『ミロ展』Ⅱ(東京都美術館)
内容を一部、修正しました(2025年3月7日現在)。
東京都美術館で大規模な回顧展(『ミロ展』)が開催されているジョアン・ミロ(敬称略)の絵画は平面的で、かつ記号的だからこそ独特の鑑賞体験を味わえる。それは「読む」作業とも言い換えられるもので、例えば線描で描かれている「これ」は何なのか、何のために描いたのか。「これ」らが集まる全体は何を表現しているのか。画面に塗られたり又は塗られなかったりしている色彩表現にはどんな意味合いが込められていて、線描とはどんな関係にあるのか。付けられたタイトルとの整合性はどうだろう。覚えた違和感に従って見直すとすれば、どこから見直せばいいのか。その手がかりはどこに?といった具合に一枚の絵の細部と全体を行ったり来たりする過程が作り手である画家の意図を探り当てるようでいて、その実、鑑賞する自分自身に迫るような感覚をも覚えさせる。一冊の小説を読む時、人は作者によって書かれた文字の一般的な意味と文脈に基づく表現としての飛躍が生む落差をめぐり作者と「物語」を共作する。それが読書の面白さに直結すると筆者は考えているが、ミロの絵画表現に覚える感覚がまさにそれなのだ。
あるいは美術史の元で振り返るその絵画表現を、バレエに対するコンテンポラリーダンスと位置付けて紹介することもできるだろう。
すなわち伝統に裏打ちされた「型」を共通言語として舞台上の物語を観客に伝えるバレエに対して、コンテンポラリーダンスはかかる共通言語の開発を舞台上でリアルタイムに行う。そのためにかかるダンス表現はどうしたって分かるような、分からないような混沌をその場に生まざるを得ないのだが、自身の身体から生み出されるものを微塵も疑わないダンサーの情熱によって舞台の破綻は必ず回避され、その熱量に中った観客が果たす創造への間接的な関与により公演は見事に成立する。何かを見た、何かを知ったという各々の興奮で保たれるコンテンポラリーダンスの命脈は、だから観客の見る目を変容させ、そのうちに伝統的なバレエの根幹を揺さぶり、その硬い地盤を動かすに至る。
ジョアン・ミロも、その活動の歴史を振り返れば深い親交を持っていたパブロ・ピカソ(敬称略)に代表されるキュビズムを修め、色彩表現の極北とも評し得るフォービズムをよく学んだりと様々な表現技法を究めた上であの平面的かつ記号的な絵画へと至ったことが分かる。その到達度は上記した『ミロ展』に展示されている自画像や風景画を鑑賞すれば一目瞭然で、その後に出会うシュルレアリスム運動の影響から絵画=詩と題した作品を次々と制作し、絵画を成立させる新たな言語ないし要素の造形に画家が挑み続けた。ゆえにただの落書きにしか見えない形象も、自由奔放に塗られたような色合いも、画家が必死に繰り返したであろう否定と試みの上に残された確信の現れとなって私たちの目に写るのは必定。その恩恵として画面に保たれる開放感が鑑賞者に自由を、楽しさを与えてくれる。まさにモダン。最前線の光。
かかる挑戦が結実した様を存分に堪能できる作品としてお勧めしたい星座シリーズは、画家が第二次世界大戦の前後でヨーロッパを覆っていた重苦しい雰囲気から逃れたいという一心で描いた作品群であるところ、その画面に描かれるモチーフは確かに邪悪で殺伐としたものばかり。画家の内面的衝動がはっきりと現れていた。けれど同じ画面に塗られる色面に目を移すと、今度はその思いの丈が切実な祈りに昇華されていて面食らう。シリーズのある一枚においてはそれが神話的な領域にも及んでいるように見えたから、その背反する表現ぶりをして真に「詩」的だと評したい衝動に駆られてしまった。画面における記号群の密度も絶妙で、肝心となる対象指示を①どの情報を、②どれだけ用いて行うかというポイントで完璧に仕上げている。その完成度の高さに、詩が大好きな一人として心から感動したのだった。
本展では90歳を迎えてもなお衰えない創作意欲に従って手を動かし続けた表現者の幅広い作品、例えば彫刻や陶芸といった立体作品も数多く展示されており、記号と面を活かした作風が辿った変遷を興味深く知ることができる。一口にスタイルといってもその確立に至るまでの衝動を踏まえないと十全な評価を下せない。いわゆるヘタウマな画家として簡単に括れそうなジョアン・ミロという画家の具体的な顔つきを、現代の私たちが見逃すのはあまりにも勿体無い。その有難い機会となる『ミロ展』の会期は7月6日まで、東京都美術館にて現在開催中である。興味がある方は是非、会場まで足を運んで欲しい。
『ミロ展』Ⅱ(東京都美術館)