凍てつく虚空  

凍てつく虚空  

あとは弱小劇団集団『トワイライト』。その地方公園があった帰り道、一行は猛吹雪のため道に迷ってしまう。途中見つけた山荘に逃げ込んだメンバーはここが過去日本を代表するミステリ作家『黒川影夫』の別荘だったことを知る。救助を今や遅しと待つメンバーだったが、なんとその夜凄惨な連続殺人が起こってしまう。最初に事件は密室殺人に、次の事件は不可能毒殺事件、そして絶対完全アリバイ殺人に、謎のダイイイングメッセージ。主人公「鷹梨愛」とその友人「鷹見秋志郎」は事件の謎を解くことができるのだろうか?

人物紹介

登場人物

劇団『トワイライト』のメンバー
・猪井田姫世
・真壁冬香
・知尻マリア
・浦澤瞳
・不二見未里
・田子藍那
・霧綾美
・新馬理緒
・貴中怜
・鶴井舞
・鷹梨愛
・白岡光一・・・劇団のマネージャー


鷹見秋志郎・・・都内の大学に通う大学生


黒川影夫・・・日本を代表するミステリ作家

プロローグ

太陽は真っ赤だ。
その太陽が、山の向こうに消えていこうとしている。
でも不思議だ。
私にはこの色がどうも好きになれない。
血に染まったような、滴るような赤が。
物理学の世界では光の拡散って言葉で片付けられるのかもしれないけど、私にとってはそれ以上の意味がある。

気がつけば息が白い。
そう言えば来週にも寒冷前線が到着してここ一帯は大雪に見舞われるらしい。
ご苦労なことだ。


時間とともに太陽は山に姿を隠して行き、
時間とともに辺りの光量は減少していく。



あぁ
あのときと一緒だ。
そう、あの時と。


――――おじいちゃん?



頭をよぎる。



――――どうしたの、おじいちゃん?



あの日の記憶。



――――ねぇ、ねぇってば!



否応なしに



――――どうしたのおじいちゃん!?


どんなに忘れようとしても


――――おじいちゃん!


決して消えることはない



あれから一度たりとも、これが記憶の脳の外部に逃げ出すことはなかった。
寝ている時も食べている時も遊んでいる時も
いつもいつもそうだ。

忘れることはなかったし、忘れようと思ったこともない。
別に私は構わない。
これは贖罪だ。
自分のしたことは解ってるし、その大きさも解っている。
そして私がこれからすることも。


さてと。
すべての準備は終わった。
あとはここで計画的に事を進めるだけ。


もう一度、夕日に視線を送る。
陽はとうに異国の大地を照らしているころだろう。
私自身も輪郭が、ぼうっと浮き上がるだけだ。


さぁ始めよう。

私の一世一代晴れ舞台の開演ベルが聞こえるころだ。

第一章

第一章  



*  *  *



「今、僕らどこらへんにいるの?」

ハンドルを握っていた中年男性の声だった。彼の名前を『白岡光一(しらおか こういち)』と言った。
疲れているのか、ひどくか細い声だった。
それに応えたのは助手席に座っている女性だった。
長く漆を流したような黒髪を靡かせながら、運転席の男性の方を向く。

「はい? どうして私に聞くんですか?」

「だって君が地図を見てるだろ」

「解りませんよ。現在地なんて一時間以上前に見失いましたよ。白岡さんこそ居場所が解らないんですか?」

「いや、俺はてっきり猪井田君が地図を持ってるから・・・」

男性が猪井田と言った女性は『猪井田姫世(いいだ ひめよ)』と言い、彼女は大きくため息をつくと再び無駄に大きな地図に視線を落とした。
白岡も仕方なく正面のフロントガラスを直視する。
忙しなくワイパーが右へ左へと動き、絶えず白い塵を振り払っている。
何とかそれで視界を保ってはいるものの、たかが数mの視界、殆んど焼け石に水だった。


季節は真冬。
年を越して、世間であけましておめでとうございますの台詞をあまり聞かなくなるころだ。
そして場所は信州の山奥。
日本でも取り分け豪雪地帯として知られている場所で、しかも気象庁によると今年は気団の影響か何かで積雪量が例年の倍と来たものだ。
時分は夜。
少なくとも太陽が沈んでから四分の一日は経過していた。
これはそんな山道を駆ける一台のロケバス内での会話だった。


名もなき山道であり、当然の如く街灯はない。
光源となりえるものはヘッドライトのみ。
間断なく降りしきる雪しか目に入ってこないので、正しく「白い闇」と言う言葉がぴったりだった。


このロケバスの中には全部で12人の人間が乗っている。
今紹介した「白岡光一」、「猪井田姫世」を除けば残り10人が居る訳だ。


「ちょっと~~白岡さん、また道に迷ったの!?」

先ほどの会話に反応したのは、助手席のすぐ後ろの2人組の一人だった。
その座席に座っていたのは『浦澤瞳(うらさわ ひとみ)』と『不二見未里(ふじみ みさと)』の2人だった。そのうち今の辛辣な言葉を発した主は浦澤瞳のほうだった。
ショートカットを信条として、女性にも関わらず比較的ボーイッシュな雰囲気を醸し出しているのが彼女だった。
浦澤は相手の反応を待たない。

「ねぇ、私たちいつになったら東京に帰れるの?」

それに対して制止の声をかけたのは、すぐ隣に座っていた不二見未里だった。

「やめなよ、瞳。白岡さんだってわざとじゃないんだ」

シャープで凛々しい声色だった。
声色同様その容姿も鋭く、男性を思わせるものだった。しかし浦澤とは違い芯の強い寡黙な人間を思わせた。
この2人は共に25歳で同年齢と言うこともあり仲がよく、いつも2人で一緒にいた。

ロケバスの後方座席。
後ろから二列目の席を陣取っているのは『貴中怜(あてなか れい)』と『鶴井舞(つるい まい)』の2人だった。
周りの喧騒にはわれ関せずと言った感じで、貴中はヘッドフォンステレオを装着しており、絶えず風景に目をくれていた。
リズムに合わせて顔を微かに震わせているのを見ると、わざとこの俗世間から離脱しようとしているみたいだった。
一方の鶴井は鞄から単行本を取り出し、読みふけっていた。
鶴井も貴中同様、自分自身の方法で内側の世界に入り込むタイプなのかもしれない。
この2人も貴中18歳・鶴井19歳どほぼ同年代である。


貴中・鶴井の前の席に座っているのは『田子藍那(たご あいな)』と『霧綾美(きり あやみ)』だった。
この2人は言わば親友すら生ぬるい、『真友』とでも言うべきだろうか、とにかく瓜二つな二人組であった。
小柄ながらエネルギッシュ、無尽蔵なスタミナとただただ喧しい声量を兼ね備えた、良くも悪くもムードメーカーの2人だった。
年齢も同じで、今年で20歳。貴中や鶴井達よりも1つ年上なのであるにもかかわらず、並べたらまず間違いなく100人中100人が幼いと答えるであろう2人だった。
よくよくみると必要最低限のメイクと装飾品で済ませている。田子は目元のアイライン、霧は耳の薄い青のピアスがそれぞれ印象的だった。

「やばいよ綾美、このままだったら食料なくなっちゃうよ!」

「それ超やば~~~い。そうしたら藍那、今のうちにお菓子蓄えておかなくちゃ!」

「「だよね~~~!」」


誠にうるさかった。
それに怒涛の波状攻撃をかぶせた人間もいた。

「うっさ―――い! この状況できゃーきゃー騒ぐな2人とも!!」

更にその前方の席に座る『知尻マリア(ともじり まりあ)』だった。
彼女は言わば田子・霧と師弟関係にあり、今の会話から解るとおり知尻が2人の世話係と言うポジションだった。
こちらもやかましコンビに負けず劣らず元気なのだが、2人と違うのは自制心がきくことである。
場の空気を読み、オンオフを巧みに切り替えることができる人物であった。

「ったく、この2人はいつになったら落ち着いてくれんのかな」

「良いじゃない。こう言うときに必要なのは、2人のような底抜けな明るさだよ」

思わず愚痴を零した知尻をさち剃たのは、知尻の隣に座る『真壁冬香(まかべ ふゆか)』だった。
真壁と知尻は年齢こそ1つ違うものの、所謂幼馴染であり高校まで同じなっだのだ。、大学こそ別々の学校に進学したが小学校のころからの付き合いだった。
元気溌剌な知尻に対し真壁はと言うと、その周りだけ時間がゆっくり進んでいるのではないか、と思えるほどのマイペースっぷりだった。
年齢こそ28歳だと言うのに、その独特の雰囲気は幼児を思い浮かべる。
人懐っこく、疑うことを知らないようなそんな向日葵のような眩しさをもっていた。


そして最後尾の席にいたのは『鷹梨愛(たかなし あい)』と 『新馬理緒(にいま りお)』だった。
本来バスの最後尾の席は一列席であり、その分広い席でもある。
通常は年功序列のトップの人間が座ることが許される玉座ともいえるこの席に座っているのが、齢24の2人だった。
と言うのも理由がある。
この内、鷹梨愛が体調不良を訴えたということもあり、横になれる席と言うことで最後尾の席で横にっているということなのだ。
またその付き添いと言うことで、新馬が一緒に座っているということなのだ。



さてここで神の視点から詳細を加えよう。
この12人の一行は『トワイライツ』と命名された劇団員なのだ。
劇団員と言っても、全構成員で今いる12人と少数精鋭な演劇集団なのだった。

ふむ。
少々表現に誤りがあったかな。
少数精鋭なのではなく、人数の集まらなかった寄せ集め集団と言った方がしっくりくるだろう。

そもそも旗揚げして5年も経っていないという、生まれたての集団である。
その当事者がさきほど人物紹介にもあった、「猪井田姫世」と「真壁冬香」の2人であった。
2人はきたの出身だった。
この2人は同じ大学、同じ演劇サークル出身であった。
当時から息の合った2人は、大学卒業と同時に現在の劇団を立ち上げた。
両親の猛反対を押し切り、勘当同然で家を出た。
上京したてで右も左も解らない都会で、四畳半のボロアパートで共同生活。
身の回りの友人を少しずつ勧誘していき、何とか今現在の12人に増えていった。

とは言っても、旗揚げ当初の活動と言ったら難航を極めた。
元々、何処かの大手劇団に所属していたわけでもない。
スポンサーとなる企業にコネクションがあったわけでもない。
素人に毛が生えた程度の大学サークル出の人間が、おいそれと簡単に満員御礼の演劇を行えるはずがまずなかった。

元々人数が少ない劇団である。
1人の人間が1つの仕事だけしかしないのでは最早回らなかった。
1人の人間が俳優を務め、出番を終えたら照明係を行い、同時に音響も手伝わなくてはいけない。
そんなことが日常茶飯事だった。

舞台上でも1人2役は当然で、3役4役をこなすこともざらだった。
それに加え、脚本も完全オリジナルと言うのもあった。
昔からある有名な古典をドレスアップするのではなく、自分たちで一から作り始めると言った始末であった。


しかし世の中何が受けるかわからないものである。
俳優が1人3役を平気でこなし、出番を降りれば音響、照明、特殊効果を施す、斬新なシナリオも手垢のついた月並みの台詞の羅列に飽き飽きしたギャラリーには新鮮だった。
そう言った諸々の要因が作用し、前衛的と評価され、最近になって急激にその頭角を伸ばし始めた、そんな劇団であった。

お陰で年末年始も休みが取れないという、嬉しい悲鳴。

そう、そんな矢先だったのだ。
では視点を戻して、彼女たちの活躍を拝見するとしよう。



「まさかなぁ。まさかこの年で迷子になるとは」

全くその通りだった。
通信機器の発達したこのご時世に、良い大人が揃いも揃って道を失うとは情けないことこの上なかった。

「ねぇ白岡さん、このバスは何処に向ってるの?」

「僕が聞きたいくらいだよ」

「やっぱりさっきの所を左に行くべきだったんですよ。」

「さっきて言うのは?」

「いえ、もう良いです」

バス内に不穏な空気が流れ始めたころだった。
メンバーが一人、つぶやいた。

「・・・・・・あれって?」

田子だった。
そのまんまるとした眼を見開いて、結露した窓ガラスの一点を指さす。
他のメンバーも各々、その指さされた方向を凝視する。
しかしそこから見えるのは、どっぷりと黒色に漬かった暗闇のみ。そこに何も見いだせなかった。

「藍那、何も見えないけど。」

「おかしいな。さっきなんか見えたんだけど。」

「お菓子の食べすぎじゃない?」

「そんなことないもん。・・・・・ほらあそこ、やっぱり見えた。」

疑い半分で、今一度窓ガラス越しに外の風景に目をやる。
何も見えない。
やはり田子の思い過ごしだろう

そう誰もが思った時だった。

「ほんとだ。何か見えた。」

田子に乗ったのは真壁だった。
額をガラスに擦りつけるように見入った先には、唯一の光源の月明かりの具合で微かに見える程度だが、しかし『なにか』が見えた。
鬱蒼と生い茂る樹林の間隙に、僅かにのぞく不自然な影。
真壁が言うのなら、と他のメンバーも挙って眼を押し当てる。

「本当だ。なんか建物みたいなのが見える。」

今度は浦澤だった。

「建物? おかしいな、この一帯は人工林で民家はないはずだけど。」

「現在地も分からないのに?」

ドライバー白岡に鋭くツッコミを入れるのは猪井田だ。

「どうです白岡さん、ちょっとそに寄ってみませんか?」

「うん? その建物らしきものにかい?」

「えぇ。どうせ現在地が分からないのでは動きようがありませんよ。もしかしたら電話を借りることができるかも。」

ハンドルを握りながら白岡はしばし逡巡したようだった。

「それもそうだな。ここが何処か聞けるだけでも儲けもんだな。」

大きくハンドルを切り、その「建物らしきもの」に向かって舵を取る。
雪は未だにその航路の邪魔をしていた。



*   *   *



バスはゆっくりと減速しながら、木々の間にある広場に停車した。
ヘッドライトの照らす先には、先ほど見えたのであろう「建物らしきもの」が鎮座していた。
いや、「建物らしきもの」ではない。「建物」そのものだ。
深々と雪を被った針葉樹林に囲まれながら、その要塞は姿を現した。

「こりゃ、すごい」

最初に声を発したのは真壁冬香だった。
脊髄反射の如く思ったことを思ったまま口に出しただけだったが、しかし眼の前に佇むそれは圧巻の一言だった。
住宅街にある豪華な一軒家を思わせるその重厚な姿が印象的な山荘だった。
これぞ職人技と言わしめるほどの威圧感と存在感。
思わず見とれてしまうほどだった。


団長の私と副団長の冬香、そして知尻が膝まであろうかと思われる積雪をかき分けて玄関までやってくる。
猛吹雪で視界は悪いが、玄関のすぐ脇に小型のプレハブ小屋らしき建物があった。屋根に深々と雪が積もってはいるが潰れないのであろうかと心配した。
今度はと、目の前の山荘の入口に視線を移す。
古代の城壁を思わせるほど堅固な木製の扉を前に、思わず息をのんだ。
ドアの横にドアベルにやっとの思いで手の伸ばす。
ボタンを押してみる。


何の反応もなかった。

念のためもう一回押してみる。

しかしやはり反応はなかった。

今度は長押ししてみる。

しかし扉の向こうからチャイム音がするだけで、中から誰かが出てきそうな気配はまるでしない。

「留守。か・・・」

考えてみればその通りである。
ここに山荘を構えているということは、十中八九避暑地として建てられたものだろう。
避暑地とは文字通り、夏の暑さを逃れるためにあるのであって、逆に寒い真冬には無用の長物である。
こんな積雪激しいこの時期に、こんな山奥にくる狂人なんていないだろう。
見れば窓ガラスに明かりはともってはいない。
誰もいないのは一目瞭然である。

「さて、どうしたものか」

私が腕組みして考えていると、後ろから真壁だ。

「鍵が開いてるれば中で休むこともできるんだけどね」

そう言いながら面白半分でドアノブを捻ってみた。
するとどうだろう。

酷く錆びついた音をたてながらも、そのドアはゆっくりとこちらに向かって動き開いたのだった。
一番驚いたのは冬香であろう。

「嘘、開いた」

知尻は開いたドアから、顔を半分出して覗き込んだ。
当然のごとく真っ暗闇で、数m先も見えない。
カビ臭い匂いが強烈に鼻孔を擽りながらも、しかし眼を凝らしてみる。

「どうする?」

「どうするって言われたって」

3人は互いに顔を見合った。
しかし不慣れな土地で道を失って、やっとの思いで見つけた溺れた時の藁。
ここで無人だから帰ろう、と言う訳にもいかない。
心の中で、申し訳ありませんと謝りながら中に入って行った。


*  *  *


灯のスイッチを入れる。
その瞬間、部屋の中は瞬く間に明るさを取り戻していった。

見渡す限りのリビング
見上げるほどの天井
綺麗に整っているテーブルなどの調度品。
おまけに洋風の暖炉まであると来たものだ。
これだけでも、この所有者はかなりの財力を有するものだと推測できる。

「こりゃ、本当にすごいですね」

バックを担ぎながら皆は各々呟く。恐らく心からの感想だ。
そうであろう。
まさか、迷い込んだ雪夜の森にこんな豪奢な山荘があるとはつゆも思わない。
外から見ただけでは暗くて分からなかったが、階段が目の前に見える。恐らく二階が存在するのであろう。
私はは玄関を入ってすぐのスペース、『ロビィ』とでも言うのであろうか、ロビィをぐるりと右回りに一周見回した。
まず部屋の中央には古代の大木から削り取られたのではないかと思われるくらい、堂々と年季の入ったテーブル。
そしてその周りを囲むように弾力のあるソファがきちんと並んでいる。
更に、その奥に見えるのは暖炉だ。
映画のワンシーンに見ることができるようなものだ。
ご丁寧に、そのそばには真新しい薪が数セット用意されている。
暖炉から5~6m横には隣の部屋に続くドアがある。
この先に、また違う部屋があるのであろう。
さてそのドアのまた横には、今度は奥へと続く通路が用意されていた。幸い暗くて先に何があるのかは分からなかったが建物の形式上、トイレやお風呂などがあると踏んだ。
その暗い通路の右には先ほど言った階段である。階段と言っても梯子段や申し訳程度の螺旋階段などではない。
人一人が簡単に横になれるくらいの道幅を有した階段だ。
ローマ字のLの様に途中で90度左に折れて二階につながっている。
そして最後に物置だ。これは猪井田が最初に中に入って確認した。
この中は電源が裸電球一つという何ともシンプルな代物だったが、中は複雑だった。
と言うのも薪の予備や、荷造り用のロープ、買い置きの燃料、使わなくなった暖房器具などが乱雑に置かれていたのだから。
一目でここが物置であることを知り、ざっと見て回っても埃を被った地図を見つけた。

「ねぇ姫世」

冬香だった。
どうやら二階に上っていたらしく、階段から下りてきたところだった。

「電話あった?」

「私は見てないわね」

「おっかしいね。私もなんだよ。電話のひとつくらいあっても良さ気なのに。こんな立派な御屋敷なのに」

「上に無かったの?」

「部屋ばっかり。個室個室、個室ばっかり」

彼女はアヒル口にになってぶつくさ言っている。
けれどもその冬香の言うことも一理あった。
先ほどからこの山荘内を調べ回っているが、電話の一機も見当たらなかった。
念のため玄関のすぐ外のプレハブ小屋も見てみたが、木材や暖房器具がぎっしり積まれているだけで電話はおろか、無線機の類も見当たらなかった。
確かに夏しか使わない山荘ならそれでも良いかもしれないが、でもそれでも電話が全く無いではいざという時に困るはず。


―――おかしいな、この山荘―――


胸には何か不可解な感情が生まれた。
一旦、見つけた地図を白岡さんに渡して山荘散策は中断となった。


*  *  *


メンバー全員がソファに座り、これからの動向を話し合うことになった。

「猪井田君が見つけてくれたこの地図によるとだね」

白岡は色あせた地図を広げて、真ん中のテーブルに広げて見せた。
全員の額がその一点に集中する。

「ここ、ほらここさ。赤い丸でかこってあるだろ。たぶんこの山荘がこの丸ってことだと思うんだよ。」

確かにこれまた日の光に当りすぎて変色したのであろう、小豆色になったサインペン跡が残っている。

「えぇ! ここって全然予定の道と違うじゃないですか」

手厳しい言葉は浦澤だった。

「こりゃ、さっきの曲がり角どうこうの問題じゃないですね」

「ちゃんと地図見たんですか?」

「返す言葉もない。」

三十後半の男性が、二十代の女性に責められているところを見るのはどうも心地の良いものではない。
しかし今はそんな事を言っている場合でもなかった。

「でもどうします。このままここを出てもまた道に迷うことにもなりますよ」

確かにだった。今まで発言に参加してこなかった鶴井だったが、ここで鋭い指摘だ。
現在地が分かったところで、はたしてそのまま無事に帰れるのだろうか。それは誰の頭にもよぎったことだ。

「それにこの赤丸が本当にこの山荘の現在を指示しているとは限りません」

続いて貴中だった。
一瞬、メンバー内に陰鬱な空気が流れる。
どうしたものか。こういう時にリーダーの私が何か打開策を提案しなければならないのだが。
ふむ。
打開案が無いことも無いか。
しかしこれは少々酷な内容だ。
そう、そのときだった。

「白岡さんが一人で行けば良いんじゃないの」

これ浦澤だった。
ソファの背もたれに腰掛けて、皆を見下ろす形で浦澤瞳はそう言った。

「瞳、あんた何言ってんの?」

即座に呼びかけたのは彼女と同い年の不二見だ。
あの子の鋭い眼光は一層鋭角になり、浦澤をとらえている。

「まさかこの吹雪の中、白岡さんに一人で運転して助けを呼んで来い、ってそう言う意味じゃないわよね」

「まさかのそういう意味」

「・・・・・・あんた正気? 白岡さん一人で行かせて、私たちはこの山荘で待機してろっての? 冗談にしては性質が悪いわね」

「そうかな、私としては結構良い案だとは思うんだけど。白岡さんって『トワイライト』のドライバー兼マネージャーさんでしょ。
私たちは舞台女優でありプロ、舞台の上では自分の役割に責任を持ってる。失敗したらそれは全部失敗した自分に返ってくる。それがプロでしょ。
ならそれを支えるドライバーも同じじゃないの。己の過失で道に迷ったなら、同様に自分で責任をとる、それが筋ってもんじゃないの?」

「浦澤さん、それはそうかもしれませんけど」

新馬理緒は浦澤と不二見の間を取り持つように割って入る。
猪井田はその様子を腕を組みながら、じっと見守っていた。

たしかにそうなのだ。
我々はアマチュアではない。もう学生ではないのだ。
実力主義であり、結果第一の世界である。
成功すればそれ相応の見返りがある半面、失敗すればやはり相応のしっぺ返しを受ける。
浦澤はそのことを言っているのだろう。
だから浦澤の言い分は間違ってはいない。
しかし怖いのはそれを平気で口にできることだ。

今言ったことはあくまで理想であり、『そうあるべき姿』である。
けれども実際にそんなストイックな精神を常に持ち合わせ、その通りに行動できる人間が果たして何十人何百人と存在できるだろうか。
時に自分に甘え、時に妥協し、そして時に仲間の失敗もカバーし慰めることも必要とされる時もある。
この劇団の団長を務める私でさえ、その姿を追求することが難しい。
それを浦澤瞳は淡々とやってのけるのだ。
日常は至って賑やかでムードメーカー。後輩の面倒も見るし、先輩であろうとも自分の意見は押し通し屈することはない。
それだけ見れば頼もしい存在なのだが、この性質が『浦澤瞳』という人物を一層一目置かれた存在に置く原因なのだ。
そしてそれを当然のように仲間に求める。
それが彼女の強さであり、同時に怖さでもある。

一方の不二見未里はと言うとこの真逆な性格といても良いだろう。
口数こそそれほど多くはなく、はたから見るとよく言えばクール、悪く言えば無愛想な印象を受けるこの人物。
一匹狼よろしく劇団の練習時間でも休憩時間でも、またプライベートでも特定の誰かと一緒になっているという姿を目撃しない。
浦澤とは仲良く付き合ってはいるようだったが、それ以外の劇団員との絡みは殆ど無かった。
暇さえあれば台本を熟読し、誰からも見えない場所で独り稽古に励む。
でも先輩の言うことには歯向かうと言うことは思いのほか少なかった。彼女なりの礼儀なのか、あるいは古臭い体育会系の風習なのか私や真壁などの指示は比較的素直に聞く人間だった。
また仲間の失敗などに敏感で、憎まれ口を叩きながらもフォローする姿も見れた。
メンバー同士がこじれあった時も、誰よりも騒ぎを鎮めようとするのは彼女だった。

そう、この『浦澤瞳』と『不二見未里』は年齢も近く仲が良い二人組みなのだが、二人の性格は正に真逆と言っても良いものだった。
それでもここまで意見が対立することは、少なくとも私は見たことがなかった。

「・・・・・・いや、浦澤君の言う通りだよ」

まさかの賛同者が白岡だった。
白岡は眼をつむったままゆっくりと立ち上がる。

「今回の迷子の件は僕の責任だ。皆に責任はない。それにこの山荘にいるほうが安全だと、僕はそう思うんだ」

「この山荘のほうが? 何でまた」

真壁だった。

「もしこのまま僕たち劇団メンバーが東京に帰らなかったら、恐らく練習場やアパートの管理人さんなんかが気がつくはずだ。
そうなると誰かしらが不審に思って僕達がそれまで何処にいたか調べるだろう。恐らく一日と掛からずに信州に地方公演に来ていることに気づく。
そうすれば此処一帯の救助隊、最悪県警が動き出すはずだ、遅かれ早かれ救助はこの山荘にやってくる。そう言う寸法さ」

「だったら、白岡さんもここに残れば良いじゃないですか。」

「そうはいかない。その手段をとるとなると最低でも三日はかかる。次の公演の準備も考えると一日でも早く帰れる方が良い。
僕が麓の村まで行って直接救助隊を要請する。そうすれば明日の朝にも君たちは帰る事が出来る。
一日でも早く帰れる方法があるのならば、僕はその方法を取らせてもらうよ。たとえそれが危険で無意味であったとしてもね」

誰も何も言えなかった。
あの浦澤も、まさか本当にと言った顔で白岡を見つめている。
白岡はと言うと、簡単にバックの中身を整理し肩に担ぐ。

「地図によればここから麓の村までほんの数km、道に迷わなければ30分もかからないよ。まぁ雪があるから倍掛かるとしても一時間くらいかかるかも。
大丈夫。最悪僕が失敗しても三日以内には救助は来る。携帯食料も持ってるし死ぬことはないよ」

精一杯の笑顔だった気がした。
そのまま私の方を向くと

「じゃあ猪井田君、あとのメンバーのことは頼んだよ」

その言葉だけ残して山荘のドアを開けたのだった。私も「は、はい・・・」としか言うことはできなかった。
白岡光一は出て行った。
一瞬、外の雪風が入ってきたものの、すぐにそれもやんだ。



*   *   *



しばしの間、ロビィには気まずい空気が流れたのは言うまでもないだろう。
図らずも我々劇団関係者が、決死の覚悟で外部で助けを求めに行ったのだから。
白岡の言葉が単なる気休めの言葉であるということは誰もが分かっていたことだった。

三日以内に助けが来る?
どうしてそう断言できる。
白岡の勝手な推測だろう。
我々を安心させるために言った嘘かも知れない。
アパートや練習場の管理人?
そう都合よく気づいてくれるものだろうか。
仮に気づいてくれたとしても、そこから信州地方公演で帰り道に迷子と言うキーワードに辿りついてくれるだろうか。
まずどれを持ってしても確定的なポイントがない。

それでも・・・

「みんな、落ち込んでいる暇はないわ。助けを呼びに動いてくれている白岡さんを信じましょう。私たちは私たちでやることがあるわ。
白岡さんが無事麓の村まで降りて行って救助隊が到着するまで一日、ううん、二日掛かるわ。こうなった以上この山荘で二日間生活しなくちゃいけないわね。」

「ここで、生活ですか?」

「そう。この山荘の持ち主には悪いけど、こうなった以上ここに滞在するしかないわね。それに関しては後で私と白岡さんで解決するとして当面の目標は食料と水ね。
特に飲料水が必要不可欠ね。最悪外の雪解け水を使うって手もあるけど、できれば水道水や蒸留水のような清潔な水が必要ね。体調の悪い鷹梨もいることだし」

「そう言えば姫世、そこの部屋キッチンだったよ。もしかしたら非常食とか置いてあるかもよ。」

切り出したのは知尻マリアだった。

知尻マリア
後輩なのに私、猪井田姫世の事を『姫世』と呼び捨てにできる数少ない人間のうちの一人だ。
彼女は正に劇団の中間管理職と言ったポジションにいた。
白岡を除く劇団員は全11人いたが、ランク付けすると彼女は上から3番目に位置していた。
もちろんトップは劇団を旗揚げし団長に位置する私「猪井田姫世」、そして同じく共に旗揚げに携わり副団長として劇団をサポートする「真壁冬香」。
そして「知尻マリア」はその次だった。
年齢もさることながら、入団した時期が早かった。『トワイライト』旗揚げの翌月だった。
元々私と真壁、共通の後輩でもあった彼女。
大学こそ違えど知尻もまた演劇というものに興味があり、己の進んだ短大で同様に演劇関係の活動をしていたということもあった。
だが、その当時の団体と方向性の違いで揉めた後離反、そこに渡りに船と言わんばかりに私たちのオファーがあったという訳だ。
なので比較的気心が知れていて、たまに呼び捨て口調が出てくることがあるが、特に本人に悪気があるわけでもないと思っている。
そんな彼女を一言で表すと、『万能的』とも言えるだろう。
先輩から見れば「甘えてくる可愛い後輩」であり、後輩から見れば「頼りがいのある先輩」であった。
頭の回転が速く雑務雑用を快く引き受ける後輩役、同時に事務作業で忙しいツートップに代わって後輩の教育係の一切を受け持つ器用さと指導力を併せ持つ。
雰囲気によって場を盛り上げる係と、烈火に怒りを露わにし後輩に憮然とした態度を示す係を担うこともある。
浦澤がムードメーカーとして機能するまでは、知尻が一手にその役割を引き受けていた。
最近では専ら、「田子藍那」と「霧綾美」と言う二大怪獣の指導係として動いている。
その器用さは演技にも表れ、子供からお年寄り、男から女、人間に限らず犬や猫は当然、中にはオオアリイの役を任されたこともあった。
動物に限らず、道端の木々と言った植物や、石像などの無生物も手掛けると言ったまさに何でもこなす万能屋という言葉が彼女を形容する最も確かな言葉だった。



さて、知尻の指さした部屋は大型暖炉のすぐ隣にあったあのドアだった。
私はゆっくりとそのドアを開ける。
中は真っ暗、まぁ当然だった。

「誰か明かり点けてくれない」

その言葉に誰かしらが必死で手探りで電気スイッチを探しているようだった。
慌ただしく床を蹴る音、壁を叩く音が聞こえるが聞こえるが、肝心の明かりはつかない。

ようやく、「パチ」と言う乾いた音と共に、光の速さで暗闇が後退していく。
それと同時に部屋の全貌が明らかになる。

「広いですね」

久しぶりに口を開いたのは貴中怜だ。
大きめなヘッドフォンを首にぶら下げて部屋の隅々に視線を向ける。

「ふむ、確かに」

その部屋はダイニングキッチンだった。
つまりキッチンと食堂が同じ部屋になっているのだ。その分、我々がいつも使っているキッチンよりは随分と広い気がする。
およそ中学校の一教室なみの大きさと等しいと言っても良い。

部屋の中は大まかに説明するとこんな感じだ。

まずドアを開けるとこれまた大型な円卓テーブルが置かれている。
恐らくこれが食卓となるテーブルなのだろう。そしてその周りをぐるりと椅子が置かれていた。
部屋は右手の方向に広がっており、そちらの方向にはキッチンが存在する。
そのキッチン部分には一通りの調理器具も揃っていた。
鍋やフライパンはもちろん、お皿や箸、フォークスプーンと言った食器の類も十分だった。

引き出しがあった。
開けると大きな箱であった。
ちょっと引っ張ってみようと重い。
両手でようやく動かせる。
中には缶詰が沢山入っていた。

「思いのほか食料はあるね」

「こっちにもありますよ」

冷蔵庫を開けてある。なかには大きな2リットルペットボトルでミネラルウォーターが何本も入っている。
レトルト食品やインスタント食品も充分だ。

「これなら節約のしようではメンバー11人が5日くらいは過ごせる量はあるわね。」

「替えの服はみんな持ってきてるわよね。となると残るは寝る場所だね」

「えぇ、私シャワー浴びたい!」

「うるさい! シャワー無くても死なない。」

霧の我儘に知尻がぴしゃりと止める。
その背後で田子も霧と同じ表情だ。
今回は口に出さなかっただけで、同じことを思っていたようだった。



*   *   *


私たちは先ほどいたロビィに戻る。
私は常々思う。
田子藍那、霧綾美とこの2人、いや二匹の面倒を見るのは大変であろうと。
恐らく生半可な指導力では彼女たちには太刀打ちできないだろう。太刀打ちできないどころではなく、逆に感化されてしまうだろう。
そうなっていないところを見ると、知尻マリアはうまくやっている。



田子藍那

霧綾美


この2人の紹介をしよう。
この2人はともに同い年で今年でちょうど20歳になる、立派な大人の女性だ。
しかし私には戸籍の間違いではないかと思う時がある。
そう、そのくらい幼い印象を受けた。

まずその容姿だった。
この二人を街ゆく人々に「何歳だと思うますか?」とアンケートを取ったら、90%の確率で「中学生」と答えることだろう。残りの10%は間違いなく「高校生」だ。
そうそのくらい彼女たちは年齢相応に見られるということはまずない。

用紙の次に挙げるのは、その言動だ。
今しがた知尻に怒られたように、彼女たちはどうも先輩と言う意識が無いようだった。
彼女たちは劇団の中では中堅に位置する立場だった。
この世界では「年齢」と言う概念はさほど重要ではない。むしろキャリア、つまり「芸歴」が重要視される。
彼女たちが入団したのは今から4年前。
私たちは2人と出逢った。
実を言うとこの田子と霧、まるで双子のような感じではあるが、以外にも入団テストの際に初めて顔を合わせたのだという。
霧は東京出身だが、田子は関西の奈良出身だという。
まぁこの際入団テストなんて言っているがそんな仰々しいものではなく、面接と称した雑談だけであった。
ついでに言うと、田子・霧・そして浦澤の3人は同期である。
年齢こそ3歳ばかし離れているが大切なのは芸歴である。
だからこの3人は練習中にでも平気でタメ口で話すし、休日でも一緒に買い物にも行くらしい。
さて話を戻そう。
この2人、知尻マリアの次に入団した人間である。
と言うことは他の不二見や貴中、鶴井、新馬や鷹梨にとっては先輩にあたる人物である。
ではこの2人が彼女たちに先輩らしいたち振る舞いをしたかと言うと、そんなことはない。
平気で練習時刻に遅刻はするわ、お腹がすけば機嫌が悪くなる。
楽しければはしゃぎ、悲しければ落ち込み、むしゃくしゃしていれば周りに当たり散らす。
オンオフ回路と言うものを持ってもいなければ、存在すら知らないと言わんばかりであった。
「先輩としての威厳」という言葉は彼女たちの辞書にないことが分かっていた。
しかしだ、それも仕方の無いことではないか
最近はそう思えるようになってきた。

現在20歳で、4年前に入団したということは、単純計算で彼女たちは16歳でこの世界に入ってきたことになる。
田子に至っては関西から単身上京し、この劇団のお世話になっているわけだ。
16歳である。
普通に進学していれば高校一年生である。
確かに大人の仲間入りかもしれないが、しかし完全に大人とは言い切れない年頃だ。
ちょうど第二次反抗期に差し掛かり、両親などに反発する年頃である。そう言った事実を含めてもこの年代で親元を離れて一人で生活するというのは想像以上に苛酷である。
話を聞けば、この上京も両親の同意を得て来た訳ではないとのことだ。
何らかの理由で喧嘩、あるいは絶縁関係にあり、言葉通り単身乗り込んできたとのことだ。つまり両親からの仕送り等は一切ない。
ただ昔からの貯金を少しずつ削って飢えをしのいでいるらしい。
詳しいことを聞いても、その時だけは田子は悲痛な表情を浮かべた。
あまり聞かれたくない話なのだろう。私はそれ以上の詮索はしなかった。

霧もそうだ。
彼女は東京出身であると言ったが、しかし実家暮らしである、と言う訳ではなかった。
わざわざ自分でアパートを借りて、そこで自炊生活を送っているらしい。
御洒落とも、好きな男性との甘い生活とも完全に切り離した、完全に「今日を生き残る生活」を余儀なくされているという。
以前私は、霧のアパートを見に言ったことがある。
最初、何かのいたずらかと思った。
まさに絵に描いたようなボロアパートだったのだ。
マンガによく出てくるトタン屋根に変色した木製の壁、階段は一段二段錆びついて無かった。
特に駅が近いわけでも、ショッピングモールが近いわけでもない。
不便極まりないこの地で、家賃の安さだけが救いのアパートであることは一目瞭然だった。
部屋の中もまた然りだった。
布団とテレビ。それが全てだった。
それも今流行りの超薄型煎餅布団と、重量感たっぷりなブラウン管テレビ。
雑誌や台本をしまうような本棚が無いため、床に平積みだった。
後に聞いた話では、布団もテレビも自分の家から持ってきたものではなく、粗大ごみとしてゴミ収集所にあったものを持ってきたというのだ。
聞いたことがある。
「親は何にも言わないの?」
そしたら笑顔でこう返ってきた。
「たぶん、もう私のことは忘れてます」
最初意味が分からなかった。どう言う事だと聞こうとも思ったが、霧はそれ以上は聞かないでくれと言う空気を出していた。
私は聞けなかった。
想像するに霧綾美も田子藍那同様、何かしらの理由で実家を飛び出してきたのだろう。

そこに教育係の知尻マリアだ。

面倒見の良さもあって、私達はあいつに浦澤・霧・そして田子の教育係を任せた。いや押しつけた。
演劇のいろはだけではない。
格安アパートを一緒に探してあげたり、お金のないときは夕御飯を毎回のように奢ってあげたり、失敗すれ共にば頭を下げに行った。
今現在、田子そして霧がこうして何の屈託のない笑顔で劇団をかき回しているのは、知尻マリアと言う存在があってこそだ。
そのくらい知尻マリアは彼女たちの心の支えになっている。
早くに親元を離れた2人にとって、ある種母親代わりになっているのが知尻なのだ。

恐らくそれが一番の原因だろう。
「親離れ」するタイミングを失ったせいだろう。
つまりそのタイミングを失わせてしまったのは、私だ。
私が面倒見の良すぎる知尻に丸投げしてしまったおかげで、本来独り立ちしなければいけない年齢なのに精神的に依存しすぎた関係をずるずると引きずらせてしまった。
『仕方の無いことだ』か・・・。
なんと都合の良い言葉だ。
要するに自分の責任だということをオブラートに包んでいるようだな。


ふと視線を田子と霧に向けてみる。
どうやら「母親」の知尻に怒られているようだ。

怒ってくれる存在がいると言うのは幸せなことだ。
道を正してくれる存在がいるということは。
自分で決めなくてもいいのだから。
その道を選んだ自分が責任を負わなくても良いのだから。


*  *  *


「さぁ、後は寝る部屋だよ。二階には個室があるらしいからね、ねぇ冬香?」

「まぁそうだね。11人がそれぞれ寝れるくらいの部屋の数はあったはずだよ」

「よし、じゃあ部屋割を決めよう」

取り敢えずキッチンには非常食もあったし移動しよう、と部屋のドアノブに手をかけた時だった

「これ何でしょうか?」

新馬だった。キッチンの壁に掛けられたリング状の物体に目を向けていた。
電気スイッチとは逆側の壁に掛けられていたその物体。
ドアを開けて右側に部屋が広がっていたが、これは左の壁に取り付けられていた。その為最初誰の目にもとまらなかったのだろう。
直径20cm、その太さ5mm弱程の、アルミニウムか何かだろうか、比較的軽めの金属に見えた。
新馬が持ち上げてみる。
カチャカチャと金属同士がぶつかる音がした。
それもそのはずだった。
リングの下のほうには『鍵』らしきものが幾つも繋げられていた。

「どう見ても鍵っぽいよね。」

「もしかしたら二階の客室の鍵かも」

鍵を手にしたまま例の90度カーブの階段を上る。
すると二階には横に広がる長い廊下があった。その廊下には両サイドにドアが綺麗に並んでいる。
つまり階段側と反対側にである。
階段側には6部屋、反対側に7部屋が並んでおり、合計13部屋が二階には存在した。
ちなみに新馬の見つけた鍵束を見ると、鍵自体も13個くっついている。
どうやらこの鍵が部屋の鍵とみて間違いないだろう。
ふむ。どれがどの鍵か調べるのが大変そうだな。そう思っていたが、思いのほか簡単に終わった。
ちゃんと鍵に番号が振ってあったのだ。しかも部屋のドアにもしっかりとプレートがはめ込まれており、そこにも部屋番号がナンバリングされている。
取り敢えず全ての部屋の鍵を開けておこうと言うことになり、猪井田は片っ端の部屋のドアを開けて言った。
我らメンバーは全11人、部屋は全て合わせて13部屋、少々余ってしまうがとにかく開けてしまおう。
私は一応鍵を開けたすべての部屋に目を通した。部屋ごとに大きな違いはなく、左右対称になっている程度だ。当然、見て回った中で私たちメンバー以外の人間が部屋にいたということはなかった。


あっという間に部屋割は決まってしまった。
ある程度仲の良いメンバーが近くの部屋割になったくらいで、別段大きな諍いは無かった。
その部屋割表が以下である。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  貴  |  鶴  |     |  鷹  |  新  |  猪  |    |
     |     |  霧  |     |     |  井  |    |
  中  |  井  |     |  梨  |  馬  |  田  |    |
     |     |     |     |     |     |    |
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
                                     ||
              廊下                     ||
                                     || 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――      ―――――――――――――――――
  浦  |  不  |  田  |  知  |  階  |  真  |    |
     |  二  |     |     |     |     |    |
  澤  |  見  |  子  |  尻  |     |  壁  |    |
     |     |     |     |  段  |     |    |
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――      ―――――――――――――――――


一応の荷物は部屋に片付けた。
自分の私服や日用品だけだから、量自体はそれほど多いわけではない。
しわにならないように、全部ハンガーに掛けるのは少々骨であったが、それもすぐに終わった。
部屋の中に視線を一周させる。

ことごとくではあるが、随分手の込んだ造りであった。
ただ単に木をつなぎ合わせただけではない。寒冷地仕様よろしく隙間というものを完全に排除し、窓ガラスも二重に嵌められている。
天井だって高い。一部屋一部屋に小洒落たシャンデリアもあるし、ベットやナイトテーブル、衣装用の箪笥もあった。
ここでテレビの一つでもあれば言うこともないのだが、それは贅沢というものだろう。
こんな吹雪の中、凍死しないだけありがたいと言うものだ。


trrrr


携帯電話だ。
自前のポーチの奥底で彷徨っていたため取り出すのに苦労した。
ディスプレイを見ると白岡マネージャーだった。



*  *  *


「もしもし」

「あぁもしもし白岡だ、猪井田君かい」

「どうです、村に到着できましたか」

「何とかね。ついさっき県警に救助隊に連絡を取った」

「じゃあもうすぐこっちに助けが来るんですね」

「いや、それがそうもいかなくなったんだ」

電話越しに白岡の声が曇った。

「問題でも?」

「天候がね・・・。どうやら気象台もこの地方はこれから大寒波がやってくると言ってるらしいんだ。事実この雪だと救助ヘリが飛ばせないらしくて」

窓を見る。
音こそ聞こえないが、ガラスを引っ切り無しに叩く雪が見える。
バスの助手席で見ていたフロントガラス以上だ。

「それにそちらの山荘を知ってる人が少なくてね、場所を説明するのに苦労したよ。そのせいで道を詳しく知ってる人もいなくて、また車でそっちに行くのは危険だとも」

「それで。肝心の救助はいつごろに?」

「さぁ。取り敢えずこの吹雪が収まってからって言ってたし。2日3日掛かると思う。詳しいことは何とも・・・」

私は少なからず落胆していた。
それは救助が来るのに3日かかると言われたことではない。
自分が「がっかりした」という事実にである。
何処かですぐにでも救助が来ると楽観的に期待していた自分に気付いたのだ。
まぁ良い。こればっかりはどうしようもない。

「解りました。でもこっちには非常食も多少あって3日くらいなら持ちこたえれます。もちろん、この山荘の持ちモノですけど。ですので白岡さんはこの山荘の所有者を探してもらって良いですか」

「あぁ、それならさっき聞いたんだ」

「誰です」

「何でも小説家さんらしいんだ。確か名前は・・・・・・『黒川影夫』だったかな。そんな感じの人だった」

「くろかわ・・・、かげ・・お?」

聞いた覚えがあった。
酷く暗い名前だなと、そう思ったことがある。
あれはいつ、誰に聞いたのだったか・・・。

「あぁ。だから心配しなくていいと思うよ。そこの所有者の黒川影夫って人、数年前に死んでるらしいんだ」


そうだ!
思い出した。
黒川影夫、その名前を。
大学の講座の友人に誘われてその人の小説を読んだことがある。
確かミステリ小説だった。
重厚な作品ながら、リズミカルかつスピーディな作品だった。
それ以来ミステリ小説というものに惹かれて、急いで書店に足を運んで続編を読んだっけ。
そこで作品数が酷く少ないってことを知った。
いくら探しても『黒川影夫』の作品は6作品しかないことも知っし、『黒川影夫』がミステリ小説界巨匠中の巨匠であることもしった。
その作品は世界からも一目置かれていて、ノーベル文学賞の候補に幾度も上がったほどだと。
そしてその文学界の巨匠は、数年前、おそらく5年ほど前でだろうか、息を引き取ったと言う話もだ。
齢70歳近いと言う話だし、老衰かもしれない。
とにかくその当時はテレビでもセンセーショナルに報道されたという。
久しぶりに面白い本に出会ったのに、その作者がこの世を去ってしまいこれ以上作品が読めないと思うと、自然と本から離れて言った。
そんな今までの記憶が蘇ってきた。

その後白岡さんと事務仕事の話を少しして電話を切り、携帯電話をベットの上に放り投げた。



*  *  *


何とも嫌なことになってしまった。
あのまま私たち全員がバスに乗っていれば、今頃はバスの中で仮眠が取れたろうに、それに東京まで一直線だったろうに。
しかし結果論であるとも知っている。
世の中、所詮そんなものだ。
ん、ちがうのかな。
そう言ったマイナスイメージだけが記憶に定着しやすいだけの事なのかも。
プラスイメージの記憶はただ単に忘れているだけ、だから世の中こんなものだと錯覚してしまうだけなんだ。

