世間を知らない女医のハチャメチャ人生
生まれてから特別挫折も知らず、順調に高校を卒業しました。初めての挫折かもしれない浪人時代を意外にも楽しく過ごし、小室哲哉最盛期に医学部時代を経験。
平凡な学生生活の最後に、周囲の反対を押し切って学生結婚。医者同士でよくよく話し合ったつもりが、外科医の生活は過酷すぎて家庭は破滅。離婚しました。
それから、不倫、精神病、休職などを経て、今は治療を受けながら元気に医者をしています。
愛犬たちと一緒に生活し、恋愛探しをしながら遅い青春時代を満喫しています。
これから、どうなるのかは、私にもわかりません。
医学生になるまで
子供の時から優等生と言われていました。特に勉強をしなくても成績は良かったし、四歳からピアノを習わせてもらってそれなりにコンクールで入賞したりしていました。父親の仕事の関係で転校は多かったけど、小学校五年生まではなんの悩みもなく楽しく過ごしていました。
小学校高学年でいじめに遭いました。多分、転校してきた子供が勉強ができて先生にひいきされていて、可愛い子ならまだしも、見た目もぱっとしないちょっと不潔な感じの子供だったからだと思います。今まで音楽の授業でピアノ伴奏をしていた子に代わって、私が伴奏をすることになったり、県の作文コンクールで表彰されたり、そういうことの積み重ねがあったからだと思います。ただ、私の方にも原因はあったんです。髪の毛はぼさぼさでも平気。毎日髪の毛を洗う習慣はなかった。眼鏡は度が強くて牛乳瓶の底のような眼鏡。そして、何よりも真面目で、一生懸命に遊ばない友達の文句を母に言っていたそうです。私が唯一覚えているのは、ぶらんこ鬼という遊びで、鬼を決める時のこと。私はきちんとじゃんけんで鬼を決めたかった。でも、一緒に遊んでいた友達は、いわゆる「早いもの勝ち」で、一番遅かった人が鬼になればいいという適当な感じで遊ぼうとしたんです。結局、鬼にさせられそうになった私は泣いて家に帰った覚えがあります。
学校でのいじめを見かねた母は、公立の中学に行かせないように、受験用の塾に通わせてくれました。塾での勉強はとても楽しかった。知らないことがたくさんあって、勉強したら成績が上がって、名前が張り出されて。でも仲間はいじめどころか、みんな仲良くいいライバルで、励ましあって受験勉強をしました。結局、国立の中学には合格したけど、受験前に父の転勤が決まっていたらしく、私には合格発表の後で打ち明けられましたが、残念なことに、一緒に勉強して合格した仲間と同じ中学には通えませんでした。
そして中学時代も三つの中学に通い、成績がよくて親友がいない、学校に行って、家に帰って、ピアノを練習して、塾に行って・・・という平凡な毎日を送っていました。部活動は、軟式テニス部や、ブラスバンド部、合唱部などに入りましたが、転校するたびに変わっていたので、どれも極めることができませんでした。
そして高校時代。第一志望の高校に落ちてしまったので、滑り止めにしていた県立の高校に通うことになりました。完全にふてくされていた私は、軟式テニス部に入り、腐った毎日を送っていました。ところが、最初の定期テストでなんと順位が四百五十人中百番程度という成績だったんです。滑り止めだと思って馬鹿にしていた学校で、私がこんなに成績が悪いなんて驚きでした。逆に、頑張って順位を上げたい、という欲求が芽生え、部活を辞めて勉強に励むようになりました。
進路を決めるにあたって、私にはどうしても忘れられない本がありました。「さとこの日記」という胆道閉鎖症の少女の短い一生を書いた本です。子供の頃から意味はわからなくても「センテンセイタンドウヘイサショウ」という言葉は覚えていましたし、そういう子供を助けたいという思いはずっと持っていたんです。そして、医学部を受験しました。
一浪はしたけれど、無事に医学部に合格し、希望に満ちた大学生活を送る予定でした。
医学生時代
小室サウンドの全盛期に、私は医学部生になりました。高校時代からカラオケが好きだった私は、狂ったようにカラオケに通いました。浪人時代から付き合っていた彼はバンドマンで、「バンドはメンバーの結びつきが強いから、男子と仲良くなるサークルは賛成できない。」と言われ、誘われていた軽音楽部に入ることを素直に辞めました。
男女六人くらいのグループで夜中遊び、時には旅行にも行きました。その中にその後の旦那になる彼がいたんです。私は大学一年からずっとその彼と付き合っていました。束縛したがる人だったので、友達とカラオケに行くのも許可を得なくてはなりません。機嫌が悪い時は従順に約束を断って、なかなか友達を作る環境にありませんでした。でも、その時には不満を感じなかったんです。
