大丈夫な子
中の布団を全て出して、押入れの中で縮こまっている審神者を最初に見つけたのは五虎退の虎であった。いつもなら見つけた瞬間抱きつきに行くのに、審神者はひぐと喉を鳴らし、ごぼりと胃液を口から溢れさせた。
虎は慌てて五虎退を呼び、駆けつけた五虎退は審神者に声をかける。
「……あるじさま! 今日のお薬は飲みましたか?」
「……っく、うぐぅう、ううう。かしゅう、加州……」
「加州さん、もうすぐ遠征から帰ってきますからね。もう一度聞きますね……お薬、飲みました?」
「うぅ、いや、いや……おくすり、いや……」
この審神者は大量の薬を処方され、毎日飲んでいた。からだの薬、こころの薬、霊力を制御するための特殊な薬。幼い小さな体には多すぎるくらいの量の薬を飲んで、はじめて日常生活を送ることができる。
おくすり、いや。その言葉を聞いた五虎退は部屋の隅の机の引き出しを開ける。毎日の薬の入った紙袋には何も入っていない。ならばとゴミ箱を漁れば、ティッシュに包まれた錠剤に散剤。捨てられていた薬たちを見て、五虎退はああと息を漏らす。審神者は薬を飲んでいなかったのだ、それも、数日、あるいは数週間ほど。幸いある程度即効性のある頓服薬の袋には手が付けられていなかった。五虎退は軽い足音を立てて、厨に水を汲みに行く。水の入ったコップを持っていけば、押入れから審神者の咳き込む声がした。そして、びちゃびちゃと水音。再び嘔吐したのだ。
「あるじさま、一錠だけお薬飲みましょうね」
「いや……」
「お薬、いやですか」
「の、の……のむ、と、きもちわるく、なるの」
「飲まないともっと気持ち悪くなっちゃいますよ……」
「いや、いや」
「じゃあ、お水だけ飲みませんか?」
「……う……こわい、こわい」
「怖いものなんてここにはありませんよ、ここはあるじさまの場所です。だいじょうぶ、だいじょうぶです」
「ご、ごこ、五虎退……」
「はい、あるじさまの、五虎退ですよ」
押入れで縮こまる審神者に近づこうと、五虎退も押入れの中に入る。内番着の膝に審神者の胃液が付こうとも構わず、コップに入った水をこぼさずに審神者の元に這い寄る。水を差し出せば、審神者は両手で受け取り、ゆっくりゆっくりと飲んでいった。こくこくと喉が動いていく。押入れの中は酸っぱい臭いが充満していた。せめて明るいところに出してあげようと、五虎退は審神者の手を握る。すると審神者はまたいやいやと首を横に振った。
「お、おそと、は、こわい、の」
「怖いことなんてありませんよ」
「こわい、の!」
「えと……」
珍しく彼女にしては大きな声を出し、拒絶の意思を示す審神者に、五虎退は困って首を傾げた。この審神者が怖がっているのは、きっと周囲全てに対してだ。おそらく、薬を飲まなかったことにより幻覚が見えているのだろう。審神者にしか見えていない幻覚を斬る術は刀剣男士には無い。できることは、寄り添うことだ。人間のように。
「怖いことなんてありませんよ、本当です」
「うう……」
「僕が斬ってきました! 加州さんもじきに帰ってきます。また出てきたら、僕たちふたりで守ります」
「……ほんと……?」
「はいっ。僕たちはあるじさまの味方ですよ」
「みかた……」
「はい!」
コップを握って蹲っていた審神者が、押入れの薄暗がりの中正座する五虎退を見上げる。どんよりとした光の無い赤い瞳が五虎退を映した。五虎退は安心させるようににこりと笑う。手を差し出せば、審神者は震える手で五虎退の手を握った。その時、ぴっと小さく音が鳴り、本丸を覆う結界がさざなみのように優しく震えた。転送ゲートが動いたのだ。
「あ……」
「帰ってきたみたいですね。虎くん、加州さん呼んできてくれますか?」
五虎退が心配そうに押入れを覗き込む大きな虎にそう言えば、虎は了承の意を見せるようにまばたきをして部屋を出て行った。その間に、五虎退はゆっくりと審神者の手を引く。押入れという暗闇から出ると、昼間の柔らかな日差しが審神者の目を優しく覆った。きゅ、と怯えたように目を閉じた審神者を抱きしめて背中をさすれば、とんとんとんという急ぎ足の音が聞こえた。虎と共に部屋に入ってきたのは審神者のはじまりの一振り、加州清光。彼は焦ったように駆け寄り、五虎退ごと審神者を抱きしめた。
「……おかえりなさい、加州さん」
「ただいま……。主、帰ってきたよ、俺のことわかる?」
「……しゅう、加州……」
「そう、加州清光。……五虎退、主、薬飲まなかったの? それとも飲みすぎた?」
「飲んでなかったみたいです。飲んだふりをしてゴミ箱に捨ててました。錯乱して、押入れで吐いちゃったみたいで」
「……ちゃんと見てないとダメだな……」
「うん、これからお薬は僕たちが管理しましょう」
「ん、そうだね」
しばらくさんにんで抱き合っていれば、審神者はガタガタと震え出す。こわい、が来たかと五虎退は彼女の背中を撫で、加州清光は頭を撫でた。
「ぅ、あ……」
「大丈夫、大丈夫です。だいじょうぶ」
「主、厨で甘いの食べようか。そしたらすぐ効く方の薬飲もう? できるよね? 主はとっても良い子だから」
こわいの、やだよね? 加州清光がそう言えば審神者はふたりの腕の中でこくりと頷いた。五虎退はすっと審神者から腕を離し、加州清光は審神者を抱き上げる。薬さえきちんと飲んでいれば、この審神者は審神者として優秀ではあるのだ。だから、これからも審神者でいてもらわなければ困る。ずっと一緒にいてもらわないと困る。そう思いながら、赤子をあやすように、加州清光はしがみつく審神者の体をぽんぽんと撫でた。五虎退は頓服薬を手に取る。投げ捨てられた布団も、胃液で汚れた押入れも、後で片付ければ良い。ふたりは審神者にだいじょうぶ、だいじょうぶと言いながら部屋を出ていった。
厨で冷蔵庫からプリンを出すと、椅子に座らされた審神者はあーと口を開けた。甘えるような縋るようなその仕草に加州清光と五虎退は笑うと、優しくその口にプリンを乗せたスプーンを入れた。その後は審神者はすっかり安心したのか、頓服薬も大人しく飲み、加州清光の腕の中ですうすうと寝息を立て始めた。
「守ってあげないとなあ」
「あるじさまには、ずっと僕たちのあるじさまでいてほしいですもんね」
「うん、ずっと、ずっと」
審神者のようやく血の気の戻ってきた頬を撫で、ふたりはこの幼子の運命を、憂いも呪いもせずにただ受け入れ、運命に縛り付けるのであった。
大丈夫な子