それにしても

鏡の前に移動する。
そこにはいつもとは違う自分の姿が。
少々気疲れした私の姿が。
これも違うのか。
この少々気疲れした姿が、いつもの私の姿なのか。

他のメンバーは何をしているんだろう。
廊下に出てみるが誰もいないようだ。
端の部屋はドアが少し開いていて、明かりが漏れている。
あの部屋は確か貴中だ。

「怜?」

ひょいと首だけ出して、中の様子をうかがってみる。
中にはヘッドホンを被ったまま、舞台稽古用の台本を片手に、鏡を前に立ち回りの練習をしていた。
そのヘッドホンのせいか、私が覗いていることに気づいていないようだ。

「怜?」

もう一度読んでみる。
すると気付いたのかヘッドホンを外す。

「あぁ、猪井田先輩。どうかしましたか?」

控え目な声だった。

「他のみんな何処行ったか解る?」

「たぶん、下ですよ」

「下? 下の何処」

「書斎って聞きました。」

「書斎なんてあったっけ」

「ロビィの奥の部屋ですよ。確か」

ロビィの奥、階段のすぐ脇にあった廊下の先だ。
キッチンは見たが、その他の部屋はまだ見てなかった。
その先に書斎があったのか。

「・・・怜は行かないの?」

「自主練習の時間ですから。」

「そっか。解ったありがとう」

貴中怜の部屋を後にした。

階段に差し掛かった時、一階から複数の声が聞こえる。貴中の言う通りなのだろう。
ゆっくり一段一段確認するように降りていく。

彼女の事を考えた。
『自主練習の時間』か・・・
弱冠18歳の少女が、さも当然と口にできる言葉かね。


貴中怜

年齢18歳。四国出身。
どちらかと言えば小柄な彼女だが、しかし我の強さは天下一品だろう。
入団したのは去年の春だ。地元の高校を卒業した後、すぐさま東京へ。大学に進学するためではなく劇団に入団するため。
とにかく劇団に入りたく、手当たりしだいの入団試験を受けたが、ことごとく不合格。
そしてついに我が『トワイライツ』の入団試験に臨んだ。
「ことごとく不合格」の理由が何となく解った気もした。

怖い

何となく元女ヤンキ―、レディースを思わせる態度だった。
口数は少なく、どこか乱暴な口調にぶっきらぼうな態度、そして鑢で研いだのかと思うくらい鋭い。
確かにこれなら大手劇団で門前払いを受けても解る気もする。
しかし演技については確固たる信念と熱いものを持っていることも解った。
何より、人数が少なかったということもあり入団を許可した。
一瞬のギャンブルだった。

入団した当初、貴中は確かに浮いていた。
今でこそ、メンバーとは普通に仲良くなり世間話もするようになったり、鶴井と言うパートナーも存在するが、決して最初からこうだったわけでもない。
所謂、「一匹狼」であった。
メンバー間の輪の中に入ろうとしなかった。あえて入ろうとしなかった感もある。
以前そのことについて聞いたら「無駄な慣れ合いは身を滅ぼしますよ?」だと。
まったく高校を卒業したての人間が言う台詞かと呆れたものだった。
それで何をするかと思えば、人の見てないところで自主練習に精を出していた。
独り携帯電話をいじっていたりなどしていれば、「メンバーに溶け込む努力をしろ」とも言えただろうに、こうも自己研磨な姿を見せられるとそれすら言えなかった。
お昼休み、全体練習終了後など、誰もが身体をリラックスさせる時間に、貴中は黙々と淡々と独り練習をこなしていた。

お陰で入団して日も浅かったが、今では大役を張ることもできるほど「実力派」という言葉がぴったりだった
今では良い買い物をしたと思っている。



*  *  *



一階に下りてきた。
さっきまでは明かりのついていなかった階段わきの通路、その先から話声が聞こえた。
がっしりとした年代を感じるドアを開けると、狭い部屋だった。

「おぉ、こりゃすごい」

思わず声が漏れた。
狭い部屋かと思ったが、そうではない。むしろ小学校の教室くらいありそうな部屋だ。この部屋中に溢れ返っている本、本、本。
壁一面が本棚で覆われ、そこには蟻の通る隙間もないほど書籍でいっぱいだ。
そのおかげで部屋が狭く感じられたのであろう。

「猪井田さんも書斎を見に来たんですか。」

鶴井だった。
滑らかで自然な笑みを浮かべながら団長を向かいいれる。
その部屋には新馬のほかに真壁、知尻、浦澤、不二見、田子、霧、そして鶴井がいた。
各々自分の興味のありそうなタイトルの本を引っ張り出しては元に戻していた。


鶴井舞


ギリギリ未成年の彼女は、貴中怜と非常に仲が良かった。
その長く透き通るような長髪を靡かせ、高原の空気のような爽やかな空気を漂わせていた。
お淑やかで物静か、古来から伝わる人形の様な整った顔立ちが特徴で、彼女目当てで公演にきてくれるお客さんもいるくらいだった。
貴中が「動」なら鶴井は「静」といった感じだ。
実際はどうかはわからないが、お嬢様と言う言葉がぴったりだった。
しかし、演劇ではその容貌が必ずしも役に立ってるとは言い難い。
その透き通った空気感は、裏を返せば存在感が希薄であるという事だ。
我こそは、と言う積極性と言うか前進志向が見られないのが彼女の特徴だった。
自分から個性や役を主張しないので、自然と主役からは外れていた。
彼女自身、それで構わないと思っているらしく抗議してくることもなかった。
それが心配だった。
言われたことは言われたとおりに淡々と行う。
静かに胎動する湖の水面に見えて、底には熱いものがある、そう信じていた。
しかし鶴井にあるのは、奥底の冷え切っていて過冷却を起こしている液体の様だった。
ほんの何かのきっかけで、一瞬にして凝固してしまうのでは思えるくらい、冷たい冷たい蒸留水。
そんなイメージを思い浮かべていた。
ま、現在はそんな彼女ならではの静かな持ち味が出ているので、無理に変えようとは思わなかった。


「怜に聞いてね。皆ここにいるって言うから」

「怜ちゃんも来りゃ良いのに。いろんな本があって面白いぜ。」

浦澤だ。臙脂色した表紙の本のページを捲りながら頷く。

「あぁ、そうだね、部屋にいたよ」

ここで本当の事は言わない。
貴中怜が部屋で、もうすでに次の舞台を視野に入れて個人練習を積んでいることをだ。
いつもそうだ。
あの娘は、いつも人から隠れたがる。
自分の弱さはもちろん、努力している姿すら人の眼から隠したがる。
それを知っている。
だから誰も聞いてこなければ、言ってあげる必要はない。
それが貴中に対する優しさであり、メンバーに対する厳しさでもある。
私自身はそう考えていた。

「それにしても凄い本の数ですね。ここの持ち主はよっぽど読書家だったんですね」

霧はその低い身長をめい一杯伸ばしながら、本棚最上部に手を伸ばす。

「あぁ、小説家らしいよ、ここの持ち主」

「ご存じなんですか。この山荘の所有者を」

「さっき白岡さんから電話がきてね、そこで聞いたんだ。ここって『黒川影夫』って作家さんの別荘か何かだったらし。。
と言ってもミステリ作家だから、読んでる人も少ないんじゃない。それに万人受けするタイプの小説じゃないわ。所謂玄人好みの作風だね」

「その黒川某って人に怒られるんじゃないのうちら。ほら、小説家にとって仕事場であるはずの書斎に勝手に入るのは、流石にまずいんじゃ」

「心配する必要無いわ。持ち主の黒川さん、確か5年ほど前に亡くなられてる。今ここは空家同然みたいよ」

「な、亡くなられたんですか。どうしてまた」

「さぁ。私もそこまでは知らないわ。ただ年も年だったって噂だし老衰じゃないかしらね」

部屋の入口の反対側に置かれているヨーロッパスタイルのテーブル。
恐らく黒川影夫の執筆机だろう。長年の相棒を失ったテーブルはすっかり日光で色褪せていて、時間の流れを感じさせる。
そのテーブルの右隅に置かれた簡易式のブックスタンド。
そのスタンドに立っているのは六冊のハードカバーブック。
見覚えがある。
黒川影夫の作品たちであり、その愛すべき子供たちだ。
その長い作家人生の中で、たったの6冊しか世に羽ばたくことのなかった彼の化身。
いやしかし逆にいえば、その分一冊に濃縮に濃縮を重ねた世界が、そこには詰まっているのだろう。
私が学生時代に読み漁ったあの記憶を遡るように、読者全員が読んだその時間の思い出の様に。


*  *  *



感傷に浸っている時だった。

「そうだ。思い出しましたよ猪井田さん」

新馬だった。

「黒川影夫さんの死の真相について当時、実は様々な推測が飛び交っていたんです。」

「推測?」

私は訝しんだ。黒川影夫の死がは自然死ではないのだろうか。
時分自身、そういった話は聞いたことが無かったため興味がわいた。

「推測って何。黒川さんの死に何かあったって言うの?」

「それは解りません。ただその死について不可解なことがあったことは事実らしいんです」

「へぇ。例えば?」

新馬の話に浦澤も乗っかってきた。

「死因自体ははっきりしているそうです。その持ち主の黒川さんは持病に心臓に病を抱えていたそうです。それも生まれつき。元々身体が丈夫な方ではなかったそうです。その発作が直接の原因だと言われています。まずその点なんです。
70年近く連れ添った自病ですよ、そう簡単に死んでしまうでしょうか、ってことです。
あれ、みなさん、おかしな顔されてますね。つまりこういう事ですよ。
黒川さんは生まれつき非常に重い心臓病を患っていた。つまり黒川さん自身その心臓病には細心の注意を払っていたはずです。
なのでむしろそういった病気だからこそ、本人や周りの人間は気を使うものではないでしょうか。そんななかで持病の心臓病で亡くなるのはおかしくないか。つまりそう言う事です」

「ふぅん。つまり理緒は『持病の発作で亡くなるのはおかしい』って言いたいって訳?
・・・・・・いろいろ言いたいことはあるけど、取り敢えず話は最後まで聞いたほうが良いんでしょう」

「そうですね。実は噂というものはこれだけじゃないんです。
直接の原因とされている心臓発作ですが、黒川さんはその薬を持っていました。ちょんと処方されていたんです。これは黒川さんの主治医の先生が証言しているようです」

「その主治医の先生が偽物ってことは無いの?」

「ちゃんとした警察の捜査によるものです。新聞にも書いてありましたよ?」

「ごめん。続けて」

「はい、つまり黒川さんはその処方薬を持っていたはずなんです。でも黒川さんが亡くなられて警察が家宅捜索に入って調べたとき、遺体が発見された場所からはその薬が遂に発見されなかったそうです」

「空になってたんじゃないの?」

「いえ、そうじゃないんです。『容器』ごと無くなっていたそうなんです。」

「ん?」

「例え容器の中の薬が切れたとしても、その容器自体は部屋に残っているはずなんです。いえもっと言えば、発作で亡くなる直前まで薬を探していたなら、
容器自体を握っているなり、あるいは周囲に落ちていなくてはならないはずです。でも実際には近くどころか、部屋を隅から隅まで探しても全く見当たらなかった。これはおかしい。何かあるのではないか。これが警察の当初の見解です」

「あれなんじゃない。警察の捜査とかでゴタゴタしたときにどっか行ったとか、それかあるいは黒川さんの遺族の方が片づけたとか、そう言う事は考えられないの」

「確かにその可能性もゼロではありません。警察もその可能性は考えたそうです。もしそれだけならさして問題にはならなかったようですが、ただもう一つ消えたものがあったんです。」

「薬の容器以外にって事? なにそれ」

「新作ですよ。黒川さんが書き続けていた新しい小説、その原稿用紙がその場から消えていたそうなんです」

「床に散らばったとかじゃなくって」

「えぇ。正真正銘姿を消したそうなんです。警察や遺族の方が必死で探してもやはり遂に見つからなかったらしいですよ。」

「本当に書いてたの。もしかしたら原稿用紙だけで何も書いてなかったのかもしれない。それを死ぬ直前に片づけたって事は考えられないの?」

「それもありえません。何故なら亡くなる直前、遺族の方がはっきりと見てらっしゃいます。その時黒川さん自身も『最後の作品も、もう9割方できあがっている。』って言ってたらしいんです。
つまり黒川さんが倒れる直前まで、最期となる作品が実在したんです」



言葉には出さなかったが、その新馬の情報には舌を巻いた。
自分も日頃からニュースや新聞には眼を通すほうである。しかも世界的に評価されている日本作家が亡くなったとあれば、眼にする機会も多かったはずだ。
しかしそんな私の持っている情報量の3倍はあろうかというくらい、新馬の脳内には蓄積されていたのだ。
しかもその蓄積されている情報のほとんどが、通常では入手できない情報が大半なのだ。
警察が何処をどれほど捜査しているのか、それに対してどんな見解があったのか。一般市民がそれを関知できることはまず無い。
この市民をいたずらに扇動しない、と言う名の名義の元に警察内部の情報がそう簡単に漏れるはずがない。
では、なぜこの新馬がそんな情報を知り得るのか。



新馬理緒

鷹梨と同じ時期に我が『トワイライト』に入団した彼女は24歳だ。
彼女がなぜ一般人が知ることのできないような情報を知っているのか。
答えは簡単だ。彼女の父親が警察官なのである。
しかも一端の警察官ではない。「警視」とか「警視正」と言われる立場の人間らしかった。
それはつまり、警察内部でもかなりの立場を有する人物、新馬はその娘だという。
彼女は家庭で、父親から事件や事故の情報を聞いていたのだった。
本来は守秘義務に抵触してしまうことがらなのであろうが、父親の立場が立場なだけに黙殺されているようだった。
さてm彼女の家についてはこれくらいにしよう。
彼女は演者としての女優と言うよりは、完全な黒子、つまりは裏方タイプだった。
舞台全体を通し、いつ、何処で、何をどうして、どのタイミングで切り替えるか、それは我々が想像する以上に苛酷である。
一つタイミングを間違えただけで舞台は滅茶苦茶になる。早すぎても遅すぎても駄目だ。
そんなシビアな裏方業務を、平気で4つ5つ受け持つことが出来るのは新馬理緒だけだった。
そして何より大変なのが、失敗は簡単に観客の眼にとまるのに、その成功と言うのはなかなか評価されないということだった。
どんなにベストタイミングで操作を行っても、どんなに効率的に動こうとも観客の眼には止まらない。それが裏方の一番の難所だ。
何故新馬が此処まで裏方の仕事ができるのか。
それは裏方の仕事を多くこなしてきたからだ。
では何故、裏方の仕事を多くこなしてきたのか。
決っして演技が出来ない訳ではない。
しかし舞台に上がりお金をもらえるたち振る舞いかと言うと、正直首を傾げざるを得なかった。
友人の誘いで旗揚げ直後の拙い舞台を見て感激したらしく、それ以来この世界に飛び込んできたのだ。
入団したのが、およそ2年前。それまで演劇らしい演劇に触れてこなかった彼女、当然いきない舞台に立つことはできず、これまた当然に裏方の仕事が多かった。
同期の鷹梨が主役を張り、後輩にあたる貴中が大役に抜擢され、新馬はいつも小さな脇役を務めていた。
いつも心の中で詫びていた。
先ほども言ったが、この世界に年功序列は存在しない。あるのは演劇キャリアであり、すなわち実力である。
日常生活では演劇に関する能力素質を問われることはまず無い。あっても学校の小さな学芸会だけだ。
それはつまり、一日でも演劇の世界に足を踏み入れ、一日でも多く演劇の練習を積むことは10歳年下であろうと重宝されると言う事である。
素人が年齢だけで役を取れる世界では無いのだ。それは重々承知している。
それでも毎日必死で稽古に励んでいる新馬に、大役を上げることが出来ないことに心の中で必死で懺悔していた。



「それで、『理緒のお父さんの会社』の皆さんは、結局はどうお考えなの? 自殺って事?」

「えぇ。捜査本部でもその案は出たらしいです。捜査本部では大きく分けて2つの案が出ました。
1つ目は、実は黒川さんは新作を書きあげていなかった。書きあげることが出来ずにそのことに思い悩み自殺したという案です。
遺族の方が聞いた「最新作ができそうだ」と言う話は、黒川氏の嘘であり家族を困らせたくなかったためについたものであった、と言う案です。これなら手元に薬の容器が無かったことも説明がつきます。
何しろ自殺を考えていたのなら、直前になってそれを探したりしません。これなら辻褄が合います」

警察官はその立場から知りえた情報は外部に漏らしてはならない、と言う守秘義務がある。それは例え相手が家族であろうと、その職を退こうと同様のはずなのだが、
そこは今回は触れないでおこう。
つまりここで新馬が語った情報はまず信用してよいだろう。
すると面白い話だ。いや、故人の話を面白がるとは何とも不謹慎な話ではあるが、でも興味はあった。
あの黒川影夫が自殺?
それよりも残りの一つの説が気になった。

「ただそれだと、消えた原稿用紙の説明がつかないな。あとの一つの説は?」

「殺人です」

「殺人? これまた話は穏やかじゃないね。」

「はい。当時こちらの説の方が有力だったようです。黒川氏は遺族の証言通り、作品を書き上げていた。しかしそれを持ち攫われたんです。黒川氏の熱狂的なファンによって。
詳しく説明するとこうです。黒川氏が最近、新作を書き上げるのではと言う噂が実しやかに流れていた。黒川影夫の新作となれば学術的価値もあり、ブラックマーケット、所謂裏市場では
それこそ天文学的な金額でやり取りされるでしょう。また、金に替えなくてもそれを自分の名前で出版社に持ち込めば作家としてもデビューできる。
そう考える人間がいないとは言い切れません」

「ふ~~ん、なるほどね。ただそれもまた問題があるよね。もし邪な考えを持った闖入者がいたとしても、それは黒川氏が死んでいた理由にはならない。侵入したのが見つかって殺したのなら、
計画的にしろ突発的にしろ、形跡が残るもんでしょ。理緒、そう言う形跡はなかったんでしょ」

「えぇ、やっぱりそうなんです。現在では不可解な点こそ存在するが、殺人であるという確固たる証拠も無かったので『自殺』と言うことで片づけられています」

「ふん自殺ねえ。まぁそれが一番無難かもね。偶然に偶然が重なる、それが現実ってもんじゃない」

浦澤が手を組みながら天井を仰ぐ。
『自殺』、『殺人』なんて言う血なまぐさい言葉が空気中に充満した。
そんな空気を入れ替えるように猪井田が眺めていた本を閉じる。

「はい、止め止め。こんな話は終了。少なくともうら若き乙女がするような話じゃないね。私たちはもう寝よう。さ、部屋に戻った戻った」


*  *  *



浦澤たちは二階に上がっていったのを見送った。
一見無尽蔵の体力を誇っているように見える田子や霧も、流石に疲れて来たのか、私の指示を従順に守った。
各々の部屋のドアを開閉する音が聞こえた。

私はと言うと、疲れているはずなのに何故か眼がさえてしまっていた。
何か異境の地に放り込まれたような妙な高揚感が働いてしまい、妙にアンバランスな気分だった。

少しロビィでゆっくりしてるか。
そう考え、コーヒーでも淹れようと身体を方向転換した時だった。



ベージュ色のソファに一人の少女が座っているのが見えた。
鷹梨愛だった。
その小柄な体躯をさらに小さくして、なるだけ表面積を小さくしようとしながらカップを持っていた。
その朧気な視線は暖炉を眺めているようで、しかしどこを見ているのか良く解らなかった。

「鷹梨、もう体調は良いの?」

背後から声をかける形になってしまった。
鷹梨もゆっくりと振り返ると、無理やり作った笑顔で、大丈夫ですと応えた。
大丈夫でないことは明確だった。
まだ疲れの方は取れていないな、そう直感した。
部屋に帰ってもすることは無い、一ヶ所でじっとしているのも億劫だったのし、それに鷹梨には言わなくてはいけないこともあった。
私は鷹梨の対面の椅子に腰かける。



鷹梨愛

出身は日本海側の、24歳。
肩まで伸びた絹のような髪。
その円らで力を持った瞳。
鶴井とはまた違った、フランス人形を思わせるような整った風貌に、芯の強さを感じる。
また幼いころにバレエを習っていたこともあり、舞台と言う限られた空間での表現力は確かなものだ。
表情、容姿、声の質、どれを持っても玄人はだしの一級品だ。
演技力も我々の中ではトップクラスだ。
間違いなく我が劇団の主力であり、近い将来核となる、いやなってもらわなくてはいけない人材でもある。
常々そう思っている。
しかし一方で、脆さが垣間見えるのもまた事実だった。
ダイヤモンドは美しい輝きを持ち世界一の硬さを誇っている、そうそんなダイヤモンだだからこそ非常にもろいのだ。
鉛やアルミニウムなどの比較的柔らかい金属と異なり、硬いがゆえに衝撃を分散できずに一ヶ所で受け止めてしまし、結果的にすぐ割れてしまう。
鷹梨はある意味ダイヤモンドだ。非常に脆く壊れやすい。
彼女は緊張や寝不足で体調を崩すことが多々あった。
徹夜明けの練習、連日の地方公演などでは必ずと言って良いほど体調を崩していた。
そこに劇団の代表ともなれば精神的負荷は計り知れないだろう。
それが今後の課題だろう、そうも思っていた。



「今回は悪かったわね。仕事沢山押しつけちゃって」

「いえ、大丈夫ですよ。他のみんなも忙しそうでしたし。それに私は全然余裕ですよ。ただここの所の疲れが一気に出ただけで・・・」

「辛いなら辛い、仕事量が多いなら多いって言ってくれても良いんだよ」

「本当にに大丈夫です、むしろ心配させてしまって申し訳ないぐらいです」

『ただでさえも鷹梨は我慢しちゃう子なんだから』
そう言えなかった。
言ってしまえばまた抱え込んでしまいそうだったから。
その憔悴しきった声が、逆に痛々しかった。
本人はそれで隠しているつもりだろうが、こちらとしては非常に危なげな印象しか受けない。
自分の内側へ内側へため込んでいるが、しかし表面は元気な「鷹梨愛」を演じているその様子が、非常に危なかった。

「およ、姫世もシエスタ?」

奥のキッチンの部屋から顔を出したのは知尻だった。
その両手には活発に湯気のあがるコーヒーカップがあった。

「『シエスタ』?」

「スペイン語で『一休み』ってことさ。姫世もこれ飲んでみたら」

「そう? じゃあありがと」

目の前に置かれたカップ、どうやら紅茶のようだ。茶葉の香りがしてくるが、それとは違う香りもまたした。
鼻孔の中で始める麦の風味。

「ウィスキー?」

「おっ。良く解ったね。その通り。いやね、こう寒い夜はさ、ちょっとお酒でも飲んで身体を暖めた方が良いってもんじゃん。紅茶に少しウィスキー入れるとおいしくなるって言うしさ。一回飲んでみたかたんだ」

「って事は何、ウィスキーも向こうにあったって事?」

「うん」

「勝手に?」

「そうなるね。だってしょうがないもん」

「まったく」

そうは言いながらもカップから漂ってくる艶美な香り。
こんな香りを嗅いでいると、「しょうがないかな」と思えてくるから不思議なものだ。
確かにこの山荘はその当主を失っているし、この緊急事態だ。
そう、マリアの言うとおり「しょうがない」のだ。

ゆるりとカップを持ち上げる。
この香りだけで脳内にアルコールが廻りそうだ。
一口飲んでみる。
口の中に紅茶の鋭さと芳醇なウィスキーの風味が広がる。

「あ、・・・おいしい。」

「でしょ」

マリアも得意げに自分のカップを傾ける。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら飲み干す。
鷹梨もおっかなびっくりではあるが、マリアが手渡してくれた紅茶に口をつけた。
ぽぅっと頬が紅潮するのが解った。
可愛らしい。
単純にそう思った。

後は何て言う事は無い、世間話になった。
各々の入団当時の思い出話や、最近の恋愛事情にも花が咲いた。
こうやっている間は私たちは普通の女の子であると自覚できる。




ふと、窓に視線を移した。
漆黒の闇夜に、薄らボンヤリ浮かび上がる雪の結晶。
浮かび上がってはぶつかり、ぶつかっては消え、消えてはまた浮かび上がる。
そんな永遠のような循環。
その循環に呼応するように、闇の奥底から蠢く風切音。


耳を澄ませば聞こえてくる、雪が窓ガラスをたたく音。
まるで意思を持ったように連続した規則性を持った波長。
何かを訴えかけてくる様な、哀しみを帯びた音色。

不思議な音色だった。

そう聞こえた。



あるいは。
そうあるいは。


―――ここから早く逃げた方が良いよ――――


そう言ってくれてたのかもしれない。

連日の地方公演と、この特殊な環境で精神が少々参っているだけなのだ。
猪井田はかぶりを振って、頭に浮かんだ絵空事を振り払った。




先に言っておこう。
私の悪い予感は当たっていた。
このとき、吹雪に視覚の全てを奪われるのだとしても、この山荘を飛び出すべきだったのだ。


この山荘は後に、惨劇に包まれることとなる。




そう、それは突然だった。

山荘内に、一発の銃声が鳴り響いのだった。。





*  *  *

第二章

確かに聞こえた。
この山荘内には似つかわしくない、何かの炸裂音。
大きな単発のねずみ花火が爆発したような音だった。

目の前の猪井田さんと顔を合わせる。猪井田さんも何が起こったのか解らないという顔だった。
音がしたのは二階の方からだ。
十秒、二十秒、耳を澄ませてみるが、それっきり音は聞こえてこない。
いつもの静寂な空間に戻っていた。

「何、今の音?」

最初に口を開いたのはマリアさんだった。
その小さな顔に似合わない大きな瞳をパチクリさせながら、階段の方向を見つめる。

「と、とにかく二階に行ってみましょう」

猪井田さんの先導のもと、私たち三人は階段を上り二階にやってきた。
そこでは同様に先ほどの謎の音を聞いたのか、部屋から先輩方が顔を覗かしていた。
まず最初に顔を出していたのは真壁さんだった。寝巻のパジャマ姿で顔を半分出していた。
他にも霧さんはシャワーでも浴びていたのか頭をタオルで拭きながら、未里ちゃんは瞼が半分下がっていて寝起きそのものだった

「ちょっと。今の音はなに?」

猪井田の問いに、メンバー互いに顔を見合わせるが誰も答えない。
みんな、何も知らないようだ。

「誰か花火でも買ってきて、間違って引火しちゃったんじゃないの」

長袖Tシャツの浦澤さんは冗談っぽく受け流す。
でも本当に花火かその類の音だっただろうか。
それにしてはそっけない単発で終わったが、しかし腹の底に響いてくる音だった。

「本当に誰も知らないの、あれ?」

マリアさんが何かに気づいたようだ。

「・・・・・・舞は?」

「ん?」

「舞だけが部屋から出てこないんだけど・・・」

全員の視線が鶴井舞の部屋のドアに集中する。
廊下の北側、奥から二番目の部屋のドアだけが開いていなかった。
あとの他のメンバーはドアから顔を出しているのに、鶴井舞だけがその姿を現さなかった。


「舞、ちょっと良いかしら」

猪井田さんがドアを軽くノックする。
しかし反応は無い。

「舞、寝てるの? お願いだから少し起きてくれないかしら」

それでも反応はゼロだった。
まさかさっきのさっきまで起きてたのに、こんなに早く熟睡すると言う事もあるまい。
それなのに一切の反応が無い。
一同の空気に嫌な空気が流れる。
まさか・・・。
「まさか」ではあるが、万が一の事を考えドアを開けようとドアノブに手を掛けてみる。しかし

「・・・あら」

「どうかしたんですか」

「廻らない」

見てみると猪井田さんは力を込めてノブを回そうとしているが、ノブは固く閉ざされていた。
それを見ていた不二見さんが

「私に貸してください」

代わりにドアノブを握る。しかし結果は一緒だった。

「鍵が掛かってるんじゃないですか」

今度は田子さんだった。
紺色のスウェトに身を包んだ小柄な体がひょいと覗かせる。

「まさか、鍵かけて寝ちゃったとか」

「わざわざ? 泥棒や痴漢と一番無縁なこんな場所で?」

「なんにせよ、これだけ呼んでも反応が無いって言うのは、もしかしたら何かあったのかも」

「よし、私が鍵束を下から持ってくるよ。それで良いんでしょ。ちょいと待っててよ」

真壁さんだった。
その屈託のない笑みを崩さず、くるりと方向転換したかと思うと、そのまま駆け足で階段を下りて行った。
ペタペタと少々間抜けな音だった。

「でも変ですね」

今度は貴中怜だった。
鶴井舞と日頃仲の良い貴中が、首をひねりながらドアを眺める。

「舞、どっちかと言うと夜型人間のはずなのにな。こんな時間に寝るなんて今まで・・・。」

何処か腑に落ちないと言った表情だった。
しかし私はこのとき、それほど深刻に考えなかった。ここ連日の地方公演の疲れが出ただけだろう。
そんな風に短絡的に考えていた。
走行考えているうちに一階から真壁冬香が戻ってきた。

「お待たせ。これだろ?」

その手には一歩一歩ジャラジャラと金属のぶつかる音がする鍵束が握られていた。
猪井田はサンキュウと言って受け取る。部屋番号にある鍵を探し、鍵穴に差し込む。回転させれば少しの抵抗の後、すんなりと廻った。
それは「ガチャリ」と言う特有の金属音でも解った。

「舞、悪いけど開けるわよ?」

猪井田が再びドアノブを握った時だった。
猪井田の身体がその場から動かない。もちろんドアも開いていない。周りのメンバーもどうしたんだと覗き込む。

「姫世、一体どうしたの。早く開けなよ」

「・・・・・・開かないんだ」

そう言うとドアノブから手を離した。

「ドアノブは廻るんだけど、幾ら押しても開かないんだ」

メンバーは顔を合わせる。そんな馬鹿なと訝しんだ者もいただろう。
猪井田の代わりに知尻がドアノブを握っても見た。小さな掌に精一杯の力を込めて押してみたが、びくともしない。
念のため引いても見たが、やっぱり効果は無かった。
他のメンバーが代わる代わる試してみるが、やっぱり結果は変わらなかった。

「『栓抜き』掛けてるんじゃないんですか?」

間の抜けた声あった。すぐに発言者が霧だと解る。

「『栓抜き』? なにそれ」

「だってあったじゃないですか。ドアのすぐ近くに」

「ドアの近くに? 栓抜きなんてあったっけ」

「ほら、つっかえ棒とそれを差し込む溝みたいな奴ですよ。解んないかな~~」

自分の言いたいことが通じないのか霧綾美は大層ご立腹だが、何を言いたいのか解らないこちらとしても心境は同じだ。
『栓抜き』
果たしてビール瓶が転がってる訳でも無いのに、ドアの近くに果たして栓抜きなどが置いてあるものだろうか。
それも一部屋一部屋に。
恐らく霧が言いたいのは・・・。

「・・・・・・それって『閂(かんぬき)』のことじゃないのか?」

知尻のナイスフォローだった。
霧はきょとんとしてる。
『せんぬき』と『かんぬき』。
あぁ、なるほど。
それを聞いて霧もとたんに顔を紅潮させる。


閂とは、言ってみれば簡易的な鍵の事である。
主に建物のドアなどに用いられ、木製や金属製のボードをスライドさせて、鍵穴のような部分に差し込む。
これだけである。
ドアはそのボードに引っかかって開けることが出来ないと言う仕組みだ。
単純なだけに、外部から開けようと思うと思いのほか手間を取る仕組みでもある。
鍵棒だけでなく、閂まで施す意味が良く解らなかったが、『閂が掛かっていたからここで諦めましょう』とは行かないであろう。
必死でノブを握っている猪井田さんがこちらを向いた。

「こうなったらしょうがないわ」

「ど、どうするのさ。姫世?」

「打ち破るわ」

「えっ! 打ち破る? ドアを?」

「勿論よ。もしかしたら舞が部屋の中で苦しんでるかも知れないじゃない」

「でも、いくらなんでも勝手に建物の一部を壊すなんて」

「しょうがないわ。緊急事態よ。瞳も手伝いなさい。」

そう言うが早いか、猪井田姫世はその身体を鶴井舞の部屋のドアに打ちつけ始めた。
浦澤瞳もどうしたら良いのか解らずに周りの皆の顔を見合わせた後、決心したのか、あるいは諦めたのか猪井田の言われるがまま、その強靭な身体を同様にした。
その後は、真壁冬香、知尻マリア、貴中怜らも加わりその分厚いドアの破壊を目論んだ。
最初は梨の礫だった鶴井の部屋のドアも、一回二回と皆が打ち付けるたびにギシ・・・と僅かな声を発していた。
十回二十回と繰り返せば、眼に見て解るようにドアが軋み始め、三十回を越えたあたりで、バリバリと大きな音を立てて気の壁は崩れ去った。
勢い余って猪井田や浦澤はそのまま部屋の中に倒れこんだ。
その先には鶴井舞が、「どうしたんですか?」といつもの天然な表情で向かい入れてくれた・・・・・・

はずだった。



しかし現実はいつも我々の想像を簡単に、そして酷く超越する。
そこに鶴井舞の姿は無かった。
いや、「無かった」では正しくない。
正確に言えば「生きている」鶴井舞はなかった。
その代わり、「既に事切れている」鶴井舞が横たわっていた。
真っ赤な鮮血にその身を浮かべ、力無く四肢を投げ出した鶴井舞だった亡骸が横たわっているだけだった。



私は茫然としていた。
いや、茫然と言うよりも何が起こったか解らない、と言った方が正解だったかもしれない。
目の前の光景の意味が解らないのだ。
ほんの数時間前まで、他愛もない会話をしていたはずの演劇仲間であり同僚であるはずの鶴井舞が、真っ赤な液体の中央に横たわっているのだから。
恐らく私だけではないはずだ。ここにいるメンバー全員がそうだったに違いない。

ただただ真っ赤で
ただただ静かで
ただただ遠い

そんな世界が広がっていた。

どれほどの時間を茫然としていただろう。
最初に動いたのは瞳さんだった。
ゼンマイが切れた人形のように動けない猪井田さんを突き飛ばし、瞳さんは舞ちゃんに駆け寄った。

「おい! 舞! 大丈夫か!?」

自分が血に塗れることなんかお構いなしに、浦澤さんは横たわる舞ちゃんを抱きかかえる。
その華奢な身体を必死に支えながら、その名を連呼する。
でも舞ちゃんは重力に従順にその全てをだらりと投げ出し、全く動く気配がない。
その浦澤さんの動きで漸く皆はその呪縛から逃れることが出来た。
一歩一歩と横たわる鶴井舞に近づく。
しかし、浦澤瞳の様に鶴井に抱きつくことが出来ないでいた。

「ひ、瞳・・・・・・。マイは、舞はどうなの?」

真壁冬香だった。
ゆっくりと近づきながら、しかしその声には半分諦めの籠った声だった。

「わ、解りません。ただ・・・、い・・・いきも、してないし・・・・・・、から、も、つめたい・・・。」

半分泣いていた。
あの瞳さんが、ここまで狼狽している。
いつも豪胆無比で兄貴肌の浦澤瞳さんが、言葉一つまともにしゃべることが出来ない。
その様子だけで、鶴井舞の状態が絶望的であることがうかがえた。


ここでお腹の底から蠢く衝動を感じた。
胃が熱く脈動する。それは食道を遡り、喉を焼き付ける。
飲んでも飲んでも飲みきれない波が押し寄せてくる。
咄嗟に両手で口元を押さえ、縺れる足で部屋を飛び出す。
その後の事は良く覚えていない。気がついたら、便器に顔を突き出し、嗚咽を吐いていた。
何処にこれ程の内容物をため込んでいたのかと言うくらいの大量の吐瀉物を、鬼の啼くような咆哮で押し出したのだった。


鶴井舞の部屋に突入してから半時間が過ぎようとしていた。
メンバーは全員、一階のロビィに集合していた。勿論、そこに鶴井舞の姿は無かった。


「姫世、舞ちゃんは?」

知尻が小さな声で猪井田に聞いた。

「瞳と藍那に手伝ってもらって物置に安置してるわ。ほら玄関のすぐ外にあったでしょ、小さな小屋が。あそこよ」

「・・・そっか。」

それ以来、会話は聞こえてこない。全員が沈痛な面持ちで椅子に座っている。
こう言う時に限って、雪音が沈黙を掻っ攫ってくれない。

「瞳さん」

「ん、怜どうしたの?」

「こんなこと聞くのも何なんですけど、舞は、本当に死んでたんですか?」

浦澤瞳は口を横一文字に結び、何かを思い出すように呟く。

「私も信じたくないけどね、でもあれは誰がどう見ても死んでるよ。怜も見たでしょ」

そう言うと浦澤は自分の右手の人差し指を突き出し、己の額に押し当てる。

「額が銃か何かで撃ち抜かれてたんだよ。あんなに血も出てたし、仮に生きてたとしても、今の私たちじゃ命を救うことはできないよ。」

その言葉により、再び深い沈黙が訪れた。
互いに次の言葉を懇願するかのような沈黙だった。
そんなとき、真壁が口を開いた。

「これって『自殺』なのかなやっぱり。ドアも閉まってたし」

「・・・そりゃそうよね。誰かに殺された訳じゃ無ければ、そう言う事になるわね」

その言葉に真壁冬香は、宙に視線を浮かべ言葉をこぼした。

「どうして、舞ちゃんは、死んじゃったのかな・・・」

一瞬にして場の空気が変わったのを感じた。
今までとは違い、冷たさに加えて硬さも加わったような、空気だった。
そんな空気の変化を感じたのか感じてないのか、真壁は続ける。

「やっぱり、『あれ』が原因なのかな」

その瞬間だった。

「やめなさいよ!」

猪井田さんだった。
猪井田姫世が激昂したように叫びを上げた。
普段は厳しいながらも、大声を上げるような人では無かった分、とても驚いた。

「そんな根も葉もないうわさ話を真に受ける必要無いわ。『あんなこと』はさっさと忘れましょう。ほら、皆疲れてるわ。もう寝ましょう」

リーダーのそんな一言でその場はお開きになった。

悲しみにくれるもの。
納得のいかないもの
精神的に疲労のピークを迎えるもの

それぞれが、自分の部屋に戻っていった。



私は寝れなかった。
体調不良もあり昼間から寝ていたせいだろうか、夜が深くなっても眠気が襲ってこなかったのだ。
用意されていたベットの中で何度も寝返りを打つ。
眼をつむっても、頭の中に様々な映像が蘇ってくる。

鶴井舞。
年齢は2つ下ではあるが、この世界に入ったのは自分の方が遅かった。
最初の印象は物静かな子だなって事だった。
でもステージ上ではその印象は大きく異なっていた。
無言の演技を多弁に語っていた。
無言の演技は抜群にうまく、薄幸の少女を演じれば右に出るものがいない、そう思っていた。
貴中さん以外の人と喋っているところはあまり見ず、いつも何処か宙を見上げていたり、狭いところを好んでいたりと、少々変わったところがあるとも思っていた。
それでも多少天然の入っている笑顔が可愛らしく、印象的でもあった。
そんな映像が、まるで洪水のように溢れ返ってくる。


あぁ、まだ眠れそうにない。


身体を起こす。
これ以上、瞼の裏のスクリーンに鶴井舞の亡き面影を映し出すのが辛くて堪らなかった。
窓から漏れてくる月明かりだけが、幽玄な雰囲気を醸し出していた。
このままでは寝れない。
私は部屋を出た。
部屋のすぐ右隣の部屋をノックした。
理緒の部屋だ。
すぐに部屋の奥から、どうぞと帰ってきた。

「なんだ、愛ちゃんか」

新馬理緒はナイトテーブルに腰かけていた。普段まとめてある髪をほどくと、肩まである透けるようなベールの様だった。
そこで一冊の文庫本のようなものを開いていた。
新馬理緒は私の親友であった。
年齢も同じで話もあった。北陸の海沿いの小さま街出身であった私が上京しこの劇団に入ったとき、無邪気に話しかけてくれたのが彼女だった。

「やっぱり寝れない?」

視線を本から外し、優しく問いかけてくれる。
私は無言でうなずいた。

「今夜はいろんなことがあったね。吹雪と良い、舞ちゃんの事と良い、まるで夢の世界に居るみたいだよ」

理緒の言葉はどこか自嘲めいていた。
私はここで真壁さんの言葉の意味を聞いてみる。

「ねぇ。真壁さんが言ってた『あれ』って何のことか知ってる?」

「ん?  あぁ・・・・・・さっきの事ね?」

「そう。理緒は知ってるの?」

「私もお父さんの仕事の話を盗み聞いただけだから詳しいことは解らないわ。ただ舞ちゃんね、そうだな時期にしてこの劇団に入る前になるのかな、ある噂があったのよ。」

初耳だった。
確かに理緒の父親は警察のお偉いさんだと言う話は聞いたことがある。
しかしだからこそ、理緒にはそういった類の話はしないようにしていた。
それでもこの劇団に入団して随分になるが、そう言った類の話はこれが初めてだった。

「舞ちゃんね、中学校の卒業間近に友人を一人殺したことがある、って」

「!!」

息が止まりそうだった。
つい先ほど、非現実的な現実を突き付けられたばかりなのに、間髪いれずに再び非現実的な言葉が出て来たのだ。

「勿論、性質の悪い噂でしかないわ。少なくともお父さんはそううは思ってないはず」

「で、でも、友人を殺したことがあるって・・・」

「殺意があって殺してしまった訳じゃないわ。あれは事故だったって話よ」

「事故?」

「まぁね。私が盗み聞きした話を要約するとこうなるわ。中学校の卒業式の帰り道、舞ちゃんは仲の良い友人たちと学校から帰っていた。
友人たちと一緒に登下校するのも最後と言う事で、いつも以上に会話に花が咲いていた。その時友人の一人が冗談を言って、舞ちゃんがこれまた冗談に突き飛ばした。
ここまでは良くある風景だったが、その友人はたまたまバランスを崩した。
それがたまたま道路であって、そこにたまたま大型トラックがスピードを出しすぎたまま、
そしてその友人はそのままトラックに轢かれてしまい、たまたま打ち所が悪く病院で息を引き取った。
そんなことよ」

「そんな、それって舞ちゃんの責任なの?」

「まさか。過失があったのはトラックの運転手よ。運転手もそれを素直に認めてるわ。舞ちゃんに過失は無い。ただ、卒業式の日と言う事もあり、
クラスメイトや遺族に充分な釈明ができずに新生活のため離れ離れになってしまったから、噂に背びれや尾ひれがくっついただけよ」

「舞ちゃんはそのことを未だに引きずってるのか。自分が殺してしまったって・・・。もう4年も前の話なのに」

「4年も前の話だからでしょ? 過失がどうあれ、友人を殺しておいて4年間ものうのうと生きた自分が恥ずかしくて堪らなかった、そうとも考えられるけどね」

その言葉を聞いたとき、新ためて理緒の冷静さを驚嘆し、同時に恐怖した。
感情的である自分に比べ、理緒は何処までも冷静であり客観的であり、そしてどこか無機質に見えた。
自分の身内が死んでしまって一時的にショックがあったとしても立ち直りが比較的早い。
またすぐにその原因を思考することが出来る。
しかしそれは同時に、何処か一歩引いた場所に存在するからではないか、時たまそう思う。
同じ職場の同僚ではなく、あくまで別の個体、別の生命体としてとらえているからこそ、ここまで客観的になれるのではないか、そう思えてしまう。
でもだからこそ、舞台での複雑な酷務を成し遂げることが出来るのだ。

「何処から持って来たんだろうね」

「何の話?」

「銃だよ銃、拳銃。舞ちゃんが握りしめていた拳銃って、いつ何処で手に入れたんだろう。愛ちゃんはどう思う」

「どうって言われても。私よりも理緒の方がまだ詳しいんじゃないの。例えば何処からなら入手しやすいとか」

「何処から、何処からねぇ。一番簡単なのはインターネットじゃない? ネットカフェなんか使えば足もつかずに注文することもできるし」

「そんなに簡単に手に入れられるものなの。だって拳銃でしょ?」

「時代が進んだんでしょ。良くも悪くもね

理緒はそんな一言だけを残した。


その後は鶴井舞の事件には触れなかった。
最近の日常生活について、恋愛事情、演劇について、本当に他愛もない話で時間をつぶした。
できるだけ、「鶴井舞の自殺」と言う事件を忘れようとしていただけかもしれなかった。



*  *  *


窓の外は、全くの黒一色だった。
窓ガラスには、自分とまったく同じ顔が浮き上がっていた。その顔は健常とは言えず、どこか疲弊しきった顔だった。
視線を窓から手元の一冊の本に落とした。
掌サイズの文庫本だった。
表紙は陽の光で色褪せながらそれでも紺色をした表紙に青白い月が描かれていて、とても幻想的であった。

理緒の部屋でのお喋りを終え、自分の部屋に帰ろうとしたとき、

「これ読んでみれば。この山荘の元々の持ち主の書いた小説。猪井田さん曰く、凄い有名な作品なんだって」

そう言って手渡された一冊の小説、それがこの本だった。
ええっと、タイトルは・・・

「『猛き月』か。」

不思議なタイトルだと思った。
月と言えば、何処かほの暗く、華奢なイメージが強い。
太陽を男性と捉え、対に月を女性的と捉える慣習が日本にはあるのではないだろうか。
少なくとも、私にはそう言ったイメージが強かった。
『猛き月』、その我々が持っているイメージに真向に反対したタイトルに、私は微かに心惹かれた。
そっと表紙をめくった。


――――月には人を魅了する不思議な力を持っている。
        しかし、それは月が人間を解放するわけではない。
            月は人間を呪縛し、人は月に踊らされて狂気に駆り立てられるのだ
                月は人間にとって良心的な友達ではない。
                    月は人間にとって、謂わば『催眠術師』なのだ――――


そんな穏やかではない一文から小説は始まっていた。
丸々一ページを使って書かれていたのがそれだけだったのだ。
何処か不可解な、しかしそれでいて先の見えない深さを持った言葉だった。
更にページを開く。

そのまま何時間が経ってしまっただろう。
途中、吹雪の声も全く聞こえなくなるくらいに私は集中しきっていた。
気がつけば時計の短針は「3」を半分超えていた。

「もう、こんな時間か」

ゆっくりと最後のページを畳む。現れた背表紙にはバーコードと出版社しかかかれていない。
後は一面真っ黒く塗りつぶされている。まるでここから見る外の世界だ。
いや、まだ白い雪が降っている分、この背表紙の方がもっと深淵な闇だろう。

立ち上がり一度大きく背伸びをする。
こんなに机に向かい合って集中したのは何年振りだろう。
およそ3時間。
少なくとも学生時代にはあり得ないことだった。


この小説を思い返してみる。
分類としてはミステリ小説に類されるものだろう。


ある町で殺人事件が起こった。
深夜、飲みかえりのサラリーマンを襲った事件だった。
そのサラリーマンは全身を刃物でめったざしにされていたが、財布は無事だった。警察は快楽殺人の可能性もあるとして、
捜査を始めた。
しかし、何故か目撃者が皆無で捜査は一向に進まなかった。
おまけに同様の被害者は増える一方だった。やはり金品強奪等の目的ではないようだ。
次々と、快楽殺人が真夜中に転がり現れる。
その被害者同士の関係は特に無い。
また不思議な事に事件が起こるのは決まって、何故か満月の夜だけだった。
満月以外の夜は、決して事件は起こらない。
そして、ある満月の夜、1人の女性が被害に遭う。状況は全く同じ。
その女性の恋人の主人公は憤怒する。
けれども、警察は捜査が進まない。証拠が出てこない。今忙しいと言って、相手にしてくれない。
男は自らの手で犯人を見つけ出し裁きを下す事を決意した。
ここから犯人と主人公の駆け引きが始まる。


そんなストーリだった。

満月の光で意識を失い湧き上がる狂気で殺人を犯していく犯人。
酒も薬も女も超越した至高の快楽に溺れることが出来る満月状態。
しかしひとたび満月が薄れいくと徐々にその狂気が浄化されていく。例え自分が故意が無かったとしても、自分の罪深さに苦しみ、
何とかして何とか罪滅ぼしが出来ないかと苦悩する殺人狂の視点。

様々な情報や自分の知能を駆使し犯人を少しずつ追い詰める男。
犯人の殺してきた被害者や遺体を目の当たりにしてきて、また同様に月光を浴び続け
犯人の感情・思考などが理解でき始めてくる。その結果、少しずつではあるが犯罪・殺人と言うものに興味を持ち始め、
そしてある日一線を越えてしまう。つまり同様に満月の夜に殺人を犯してしまう男の視点。

そんな『満月の殺人狂』と『恋人を殺された主人公』、二者の視点が実に見事に絡み合っていく。


恋人を殺されて、自分に対しての無力感や不甲斐無さ、その復讐心から犯人を追い詰めていくはずの主人公。
しかし、その心に変化が見え始めていた。
最初は殺された恋人だけでなく、その他の被害者の為にも社会正義に燃えていた主人公が、徐々に殺人鬼を追い詰めていくごとに
殺人鬼に影響されて、その精神に破壊衝動が現れ始めてくる。
月の光を浴びごとに、その心に潜伏している野性の本能をどんどん湧き上がらせる。
月の光は、心の闇の部分を増大、成長させる効果があるのだろうか、主人公の人格が見る見るうちに歪んでくる。
始めは些細なその衝動だが、膨らみ始めたその衝動に駆られてくる。
最初は、耐えて心の奥底に押し殺していたその衝動の芽は、月の光を浴び更に成長を続ける。
徐々に、制御の利かなくなってきた理性と、膨張してくる野性との板ばさみで苦悶を繰り返す。
そして衝動が理性を打ち負かした時、遂には自分が殺人を犯してしまう主人公。


満月の光に酔わされて、麻薬のような一種の興奮・覚醒状態になってしまう殺人鬼。
一瞬にして膨れ上がった邪悪な本性は、体そのものを乗っ取る。
その気の赴くままに、気の済むまで殺人を犯す。
しかし、満月が過ぎ去ると興奮が冷めて、自分のしでかしてしまったことを激しく後悔する。
満月の夜だけ、意識が朦朧とし激しい殺人衝動に駆られ、しかし満月が地に沈み朝がやってくると、理性が帰ってくる。
裁判に掛けられても、法の下では『心神喪失』と見なされ、裁かれずに済むだろう。
それでも自分のしでかした事の重大さは、心に深く重く圧し掛かる。
理性の働いているうちは、その事を深く後悔し、自分に落胆し、2度と犯行を犯さないことを、心の中で誓う。
けれども、再び満月が訪れると、再び衝動に駆られ犯行を起こす。
それがどうしたことだろう、一瞬にして成長した衝動は、再び月光を浴びるごとに、その闇の部分が、どんどん和らいでいく。
満月の夜に犯行を繰り返すたびに、衝動に駆られて意識が飛ぶ時間が、どんどん短くなっていった。
心の野性の部分が、月の光で浄化されているかのように思えた。
そして、自分への嫌悪感と激しい後悔、被害者への懺悔の気持ち、そして全てに対しての無力感や脱力感に満たされる殺人鬼。


―――恋人を殺害されて復讐を誓った主人公の男性。

―――月の光に踊らされ殺人狂と化した謎の殺人鬼。

―――満月の夜になる度に、この2つの視点の駆け引きがページの上で壮絶に書き上げられている。

―――情景描写、心理描写、小説素人だろうと愛好家だろうと惹き付けて止まない独特の味わい、次のページ、次のページと
読み手を飽きさせない不思議な力をもちつつ、それでいて重厚で刺激的な作品。

自分は文学評論化でもその書き手でも無い。
それでも充分すぎるほどに、この作品の完成度の高さを噛みしめた。


*  *  *


ここで鶴井舞のことを思い出してしまう。
こんな雪山の奥深くの、陸の孤島とでも呼べるような山荘。
いつ何処で入手したかも解らないような拳銃を握り締め、その静謐な顔に無残な銃創を焼き上げて。
彼女は自殺した。
日本人形の様な端正で静かな美しさを持ち合わせる少女。
何を考えているか解らない、まるで空気のようなオーラを持った彼女。
その表層には見てとることが出来なかったが、その内面には私たちの想像もできなかった闇を抱えていたのかもしれない。

自殺?

