晩春の勿忘草
口付けには鎮痛の効果があるらしい。
それを知った加州清光は、サナトリウムの個室で眠る審神者の唇に自らの唇を押し当てた。ふるりと審神者の白いまつ毛が揺れ、瞳がゆるりと加州清光を捉える。
「加州さん、来てくれたのね」
「うん。……痛くない? 体」
「ふふ、痛くないわ。加州さん、私ね、体はもう……どこもいたくないのよ」
「……そっか」
こんなもので痛みが和らぐのなら、いくらでもするのに。そう加州清光は頭の隅で思いながら、再び審神者の頬を撫でる。審神者は愛おしそうにすりと彼の手に頬を擦り付けると、目を閉じる。そしてまた、ふたりの影が重なる。何度も、何度も、唇と唇が触れ合った。
「……、……苦しくない?」
「ええ、嬉しいの。ねえ加州さん、私、死ぬのが怖くて加州さんに泣いて当たり散らしたときがあったでしょう。あの時は、ごめんなさいね」
「そんなの、いいのに。誰だって死ぬのは怖いでしょ。……今は? 怖い?」
その問いかけに、審神者はふるふると首を横に振った。
ああ、このひとは、もうすぐいってしまう。怖がっているのは、自分自身じゃないか。加州清光は心の中で自嘲気味に笑うと、それを表情に出さないように審神者の白い髪を撫でた。かれは、それにも目を細める。目を閉じるのは、正直やめてほしかった。そのまま開かなかったらどうしようと、加州清光は思ってしまうからだ。
「ね、加州さん。手……握っていて」
「うん」
骨と皮だけになったかれのかさかさの手を、彼は手袋を取って握る。繋ぎ合う手と手は、どちらもまだ温かかった。
「もう一度、キスして」
「いいよ」
何度目かの、口付け。触れ合う唇に、互いにくすくすと笑った。
「ねえ、加州さん」
「なあに」
審神者の目から、つうと涙が一粒溢れる。それを加州清光は唇で受け止めた。ふふっと審神者がくすぐったげに微笑む。
「私を、忘れないで」
「……ある、じ」
「やくそく、してくれる……?」
このひとは、もうすぐ、いってしまう。加州清光は嫌だ嫌だと駄々をこねたい気持ちをそっとおさえようとしたが、おさえきれなかった。
「そんな、遺言みたいなこと言わないで」
お願いだから。そう縋る加州清光に、審神者は困ったように笑った。
「加州さん、私ね、あなたを愛しているわ。世界で一番大好きなの……」
「……俺も、愛してるよ」
「……嬉しいわ。だからね、何があっても、これから誰に仕えることがあっても、私があなたのそばにいたことを……覚えていてほしいのよ」
それが、かれの望みなら。加州清光は叶えるしかなかった。愛しい愛しい人。時にわがままを言ったこともあった。ケーキが食べたいとか、眠るまでそばにいてとか。今となっては、全てが優しい思い出。
「私を忘れないで。加州さん」
「約束する。俺はあんたを、忘れない」
「……ありがとう……私ね、鳥になって加州さんの元へ飛んでいくわ。追い払っちゃ、いやよ」
「……追い払わないよ。そっか、鳥になるんだ。あんたはこんな部屋から離れて、どこまでも自由だね」
「ええ、だから……また会いましょうね」
繋ぎあっていた手の、片方の力が抜けていく。冷たくなっていく。本当に、これがさいごなのだ。加州清光はゆっくりと閉じていく審神者のまぶたを撫でた。
「愛してるよ、主。おやすみ」
「……」
こくりと、審神者は頷く。そして、それきりだった。冷たくなった手を、加州清光はずっとずっと、握っていた。
俺を忘れないで。とは言わなかった。だってかれは忘れないのだから、鳥になって、何度でも、何度でも、会いに来てくれるのだから。きっと、鳥になった彼は、白い、星の色をした羽を持っているのだろう。
「……愛するって、痛いな」
けれどあいしていたいな。加州清光はひとりきりの声しかしない部屋で、そうひとりごとを言うのであった。
勿忘草が、揺れた。
晩春の勿忘草