで横にこてんと倒れたのがミラーで見えた。
高速を降りて、しばらくすると事故現場に着いた。むわっとするような緑の匂いがする。田んぼは、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。そして、道路にはその夏の雰囲気に似合わない、生々しい血の色がまだ少し残っている。
「ここから一番近い病院はっと」
とも兄がぶつぶつ言いながらカーナビで検索をかける。
「あった、これだ」
距離はおよそ五キロほどだった。
「大したことないな、すぐ着くよ」
とも兄が言った。
田舎には不釣り合いなほど、その病院はでかくて綺麗だった。
車を駐車場に向かわせる。駐車場の入口には黄色い棒があって、その横に券をとる機械があった。
「金、とんのかよ」
とも兄がいいながらも券を受け取って、通せんぼうしていた棒が上がったのを確認して奥へ進んだ。そして、あまりうまくないバック駐車を決めて僕らは車から降りた。
病院の中も、外見に負けず劣らず綺麗だった。白を基調として、全体的にやさしい感じの印象を受けた。クーラーもちょうどいいくらいに効いていて暑すぎず、寒すぎずで快適だ。
受付で、いざ部屋を聞こうとして、名前もわからないことに気付いた。そこで、まごまごしている僕に変わって、とも兄がとっさに話しかけた。
「この前、事故で意識不明の状態で運ばれた子は、この病院にいますか?」
女性の看護師は、何かを確認するまでもなく、答えた。
「あぁ、その子なら、三〇二号室ですよ」
ここにいるのだ。
僕は、後ろのちょっと上を見る。そこに、見えないけれど、確かにいるはずの女の子が僕を不安そうに見つめているような気がした。
大丈夫だよ。
きっと、大丈夫だよ。なんとかなる。
心の中で、女の子に声をかけた。
三○二 岡西由美子
そうかかれた部屋で、僕たち三人は立ち止まる。ふいに、とも兄が言った。
「ここからは、お前たちだけでいった方がいいだろ」
大人がいると何かと気を付かうかもしれないしな。と言って、とも兄はどこかへ行った。
美香ちゃんと二人、扉の前に立つ。緊張で手が汗ばんでいる。
だいじょうぶなんでしょ?開けようよ。
美香ちゃんが言ったのか、由美子ちゃんが言ったのか、僕にはわからない。だけど、その時確かに、僕にはその言葉が聞こえた。
引き戸を思い切り開ける。ベッドの上には、チューブでつながった、か細い女の子が横になっていた。
チューブだけではない。頭には何個もよくわからないものがくっついていたし、ベッドの横には心拍を測る機械が置いてあった。
「行って」
美香ちゃんが宙を見つめて言った。
由美子ちゃん、美香ちゃんと一緒にベッドへ近づいていく。ベッドの横へ着いたとき、僕は祈るような気持だった。
「だいじょうぶ。きっと、なんとかなる」
僕は呟いた。美香ちゃんが僕を見る。そして。
「そう、だいじょうぶ。なんとかなるよ」
と言った。
ずいぶん待った気がする。
その瞬間が、三十秒なのか、五分なのか、わからない。ずっと祈るような気持ちで、目をつぶっていたから、最初に気付いた美香ちゃんだった。
美香ちゃんの方から、息をのむ音が聞こえたから、僕は目を開けようとした。
「だいじょうぶ。きっと、なんとかなる」
僕のでも、美香ちゃんのでもない、か細い声が、僕の耳に入ってきた。
『奇跡の生還!感動の再開!』
そんな新聞記事を、僕は朝ごはんを食べながら、ちらりと見た。いつもどうりの風景だ。お父さんが目の前で新聞を広げながらごはんを食べている。そして、それをお母さんが注意する。これが、我が家。
あの後は大変だった。僕が大変だったというよりは、看護師さんたちと由美子ちゃんが大変だったのだが。
由美子ちゃんが目を覚ました後、僕らはしばらく感慨にふけっていた。誰からともなく、解けた緊張が流れ出ているようだった。
「なん、とかなった、ね」
美香ちゃんが、疲れたような、達成感にあふれたような笑顔で言った。
しばらくの静けさの後、患者が目を覚ますと、なにか計器でわかるのか、どたばたと看護師さんが押し寄せてきた。
ここがわかりますかー?
ご自分の名前解りますかー?
なんて、由美子ちゃんが質問攻めにされている。もっとも、由美子ちゃん自体は、僕の後ろについて回っていたので何があって、ここがどこかもわかっているわけだ。そして、あらかた質問が終わったころに、こういった。
「お母さんとお父さんはどこの病室ですか?」
片足にギブスを付けて松葉づえのお父さんと、点滴をぶらさげたままのお母さんが由美子ちゃんの病室へやってきた。二人とも、声にならないようで、静かに、泣いていた。そして、由美子ちゃんをその手で優しく抱きしめていた。
その後、由美子ちゃんは検査をした。脳波に異常はないか、など、様々なことを調べていた。幸い、異常は見つからなかったので、あとは傷が治り、体力が元に戻ればすぐに退院できるとのことだった。
「お父さん、お母さん、ちょっとだけ、三人で話をさせて」
由美子ちゃんが、僕と美香ちゃんを見ながら言った。二人は、初めて僕らに気付いたようだった。
二人が部屋から出ると、病室は一気に広くなったように感じた。しばらく黙っていると、由美子ちゃんが口を開いた。
「まずは、ありがとう」
僕らを見つめながら言う。
「そして、ごめんなさい。私がゆう君に憑いたばかりに、すごく辛い思いさせちゃったみたい」
僕は俯く。
確かに、幾度も人が血に汚れる姿を見てきた。自分がいかに無力か思い知らされた。けれど。
「それは、たぶん大切なことを知るための代償なんだ」
よく、大切なものはなくしてから気づくという。僕の場合は、実際に無くしたわけではないけれど、それでも大切なことに気付くことができた。これは、とてもありがたいことだ。
「だから、こちらこそ、ありがとう」
由美子ちゃんは、顔をくしゃっとして泣き笑いの顔を作った。
「いってきます」
もはやおなじみになった、早朝登校を今日も実践する。夏も終わりに近づき、涼しい風が頬を撫でる。太陽が道を照らす。
時間は止められない。死からは逃れられない。そして、それは唐突に、今この瞬間にも襲ってくるかもしれない。
だから、どうした。
だからって、うじうじ考えていてもしょうがない。うじうじ考えて、大切な人との時間を失うよりも、しったこっちゃない、と開き直って、とことん今を楽しんだ方が得だ。
だいじょうぶ。
だいじょうぶ、きっと、なんとかなる。
呟いて、僕は朝の陽ざしの中を駆けていく。
主人公は、こどもたち