自殺?

本当に自殺?

彼女が本当に自殺?

あの子が自殺なんてする筈がない?

どうしてそう言い切れるの?

人の心なんて、そう簡単にのぞき見える訳が無いじゃない?

でももし本当に自殺じゃなかったとしたら?

殺人?

もしかして、殺人?


はっと空を見上げる。
厚い硝子と、宇宙空間を超えたそこには、さっき覗かせた時と同じ顔をした『月』が笑っている。
まるで、始めからこうなることを知っていたかのように、
そしてこれから起こるすべての事を知っているかのように傍観者を決めだして、ただケラケラ笑いながら自分たちを眺めている。



地球から30万km~40万kmも離れた場所にあるはずなのに、ちょっと手を伸ばせば簡単に届きそうな、
遠くて近い『月』

昔からお母さんが眠る時に話してくれた昔話にも、理科の授業にも良く出てきた存在なはずなのに、実際には触ったことも降り立ったことも無い
近いのに遠い『月』、その存在は狂惜しいほどに心を震わせる。

寒気と熱気、
恐怖心と好奇心、
震えと疼き、
光と影、
表と裏、
明と暗、

1つの顔が常に持つ2つの相対する表情。
人はこの摩訶不思議な『月』と言う存在に、心を惹かれ、奪われ、ときめかせ、
だがしかし、本当はただ単にその『月』の魔力によって操られ踊らされるだけ、

その淡い2つ照明が、鷹梨心の闇を色濃く刻印する。
月明かりで、床にぼやけた人影が映る。
あたかもそれ自身が生命を持っているかのように、闇を流れる雲により揺らぐ月光によって影自身が、ダンスを踊る。
その新たな生命が、鷹梨の心の闇の部分を双映しているのか。それともこれも『月』の魔力なの?




かぶりを振る。
私はどうかしたのかもしれない。
こんな突飛な思考をすることなんて今まで無かったのに。
きっと疲れているんだ。
舞ちゃんの事件も重なって神経が参っているんだ、そうに違いない。
今日はもう休もう。
明日になれば、麓から迎えが来るはず。
そして東京に戻ってから、ゆっくりと考えよう。

そう自分に言い聞かせ、ベットの中にもぐった。
眼は冴えきっていたが、寝なくては潰れてしまう。
布団にもぐって眼を瞑るだけで良い。
そうそれだけで・・・。


ゆっくりと
ゆっくりと

意識は闇の中に沈んで行った。




*  *  *



クルクルと廻る私。
照明一つない舞台の上で、私は片足だけで廻って見せる。
観客はいない。


―――なんだか変な舞台だ。


私一人だけが舞台で奇妙な舞を披露する。
隣には大人しく座っている鶴井舞の姿。


―――舞ちゃん?


鶴井舞は虚ろな目をしながらこちらを見てくる。
その死んだような虚ろな目


―――どうしたの舞ちゃん?


呼びかけに何の反応も見せない。
私の声のはずなのに、何故か舞台に反響すらしない。
時に速く、時に緩慢な艶美な円舞。
徐々に鶴井舞に近づいていく。


―――ここは何処? どうして何も喋ってくれないの?


己の意思とは無関係に、二人の距離はどんどん近付いていく。
遂に鶴井の正面で踊りを止めると、不意に右手を高々と突き上げる。


―――なんなのこれは?


拱く様に腕を回す。そこには鈍色に輝くナイフが一本


―――ナイフ? どうして?


誰も答えてくれない問
観客不在の演目
そして制御不能な私


振り上げられた右手は、そのままの速度で振り下ろされる。


―――え、嘘!? 逃げて!


鶴井は依然として光を失った瞳をこちらに向ける。


―――止まって!


ナイフはそのまま鶴井舞の胸に突き刺さる。
深々と肉を食いちぎるように、深部へと到達する
紅い花弁が四方に飛び散り、鶴井はそのまま沼に沈んでいく。

何かを悟った様な
何かを憂んだ様な


―――もう止めて!!


私の声は霧散する。
私はそのまま無人の客席に礼をする

ただただ笑みを浮かべた満月があるだけだった。


「もうやめて!!」




次に意識が戻ったのは、自分の部屋だった。
木目調に白い塗料の塗られた、山荘の中の一室だった。
ここで漸く今までのが夢であったことに気付いた。
何とも奇妙な、後味の悪い夢。

時計を確認すると、7時を少し過ぎていたくらいであった。
およそ4時間。
身体の疲れとは反比例するように、精神の高ぶりが原因だった。
寝た気がしない、しかしこれからベットに潜っても寝れる気がしない。
仕方なく立ち上がる。


部屋を出れば、キンと冷えた空気が流れ込む。
その空気に紛れて嗅ぎ覚えのある紫煙の香り。
そのまま一階に下りてくると、ロビィには2人の先客がいた。
浦澤瞳と貴中怜だった。
暗澹たる窓ガラスを背に斜に構えているのは、劇団で唯一の愛煙家でもある浦澤瞳、
いつもは男勝りな豪胆さを前面に出した人のはずなのだが、その口元に短くなった煙草を咥えながら、暖炉を眺める。
一方の貴中もソファに腰をかけながら、同じく暖炉の方に目を向けていた。
特に何を話す訳でもなく、2人はそのゆっくりな時間の流れを共有していた。

自分の足音に気づいたのか、浦澤瞳がこちらに眼をくれる。

「あぁお早う。今朝は早いね」

シニカルな笑みだった。その言葉にはやはりどこか疲労の色が出ていた。

「愛ちゃん、おはよう」

「おはようございます」

「昨日はよく寝れた・・・、訳無いか? 顔見れば解るよ」

「えぇ。寝付いたのも遅かったし、それになんだか良く寝たって気がしなくて」

「そりゃそうだ。昨晩にはあんなことがあったんだし」

私はそうですね、と応えながらも視線を横の怜に向けていた。
あまりここで昨日の『鶴井舞事件』の事を話題に出したくなかったからだ。
貴中怜と鶴井舞は、日頃かとても仲が良かった。年齢も入団時期も近いことがあって、何かと一緒だった。
そんな貴中怜にとって、目の前で鶴井舞の死に関する話題は例え話題のベクトルを好意的な方向に向けたとしても、やはり憚られた。

「雪、止みませんね」

怜だった。
自分から話題を変えようとしたのか、天気の話になった。

「県警の救助隊も2~3日はこっちに来れないって言ってたしね」

2~3日。
その言葉の響きが残酷に響いた。
いくら予見していたからと言って、いざ現実に突き付けられると思わず眼が眩みそうだった

「全く。これじゃお家に帰えってゆっくり休めないな。私も、そしてあいつもね・・・」

そう言った浦澤瞳の視線は、山荘のすぐそばのかの小屋に向けられていた。
そう、鶴井舞の眠っているあの物置小屋だ。

「台風、地震、津波、雷、そして猛吹雪。科学技術が進歩したって言ったって、これらのどれを止められる? 所詮私らのできることなんざ、たかが知れてるんだよ。
できること言えば、それを受け止めること。解った?」

浦澤さんは、根元まで吸いつくした煙草の吸殻を暖炉の中に放り込んだ。
うまい具合に小枝や新聞紙に燃え移り、暖炉の中は見る見るうちにオレンジ色に染まっていった。


浦澤さんは、理緒と同じだ。

感性や本能を、理性がちゃんと制御できる人間だ。
どんな場面でも取り乱さず、第三者視点から客観的に物事を把握できる。
何処までも硬く、何処までも強くそして何処までも柔軟な人間だ。

『猛き月』

そんな言葉が一瞬頭に浮かんだ。
本来は優しく可憐な女性的な月、
そして強く雄々しい猛き性質、

正しく浦澤瞳を映し出している、そう感じた。



「どうだ2人とも、ここらで一杯飲んでみるか?」

怜と共に私も訳のわからない顔をしていると、

「お酒だよお酒、アルコール」

浦澤瞳は、お猪口を口元で傾けるジェスチャを見せた。



そう言ってキッチンから琥珀色の液体が入ったボトルとグラス3つを持ってきた。

「暖房を入れるのも良いけどな、いつまでここに閉じ込められるか解らないだろ、燃料は節約しなくちゃ。その代わり暖をとるにはこれでしょ」

慣れた手つきで、グラスに大きな氷を1つと琥珀色の液体を注ぐ。
ボトルからは、きついアルコールの揮発する匂いと、同時に微かなフルーティな香り。
ウィスキーやスコッチと言ったお酒であろう、浦澤瞳はそえをおいしそうに傾ける。

「あれ。怜はウィスキー嫌い?」

「いえ、嫌いとかそういう事じゃなくて。私、未成年なんですけど」

「知ってるよ。まだ19歳だっけ。それが?」

「未成年にアルコールを勧めないでください。浦澤さん、そんなこと言うと未成年からお酒飲んでたみたいに聞こえますよ」

「変な奴だな。そんなこと言ったら、未成年なのにお酒飲んで無いみたいに聞こえるじゃないか」

私と怜は思わず顔を見合わせた。
取り敢えずグラスを乾杯させる。

ウィスキーを飲むのは初めてだった。
一滴口にするだけで鼻に独特の香りが抜け、喉が熱湯を流し込まれたようにSOSを発してくる。
こんなものを良く平気で飲めるなとも思ったが、確かに身体が温まるのは確かだ。



*  *  *

「私、舞が自殺したとは思えないんです」

両手でグラスを持っている怜が呟いた。
俯いている彼女からはその表情はうかがえない。

「気持ちは解る。言いたいことも解る。しかし現実は現実だ。あの時、舞に息は無かったし、もしあったとしても今の私たちじゃ助けられ・・・」

「違うんです。舞は『自殺』じゃないと思うんです」


―――自殺―――


その響きに、思わず肩がぶるりと震える。
怜は自分の言葉を確かめるようにゆっくりと続ける。

「舞は普段饒舌な方じゃないし、何かと暗く思われがちですけど、それでも間違っても自殺するような人間じゃない」

怜の言葉に浦澤は反論する。

「『自殺じゃない』ね。じゃあ殺人?」

「さぁ。そこまでは何とも言えませんが。あるいは事故の可能性もあるんじゃないですか?」

「事故ねぇ・・・」

浦澤はウィスキーを啜る。

「もしこれが事故なら偶然起こったってことだね。舞が拳銃を持ってたことも偶然だし、部屋に錠前鍵と閂鍵の両方を掛けたのも偶然だし、
それに部屋の中で暴発が起こったって言うのもまた偶然。偶然が三回も立て続けに起こらないよ。
かと言って、殺人事件なら少なくとも犯人が他に居る訳だ。そんな犯人は少なくとも私たちの中にはいない、いるはずがない。だとしたら殺人でもありえない。
となると残りは自殺しかない、私はそう思うよ」

「偶然に偶然が重なる事だって稀にあります。可能性はゼロじゃありません」

私はとっさに身構えた。
空気が突如変わったのだ。

「極小の偶然が立て続けに起こる確率と、彼女がふと自殺を思い立った確立とどっちが高い? 怜は『確率』って言葉を楯にして現実を直視したくないだけだよ。
私だってね、こう見えても結構傷ついてるんだよ。大切な後輩を一人、自殺という形で失ってしまったんだから。
心から、彼女は自殺したに違いない!、って思いたい訳じゃない。でも現実は現実。受け止めなくちゃ」

そう言うと懐から煙草を取り出す。
さして美味しそうでもなく、火を点ける。

「でも、でも少なくとも自殺な訳無いんです。これはちゃんと言いきれます」

「う~~ん困ったな。じゃあさ、怜は何で自殺じゃないと言い切れるの? 証拠は?」

「証拠、証拠ですか? 証拠って言われても・・・」

「現に舞の部屋は鍵が掛かってたじゃない。キーロック式の鍵と、もう一つは閂。あれって所謂『密室』ってやつでしょ。あれは部屋の外からじゃどうやたって無理だよ。
舞自身が自分の意思で掛けたものに決まってる。だとしたら、殺人はあり得ないってさっきも言ったけど?」

「えぇそうなんです。そうなんですけど・・・」

その時だった。
ふと、私の頭にある疑問が浮かんだ。
普段は、だからと言って口にすることも少ないのだが、何故かこのときには、そのまま言葉に乗って口から発せられたのだ。

「・・・頭の傷」

「ふむ?」

「頭の傷ありましたよね、舞ちゃん。あの銃で撃たれた傷です」

「あぁ。あったね。額の銃弾の痕。それがどうかした?」

「あれ、おかしくないですか。どうして額にあるのかって、皆さん、思いませんでしたか?」

浦澤のカップがピタリと止まる。
瞼を一二度動かすと、そのまま指を顎に当て考え込んだ。

「・・・・・・成るほど。愛の言いたいことはそう言うことか。つまり拳銃自殺を考えるのであれば、『額よりもこめかみの部分を打ち抜くはず』、そう言うことか」

「そうか、確かに!」

「どうです浦澤さん、もしかしたら他の誰かに撃たれたのかもしれない、そんな『殺人』の可能性も考えられませんか」

「おやおや、愛も怜を擁護して殺人事件派か?」

「そう言う訳じゃありません。あくまで気になった点を挙げてみただけです」

「なるほどね。確かに手に銃を持って額を打ち抜くことは難しいかもしれないね。ただやりにくいからと言って皆が皆、こめかみを打ち抜くとは言い切れないだろ。
私自身自殺の過去が無いから何とも言えないけど、自殺しようとする人間は多かれ少なかれ平常な精神状態ではないってことだろ。
だとしたら、私たちが考えないようなことをしてしまう可能性もある訳だ。勿論、撃ちにくい額を撃ってしまう可能性も」

「それも『確率』ですか?」

「・・・。じゃあ言うけど、部屋の鍵はどうだい。『密室』だった訳だろ。部屋の外から鍵と閂の両方を掛けることが出来る?」

「確かに、それはそうですけど」

「2人も舞の部屋の後片付けをしたから解るでしょ。部屋には外部と行き来することが出来る場所が二か所ある。そう、ドアと窓だ。
ドアはあの時私たちが確かめたように鍵がしっかり掛かっていた。だからこそ猪井田さんを筆頭に皆で体当たりでこじ開けるしか方法が無かった。
一方の窓はどう? クレセント型のつまみを上下に移動させるタイプの鍵が掛かってたでしょ。あの窓が当時も開いていたように見える?
私はそんなことは無いと言い切れる。何故か。あの時、外は猛吹雪だったでしょ。もし窓が微かにでも開いていたのなら、ごうごうと風の斬る音が聞こえたはずよ」

私は圧倒された。
その浦澤さんの理詰めの口撃にたじろいだ。
しかし、反面違和感もあった。
幾らなんでもムキになりすぎだ。
何か、『鶴井舞=自殺』と言い切りたい、そんな雰囲気だった。
そんな違和感を抱えたまま、私は反論を試みる。

「糸や針金を使ったんじゃありませんか?」

「糸と針金か。確かに密室トリックには定番だね。外から糸やら針金を鍵に引っ掛けて、その後引っ張る。張力によって外れていた鍵がすっぽりとはまる。そんな具合?」

「えぇ。可能性はあると思いますよ」

「ふむ、また『可能性』、『確率』の話かい。じゃあ試してみたら。残念ながら糸や針金と言った類の代物は、一切通じないよ」

「え?」

「やってみたよ私。だけどねダメだったよ」

「試したんですか?」

「あぁ。試しに私たちの備品の中のタコ糸を使ってみようと思ったけどね、残念ながら糸を通す隙間と言うものが全くと言って良いほど無いのさ。
考えてみればここは寒冷地。設計者も出来る限り熱を逃がさないような構造になってるんだろうね。髪の毛ほどの隙間もない」

「それで本当に失敗したんですか。もしかしたら3回に一回とか、5回に一回の割合でもできるかも」

「私も一度失敗したからってこの説を棄却した訳じゃない。何回もやってみたさ。それこそ10回以上は試行錯誤してみたさ。でも結果は一緒だった。
無理やりドアと床の隙間に通して引っ張ってみようと思ったけど、いつも途中で切れちゃうんだ」

私と怜は言葉も無かった。
浦澤さんも、視線を外し、少々申し訳なさそうに続けた。

「勿論、何百回何千回と続ければもしかしたら成功したかもしれない。ただその程度しかない成功率のトリックを使うかな。失敗すれば確実に痕跡は残るし、そもそも
何回も試す時間が無かったはずさ。昨夜、銃声らしき音がして、2階の廊下に皆が集まるまで、どんなに遅く見積もっても3分、いや2分だね。
その2分の間に、いつ成功するか解らない糸と針金のトリックを使う人が果たしているかどうか。私の率直な感想はノーだね」

「・・・・・・なら窓ならどうです。ドアは廊下に接している分トリックの操作に時間が掛けられませんが、窓を外から閉める方法ならまだ考えられますよ」

怜の前のめりの意見にも、浦澤さんは渋い顔を崩さない。

「う~~ん、確かに窓の諦閉についての実験はしてみなかったな。ただ、これはもっと厳しいと思うよ。」

「あら、どうしてですか。」

「窓を外部から閉めたのなら、その人物は当然窓から入ったんだよね、あぁ違うか。ドアから部屋の中に入ることもできたんだもんね。
でも最終的に窓から外に逃げたことには違いないな。と言う事はあの吹雪の中、外にに飛び出たって事になるね。
ふむ。これはちと、ってかかなり危険な行為だぜ。自殺行為に等しい。更にそこから糸や針金を使っても、さっきのドアと同様に成功率は決して高くないはず。
しかもこちらに限ってはやり直しがきかないときたもんだ。そんなドア以上に危険な方法を用いてこんなおかしな事をする人間なんていやしないよ」

「そ・・・・・・、そうですよね」

怜は静かに沈痛な面持ちで俯いた。
私も掛ける言葉が無かった。
嫌な沈黙が続いた。



ただ・・・
ただ私は一つ言いたかった。

もし仮に、今否定された糸や針金を用いたトリックが思いもよらない方法で実行されたところで・・・、
それを実行した人間は犯人に違いなく、
その犯人はこの山荘内に居る私たちの誰かである、と言う事である。

私はそんな言葉が喉のすぐそこまで出かかっていた。
しかし逆流したがる胃酸の酸っぱさと一緒に飲みこんだ。
恐らく浦澤さんもこの事に気付いているはずだ。
だからこそ言わなかったのだ。
怜ちゃんは必死で舞ちゃんが自殺ではなく殺人だと言いたいつもりなのであろうが、つまるところそれは私たちの中の誰かが犯人であると言う事と同義である。
そして浦澤さんはそれを必死で否定したかったのだろう。
途中で感じていた違和感も、もしかしたらそこにあったのではないだろうか。
私たちの中に殺人犯はいない、それを必死で証明しようとしたのだろう。
今回の議論の発端は、怜ちゃんでも浦澤さんでも無く自分だ。
自分で自分の言葉を恨めしく思った。

「―――ま、こんな会話はここでお開きにしよう。どうやら皆起きてきたみたいだ。」

浦澤さんの促す通り、階段からは猪井田さんたちが眠そうな目をしながら下りてきていた。
ウィスキーを舐めるように飲んだ。


*  *  *


ここは書斎兼図書室、そう聞いていた。
私はこの山荘の持ち主と言われている黒川影夫氏の書斎に来ていた。
話には聞いていたが、錚々たる部屋だった。学校の図書室など比較にならないほどの蔵書量、そして圧迫感。
どれもこれも年季の入った背表紙がこちらに向いていた。
一歩一歩奥地に進んでいくごとに、様々な文字が視野に入ってくる。

江戸山乱歩
鮎川哲也
泡坂妻夫
島田荘司
中井英夫
小栗虫太郎
夢野久作
有栖川有栖
綾行行人
・・・・・・


それもこれも日本人の名前のようだった。
まだ逆サイドを見れば、

アガサ・クリスティ
コナン・ドイル
ヴァン・ダイン
ディスクン・カー
エドガー・アラン・ポウ
エラリィ・クイーン
ガストン・ルルゥ
バロネス・オルツィ
・・・・・・

こちらは外国人だろう。
どれもこれも聞いたことのない人ばかりだったが、中にはその存在は知らなくとも聞いた経験はある名前もあった。
それのいずれも『ミステリ小説』で有名な人ばかりであった。
なるほど、黒川影夫氏が日本でも有名な小説家であるかどうかはさておき、かなりの愛読家であることはここからも読み取れる。
上から見下ろされるような本棚のトンネルを抜けると、テーブルが一脚ある。
小さめなフランス窓の正面に置かれた黒ずんだテーブルは、未だ主人の帰りを待つハチ公を連想させた。
抽斗の取っ手はボロボロになり、サイドテーブルの表面の塗装は所々剥げかけていた。
その歴戦を思わせるテーブルの上には、その一番左端に隙間が開けられた状態でスタンドにきちんと並べられた文庫本があった。
無論、その隙間には昨夜自分が読んだ『猛き月』のスペースだろう。
そしてその次に当たる本に、ゆっくりと手を伸ばした。

その表紙の真ん中には、普通のにこやかな笑みを浮かべた人間の顔が映っていた。
いかにもポスターやCMにでも出てきそうな、健康的な笑み、平和的な笑み。心が和やかになる笑み。
しかし、そうではなかった。
月光が、冊子の左から右に向かって順々に照らし出すに連れて、その表紙の表情が違ってきた。
一見すると、赤黒く塗られた背景に、不釣合いな人間の笑みが描かれているかと思ったが、
そこには顔の右半分が何ともおぞましい表情をした、黒い笑みを浮かべた人間の様な挿絵が入っていた。
顔の右半分が普通の人間の笑顔。
しかし、逆に顔の左半分は死神の真っ暗な骸骨の笑顔。
表情を作り出す筋肉は、全て削ぎ落とされた筈のしゃれこうべの顔。
けれども、その無表情な白骨の顔は、何処か笑みを浮かべているようにも見える。
笑みは笑みでも、優しさの詰まったような笑みではなかった。
見るからに邪悪な意思を含んだ笑顔が、一瞬にして心に焼き付いた



―――死神―――


誰もが一瞬で連想させるほど、その表紙は歪であり、そして毒々しかった。
その表紙には『地獄の死神』と刻印されていた。


―――――――――― 東洋・西洋においてもそのイメージは大きな鎌を持ち合わせている
  ―――――――――― 生命の『死』を司ると言われている神
    ―――――――――― 冥府においては魂の管理者
      ―――――――――― 頭からすっぽり被った黒装束に髑髏姿
        ―――――――――― 多くの神話に登場し崇拝の対象となる神に相反する神
          ―――――――――― 幻影のような存在でその鎌を振り下ろせば必ず1人の魂を取ると言われている
            ―――――――――――― それが、『死神』



何処からともなく、そんな声が聞こえたような気がした。


私は、かつて温かみを持った人間が座っていた椅子に腰かける。
過去の温もりなどある筈もない。
スタンドライトのスイッチに手を掛ける。

その1ページ目を開いてみた。



物語はとある閑静な住宅街だった。
この住宅街では時折、女子高生が忽然と消えてしまうと言う行方不明事件が起こっていた。
そこに登場したのが、高校二年生であり、このたび転校してきた主人公『北條士郎』。
ミステリ小説を貪るように読みふけり、探偵というものをこよなく愛している北條は、さっそくこの女子高生行方不明事件の謎を追い始める。
消えた女子高生同士、何の接点もない。高校も違えば同じ部活動に属している訳でもなく、そもそも面識が無い人ばかりであった。
ただひとつ共通点があるとすれば、姿を消した場所が皆同じ場所であった、と言う点だけである。
その地点で捜査を行っていると、地元の小学生の間で奇妙な噂話が蔓延していることに気付いた。

それが、
『死神が現れる』と言う類の噂であった。

北條はギクリとする。
何故かは解らない。しかし何かあると北條は思っていた。
現在の北條には両親がいない。幼い日に両親を二人とも亡くしてしまっているのだ。その為、現在では親戚の家から学校に通う事になってゃいるのだが、
何故か両親が亡くなる前後の記憶が、全くと言って良いほど無いのだ。
今まではどんなに頑張っても、その封印された記憶を呼び起こすことが出来なかったのに、今回は何か手ごたえがあった。
そしてここから北條士郎の過去の話とリンクし始める。


女子高生連続失踪事件の真相は?
死神が現れるとは?
北條士郎の記憶とは?


ストーリが進むにつれ、謎が加速度的に増えていく。
水と油の用に、一見するとお互いに混じり合わない話が、しかし螺旋の渦を巻く様に一点に収束しかけていく。
壮大なストーリなのに、そのスピーディな展開に、思わず時間が経つのを忘れてしまう。


その時だった。

カタッ

音がした。
背後からだ。
心臓が早鐘になる。
私は、反射的に身を翻す。
弱々しい蛍光灯の光は、部屋を隅々まで行きわたらない。
入口付近は特に、昼間でもほの暗く陰鬱な雰囲気を出す。
まるでそこから異次元の何処かに繋がっていそうな、死神でもひょいと顔を出してきそうなそんなドア。

しかしドアから顔を出したのは、理緒だった。

「愛、あんたこんなところで何してるの?」

「え、あぁ、ちょっとね。時間があったから本でも。理緒はどうして?」

「猪井田さんたちに呼んで来いって。ご飯の時間だよ、一応。」


*  *  *


私たち全員はロビィ脇のキチンに集まっていた。
と言うのも、流石にメンバー皆が空腹を覚えたからであった。
地方公演の全日程が無事終了し、ろくに食事もとらないままバスに乗り込み、その後この山荘に漂流してからと言うもの食べ物らしい食べ物を一切に口にしていないのだ。
丸半日以上空腹状態が続いていた。ただ昨晩の鶴井舞の事があり、一時的にそれを忘れていたのだ。
事態が取り敢えず収束したのに従って、生理的欲求が出て来た。

「取り敢えず、軽めの食事しないと。皆の身体が持たないよ」

猪井田さんの一言だった。
幸い、キッチンには一通りの調理器具や材料もあった。
手に寄りをかけた料理とは言えないが、真空パックの乾パンや、野菜や果物の缶詰を取り出す。
キッチンのすぐ隣のスペースには大きな円卓と人数分の椅子もある。
私たちは、そこに座り沈黙の中食事をすることとなった。


                 新       浦                        
                 馬       澤                         
            ――――――――――――――――――――――――――――――                               
            |                 |                       
            |                 |                       
         鷹梨 |                 |田子                      
            |                 |                     
←           |                 |                     
ロ           |    テーブル         |                       
ビ           |   (見た目は四角形ですが   |                       
ィ        知尻 |    読者の皆さんは円形だと  |霧                          
            |    考えてください。)    |                     
            |                 |                         
            |                 |                       
            |                 |                      
         真壁 |                 |貴中                      
            |                 |                       
            |                 |                      
            ――――――――――――――――――――――――――――――                                        
                猪      不   
                井      二
                田      見


                 ↓キッチン


途中途中、何言か会話がなされたが、それも長くは続かず、いつもすぐに沈黙へと変換される。
しかも鶴井舞の話は遂に一言も出てこなかった。
皆が腫れものに触れるように、できるだけそっとしておきたい、思い出したくないと言う雰囲気がヒシヒシと伝わってくるようだった。
喉のつまりそうな沈黙だった。
嫌な圧迫感のある沈黙、そんなしじまを切り裂いたのはコップが床に叩きつけられる音だった。

そこにいる皆の視線がただ一点に集まった。
田子藍那さんだった。
勢いよく椅子を蹴飛ばし、口元を必死で抑えている。
口を押さえていたかと思ったら、全身が痙攣でも起こしたのかの様に小刻みに震えだし、そうかと思うと床に倒れこんでしまった。
その後、田子さんが動くことが無くなった。
時間が止まったようだった。
目の前で、明らかに異質な時間が流れているにも関わらず、何一つ動けなかったのだ。
マリオネットはこんな気持ちなのだろうか、
こんなときにそんな馬鹿な事を考えてしまったのは、やはりこの空間の異常さが原因だったのであろうか。
そんな中、真っ先に動き出したのは、隣の席に座っていた浦澤さんだった。
誰よりも早く田子さんを抱え上げた。
それでも田子さんは相変わらずぐったりとしている。

「おい藍那! どうしたんだよ。何があったんだよ!」

叫びだった。
すぐそばに居るはずの友人に悲痛なまでの叫び、その声がどこまでも悲しく空しく響いた。

「眼を開けろよ。どうしたんだよおい!」

「毒を飲んだんじゃ」

背後からの声だった。
その声の主は未里さんだった。そのぽつりと零した言葉に私ははっとした。
再び田子さんの口元に眼をやる。
紅い一筋の液体が、口元からゆっくりと滴っている。
血だ。
毒を飲んだんだ。
瞬間的にそう悟った。

「水、誰か早く水を!」

「わ、解った」

猪井田さんがわなわなと頷くと、その覚束ない足取りでキッチンに向かう。すぐその足で戻ってきて水の入ったコップを浦澤に渡す。
ひったくるようにコップを奪うと、田子さんの口の中にその水を流し込む。
流し込んでは吐きださせ、流し込んでは吐き出させる。
口の中に残った毒分を少しでも洗い流そうとしているのだろう、しかしそれが果たして効果があるのかは解らなかった。
恐らく私だけではないだろう。
私の隣に立っている理緒も、知尻さんも、そして田子さんを抱きかかえている浦澤さん自身もそう感じていたのかもしれない。

浦澤さんの必死の介抱も空しく、結局田子さんは再び動きを取り戻すことは無かった。



*  *  *

*  *  *


憔悴しきっていた。
ロビィに集まったメンバーは9人もいたが、発せられる言葉は全くのゼロだった。
皆が頭を抱え、腕に顔を埋め、涙にくれる者もいた。
私自身も同じだった。
もう、何がどうなっているのか解らないと言うのが、正直な感想だ。
頭の中が過剰な混乱状態で、そもそも何で混乱しているのかさえ解らない状態だった。


「どうなってるんだよ、これは・・・・・・」

猪井田さんだった。
絞り出すような声だ。弱々しくいつもの張りが無い。

「舞に続いて、藍那もこんなことになるなんて」

「まさか、藍那も自殺って事は無いよね?」

知尻さんは、その小さな体をさらに小さくするように丸めながら呟く。

「藍那が自殺、まさか」

しかしその言葉に説得力は無かった。

「・・・あの」

今度は霧さんだった。
おどおどと手を挙げて、皆の注目を集める。

「ん、どうかした」

「実は、ついさっき、皆で食事をする前に、藍那からこんなものを渡されました」

霧さんはそう言うと、ポケットから一枚の紙切れを取りだした。
代表して猪井田さんがそれを受け取る。
乱暴に4つに下り畳まれた白い用紙だ。そこにはこう書かれていた。


         *       
  
    お前は追放者なる存在だ
    お前の罪は死に値する
    お前は今宵、神の名の下にその裁きを受けることだろう
       
         *

無機質な文字の羅列が眼に飛び込んできた。

「何、これ」

真壁さんの問いに誰も応えようとしなかった。
それは誰もがその答えを知らなかった訳ではない。
寧ろ、その言葉の指し示す言葉が意味深であり、記憶の底を抉るものであったため、誰もが口を噤むしかなかったのだ。


―――追放者―――

その言葉の指し示すものに、心当たりがあった。
それは『田子藍那』を指し示す言葉であったのだ。

田子藍那は過去に事件を起こしたことがあったのだ。
鶴井舞の時とは違い、噂と言ったレベルでは無い。正真正銘の事件だったのだ。
私がこの劇団に入団する少し前、そう今から3年前から4年前であろうか、田子さんが『トワイライト』に入団して1年ほどしてからの事。
彼女は自殺したのだ。

正確にいえば『自殺しようとした』であるが。
ある日、彼女は自宅のアパートで大量の睡眠薬を飲んだ。
舞台の練習時間になっても顔を出さない田子を不審に思い、知尻さんがアパートを訪ねた。
合鍵を持っていたものの、当のアパートの部屋には鍵が掛かっていなかった。中をのぞいてみれば倒れこんでいた田子さんを見つけたのだと言う。
幸い発見が早かったため、すぐさま病院に担ぎ込まれた田子さんは事なきを得た。

しかし痛手を被ったのは劇団であった。
軌道に乗りかけていた劇団にとって、こう言った類のスキャンダルはご法度だった。
噂が噂を呼び、薬をやっていたのではないかとか、怪しい組織の報復にあったのでは、と言った根も葉もないデマが飛び交った。
大型劇団ならまだ各方面に融通がきいたのであろうが、こう言った少人数のこじんまりとした劇団にとっては、大打撃であった。
その影響は我が劇団だけでなく、他の無関係の劇団にまで及んだ。
日頃、交流もあり合同練習や合同公演を行っていた他の劇団にもその波紋は広がり、長い期間にわたり客足の遠のく事態を招いた。
それが後にマスコミの眼を引き、また今まで演劇に興味の無かった客層から注目が集まり、結果としてマイナスにはならなかったものの、こう言った事件を起こしたとこで、
田子藍那は、中小演劇団の間でこう呼ばれるようになった。

『追放者』と―――

勿論、田子藍那本人に面と向かってそう呼ぶ、と言う事ではない。
ただ私たちの劇団はそんなこと無いのだが、田子さんは鼻つまみになり、敬遠されるようになった。
他の劇団との合同公演の機会もめっきり減り、それまであった交流も途絶えた。
そう言うことも踏まえると、やはりどうしても今までと全く同様に接することも難しくなったのも事実だ。
霧さんや知尻さんは今までと同じように接してはいたが、他のメンバーとの眼に見えない亀裂が入ったように見えたのも、また事実だった。



そう、そんな事件が数年前に起きたという話を想起した。
今までマスコミや噂程度でした来たことの無い話であったが、この雰囲気を感じ取り改めて子の信ぴょう性を帯びた。


「霧、この紙どうしたの。何で持ってるの?」

猪井田さんの問いに、霧さんは少々口をモゴモゴさせながら語りだした。

「藍那から『こんな紙がドアの所に挟まっていた』って相談された」

「ドアに挟まってた?」

「私は誰かの冗談じゃないのって言ったけど、なんか藍那、すごく悲しそうな顔してて、『取り敢えず綾美がこれ預かってて』って言ってこれ・・・」

「成るほど、田子本人から手渡されたってことか」


正直、私は信じられなかった。
こんな辛辣に田子さんを批判するような文書を、それをよりにもよって舞ちゃんが死んだ時に寄こすなんて。
この『追放者』という言葉は、当然の事だが世間一般には広まってはいない。
つまりこの言葉と田子さんを繋ぎ止められるのは、劇団関係者以外いるはずがない。
そしてこの山荘には、私たち以外に劇団関係者はいない。いやそもそも私たち以外に人間はいない。
よってこの文書は、私たちのうちの誰かが作成したもので間違いは無い。

自分の名前も書かずに、しかも直接面と向かう事も無くただただ影から非難し攻撃するような人間が、この中に居るなんて。
そう考えると、怒りで気持ちが悪くなってきた。

「ここで皆に聞くよ」

猪井田さんは、メンバー皆の方向を向き、先ほどの文書を天に掲げた。

「単刀直入に聞く。これを作った奴は誰だ。」

正しく、怒髪天を突く声だった。
腹の底から怒りがこみあげ、しかし必死でそれを理性でカバーしようとする意思の表れ。
一人一人順々に視線を投げかけていく。

しかし幾らたっても「私です」と名乗り出るものはいなかった。
沈黙が耳を突く。
猪井田さんは、そうか・・・と呟く。

「名乗り出るものはいないか。ならば私は追求していくぞ。これを作りだした犯人を、そして田子を死に追いやった犯人をね」

「死に追いやった?」

真壁さんだった。真壁さんは猪井田さんの言葉に引っかかり反駁した。

「そうさ。田子はこの文書を見たとき、この追放者と言う言葉を眼にしたとき、過去の自分を思い出したんだろう。
死を選んでまで回避したかった苦痛を、再び思い出したんだろうさ、そして加えてそれによってどれだけ仲間に迷惑をかけたのかも悟った。
つい数時間前に後輩を失って元々精神的に不安定だったあいつは、ふたたびここで自らの死を選んだ、そう考えても不思議じゃない」

「・・・・・・毒物はどうしたの?」

「もしかしたら、いつも田子本人がこっそり持ち歩いていたのかもしれない。それこそいつでも自らが死ぬ準備が整っているって意味でね」



想像した。
いつ助けが来るか解らない圧迫され続ける空間で、大切な後輩を自殺と言う形で失った。
自殺を経験したことがある自分自身が何もしてやれず、大きな負い目を感じていた矢先、部屋のドアにはその過去の自分の失態を揶揄する文書があった。
救ってあげられなかった後輩、過去の自分の心の傷、そして心無い仲間からの声無き罵声。
それが遂に限界点を越え、ひと思いに自決を図る。
その時の心境なんて誰にも想像できない。
ただただ懺悔の気持ちでいっぱいだったであろう。

怒りと一緒に腸がせり上がる様な嫌悪感を覚えた。


「犯人捜しを続けようか。霧、田子がこの文書を見つけたのっていつ?」

「さぁ。確か、ご飯を食べる30分前に藍那が部屋に来たから、多分ですけど更にその30分前くらいじゃないですか。」

「成るほど。つまり食事の時間の一時間ほど前ってことね。食事の時間が大凡10時だったから、その一時間前、9時には田子の部屋のドアに挟まっていたって計算ね。」

「でも姫世、9時には挟まっていたって言うけど、そのまえから挟まっていたって可能性もあるんでしょ。例えば6時でも7時でも、あるいはもっと前からでも。
そうしたらどうするの。この文書が挟まれた時刻が特定できないんじゃ、犯人探しはできないよ。」

「そうね。少なくとも何時までには文書が挟まれていなかったかが解れば、もう少しスムーズになるのに。そう言えば瞳、あなた達は私たちが1階に下りて来た時には、
もうここに居たでしょ。と言う事は、田子の部屋にこう言った類の文書が挟まれていたとか、いなかったとか見てないの?」

「残念だけどね、そんなことに注意を払ってなかったさ。怜もそうだろ」

「えぇ、すいません猪井田さん。まさかこんなときにそんなものがあるなんて夢にも思わなかったもので」

「そう言う事」

「ふぅむ・・・。そうか。愛は? 何か見てなかった?」

「見てません、ただ・・・」

「『ただ』? ただ、何か気になることもでも。」

喉がひりつく。
できることなら、やはりこんな言葉を言いたくは無かった。
それでも胸から込み上げてくる、この粘着性な塊を吐き出したかった。

「これが自殺じゃない、殺人事件だってことは考えられないでしょうか?」

「え、は、殺人・・・・・・だって?」

「はい。朝、皆さんが降りてくる前に浦澤さんと貴中さんと話し合ってたんです。そこで舞ちゃんは絶対に自殺なんかしない、する様な人間じゃないって、
怜ちゃんも言ってたし。やっぱり私思うんです。おかしいですよ、舞ちゃんに続いて田子さんも自殺なんて、やっぱり何処か歪ですよ。
何もこんな時こんな場所で、こんな形で皆を巻き込んで自殺をするなんてやっぱりどう考えてもおかしいです。
本当なら、今まで自分がお世話になったメンバーを巻き込んで、精神的に追いつめる形で自殺をする人たちじゃありません。これは誰かに、何らかの形で殺されたんです」

静かな空間になった。
叩けば空気がキンと音を出して鳴りそうだった。


「解った。愛の言いたいことは何となく解った。確かに私も思うよ、『これは平常じゃない』って。
そもそも私たちがこんな雪の中見ず知らずの人の山荘に閉じ込められて、大切な私の仲間がこんな形で命を立て続けに絶つなんて、やっぱり何処かおかしいって。
できれば夢であって欲しいって思う。
ただこれは紛れもない現実だ。もしそうならば、全ての結果は全て原因が付きまとう。
この一連の自殺事件が、もし仮に愛の言う通り殺人事件ならその原因、つまり犯人がいることになる。
じゃあそれは誰なんだ。それこそ紛れもない私たちの中の誰かだ。何故ならこの山荘には私たちしかいないから。
もしそうなら、じゃあ私たちの中の誰が犯人であることができようか。
冬香か、マリアか、瞳か、未里か、綾美か、理緒か、怜か、私か、はたまた、愛自身か。
私はこう断言できる。誰も人殺しなんてやるような人間じゃない。
悪戯や、下手な良い訳や、稽古をサボるようなことはあっても、人を殺しと言うような人道に外れた行為に身を落とす下人は、ここにはだれ一人いない。
確かにあの二人が自殺することは考えずらいが、この中に彼女たちを殺した人間がいる、と言う事の方がもっと事の方がもっと考えられない。
だとしたら、やっぱりあの二人は自殺したんだと言う方が、まだ信頼性は高い、そう言う事さ、愛」

猪井田さんの諭すような言葉に、しかし私は納得することが出来なかった。
違う、そうではない
そう思っても、じゃあいざ口にしようと思うと、なかなか言葉に変換されない。
もどかしい。

そんな時だった。
猪井田さんの背後で、一本の腕が起き上がる。
不二見さんだった。
顔を渋らせながら、しかし何処か納得したような表情だった。

「そのことで一つ気になる箇所が。発言よろしいですか」

「なに、反論?」

「反論、ってほどのものじゃ無いんですが、今まで少し気になっていた事です。と言うのもこの山荘の電気の事なんですが」

「電気? この明かりの事? それがどうしたっての」

「あれ猪井田さん、最初に入ってきたときにおかしいなって思いませんでした。そもそも何で電気が通っているのかって」

そこにいた全員がはっと顔を上げた。視線が不二見未里に集中する。

「最初、誰かがここに住んでいるのかなって思ってた。けど猪井田さんの話曰くこの山荘の持ち主って死んでしまっているんですよね。
だったら普通、電気とかガスとか水道とか止めません? なのにこの山荘は全て通っていた。私はずっとおかしいなおかしいな、って思ってたんです。
そこで今の愛ちゃんの話で、ピンときました。
この山荘、私たち以外に誰か住んでるんじゃないですか?」

「ここに、誰か知らない第三者がって・・・?」

「そうなりますね。もしかしたらその『黒川影夫』さんの遺族の方か、あるいはそれに近い人物。例えば口座を管理している人とか。
そう言った人が、勿体無いからってこの山荘を引き続き使っていたとしたら、この山荘に私たち以外の人間がいても、さほどおかしくない。
むしろ、今まで電気や水道が通っていることを考えると、可能性は高い、そう思いませんか猪井田さん」