父が亭主関白で、なんでも母が我慢している家庭に育ったからでしょうか。多少の暴力があったのに、その彼と学生結婚しました。研修医になったらきっと一緒に過ごす時間がないね、といって子供ができた訳でもないのに学生結婚をしました。そして、私は外科に入局したいということを相談し、家事は半分ずつ分担してやろう、その代わり学生時代の最後の一年は家事をやってね、ご飯も作ってね。そういう約束での結婚でした。
卒業試験、国家試験の勉強の時には本当に一人じゃなくてよかったと思いました。もちろん、「この人に負けたくない。」というライバル心があっての上ですが、諦めて「もう寝ようかな」と思った時に隣の部屋でまだ頑張っている気配を感じれば、寝るのをやめて勉強を続けたりました。時には励ましあったり、時には教授の悪口を言ったり、この時は確実に一緒にいてよかったと思っています。
そして、無事に二人揃って卒業することができました。
外科医時代
念願の外科医になれて、どんなに過酷な研修医時代も嬉しくて楽しくて充実していて、満足でした。偶然にも夢が叶い、胆道閉鎖症の女の子の肝移植の受け持ちをさせてもらって、幸運にも経過も良好で順調に退院されました。忙しく仕事をしていることが、とても誇りに感じられました。今から思えば本当に雑用ばかりで、重要なことは全部先輩にやってもらっていたのですが、それでも何となくそんな自分が好きでした。
しかし、医局というのはほぼ毎年移動があります。よほど強く病院から引き留めてもらわない限り、いろいろな病院を数年単位で回ることになります。例にもれず、私も二年目には関連病院の外科に勤務することになりました。
二年目に勤めていた病院はとても働きやすく、上司も看護師さんたちもとてもいい人で、いろいろ勉強させていただきました。しかも、手術室の看護師さんや検査技師さんたちとも仲良くなり、カラオケに行ったり、ゴルフに行ったり、やっと友達を作る余裕が出てきたころです。
三年目を迎え、県外のとある小児外科に勤めることになりました。旦那と離れ、実家に転がり込んで病院に通いました。何も知らない新しい分野で本当にちゃんとやっていけるだろうか、と不安でいっぱいでした。しかも一つの大学の関連ではなく、いくつかの大学から集まったスタッフで、やり方も考え方もみなバラバラ。看護師さんたちはドクターに対する不満を「先生には言いやすいわ?」と垂れ流し。私はそういう裏事情を耳に入れつつも、そんな上司から教わるという非常にストレスフルな毎日でした。教授がとてもいい人だったので救われましたが、その一年で体重も減りましたし、気持ちもとがってしまいました。嫌な人間になっていたかもしれません。
四年目、旦那の元に戻りましたが、お互いの擦れ違いや私の気持ちの余裕のなさ、相変わらずの暴力や自分勝手さに我慢できず、別居することになりました。結局一年間別居した後、五年目に離婚しました。子供はいませんでした。できなかったのではなく、作る気にもならなかったのです。
医者としての五年目は、大きな節目になる年でした。大学院へ入学し、実験や研究という不慣れで不得意な部分を独力でしなければならず、また生活のために週に三日、多い時は四日当直という日々でした。そんな中離婚し、不倫も経験しました。
不倫って、怖いですね。最初は、都合のいい時だけ一緒にいられれば満足、そう思っていても、やっぱりどんどん欲が出てきてしまって。奥さんの存在なんて何の障害にもならないのですが、子供の話をして父親の顔をする時だけは嫉妬心と憎しみが沸いてきてしまいます。そして、「どうしても離婚をすることはできない」と言われて私は壊れてしまったんです。睡眠剤を大量に飲んでみたり、軽くリストカットをしてみたり。その程度ならまだよかったのですが、徐々に眠れなくなり、食べられなくなり、体重も減って、実験をまともに組み立てる思考能力がなくなってきました。
病気、休職、復職
子供の頃から、この病気の素質があったのでしょう。躁うつ病になりました。
彼の存在
もう彼なんて絶対にできないと思っていた私に、なんと彼ができました。
新しい人生へ
今の人生は、それなりに満足しています。でも、もっとやりたいことはあるし、理想もまだまだ遠いところにあります。手に入れたいものもまだ手に入れられていません。
世間を知らない女医のハチャメチャ人生