あっちこっち
「ひゅっ」
審神者は思わず音を立てて息を呑んでしまった。さーっと血の気が引いていくのを彼女自身感じていた。そう、彼女は大失態を犯してしまった。
大寝坊である。
昨晩、審神者は全くと言っても良いほど眠れなかった。それもそのはず、寝て起きたら、一日中外出をする予定だったのだ。それも、男性と。とはいっても相手は刀剣男士であるのだが。相手の名は鯰尾藤四郎、審神者が密かに想いを寄せている相手だ。結った綺麗な長い黒髪に、華麗な刀さばき、そしてぱっと明るい笑顔。審神者はいつのまにか、彼のことが気になって気になって仕方がなくなっていたのだ。彼は何が好きだろうか、甘いものは好きだろうか、綺麗な着物は好きだろうか。そんなことを近侍の乱藤四郎に話していたら、一緒に出かけてみればいいじゃないと背中を押され、後ろに付き添ってもらってなんとか外出の約束を先日取り付けたのだった。
そして、今日がその日である。そして、大失態である。大寝坊である。寝起きの眠気なんてものはもうとっくに吹き飛んでいた。慌てて寝間着を脱ぎ、枕元に用意していたよそ行きの服に着替える。帯に添えた手が震えて上手く結べない。洋装にしておけばよかった、あの花柄のワンピースでも良かったじゃないかと、審神者は昨日の自分に怒りを覚えたのだが、この着物が最近買った中で一番のお気に入りなのであった。せっかくの日なのだから、妥協はしたくなかったのだ。なんとか帯を結び、次は髪に取り掛かる。こういう時に限って寝癖がついていた。
「もう!」
自分への苛立ちが声に出てしまう。髪を梳かし、梳かし、梳かし、纏める。編み込んだ髪をリボンで止め、マガレイトを作る。いつもの髪型ではなく、いつものリボンではなく、深い紫のリボン。彼の瞳の色のリボン。結んだ後に、あざとくはないかしらと審神者は少々後悔をした。こういうことはこっそりとバレないようにするものではないだろうか、意識のしすぎで、はしたないような気がしてしまったが、もう手はすっかりリボンを結び終わってしまって、解いてしまったらまた時間がかかると諦めた。
そもそも、彼は待っていてくれているだろうか。忘れてしまっているのではないか。こんなにドキドキしているのは自分だけなのではないか。焦りが思考を良くない方向へ引きずりこむ。もし彼が何も期待していないのなら、こんなに焦る必要はない。審神者ははあとため息をついてしまった。
……そして、ぶんぶんと首を振った。彼は、あの時了承してくれたのだから、こっちが諦めるなんて失礼だ。せめて、この服だけは見てもらおう。審神者はそう決意し、部屋の襖を開けたところで気づいてしまった。
「顔、洗ってないわ!」
「あるじさん? おはよう! 今日は遅いね」
通りかかった乱藤四郎がびっくりして目を見開く。乱藤四郎は審神者の装いを見て、わあ! と声を上げた。
「あるじさん、すっごくおしゃれ!」
「おはよう乱くん! え、ええ、だって鯰尾くんとお出かけだもの。でも私、さっき起きたの、ああどうしましょう!」
「え!? 今日だっけ!? ……今日だった! ごめん! 起こせば良かったね」
「いいの、私が夜更かししてしまったせいなの。鯰尾くんはどこ? 謝らないと……ああでも顔が、お化粧もまだよ……」
「落ち着いてあるじさん、深呼吸深呼吸」
「……すー、はー」
「よしよし」
乱藤四郎に背中をさすられ、審神者はようやく一息をついた。乱藤四郎は審神者に微笑む。
「鯰尾兄さん、玄関にいたよ」
「マア! やっぱり待たせてしまっているわ。怒らせちゃったかしら……」
「大丈夫! あのねあるじさん、鯰尾兄さんもおしゃれしてた! 心配しなくていいよ。落ち着いて、完璧にして、会いに行ってあげて」
「うん、うん……わかったわ、乱くん。とりあえず顔を洗ってくるわ」
「服、濡らさないようにね」
「ええ。ありがとう!」
ぱたぱたと洗面所へ行く審神者を見て、乱藤四郎は笑顔が抑えられなくなった。二人はどんなデートをするのだろう。審神者は乱藤四郎に、どこの喫茶店に行くか、どこの公園に行くか、どの店で買い物をするか、事細かに計画を話していた。完璧な作戦よと、その目はキラキラしていて、頬は薄紅色で、とても楽しげだったのだ。
「デート作戦、成功するといいね。あるじさん」
乱藤四郎はスキップで廊下を走っていった。デート、なんて審神者に言ったら「まだお付き合いしていないわ!」と顔を真っ赤にすると思うから、言わなかった言葉だった。
「鯰尾くん!」
「あ。主!」
審神者が『完璧』にして玄関に行けば、鯰尾藤四郎がそこにいた。いつもの戦装束でも、内番着でもない、墨色の着物に赤と黒の帯。本当におしゃれをしている。と審神者は口の中にキャラメル味が広がるのを感じた。キャラメルは、審神者の大好きな味だ。
「待たせてごめんなさい。寝坊しちゃったの」
「あはは、だと思いました。主が約束を破るはずないから、きっと何かあったんだろうって」
「鯰尾くんも、約束守ってくれたのね……」
「ええ! 楽しみでしたから」
「た、楽しみ」
「だって主、いつも外出は乱と一緒なんですから。俺だって一緒に行ってみたいじゃない?」
「え、あ、そ、そうね。そうよね」
そっち……と思いながらも、審神者は靴を履いた。立ち上がると、鯰尾藤四郎がじっと顔を見つめていることに気づいた。
「鯰尾くん?」
「ちょっと動かないでくださいね……」
「……あ」
鯰尾藤四郎が審神者の頬に触れる。触れられたところが熱くなるのを審神者は感じていた。思わず目をきゅっと瞑ってしまう。だがその手はすぐに離される。
「ほっぺにまつ毛、ついてましたよ」
「……」
「どうかしました?」
「……鯰尾くんったら!」
「えっ! 本当にどうかしました?」
「どうもしません! 行きましょう!」
「は、はーい!」
審神者は玄関の扉を開ける。青い空と朝の光が二人を笑うように見つめていた。
「……朝ごはん、食べてなかったわ」
「じゃあ外で食べましょう」
「ええ。……今から完璧、まだ間に合うかしら」
「ん? 主?」
「なんでもないの」
「はーい」
あっちこっち