「でも、じゃあどうして二人が狙われなきゃいけないの。確かに無断でこの山荘に入ったことは失礼かもしれないけど」

「可能性を考えるのなら、こうも考えられます。その新しい山荘の持ち主は、何か世間にはばれてはまずい秘密を持っていた。
例えば何か大きな犯罪に手を染めていたか、それとも大きな借金をして借金取りから逃げるためとか。そう言った止むにやまれぬ事情を持ってここに移り住んでいたのに、
何故か見知らぬ団体がずかずかと上がり込んでしまった。もしかしたら私服警官か、新手の借金取りか、そう思った持ち主は自らの生命を守るため、犯行に及んだ。
どうです。考えられないことは無いでしょう」

「それって現実味があるかしら。第一、何処に隠れているっていうのよ。この山荘内は結構散策したわよ。」

「現実味の話をしたらおしまいですよ。私はあくまで、猪井田さんが『この山荘には私たち以外の人間はいない』って言葉に疑問を投げかけただけです。
それに私たちはこの山荘についてまだ数時間ですよ。もしかしたらこの建物の何処かに隠し扉でもあるかもしれませんし」

「隠し扉、ねぇ・・・」

「そうすれば、二人は自殺ではなく、かと言って私たちの中に殺人犯がいる訳でもない、と言う事実を主張できます」

「ただそうなると、この山荘内に私たちも知らない謎の殺人犯がまだ徘徊しているってことになるわね。
ふむ、まぁ良いわ。この話をこれ以上してもキリが無いわ。どんな話し合いをしても『可能性』とか『推論』の域を脱しないし」

猪井田の言葉に、知尻も相槌を打つ。

「それは言えるね。もしこれが自殺にしろ殺人にしろ、私たちにできることなんて何もないよ。兎に角、麓から助けが来るあと数日間のために、
体力を温存していくことが先決だと、私は思うね」

同感、と浦澤。


*  *  *

*  *  *



カップからは湯気が立ち上っていた。
コーヒー独特の香りの向こうから、知尻さんが話し出した。

「未里、さっきの謎の闖入者説、あれ変じゃない?」

同様にコーヒーカップを傾けていた不二見さんは、その動作を止める。

「あれ。気付いてました?」

「まぁね。普通は」

その言葉に引っかかった。私は聞いてみることにした

「変? さっきの話に何か変な箇所ってありましたっけ。この山荘に電気や水道が通っている事とか、上手に説明がついてましたけど」

「でも、藍那の部屋にあの文書が挟まっていたのはどう説明できる? あの内容を書くのは、少なからずこっち関係の人間でないと」

「そうか愛、本人が亡くなった手前こう言うのもなんだけど、田子さんに『追放者』って言葉を普通の人は言わない」

理緒が理解の足らない私に補足を入れてくれる。
ハッとした。
確かにそれもそうだった。おまけに、そもそも文書を用意してくる方がおかしい。
前もって準備しておかなくてはいけない。

「そう。そうなると闖入者がいるいないに関わらず少なくとも文書犯がいることになる」

猪井田さんは改めて厳しい目つきになる。
今はまだ決め手が無いが、いずれ制裁を加えるつもりであると言う意思の表れのようだ。
するとそこへ、隣に座っていた冬香さんがゆっくりと喋りだす。

「少し話が逸れるけど良い? 何で犯人は藍那ちゃんにそんな文書を送ろうと思ったのかしら」

「さぁ。それこそ前日に喧嘩して、ちょっと仕返ししてやろうって思ったのかもしれないよ」

「でも、いくらなんでも舞ちゃんが死んだその翌日にするって言うのは、やっぱりどう考えてもおかしいと思うんだけど」

「廻りくどいね。結局冬香の考えは?」

「この犯人は前日に舞ちゃんが亡くなった事を受けて、こう言った文書を出してるって考える方が自然だと思うの。つまり圧倒的に危害を加えようとする意思が見える。
これって並大抵のことじゃないでしょ。仲間が一人死んで、それだけで大きなショックを受けてるのに、そこから更に悪意を持って実行できる。
異常だよこれは、普通ならできない。でももし、予め『鶴井舞は昨晩のうちに死ぬ』って解っている人間がいたら。
私もまだ半信半疑だけど、もし愛ちゃんの説を真に受けるとしたら、この文書犯こそが舞ちゃん殺害の実行犯って言いかえることが出来ると思うんだけど」


大きく突飛過ぎる

と、誰も口にすることはできなかった。
考えてみれば最もだった。昨晩、鶴井舞の死を含めて様々なトラブルが乱立したあの晩、誰が仲間を更に追い詰めようと考えることが出来ようか。
普通はできない。頭の片隅を掠ろうともしない。
しかし、しかしだ。

―――最初から鶴井舞を殺そうと思っていた――――

そんな人間がいたのであれば、実行は可能なのかもしれない。
寧ろこのトラブル続きで、混乱しきった人間一人など造作もなく殺すことが出来るのかもしれない。
あの時、皆と一緒にただただ憔悴しきっていた我々に混じって、只一人は内心ほくそ笑んでいたのかもしれない。「上手く行った」と・・・。

「じゃ、じゃあ藍那も自殺じゃなくって殺されたって事なんですか!」

「落ち着け霧。あくまで仮説の段階の話だ。そもそも殺人なんて無かったって話も考えられる」



*   *   *


私はベッドに横たわる。
明かりはない。あるのはナイトテーブルのライトだけ。それで充分だった。
柔らかなベッドの上で腹ばいになりながら、『黒川影夫』の小説を開く。
タイトルは『不可侵な聖域』だ。
ページを一つめくる。
そこは、懺悔の言葉から始まっていた。


―――私は、最悪を犯してしまった

今までにない物語だった。


―――私は人間を殺してしまった

―――私は父の御梺まではいけないだろう

―――でもそれで良いのだ

―――私がこの教会を守れるなら



そんな独白とも取れる文章から始まった。
今までのように、犯人の犯行後の目線、犯人が誰かわかっている作品というのは、初めてであった。
たしか聞いたことがある。こういうのを「倒叙もの」っていうんだっけ。
私は早速次のページを捲る。

犯人はとある教会の神父。被害者はとある不動産屋のオーナー。
教会の神父は、この不動産屋のオーナーを殺害した。動機は教会の立っている場所が建物ごと不動産屋にわたってしまい無くなってしまうこと。

殺害は実に計画的に行われた。まずは不動産屋のオーナーが誰かに命を狙われていることをアピールするために、何ヶ月も前に犯行声明文を送った。
親父とオーナーが会うのは決まって、教会の懺悔室。ここに壁一枚を隔てて一体一で話し合いを行うというルールも作った。勿論犯行をより見つかりにくくするためだ。
死体を山に埋め、凶器を海に沈め、アリバイ工作を弄し、そっしてなにより自分が神に使える神父という立場を利用して殺人事件を完遂した。
被害者は、日頃から恨みを買いやすい性格で、また暴力団との繋がりもあったため、そのいざこざに巻き込まれて事件が起こったのだと誰もが思っていた。
しかしそこに、しがない私立探偵が現れた。
彼はただの行きずりの犯行ではなく、れっきとした計画犯罪であることを主張した。
最初は全く相手にされなかったが、地道な聞き込みと、神がかった直感、そして蟻一匹見逃さない観察眼で次第に真犯人の神父へと疑惑の目が向けられていく。

しかし神父にはアリバイがあり、そしてなにより「神に仕える者」と言った肩書きがあり、近隣の住民の協力がなかなか得られない。
次第に近づき接近し、そして事件の解明に向かっていく、その犯人の神父の心理状態と、私立探偵の超人的な思考が緩やかに、しかし加速度的に融合していく、そんな黒川影夫の作品でった。


「聖域」

その言葉に私は大いに引っかかった。
この言葉からいろんなものを想像する。
今回の事件に例えてみれば、そう『密室』。最初の事件があったとき、舞ちゃんの部屋は内側から二重の鍵が掛かっていた。外部から内部にどうやっても侵入できない。あれは正しく『聖域』。
そしてこの山荘自体も『聖域』のようなものだ。こちらは中に入ることはできても、しかし決して外に出ることが叶わない空間。
吹きすさぶ氷点下の風と、行く手を阻む積雪。右も左も分からなくする絶対的な闇。それらに囲まれているこの山荘は、そうある意味『聖域』。
私自身は犯人じゃない、そうだって私は彼女たちを手にかけた記憶もないし、なにより動機もない。そう私は犯人足りえない。私はその意味では『聖域』の中にいる。
でも・・・
そうでも・・・
本当にそう言えるのかしら。
無機質な疑惑が胸の奥からモクモクと湧き上がってくる。


私は本当に犯人ではない、私は無実である、そんなことが本当に言えるのだろうか。
まず気がかりなのが、この山荘で起こった事件が全て不可能犯罪ということである。
誰がどうしようと実行することが不可能な事件。まさに不可能犯罪。
まさか、そうまさかとは思うが、それを実行した人物が私だということはないだろうか。

そんな馬鹿馬鹿しい、そう一笑することができない。
猪井田さんでもない、真壁さんでもない、浦澤さんでも、知尻さんでも、不二見さんでも、霧さんも、理緒も、怜も、皆事件を起こすことが不可能なのだ。
だとしたら、残るは私しかいないではないか。
そんな奇怪じみた事実が、私の最後の良心にクラックを与える。
もし私が無意識に、熱があり体調不良で意識がはっきりしない時に、
不意に、そう不意に意味もなく訳も分からず、拳銃を握りしめて鶴井ちゃんの部屋に行きトリガーを引いたなら。
意識が朦朧として、それこそ夢を見ている感覚で、隠していた毒物を料理に混入させたなら。

あぁ、そんなことはない。
そんなことはないはずである。ほかの誰であろう、私が私自身の潔癖を信用できなくてどうするんだ。
そうだ、そんなことはない。私は何もしていない。当然だ。私には2人を殺害した記憶は一切ない。私が証明できる。
だってそうだ、拳銃なんか私は持ってない。人を殺めることができる毒物なんか持ってきていない。
そうさ、私は無実だ。『聖域』の中にいるんだ。


必死で自分に言い聞かせた。
でもだった。そんなに必死になればなるほど。言い聞かせれば言い聞かせるほど、不安は津波のように容赦なく自分の精神を飲み込んでいく。


じゃああの夢はなんだ。
最初の事件の夜に見た、あの夢は。
私が舞台上でクルクル舞いながらナイフで舞ちゃんを刺殺したあの夢は。
全く今回の事件と何の関係もない夢なのか。
それは出来すぎている。
あの夢は何か意味を持っているはずだ。
じゃあどんな。

―――私が本当に殺した?

冗談はやめて。
たかが夢じゃない。
あの夜の事件に加えて、自身の体調が優れなかった、だからあんな夢を見たんだ。
そうだ、そうに決まってる。



―――本当にそう言い切れるの?

どこからともなく聞こえてくる。

―――本当にあなたは無実なの?

誰?

―――本当にあなたは2人を殺害してないの?

誰なの?

―――本当にあなたはあの2人を殺そうとしたことが全くないの?

やめろ

―――本当に殺意を抱いたことがないと言い切れるの?

来るな

―――記憶がないっていうのが証拠になるの?

聞きたくない


それが自分自身から発せられる声だとわかった。
本当の本当の本当は、自分でも疑っているのだ。自分自身のことを。
自分のことだ。嘘は付けない。
私は思っているのだ、心の奥底で。


―――あなたが、鷹梨愛が本当は犯人なんじゃないの?


記憶がないだけで、もしかしたら本当に2人を殺害したのかもしれない。
「私が殺した」という証拠はない。だってそんな記憶はこれっぽっちも無いから
しかし裏を返せば「私は殺していない」という証拠もない。

ただ意識がないだけで、本当は無意識に身体が動いて実行したのかもしれない。
拳銃は?
毒は?
だって持ってきていないじゃん。
これだって本当にそう言い切れるか。
そもそも体調不良が始まったのは最近ではない。ずっと数ヶ月前から身体に異変はあった。
稽古中にぼうっとすることが増えたし、気がついたら朝を迎えていたなんてこともあった。
その時無意識にパソコンに向かい、そして無意識に海外のサイトなんかを閲覧し、無意識に拳銃や毒物を購入していたのかも。
そんな馬鹿な。
でも、そんなことないと証明はできない。
拳銃なんかも、一昔前に比べれば手に入れやすいって言ってたし、毒物なんかも例えば「トリカブト」は高山植物の根にその主成分が入っていると。
そしてその「トリカブト」は「カブトバナ」・「アコニツム」と言った別名でフラワーショップに売っていると言う話も聞いたことがある。それを無意識に買って毒を抽出していたとしたら。

分からない。
何も分からない。
自分が信用できない。
こんなことが今まであっただろうか。
自分が一番怪しい。自分が殺したのでは。

―――そんなことはない

―――でもそれを証明する手段はない

―――やっぱりもしかしたら


はっと気がつく。
気がつけば、窓のすぐそばまで来ている。
そしてその窓のフックに手をかけていた。

一瞬で後ろに跳ね飛ぶ。
私は今、何をしようとしていたの?
分からない。
窓を開けて今にも外に出ようといていたのか、それとも次なる事件を起こそうとしていたのか。

あぁ、情けない。自分がここまで怪しく見えるなんて。
窓に反射した自分の姿を写し見る。
若干頬がこけたかもしれない。目の下の隈も少し目立つ。



―――どうしたら良いの



落ち着いて深呼吸をし、ベッドに腰掛ける。こんなことで落ち着ける訳が無い。ただ何か行動を起こして無理やり精神の摩耗を和らげようとしただけだった。
ゆっくり考えてみよう。
私自身が信用できないなら、その私が自身の無実を、潔癖を晴らせば良いんだ。
じゃあどうするか。
決まってる。論理的に話を進めていき、私には犯行は不可能であると証明すればよいのだ。じゃあどうするか。

まず最初の事件について考えてみよう。最初は鶴井舞の部屋で起きた事件。
この時は、私は一階のロビィにいた。そのとき一緒にいたのは、猪井田さんと知尻さんの2人だけ。あとの皆は、二階の自分の部屋にいた。
そして、急に銃声がなって私たちは急いで二階に上がってきた。他の皆もおかしいと思って部屋から顔を出してくれたけど、舞ちゃんだけ顔を出さなかった。
彼女の部屋には鍵と閂の両方がセットされていた。
鍵は真壁さんが持ってきてくれた鍵束で空いたけど、でも閂はどうしようもなかったから、体当たりでドアを壊して中に入った。

ふむ、まず何から考えよう。
犯人は少なからず舞ちゃんの部屋に入ったことになる。じゃあ私たちの中で誰が部屋に入ることができたかってこと。
・・・、だめだ誰も入ることができない。だって鍵と閂の両方がセットされていたじゃないか。じゃあ誰も部屋には入れない。
これではダメだ、話が元に戻ってしまう。

じゃあ、田子さんのときの事件はどうか。
毒はどこに盛られていたのか。もちろん料理だろう。それで料理を食べた田子さんが・・・、いや待って。でもそれなら同じ料理を食べた、私や他の皆も倒れてしまうはずだ。
でも私はこの通りピンピンしてる。では毒は料理に入ってはいなかったということになる。
ではどこに毒は盛られていたのか。もしかしたら食器、あるいは箸なんかに毒が盛られていたんでは。だとしたら田子さんだけが倒れたことにも説明がつく。
問題は田子さんがどこに座るかがわかれば良い。
あれ?
あの時は、皆でキッチンに集合した。早く来る人遅く来る人様々だったが、どうやら早く来た人から順番に好きな場所に座っていったみたいだ。
これなら、田子さんがどこに座るかなんて分からない。
じゃあやっぱり犯人はどこに毒を盛れば良いんだろう。

あぁ。
思考を集中しようと思っても、意識はどんどん拡散していく。
タバコの煙が一瞬で周りの空気と一体化し希釈されて行くみたいだ。

だめだ。わかんない。そもそも何から考えれば良いのか、それすら不明だ。
難しい。こんなに自分自身のことがわからなくなるなんて・・・





そう、そんな時だった。

ドアを叩く音が聞こえた。
はっと身を翻した。

「愛、ちょっと良い?」

理緒だった。
理緒がドアから顔だけ出した。

「・・・・・・大丈夫? 顔、結構やつれてるけど」

「あ、うん。なんでもない。疲れが出ただけ」

「・・・そっか、なら良いんだけど。あのさ、皆下のキッチンに集まってるから愛も行かない?」

私は生返事を返して部屋を出た。



*   *   *

*   *   *




理緒に連れられて、キッチンに到着すると、そこは陰鬱とした空気だった。いや陰鬱ではない。揮発したガソリンが充満した空間内で火打石を打ちつけようとするその寸前のような空気だ。
見ると、不二見さんと猪井田さんが正面に対峙していた。

真壁が不二見と猪井田に割ってはいる。
元々、猪井田さんは今回のリーダーだし、不二見は血の気が多い。
こう言った非日常の緊迫した状況に追いやられれば、まず衝突する2人だった。
ここになだめ役として、真壁さんがいたから良かったものの、ほかのメンバーはパニックになって右往左往しているだけだ。

まだ1人だから良い。
これにもう1人、騒ぐの大好きで揉め事に便乗する人が約1人。本来なら1人の三つ巴になっていて真壁さんでも押さえ切れなかったはずだ。

私はちらりと後方に目を配る。
驚くくらい静かに椅子に座っている人間が1人。


浦澤瞳だった。

脚を組んで、得意げに1人のいざこざを遠巻きに愉しんでいるようにしか見えなかった。

「ん?」

うっかり眼が合ってしまった。
すぐに眼を背けたが、一方の浦澤はと言うと、何を言う訳でもなくその眼を瞑って微笑を浮かべているようだった。
インカのコンマ数秒前というばかりの非常に張り詰めた空気の中にも、彼女の周りだけ何故かフローラルの香りが漂いそうな、そんな軽く甘い雰囲気だけがあった。
見なくてもわかる。私の背後の人物は目の前の緊迫したやり取りとは全く違った態度であった。

「私、解っちゃったもんね~~」

今ほどの浦澤瞳だった。
一瞬にして一同の視線を浦澤は集めた。
ゆっくりと腰を起こしながら、席を立つ。
さっきまで言い争っていた不二見と猪井田は呆気に取られたように、浦澤を見つめる。

「今回の謎、どうして、またどのようにして2人はあんなことされたのか、そしてその理由はなんなのか。全て解っちゃった」

得意げに鼻を鳴らす。
それに見とれたのか、不二見と猪井田はさっきまで組み合っていた腕を離した。

「解ったって、それ本当?」

真壁が聞いた。
それに応えるかのように、大げさに両腕を広げてみせる。

「解ったも解った。それも全部ね。さっきピンときたんだ。これしか無いってね」

「じゃあ、今ここで解答とやらを聞かせてもらおうじゃないの?」

これは不二見だ。

「あぁ、ちょっと待って。幾らなんでも思いついたその場で答え合わせは無理だよ。ちょっと整理する時間くれないかな?
15分・・・、いや10分で良いよ。それまでに自分の考えをちゃんと頭の文章化するからさ。だからそれまで部屋に戻って良いかな?」

誰に許しを請うわけでもなく浦澤は聞いた。
皆、顔を合わせたが、最終的には猪井田が解ったと返答を出した。

「うん、ありがとう猪井田さん。じゃあ、皆はそれまでここで待っててね。誰も移動しちゃダメだよ。へんにうろちょろして証拠を隠滅されても困るし。
この時間に動いた人は、その時点で自分が犯人ですって言ってるようなもんだから!?
じゃあ、また10分後に。バイ!」

そう言うと笑顔のまま、キッチンを出て行った。
嵐が去ったように静けさを増したキッチン。
毒を抜かれたように不二見と猪井田はそばの椅子に座りなおす。

私も狐につままれた顔で、浦澤を見送った。
何処か、現実離れした感じがする。
テーブルの上に肘をもたげる。

私が手近な椅子に座ってほんの数分間。全くと言っていいほど誰も何も発しなかった。それどころか立ち上がったりする人間も誰ひとりいなかった。
ただそれだけの何もない時間の流れだったのに、ひどく苦痛の続く時間に感じた。

「浦澤さん、あんな事言ってましたけど、本当に大丈夫なんですか?」

貴中だ。
不承不承と言った感じで、浦澤の出て行ったドアを眺めていた。

「さぁ。ゲームか何かと勘違いしてるんじゃないのかな」

確かにそうだ。
私は心の中で呟いた。
さっきの浦澤の口調、あれを聞いてどうも現実離れというか、ゲームの世界にいるような雰囲気がしてならない。
猪井田さんと不二見が殴りあいになる手前まで行ったのに、浦澤は何処か一歩引いた場所から観戦しているような、そんな感じだ。
それに犯人が解った、何故2人が殺されなくてはならなかったのかも解ったとも言っていた。
しかし、その実、終始笑顔だった。


―――どうして笑顔になれるのであろうか。


それが心の奥で引っかかった。
犯人が解ったと言うことは、鶴井と田子さんを殺した人間が私たちの中にいるという事が解ったと言うこと。
つまり今、このキッチンにいる6人、いや自分を入れて7人の中にいるという事確定したということ。
そして、それは今まで自分と仲良く接して来た大切な仲間の1人が、法によって裁かれるべき殺人鬼であるということ。
仲間内で、何らかの殺意を抱いて、その後それを実行し、あわよくば他の誰かに罪を着せようと考えた人間が、この中にいると言う事。

積年の恨みなのか
己の計画の邪魔になったからなのか
それとも、口封じのためか

理由は解らないが、その為にその手を血で染めることを厭わない人間が、ここにいると言うのに。
それでも浦澤は笑っていた。
全てを見切ったように、その口元には笑みがあった。
それと気掛かりになったこと。
何故、浦澤はその事を暗に意味し、部屋に戻って言ったのだろう。
私は犯人とそのトリックが解りましたよ、なんて言えば眼の前の犯人を挑発しているような物だ。
眼の前の7人に犯人がいると解っているのに、そんなことを言えば、どうぞ私を狙って下さいと言っている様な物だ。
しかも浦澤1人で部屋に戻れば、みすみす相手に殺人の機会を与えているようなものだ。
犯人は既に人2人を殺しているのだ。
この際、探偵を気取った仲間1人を殺す事に何のためらいも持っていないと思って良いだろう。
だとしたら、何故浦澤さんはそんな危険なことをしでかしたのか。

7人の動向を見回す。
互いが互いに眼を合わせないようにしているのが解る。
自然と息を殺している。
まるで、今更、善良な一般人を装うかのように。
ある人は椅子に座ったまま、私と同じように視線を定めないように何処かを眺めていたり、
またある人は、急に立ち上がり忙しなくキッチンの中を歩き回っていたり。


ふと閃いた。
もしかしたら、浦澤さんは何かを誘っているのでは。
もしかしたら、浦澤さんはああ言っておきながら、実は犯人が解っていないのではないか。
あるいは解っていたとしても、確固たる証拠が遂に発見できなかったのでは。
そう考えた。

そこで敢えて、犯人の眼の前で挑発することによって、何らかのアクションを起こさせようとしているのではないか。
例えば、機会を伺って自分を襲いに来るところを待ち構えたり、
証拠を隠滅しに動いたところを待ったり、
そこを押さえれば、相手は言い逃れできない。

確かにそれは名案だ。
私は心の中で唸った。


*   *   *

ふと、貴中が椅子から立ち上がった。

「ちょっとトイレに行ってくる」

そのままドアの方に進みノブを掴んだ。

「待って!」

それに静止をかけたのは猪井田だった。

「怜、本当にトイレ?」

「生理現象ですよ」

「もしかして、そのまま二階の浦澤の部屋に行こうとしてたんじゃないの?」

貴中の表情が一瞬曇る。

「本当にトイレですよ。どうして私が瞳さんの部屋に行かなくちゃいけないんですか?」

「浦澤に今回の事件の真相を見破られたくないからに決まってるじゃない」

「言っておきますけど、私は違う。犯人じゃない」

「ここにいる皆が皆、同じ事言うわよ」

「でも私は本当に違う」

「言うだけなら簡単なのよ!!」

空気が破裂したみたいだった。
猪井田の口調が瞬間的に変わり、瞬く間に静謐が広がった。

「ごめん・・・、感情的になった。でもここで動くイコール犯人だって思われても仕方ないわよ。
それに浦澤が言ってたでしょ。あと何分もしないうちに真相を教えてくれるって。それまでトイレは我慢して頂戴」

貴中は無言のままだった。

「それとも本当に漏れそう?だったらここにいる全員でトイレまで行くけど」

「大丈夫、心配しなくて」

貴中は元の席に戻る。

「ただここでじっとしてるのが嫌だっただけですし」

猪井田もうんと頷く。

「みんな、何か飲みます?」

今度立ち上がったのは、霧だ。

「あ、良いですよ霧さん。私が用意しますよ。」

思わず後輩である私が立ち上がった。

「良いから良いから。私もじっとしてるのが苦手なだけだから」

小さな体躯をすばしっこく動かしながら、キッチンの奥の冷蔵庫に向かう。

「神経すり減らしてピリピリしてると、喉も渇くでしょ。何か欲しいものあったら言って下さい」

これまた舌っ足らずな声色が、メンバーの毒気を抜いていく。
壁の陰になっているが、冷蔵庫を開けたのだろう、淡い光が仄かに揺れる。
自然と笑みがこぼれる。

「霧も良くこの状況で平気で飲み物なんか飲めるよねぇ?」

知尻だ。
それに不二見が応える。

「そこが霧さんの長所って言うか、持ち味なんでしょうね?」

「うんにゃ、ただ単にずぼらなだけじゃないの」

「そこが長所なんですって」

「ふ~~~ん、なるへそ。ところでさ瞳は一体、どんな推理を展開させたんだろうね。真壁さんどうです、ってか本当に解ったのかなあいつ?」

「意外と動物的勘は鋭いほうだし、なんかの拍子に閃いたって事も考えられる。あるいは浦澤だけが何かを目撃したって事も考えられるけど」

「何かを目撃したって、じゃあそれって何を目撃したんでしょうね?」

「それが解んないからお手上げだ・・・・・・。ふむ、時間もそろそろだね。瞳ももうじき降りてくるでしょう」

「皆さんお待たせ~~。コップ探してたら遅くなっちゃった」

そう言って右手には2リットルの烏龍茶、左手と両脇にはガラスのコップを携えて戻ってきた。

「誰かほかに飲みたい人手挙げて」

その陽気な声に誰も反応しないように思えたが、意外にも貴中が手を挙げた。

「あんた、本気で飲むの?毒が入ってたらどうする気?」

「平気ですよ。ちょっと舐めて異常があるようだったら吐き出せばいいんですよ」

霧が1人分の烏龍茶を用意し、1つは自分、もう1つは貴中の目の前に置いた。
流石に、あぁ強気なことを言ってはいたが、いざ眼の前に出されると怖気づいたのかコップをなかなか持とうとしない。
霧はというと、そんな貴中を意にも介さず、一気飲み。
飲み終わったら、ぷは―――と親父の如くリアクション。
それを見て少しは安心したのか、貴中も恐る恐る口を近づけ、舐めてみる。
よく口の中で転がしてみて、漸く何とも異常がないと解ると、少しずつ乾いた喉を潤わせていった。

「冷えてる烏龍茶も美味しいね」

屈託の無い霧の笑顔。

「え、あぁ、はい。そうですね」

味もくそも解らなかったと言わんばかりに、大きく安堵の吐息。
見ているこっちもハラハラした。

「大した無神経ね。2人とも」

「お褒めの言葉として受け取っておきます」

さて、取り敢えずこれ以上の被害者が出なかっただけ良かった、と胸を撫で下ろす筈だったがどっこいそうも行かない。

「それにしても瞳ちゃん、遅いね」

霧の言葉で皆は我に返った。
知尻が腕時計を見る。
かれこれ20分近く立っていた。
10分で戻ってくると言ったが、未だに何の連絡も無い。
「ごめん、もう少し時間ちょうだい」と鼻歌交じりで顔を出しても良いはずなのに、その気配すらない。

「遅いな。もう寝ちゃったとかないよね」

不満とばかりに不二見が時計を覗く。

「あいつならあり得るな。様子を見てこようか」

猪井田が1人で立ち上がろうとすると、今度は貴中だ。

「1人で部屋を出るなって言ったのは、何処の誰ですか?」

明らかに根に持っていた。
しかし、貴中の意見も正しい。ここで動いたら変な疑いを掛けられそうだ。

「解った。じゃあ、あと10分経っても瞳が姿を表さなかったら、全員で見に行こう」

猪井田の提案の元、メンバーは己の椅子に座って静かに時の流れを待った。

1分、2分、3分、階段を下りてくる足音が聞こえない。

4分、5分、6分、窓を掠める雪の音が耳を突く。

7分、8分、9分、誰かの貧乏ゆすりの音が広がる。

10分、遂に何者の声も存在しない。


「何か、嫌な予感がします」

私の口から不意に出た言葉だった。
その言葉に全員が肩を震わせる。

「やだ、鷹梨、変なこと言わないでよ」

猪井田の声だ、しかしさっきまでの威勢が失せている。

「そうだよ、きっとあれこれ考えてるうちに寝ちゃったんだよ」

真壁の声も心なしか、浮ついている。

「とにかく、行くだけ行ってみよう」

その一言で全員が立ち上がり、キッチンを後にする。


*   *   *


ロビーを横切り、階段を上るまで誰一人として言葉を発するものはいなかった。
皆、寝てしまっていると言ってはいたが、不安と恐怖でいっぱいなのだろう。
どうしても拭いきれない不安が胸の奥底で蠢き回る。
階段を上がりきった2階の廊下、その左側の一番奥。そこが浦澤の部屋だ。

と、その部屋のドアを見て違和感があった。

「あれ、ドアが半開きになってる。」

最初に気がついたのは理緒だ。
ほんの僅かではあるが、ドアが開いている。
嫌な予感が一瞬にして湧き上がる。最早それは予感ではなく悪夢、デジャブ、その類だ。
そのまま猪井田が近づき、ドアノブにそっと触れる。
ゆっくりとゆっくりと、ドアを開いていく。
恐る恐る、中の様子を伺う。
静かに静かに、息を殺す。

猪井田の顔つきが変わった。
動きが止まった。
眼を見開き、口をだらしなく開ける。
ビデオのスローモーションを見ているかのような緩慢な動き。
比喩でもなんでもなく、顔色が青冷めていくのが解る。
眼の焦点が一致してない。

「だ・・・・・・、め、だ・・・」

口をパクパクと上下させるが、肝心の言葉が出てこない。

「だ・・・・・・、だだめ・・・、みちゃ・・・・・・、だめだ・・・・・・」

寒さに震えるように、顔を小刻みに揺らす。


―――まさか

―――まさか

―――まさか


心臓が早鐘を打つように暴れまわる。
自分の身体の一部なはずなのに、自分でも制御ができない。
血液が沸騰するように熱を帯びてくる。それも夥しいほどの熱量を。

猪井田が抱え込むようにして私たちの行く手を阻む。
膝は崩れ、手にも力が入っていなかったので払いのけるのは容易だ。
そのまま浦澤瞳の部屋の中に眼を向ける。



あぁ
人間はなんて脆い動物なんだ。
いとも簡単に壊れてしまう。
小さなときに悪戯して壊してしまったフランス人形みたいだ。
あぁ
とっても不思議だ。


吐き気もしなかった。
胸の辺りが熱くなることもなかった。
涙が決壊したダムのようにこぼれる事も、無きすがることも無い。
ただ眺めるだけだ。
さっきまでの3割り増しだった心臓も、今は平常に戻っている。熱も何処かに発散して行った。
むしろ寒いくらいだ。
立て続けに人の死に直面すると、人間ってこうなるのかな。
慣れって言うのは、本当に怖いな。
本当に怖いけど、本当に便利なんだな。


頭の何処かで、もう1人の私が冷静に自分を分析するのが解った。
ここ数日で、3人もの人間のしかも極身近な人物の死を眼の当たりにしたことになる。



眼の前には、浦澤瞳が首に縄を結んだ状態で宙に浮いていた。





*   *   *

メンバーは全員1階のロビーに集まっていた。
つい先ほど、2階の部屋で首を吊っていた状態で見つかった浦澤瞳を、全員で協力して下ろし、ビニールシートで包んで鶴井・田子と同様に山荘のすぐ外にある物置の中に安置した。

その後、一旦ロビーで腰を下ろした。
他のメンバーの顔色を伺うまでもないが、全員憔悴しきっていた。

焦り
恐怖
混乱
そして狂気。

そんな大凡負の感情が全て集められて、濃縮されたような空気だ。
それなのに、発せられる言葉がゼロと言うものまた、暗澹たる空気に拍車を掛ける。


「何で・・・・・・、こんなことに」

誰かがポツリと呟く。理緒だった。

「瞳さん、何で死んじゃったんですか?」

『死んだ』
その言葉が、鉛のように胃に圧し掛かる。
眼を閉じれば、ついさっきの凄惨な現場が鮮明に蘇る。
首にその全体重が掛けられた状態で、浦澤瞳は宙に浮いていた。
まず反応したのは嗅覚だった。
糞尿や血の生臭い匂いが鼻孔を突いた。
何処かで聞いたことがある。
首つり死体と言うのは、すべての屍体の中で最も醜くなるらしい。
肛門から尿道まで力が入らなくなるため、垂れ流し状態になると。
また首、つまり頸動脈が極度の圧迫されるため、首から上の血液が半身まで帰ってこない。
故に、顔面がパンパンに膨れ上がると。
その姿はもはや生前の面影どころか、人間に見えなくなるとまで。

床から1m以上の高さに吊るされていたため、浦澤を引き下ろすのに酷く苦労した。
下ろしたところで、改めて浦澤瞳の表情を見る。

いや、既に浦澤瞳だったもの、肉塊だった。
どす黒い紫色になった、異常なまでにはれ上がった顔。
牛のようにだらしなく放り出された舌、眼は濁りきった白目。
見るに堪えないとは、この事だった。

これは恐怖だ。

思い出しただけで、胸糞が悪くなる。
それでも気分が悪くなる事はない。
恐らく、慣れたのだろう。

それが何よりの恐怖だった。
こう言った人の死、それも自然死ではなく異形な死。
ましてそれが自分の身近な人物。
それなのに、最初ほどのショックを受けない自分がいる。

『死』に慣れた。

そう自覚するのが、最も恐怖を感じる。



「それが解れば苦労しないんだよ」

「そもそも、あれは他殺だったのかな。だって足もとに踏み台みたいなのが無かったし」

もう1度だけ思い返す。
必死で浦澤の身体を下ろす時、その真下には何も置いてなかった。
それは最初にあの部屋に入った私が証明できる。

「そりゃそうでしょ。自分から事件の真相が解ったって言っておきながら、自殺する奴じゃないし」

その声に張りが無いながらも、不二見は話す。

「じゃあ、一体誰が・・・」

「決まってるでしょ。この中の誰かよ」

「で、でも・・・、私たち、ずっと一緒にいましたよね?」

貴中の言葉だった。
その一言が衝撃波を生んだように駆け巡る。
誰もがはっと現実を突きつけたれたような顔つきになる。
それは私も同じだった。
浦澤の死で混乱していたのか、それが殺人であることは気づいていたが、その直前まで、
それこそ、浦澤瞳がキッチンを出てから部屋で発見されるまで、誰1人あのキッチンから外に出た人間はいない。
トイレに行った人間も、みんなが一斉に寝たと言うこともない。
紛れも無く、私たち8人は浦澤瞳が出て行ってああやって発見されるまでずっと一緒だったのだ。
では
では浦澤瞳は一体誰に殺されたのだろうか?

「だとしたら瞳さんは誰に、どうやって殺されたんですか?」

貴中の叫びにも似た疑問。魂の叫びであろうか。
私も考えていた同様の疑問。それは誰の口からも解答が語られることはなかった。
しんと静まり返ったロビー。

「私たちは、ずっと一緒にいましたよ。だとしたら瞳さんは・・・、浦澤瞳は一体誰に殺されたんですか?」

独白のような、胸を引っ掻かれるような泣き声。
私は下唇を噛むしかなかった。
貴中はプライベートでも浦澤に懐いていた。
竹を割ったような性格や、男勝りな部分が共鳴したのだろう、貴中は浦澤のやることを日頃から意識し真似していた。
浦澤が早朝ランニングしていると言えば自分も始め、あの食材が身体に良いと言えば自分も食べる。
そんな日々だった。
それが急にこの世界から消え去ったのだ。
その痛みは、私には想像できない。
何か言葉をかけなくては。
先輩として考えたが、一向に頭に相応しい言葉が浮かんでこない。



*   *   *


突然だった。
猪井田の携帯電話が鳴りだしたのだ。最初、そこにいた全員があっけにとられた。今まで圏外でつながらなかった携帯電話が、ここにきてなり始めたのだ。
猪井田は急いで取り上げる。ディスプレイを眺める。着信があったようだ。

「誰から?」

「白岡さんだ」

そう言うとボタンを押して、通話を開始する。

「もしもし白岡さん、あのね私たち山荘で・・・」

猪井田のまくし立てる言葉が急に途切れた。
どうしたというんだ。また圏外になり通話が途切れたのか。
いや違うみたいだ。微かではあるが、通話口から人の声が聞こえる、しかし、自分たちの知っている白岡さんの声ではない
猪井田はスピーカーボタンを押す。皆にも通話が聞こえるようにしてくれた。

「あの、もしもし誰ですか、白岡さんじゃないんですか?」

その質問に対し明確な答えが帰ってこない。ただ向こうから人が大騒ぎしている声しか聞こえない。それもお酒で馬鹿騒ぎ、と言った類でないことは伝わってくる。

何か向こうで大きな事件が起きたようだった。
すると、向こうの通話口に人が出た。

「おおい! ようやくつながったっぺよ!」

何を言っているんだろう。少なくとも標準語ではなく、少し訛が入っているようだ。そして私たちでなく、通話口の向こうの相手方に対する言葉だったみたいだ。

「いやぁすまんすまん、あんたこの携帯の人の知り合いか?」

電話の向こうの名も知らない誰かが聞いてきた。

「え、えぇ。そうです。仕事でお付き合いしてますが・・・。あのどうしたんですか。なんで白岡さん・・・、この携帯電話の持ち主はどうしたんですか?」

「いやぁ、それがな、皆で集まって飯くっとんたんじゃ。そしたらゲンさんが酒を注いだら・・・」
「馬鹿言うでねぇ! ワシは酒注いでねぇ! トクさんが珍しい漬物があるっていって、そっからで・・・」
「何で俺が悪くなんだよ! 皆だって美味しい美味しいって言いながら食ってたじゃないか・・・」

こっちの質問には誰一人答えてくれない。
向こうは向こうで水掛け論が始まっているようだ。
分からない。何が起こっているのか。とにかく白岡さんに出てほしい。状況を説明したい。この猛吹雪の中、いつまた圏外になるか分からない。
訳のわからないオヤジたちには用はないのに・・・

「すいません。僕が代わります」

するとだった。こんどは比較的若い男性の声に変った。こちらはまだ落ち着いた声だった。

「申し訳ありません。ただ今こちら、ドタバタしてまして。私、宗像村で医師をしています『三田村』と申します」

「はぁ・・・。あの、この携帯電話の持ち主の方はどうしたんですか。そこにいらっしゃならないんですか?」

その言葉で、向こうの三田村と名乗った男性も言葉が濁る。

「・・・あの、実はですね、落ち着いてください。この携帯電話の持ち主の、ええっと白岡さんでしたっけ、その白岡さんなんですが・・・」

「はい?」

「先ほど、死亡が確認されました」

えっ、と叫んだ。わが耳を疑った。何を言ってるんだ。この人は。

「・・・・・・え、あの・・・・、なんですか?」

「気を確かにしてください。そのこの携帯電話の持ち主の白岡さんなんですが、先ほどまで皆さんと一緒に食事をなされていたんですが、急に苦しみ初めまして、そのまま動かなくなってしまったんです。
私はその場にいたのですぐに蘇生を行ったんですが、しばらくして死亡を確認しました」

「ちょ、ちょっと、嘘でしょ! 何で」

「検死を行わないと詳しくは断定できませんが、恐らく毒物死ではないかと」

「毒物・・・」

「はい」

「・・・本当ですか?」

「えぇ。間違いないかと。ちなみに皆さん、と言いますかあなたのお名前は?」

「猪井田といいます。猪井田姫世です」

「猪井田さんですか。今、どちらに?」

「『黒川影夫』の山荘です」

「黒川・・・、あぁ、え、あんな所にいるんですか!? 」

ふと、疑問が湧いた。
この人は『黒川影夫』の山荘に人が遭難している、と言うことを知らないのか?
しかし白岡さんは村に無事到着している。ならばその白岡さんの口から救助要請があったはず。
それなのに知らない?

「確かに小説家の黒川氏の山荘がこの村の近くにはあります。でも一番近いこの村からでも片道30分はかかりますよ。ましてやこんな雪の中だったら・・・。どうしてまたそんな場所に」

「話せば長くなるんですが、とにかく今私たちその山荘にいまして、私たちもそちらに行きたいんですが動けないんです。いつになったら救助は来てくれるんですか?」

「そうですね、天候も安定してきてますので、明日の朝には」

―――明日の朝
その響きがまさに福音だった。
確かに明日の朝まであと十数時間あるが、その十数時間を待機していれば良い。
天候も安定して来ているという。
もう少しの辛抱だ、そう思っていた。


その時だった。
急に猪井田の携帯電話のスピーカから聞こえてくる声が不鮮明になってきた。
耳をすませば、またどこか遠くで雷が鳴る音がする。
雷がひと鳴りする事に向こうの声がとぶ。そしてついには通話が強制解除されてしまう。

「切れた」

猪井田の悲痛な呟きだった。
私は痛感した。「あと十数時間」ではない。「まだ十数時間」である。
その間私たちは、人が3人も死んだ不吉な山荘で時間を過ごさなくてはいけない。
犯人も、その殺害理由も分からないまま後十数時間をここで我慢しなくてはいけないんだ。

それに電話口で三田村という医師が言っていたその「十数時間」と言うのもどこまで信ぴょう性があるのかわからない。
もしかしたら、再び天候が悪化し救助隊の到着が遅れるという可能性もある。
私たちが後十数時間で解放される保証はどこにもないんだ。



*   *   *


*   *   *


とりあえず皆はソファにそわる。その間に会話は一切なく、ただただ無言で席に着く。
最初に口火を切ったのは、猪井田さんだった。

「まず私たちがやることは、明日の朝まで生き残ること、だね」

「賛成」

それに反応したのが不二見さんだった。
皆も声には出さないが首肯する。

「じゃあ私たちはどうやって生き残るか。できれば『犯人』を特定しよう。そして捕まえるんだ」

「どうやってさ」

「決まってる。推理するのさ。今現在みんなが持っている情報を統合させ、可能性を一つ一つ削っていく。かのシャーロック・ホームズも言ってる。
『全ての可能性を洗っていき、不可能なものをどんどん削っていき、それでも最後に残ったものは例えどんなにありえないものだろうと、それが真実である』ってね」

「はるほど。つまり消去法で犯人を断定していくんだ」

「そういう事になるね。もちろん私たちは探偵ではない。でもここにいる7人の知恵を集めればそれに近いことができるんじゃないかな。そうだね、まずすることは最初の事件、鶴井舞の事件から探っていこう。
事件のあらましを確認する。
事件が起こったのは、この山荘に着いた最初の夜だった。皆が山荘内の探索を一通り終えて各自の部屋に戻ったあとだった。二階の鶴井の部屋から銃声が聞こえた。そうだったね。そのときこの一階に残っていたのは、私、知尻、そして鷹梨の3人。
これは銃声が聞こえた時はこの3人はこのロビィにいた。ここまではOKかな。
そして、銃声が聞こえたので私たちは階段を昇って二階に行く。このとき、さっき名前の出なかった、真壁冬香、不二見未里、霧綾美、新馬理緒、貴中怜はそれぞれの部屋にいたそうだよね。ちなみに、銃声がなったときそれぞれ何をしていたの?」

「おっと早速尋問かい」

「冬香、茶化してる場合じゃない。まずか冬香、君は何をしていたんだい。」

「私は寝る準備をしていたよ。パジャマに着替えて、バッグの中身を一度出して整理整頓をしていた。おおかた片付いて、じゃあ寝ようかなって思ったら、銃声みたいのが聞こえてきたから恐る恐る顔を出したってわけさ」

「ふん。もう寝る準備が出来ていたから銃声を聞いたあと、すぐに部屋の外に顔を出したってわけか。じゃあ次は霧、あんたは?」

「わ、私は部屋のシャワーを使っていました。シャワーを浴び終わって着替えてる最中にあんな音が聞こえたので、部屋を出るのが少し遅れました」

「そうか。じゃあ次は未里」

「私は寝てたよ。あの日は異常に疲れてたからね。まぁ公演の疲れもあるし、こんな慣れない場所に来たせいもあって、部屋に入ったらすぐに睡魔が襲ってきてね。そのままベッドに入ったよ。で、うとうとしていたら銃声を聞いたんでね。
眠気眼でドアを開けて外の様子を見たんだ」

「よし、じゃあ理緒、君は?」

「私はベッドで横になってました。でも未里さんとは違って、すぐに寝るんじゃなくって本を読んでました。ほらここの書斎にたくさん本があったじゃないですか。あのうちの一冊を借りて目を通してました。そしてあの音を聞いて部屋を出ました」

「じゃあ最後、怜は?」

「私は特になにもしてません」

「何も?」

「あぁ、何もって訳じゃなくて、台本を読んでました。次の公演の台本です。今度の役柄はセリフも多いし、あと裏方の仕事が入ってくるので、頭に叩き込もうと思って」

「了解。じゃあ今の話を統合してみて、とりあえず今のところ怪しいことは無いかな。まぁ、と言っても皆アリバイの確認のしようがないんだよね。皆ひとりひとりだったから」

「ちょっと待った。ちなみに姫世たちはここで何してたの。私たちだけに事情聴取して自分たちは無関係っていうのはルール違反じゃないの」

「ん、私この時まずたちのアリバイかい。と言ってもな何を言えば良いのか」

困った猪井田さんの脇から言葉を挟んだのは知尻さんだった。

「最初にキッチンにいたのは愛さ。体調が悪そうにこのソファに座っていた。で、次にきたのが私。で何か飲みたいと思って隣のキッチンに移動した。そこでウィスキーを見つけたからちょっと失敬した。で紅茶にウィスキー入れようと思って用意して、
ここに戻ってきたら姫世が二階から降りてきたってわけさ」

「ふうん、じゃあなに、2人とも勝手にウィスキーを飲んだってわけ」

「正確には3人」

その言葉に真壁さんはやれやれと肩をすぼめる。

「じゃあ話を戻すよ。何かここまでで引っかかることはある?」

「引っかかるじゃないけど」

手を挙げたのは未里さんだった。

「私は寝起きだったから音を正確には聞いてない。夢の中かなって思ってた。だからその音が本当に銃声だったのか、本当に舞の部屋から聞こえてきたのかわからない。その音は本当に舞の部屋から銃声が聞こえたのか、それははっきりさせたい。
猪井田さんは銃声を聞いたんですよね。本当に銃声でしたか?」

「難しい質問だね。私はあれが銃声だったと思ってるよ。ただ今までに本物の銃声ってやらを聞いたことがないから確証は持てない。他のみんなはどうだろう」

反応したのは貴中だった。

「私も聞きました。あれは銃声だと思います。確かに猪井田さんと同じように本物の銃声を聞いたことが何ので百%とは言いませんが、ねずみ花火の類の音とは違ったと思います」

「鶴井の隣の部屋の怜がそう言ってるけど、反対側の部屋の霧はどう思った?」

「さぁ。私はそれまでシャワーを浴びていたので怜ちゃんほど断定はできないけど、でもやっぱり今まで聞いたことがなかった音だし、それにちゃんと舞ちゃんの部屋の方向から聞こえた。それは確かかな」

「ふんふん。まぁどうやら今の話をまとめると、当時の銃声は花火等の音ではなかったし、ちゃんと舞の部屋の方向から聞こえたって事でいいみたいだね。じゃあ次に進めるよ。
じゃあ皆が銃声を聞き、二階にやってきた。時間にしておよそ2分から長めに見積もっても3分、鶴井舞が部屋から出てこない。このとき、そもそも舞が部屋から出てきていないって気づいたのはマリアだった。
そこで私は、舞の部屋のドアノブを回してみたところが、ドアは開かなかった。てっきり鍵が掛かっていると思った。そこで、冬香が一階のキッチンまで鍵束を取りに行ってくれた。
ちなみに、冬香が鍵束を取りに行ったとき鍵束は本来の場所にあったんだよね?

「あぁ、あったよ」

「ついでに確認するけどマリア、ウィスキーを取りに行ったとき鍵束はあった?」

「ううんと、確かあったはず。そんな目で見るなよ。だって鍵束があるかどうかなんて意識して見てないよ。たしか視界の隅にあった気がする、程度だね」

「ふむ。でも視界の端にあった気がする以上、本当にあったんだろう。で冬香に鍵束を取ってきてもらっていざ鍵を開ける。そしてその後、もう一回ドアノブを捻ってもドアは開かなかった。ここで鍵の他に閂も掛かっているんじゃないかって話だ」

「そうそう。で、そこでドアを打ち破ろうと言ったのは姫世だったね」

「うん。皆が聞きつけて部屋を出てくるはずの音を聞いても一人だけ出てこなかったからね。もしやと思って打ち破ろうと思ったのさ。変な思考回路かい?」

「んん、全然」

「じゃあ話を続けよう。ドアを打ち破るってことで、協力したのが浦澤瞳、そして真壁、知尻、貴中と合計5人。この5人でドアを打ち破った。そして発見したのが鶴井舞の遺体だった。
状況は拳銃で額を一撃だった。その使用されたと思われる拳銃は鶴井舞の近くに落ちていた。さぁここまでで聞きたいこと、不明なことはあるかな」

「本当に閂は掛かっていたんですか?」

「未里の言うことはわかる。閂が実際には掛かっいなかった可能性があるってことだろ。でもその可能性はないね。だって鍵を開けたあと、ドアノブを触って確認した人物はたくさんいる。私以外に、冬香もマリアも、瞳も触ったはずだ。
これだけの人間が触って閂が掛かっていたと勘違いするってことはまずない。あのとき閂は絶対にかかっていた。その触った全員が証人さ」

「じゃあこれはどうでしょう。最初、舞の部屋は閂は掛かっていたが、鍵は掛かっていなかった。そこへ真壁さんが鍵を持ってきて鍵穴に差込、そして鍵を締めてしまった。ここの鍵は初めてだから、普通の鍵と違って、鍵をかけるのが左右逆だった。
真壁さんは鍵を締めたと思ったが、実は逆に今まで開いていた鍵を締めてしまったのでは、とこう考えられませんか?」

「ううん、却下だね。だってそれならドアを打ち破ったとき、鍵自体も大きな力で曲がってしまうはず。でも事件後見てみたけど、曲がっていたのは閂の方だけで、鍵自体は普通に引っ込んでたよ。だからあの時、鍵は開けられていたはず」

「ん~~、そうですか」

「他にあるかな」

「犯人はドアじゃなくって、窓を使ったんじゃないの」

「窓か。確かに可能性としては考えられないけど、でも廊下を使って逃げるより難しいんじゃないのかな。外は大吹雪だし、そもそもあそこは2階だ。窓から出ても地面の雪に落ちて帰って来れないよ」

「本当に舞は死んでたんですか?」

「それは議論する必要はないだろう。脳天を銃で打ち抜かれれば宇宙人以外はまず絶命するはず。これは議論の余地はない」

「いえ私が言うのは、あの拳銃はフェイクじゃないかってことです。皆さん銃声が聞こえて部屋に入ると銃が落ちてるから銃で舞は殺されたって思ってるかもしれませんが、果たして本当に拳銃で舞は殺されたのかってことです。
もしかしたらそれこそ犯人のフェイクで、もっと他の殺害方法、そう例えば毒を使った方法で殺害されたかもしれません」

「なるほど。つまりこう言いたいわけかい。鶴井は毒かなにかで殺された。部屋の中で鶴井が口にしやすいものに予め毒を仕込んでいた。あとは鶴井が勝手にそれを口にして倒れてくれれば良い。犯人は中に入る必要はない、ってこと?」

「そうです。今回鍵を掛けたのは不確定要素だったんです。犯人は最初からあの部屋を密室にする予定はなかった。ただ、今回偶然鶴井が鍵をかけたからこんな不可解な状況になっただけで、実際はもっと簡単な形なんではないでしょうか」

「私は違うと思うね」

「冬香がそう思う理由は?」

「拳銃は誰が用意したのさ。犯人が鶴井舞を毒で殺そうとしたのは良い、でもあの部屋には実際に拳銃が落ちてたじゃないか。あれは誰が準備したものなんだい。犯人が用意しなかったら鶴井舞自身が用意したのか、それはちょっとおかしいよ。
舞がそんなもの用意する道理はない。じゃあ、やっぱり犯人が置いていったと考えるのが普通だし、それに舞の額にはしっかり銃で撃たれた跡が残っている。やっぱり舞は銃で殺されたんだよ」

「舞が銃で撃ち抜かれた、そう言ってもいいかのしれないわね。確かに毒殺っていう新しい見方は必要かもしれないけど、でも今冬香が言ったように、部屋に落ちていた拳銃や舞の額の銃創の件も考えると、やっぱり銃で撃ち抜かれたと考えたほうが普通ね。
でもそうすると、今度はあの密室はやはり犯人が作り上げたものと考えざるを得ないってことね。犯人はどうやってあの密室を作り上げたんだろう」

「やっぱりそこに行き着きますね」

「じゃあ、ちょっと目先を変えよう。第二の事件の田子藍那の事件について考えよう。あのときのあらましは以下になる。
まず事件が起こったのは夜が明けてから次の日、皆でキッチンで食事を取ろうとなったときのこと。
キッチンに皆が集まって、食事をしていたら急に田子藍那が苦しみだして床に倒れた。抱きかかえてみてもあの子は息を吹き返さなかった。
まず食事の内容は、この山荘にあった非常食や缶詰何かをお皿に出して並べただけ。特に調理らしい調理はしていない。強いて言えばレンジなんかで食べ物を温めた程度。料理の中に毒を仕込めたかどうかは疑わしい。
そもそも料理に毒を入れれば、田子だけでなく他の人も、もちろん犯人自身も毒を口にすることになり、大変危険だった。つまりは料理の中には毒は入ってはいなかった、ということになる。
では、果たして毒はどこに入っていたのか。これが問題になる」

「田子にだけ毒を盛るなら、一番簡単な方法は箸やスプーンなんかの食器に毒を仕込めば良い。そうすれば自分を含め毒の餌食にはならない」

「そう、ただそうなると次の疑問が湧いてくる。じゃあどうやって毒の仕込んだ食器の席に座らせるかということだ。あの時、席の座り順は特に決まってはいなかった。キッチンに来たものから順番に好きな座席に座っていった。
それも早いものから順番に奥から、ってこともなかった。本当に好きな場所に座っていた。犯人はそんななかで田子がどこに座るか分かったのだろうか?」

「無理だろうね」

「では犯人は少なくとも食器類に毒を仕込んだ、と言うことはない。なら犯人はどんな手立てを使ったのか」

「ある特定の料理に毒を仕込んだ、じゃダメですか?」

「特定の料理に? どういうこと?」

「田子さんが率先して食べそうなものですよ。田子さんがその特定の料理を全て食べれば、毒は田子さんにしか回らないし、他の人は食べないから毒は回らない」

「そんなことあると思う? だってね、そもそもあの時は鶴井の事件のあとで、みんなそれほど食欲がなかった時期、そんな時期に田子だけが食欲があったとは思えない。それにいくらなんでも田子がある特定の料理だけをずっと食べ続けたとは考えづらい。
いくらなんでも皆、多かれ少なかれ大体の料理は食べたでしょ。そうなるとその案はちょっと信憑性に欠けるわね」

「閃いた。今の貴中の話でちょっと閃いた」

不二見さんだった。

「もしかしたら貴中の話は半分合ってたんじゃないかな。私の推理はこうさ。犯人は予めある料理の中に毒物を仕掛けた」

「それじゃあ一緒じゃん」

「まだ終わってない。で、犯人は続けて他の料理に『解毒薬』を仕込んだ。大概の人は毒の仕込んだ料理を食べても、他の解毒薬の入った料理も口にするから、胃の中で中和されて死に至らない。
でも田子は毒の入った料理を食べても、解毒薬入りの料理を食べなかった。だから田子だけ全身に毒が回り死に至った。どう。これなら辻褄があってない?」

「なるほど、毒薬と解毒薬を同時に服用させるのか。そうなると出来そうかもしれないね。となるとそのトリックが使えるのは当然、食事の準備をした人間に限られるってわけだ。その時、準備をしていた人間は・・・」

「私だ」

「そして私だね」

真壁さんと知尻さんが反応した。そして

「当然、私、猪井田姫世も準備をした。犯人は当然この3人の中の誰かってわけだ。」

一瞬、メンバー是認の視線が首脳陣3人に集まったが、ぜも猪井田さんはどこ吹く風だった。

「確かに未里の案では、うちらの中の3人が犯人かもしれない。でも、言わせて欲しい。あの準備の中で毒を仕込んで、しかも解毒薬まで仕込むのは至難の業だ。人数がただでさえ少ない3人で、しかも一人で全ての準備をするとなるとこれは大きな仕事だ。
それを他の2人に気づかれることなく用意するのは極めて困難だ。ちなみに、冬香、マリア、2人はそんな不審な行動を見たかい?」

2人は揃って否定する。

「あの限られた状況で毒薬と解毒薬を用意するのは困難かつ危険極まりないよ。それにもしそれが叶じてできたとしても超えなくちゃいけない壁があるよ」

「何ですか?」

不二見さんの不服そうな返答だった。

「私たちはずっとキッチンにいた。調理時間こそ短いものの、どんな食料があって、どこに調理器具があるのかなんかを調べながら調理していた。思いのほか時間がかかったわけだ。その間、私たち3人はずっとキッチンにいた。
だったら田子の部屋に送られていた犯行予告文はどうやって出したって言うんだい?」

その質問に不二見さんは口をへの字に曲げた。
確かにそうだ。猪井田さん、真壁さん、知尻さんは話によるとずっとキッチンにいた。とすると二階の田子さんの部屋のドアの隙間にあったとされる犯行予告文は3人の誰も出せなかったことになる。
状況から考えて、毒を持った人物と犯行予告分を出した人間は同じはず。では、この不可能な状況をどうやってクリアしたのだろうか。

「ちょっと未里の案も実行は可能かもしれないけど難しいな。もっと他の案はないかな?」

今度は知尻さんだった。

「やっぱりあれじゃないかな、食事の席で毒を盛ることが難しい以上、毒を仕込んだのは料理じゃない、ほかの食べ物。田子や霧はおやつを沢山持っていた。その中に毒を仕込んでおいた。所謂、遅効性の毒。飲み込んでもすぐには吸収されず、
数時間経って効果が出てくる、そんな毒を仕込んだんじゃないかな。これも考えようだけど、犯人は必ずしも食事の席で田子を殺害しなくちゃいけわい、って訳じゃなかった。それこそいつでもよかった。
予め、そうだな最終日の公演が終わった直後か何かにあいつの荷物に近づいておやつに毒を仕込む。ビスケットでも飴玉でも良い、とにかく口にするものの中のどれかにこっそり毒を仕込んだ。
そしてそれを知らず毒が仕込まれたおやつを口にする田子。その瞬間は何ともなくとも数時間後には体中に毒が回って、死に至る。これならキッチンの面倒くさいトリックは考えなくても良い。
犯人が犯行声明文を出したのもそのため。確かに犯行声明文なんか出して本人に怪しまれたら殺人を実行しにくくなることは確かだけど、すでに毒物が田子本人の口の中に入っているなら、関係ない。
どうだろ、これなら不可能毒殺も可能じゃないかな?」

「うん、筋は通ってるね」

猪井田が頷いたところで、霧綾美がおずおずと口を開いた。

「でも私、藍那のくれたお菓子、たくさん食べましたよ。それに私があげたお菓子も食べてたし、もしかしたら私が死んでたかもしれないってことですか」

「じゃあ、私も少しもらった」

新馬理緒だった。
その言葉で、一瞬場が沈黙した。

「ふむ、そういうことも考えなくちゃなのか。確かに田子のお菓子の中に毒を仕込むことはできたかもしれない。でも果たしてそのお菓子を本当に田子本人が食べるかどうかは別問題ってことか。
事実、田子はいろんな人にお菓子を分け与えていたことだし、もし毒お菓子説を取るとなると田子本人はもとより、他の人間が死んでしまう可能性もあったということか。
犯人はそのことは流石に知っていたんだろうか?」

誰も答えない。それはそうだ、自分が犯人でなければそんなこと分からないし、そもそもここで明言をすれば、それは自分が犯人だと言ってしまうようなもんだからだ。

「ちっとも分からない」

「ちっとも分からないのは、最後の事件も一緒だ。第三の事件、浦澤瞳殺害事件。
ついさっきだ。私たちはキッチンに集まっていた。当時いたメンバー全員がそこにいた。具体的に名前を挙げるとすると、私猪井田、真壁、知尻、不二見、霧、貴中、新馬、鷹梨、そして殺された浦澤。この9人。
それは間違いがない。では、このあとどうなったか。浦沢瞳が急に言い始めた。『犯人が分かった』と。そしてその犯人を言及するための準備が欲しいといって、独り二階の自分の部屋に戻っていった。
その間残った私たち8人はキッチンでずっと待ち続けていた。約束の時間になっても浦澤は戻ってこない。そこでみんなでキッチンを移動し、二階の浦澤の部屋に移動する。
ちなみにその間、キッチンで待っている間、誰ひとりとしてキッチンを抜けたものはいなかった。トイレなんかで出ていこうとした人間もいたが、結果としてキッチンを出る人間はいなかった。
そして二階の浦澤の部屋に行ったら、彼女は天井から首を吊って命絶えていた」

「これに関してはお手上げだよ。だって皆キッチンにいたんだもん」

知尻さんが肩をすぼめる。
私も声には出さないが、心の中で反駁する。確かにそうだ。
二階に行ったとき浦澤さんは確かに首を吊って絶命していた。
その浦澤さんは、女性の中では比較的大柄だった。身長の170cmくらいはあっただろうか。体格だって、そこまで細身であったわけではない。
体重も50kg、いや55kgはあっただろう。
直接対峙して、不意をつくならまだしも、そんな人間を相手に一歩も現場に入らずに首を釣らせるというのはまず不可能である。
縦しんば、仮に可能であったとしてもそれにはかなりの機械的なトリックが用いられたはずである。
では、その機械的トリックに使われた道具はどこに消えたのだろうか。
それは全く見えてこない。
ふと、そんなことを考えていたとき、真壁さんは口を開いた。

「あの首吊りがトリックだったってことはない?
例えばさ、遊園地のお化け屋敷にある首吊り幽霊、あれって本当に首を釣ってるわけじゃないんでしょ。首にかかったロープとは別に、身体を支える別のロープがあるって場合があるじゃん。
今回もそれを使ったとは考えられない?」

「ちょっと待った。じゃあなに、瞳は実際には首を吊っていなかったと、実は身体にロープを括りつけて死んだふりをしていたと、そう言いたいの?」

「なんだよ、姫世が言い出したんだよ、可能性を探るって。だから可能性を挙げただけじゃん。事実浦澤瞳が生きたまま二階に上っていった、そして皆で二階に見に行ったら瞳は首を吊っていた。自殺や自殺偽装じゃなかったら、なんだって言うんだ」

ちょっとした真壁さんの言葉だった。
その少し息の上がった声で、場はたちまち沈黙した。
そのまま話し合いは難航し座礁した。
気がつけば推理は元の位置にいた。皆で回りまわって意見を交わしたはいいが、結局あたりを見渡せば何も進んでいない、最初の位置。
何も分からないし、何も解決しない。
絶望感と閉塞感。それしかなかった。
これからどうしたら良いのだろう。
あつ十数時間。
私たちはこのままバラバラになった状態で、救助隊を待たなくてはいけないのか。そんな苦痛が空気を圧迫していた。そんな時だった。


*  *  *

それは突然だった。
今まで扉を叩く雪の音しかしなかったのに、別の音が混じってきた。
トントン・・・
分厚い木製のドアを何かたたく音だった。
しばらく、皆は固まったままだった。
何の音なのか?
どうして音がなるのか?
音の主はなんなのか?
そんな事が頭の中を駆け巡っていた。
ドアを叩く音が、「トントン」から「ドンドン」に変わってきた。
より強くドアを打つ音が聞こえる。
これは明らかに、気の枝や雪がぶつかる音ではない。
そのうち、声も聞こえてきた。

「・・・・・・ません」

なんだろう。
皆がそう思ったに違いない。

「・・・いません。だれ・・・せんか」

人の声だ。
確かに人の声だ。
何かを訴えかけている。

「・・・ませんか。誰かいませんか!」

聞こえる。夢や幻でない。
確実に人の声が聞こえた。
私は恐る恐るではあるが、ドアに歩を進める。
鍵のかかっているロックを外す。
すると、雪崩のような勢いで「その人」が入ってくる。
一度開けられたドアをまた締められないように、その隙間から身体をすべり込ませるように入ってきた。
大小様々な荷物と一緒に重装備の訪問者。
大量の雪をその全身に積もらせながら。
そう、謎の闖入者が誕生した瞬間だった。

「いや~~。すいません。助かります」

男の声だった。
この緊急時と言うのに、どこか飄々とした能天気な声だった。
その男はすぐに立ち上がると、全身の粉雪を払い落とし荷物を担ぎ直す。
意外と大きい。
今まで床に倒れ込んでいたから分からなかったが、身長は175cmくらいある。

「いきなりで申し訳ないんですが」

その言葉になんの躊躇も悪気もない。

「ここで休ませてくださいませんか」

ゴーグルと毛糸の防止を脱いでその顔の全貌が露になった青年が、そこに立っていた。
何処か中性的で優男、そんな印象だった。


*  *  *


暖炉の前の一番暖かい特等席で、その急な訪問者である青年は座っていた。
その手には温められたコーヒー。
立ち上る湯気の向こうに、良くいえば柔和、悪く言えば緩んだ笑顔の男がいた。
その青年は特に名を名乗るでもなく、熱々のコーヒーを雛のように唇を尖らせながらチビチビ飲んでいる。
しびれを切らして、猪井田が口火を切る。

「あの」

その言葉に反応したのか、青年は今までコーヒーにあった視線をこちらに向けてくる。
なんとも屈託の無い笑顔だ。

「あぁ、すいません。助かったと思っちゃって、つい・・・」

じっとりと湿気で湿った髪の毛をかきながら、青年は話す。

「趣味が山登りなもので、こんな季節外れな雪山も良いかなって思ってアタックしたは良かったんですが、いやはや自分の能力を過信しすぎるものじゃないですね。
まさかこんな事態になるとは、夢にも想いませんでした」

饒舌だった。
そして極めて楽観的だ。
青年の話からするに、今の今まで遭難しかけていたんだろう。
この天候である。それは生死に関わる事態であろう。それをまぁこんな軽く話せる人間もそうはいなだろう。
そして話が切れなくて無駄に長い。

「ここに山荘があって助かりました。ここで休める場所がなかったら今頃、冬眠から冷めた野熊の非常食になっていましたよ」

笑えない。
現に今の今まで遭難しかけていたんだ。その可能性は非常に高い。
そんなことないですよ、と笑って済ませる話でもない。
この人はとにかくなにものなんだ。

「いやいや、本当にすいませんね。右から見ても左から見ても美女が並ぶお屋敷に、こんな無粋な闖入者とは。
いやはや、お邪魔じゃなかったらここで嵐が止むまで少し待たせてもらっても宜しいでしょうか?」

「え、・・・えぇ」

猪井田さんもその底なしの能天気の雰囲気に気圧されたのか、思わず頷いてしまった。

「いやぁ、それにしても圧巻ですな。これほどの女性がこんな人里離れた寂れた山奥、おっとこれは言い過ぎでしたね、こりゃまた失礼。
しかし羨ましいですね。年の初めにこんな場所で新年会を開ける場所をお持ちとは、大学のサークルの会合ですか、いや何処かの企業のお嬢様とか?
会社の建物を使った懇親会? いやはや羨まし限りです」

「いえ、違うんです。ここは実は・・・」

猪井田さんの言葉を遮るように青年は言葉を矢継ぎ早にけしかけてくる。

「僕もね、とある目的地を設定してここまで来たんですよ。地図も用意して」

「はぁ」

「まだ昔は方向感覚と言うんですか、どっちが東だどっちが西だって、絶対方向感覚には自信があったんですよ。絶対方向感覚? ふぅん、自分で言っておきながら、意味わかんないですね。
ま、あれですよ。絶対音感ってあるじゃないですか。1つ1つの音の高さを即座に答えられるってやつです。あの方向感覚だと思ってください。これには自信があったんですけどね、年も取ったし、それにこの吹雪でしょう?
はぁ、やっぱり頭の中の地図だけで目的に到着できるほど日本の冬は甘くないってとこですか」

「・・・・・・、えっと、その目的地は何処なんですか?」

「うん?、いや、これは失礼しました。自分で喋りすぎてしまったようですね。目的地はこの地の周辺にあると噂される、聖地ですよ。我々の。
実は大学の卒業論文の題材にと思いましてね。本来、僕の大学の同級生はパソコンに向かってにらめっこをしている時期なんですが、自分はそういうのが苦手で。
締切が一ヵ月後に迫っているんですが、未だにこうやって題材を集めることしかできてないんですよ。はぁ、これじゃ留年かな」

「ええっと、あなたは大学生なんですか?」

「いかにも、・・・とはいえそんな偉そうな事は言えませんね。都内に星の数ほどある私立大学のうちのとある学生ですよ」

正直、いらつきが溜まってきた。
ここまでの会話で得られた情報はこの青年が、大学生であること、卒業論文の調査でこの地に赴いたこと、昔の自分の力を過信し遭難しかけたこと、そんなことくらいしか
伝わってこない。
しかし、この青年、どこかで見たことがある。

「あの、えっと、そのあなたが目指している聖地って何処なんですか?」

風が止んだ。
雪が止まった。
不思議と音が無くなった。

「『黒川影夫』の遺された山荘ですよ」


え?
メンバー全員が息をのんだことだろう。
『黒川影夫』
その言葉のもとにまた一人、惹きつけられたことを。

「あの・・・」

「はい?」

「ここがそうですよ」

「うん?」

「ここがその『黒川影夫』の山荘ですよ」

その言葉のあと、ほんの数秒だけ静寂が訪れた。青年が口を閉ざしたのだ。偶然にも嵐は一時的にその勢力を弱めた。
まるでこの時を待っていたかのように。

「・・・本当ですか?」

「えぇ」

「・・・・・・そうですか」


青年は想像以上に静かだった。
その自ら聖地といったその場所にいるにも関わらず、青年は一言も発しなかった。
ただその山荘の隅から隅まで、網膜に焼き付けようと必死なくらいだった。


その表情が神秘的だった。
女性は男性のギャップに惹かれる、なんて言う低俗な雑誌が騒ぎ立てるのが少しわかった。
そこに多少の高揚感があったのは認める。

「ここが先生の・・・」

「先生?」

「えぇ。僕の生涯の先生ですよ」

そこから青年の言葉は無かった。
しかしだった。私はこの青年に見え覚えがった。
だがどこだろう、いつどこであったかは覚えていない。
でも、これだけは覚えている。
―――私はこの人に救ってもらったことがある。


「いやはや、初めましての皆さんには説明が足りませんでしたね。僕は文学部出身なもので。世界に数多ある作家の中で『黒川影夫』さんの作品に多大なる影響を受けました。
海外や、国内の古典作品の文豪を卒業論文にしろと教授に言われたんですが、僕はその教えを守ることができなかった。自分が一番影響を受けた作家を追いたかった。
まぁそれだけなんですけどね。そしてその深さを学んでいったら、さらに深く沈んでいった。だからこそ先生なんですよ。そしてその先生の作品づくりの原点に行きたかった。
僕はそんな思いでこの山荘に赴いたんです」

青年は天井を見上げる、何か酔いしれるものがあったのかもしれない。そこでまたしばし時間が止まった。

「自己紹介が遅れました。僕の名前は『鷹見秋志郎』と言います」

その言葉を聞いた瞬間、私の中の赤い実がはじけた。





*   *   *

第三章

*   *   *



「へぇ、鷹見さん、帝桜大学の文学部出身なんですか」

鷹見は手渡された2杯目のホットコーヒーを両手で包みながら、その褐色の水面を眺めている。
猪井田さんの質問にもワンテンポ遅れて答える。

「まぁ、出身というか現在進行形で在籍してますけどね。留年してしまったんですよ。ま、いろいろなことがありまして」

その瞬間の鷹見と名乗った青年は少し寂しそうな表情だった気がした。
みんなもその内容については深くは突っ込もうとしなかった。

ロビィの中央のソファの周りを私たち劇団のメンバーが囲んでいる。そしてその中央に一人の青年がコーヒーカップ片手に座っている。
彼の名は鷹見秋志郎と言った。
私はこの名前に覚えがった。
いや、覚えがあっただけじゃない。
私はこの青年を知っている。会ったことがある。そして私はこの青年に救われたことがある。
そう、この青年はまさに命の恩人なんだ。
私はそっとこの青年のことを思い出す。



鷹見秋志郎

私と同い年の24歳、だけでなく元々同じ小学校の出であった。
小さな町の、その中のこれまた小さな小学校で、しかも6年生の時には同じクラスでもあった。
しかし中学校はというと、全く別々の中学校に進学することとなったのだ。
と言うのも、彼は小学校卒業とともに父親の仕事の都合で引っ越していったのだった。
そしてあれから12年の歳月を経て、再びこんな形で再開するとは思わなかった。

私には彼に感謝してもしきれない、そんな出来事があった。
ときは同じく小学校6年生の初夏、あと一ヶ月もすれば夏休みだね、みんなで小学生最後の夏休みをエンジョイしようよ、
そんな言葉で溢れかえっていた、そんな時だった。
私も例に漏れなかった。


当時仲の良かった、今泉萌(モエちゃん)、内木圭(ケイちゃん)、清水美雪(ユキちゃん)、そして私の4人で一ヶ月後の40日間にも及ぶ自由の時間の使い道を計画していた。
そんないつもの毎日のうちの一日だった。

当時私には彼氏がいた。
彼氏という言葉を使うのが適切かどうかは分からなかったが、隣接する市の高校の男子生徒だった。
一ヶ月ほど前に一人で駅の近くを歩いていたときのことだった。
道端で何かを落としたように、周りをキョロキョロ探している男子生徒と出会った。それが彼との出会いだった。
彼の名は『神保涼太』と言った。
聞けばこの辺りで生徒手帳を落としたとのことだった。駅で定期券を使った時にはあったから、落とすならこの辺りで落としたはずなんだと言いながら探していた。
そのまま無視して通り過ぎても良かったが、本人はかなり憔悴しきっていたようだったし、この後の予定もなかったし、何よりその高校生が今にも泣き出しそうな表情をしていた。
まぁ、ついでだと思って生徒手帳探しに付き合うことにした。
それが彼との最初の出会いだった。
私は彼と一緒に駅からここまでの道のりを歩くことにした。大抵落し物は自分が歩いた場所で落とす、当然といえば当然。散々ここを探してなければもっと駅側、手前の道で落とした可能性が高い。
私は3歳も4歳も離れた男子高校生、神保さんと一緒に駅の方角へ戻った。
途中でいろいろな話をした。
高校は隣の市にある、ちょいと有名な私立高校にいること、
部活動はバスケット部に所属していること、
でもレギュラーではなくベンチメンバーであること、
父親が弁護士で自分もその父親に憧れて法曹の世界に進みたいと思ってること、
でも模試の成績が思い悩んでいること、
苦手な英語の単語帳に齧り付いて帰宅途中でこんなことになってしまったということ、

初対面の私にたくさんのことを話してくれた。
最初は相槌だけしかうっていなかったが、その時の彼の表情がとても柔らかで楽しそうだった。
純真無垢で屈託のない笑顔が少しドキリとさせた。
たった今まで生徒手帳をなくして泣き出しそうな顔だったのに、ふと印象をガラリと変えさせる笑み。
気づけば私からもいくつか質問をするようになっていた。

駅の周辺でさっきと同じように地面に視線を落としてみるがやっぱり見当たらない。
念のため駅の交番で生徒手帳の落し物はないか聞いてみた。
やっぱり不振に終わった。
やれやれ、どうしようかと言う空気になったとき、彼があっと叫んだ。
ブレザの内ポケットに手を突っ込んでみる。
すると、そこからは小豆色の表紙をした生徒手帳が出てきた。
神保くんは、ばつの悪そうに頭をかきながら一生懸命詫びた。

「そう言えば、英単語帳を見ながら帰るから生徒手帳を落とさないように、いつもと違う場所に入れたんだ。本当にごめん」

そう言うと額を地面に付けそうな勢いで頭を下げた。
私は少し困惑した。
年齢が3つも4つも下のただすれ違っただけの小学生に、こんな深々と頭を下げるだろうか。
私がしたことといえば、神保君の話を聞いたことと地面を見ながら道を歩いたことぐらい。それ以外に何もしていない。
「ごめん、悪かった」の一言で済むといえば済む。それをこの人は良しとしなかった。

「いや、迷惑をかけた事には違いがないから。悪いことしたなら、それが誰であろうと謝るのが筋ってもんさ」

そう言うともう一回頭を下げた。
私は周りの人も見ているし、と止めさせた。彼はいやしかし、と不服そうだった。
表面では迷惑そうな顔をしていたかもしれない、でも心の中では既に彼に惹かれていたのかもしれない。
今となってはそう感じる。

その後、「お詫びだから」と近くのカフェでコーヒーをご馳走してもらった。
小学生にとっては初めてのカフェ、初めての異性と2人きりと言うこともあって、かなり緊張していたのを覚えている。
そこで沢山の話を聞いた。
彼の小学生の時の昔話、
非常ベルを押しては先生から逃げていただの、
図画工作の時、ハンダとハンダゴテを勝手に持ち出してはぐれメタルを作っただの、様々なやんちゃをしてきた。
中学校では、心を入れ替えて生徒会に立候補した、
でも僅差で落選した、
高校入試は当初、担任の先生からなかなかOKが出なかった、
でも必死で説得して、父親の跡を継たい、とプッシュして最後は先生が根負けしただの、
塾を2つ掛け持ちして、毎日睡眠時間は3時間ほどだったとか、
でも合格発表のときは本当に嬉しかった、
高校の勉強は難しい、地理(高校では社会ではなく、地理や日本史・世界史なんて言うらしい。ややこしいね)なら興味があるから何となくわかるけどね、

そんな話を面白おかしく聞かせてくれた。
その時の彼の満足そうな笑を見ると、本当に楽しそうだな、毎日が充実してるんだな、とそう思えてきた。
もっと話を聞きたい、もっとそばにいたい、そう思えていた。
お互いに連絡先を交換し、定期的に会うことになった。
週に1回ほどしか会えないし、しかも彼も部活動の関係であまり長い時間は会えなかった。会えても1~2時間程度だった。
でもそれが最高に楽しかった。

夏休みは部活動の休みもある、できれば一緒に遊園地にでも行かないか、勿論親には内緒で、と誘われた。
一も二もなく飛びついた。
頭の隅には、モエちゃん、ユキちゃん、ケイちゃんと遊びに行く予定もあったが、なんとか調整すれば良いやと思っていた。
とにかくそれからが、早く夏休みにならないかなとばかり考えていた。


「じゃあさ、この日はどう!?」

ユキちゃんだった。ユキちゃんは、計画を立案するとき真っ先に提案する。
自分のハローキティのメモ帳を大きく開いて、その日時をしてする。

「ん、いいね。私は空いてる」

「私も」

モエちゃんも、ケイちゃんも揃って肯定する。しかし・・・、

「あぁ、私その日だめだわ・・・」

「ええ。もうあとはこの日くらいしかないよ。なにか予定あるの?」

「お盆でもないでしょう」

「んとね、実はね、他の人と出かける用事があるんだ」

「誰と? まさか男じゃないでしょうね?」

私は逡巡した。別に嘘をつく必要はない。いずれ遅かれ早かればれること。ならこの際早い段階で言ってしまおう。そう思った。

「そのまさか、なんだよね」

「ひぇぇぇぇぇ! うそ!ホント?」

「あんたが?!」

「相手は誰!」

矢継ぎ早の質問に、私は少し浮かれ気分だった。
まぁまぁとてで彼女らを静止する

「別に彼氏って訳じゃないよ、でも仲良くしてる人がいてさ、一緒に遊園地行こうって言われてるんだ」

「誰々? 何組?」

「この学校の人じゃないよ」

「じゃあ中学生?」

「でもない」

「まさか・・・」

「そう、高校生」

三人が声にならない悲鳴を上げた。

「ど・・・・・・、どこの高校生?」

「えっと、確か智英高校の一年生だって言ってた」

「智英高校って、あの智英?」

「うん、だと思うよ」

「エリ―――ト!。だってあの名門智英高校でしょ。どこで知り合ったのよ」

「この前、駅前でね。生徒手帳落として困ってたから、一緒にさがしたの。そこから」

それを聞いてユキちゃんとモエちゃんは身を捻って悶えてたし、ケイちゃんは、信じられないと言わんばかりにこっちを見つめている。

「いつ? 何月何日何時何分?」

これはモエちゃんだ

「場所は!?」

今度はユキちゃんだ
二人とも目が明らかに血走っている。

「え、つい二週間前くらいだよ。場所は駅南口から出て100mくらいの場所。生徒手帳を落としたから一緒に探してくれって」

二人はくやし~~~いと言いながら、ハンカチを噛み締めていた。どれだけ古いリアクションだよと思いながら見ていた。

すると横から今まで静かだったケイちゃんが話した。

「名前は?」

「うん?」

「名前よ、相手の名前」

「神保涼太君って言うんだ。なんでもバスケ部に所属しているんだって。レギュラーではないみたいだけど」

「・・・そう」

ケイちゃんはそう返すと、静かに椅子に座り直した。
その後、モエちゃんとユキちゃんからは質問攻撃が続いた。それに応えることは少しも苦じゃなかった。それこそ快感に近かった。
しかしケイちゃんからは、質問が飛んでくることはなかった。

その日の6時間目が終わったあとだった。
いつものように帰りの会が始まると思っていた。
帰りの会は、担任の広尾先生の無駄に長いおしゃべりを聞かなくてはならなかった。それも笑顔でニコニコと話し始めるので、止めるに止められないのだ。
でも今日に限って広尾先生はいつもの調子で始めなかった。
いつもはおどけてふやけきた表情が、いつになく険しかった。
教卓につくと、一息ついて徐にこう言った。

「残念なお知らせがある。この中に犯罪者がいる」

聞きなれない言葉だった。
犯罪者なんて、12年生きてくる中でなかなか生身でお目にかかれない言葉だった。
しかし担任の広尾先生は続ける。

「このクラスの小林の財布なんだが、先ほど6時間目の授業が終わったあと、何処にもないとのことだ。6時間目の前の休み時間には確認したがその時はあったそうだ。しかし6時間目が終わったあと、教室に来て確認したらさっきまであった財布がないそうだ。
財布は勝手に移動したりしない。となると、今回なくなった財布は誰かがとったりしない限り無くならない、つまりはだれかが取ったことになる」

クラスは一瞬にして騒然とした。
万引きだ
窃盗だ
そんな野蛮な言葉が右から左から飛び交う。

「先生待ってください」

学級委員の長岡くんだった。背は低いが柔道をやっているせいか体格はがっちりしている児童だった。

「なんだ長岡」

「財布がなくなったのが、なぜ僕たちの責任なんですか? 小林さんがどこかほかの場所にしまったのを忘れている場合もあります。あるいはほかのクラスの人かもしれません」

「確かにな。普通ならそうだ。しかしな今回はそうではないんだ。我々の2組は先ほど音楽で音楽室に移動したが、隣の1組は体育、3組は給食当番をサボったものがいたので指導中だった。
体育の1組は、我々2組よりも早く教室を出て、遅く帰ってきた。
3組担任はあの山崎先生だ。鬼よりも怖い山崎先生が1時間かけて給食当番をさぼった児童に喝を入れていたから、当然その間教室を出る人間はひとりもいなかったとのことだ。
つまりだ、今の6時間目にこの2組教室に入ることができた児童はほかにいなかったんだ。となると小林の財布を盗むことができたのは、やはり2組の誰かなんだ」

「しかし、音楽の授業の前、教室を最後に出たのは僕です。それを証明してくれるのは副委員長の福田さんがいます。だよね、福田さん?」

「はい、長岡くんと一緒に2組の皆を教室からだし、誰もいなくなってから長岡クンと音楽室に向かいました」

「いやいや、別に君たちを疑っているわけではない。それに教室を出る時に本当に全員を追い出したかい?」

「はい?」

「確かに学級委員には次の授業が移動教室の時、教室にいる皆を追い出していけ、そういうふうに先生は指示した。しかし例外があったよな?」

「係の仕事をしているものはしょうがない、ですか?」

「どうだ、あの時、係の仕事をしている児童は誰もいなかったか?」

「・・・・・・それは」

長岡くんの細い目がこちらにむく。
意味はわかった。

「その時、前の時間、つまり5時間目の算数の時間の後の係のものが教室に残っていなかったかと、先生は聞いているんだ」

もう一度長岡くんがこちらを横目で眺めてくる。
私はしょうがなく、微かに頷く。

「今回の盗難事件はな、実はちょいと面倒でな。被害にあった小林はご両親の都合で夜帰った時に一人だそうだ。そして小林自身が夕食の準備もしていたそうだ。
当然夕食の材料の買い出しも当然小林が行っていたんだが、そういう時はいつも小林は財布をランドセルの人に見つからない場所に隠していたそうだ。そうだな小林?」

小林さんは黙って頷く

「つまりだ。今回の小林はいつもどおり夕食の買い出しを頼まれていた。帰り道にスーパーに立ち寄り買い出しをする予定だった。まぁ、本来なら学校に必要ないお金は持ってこない約束だが、家庭の事情が事情だからしょうがない。
問題はそこじゃない。
小林は夕食の買い出し用にいつもより多めに財布にお金を入れていた。その時はカバンの奥底、あるいは普通に見てはわからない場所に財布をしまっていた。教科書のあいだであったり、ランドセルの床板のしたであったり。
毎回その場所を変えていたそうだ。万が一にも誰かに取られたりすることがないためにだ。
しかしだ、今回はそんな用心深くしまっていた財布が何者かによって取られてしまったのだ。これは普通の物取りじゃないな。
『ランドセルのどこに隠してあるか分からない財布をさがす時間が必要になる』
ランドセル自体はそれほど大きいものでないから、ある程度時間をかければ探すことができる。では犯人はいつそれを行ったか?
鷹梨ならわかるよな?」

急に私の名を呼ばれたから、心臓が跳ね上がった。
全身から脂汗が流れてくるのが分かった。
何を言ってるのだろう。
そんなことを理解する暇はなかった。
これは、明らかに私が犯人だと思って聞いている。

「私、ですか・・・?」

意味がわからない
なぜ私なのか。
私が今回の財布盗難事件と何の関係があるのか

「すいません。私にはわかりません」

「そんなことはないだろう。お前は何係だ?」

「こ、黒板消し係です」

「5時間目の授業は?」

「算数でした」

「黒板に書かれている文字の量は多かったかな少なかったかな?」

「ええと」

「多かったな。私の授業だったからな。よく覚えている。今回の授業では黒板をたくさん使ったから、消すのも時間がかかっただろう?」

「・・・・・・」

私は答えられなかった。
確かに5時間目の算数は、進度が遅れているとのことで進むのがとても早かった。なのでいつもは全体を使わない算数の時間でも、この日だけは黒板全体を使ったのを覚えている。当然、消すのにもそれ相応の時間がかかったのも覚えている。
当然教室をでるのも遅れる。最後に教室を出たから私が犯人ということか。
しかし、だからといって私が犯人になってしまうのか。それはどうしても納得がいかなかった。

「鷹梨聞こう。お前は5時間目の算数が終わって黒板の文字を消すのに思いのほか時間がかかった。気がつけば次の6時間目の音楽に備えてみんな移動していた。本来は教室を最後に出る学級委員も係の仕事が終わるまで待たない。そのまま教室をあとにした。
つまりだ。ほんの数分間だが、鷹梨、お前は教室でたったひとりになる時間があった」

「違います!!」

私はとっさに叫んだ

「同じクラスのことだ。小林がそう言った特殊な状況に置かれていたことも重々承知していた」

広尾先生はゆっくりと近づいてくる。

「そして今日は小林の財布にはいつもより多めの現金が入っていることが分かった。およそ、小林の何気ない会話に聞き耳を立てていたのではないかな」

「先生信じてください」

それでも広尾先生は右足を左足を交互にこちらに向けてくる。

「もうすぐ夏休みだ。何かとお金も物入りだろう。少しでも懐を暖かくしたい、そんな思いで君は今回の犯行に及んだ、違うかね?」

「違います。そんなことしません」

次第にクラス中の視線が集まてくる気がした。
それも悲哀ではなく、懐疑の目を。
ふと視線を横に向ければ、委員長の長岡くんや福田さん、そして小林さんや、あろうことかユキちゃんやモエちゃんまで。
揃ってみんな「あなたがやったの?」と言わんばかりの目でこちらを見つめてくる。

「確かに、魔が差すとうことはある。君はまだ小学生だ。精神的にそれほど成長してない。誘惑にうち負けてしまうのは最もだ」

「違う・・・」

来るな

「しかしね、教員はなんの為にいると思う」

来るな
来るな

「君のような迷える、言わば子羊のためにいるんだよ」

来るな
来るな
来るな

「間違いは誰にだってある。でもそれを治す、その手伝いをするのが我々教員の役目だ」

来るな
来るな
来るな
来るな

「さ、本当のことを言いたまえ」

来るな
来るな
来るな
来るな
来るな

「本当は君がやったんだろ?」

あっちへ行け!

その時だった

「先生、よろしいですか」

クラスの70近い瞳が一瞬で私のすぐ後ろに注がれた。
私の2つの瞳もその一つだった。
声の主は私のすぐ後ろだった。

「言いたいことがあるのですが」



そう、それが思ってみれば、私と鷹見くんの最初の出会いだった。



*   *   *
なんだ、鷹見」

「言いたいことがあるのですが、よろしいですか」

彼はすっと立ち上がった。
小柄で身長は当時140cmもなかった気がする。分厚いメガネをかけており、服装もセーターの上にカーディガンを羽織っている少年だったことを思い出す。
いつもほかの誰かと仲良くしている所は見かけたことがない。ずっとひとりで本を読んでいるか、図書室に趣いている、そんな印象しか受けなかった。
しかしこの時ばかりは、彼の背景がひどく光っているようにも見えた。

「今かい?」

「えぇ。今です」

「あとにできないかい?」

「できません」

ひどくぶっきらぼうな返答だったことを覚えている。

「なんだい、言いたいこととは」

「広尾先生の話は論理的に破綻しています」

クラス中がポカンとした。
そうであろう。小学生が『論理的』とか『破綻』って言葉を使うこと自体がおかしいのである。
しかし当の鷹見くんは続ける。

「広尾先生はなぜ鷹梨さんを疑うのですか」

「なんでかって? それは彼女しか財布を取ることができないからさ」

「なぜです?」

「なぜ? だってそうだろう。小林の財布がランドセルのどこにあるか分からないのであれば、探す必要があるであろう。おそらく最低5分は必要だっただろう。小林が最後に財布を確認してから、
5分以上誰にも見られずに教室に残ることが出来る人間はいない。たった一人を除いてはな。その探す時間があったのは教室を最後に出た鷹梨しかいないんだよ」

「では、ほかの人間に探す時間があったら、鷹梨さんは犯人ではなくなるわけですね?」

「え、まぁ」

「最も、鷹梨さんが犯人でない証明にはなりませんが。ただ単に他の人にも犯行が可能だったと、言えますよね。」

「鷹見、何が言いたい」

「もう一回確認しますが、ほかの皆さんに財布をさがす時間がもしあれば、鷹梨以外に犯人がいる可能性があるってことですよね?」

「・・・・・・確かにそうだ。しかしな、鷹梨以外にそんな時間のあるやつなんて」

「5分とは限らないでしょう。ものの10秒くらいで財布の位置がわかる人間もいるかもしれませんよ」

「それは無茶だな。小林は大金を持っていたから、毎回財布の隠し場所を変えていたそうだし、さっき言ったように隠し場所も凝っていたそうだ。そんな財布を10秒で探すなんて、それこそ超能力者だ」

「そうでもありませんよ、例えば・・・」

ふと鷹見くんが言葉を切った。

「広尾先生、話の途中ですが財布が落ちそうですよ」

「ん、本当か」

広尾先生はズボンの左のポケットに手を伸ばした。

「先生の財布はズボンの左ポケットにありますね。ほら、探すのに5秒もかからない」

「・・・ん?」

「簡単ですよ。財布やあるいや貴重品がどこに隠してあるかを探すなんて。本人が勝手にその場所を教えてくれますからね。
しかも当の本人は財布の場所を教えている自覚はない。
今回の事件もこんな簡単な心理トリックを使ったんじゃないでしょうか。犯人は予め、小林さんに『小林さんの財布に似たものが落ちてたけど大丈夫?』なんて声をかけたんじゃないでしょうか。
そうなると、小林さんは不安になってその場で確認するでしょう。その姿を見れば今日は財布をどこに隠しているか分かります。その後、人がいなくなったら改めて財布を盗る、あるいは鷹梨さんがせっせと黒板を消している間にことに及ぶこともできる。
どうですか、こんな感じで犯行を行えば、ものの10秒、いえ5秒ほどで財布が取れますよ」

広尾先生は何も答えない。
眉間に深いシワを寄せながら、ずっと鷹見くんと対立し合っている。

「ちなみに小林さん?」

「え、は、はい」

急に呼ばれたので小林さん自身は驚いたようだった。

「今日、『あなたの財布が落ちてるよ』なんて言葉をかけられましたか?」

「え、えっと、あの・・・その・・・」

小林さんは視線を右に左に泳がせた。

「・・・どうなんだ小林」

「・・・5時間目の休み時間に『小林さんの財布に似た財布を他クラスの子が持ってたよ、あれ小林さんの財布じゃないの?』って言われました」

「それで?」

「私、心配になってその場で調べました。でもちゃんと財布はあって、勘違いだったねって、笑って、でも教えてくれてありがとうって・・・」

「誰に?」

「・・・・・・内木さんです」

「あとは?」

「・・・いません」

内木さん?
ケイちゃん?
ケイちゃんが?
財布を?
盗んだ?
嘘?
なんで?

ケイちゃんに視線を送る。
けいちゃんは俯いたまま。表情は伺えない。しかし、よく見れば小刻みに震えている。
泣いてるの?
怖がってるの?
それとも

「内木、お前」

「先生。あくまで内木さんにも財布をとることが可能だった、と言うだけにすぎません。やっぱり鷹梨さんが盗ったのかもしれません」

「ちょっと、私は・・・」

「でも、もしかしたら内木さんが盗ったのかもしれません」

「鷹見」

「でもですね先生、僕は鷹梨さんが犯人の可能性はとても低いと思うんですよ。もし鷹梨さんが犯行を行うなら、黒板消し係の仕事が終わったあと、つまり皆がいなくなったあと。
そんな時に財布が無くなれば、真っ先に疑われるのが自分です。これは誰でも分かることです。そんな状況で果たして犯行に及ぶでしょうか。
全く及ばないと言い切ることはできません。『真っ先に疑われるような状況で犯行は行わないだろう』と言う心理的盲点をついた、そう考えることもできます」

「心理的盲点?」

「はい、要は人間の思い込みです。自分が真っ先に疑われるような状況で犯行に及ぶバカはいない、と思わせておいてやっぱり犯行を行う、という事です。
ただこれは非常にリスクが高いです、危険性が高いという事ですね。
だとしたらむしろ、今回の事件は罪を着せるために行われた事件、そう考えることが普通です。つまり、鷹梨愛という人物に罪を着せるためにほかの人物が犯行を行った、という事です」

耳を疑った。
罪を着せるため?
誰が?
内木さんが?
ケイちゃんが?
なんで?
どうして?

「もし財布を盗ることが目的なら、犯行はいつでも良いんです。明日でも明後日でも、今日の朝でも、昼休みでもいいんです。でも実際は違った。
5時間目の休み時間、と言う非常に限定された時間、それも鷹梨愛という人物に高確率で疑いの目をかけることができる時間帯を、わざと狙ってやったと言えます。
6時間目の授業が始まる前にあった財布が、終わったあとには無くなっていた。その時教室に最後まで残っていたのは鷹梨愛だけ。そんな状況を作り出すことができれば彼女に無実の罪を着せることができます。
ちなみに、内木さんが小林さんに声をかけたのが4時間目の休み時間でも3時間目の休み時間でもなく、5時間目の休み時間だったのは、犯行時間を限定させたかったから。
もし4時間目の休み時間に財布の所在を確認してその後なくなったとしても、財布はもしかしたら4時間目の休み時間に誰かに取られたのかもしれない、だとしたら鷹梨が犯人かどうかは分からなくなる、
そんな風に鷹梨愛への疑惑が薄れてしまう。
逆を返せば、5時間目の休み時間に財布の所在を確認したと言うのは、財布をとることが目的ではなく、むしろ鷹梨愛を陥れたいと言う願望からです」

何の淀みもなく、それこそ立て板に水だった。
でもそれが逆に怖かった。

「内木、お前、本当に」

「犯行が行われたのは6時間目の始める前、一時間ほど前です。そしてその後は音楽の時間がありました。もし財布を盗ったとしても隠す時間はないはずです。もし持ち物検査をするなら、鷹梨さんだけでなく内木さんも一緒に・・・」

鷹見くんがそこまで言った時だった、
ケイちゃんはゆっくり立ち上がった。未だに俯いたままだったが、そでも表情は伺えた。
それは悲しみでも、困惑でもない。
憤怒だ。

ケイちゃんは自分のカバンから財布を取り出す。
ピンク色をして、キャラクターのキーホルダーが取り付けてあった

「私の」

小林さんだった。
呟くような声だった。

教室内は異様な静けさだった。
ケイちゃんが小林さんの財布を持っている。という事は

「あんたが悪いのよ・・・」

ケイちゃんの声だった。
こちらも蚊の鳴くようなか細い声だった。

「あんたが悪いのよ、涼太君を盗ったんだから・・・」

そう言い残すと、ケイちゃんはカバンを担いですごい勢いで教室のドアを開け、そして出て行った。
誰もそれを止めることができなかった。
私も、ケイちゃん、と呟く事しかできなかった。



その後調べていろいろなことが分かった。
当時、ケイちゃんは神保涼太と付き合っていた。
いや、付き合っていたと言うのもこれまた正確じゃない。
声をかけられたと言うのだった。駅前で。生徒手帳を落としたと言って。
そして、その生徒手帳は左胸のポケットに入っていたという。
そう、私と出会った時と全く同じ状況で声をかけられたのだったと言う。

しかしそうとは知らないケイちゃんは、あの時お昼休みにしていた話を聞いて「鷹梨愛が神保涼太を誑かした」と思ったようだ。
そう思い込んだケイちゃんが私に仕返しをしようと思った。
神保涼太を盗られたんだから、こっちもなにか盗ってし返してやろう、そう思ったそうだ。
そして今回の事件を起こした。

さらにもっと詳しく調べると、神保涼太という人物は同様の手口であと7人と付き合っていた。
通りすがりの女の子で、みんな年下。こういった手口に耐性がなく簡単に引っかかるからだそうだ。
私と同様に、生徒手帳を落とした、一緒に探してくれないか、と泣きそうな顔で持ちかける。
そして探しながら話をして親しくなる。近くの有名私立高校の生徒だ、父親が弁護士だ、と然りげ無く自分のステータスで引きつけておいて、でも部活はレギュラーじゃない、成績もあんまり良くないと、
ちょっとした弱みも見せて親近感をわかせる。
そして最後には実は自分のポケットに入っていた、と少し間抜けな高校生を演じる。
あとはお詫びになにかご馳走する、とか言って連絡を取ればいっちょあがり。
そう言った手口で女の子を取っ替えひっかえしていた男だったようだ。

ケイちゃんが転校したのは、それからすぐのことだった。
それ以来ケイちゃんとは遭っていない。ユキちゃん、モエちゃんともこの事件以来疎遠になってしまった。
中学校に入学する頃には、鷹見くんも県外に転校していった。なんでも父親の仕事のせいだとか。

それでも私はあの時のことを鮮明に思い出すことができる。
あの時、間違いなく、私は窮地に追いやられていた。
絶体絶命だった。
そして彼は、鷹見秋志郎くんはそれを救ってくれた。
まるで白馬の騎士だった。
それこそ絵に書いたような、今となっては黴の生えたシチュエーションだった。
結局お礼を言えなかった。
最後まで「ありがとう」と伝えることができなかった。
それでも私にはとても印象的だった。



*   *   *


あぁ、それは今から10年以上も前。
すっかり鷹見くんに逢うこともないだろう、そう思っていた。
そして幾年が過ぎた。もう彼のこと自体も忘れてしまっていた。
また会えるかもしれないという、淡い願望というものすらなくなっていた。

でも目の前に彼は現れてくれた。
本物の彼だ。
夢のようだ
奇跡のようだ
今なら言える、「ありがとう」と。



「鷹見くん」

「はい? なんですか」

「えっと・・・、今まで言えなくて、本当に今更なんだけど、あの時は本当にありがとう、ね」

「はい?」

鷹見くんは狐につままれたような表情だった。
周りを囲んでいたみんなも一緒だった。
急に何を言い出すんだこの娘は、そんな表情だ。

「・・・・・・えっと、ありがとうって、何の話ですかね。僕、何かしましたか?」

当の鷹見くんはかなり困惑している様子だった。

「そうだよ愛、急にどうしたの」

鷹見くんは覚えていない、か・・・。
でもそれはそうだ。
だって12年も前の話だ。しかも私が小学校の時に助けてもらった鷹梨愛と気がついている様子はない。
そんな今日初めてあった女性にいきなり「ありがとう」なんて言われてもそれは困惑するのは当然だ。

「なに鷹梨、彼のこと知ってるの?」

「うん? 愛? 鷹梨?」

「鷹見くん覚えてないかな、同じ小学校だったんだけど」

「鷹梨・・・愛・・・・・・、そう言えば小学校の時、そんな同級生がいたかもしれないな」

「財布の盗難事件で、助けてもらったの。覚えてないかな」

鷹見くんは顎に手を添えて、目をまん丸に見開いた。
しかし、その表情は次の瞬間には元に戻っていた。

「んむ、小学校の時というともうかれこれ12年以上前の話ですからね。すいません」

「そっか。でもそれでも良い。私は君に12年前に助けてもらったことがあるんだ。私が担任の広尾先生に疑われて泥棒扱いされた時に、『論理的破綻があります』とか言って。
鷹見くんは覚えてないかもしれないけど、それでも私は確かにあなたに助けてもらったの。あの時私は、鷹見くんに本当に助けられて、でもお礼が言えずじまいで、今更なんだけど、本当にありがとう」

「僕自身よく覚えていないので、それでお礼を言われるのも変な感じですね。まぁその話が確かだったとしてももう12年も前の話ですよ」

おどけた表情で肩をすぼめてみせた

「なになに、2人は知り合いなの?」

真壁さんが入ってきた。

「話を聞くと小学校の知り合いだとか」

「はい。同じ小学校の同級生でした。ただ、一緒のクラスになったのは6年生の時だけ。しかも中学校は自分の引越しで別々の学校になりましたので、一年しか一緒ではありませんでしたけど」

「で、なに。鷹見くんはその時愛ちゃんを助けたの? 盗難事件って何?」

「私が6年生の時、クラスで財布の盗難事件があったんです。その時、私が教室を最後に出たので私が疑われたんです。先生はてっきり私が犯人だと思って詰め寄ってきたんですが、
鷹見くんは私が犯人じゃないって証明してくれたんです。おかげで私は助かった」

メンバー全員がおおう!、と小さな歓声に包まれた。
私はつい熱っぽく語ってしまったが、ふと鷹見くんを盗み見ると、不思議と嬉しそうでも照れている様子もなかった。
何となく冷めているというか、あるいはバツの悪そうな、そんな表情だった。

「じゃあ、君は名探偵なんだね」

猪井田さんの言葉に、しかし鷹見くんは頭を振った。

「さっき言ったように、僕の本職は学生です。決して探偵ではありません。ただミステリをよく読む普通の大学生です。12年前の事件はよく覚えていませんが、それでも対した事件ではないと思いますよ。
恐らく僕は大した働きなんかしてません」

その言葉に、またまた謙遜して、と言葉がかけられたが当の本人は一向に嬉しそうではなかった。

「鷹見くん、君を探偵と見込んで話があるんだ」

「ううん、何度も言いますが僕は探偵ではありません。それでちなみにお聞きしますが話とはなんですか」

「事件を・・・・・・、この山荘で起きている殺人事件を解決して欲しいんだ」


*  *  *

「ふうむ、殺人事件ですか」

「そう、この山荘で」

「殺人事件ですか・・・」

「信じてないね」

「そうですね。いきなり、殺人事件が起こったからそれを解決してくれ、と言われてもこっちもどう反応して良いやら」

「困惑するよね。でも本当なんだ、この山荘で連続殺人が起こっている。今この瞬間もそれが継続中なんだ。今この瞬間誰かの死体が転がってきてもなんの不思議もない、そんな事態なんだよ」

猪井田さんのその言葉に、当の鷹見くんも言葉が出てこない。
それはそうだ、いきなり吹雪の山荘に命からがらたどり着いたら、今度は連続殺人事件が起こっている、しかもそれを解決してくれと言う。
場違いと言ったら場違い、滑稽といえば滑稽な申し出であった。
しかし猪井田さんの眼は真剣そのものだった。鷹見くんはその眼を見て、すこし逡巡したようだった。

「分かりました。とりあえず話は聞かせてもらいましょう。解決するしない、は別としてどんな状況か。そして皆さんがなぜここにいるか、そういったことを聞かせてもらってから結論を出してよろしいですか」

「良いよ。分かった」

そこから猪井田さんはここのたどり着くことになった経緯、そして鶴井舞・田子藍那・浦澤瞳と3人の仲間が何者かによって殺害されたことを正直に話した。勿論、その時の状況も事細かに知らせた。
遺体は玄関のすぐ外のプレハブ小屋に安置してあることも、そして我々の簡単な自己紹介も
途中途中鷹見くんの質問もいくつか挟んだが、よどみなく説明が終わった。

「・・・どう?」

「さぁ。いきなり、どう?、と言われても。先程も申し上げたとおり、僕は探偵ではないので」

「そっか、そりゃそうだよね」

「ただ確認したいことはあります」

「なに? 私たちで答えられることならなんでも聞いて」

2つあるんですが。まず1つ目は、現場を見せていただきたいと言うことです。あ、探偵ではないんですが一応それらしいことはしておこうかなと」

「それは良いよ。あと1つは?」

「これは質問なんですが、皆さんお腹を壊されたとか、体調不良の方はいらっしゃいますか?」


*  *  *


鶴井舞の部屋のドアを開けた。
いつぶりだろうか。この部屋のドアを開けるのは。
ひしゃげた閂の残骸を見ながら、ドアがゆっくりと開く。

「うっ!」

私は咄嗟に目を被った。
目の前の絨毯には、どす黒い染みができていた。
そう、鶴井舞が横たわっていた場所に。
否応なしに、昨日の記憶が泡立つ。
ドアを全員で押し破り、直面した死の現場。頭から大量の血を流し横たわっていた舞ちゃんの姿を。
見たくなかった。
もう思い出したくなかった。
しかし鷹見は物怖じせずそのまま進んでいく。
部屋の中央にある染みに顔を近づける。
その手にはいつの間にか薄手の手袋がはめられていた。
血塗られた絨毯を触ったりつまんだり、そして匂いを嗅いだりしていた。
そうかと思うと突然立ち上がり、部屋の中をうろうろと歩き回る。止まっては動き出し、動き出してはまた止まる。
そして3回に1回はぶつぶつと何か聞こえない小さな声で呟く。
そんなはたから見ると奇怪に見える行動を目で追った。

「あらましを教えてください」

突然の言葉に私は驚いた。

「あらましですよ、あらまし。最初の事件の」

「あぁ、はい。事件が起こったのは私達がこの山荘にたどり着いた日の夜、つまり昨日です。被害者になったのは私たちの劇団の鶴井舞ちゃんです。
長旅の疲れが出てみんなが早めに部屋に戻りました。そしたら急にこの二階から銃声が聞こえたんです」

「鷹梨さんはそのとき何処にいたんですか?」

「一階のロビーです」

「他に一緒だった人は?」

「ええっと、猪井田さんと知尻さんです」

「ふむ・・・・・・、結構。続けて」

「あまりにも大きな音だったので私たちは二階に上がってきました。すると同じように銃声に驚いたメンバーのみんなが部屋から出てきました。
でも鶴井さんだけ部屋から出てこなかったんです」

「そうですか。なるほど、話が見えてきました。部屋から出てこない鶴井さんを心配し、あなたがたで部屋のドアを開けようとした・・・」

「はい。ただ鍵が掛かっていたので開きませんでした」

鷹見はドアの鍵のツマミを捻りながら話を聞いている

「この鍵はひしゃげていませんね。閂はこんなに曲がっているのに?」

「最初、鍵がかかっているのだろうと思って、鍵を開けました。あぁ、鍵は先程のロビーの脇にあるキッチンの壁に掛かっています」

「分かりました。ではその鍵を調べるのはまぁ後回しにして、では続きを。ええっと、鍵を開けたところからでしたね」

「鍵を開けたのは良いんですが、それでもドアが空かないんです。そこで閂が締めてあるんじゃないかって」

「言ったのは?」

「はい?」

「言ったのは誰ですか、と聞いたんです」

「何をですか?」

「『閂が締めてあるんじゃないか』と言った人ですよ」

私はしばし逡巡した。ゆっくりとあの時の記憶を紐解く。あれは確か・・・

「確か、霧さんです」

「・・・霧さん。あぁあの小さい御方ですね、ふむふむ」

再び視線を明後日の方向に向ける。何か考え事しているのであろうか。しかし掌を上に向けておいでおいでをしている。
続きを話せと言う意味だろう。私はそれに従った。

「その閂に関しては外から開ける手段が無かったので、しょうがなく突き破りました。その時のメンバーは猪井田さん、真壁さん、浦澤さん、知尻さん、貴中さんの
5人です。何回も体当たりをしてやっとの思いでドアをこじ開けたら・・・・・・、そしたら」

思い出してしまう。あの時の記憶が。
光景が
寒気が
臭いが
全てが今ここで行われているかのように、想像のレベルを超えて脳裏に蘇ってくる。
喉の奥が焼け付く。胃酸がそこまで逆流してきそうだ。

「鶴井さんは、部屋の真ん中で息絶えていたと。どんな状況だったんですか?」

「・・・頭を、う、ちぬかれて・・・」

「拳銃ですか?」

「・・・はい」

「そうですか。ちなみに撃たれていた場所は?」

「額です」

「拳銃は何処に?」

「今は玄関の外の物置小屋に、鶴井さんたちと一緒に」

「違います。部屋の中には何処にありましたか、と聞いているんです」

「・・・覚えていません」

「ではその鶴井さんに最初に触れたのは?」

「確か、浦澤さんです。あの人が鶴井さんを抱きかかえました」

「他には?」

「ううんと・・・誰も鶴井さんに触れてないと思います。やっぱり相当悲惨な状況だったので」

「お察しします。ところでその浦澤さんという方は医学部かなにかを卒業されてますか?」

「はい?」

「あるいは獣医学でも良いのですが。ある程度生物の生死に関わる学問を履修されたのかなと思いまして」

「いえ、浦澤さんはそんなことは」

「無いと?」

「えぇ」

「ではその浦澤と言う人は、人間の死は「心肺停止・自発的呼吸の停止・瞳孔拡大」の3つを持って定義されますが、
その三大要素をもって確実に人間の生死を確認した、と言うわけではないと言うことですね?」

「・・・まぁそうですね」

「では鶴井さんは生きていか可能性もある、と言うわけですね」

「それは無いと思いますよ。確かにその3つの定義をちゃんと確認できたわけではないですが、でも額から大量の血液が流れ出ていたんですよ。
流石にあれで生きているとは思えませんよ」

「人間が生存するのに失っても良い血液量はおよそ2000mlだと言われています。逆を言えばそれほど血液を失わないと死ぬことができないと言われています。
それだけの失血量を確認しましたか?」

「2000mlですか?」

「えぇ。500mlのペットボトル4本分です」

「確認してません」

「では、もしかしたらギリギリ失血過多を免れていたかもしれないってことですね」

「・・・・・・」

「冗談です。この絨毯の出血量でそれ以上の失血があったことは容易にわかります。それに脳に銃弾を受ければ失血死云々の前に死んでしまいます。
確認ですが、この部屋の窓は全て?」

「はい、確認しましたが全て締まっていました」

「絶対に?」

「絶対に」

彼はふうんとつぶやくとまだ黙ってしまった。
今度は彼は部屋の中央から窓に移動した。
窓のとってに手をかけて回す。外からごうっと勢いよく寒風が吹いてくる。
しかしそんなことはどこ吹く風、彼は開いた40~50cmほどの窓から頭を出してみる。
見ているこっちが寒くないのだろうかと思ってしまう。しかし彼は何も反応を示さない。ただ窓のさんや取っ手、外の様子を熱心に見ていた。
思わず私も横から邪魔にならない程度に眺める。

「何見てるの?」

「ん、犯人の逃走経路・・・」

気だるく答えた。取り敢えず聞かれたから答えた返答だった。

「ってことは犯人は窓から?」

「分からん。だから調べている。例えばドアが完全に閉まっていたなら、ドアを犯人が出入りできなかったならどこを通るか。残された経路はこの窓だ。この窓を使って犯人が外に逃げたという可能性も無視できない。ただ、難しいな。
窓の外はこのとおり吹雪だ。今でこそ弱まっているが、事件のあった昨日はもっと風や雪が強かったはずだ。そんな中で逃げようと思っても危険極まりない。ロープを使って一階に降りたとしても果たしてこの雪だ、まず満足に動けない。
仮に動けたとしても、部屋に戻ることはできない。玄関を通りロビィの前を通れば君たちに見られる」

「じゃあ、ここから自分の部屋にロープを張れば? そのロープを辿って自分の部屋に戻れば、私たちに見られる必要もないし、ドアに鍵をかけて外部に逃げられる」

「さっきも言ったように、外部はこの通りの大吹雪だ。この中をレスキュー隊よろしくロープを伝って部屋に戻るってかい?」

「うん」

「・・・まぁ可能性なら無いわけでもないが。でも君たちは一般人だぞ。そんな特殊な訓練もしてないんだろ。そんな人間がこんな激しく危険極まりない行為に出るとは思えないが、まぁ無いわけでもない」

すると鷹見は、ふぅんと残すとしばらくゆっくりと歩き始める。部屋の中を二周ほどする。

「ね、鷹見くん」

「はい、なんですか」

彼はこちらを向かない。どうせ大したことではないだろうと思っているのだろうか。

「・・・私が犯人なのかな?」

ワンテンポ遅れて、彼の首がこちらを向く。今の発言の意図がつかめないようだ。

「私が犯人かもしれないんだ」

「・・・何言ってるです?」

そうだろう。いきないこの言葉を聞いたらみんなこんな反応をするだろう。
私は部屋で沸き立った『自分犯人説』を話した。
最近、ぼうっとすることが多い、体調不良で意識が時折混乱することがある。そんな時に自分でも知らない感情がこみ上げてきて、無意識に拳銃を購入し、無意識ににトリカブトなどを購入し毒を抽出していたのかもしれない、と言った内容を話した。
彼は2~3秒こちらを見たが、すぐに自分の作業に戻った。

「・・・・・・ねぇ、やっぱり私が皆を殺したのかな」

「ないね」

一蹴だった。

「でも、私が犯人じゃないって証拠はあるの。私自身が信用できないのに」

「スペイン語できる? あるいはロシア語か中国語」

急な質問だった。その質問の意味が分からない。とりあえず、いいえと答えた。

「じゃあ英語は?」

「んっと、あんまり。中学校の時授業あんまり聞いてなかったから」

「じゃあ拳銃は買えない。確かに最近は拳銃が昔に比べて比較的入手しやすくなった。でもあくまで比較的だ。困難なことには変わりない。それに、それを扱っているのは大抵、スペイン語圏やロシア語圏か中国語圏だ。
拳銃を手に入れるためにはそれらの言葉に精通してないと買うのは厳しい。まぁ英語でも扱ってないことはないけど、中学校レベルの英語で苦労している人間は無理だな。
それにトリカブトだってそうだ。確かにトリカブトの根から附子と言う毒物は取れる。ただしその方法は非常に難しい。ただ根っこを取って刻んで煮込めば良いってもんじゃない。
それに数が必要だ、たかが一鉢二鉢トリカブト買えばできるってもんじゃない。個体差こそあるが、それこそ百近く買わないと必要量は集めることが困難だ。もしそれだけのトリカブトを買えば、家の中トリカブトの花だらけになる。おまえの家はそうか?
ふむ安心しろ。君は犯人じゃない。それは俺が証明する」

ほんの十数秒だった。
鷹見くんがその言葉を発するのにかかった時間がだ。
そのたった十週秒が嬉しかった。
気がつけば涙が出てきた。
深い深い霧が一瞬で晴れたようだった。
私が信用できなかった私自身を、鷹見くんは信用してくれた。
胸を張って『犯人じゃない』と断言してくれた。
本当に、本当に助かった、そう思った。
10年以上前に助けられて、そして今現在も助けられた。
嬉しかった。私は本当に嬉しかった。

彼はそんな私に戸惑ったようだった。

ふと彼の足が止まる。視線が鷹梨の後ろのドアに移る。

「現場検証?」

たまたま通りかかったと言わんばかりの表情で現れたのは、新馬理緒だった。
彼女の小柄な顔がドアから出ている。



*   *   *


「ええと、あなたは確か・・・」

「あ~ぁ、愛ちゃん泣かしちゃった」

鷹見くんは言い逃れできない罪人のように眉をへの字に曲げた。

「嘘嘘、冗談冗談。私の名前は新馬理緒っていうんだ」

「そうそう新馬さん、えっとなにかこの部屋に御用ですか?」

「ううん。用ってほどのものじゃないよ。ただ何をしてるのかな、て思っただけ」

「そうですか」

鷹見はそれ以上彼女の言葉に対して言及しなかった。
おそらくは見張り役かなにかだろう。鷹見君はそう思いながら再び部屋の中を回り始めた。
ただただ部屋を回り続けているだけだった。
それに対してつまらないのか、彼女は問を投げかけた。

「何処まで解けたんですか?」

「ん、はい?」

「事件の謎ですよ」

新馬の顔には少しばかり妖艶な表情が伺えた。
しかし鷹見青年の表情は暗い。

「何度も申し上げますが、自分は全知全能な存在ではありません。あくまで事件現場がどうなっているのか、自分が泊まる山荘で起こった事件のあらましを知るためにここにいるんであって、事件の真相を看破してやろうとは」

「じゃあなに、まだ何の解決案も推理も無いの?」

「えぇ、何も」

「う~~~ん。そうか・・・・・・・。分かった、じゃあこうしよう。私の推理を聞いて貰えない?」

「はい?新馬さんの推理ですか?」

「そうそう。流石に登場して数時間の名探偵に全てを望むのは無理だから、私の推理を聞いてよ。そしてその推理がどうなのか、なにか穴がないのか、意見を聞かせてほしいな」

「ううんと、あの、ですね」

「まあ名探偵ってのは冗談だけど、でも少なくとも君は鷹見くんはこういった類の話に全く興味関心が無いって訳じゃないんでしょ。ミステリに精通してるんでしょ」

「別に精通というわけでは」

「十分さ。ぜひ聴いてよ私の推理を。そして聞かせてよ君の話を」

新馬の眼はケンタウルス星の様に輝いていた。鷹見もため息一つ残して

「分かりました。話を聞くだけならそれは構いません」

「ふむ。そうこなくっちゃ。まず最初の事件ね。鶴井舞ちゃんの最初の事件。この部屋で起こった密室事件について。この事件の謎はやっぱり何といっても『密室』が一番のネックだよね。これはどう」

「えぇ。それに関しては異論はありません」

「じゃあ問題はこの1つ。『どうやって鍵と閂の2つの鍵を外部から施錠したのか』、これに限る。これはどう?」

「同意見です」

「私は考えた。部屋の中にあるものでこの部屋に鍵をかけたんだ」

「それは分かります。しかしそんなものこの部屋になかった、そうでしょ」

「いいや。それが違う。思いっきり怪しすぎて逆にみんな気がつかないものがあの時部屋にあった」

「それは?」

「『拳銃』さ。事件当日、この部屋には鶴井舞の額を撃ち抜いた拳銃が確かに一丁落ちていた。犯人はこれを使ってこの部屋の閂を閉めたんだ。どうするか。それは簡単だ。鷹見くんはわかるよね」

その言葉で鷹見くんは顎に手を当てて、あぁ、と頷いてみせた。しかし私はさっぱり要領を得ないといった表情だ。

「拳銃は鉄で出来ている。鉄は強磁性体です」

「キョウジセイタイ?」

「簡単に言うと、磁石にくっ付く珍しい物質ってことです」

「? え、だって金属って皆磁石にくっつくんじゃないの?」

「それは誤解ですね。磁石にくっ付く物質はこの世でおよそ4種類しかない。『コバルト』、『ニッケル』、18℃以下の『ガドリニウム』、そして『鉄』の4つだけです。今回拳銃に使用された物質は鉄、つまり磁石にくっ付く物質です。
磁力は木材などの部室の中を平気で突き抜けます。つまり木の壁があろうとなかろうと、磁石の磁力の影響を受けます。
今回で言えば、犯人は強力な磁石を持っていた。そして鶴井さんの部屋の中で凶行をすませると、凶器として使用した拳銃を持って一度部屋の外に移動する。そして部屋の中のドアの近くに拳銃を置く。ドアを閉める。
この時、ドアは鍵も閂もかかっていない状態。そこで強力な磁石、おそらくネオジウム磁石か何かでしょう、それを持って木製のドアの外から部屋の中の拳銃を操る。ここで標的は勿論『閂』。
磁石によって操られる拳銃は、閂を押し出して、犯人は部屋の外にいながら部屋の中の閂をかけることができる、そういうことでしょ新馬さん」

「そういう事。磁石を壁から離せば拳銃は支えを失い、部屋の中のドアの近くに落ちる。その後どうするか、実はそのままで良い。あとは部屋を皆が訪れて無理やりドアを破って突入してくれれば準備完了。
勢いよく弾き飛ばされるドアによって、その近くに落ちていた拳銃はさらに弾き飛ばされ、ドアから遠くで発見される。これなら誰も拳銃が密室作りに使用されたとは思わない」

「なるほど。閂を閉じる方法は分かりました。鉄製の拳銃を部屋の外から磁石で操るということですね。でもそれでは鍵の方は説明できない。鍵はどうなるんですか」

「どうもしないさ」

「ふん?」

「この部屋は当時、閂は掛かっていても、鍵は掛かっていなかったのさ」

「それでは聞いた話と違いますね。僕が聞いた話では、鍵と閂の両方が掛かっていたと」

「そうそこさ!」

新馬は人差し指を鷹見に突き立てる

「そこがまさに心理トリック、私たちの思い込みさ。当初、私たちはこの部屋に鍵と閂の両方が掛かっていた、そう思っていた。でも実際は違う。ではどういう事か。
この部屋は事件当日は閂だけで鍵は掛かっていなかった。ある人物が『鍵も掛かっているように見せかけた』だけ。ではその人物は誰か」

新馬の言葉が不意に途切れる。一応の答えを求められているのだろう、彼はさぁ、と肩をすぼめて取り敢えずの答えを示す。

「『真壁』さんさ」

ひゃっ、と言う声が漏れた。彼はそれを無視した。

「真壁さんというのは、真壁冬香さんですよね。あの、この劇団の創始者の一人とかいう。彼女がこの密室を作り出した真犯人だと?」

「まあ、そういう事になるね。私は考えたよ。『そもそもこの部屋は鍵が掛かっていたのか』。私はそこから考えた。事件のあった日、私たちは、最初この部屋に鍵が掛かっていたと思い真壁さんが一階に鍵束を取りに行く。
そして鍵を解除してドアを開けようとしたら、さらにドアを開けることができずに閂が掛かっていることに気づいた。ここで重要なのは、『鍵束で鍵を開けたとき、本当に鍵は開けたのか』という事。
ドアが開かなくても、それは鍵で空かないのか、閂で空かないのか、それとも両方で空かないのか、それは区別できない。
真壁さんが取りに行った鍵束で鍵を開けたように見えたかもしれないけど、実はあれはフェイク、鍵を捻っているようで捻ってない、鍵を開けてるようで開けてないんだ。
一見すると鍵束で鍵を開けたように見せて、実は鍵を鍵穴に差し込んでただ引っこ抜いただけ。皆はそれを見て『たった今、鍵束で鍵が解除された。今まで鍵が掛かっていた』と錯覚した。こう考えれば、この部屋が密室だってことも説明がつく」

「ふふん、なるほど。真壁さんは強力磁石で部屋内の拳銃を操って閂を閉め、鍵束を使ってさも鍵がかかっている演技をして、この部屋は閂と鍵の両方が掛かっていると錯覚させた、とそういう事ですね」

「そう、そうさ。逆にそう考えなければこの二重密室は解決できないよ。私は真壁さんが犯人だと思っている」

「確かに新馬さんの推理なら、とりあえずの解決策は見いだせます」

「とりあえずって何?」

「気分を害さないでください。問題はその先です。真壁さんがもし犯人ならその次、田子さんの犯行はどうやって可能にしたんですか」

「それも解けてる。2つ目の事件は食事の席の殺人。田子さんは食事中、急に苦しみだして息絶えた。後に犯行声明文が発見されたが、そもそも田子さんをピンポイントで狙うことは不可能だとされていた。
だって、誰がどこに座るかわからない。箸や食器に毒を仕込もうとも、そこに当の田子さんが座るかどうかはわからない。かと言って全員分に毒を仕込めば、関係ない他のメンバーや自分までもが巻き込まれる。それは避けたい。
ではどうするか。真壁さんは『自分の箸のものを掴む方とは反対側の部分に毒を仕込んだ』んだ」

「箸の反対側ですか?」

「そう。自分の箸で食事を取る方著は逆の、太くなっている方、そこに毒を仕込んだ。自分が食事するときは普通に使う。でも誰かが食事をよそってくれと言われた時にはどうする? そう逆箸にする。
逆さ橋にしたとき、よそった相手に毒が回るようにすれば良い。田子さんに「目の前の食べ物をよそってくれ」と言われたら逆さ箸にして田子さんに毒がまわるように仕向けた。そうすれば自分や他のメンバーは無事で田子さんだけ殺害できる。
これなら、田子さんがどこに座ろうが実行できる。どう?」

「・・・・・・なるほど。それなら特定の食事に毒を盛るわけでもなく、食器に毒を盛るわけでもなく、犯人自身も自分の生命の危険性のことを考えなくても犯行を行使できる。確かに名案です」

「でしょ。ほらね!」

「では浦澤さんの事件は?」

ここで新馬理緒の表情が一気に暗くなった

「そう、そこなんだよ。浦澤さんの事件に関しては、やっぱり難しいね。だって誰もキッチンから出てないからね。二階に留まっていた浦澤さんを殺害できた人物は確かにいない。でも、遠隔操作か何かで真壁さんがやったと思うんだ。
闇雲に誰が犯人でどんなトリックを使ったか、を探すより最初に犯人を到底してそこからどんなトリックなら可能か、を考えたほうが効率が良いと思わない?」

「確かに。問題を解決するとき、そもそも何が問題か、を見つけるのが最も大変だと言いますからね。犯人が特定さえできれば、あとは時間の問題と、そういう事ですね」

「あぁ、そういう事だね」

新馬は満足そうに手を広げてみせた。

「分かりました。では次の現場に移動しましょうか」



*  *  *


鷹見と鷹梨は二階のキッチンに移動していた。
新馬理緒の姿はもうなかった。鷹見の見張りと言うか、ただ単に自分の推理を聞いて欲しかったのだろうか。

鷹見がキッチンのドアを開ける。ロビーからの漏れた光でおおよその中の状態は分かった。
凹んだ床。フローリングの溝にある取れない黒いあと。キッチンの流し台ではろくに後始末されていない残飯。
全てがあの時のままだった。
正直一分一秒でもこの場にいたくなかった。
それでも彼はその場に悠々と鎮座している。
その場の空気から過去何があったか感知しようとしているかのようだった。
しかしそんなこと人間が出来るはずも無く、鷹見君はこちらを見ないでキッチンをやはりグルグル回り始めた

「状況は?」

「ほとんど事件が起こったままです」

「どんな感じだった?」

「事件が起こったのは、山荘に到着してから二日目、鶴井さんの事件があった翌日、つまり今日未明です。山荘にあった非常食や缶詰で食事を用意しました。
みんなが各々好きな席に座って食事を始めたら、急に田子さんが苦しみ出して床に倒れました。口から血を吐きながら苦しんで倒れました」

「席順は?」

「先程も言ったように、各々好きな場所です。主に仲が良いメンバー同士で隣同士に座ってたみたいだけど」

「このキッチンに来た順番は?」

「さぁ。私が最後だったから分からない」

「じゃあ、実際の座った人間の席順は?」

「うんと・・・、」

私はあの時の席を必死で脳内で再生させた。
確か・・・


                 新       浦       
                 馬       澤       
            ――――――――――――――――――  
            |                  |   
            |                  |   
        鷹梨 |                  |田子  
            |                  |   
←           |                  |   
ロ          |    テーブル          |   
ビ           |   (見た目は四角形ですが    |   
ィ       知尻 |    読者の皆さんは円形だと   |霧                          
            |    考えてください。)     |   
            |                  |                         
            |                  |  
            |                  |                      
        真壁 |                  |貴中                      
            |                  |                       
            |                  |                      
            ――――――――――――――――――                                         
                猪      不   
                井      二
                田      見



「このロビーとのドアに一番近い席は私だった。そして時計回りに、新馬理緒、浦澤瞳、田子藍那、霧綾美、貴中怜、不二見未里、猪井田姫世、真壁冬香、そして知尻マリア、
だったはず」

「・・・・・・・・・ふぅん」

少し間延びした返事だった。
その後の返答はなく、ただゆっくりと時間がすぎるのを待つだけだった。
徐に鷹見くんは動くと、キッチンの奥に消えていった。
何処に行くのだろうと眼で追うと、彼はキッチンにあるものを探りはじめた。まずはゴミ箱の中だった。
その中には私たちが最初に食べた夕食のゴミや残飯が入っていた。
正直素手で触るのを躊躇われるものだったが、それでも彼はお構いなしに中の物を全て出した。
ゴミ箱の中身を全部出したかと思うと、こんどはそのうち缶詰や冷凍食品のパッケージを具に眺めた。それがどうしたんだろう、保存料でも確認しているのだろうか、そんなことすら考えていた。

「ほれ、これがまず最初の答えだ」

急に彼はそう言った。
そう言って持っていたパッケージの2つ3つを丸めて投げてきた。反射的にそれをキャッチする。

「それ見て気がつくだろ?」

彼の言っている意味が分からなかった。
私は言われるがままにそのパッケージに視線を落とす。

「製造年月日を見てみろ」

促されるまま、製品の製造年月日に視線を落とす。

「平成13年12月・・・、これが何か?」

「今日の日付は?」

「平成14年2月」

「な?」

「???」

「おいおい、おかしいと思わないのか? なんで去年の12月、今から3ヶ月前の製品があるのかって思わないか?」

「うん? どういうこと」

「・・・・・・良いか、この山荘はかの『黒川影夫』氏の別荘であり、その所有者が亡くなったのと同時に使われなくなった。だとすればだ、今から4年~5年前から使われていないはずだ。ならなぜ3ヶ月前の食料がここのある?
さっきみんなの前で質問したよな、『お腹の調子が悪い人はいませんか』って。ちょっと気になったんだ。皆はこの山荘に閉じ込められて何日も経つ、精神的ショックでやつれている人もいるが、空腹で苦しんでいる人がいない。
精神的ショックで空腹を感じなくても最悪水は飲まなくてはいけない。でもそれで困っている人がいない。これはちょっと変だと思ったんだ。ここに残されているものを口にしたとしても何年も前のものなら絶対にお腹を壊すはずだ 」

「そうか」

「そう言うことだ。つまりは3ヶ月ほど前にこの山荘に訪れた人間がいるってことだ。じゃあそいつは何故この山荘に食料なんか持ってきたんだ、いやそもそもどうやってそいつはこの山荘に入ることができたんだ。理由は決まってる。
ここで近々惨劇が起こることを知ってたんだ。そしてそこで閉じ込められる人間がいることも、同時にその中に自分も含まれることも、そう全部だ」

「え、ってことは・・・」

「あぁ。残念ながら犯人はやっぱりこの山荘の中にいる。それもどこぞの賊とかではない、こう言ったまともな食料を口にすることができたメンバーの中の誰かだ、犯人ははっやり劇団の中にいるな」

重い足取りだった。
私もショックだった。今の今まで犯人は私たちメンバーの中にいるのではないか、そう思ってもいた。でもこうやって第三者にてきかくにずばり言われると、やはり精神的に来た。
日頃仲良くしていたメンバーに、殺人犯が・・・。

しかし、当の彼はというと既に次の作業に入っていた。
吐き出したゴミを元のゴミ箱に戻すと、今度は舞ちゃんの部屋と同じように窓を開け始めた。そしてそこから顔を出す。
でも真正面に見えるのは、防風林・防雪林の役目を果たすアカマツが並んでいるだけだ。首をもう少し出して上下左右を眺める。特に下面、雪の積もっている場所に何か不審物はないか見ているようだった。
でも結局お目当てのモノは見つからなかったようだ。

「・・・やれやれどうも上手くいかないな」

そう言うと、頭にかかった粉雪を払う。

「えっと、先ほどの話に戻りましょう。んとなんだっけ。そうそう殺害された田子さんの話でしたね。殺害された田子さんの隣に座っていたのは、浦澤さんと霧さんって訳か。ふむふむ」

「どうかしたの?」

「いえね、片方は既にこの世を去っていて、もう片方は先ほど名前が出てきた人でだから」

「先ほど名前が?」

「『閂が締まってる』と発言したのが、確か霧さんだったはず」

鷹見君は唇に人差し指を押し当てて、また黙りこくってしまった。
今の言葉はどういう意味だろう。霧さんに何かあるのだろうか?

「あの霧さんが何か? さっき理緒が言ってた真壁さんのことは。さっきの推理だと、あの、真壁さんが犯人って言ってたけど」

「まぁ確かにそうですね。ただ新馬さんの『真壁さん犯人説』も愚直に飲み込めば良いというわけではありません」

「何か引っかかる箇所でも?」

「新馬さんが申した推理は確かに筋が通っていました。でもそれはあくまで、一見するとです。部屋の外から磁石で拳銃を操って部屋の閂を閉めたとおしゃっていましたが、果たしてどこまでそれが可能なのか。
磁石で拳銃を操るといってもかなりの時間がかかります、壁の外から慎重に操らないと、拳銃が落ちてしまいます。かと言ってあまり時間をかけすぎると皆さんが二階に上がってきてしまう。
そんな急造な密室トリックをそんな簡単にできるでしょうか」

「やっぱりできないの?」

「どうでしょう。100%不可能とは言えないでしょう。もし新馬さんの言うとおり真壁さんが犯人であり、ここが真壁さんの所有地であったとしましょう。
ここは真壁さんの別荘だと考えたらそ、磁石拳銃説で出てきた方法も練習でカバーしたと考えましょう。
ここが真壁さんの所有地であるなら、前もってこの山荘で実験をしたことでしょう。
どんな磁石を用いて、どんな拳銃を使って、磁石をどのくらいのスピードでどこまで移動させれば良いか、何回も何回も練習してコツを掴んだのでしょう。あなたはどう思う」

「なにが?」

「この練習に意味があるか、ってこと」

「・・・あるでしょ。だってその練習をすることで密室を作ることができたんだから。違うの?」

「違うことはない。しかし引っかかる、と言うか違和感がある。『意味がない』んだ。密室にしたければ別に鍵束で鍵をかけるだけでいいんだ。閂まで閉める必要はない。あるいは逆もオーケーだ。閂はしても鍵束は不必要だった。
どちらか一方で充分だったはずなのに、両方やった。準備も苦労も2倍だ。でも引き起こされる結果はどちらも『部屋を密室にすること』だ。効果が2倍になるわけでもない。むしろ誰かにバレる可能性も2倍になるわけだ。労が多い割に効果は薄い。
ここまで一夜でその仲間を3人も殺害する計画的犯行者が、なぜそこにイミのない労を注ぐのか。まだその理由がわからない。
では次の事件はどうか。このキッチンでみんなで食事をしたときの田子藍那さんの事件だ。新馬さんはこう言ってた。箸の逆側に毒を仕込んだと。普通に使うときには毒は口には入らないが、逆さ箸をしたときには掴んだ食べ物に毒が付着すると。
田子さんが遠くの場所にある食事を取ってもらうとき、真壁さんに頼んで取ってもらう。その時、逆さ箸で毒を付着させ田子さんに渡す、そう言った解答でした」

「私は合点がいったけど」

「えぇ。それだけを考えれば、確かになるほど筋道が通るように見えます。ただこの時は違う。『鶴井舞さんの事件のあと』なんです」

「それって何か影響するの?」

「します。自殺であれ殺人であれ、皆さんは鶴井さんの遺体を間近で見られた。となると、必然的に食事量は減るはずです。積極的に食事を取ろうとする人は少なくなるはずです。とすると、田子さんもその例に漏れない。
おそらく、話に聞く田子さんは天真爛漫で自由奔放、そんな人間でも身近な人間が死んだ場面を見れば食欲は衰退する。なら、この事件のあった日も。そんな状態だったはずです。では何が起こるか。
自分の手の届かない場所の食事を積極的にとってもらおうとするか、という事です。多分ないでしょう。そこまでして食事をしようとする人間はいないはずです。だってほらシンクには大量の残飯が残っています。
田子さんに限らずほかの皆さんも、食事が喉を通らなかったという証拠です」

「まぁ、確かにそれはそうかも」

「あくまでこれは推測ですけどね。それに犯行声明文だってある。犯人は何故あんなものを出したのか。それも謎の一つだ。うん、あれがどうしてそこまで不思議なのかって顔をしてるね。
僕はね、あれの存在が非常に引っかかるんだよ。あれは犯行のリスクを大変伴うものだからね。無いなら無い方がスムーズにことを運べるはずなんだよ。
例えばだ、あの犯行声明文が無ければ、田子さんはもっと警戒心なくして食事にありついたはずだ。しかしあんなものが届けば、もしかしたらという気持ちが働く。ではどうなるか。
当然、食事の量が絶対的に減るだろう。もしかしたら食事を全く取らなくなるかもしれない。だって食事に毒がもられているかもしれない、誰だってそう思う。
もしこの時に食事に一切手をつけず、殺人に失敗したとしよう。じゃあ次はどうするか。これはかなり難しくなる。
自分の命が狙われていると知れば、部屋にこもって出てこなくなるかもしれないし、ずっと誰かと一緒に過ごすようになるかもしれない。そうなると殺人の機会が激減する。
犯人はそんなリスクを冒してまで、犯行声明文を出したんだ。この意味が全くわからない」

そう言うと鷹見くんは再びだまりこくった。

「まぁ、良い。とにかく話を田子さんの事件に戻そう。田子さんが食べたものは何か覚えている?」

「そこまでは。皆思い思いに好きな量食べていたので、そこまでは見ていません」

「だよね」

それだけ言うと、田子さんが座っていた椅子を立て直し座った。肘を付き、円卓の中心を眺めながら弱々しくそう呟く。

「もう一度聞くけど、誰が何処に座るかは分からなかったのか? 例えば窓際は寒くて寒がりの人は座らないとか?」

「まず無いはず。ここまでくると窓際だろうか何処だろうが寒いものは寒いし、食器も箸もスプーンも全部同じだし。特に前もって席順を決めていた訳でもないし。」

「なら、皆何処に座るかは全くのランダムだったと」

「そうなるわね」

「なら、箸やスプーンに毒を塗るって手法は取れないってわけだ。でもだったら田子さんが狙われたって訳じゃないのかならやっぱり・・・・」

鷹見は預かっていた犯行声明文をもう一度読み返す。

「・・・・・・この『追放者』って表現はおいておいて、この犯行声明文はどういう経緯で見つかったの?」

「ドアと床の隙間にあったそうです。最初に見つけたのは霧さんです」

「おやおや、また霧さんですか。その霧さんが皆に『こんなもの見つけました』って持ってきたのかい?」

かぶりを振る。

「田子さんが最初に見つけたみたい。それを霧さんに相談して預けたって聞いてる」

「ほう。まぁとりあえずこの時の事件はとある人物の意図により、田子藍那と言う人物が亡きものにされた、と。ふむふむ。そのとある人物が分からないし、その手法も見当がつかずか。まいったね」

まいったね
その言葉にも関わらず、表情は何処か嬉しそう、と言うか挑戦的な笑だった。

椅子に座ったまま、10分以上過ぎただろうか。鷹見君は徐に立ち上がる。

「じゃあ最後の部屋に案内してくれ」



*  *  *


木目の荒いドアだった。
ほんの数時間前、このドアを開けたときはそこには地獄絵図が広がっていた。
今はその面影はない。普通の部屋と何一つ変わらない。天井に括りつけられたロープも、左右に小刻みに揺れていた浦澤瞳もいない。
セントラルヒーティングで温まっているはずの部屋も、何故か叩けばキンと気持ち良い音を出しそうだった。

「ふぅむ。部屋の間取り自体は一緒なんですね」

「そうみたいですね。左右対称ではありますが、基本的な作りは私の部屋とも一緒です」

鷹見君は私の言葉など聞いてないように、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。
鷹見くんは部屋の正面にある窓を開けた。舞ちゃんの部屋同様に冷たい風が吹きつける。
彼は今度はキョロキョロすることなく、すぐに下を見た。
何を見ているのだろうと思った。しかし疑問は杉に氷解した。

「やあやっぱり。このましたはキッチンだったか。ほら見てみな、ましたの地面の雪、手で掻いた跡がある、しかも真新しい。やはりこの部屋はさっきのキッチンの真上にあるんだ」

試しに覗き込んでみた。確かにこの二階から5mほど下には人の手による跡がついていた。おそらくは先ほど鷹見くんが雪の地面を探った時に着いたあとであろう。
でも、だからどうしたというのだろう。私にはそれが意味するものが良く分からなかった。


鷹見君は私の思惑など興味が無いように、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。

すぐに天井の梁の擦れた跡を見つけた。

「ここには何か吊るされていたんですか?」

「はい。つい先ほどですがメンバーの浦澤瞳さんがここにいました。すぐそこの天井から首を吊って発見されました」

「具体的な時刻は?」

「鷹見君がこの山荘に着く30分位前です」

「その時、ほかの皆さんはなにを」

「皆、キッチンで集まってました」

「キッチンに? なんでまた」

「浦澤さんが、すべての謎が解けったって。今回の謎を解決するって。そこで10分くらい待ってくれって言いました。その間自分は部屋に戻る、そこで準備をする。そして時間になったら犯人が誰かお披露目をするって」

「浦澤さん自身がそう言ったんですか」

「まぁ、多少の言葉に違いがあるかもしれないけど、でも大体同じことは言ってたと」

「で、皆さんはそのあいだキッチンで待機を?」

「えぇ」

「実際に待っていた時間はどのくらい?」

「さぁ。詳しくは覚えていないけど。20分以上、もしかしたら30分くらい待ってたかも。でも浦澤さんが全然戻ってこなくって、みんなで揃って様子を見にいった」

「みんなで揃って、その言葉に嘘偽りはない?」

「絶対に。みんなで揃って階段を昇ってこの部屋の前まで」

「ちなみに待っている間でキッチンを移動したのは?」

「いないよ」

「いない?」

「うん。誰ひとりキッチンから出てない」

「いや、これは正確に聴いてるんだ。途中でトイレとか、あるいは他の要件とか、とにかくほんの一瞬、ほんの数秒でも部屋の外に出た人は誰だい?」

「だから、だから誰も・・・」

「誰も?」

「えぇ。誰も」

「本当に誰も?」

「一切誰も。誰ひとりキッチンから出ませんでした。私が証明する」

一気に鷹見の眉間に皺が寄った。
しばらく黙りこくっていたが、すぐに口を開いた。

「それはそれは。うむ。・・・・・・ところでこの部屋は閂が壊れていないね。どうやって中に入ったんだい?」

「この部屋には最初から鍵が掛かっていなかったんです」

「最初から?」

「えぇ、最初から」

「本当に最初から?」

「本当に。最初からドアが半開きになっていました」

鷹見君は腕組みしながら固まってしまった。
確かにそうであった。最初の事件の鶴井舞の部屋は鍵と閂のダブルで部屋が閉じられていた。
しかし今回はどうだろう。浦澤瞳の部屋の場合は全く部屋に鍵の類が掛かっていなかった。
でも、これに何か意味があったのだろうか。それは分からない。

「ちなみに、この部屋に最初に入ったのは誰?」

「猪井田さんです。ただドアが半開きになっているのを最初に発見したのは理緒、新馬理緒です」

「浦澤さんを下ろしたのは?」

「さぁ、はっきりとは。みんなで協力して下ろしたんだと思いますよ」

「ふぅん。あの、少々聞きにくいんだけど、その・・・浦澤さんたちは今何処に」

「玄関の外の物置小屋です。玄関をでるとすぐ左側にプレハブ小屋があるんですけど、そこで毛布にくるんで安置してあります」

「ふぅんなるほどね。では最後に一つだけ。事件に関係あるない関係ありません、何か気になったこと気づいたことはありませんか」

「ああ、そうそう。あれ理緒だったけ・・・瞳さんの部屋に駆けつけたときだったかな、『後ろの方でドアが開く音がした』ってぼそっと言ってたね」

「部屋に駆けつけた時というのは、浦澤さんの遺体を発見したとき、という事ですか」

「そうそう、その。てっきり気のせいかと思ったんだけどね。だって皆は一緒に階段を上ってきたんだからドアを開ける人はいないもん。これって何かの参考になるの?」

「さぁ。今の所はなんとも」


*  *  *


真っ暗闇だった。
おっと、正確にいえば正面の暖炉に僅かな種火が残っている。全くの暗闇ってわけじゃない。
ロビーの中央に置かれた反発の少ないフワフワの椅子。時間とともに揺れ動く炎を眺めながら口にするコーヒーはやはりうまい。
時に大きくなり、そう思ったらすぐに小さくなる。その気まぐれで誰も予想できない炎に翻弄されるのがたまらない。
劇団の皆さんはもう寝たらだろうか。
寝てしまえばこの暖炉の熱もいらないだろうが、そうしてしまうと今度は自分が凍えてしまう。それは勘弁だ。
鷹梨もさっきまで起きていたが、流石に疲れて寝ただろう。悪いことをした。
この山荘で、なんとも奇妙な事件が起こったそうだ。それも殺人事件だそうだ。
日頃、ミステリ小説しか読まないミステリ馬鹿な俺にとっては、なんとも垂涎なシチュエーションである。




ただ大学に移動して
興味関心ゼロの講義を聞いて、
時折同じ学科の同級生と笑顔で相槌をうって、
週に一回くらい研究室で、卒論はできたかと言葉を覚えたてのインコのような教授様に媚を売る。
良くいえば平和、しかし悪く言えば平凡・退屈な日常に飽き飽きしていた。
正直反吐が出る。この大学生活の四年間プラス数年を溝に捨てた、そう思えてきた。四年間必死で貯めたバイト代を一瞬で溝に捨てたのと同じくらいの後悔に苛まれた。
何か面白いことをしたい。
変わったことをしたい。
普通の世界から抜け出したい。
まるで中学生かとも思える反逆心が芽生えたのはもう何年も前。
おかげで二年間留年もした。
同級生はとっくに卒業し、後輩も就職し、名前も碌に覚えていないガキどもと机を並べてお勉強する毎日だ。
二年間で学んだことは「何処も同じ」と言う抗えない現実だった。
例え都市部に行こうとも、山間の山間の村に行こうとも、文明の発達していない海外の僻地でも、全てを手にできる地上数百メートルの世界でも、
あるのはルーティンな毎日だった。
魔物も出てこなくては、隕石も落下してこない。原因不明のウィルスに悩まされることはない。
甘口のカレーを延々食わされるもんだ。
しかもその甘口のカレーを食べ続けなくては、将来飯も食っていけないと言う理不尽な日常。
それを受け止めるのに、二年というこれまた無駄に長い時間を要した。
そんな苦痛な日々を何とか気を紛らわせるのに使うのが、ミステリ小説だ。
これを読んでいるその瞬間だけは、自分は異世界の主人公になることができた。
何か非日常を体験でき、英雄にでも、悲劇のヒーローににでもなることができる。
そう一握の快楽を得ることができる。
しかし所詮は小説。読み終われば元の世界に戻ってしまうし、その時の落胆たるや両手両足が錆びた鉛と化すようだった。
ミステリ小説を読めば読むひど、名作に出逢えば出会うほど、夢が覚めたときの落差が激しくそれがそのまま苦痛に継っていった。
だから僕は酔うように、それこそ薬物中毒者のようにミステリ小説を貪った。
そう、そんな僕が今まで生きてきた中で特別な場面が存在した。
それが鷹梨との例の『思い出話』であった。
小学校で起きた探偵ごっこのあれだ。
覚えていないはずがなかった。
全てが鮮明に思い出すことができる。
夏先の教室で起きた財布の紛失事件。その被害者になった鷹梨愛。
濡れ衣を着せられて困っていた鷹梨愛を小学生ながら見事な推理でその窮地を救った英雄、
恐らくおいつはそんな感じで僕のことを捉えているんだろう。

悪いがそれはとんだお門違いだ。
自分はただ何の気無しに取り掛かった事件だ。いや、事件と銘打つことすらおこがましいかもしれない。
そのくらい些細な事件だ。
それを自分は首を突っ込んだ。ただ暇潰しで読んでいたミステリ雑誌に出てきたネタと同じネタを使ってきたので、それをしっぺ返ししてあげただけだ。
もしかしたらあれを行なった、えぇっと、あの時の名前はなんだっけ・・・・・・、覚えてないな。
まぁ良いや。あいつももしかしたら直前に同じミステリ雑誌を読んでいただけなのかもしれないな。

とにかく、あれは運が良かった。
たまたまネタが分かっていたから良いものの、それが外れていたら良いピエロだった。
鷹梨が濡れ衣を着せられたように、僕も誰かに濡れ衣を着せるところだったのかもしれない。
それこそ大事になるかもしれなかった。
しかし、当時の僕がそこまで深く考えていたかというと、全くなかった。
ただただ憧れていた、日常を超越した非日常、平凡を塗りつぶす異常。
そんな世界にただただバカみたいにはしゃいでいた。
そうだ馬鹿だったんだ。
普段目にかけることがないおもちゃを手にして、喜ぶ乳幼児だ。
自分のやっていることがどれだけ愚かで低俗か、それを判断することもできない低能だった。
もう、あんな自虐的な行為は行いたくない。これは心からの願いだった。


でも
そう、でも・・・・・・


あのとき実に甘美な、えも言えぬ快感を感じたこともまた事実だった。
非日常と言う興奮、自分が主人公という陶酔、自分の万能性を体感できた愉悦。それら全てを感じた。
鷹梨には悪い。あの時あったのは、正義感ではない。知的好奇心でもない、ましてや鷹梨愛を助けてあげたいという一心でもない。
「非日常を体験したい」と言う我侭な欲望そのものだった。
何万冊のミステリを読んでも、いくら絶世の名作を読んでも、
到底到達できない、自己満足の世界。

あれをもう一度、もう一度だけ体験したい、そうも思ったことがないかと聞かれれば、うんと言えば嘘になる。
叶わないと分かっている。
しかし渇望せずには居られない。
痺れる欲情をもう一度だけ。
そんな思いを抱きながら、過ごしていた。
そんな絶対叶わぬと思っていた願いが、叶おうとしている。

山奥の山荘。
雪深く住人は逃げ出すことができない。
次々と起こる殺人事件
疑心暗鬼の渦に取り込まれるメンバー
遅れて現れる探偵役


舞台は整った。
役者は揃った。
準備はできた。

あぁ。
この世に神様がいるなら祈らずには居られないな。
ありがとう神様。
今一度、僕に快楽の海で泳がせてくれて。
ついでに鷹梨、ありがとう。

もう一度断っておくが、僕がこれをやるのは正義感でも知的好奇心でも困っている人を助けたいと言う類の想いからではない。

「個人的愉悦」

ただそれだけなのだ。
それで良いなら、探偵役を引き受けよう。



さぁ。
ショウタイムの幕開けさ



*  *  *


まず最初に感じた疑問から解消していこう。
鷹梨の話を聞いて幾つかの疑問を感じたが、まずは最後の事件の浦澤さんと言う方の部屋からだ。

僕は寝ている劇団の皆さんに気を遣いながら、優しくドアの扉を開ける。
天井の梁に傷が残る、浦澤瞳の部屋だ。
もしもの時のために用意している白い手袋、世間では「白手(はくて)」と呼ばれている物をしっかりと装着する。
何が気になったのか。まずは『準備したもの』だ。
浦澤瞳は一連の事件が起こったあと、「犯人が分かった。10分準備の時間をくれ」と言ったそうだ。
これを聞いたとき疑問が湧いた。


―――何を準備したのか?


犯人を指し示す証拠なのか、あるいは論理的な説明をするためのメモなのか、
浦澤さんという人がどういう人で、なにを用意したのかは分からない。
しかし何かしら用意はしたはず。それはどこにあるのか。
それが見つかれば、今回の事件の解決の手がかりになる。浦澤が何を見つけ何を感じ、そして何を閃いたのか。
まずはそこから探すことにしよう。

失礼だとは重々承知だが、部屋の中を少々荒らさせてもらった。
ナイトテーブルの下、絨毯の隙間、クローゼットの中、更には個人のバッグの中、ついには女性が使っていたトイレと、
ありとあらゆる場所まで目を通した。

「・・・何も無いな」

思わず呟いた。
故人が使っていたと思われる椅子に腰掛ける。
おかしい。
何故何も見つからない。
まだ探していな場所がある?
いやそんなことはない。探せる場所は大体探した。
ならどこかに隠した?
そんな馬鹿な。なぜ隠す?
誰に見つかることを恐れた? 犯人か?
でもキッチンを出た人間は誰もいないと言っていた。襲う人間など居なかったはず。
それにこの部屋は遺体を運んだ以外、何も触っていないと言っていた。仮に犯人に襲われたとしても、準備していた何かはそのまま部屋に残るはずだ。
隠すにしても隠す時間など少しもないはずだ。
犯人が持ち去ったという可能性は?
いや、それも皆無だ。なぜなら、この部屋の浦澤さんを皆で処理して表のプレハブ小屋に運んだということだ。ならば誰か一人だけが別行動と言うわけには行かない。犯人もまたこの部屋にこっそり入り込み証拠を抹消することは叶わないはずだ。


なのに、何も無い。
おかしい。
浦澤は何を残したのか。

「あるいは、残していないのか・・・」


ふと何気無しに溢れた独り言だったが、それが少し気になった。
こんなに探してもないなら、じゃあ最初から何もないと考えることが自然だ。
何も残していない、なら。
なら10分間は何をしていたのだろうか。

・・・・・・うん、分からない。
情報量が少なすぎる。こういった場合、思考はまたたく間に拡散する。
こんな場合は違う箇所に目を向けるべきだ。うんそうしよう。
次に気になった点。それは『鍵』だ。

腰をかけていた椅子を離れ、ドアの鍵に触れた。
最初の事件の鶴井舞の部屋は、鍵が壊れていた。思いっきりひしゃげていた。
明らかに外部から大きな力をかけられて曲がった、と言うのが分かる。そこに不自然な点はない。
しかし、浦澤瞳の部屋のドアの鍵は全く無傷だった。
しげしげと眺めてみるが、特に不自然な傷は無い。

何故だ。何故この部屋の鍵は何も無かったのか?
聞いた話では、鶴井も浦澤も部屋の中で事切れていたとのことだ。
それが銃で頭を撃ち抜いていたか、首を吊っていたかの違いだ。
一連の流れから見て、同一犯の仕業に違いない。
そして鶴井は鶴井の部屋、浦澤は浦澤の部屋で被害に遭ったことは明らか。
では何故鶴井の部屋だけ鍵が掛かっていて、浦澤の部屋だけ鍵が掛かっていなかったのか。
これは明らかに不自然な点だ。
鶴井舞の部屋は不必要に二重の鍵を施したにもかかわらず、一方こちらの部屋は無施錠。
鶴井の部屋を外から鍵を掛けることができるなら、同様に浦澤の部屋も鍵を掛けるべきだった。
しかし実際にはそうはしなかった。
どう言う訳か、鶴井の部屋は内側から鍵を掛けた。それも二重で。なのに同じ条件なはずなのに浦澤の場合は2つある鍵の両方とも掛けなかった。
鍵を掛けなかったには、それなりの理由があるはずだ。
じゃあそれは何か?
部屋の場所か? 鶴井の部屋と浦澤の部屋の場所が違うせいか?
時間か? 最初の事件が行われた時間とついさっき行われた事件で時間が違うせいか?
それとも何か?
他に要因があるのか?

そもそも、鶴井舞の部屋はどうやって鍵を掛けたのか?
それが分かれば、何故鶴井の部屋に鍵をかけて浦澤の部屋に鍵をかけなかったのかが分かる。
浦澤の部屋を出ると、右前方の部屋が鶴井の部屋だ。
ゆっくりと開けると、浦澤の部屋とまた大きく趣が変わる。
部屋の作りは一緒だが、部屋の真ん中に大きな黒いシミがまず目を引く。はやり何回この部屋に来てもこれは治らないだろう。
そう、鶴井舞の鮮血だ。鶴井舞がこの部屋の真ん中で、頭の真ん中を銃で撃ち抜かれて事切れていた。その部屋だ。
当然、返り血が所狭しと巻き散らかしてあるのは分かる。
この部屋で一番気がかりなのは、ただひとつ。「どうやってこの部屋を密室にしたか」だ。
どこから一劇団員が拳銃を調達してきたか、は良い。
どうして顳かみでなく額を打ち抜いたのかも、それは良い。
そんなもの鶴井が自殺したなら、精神的に高揚しまた参っていたのだろう、の一言で終わってしまうだろう。
何とかそれらしい理由付けができるものは、ほっておく。
それでも「犯人はどうやてこの部屋から逃げ出したのか」の一点については、説明できない。
鷹梨の説明では、鍵と閂の二重の施錠がなされていたとのことだ。
鍵はキッチンに保管されている。
閂はどうやったって部屋の中からしか動かせない。
そんな中からどうやって二重の密室を作り上げることが出来たのだろうか。
それが一番の関心どころだ。

まぁ、愚問だな。
自分のようなある程度ミステリ小説を読んでいるならある程度予想はつく。

まず第一におもいつくのは、『物理トリック』だ。
磁石や針金や雪など道具を使って鍵を占めるあれだ。新馬さんが言っていたトリックもこれに分類される。
例えば、細い糸や針金を用いるとする。閂に糸を絡ませドアと壁の隙間から糸を通し、ドアの外側から糸を引っ張って鍵をしめるといった具合だ。
ただしこのトリックは非常にバレやすい。また意外と使える環境が限られてくる。今回のような場所では残念ながら使うことができない。
なぜかというとこの山荘は雪深い山奥に作られている。という事は寒冷地仕様で壁とドアの間の隙間が限りなくゼロに近く、たとえ糸を通してもどこかに引っかかってうまく引っ張ることはできない。
雪を使うのもそうだ。雪を使って閂や鍵を一時的に固定し、雪が溶けたら鍵が締まると言うのも今回に限っては考えものだ。
と言うのも、そんなことをすればまず跡が残る。雪が溶ければ床が濡れる。しかしそんな跡は誰も見ていない。
磁石だってそうだ。確かにドアの外側から磁石を使うことはできても果たしてそれで本当に自由自在に拳銃を操ることができるのだろうか。口で言うのは簡単だが、じゃあ実際に実行するとなるとどうなるか。
いささか疑問ではある。

となると密室は他の要素が絡んでくる可能性がある。
例えば、『予期せぬ密室』だ。これは犯人が密室を作ろうと思わないのに、勝手に密室になった場合だ。
例を示すとこうなる。被害者は廊下の外で襲われた
しかし命からがら逃れた被害者は自分の部屋の中に逃げ込んだ。犯人が追ってこないように鍵をかけた。しかしその後息絶えた、そんな場合だ。
あるいは、被害者は自分が襲われたにもかかわらず、加害者を庇おうとし場合だ。この場合も被害者は悲鳴を上げずに自分の部屋に戻り鍵をかけるだろう。
これは犯人にとって予測の範疇外だ。犯人は密室を作る気がなかったのに、勝手に密室になったというものだ。
でもこれも現実味に欠ける。と言うのも今回の被害者は額を撃ち抜かれている。これはほぼ即死だ。自分の部屋に逃げ帰るという時間はない。
残念だがこれも違う。

では、部屋の中に『時限装置』があったという説である。
部屋の中に犯人は入っていない。でも犯行を行える装置が組み込まれており、その装置のおかげで被害者は命を落とした、というものである。
例えば、そう例えばであるが部屋の中に幻覚剤が飛散していたら。
その幻覚剤を吸って被害者は意識が朦朧とし、訳も分からず自分で自分の頭を撃ったとか。
あるいは、部屋の中に自動で拳銃を発砲させる時限装置があって、その装置に拳銃が括りつけられていて、それで被害者は殺されたとか。
・・・これもないだろう。と言うのもそんなものはすぐに目に付く。部屋の中が乱雑でものに溢れているなら可能だろう。でもどうだ、部屋の中は見事に片付いていた。それもそうだろう。彼女たちが到着して数時間したかっていないのだ。
そんな仕掛けが組み込まれていたとは思えない。どこかでコンピュータ制御されていたとも考えにくい。
あの部屋に皆さんが突入したとき、特に怪しいものを見ていなかったと言うのだから、これも却下だ。

ならこれはどうだ。
実際には密室ではなかった、という『心理的トリック』。
今やこのトリックが使われることが一番多いのではないか。
と言うのも、密室というのは作るのが難しい。となれば、実際には密室でもなくても、「さも密室のようにすれば良い」のである。
新馬さんが言ったのはこの複合技である。
実際には密室ではなく普通に外部と行き来できるはずなのに、心理的要因でそうとは思わせない術である。鍵がかかっていないのに鍵がかかっているフリをしたり、どこかに秘密の抜け穴があったり、といったものである。
これなら一番可能性がある。
しかしだ。じゃあ今回の事件の中でどんな可能性があるか。
銃声がしたのがあの部屋でなかったら、被害者が殺されたのがあの部屋でなかったら、あの部屋の鍵は実は掛かってなかったら
確かにこれなら仮説はいくらでも立てられる。でもそれが逆に厄介のなのだ。
可能性が多いとその可能性を潰すのが難しくなる。そもそも聞いた話によるとそれすは実行は困難に思う。

うん。
思考は完全に行き詰まりにはまった。



*   *   *


この山荘で起きた事件の状況は一通り把握した。
密室殺人に毒殺に、不可能アリバイ殺人か。これまた盛りだくさんに詰め込んでくれた。
正直言おう。
自分はこのたび重なる状況を説明できる知識知恵は持ち合わせていない。
全く持ってお手上げだ。
今現在はね。
ただ思う。
なんとなく解けそうな気はする。
まぁ、今現在ではただの勘ではあるが。
ただいくつか、不可解な部分も多々ある。

まずこの全体である。
本格ミステリ、俗に言う黴の生えたミステリだが、本格ミステリに度々登場するクローズドサークルもの。これがまず最初の謎だ。
クローズドサークルとは、言わば外部の救助が一切入ってこない限られた空間でのミステリのこと。
孤島の殺人や、吹雪の山荘、と言った状況がこれにあたる。
これは有名でこそあるが、実に多くの問題を孕んでいる。
まず一つ目が、『限定性』だ。犯人は今いるメンバーの中の誰か、と一発で見破られてしまう。
これは非常に危うい問題だ。確かにメリットとしてターゲットが逃げ出さない、警察などの科学捜査が入ってこないので簡単には犯人が特定されない、と言ったものがある。これは確かだ。
でもそれを有り余るデメリットが存在する。それが今言った限定性だ。要はいつかはバレてしまう。
科学捜査が永遠に入って来ない場所は存在しない。警察の捜査の手はまるで免罪符のようにどこにでも入ってくる。事件を起こしているあいだはバレなくても、そのうち捜査が入ってきた時には確実に自らの手段が露呈してしまう。
メリットに対してデメリットが大きすぎる。


ほかにもある。まず思ったのが、『何故、第一の殺人で密室殺人なのか』である。
密室殺人は思ったほど完璧な事件ではない。密室の中で遺体があったとしても、その遺体が明らかに殺されたものなら、殺人の可能性があるなら一発で「密室殺人」であることが疑われてしまう。
そうなったらトリックなんて関係ない。犯人は誰かという話になる。
密室殺人を最も効果的に行うのは、中に存在する遺体が自殺体である、あるいはそう見えることが必要である。
その観点から見れば今回の事件としては最も不適切である。

まず遺体の鶴井さんが『額を打ち抜かれている』ことがそうである。
普通、自殺する人は額を撃たない。百人いたら百人、『こめかみ』を撃つはずである。
額を撃つのは、持つ銃の握り方も悪い。その時点で自殺体かどうかは怪しくなる。そして極めつけは、その後に連続して殺人事件が起こったことである。
鶴井さんだけならまだよかった。しかしその後田子さんや浦澤さんと言った他の犠牲者が出てくると、『これが一連の殺人事件』だと言うことが分かってしまう。
となると、最初の鶴井さんも『明らかに他殺』であることがばれてしまう。
なぜそんなことをしたのか。もし鶴井さんに殺意を抱いていて、密室で殺害しようと考えていたならば最後に殺すべきだった。
犯人はなぜそうしなかった。

田子さんの時だってそうだ。
なぜその時に全員を殺害しなかった。新馬さんのトリックでも良い、あれを使えば鶴井さん、田子さん、浦澤さんだってまとめてできたはず。
それなのに、毒殺では田子さん1人しか殺害しなかった。
この意味もわからない。明らかに用意するものも少ないし、なによりリスクが少ない。
犯人は鶴井さん、田子さん、浦澤さんを別々に殺害する必要があった。それは何か。

そして極めつけの、浦澤さんだ。
この際、メンバー全員にアリバイがある、と言うのは目をつむろう。それ以外だ。
問題は2つある。
1つ目が、なぜ浦澤さんの部屋は密室にしなかったんだろうということだ。
最初の事件の鶴井さんの時は部屋を密室にした。鍵と閂の両方をかけた。
しかしこれはどうだろう。同じ二階なのにこの時は全くドアに鍵がかかていなかった。鷹梨が言うのは、ドアが半開きだったそうだ。
鶴井さんの時は密室にして、浦澤さんの時には密室にしない理由があるのだろうか。
あるいは、できない理由があったのだろうか。
鶴井さんの部屋は密室にできて、浦澤さんの部屋は密室にでいない理由。新馬さんの説の拳銃以外に何かあるのだろうか。

あと一つ。
浦澤さんが部屋に戻って用意したものはなんだったのか。
先ほど、部屋の中を捜索した。浦澤さんは「犯人がわかった」と言って部屋に戻った。そしておよそ10分間部屋の中に留まっていた。
ではその時間で何をしたのか。犯人である証拠を探していたのか、あるいはみんなに事件の説明をするために話す内容を考えていたのか、それは分からない。
しかしおよそ10分間で行ったことが皆目見当がつかない。ペンなり紙なり、あるいは何かしらの証拠物品なり、何かしらを用意したはずなんだ。
それが全く見当たらない。
犯人が犯行の際に持ち出したのか。いいやそれもない。
だってあの部屋には誰ひとり入っていないのだから。だから外に持ち出せるはずもない。
遠隔操作で事件を敢行したのか。いや、それでも、浦澤さんを殺害して、なおかつこの部屋にある証拠品をくまなく持ち出すと言うのは遠隔操作では不可能。
犯人が自らこの場にいて直接持ち出さない限りは。そしてそんな人物はこの山荘にはいない。



はぁ。

小さい溜息のはずが、大きく反響して聞こえる。
暖炉の火は緩やかな幾何学模様を描いて、小さくなる。
わからない。
どうもわからない。

まず、『何がわからないのか、それがわからない』。

どこに取っ掛りをつけていいのか。何から手をつけていいのか。それすら五里霧中だ。
何から
そう、何から

こんな時、暗闇というのは非常に役に立つ。
難解なミステリを読んだとき、いつもこうしていた。できる限り周りの明りを消して、自分ひとりだけになる。
身も心も。
そうすれば周りに払う意識の量も絶対的に少なくなる。そうなればどうなるか。絶対的に内面に向く意識の量が多くなる。
自らの抱えている謎に、そして闇に、比較的向き合いやすくなる。

深く深く、自らの深層にゆっくりと溶け込んでいき、浸透し、そして拡散する。
そんな自分の意識がまるで液体になったような、そんな感覚が好きだ。
そんな悦楽に、僕は快楽を見出した。


さぁ。我が灰色の脳細胞よ。
今私は孤独だ。正真正銘の孤独だ。思う存分はたらくが良い。


そんな時だった。
暖炉の小さな炎がゆらりと揺れた。微かではあったが、確かに何かの影響を受けて揺らめいた。
風か
どこかのドアが強風で空いたのかな
そう思った。

そう、そう言えば、あの女の子名前はなんて言ったっけ・・・。そうそう新馬さんだ。新馬理緒。彼女は浦澤さんの事件のあったときこう言ったらしい。


―――ドアが開いた音がした気がした


鷹梨の言う新馬さんの話では、ドアが開いたと。
・・・ドアが開いた

なぜかそれが頭に引っかかってなかなか取れない。
なんだろう、なぜか気になる。
本当にドアは風で開いたのだろうか。
だって、外は吹雪のピークを過ぎて緩やかな風に変わってきている。
だとしたらそんなに強い風が吹くとは考えられない。
それなのにこの寒冷地用の分厚いドア簡単に動くだろうか。
じゃあ何なんだ。誰かがドアを動かしたのか。
でもそれはないだろう。

新馬さんの言った時間帯とは、皆で浦澤さんの部屋に移動して遺体を発見した時だ。勿論全員が部屋にいたことだろう。
それは鷹梨も証言している。
では、誰がドアを開閉することができるだろうか。誰もできない。
じゃあその時聞いた、ドアの開く音は何だったのだろうか。
ドアの開く音ではなく、他の何かだったのか。あるいは犯人が仕掛けたトリックの何か残骸なのか。
じゃあ犯人はどんなトリックを使ったのか。
人間が行った犯罪である以上、なにか原因があるはずだ。何かしらのトリックが使われたに違いない。
では、それはなんなのか?

分からない。
思考が拡散し始めている。
可能性を考え始めれば、とたんに思考の濃度は小さく、薄くなっていく。
だめだそれでは。
もっと焦点を絞るんだ。
そう、何について考えるか、それを考えるんだ。
いつかあの教授にも言われたろ。


―――研究で何が一番難しいと思う?

―――実験ですか?

―――違う

―――では論文を作成することですか?

―――違う

―――では何ですか

―――『問題を見つけること』だ

―――問題を?

―――そうだ、研究でだな、もっも難しいのは『まず何が問題なのか』を知ることだ

―――はぁ・・・

―――それが分かれば問題の半分は解決したことになる。ガッハッハ!


あの毒にも薬にもならない教授に教えてもらった、数少ない格言だ。問題は、まず何が問題なのかを知ること。
それさえ分かれば、あとは坂道を惰性で下るがごとく、簡単に解決できる。
そうだ。まずは、何について考えるかだ。


そう、何について
何に
何に
何に


深遠なる、全く光という光が存在しない闇の中で、砂浜に混じったたった一粒の砂を探すがごとく
それは途方もなく無限に続く無意味な、そして無慈悲な行動に思えた。
一握の砂を眼前に持ってきて、一粒一粒吟味し、そして違うとわかれば、また次の一握の砂を探し始める。
それの繰り返し。
延々とした繰り返し。可能性を可能な限り列挙していき、そしてそれを一つ一つ潰していく。
ふと気がつけば気が狂いそうな、そんな長い果て無き時間。
そんな時間が少しずつ積み重なっていく。


脳内で問題の深化と統合と補充が行われていた、そうちょうどのその時だった。



*   *   *




―――ぐぁぁぁ!


動物の遠吠えのような声だった。
すぐに僕は身を起こした。そこで初めて自分が寝ていたことに気付いた。目ボケ眼でまだぼやける視界を正しながら、辺りを見渡す。
誰かの悲鳴だ。すぐにそれは分かった。
まわりを確認する
真っ暗だ。何も見えない。暖炉の炎すら消えている。
今の声は何だ。
なんだ今の声は、そして誰の声だ。

声の発生源は2階だ。おぼつかない足取りで階段を登りきる。そこにはまだ誰もいない。しかしさっきの僕と同じように今の悲鳴を聞いて、ほかのメンバーは混乱しているようだ。

「何今の声!?」

「なになに?」

「ちょっとどうなってんの!」



―――――――――――――――――――――――――
  貴  |  鶴  |     |  鷹  |  新  |  猪  |    |
      |      |  霧  |      |      |  井  |    |
  中  |  井  |     |  梨  |  馬  |  田  |    |
      |      |     |      |      |      |    |
――――――――――――――――――――――――――||
                                  ||
              廊下                 ||
                                    || 
―――――――――――――――     ――――――― || 
  浦  |  不  |  田  |  知  |  階  |  真  |    |
      |  二  |      |      |      |      |    |
  澤  |  見  |  子  |  尻  |      |  壁  |    |
      |      |      |      |  段  |     |    |
―――――――――――――――――――――――――     


2階の廊下の左右の部屋からは罵声とも取れる声がひっきりなしに飛んでくる。
ふと気づいた。階段を登って右側、階段の反対側の部屋のドアだけが半開きになっている。
そしてその部屋からは、何ひとつ声が漏れてこない。
まさか・・・
ドアを張り倒すように押しのけ、部屋に入っていく。
猪井田姫世さんの部屋だ。失礼を承知で中に突入する。


そこで愕然とした。
部屋の真ん中で蹲って横たわっている1人の女性。紛れもなく猪井田姫世だ。そしてその周りには、彩り鮮やかな血液が大きなシミを作っていた。
こうやって見ている間も、そのシミはどんどん大きくなっていく。


後から部屋に入ってくる彼女たちもそれに気付いた。
僕は急いで猪井田さんを抱きかかえる。
彼女の顔色は見て分かるように青ざめていた。
どてっぱらの少し上の部分にはサバイバルナイフが深々と食い込んでいた。
見る見るうちに赤く生暖かい液体は流れ出している。
床のカーペットに流れている血液がおよそ8リットル、衣服や今現在流れている血液をざっと見積もっても2~3リットル。
猪井田さんは普通の一般女性に比べて多少大柄な体格だ。しかし体重は50kgがせいぜいだろう。
人間はその体重の3分の1の血液を失うと絶命に至るという。
現在流れている血液量は11~12リットル。ほぼ絶望的だ。今出血が止まったとしても、輸血道具も施設もない。
完全に死んでしまう。
今、僕が手で抱えているこの猪井田姫世と言う女性は遅かれ早かれ死んでしまう。
どうすれば良いんだ。死んでほしくはない。でも僕にどうすれば・・・


「猪井田さん!!」

貴中怜だった。
貴中が猪井田にとびか突こうとしている。

「やめろ!」

一喝でその行動をキャンセルさせる。貴中はその言葉で動きを止める。

「見て分からないのか。失血多量で重体状態なんだ。簡単に触ろうとするな!」

しかしそう言った自分でさえ、ここからどうしたら良いのかわからない。このまま放っておいて傷が塞がるわけでも、状態が回復するわけでもない。
ただ死ぬのが早くなるか遅くなるのか違いでしかなかった。

悔しかった。いやそれ以上に歯がゆかった。
目のまで死のうとしている人がいるのに、じゃあ自分に何ができるか・・・
何もできない。ただただ衰弱していくのを見届けるしかない。

無力感でいっぱいだ。僕は今までミステリというミステリ、推理小説という推理小説を読破してきたつもりだ。
それで主人公や名探偵を自分と重ね合わせてきた。幾ばくかの優越感もあった。そして根拠のない「事件が起こっても大丈夫だ」と言う自信もあった。
だがどうだ。実際には学的知識もない、冷静さもない、こう切羽詰った場面で何一つできやしない。
僕は今まで何をしてきたんだ。


そう自己嫌悪のに浸っていた時だった。
腕の中の猪井田姫世が口をパクパクし始めた。

「・・・・・・」

何かを喋べろうとしている。
耳を猪井田の口に近づけて耳を潜める


―――あお

確かにそう口にした。

「アオ?」

最初、それが何を意味しているのか分からなかった。
色の「青」なのか、それとも何かの頭文字なのか、はたまた長文の最初の言葉なのか。
もう一度耳を欹てる。

「・・・あお・・・」

確かにそういった。聞き間違いではない。
これは死に行く人が最後の力を振り絞って犯人の名を残そうとするダイイング・メッセージだ。
だとしたら「青」にはどんな意味が・・・?
と訝しんでいるときだった。


猪井田は、僕の顔を見て、顔を横に振りだした。
なんだ。何があったのか。
そう思っていると、

「・・・・・・あお」

やはり同じ「青」と言う単語しか出てこない。
しかし口から血を流し、目の焦点の合ってない、その蒼白とした口から発せられる言葉ははやり、


「・・・・・・あお」

と同じ言葉だけだった。
そして同じように首を横に振り続けるだけだった。
なにかを拒絶、あるいは拒否しているようだった。

しかし、猪井田も力尽きたのか首がぐったりと下がってしまった。
今までかすかに保っていた呼吸も、そして脈も無くなっていた。
身体を揺すってみても反応はない。瞼を無理やり開いて瞳孔を確認したが開いたままだった。


死んだ。
人ひとりが目のまえで殺された。
猪井田姫世が殺されてしまった




*   *   *



猪井田姫世は毛布で包まれていた

玄関のすぐそばに置かれていた。

そしてロビーには、僕と劇団「トワイライト」のメンバー全員が扱っていた。
それでも誰一人言葉を発そうとは思わなかった。ただただ沈黙だけだった。

「なんで、姫世は殺されなくちゃいけなかったん・・・」

真壁さんだった。真壁冬香。劇団「トワイライト」の年長者であり創始者のひとり。殺された猪井田とは旧知の中で、親友でもあった。
その猪井田さんを殺されたのだ。見るからに温厚そうな真壁さんもただではないだろう。
それに対して不二見美里が立ち上がる。

「先に言っておきますが、私ではないですよ」

その言葉で火に油を注がれたのか、真壁も烈火のごとく感情が高ぶった

「じゃあ誰だていうの!!」

鼓膜の奥まで響き渡る声だった。

「この山荘には私たち以外誰もいないんでしょ。だったらこの中の誰かってことじゃん!」

確かにそうだ。この山荘に秘密の抜け穴はない。山荘に電気や水道が通っているということは、その公共料金を払っている人間がいるということだ。
謎の侵入者がいるというよりは、計画的にこの山荘に潜り込んだ、と表現したほうが良いだろう。
そんな人間がこの山荘にいる。僕は椅子から立ち上がらず、みんなの一挙手一投足を見守った。

「それより猪井田さんが最後に言った『アオ』ってなんなんでしょうか」

新馬だった。

「『アオ』はやっぱり『青』のことなんじゃない」

「でも『青』ってなに。『青』なんてつく人いないよ」

まわりを見回す
今この場に残っているのは

・真壁冬香
・不二見美里
・知尻マリア
・霧綾美
・貴中怜
・新馬理緒
・鷹梨愛
そして自分の鷹見秋志郎だ。
確かに名前に『青』がつく人はいない。

猪井田姫世は死ぬ間際、犯人となる手がかりを残した。それが『青』と言う言葉だった。
それは犯人を指し示す言葉であるはずだ。しかし肝心の『青』に該当する人間が誰一人いないのだ。
名前、もしくは目につく青いものを身に着けている人がそれに該当するのであろうが・・・。
そもそもそんな人間がいない。

じゃあ一体『青』は何を意味するのか。
その『青』の意味する人物とはいったい誰なのか。
その真意を確かめようにも、当人はこの世にはいない。
確かめようがない。




*   *   *


息がつまるような空間だった。
隠し持っていたサバイバルナイフを両手で握り、渾身の力で彼女の胸を抉った。
その肉を裂くが今も手に感触が残る。
顔には出さないが、今回の犯行がうまくいってよかった。正直、ギリギリの綱渡りだった。
犯行を誰かに見られれば全てが終わっていた。私の姿を見たそいつも殺さなくてはいけなかった。それは時間もないし、なによりまた別の目撃者を生みかねない。
だからこれだけは誰かに見られる、即ち失敗になっていた。
だから今回の犯行が誰にも見られずにことを終えることが出来たのは、ある意味奇跡だ。神に感謝しなくてはいけない。

荒ぶる呼吸を沈め、じっとりとかいた汗を拭う。
ただそれだけの動作で神経を使う。
猪井田姫世が残した最後の言葉。あれは死に行くものが最期に残す言葉、ダイイングメッセージというものだろう。それ即ち、『私』を指し示す言葉だ。
「アオ」と呟いていたあの言葉は「お前が犯人だ」と言っている。
でも大丈夫だ。
だれもそのことに気づかない。
誰も「アオ」が私だとは気づくまい。
ただ、不安が残る。
彼だ。あの「鷹見秋志郎」とか言う青年だ。劇団のメンバーはことミステリと言うものには疎い。強いて言えば猪井田姫世か。ただ彼女は今死に絶えた。
だからメンバーからダイイングメッセージで私に行き着く人間はいないだろう。
でもあの青年は未知数だ。
飄々として軽薄な青年に見えるが、どうやら鷹梨と一緒に今回の事件について探っているようだ。
どこまで探りを入れたのかは、残念ながら分からない。でも危険因子には違いない。
できれば消してしまいたい。でも彼の消去は計画にはない。計画にはないことを強行して綻びが出てもらっても困る。
しょうがない、今回は静観するとしよう。

ゆっくりと頭の中のハードディスクに蓄えられた作品の余韻に浸る。
何を読み返そう。
やはり『黒川影夫』の「残された遺産」だろう。
猪井田姫世が残したダイイングメッセージが、残されたメンバーへの遺産に等しいからな。



『残された遺産』


一代で巨万の富を得た大富豪家がいた。
戦後から鉄や医薬品、鉄道、航空、鉱山、不動産と幅広く手がけてその全てを成功させた男。
五代あっても使い切れない莫大な財産を残して、彼は病魔に蝕まれこの世を去った。
社会を震撼させたのはこの後である。
その男の残された数え切れない遺産は、何のつながりもない5人の人間に渡ることとなった。もとより身寄りのなかった男は、その遺産の全てを全く関係のないランダムに選出された5人に配るように遺言書で残した。
遺産を配るのは死後一週間後。しかしその遺産は5人に均等に配るのではなく、誰か一人に全額を譲ることとする、と書いてあった。
その全額配られる一人は誰かは分からない。でも、その配られるはずだった人間が死去した場合、残った人間の誰かに遺産相続権が渡るものだった。もしその渡った人間も死去したら、また別の人物に。という具合だった。
5人の壮絶な欲望剥き出しの争いが始まる。
互いに、まず遺産受理候補者は誰なのかから調べ始め、ライバルとなる候補者の素性から何から調べて、互が互いに殺人を計画する。
罠に嵌め嵌められ、血みどろの遺産相続の争いをする。
もともと縁もゆかりもない人間なのだから、遺産とは無縁の人間だったはずである。遺産が入らなかったからといって損をするわけでもない。
しかし一度美味しい話を聞いたあと、お預けを喰らえば人間誰しも欲が出る。その人間の底なしの欲望を描いた作品だった。
最後は確か、最後の最後まで生き残ったものがいなく、そして遺産自体も実は架空のものだった。そんな話だった。
人間の欲望とその虚しさを描いた作品だった。


なんとも嫌味めいた作品名だ。
遺産。
死に行くものが、残されたものに残す最期の品。それが遺産。
なぜだろう。ここまでくると、寒気がしてくる。黒川影夫の書いた作品が、全て今回の事件にシンクロしてくる。


あぁ、やはり面白い。傑作だ。
いつ読み返してもやはり『黒川影夫』の作品は秀逸だ。



最初は『猛き月』。満月のよるにこの山荘にやってきた。あのまん丸に照らされた月夜からこの凄惨な事件は起こった。
次が『地獄の死神』。それはまるで死神のごとく、私たち劇団員を襲い始めた。姿もなく、まるで煙のように現れて、最初の被害者の鶴井舞を殺害した。
その次が『哀しい追放者』。そう鶴井の次の犠牲者になったのが、追放者と名付けられた田子藍那。その追放者を裁くかのように毒を盛られて殺害された。
そして『不可侵な聖域』。浦澤が殺された。彼女が殺された時、私たち全員がキッチンにいた。そのキッチンから一歩でも出た人間は誰ひとりいない。誰ひとり出た人間がいないのに、浦澤は無残な首吊り死体となって発見された。
まさしく、メンバーがいたキッチンは聖域であったし、そこから誰も出ていないということは、彼女たちが互いに証人となっている。
今回の『残された遺産』。これで殺害されたのは、リーダーの猪井田姫世。真夜中に起こった刺殺事件。お腹を深々と抉るサバイバルナイフ。ほかの事件と異なり、皆が人が生きている状態から、
死ぬ瞬間を垣間見ることができた。その瞬間に残された「アオ」と言うダイイングメッセージ。これは猪井田さんからの生きている人間に対しての最期のメッセージ、そう最期の遺産なのだ。



クックッと喉を鳴らす。
はっと気がつく。私は何をしているのだ。危ない危ない。誰かに聞かれたらどうするのだ。
でも安心しろ私。誰も聞く人間なんていないじゃないか。こんなところで精神をすり減らしてもしょうがない。私はまだ最後の仕事が残っているんだ。それまではなんとか精神の集中と高揚を保たなくては。
そう、最後の仕事まで・・・。


*   *   *



*   *   *




猪井田さんを毛布で包んだ。もはらピクリとも動かなくなってしまった猪井田さん。
正直、この猪井田さんにそこまでの思い入れはない。たまたま遭難した山荘で出会った、ただそれだけの関係だった。
しかしながら、連続して起こった殺人事件の解決役として登場してしまった以上、猪井田さんの死はそれだけの関係以上のダメージを僕に与えてきた。
少なからずプライドが傷ついた。
ミステリ好きで多少なりとも謎解きの心得を持っている人間としては、目の前で人ひとり殺されるというのは、何とも言い難い忸怩たる感情が存在した。

猪井田さんの亡骸に縋り付いて、それも大泣きするのではなくて必死でその感情を押し殺した鷹梨の姿は、非常に心を貫いた。
探偵役の自分に罵声を浴びせるわけでなく、かと言って励ましの言葉を掛けるわけでもなくて、ただただ咽び泣く彼女の後姿を見せつけられた。
それだけで十分だった。
心臓に漬物石が何十個も乗せられたようだった。

「猪井田さん、運ぼっか?」

知尻さんだった。蚊の鳴くような何とか聞き取れる言葉だった。しかし他に彼女の言葉を遮るものが無かったため、いつも以上によく聞こえた。
他の皆は黙って頷いた。
鷹梨と綾さんとそして貴中さんの3人で猪井田さんを抱え込んで、山荘の玄関をゆっくりと出た。僕もそれについていく。
山荘の玄関を開ければ、そこは闇が支配する世界。降り積もる雪の白の何倍もの濃密な黒の闇が詰まっていた。
吹雪も流石に鳴りを潜めたようだった。それでも真夜中の雪ではやり捜索隊は出動できないだろう。
そんなことを考えていると、鷹梨たちは玄関のすぐそばのプレハブ小屋に近づいていた。
表面が無機質なプラスチックで覆われて、所々錆が浮いている。天井からは大きな氷柱が垂れ下がっていた。
先頭の鷹梨がプレハブ小屋のドアを開ける。中には同じように毛布で包まれた塊が3つ置いてあった。
前の犠牲者だ。言われなくてもそう感じた。
ええと、確か、鶴井舞、田子藍那、浦澤瞳、だったはず。顔は見えないがそれぞれ既にこと切れていることは分かった。
きれいに並べられた3つの遺体の横に、猪井田さんを横たえる。
プレハブ小屋の中を見回す。
山荘の中とは違って、この中は非常に質素で閑散としている。天井には裸電球ひとつ。
床だって、雪かき用のシャベルやスコップ、ビニールシートや麻縄、非常用のストーブ、そしてその燃料などが乱雑に置かれていた。
特に何の変哲もない普通の物置小屋だった。

僕は毛布に包まれた4つの遺体に焦点を当てた。もしこれが生きていたとしたら。そう考えずにはいられなかった。
今回の一連の連続殺人事件、それは全て演劇集団の茶番だったということになる。もちろん、鷹梨がそんなことをするとは考えずらかったが、鷹梨だけが知らされていなくて、唯単のドッキリ大作戦という可能性もないわけではない。
もちろん、悪趣味この上ないが、まぁ可能性の話ならあり得ない話ではない。
・・・確かめてみるか。

徐に毛布に近づき、それをはぎ取る。
背後にいる鷹梨たちはきっと大仰な顔で驚いていることだろう。そんなことは関係ない。毛布をはぎ取ったらそこには小柄な少女が横たわっていた。
白く陶器のように透き通った肌をしていた。体は小柄で非常に華奢。衣服を着ていてもそれは感じ取れた。しかし一番目を引いたのは、額の銃創だった。
日本人形のようなきれいに整った物静かな表情、その額にはにつかわない、どす黒い穴。直径1cm程度の穴。噴出したときには色鮮やかな鮮血だったのであろう、しかし今は酸化して暗褐色を帯びている。
それだけでも凶行から幾分の時間が経過してることを表している。

もう一目瞭然だ。これでは完全に亡くなっている。大学では医学部の友人に頼み込んで人体解剖実習に潜り込ませてもらったことがある。
教授にばれたら大目玉をくらう、下手したら大学にもいられなくなると言われた。それををなんとか頼み伏せて人体解剖風景を見せてもらった。
医学的知識のない僕でもわかった。死んでしまった人間と言うものを。遺体はタンパク質の塊というよりも、人形に近い。唐松人形やフランス人形のようだ。
人間の形に限りなく近いが、しかし絶対に人間たり得ない。そんな印象を受けた。そして現在、目の前にした遺体を見ても同じ感想を受ける。
実感した。
これは完全に遺体、死んだ体だ。
と言うことは、ここで起きた騒動は正真正銘、連続殺人事件だ。
マジか・・・・・・


そこで背後から出が伸びてきた。鷹梨だった。鷹梨の手が僕の手から毛布をひったくり元の位置に戻した。

「鷹見君、何してるの一体!」


振り返れば、半分怒りの色を帯びた鷹梨の目があった。
僕は、悪いと呟いて、プレハブ小屋を後にした。
小屋の外の雪は緩やかながら、未だに止むことを知らなかった。
漆黒の闇からは無尽蔵に雪が排出されている。
あぁ、さっさと止んでくれよ。心の中で呟く。そのまま視点をもう一度プレハブ小屋に移す。
拝見させてもらったが、なにも進展は無かったな。分かったことといえば、やはり今回の事件は本物の連続殺人事件だったってことだ。
解決の糸口が見つかった事件ほどワクワし心躍るものはない。しかしさっぱり分からない事件、暗中模索の事件ほどはやく終わってほしいと思うこともない。
さっさと終わってほしい。逃げ出したい。そう思わずにはいられない。


そう、その時だった。
ふと、なにやら違和感に駆られた。
しかし、目の前にあるのはさきほどのプレハブ小屋だ。
見たところ、特に変な個所は見当たらない。
無機質な外壁に、大小さまざまな氷柱。その中には毛布で包まれた4つの遺体。そして様々な雑具。
はて、自分でも不思議だ。これらの何に違和感を覚えたのだろう。
一つ一つ頭の中で思考を巡らせる。
なんだ、なんだ、なんだ・・・

「鷹見くん、どうしたの?」

背後からの鷹梨の声だった。
しかし正直、今は鷹梨の声が少々うっとうしかった。こっちは違和感の正体を暴くのにいっぱいいっぱいなんだ。話しかけるな
なんだ。この違和感の正体はなんだ。俺は何に心を動かされているんだ。

落ち着け。
落ち着け。
なんだ。
一体なんなんだ。

「ねぇ、鷹見くん」

肩をたたかれた。
そう、その時だった。


背筋に寒気が走った。寒気なんてものじゃなかった。
背骨に液体窒素を流し込まれた感覚だった。背筋から全身に悪寒が伝播し、そして占領した。

そうだ・・・・・・

違和感の正体がわかったぞ。
「これ」だ。
「これ」が違和感の正体だ。
なぜあれが・・・


そこまで考えたとき、全身が揺れる。
鷹梨だ。鷹梨が心配そうな顔でこちらを見ていた。右手をしっかりと握っていた。


「ねぇ、鷹見君。本当にどうしたの? 大丈夫?」

その本当に不安そうな表情を見て、あぁ、とだけ頷く。とりあえずその場はそれで終わることにした。
一緒に並んで山荘の中に帰っていく間、僕は次の思考を巡らせていた。




*  *  *


山荘は完全に沈黙しきっていた。
無理もない。僕は正直そう思った。
自分たちの身近な人間が一人、また一人死んでいく。それも単純な事故でなく、明らかに人の手によるももの。
そうそれらが殺人なのだ。
逃げも隠れもできない閉ざされた山荘の中で、誰かが殺されていくのをただじっと見るしかない。
次は自分かもしれない。今回は殺されなかったが、次は自分かもしれない。
そんな戦々恐々とした時間を過ごしているからだろう。
例え他人の死には慣れたとしても、自身の命の危機に関してはそう簡単に慣れる事はできないだろう。
そして何より、その犯人が私たちの中にいる。それが精神的圧迫のさらなる要因になっていることは確実だろう。
もはや、メンバーの皆さんは自分の部屋に潜り込んで、そして鍵を掛けて一歩も外に出てこないつもりだろう。
少しでも、そう少しでも自分の身を自分で守る、そんな防衛本能が彼女たちをそうさせているのだろう。

目の前の鷹梨愛以外は・・・



自分がいる場所は一階のロビィだ。
先程まで消えていた暖炉の炎を点け直し、再び大きなソファに腰掛ける。その相向かいに鷹梨はいた。
何をするわけでもなく、持ってきた単行本を手に、ずと視線を落としている。
寝ているのか、あるいは本を開いているだけで、先輩の死で意識が遠くに行っているのかと思えばそうでもなく、定期的にページを捲っているので案外普通なのだろう。
もしかしたら、自分の部屋にこもっているいる皆も、部屋の中ではこんな普通なのかもしれない。
精神的に参っているのではなくって、それを通り越して、もはや『普通』の状態になっているのかもしれない。
一種の防衛反応かもしれない。己の精神的ショックを和らげるために、脳が無意識に今までに起こった出来事を意識の外に外に追い出しているのかもしれない。
そうやって何とか自己の精神の崩壊を防いでいる、そうとも考えられる。

まぁ、そんな推理は無用だ。なぜならそれを考えたところで、何ひとつ解決策は生まれない。有益ではない。ただ事件の解決に関係無いことで脳の容量を無駄遣いしてしまうだけだ。
まずは事件について考えるんだ。そう、もう一度頭から。


最初の事件は、密室で行われた事件だ。密室、それ即ち外部から開け閉めすることができない、閉ざされた空間のこと。
密室内で被害者がいた。その被害者は拳銃で額を一撃で打ち抜かれていた。出入り口は二つ。すぐ山荘のそとに出れる窓と、廊下に出れるドア。
窓はしっかり鍵が掛かっていた。ドアも二重の鍵が、それは閂と錠と二つの鍵が施されていた。
窓にしろ、廊下にしろ、一回外部に出てから鍵を締めるというのは言うほど生易しいものではない。雪を使ったら跡が残るし、磁石を使えばできないし、新馬さんの言った拳銃を磁石で扱うにしても問題は残る。
犯人はどうやって鍵を締めたのか。

二つ目の事件。田子藍那さんの事件。田子さんは犯行告発文を受けていた。その告発文を親友の霧綾美さんに相談していた。
そしてその後の夕食で、田子さんだけが毒でこの世を去った。
どこに誰が座るか、それは誰にも予測はできなかった。犯人は犯行予告分を出した田子さんだけを何か神業を用いて、ピンポイントで毒を盛り殺害することに成功した。
では犯人はどうやって、どこに座るかもわからない田子さんを一人だけ殺害することができたのか。

三つ目は浦澤さんの事件だ。鶴井さん、田子さんと殺害しメンバー内では疑心暗鬼が続いている。この山荘内にいる誰かが犯人である、しかしその誰が犯人かは分からない。
次は自分が狙われるのかもしれない、そんな不安と恐怖を感じている時に一人の人物、浦澤瞳はこう言いだした。「犯人がわかった」と。そして浦澤さんは二階に上がって行き。他の全てのメンバーはキッチンで待機していた。
その間、キッチンを離れた人物はただの一人もいなかった。トイレに行き、ほんの数分姿を消したということも全くないそうだ。しかしその20分後には二階の自室で浦澤さんは首を吊った状態で発見された。
犯人はどうやってキッチンにいながら、二階の浦澤さんを殺害することができたのか。

そして最後の事件。これは猪井田さんの事件だ。
これは自分がこの場に居合わせたから全ての状況が把握できる。今回の事件について考えていた自分は、いつの間にか寝ていた。そして気がつくと目の前の明かりが消えていた。そして、二階から悲鳴が聞こえた。
二階に駆けつけてみれば、猪井田姫世さんが胸を刺されていた。状況は最悪。ここで医学に精通している人、そして手術室があれば助けることができたのかもしれないが、自分は何もすることができなかった。
そこで猪井田さんは死ぬ間際に「アオ」と残して息を引き取った。猪井田さんは確実に犯人の顔を見ている。この「アオ」とは即ち犯人のことにほかならない。でもそもそも「アオ」とは誰を指すのか。


これが今、自分の前に提示されている謎の全貌である。
そして先ほど、山荘の玄関の外のプレハブ小屋を見た。鶴井さん、田子さん、浦澤さん、加えて猪井田さんが収容されているプレハブ小屋だ。この小屋を見て何か閃いた。
しかし閃は壊れ物だ。優しく扱わないとたちまち壊れてしまう。閃いたからといって、急に突き詰めて言ってもすぐに壊れて無に帰ってしまう。それではダメだ。
まずは周りからゆっくり固めていくしかない。
ゆっくり固めて言って、少しずつ手で包み込んでいくしかない。


ゆっくり、ゆっくりと・・・・・・・。


*   *   *


*   *   *


ふと視線を目の前の鷹梨に戻す。
彼女は依然として単行本に視線を落としていた。
周りを確認する。当然だが誰もいない。このロビィにいるのは自分と鷹梨だけである。若い男と女が同じ空間にいる。鷹梨のお仲間はといえば二階の自分の部屋にこもっている。部屋のドアは分厚くちょっとした声なら届かない。
もし大声を出したとしても、口を塞がれたらその悲鳴は仲間のもとに届かない。
それを彼女は知っているのだろうか。
もし自分が殺人犯で、次にお前、鷹梨愛を殺害しようとしたとき、お前が泣き叫んでも仲間が来ない可能性があるんだぞ。殺人犯の自分が捕まっても良いと思ってた場合、いくら助けを呼んでも殺されてからでは何の意味もないんだぞ。
それを分かっているのか。


自分は甚だ疑問になる。

自分は連続殺人の途中に来たから、絶対犯人ではないと思っているのか。
もしそうだとしても、まだ完全なる理性の、溢れ出す性欲を抑えきれる理性を持ち合わせていない人間かもしれないんだぞ、自分は。
分かってるのか。鷹梨愛。
それなのに、鷹梨お前は何の警戒の体制も出さずに悠々と本を読んでいる。
本気か。
もしかしたらお前が犯人なのか。
お前がこの連続殺人事件の犯人なのか。
自分が連続殺人犯だから、これから事件は起こらないと、もし何かあれば隠し持った武器で応戦すると、そう思っているのか。
君の右ポケットには、サバイバルナイフが隠されているのか。自分が油断した隙に、そのナイフで自分の喉元を掻っ切る気か。あぁ、本気でそう思えてくる。

自分自身も疑心暗鬼になってきている。
なんとかしなくては。時間とともに自分の平常な精神も蝕まれていく。これは時間との戦いだ。なんとかこの柔らかい理論を確固たるものにしなくては。


そんな時だ。ふと、彼女の手元の本に目がいった。


「『漆黒の牢獄』かい」

「へ?」

「いや、今読んでいる本だよ」

「あぁ、うん。そう。この山荘に来てから何と無くて取ってみて、気がつけば結構読んじゃった。気がつけばこの本が最後なんだ」

「どこまで読んだ?」

「んと、後藤田って大学生が建物から消えたところ」

「そうか・・・」

そう言うと再び鷹梨は小説に視線を落とす。瞬きするのも億劫なくらい作品の世界観にはまっているようだった。
ふと思い返す。
自分がこの作品、『黒川影夫』の『漆黒の牢獄』を初めて読んだ時のことを。

舞台は、九州地方の山奥。大学のサークル仲間が半ば肝試しの合宿と称し、山奥の洋館へと趣いた。
遥か昔、明治の頃に建てられた洋館はしかし、その持ち主を失い、現在の空家同然の建物となってしまった。交通の便も悪く不況のこのご時勢、特に買手がつくわけでもなくただ放置されていただけだった。
それに目をつけた某私立大学のミステリ小説サークルの面々が、この洋館でキャンプをすると言出した。
皆一様に肯定の返事をし、バスでこの山荘にやってきた。
山奥にあり、バスも要望客がいれば運行する程度のさびれたものが一本運行しているだけ。そんな陸の孤島とも言える環境が彼らを奮い立たせた。
男子4人女子4人、合計8人が洋館に到着した。
当然、ガスも水道も電気もないところで、メンバーの一人が言い始めた。
「事件を起こそう」
洋館に行き当たりバッタリ来たは良いものの、やることがない青年が言い放ったものだった。
他の7人もその言葉にのり、『殺人ゲーム』を開始するのだった。
くじを作る。そのくじには1つの当たりと7つのはずれが記されているシンプルなものだった。
当たりを引いた人間は犯人役、はずれを引いた人間は被害者役、あるいは自分からかって出て探偵役になっても良い。
なお、くじの内容はほかの人には一切見せないよにする。
犯人役になった人はその場で即座にトリックを考え、数人を殺す。まぁ、殺すといっても殺す真似だけして自分は何食わぬ顔でみんなと合流する。と言ったものだ。
残された人は、手がかりを集めて誰が犯人役かを探す、そんなゲームを開催することとなった。
そう、ただの余興だ。再び帰りのバスが来る3日後までこのゲームで盛り上がろうという話だった。
『殺人ゲーム』は滞りなく行われる、はずだった。

しかし自体は急降下する。
一人目の被害者の後藤田と言う大学院生がいなくなる。
当初、犯人役の指示で当分姿を消していると思われていた。
しかしいくら時間が経っても後藤田が姿を表せる気配がない。
次に姿を消すのが、確か小野寺と言う女子学生だ。この女子学生も広い洋館の中を歩いていて、急に姿をくらました。
そして極めつけが三人目の橘だ。こいつは女ったらしで借金を重ねて他のメンバーからも避けられていた人間だ。こいつも姿を消していよいよ風向きは変わってきた。
今まで姿を消した被害者たちが一向に出てこないからだ。
これはあくまでゲームであって、本当にいつまでも姿を表さないのは不思議であった。
そこである一人が言い出す。「もしかしたら本当に殺されてるんじゃないですか」と。
そこから徐々に怯え出すメンバーたち。口では「まさか」と呟いているが、しかし一向に姿を見せない仲間たち。
帰ろうにもバスはまだ来ない。逃げ出すことができない。
まさに牢獄。光の差し込まない闇夜に佇む洋館はまさに『漆黒の牢獄』そのもの。
不安と憔悴、そして恐怖と絶望、それらが溢れていく。
人間の心がどんどん蝕まれていく、そんな情景が描かれている作品だった。

鷹梨がその世界観に惹きつけられているその、そんなリアルな心理描写があるからだろう。
ふと前のことを思い出した。この作品を友人に貸したことがある。
その友人がこんなことを言った。「人間が追い詰められていく心理描写がリアルだね」と。
自分はそんなことを思ったことは一度もなかった。いや、これは何も作品を貶しているわけではない。『漆黒の牢獄』は作品としての完成度も高いし、なにより人を惹きつける魔力を持っている。
自分が言いたいのは「リアル」と言う言葉を使うことに疑問を感じたんだった。
リアル、つまりは現実的と言う意味で、さらにこの友人は正確な、という意味で用いたんだろう。
自分にはそれがはなはだ疑問だった。

「現実的な」「正確な」
本当にそうなんだろうか。その友人はそういった表現を用いたが、彼は一体何を根拠に「現実的」「正確」と述べたのであろうか。
言わば「比較」の問題だ。作品が現実的・正確というからには比較の対象が必ず必要だ。何と比べて現実的なのか、何と比較して正確なのか。
恐らくではあるが友人は、己の中の「現実」と比較したんだろう。自分が考えている「現実」と比べてより現実的、己の中の「現実」と比較してより正確に描写されていると。
ではその友人の頭の中にある「現実」は、比較の対象となっている「現実」そのものは、果たして本当に現実なのだろうか。
そう考えたことがある。
友人は『暗闇の洋館の中で知り合いが一人また一人と消えていく状況』を体験したことがあるのか。甚だ疑問だった。
でなくてはあの作品を、リアル・リアルでないと評価することはできない。自分が過去に同じような体験を、死の淵に立たされた体験をしない限り、現実的なのか、正確なのか評価できないはずだ。
それにも関わらず彼は、二言目には「リアルだ」と口走る。正直毒づいた。
この世界はそんな「想像的な現実」で溢れている。
我々が持っているのは、「本当の現実」ではなく「想像的現実」、もっと簡単に言えば頭の中で「おそらく現実はこうであろう」と想像している現実に過ぎない。
そして我々はその、おそらく現実はこうであろうと想像している現実と、視覚あるいは聴覚など外部から得た事実真実を比べて「リアルだ」「非現実的だ」と比べているに過ぎない。
オレンジ味なくせに無果汁の炭酸飲料、
輪郭骨格すら似てないのに、そっくりと評される似顔絵
全てそうだ。
我々人間は現実なんか見ていない。見ているのは頭の中の、恐らくこうであろうと想像している現実に過ぎない。

自分が死と隣り合わせで、そして身近な人間が次々と姿を消していく。犯人はその身近な人間しかありえない。次は誰が狙われるか。次はもしかしたら自分が狙われるかもしれない。
そんな恐怖と対峙しなくてはいけない。
そう、目の前の鷹梨やその他のメンバーの皆さんのように、極限の恐怖を体験した者にのみ、「リアルだ」と言う表現を用いる資格があると思っている。

鷹梨が本から顔を上げる。
ぼんやり考え事をしていた自分と視線が交わる。
彼女のその澄んだ瞳が見えた。



「なぁ・・・」

思わず話しかけた。
特に話すことも聞くこともなかった。でもつい声をかけた。
このまま黙っていれば、そのまま彼女の瞳に吸い込まれそうだったから。

「ん、なに?」

「・・・あぁ、えっと、なんで演劇なんて始めたんだ」

興味のない話だった。口から出た取り敢えずの場つなぎの話だった。

「演劇を始めた理由?」

「そう、なんでまた演劇の、それまた星の数ある劇団の中のこの劇団を選んだのかなって」

目の前の鷹梨は困ったように逡巡した。別にここでドラマチックな回答は期待していなかった。

「なんて言うか、『共感』しかたらかな・・・」

「共感・・・」

「そう共感、かな。なんて言うか他に良い言葉が思いつかないから、とりあえず共感ってことにしておいて」

「共感ね。これまたどういうことだ」

「私がね最初にこの劇団の公演を見たのが、中学校を卒業したときかな、あれ、もしかしたらついこの間かもしれない。いつ見たかは良く覚えていない。でも見たときの感覚は覚えている。すっごい自分と近い物語だった」

「鷹梨とものすごく近い話?」

「だって自分が異世界にタイムスリップできるんだよ」

「た、タイムスリップ?」

「うん、ここの劇団の公園って普通のところとはちょっと違うんだよ。私が最初に見たのは『ロミオとジュリエットと私』って言う題名だった」

「『私』が余計なんでは?」

「そう思った。でも違うの。ここの劇団の売りがそこだったの。ただ単に大昔の古典をただ垂れ流すんじゃない。それじゃ芸がないし、大手の劇団に負けてしまう。じゃあどうするか。
昔からある古典に現代風のアレンジを加えてみようってのがこの劇団の売りなんだ。そしてこの『ロミオとジュリエットと私』はそれまでのロミオとジュリエットの恋愛物語に現代からタイムスリップした女子高生とで三角関係を作るの。
互いに戦争関係の王子と妃に割って入ったのが当時とは全く異なった世界観や価値観を持った女子高生。ロミオは最初戸惑いながらもそのp女子高生に惹かれていき、最後にはドロドロの三角関係が出来上がる。そんな物語」

「そりゃまた斬新だね」

「でしょ。でも私が一番共感したのはそんな斬新な場所じゃない。もっと夢の見れる場所、私が小さい時に夢を見たおとぎ話に私自身が参加できているような錯覚に陥るところ、そこにとっても惹かれたの。
当時、私は社会が詰まんなかった。ただ毎日のように同じバスに乗って、同じ学校の同じ教室の同じ席に座って、そして同じ授業を聞く。そんなたいくつな日常に飽き飽きしてた」

「授業の内容は毎回同じではないはずでは?」

「話の内容の分からない人間にとっては、所詮同じことよ」

「納得」

「話を戻すね。誰だってそんな願望を持ってるもんじゃない。変身願望って言うの? 平凡な日常を過ごしている人間ほど、全く違った世界に憧れるって言うじゃない。私もそうだったな。
毎日毎日同じことの繰り返しの生活に、突然全く違った世界が転がってくる。それが夢や幻だと分かっていても願わずにはいられない。それらが絶対に来ないと分かっているはずなのに、でも熱病のように欲するの。
そんな時に女友達から誘われたの、知り合いの劇団を見に行かないかって」

「ふうん、それがこの『トワイライト』って訳か」

「そう。当時は特に演劇とかに大して興味がなかった。でも仲の良い友人が知り合いのつてでタダでチケットもらったから行こうって。それで時間つぶしに見に行った。
あの時は楽しかったな。だって初めて見るストーリーだったもん。だってほら、演劇って、シェイクスピアの『リア王』とか『ベニスの商人』だったりもう手垢のついた話ばっかりでしょう。でもここは違った。
確かにメインとなるストーリーは古典の香りがするけどでもいたるところに現代版の折着なるプロットが入ってくる。話し言葉も昔の言葉じゃなくって、今風の馴染みやすい言葉でさ。最初、睡魔が襲ってきたけど、開始10分で虜になってたよ。
私が現実世界で決して体験できなかったそんな夢現の世界を、眼の前数mで実演してくれるんだもん。私の代わりに非日常を演じてくれてるて思ったの。その時私思った。わたしはここに属するべきだって。
ここの所属していれば、もっと幻想的な世界の主役になれるって、今まで渇望して渇望してでもなれなかった世界の主人公になれるって。例えそれが劇団のお金儲けのために行われた公演であったとしても、なんでも良かった。
本のいっときでも現実では味わえないファンタジーの世界に浸れる時間を与えてくれる、そんな居場所を探してた。
だから親や学校の先生なんかどうでもよかった。私は私が行きたい場所に行きたかった。そ、だからここに居るの。鷹見くんはそう言う気持ちになったことないの?」

「・・・・・・さぁ、わかんないね」

その返答に彼女はそっかと返した。
彼女自身、自分の返答にあまり不満はなかったように思えた。
それから鷹梨は夢中で当時見た演劇の話を繰り広げた。
だって目の前の鷹梨の目がまるで清流の泉のように絶え間なく輝きを放っているからだ。
時には身振り手振りでその時の情景を表現してくるし、またときには相槌を強要してくる。
その時には適当に相槌をうつ。

「おかげで、最近は少しはなの知られた劇団になってきたんだよ」

「ふぅん・・・」

生返事を返したところで、ふと疑問が生じた。

「ちなみに、いまぐらいそこそこ有名になったのはいつごろからだい?」

「ん、えっと最初に話題になって雑誌とかに取り上げ合っれたのがだいたい4~5年くらいう前からかな。ただ最初はそれでも見向きもされなかったけど、マスコミで少しずつ取り上げられて、少しずつ人気が出てきたかな」

「4~5年前・・・」

少し引っかかった。
4~5年前というと、ちょうど『黒川影夫』氏が亡くなったあたりだ。関係ないとは思う。しかしここまで時間が起こっている以上、全くの無関係と思うわけにも行かない。すこし続けて質問してみる。

「その4~5年前っていうのは何かあったのか。それまでこう言ってはなんだが、この劇団は鳴かず飛ばずだったんだろ。この劇団が作られたのが、猪井田さんが大学卒業後直ぐというから、ええっと猪井田さんは何歳だったんだい?」

「確か28~30歳位のはずだけど」

「となると22歳で卒業とすると。劇団が旗揚げされたのがおよそ6~8年前か。そして雑誌等で取り上げられるまでに何かあったとかはないか?」

「何かって?」

「例えば有名な評論家に推薦をもらったとか」

「ううん、特にないと思うな。本当に雑誌とかで取り上げられてから、少しずつ人気が出始めたって感じ」

「その間、本当に劇団内で変わったとこは本当になかったかい?」

「え・・・・・・、あぁ、そう言えばマネージャーさんが来たのがその時期かな」

「マネージャー?」

「うん、ここにいないけど鷹見くんが着たとき言ったでしょ、最初この山荘に私たちが来たときバスを運転してきたのがそのマネージャーさん」

「そのマネージャーさんはどこにいる?」

「それも聞いてないの? マネージャーさんは皆をこの山荘に降ろしたあと、麓の村に助けを呼びに行くと言って一人バスを運転して太物村に出て行ったよ。私たちを一緒に乗せるともし途中で事故に合えば演者を失うって。
それは劇団の損害だから、何の損害もない自分が責任を取って出て行くって。でもそれっきり戻ってきてないけど」

「ううんと待った。『責任』ってなんだ。そのマネージャーさんが何かしたのか?」

「だってそのマネージャーさんがハンドル握ってここまで運転したんだから、道に迷ったらそのハンドルを握っていた自分が助けを読んで来るって。そう言う意味で『責任』って言ったんだけど」

「道に迷ったのがそのマネージャー・・・。じゃあそのマネージャーと話がしたい。携帯電話かなにかあるか!?」

「無理だよ」

「なぜ」

「だって麓の村で死んじゃったみたいだから、マネージャーさん。何でも毒物死だって」

「麓の村に助けを呼びに行ったマネージャーが毒物死? それはちゃんとした医者の診断なんだろうな?」

「うん、麓の村の、えっとなんだっけ、確か宗像村って言う村のお医者さんがそう診断したって」

「医者の診断で毒物死・・・。でもとりあえず、マネージャーさんが麓の村に到着したってことは、救助はすぐ来るってことだな」

「あ、それも無理みたい。何でかしらないけどマネージャーさん、村に到着したのに救助を要請してないんだ。さっき何とかつながった携帯電話で麓の村に救助を要請したけど、救助ヘリコプターが到着するのは明日になるんだって」

「村に到着したのに、救助を呼ばない・・・」

「そうそう」、何考えてるんだろうね白岡さん」

「? 白岡さんって誰のことだ?」

「あぁ、だからマネージャーさんのこと。白岡光一って言うんだ」

「白岡、光一・・・?」


暗澹たる謎に一縷の光がさした気がした。
そしてその一縷の光の先には、自分が探していた真実の一粒があった気がした。
その砂粒はまるでジグソーパズルの1ピースのような形をしていた。
その1ピースで全てが完成した。
総てが見えた。
凡てを固めた。
そして全ての謎が解けた。

壊れ物だった閃きは、不砕の球体となって目の前に現れた。
これだ。
これしか考えられない。

だとすれば、
この山荘の事件の真相は・・・。


「ねぇ鷹見くん。犯人は誰なの、どこまで分かったの?」

自分は辟易して嘆息する。

「君まで僕を名探偵扱いするのかい。何度も言うけど僕は探偵じゃ・・・」

頭を振って応えようとした。何とか話を逸らそうと思った。しかしだ。彼女の視線は自分を一点で捉えた。
その揺るぎない視線、でもそれでいて悲哀を帯びている視線。その澄んでいる瞳ゆえに奥底が見えない、そんな不思議な目だった。

「・・・・・・新馬さんの言ってた推理があっただろ」

「うん、真壁さんが犯人説のあれね」

「俺はあれはないと思ってる。なぜか。まず鶴井さんの密室事件の話から入る。あの人の話では強力磁石で廊下から鉄の拳銃を操って閂を閉めたって話だった。そして鍵に関しては実は掛かっていないで鍵を開ける振りをしただけ、ってことだ。
真壁さんが鍵を持ってきて鍵を開けるふりをしたって言うが、じゃあ聞くけど、鶴井さんの部屋のドアを開けたのって、果たして真壁さんだったかい?」

「え・・・、さぁあんまり覚えてないけど」

「思い出してくれないか。まずは鶴井さんの事件で重要な場面なんだ」

「ええっと、あれ、そう言えば、鍵を持ってきたのは真壁さんだけど、鍵を開けたのは真壁さんじゃない。そうだ猪井田さんだ。猪井田さんが真壁さんから鍵を受け取って開けたんだ」

「だろうね、そんなことだと思った。となると真壁さんが犯人説はここで終末を迎えたわけだ。かと言って猪井田さんが犯人か。いやそんなことはないだろう。だって猪井田さんは今しがた誰かに襲われて亡くなった。犯人は猪井田さん以外の誰かだ」

「・・・あ、うん、確かに。でも・・・」

「どうして分かったかって? まぁ、これは勝手な推理なんだけどね。犯人はこの山荘の持ち主なんだよね。ってことは今回の事件を最初から計画していたことになる。だとすれば今回の事件に関するトリックは丹念に練習したはずだ。
どこかで失敗しないように、必要な道具から手順からかかる時間から綿密な計画を立てて、そして犯行を行ったに違いないんだ。
だとすればだ、犯人としてもできる限りの不確定要素を取り除きたいはず。要はどうなるか分からない運頼みのトリックはやりたがらないはずさ。できることなら練習のできるトリックにして、少しでもトリックが見破られる要素を取り除きたい。
ではもし新馬さんの意見ではどうか。
確かに強力磁石で部屋の外から拳銃を操って閂を締めるのは、一見すると難しそうではあるが練習次第ではなんとかなるだろう。磁石の種類大きさからどのくらいの時間をかけて磁石を操れば、どのタイミングで閂がかかるか。
その時注意するべきことなど、予め把握しておりそれに対する対策を練って練習すればどうとでもなる。なにしろこの山荘は犯人の所有物だ、時間はたっぷりある。
しかしだ。一方で鍵のトリックに関してはそうはいかない。新馬さんは真壁さんが鍵を開けたふりをしたといったが、どうも俺はそれが不可解だった。だって鍵を開けたふりに関しては練習のしようがないんだ。
確かにより不自然にならない自然な鍵の開け方は、ビデオに取るなりして練習することは一応は可能だ。ただこれは先ほどの磁石のトリックに比べて不確定要素が強い。
他の人に見られてばれる可能性が非常に大きい。ほかの人間の視線や意識を計算に入れて準備しなくてはいけない。これは厄介だ。だって練習のしようがない。
練習のしようがない。練習ができなければトリックがバレる可能性がある。犯人はそんな一か八かのトリックを使うだろうか。
突発的な事件なら分かる。何の道具も準備もできない状況なら、演技一発でできるトリックを選ぶこともあるだろう。しかし今回は違う。明らかな計画殺人だ。準備の山ほど期間はある。
犯人が合理的な判断を下す人間なら、そんな不確定要素満載なトリックは使わないだろうと予測したわけだ。
そこで、俺は新馬さんのトリックは真実味にかけると判断した。
まぁ、事実、鍵を開けたのが真壁さんじゃないって分かった。恐らく真壁さんは犯人じゃない。
となると、田子さんの毒殺事件も怪しい。なぜか。これも今言ったように、確実性がなく不確定要素が大きいからさ。
新馬さんは箸の逆側に毒を塗る、逆さ箸トリックを考案した。確かにこれなら自分やほかのメンバーに危害を加えずに、田子さんだけを狙うことができる。しかし、これも大きな穴がある。
『真壁さん自身、自分がどこに座れるか分かっていない』と言うことさ。一見すると新馬さんのトリックも良さそうに思えるが、そもそも毒の仕掛けられた逆さ箸をテーブルのどこに置けば良いか、それは真壁さんにも分からなかったはずだ。
田子さんが何処に座るかわからなかった以上、自分自身がどこに座ることになるか分からなかったはずだ。
じゃあ全員分の箸の逆側に毒を仕込めば良いのか?
それも違う。そんなことすれば、他の誰かが逆さ橋をする事に被害者が増えていく。これは危険だ。
もう一つ田子さんの事件で気になるのが、犯行声明文だ。犯人はなぜこんなものを用意したのか?
犯人は田子さんを殺害しようと思っている、これは間違いない。だったらだ、犯行声明文を当てて本人に警戒させるなんてことはしないはずだ。そもそもメリットがない。
直後の食事だってそうだ。田子さんは思うはずだ、明白に怪しいと。普通はこの食事に毒が入っているのではないかと考えるはずだ。田子さんにそう思われたら犯行だってやりにくいはず。では犯人が犯行声明文を出した理由がまるっきりわからない。
そもそも田子さんには犯行声明文を出したのに、鶴井さんと浦澤さん、そして猪井田さんに犯行声明文を出さなかった理由も定かではない。
犯人が田子さんにだけ犯行声明文を出した理由が今のところ分かっていない」

自分の饒舌なご高説が終わり、鷹梨は一瞬言葉に詰まったようだ。

「結局のところ、どこまで事件の全容が見えてるの?」

「まぁ、なんて言うか、『ある程度』は、ってところかな。そうだ、ちょっとお願い事があるんだ」

自分の荷物からメモ帳を取り出し、その一枚を乱暴に切り取る。一緒に挟んであった廉価性のボールペンを手に取り、そこに色々なことを書き込んでいく。
鷹梨も不思議そうにそれを眺めている。

―――さぁできた。あとはどうやって犯人を追い込むかだ。ふむ、やっぱりこの手しかあるまい

出来上がったメモ帳を鷹梨に手渡す。

「メンバーの皆さんを呼んできてくれ」




*  *  *

第四章

*  *  *

「皆さん、わざわざ集まってもらって申し訳ありません」

「何だってんだい、私たちを呼び出しておいて」

「今回の一連の殺人事件の犯人が分かったんです」

その瞬間、ザワザワとした小さなざわめきがあった。
空気は緩やかに流れ、そして事の発端の男性に集まる。

「今回の連続殺人の真相が・・・」

仰々しく、一言一言ためて発せられる。その様子が苛立たしくもあった。

「今から皆さんにお話しすることは、僕自身が推理したものです。僕がこの山荘に来る前に起きたこと、皆さんの証言、そして実際に体験したこと、それらすべてを加味して出した僕なりの答えです。
もちろん、異論反論はあると思います。それはそれで構いません。しかし僕の答えがすべて出た後、そのあとに受けたまります。それまでどうか稚拙でありますが、話を聞いてください」

誰も何も発しない。肯定の合図のようだ。
では、と男性は続ける。

「そもそもこの山荘、こちらは皆さんご存知の通りかの有名な『黒川影夫』氏によって建てられその執筆活動のために存在する建物です。いわばこの建物はその『黒川影夫』氏の所有物です」

「それは知ってるよ」

「言葉をはさむのは・・・」

「・・・悪い」

この程度の遮りにも容赦しないのか。自分はそう思った。

「続けます。しかしながらその所有者である『黒川影夫』氏は数年前に謎の死を遂げている、言わばこの世にはいない存在です。ではなぜ我々はこの山荘を利用できたのでしょうか?」

「・・・・・・」

「・・・あぁ、全く口を挟まれないというのもつらいものですね。失礼、前言は撤回します。申し訳ありませんが適度に、適度に質問や返答などをお願いしてもよろしいですか」

「・・・、ええっと、なぜこの山荘を利用できたかって質問でしたよね。だとしたら答えは簡単です。この山荘のドアに鍵が掛かっていなかったからです」

「正にその通り。この山荘に鍵が掛かっていなかった、つまり誰でも入ることができる状態にあった、と言う事です。これは考えると中々に妙な話です。自分の家に鍵をかけ忘れるでしょうか?
勿論、かけ忘れる人もいるでしょう。しでもここは数年前から使われなくなった廃山荘です。最後に使われたのも当然5年前。遺族の方が遺品整理で何度か訪れたことがあったとしても、最後には鍵をかけるもの。
それがここに来るのが最後だと分かっていれば、尚更鍵をかけたかどうかの確認はするはずです。
なのにも関わらず、この山荘のドアは鍵が掛かっていなかった。
・・・まぁ、それは良いとしましょう。遺族も放心状態でついうっかり鍵をかけ忘れた、と言うことも無いわけではありません
大切なのはこの先です。鍵が掛かっていなかっただけでは無いはずです。この山荘には様々なものがあった」

「携帯食料や水ね?」

「正に。食料や水がこの山荘に置きっぱなしになっていた。これのお蔭で皆さんはこれまでひもじい思いをしないで済みましたが、しかしこれが最初の疑問でした。なぜ食料や水が廃山荘のここに置いてあったのか。それもご丁寧に人数分も・・・」

はやりそこに気付いたか。
自分はそう感心した。『トワイライト』のメンバーは比較的そういった根本的な問題に疎い。猪井田あたりは総管轄をしている分まだ鋭いが、そういった自分たちの置かれた状況の根本を問いただす人間が少ない、と自分は踏んでいた。
だから山荘に食料や水が置いてあること自体に疑問を抱く人間はまずいないと思っていた。
そにこ現れたのが、こいつだ。
自分は小さく奥歯をかみしめる。

「なぜ5年前に廃山荘になったこの建物に、それほどの食料や水が置いてあったのか。では、これは何故でしょう」

「忘れていったから、ではないの?」

「その可能性はないでしょう。いくら保存のいく食料と言っても5年間も変味変色の無い食料はありません。あったとしても本当に一部の缶詰くらいでしょう。水もいくらこんな寒い場所だからと言って、5年間も放置されていれば
流石に腐ってしまっていますよ。皆さん、お腹を壊した方はいらっしゃりませんよね。
ではこの食料と水は何故存在したのか。簡単ですよ。『つい最近購入されたものだからです』。」

「・・・つい最近購入された?」

「勿論」

ゴソゴソと音を立てる
なにやらプラスチックのパッケージを取り出しているようだ。

「これを見てください。皆さんが消費した食料のパッケージです。この部分ですね、『製造年月日』を見てください」

「えっと、なになに、2000年・・・、12月、12日って書いてあるね」

「これは去年の年末にメーカーで製造されたものと言うことがわかりますね」

「・・・だから?」

「あれ、まだ気づきませんか。5年前にこの山荘が使われなくなったのだとしたら、そこに置いてある食料も当然5年以上前に買われたものしか置けませんよね。ですがこの食料や水は違います。
この山荘の所有者が息を引き取ってから、5年の歳月を経て、『誰か』が置いて行ったものです、わざわざ。それも今から一ヶ月前に。
では誰がそんなことをするでしょうか。これから使うことがないと分かっている辺鄙な山奥の山荘に、わざわざ食料や水を買い込んで、一度ここに訪れてている人物が確かにいるわけです。
では誰が、なぜこんな山荘に食料や水を置いて行ったのでしょうか。さすがにもうお気づきですよね。
『今回の犯人』しかいません。今回の犯人がここに皆さんを引き留めておきたかったから、それ以外に考えられません。
犯人には分かっていたんです。皆さんがこの山荘にやってくることを。そしてその時は現地でも珍しいくらいの大吹雪が来ることを」

「大吹雪?」

「恐らくそうでしょう。犯人はこの地一帯が吹雪になり救助隊も救助を見送るほどの悪天候になることを見越して、食料や水を買い込んだんだと思います。
犯人は皆さんをこの山荘に閉じ込めておきたかった。おそらくは今回の事件を起こすうえで逃走者を出したくなかったんだと思います。
かなりの悪天候なら、この山荘を向けだして位置も方角もわからない麓の村に助けを求める人間はいなかったでしょう。しかし相手は人間だ、どんな行動に出るか想像できない。
ましてや食料も水もなければ無理をしてでも山荘を飛び出す人間がいないとも限らない。
そのためより高確率でこの山荘に皆さんを足止すべく、食料を買い込んだ、そう推測できます。
電気や水道が通っていたのも、同じ理由だと思います。こんな山荘に閉じ込められても電気もなかれば水も使えないのでは、やはり外に飛び出される可能性が高くなります。
犯人はあらかじめ、この山荘に電気や水道を通していたのだと思います。いってみれば計画的犯行だと言ってもいいでしょう」

「ちょっと待って」

その遮りに、なんでしょうと返した。

「食料や水は分かった。前もって購入してこの山荘に用意したってことは納得できる。でも電気や水道はそうはいかない。誰でも電気や水道を通してください、て言って用意できるものじゃ・・・。それこそ身内か何かじゃないと」

「それはそうでしょう。だから用意できる立場だったんでしょう。犯人は」

「!?」

「犯人はこの山荘の所有者『黒川影夫』氏の身内の人間だった、その可能性が高いです。でなくちゃこんな真似はできません」

「『黒川影夫』の親類なんで、そんな人うちにはいないよ」

「恐らく嘘をついているんでしょう、自分の本来の身分を偽って、あるいは隠して劇団トワイライトに身を寄せている人物が・・・。この中にいる誰かが」

誰も何も発しない。互いに互いをけん制し合っている、と言ったところか。
主は続ける。

「じゃあそれは誰なのか。身分を詐称して紛れている下手人は誰なのか、それ自体をこの段階で断定することは叶いません。しかし、これから話す事件の謎を解氷していけば、それが誰なのか自ずと分かってきます。
ではまず順々に事件を読み返していきましょう。
最初の事件は、皆さんがここに到着した当夜ですね。被害者の名は確か、鶴井舞さん。皆さんのメンバーであり比較的若手の方。私はその事件現場を拝見していません。ですのでここにいる鷹梨の伝聞ですが、ざっと事件をおさらいしてみましょう。
事件があったのは、山荘の2階、普段は客室として用意されている部屋の中の一室でしたね。確か階段のある反対側の壁の、奥から2番目の部屋、でしたよね鷹梨さん?、あぁ結構。間違っていた場合のみ指摘してもらえれば大丈夫。
さて、話を続けます。部屋割りは以下のようになっていたわけですね




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  貴  |  鶴  |     |  鷹  |  新  |  猪  |    |
     |     |  霧  |     |     |  井  |    |
  中  |  井  |     |  梨  |  馬  |  田  |    |
     |     |     |     |     |     |    |
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――|
                                     ||
              廊下                     ||
                                     || 
――――――――――――――――――――――     ――――――――――|| 
  浦  |  不  |  田  |  知  |  階  |  真  |    |
     |  二  |     |     |     |     |    |
  澤  |  見  |  子  |  尻  |     |  壁  |    |
     |     |     |     |  段  |     |    |
――――――――――――――――――――――     ――――――――――




第一の事件当時、2階の部屋に戻っておられたのは、真壁冬香さん、浦澤瞳さん、不二見未里さん、新馬理緒さん、田子藍那さん、霧綾美さん、貴中怜さん、そして鶴井舞さん、
合計8人でした。一方部屋に帰らず、1階のこのロビィに残っていたのは猪井田姫世さん、知尻マリアさん、そして鷹梨愛さん、この3人でしたね。
ちなみにお間違いはありませんね・・・・・・、そうですか間違いがないなら良いんです。
そして夜も更けてきたころ、急に銃声が鳴り響いた。
1階にいた3人は急いで音のした2階に移動した。そこでは同様に銃声で異変に気付いた他の皆さんが部屋から出てきた。
そこでただ一人だけ、鶴井舞さんだけ部屋から出てこないことに皆さんは疑問を抱いた。鶴井さんの部屋の前に来てドアを叩いてみるが反応はない。ドアを開けようとしたが鍵が掛かっていてあかない。
そこで鍵を開けることにした。部屋のカギは1つの束になって保管されていた。鍵束と呼ばれるもので、2階の部屋すべての鍵がそこにつながっている。
鍵束が置いてある場所は、1階のキッチンの壁、その鍵束を取ってこようと移動したのが、真壁さんだった。
急いで1階から鍵束を取ってきた真壁さんは、その鍵を使って鶴井さんの部屋の鍵を開けた。しかしだった。
それでも鶴井さんの部屋のドアは動かなかった。みなさんは、錠前のほかに、固い木製の棒がドアの開け閉めを阻む閂が使われていることに気付いた。
鶴井さんの部屋は錠前と閂の二種類の鍵が使われていたことになります。こうなったら、ドアをぶち破るしかない、と考え猪井田さんや、ほかには浦澤さん、真壁さん、貴中さんらも参加して
そのドアを打ち破ろうとした。そして甲斐あってドアは破れた。

そこで鶴井さんの遺体を発見した。現在のところ何か問題点はありますか。特にない? では話を続けます。

浦澤さんが真っ先に鶴井さんに飛びついた。鶴井さんの額には銃創、つまり中で撃ち抜かれていた跡があった。周りには血が飛び散っていた。おまけに舞台では使わないような拳銃まで落ちていた。


・・・まぁ、ざっとこんなところが第一の事件の要約ですね。鶴井さんの部屋は内側から二重の施錠を施されていた。錠前と閂の2つです。
この2つを同時に施すのはまず不可能でしょう。部屋は完全な密室だった。
錠前は、真壁さんの持ってきた鍵束がある、とお考えかもしれません。しかし実際にはその鍵束を使うことは不可能だったはずです。だって鍵束の鍵で鶴井さんの部屋を閉めたとして、その鍵束をまた元に戻しに行かなくてはありません。
どこに?
勿論元あったキッチンにです。しかしキッチンに行くには階段を下りてロビィを横切らなくてはいけません。そんなことをすれば1階にいた猪井田さんや知尻さんや、勿論鷹梨だった気づくはず。
しかし御三方はそんな人物を見ていない。ならば、鍵束を使って廊下側から鍵をかけても元の場所に戻しに行くことは絶対不可能なんです。ん、なんですか貴中さん?」

「鍵束から舞の、鶴井舞の部屋の鍵だけ抜き取っておけばいいんじゃ無いの? 実際鍵束にはいくつもの鍵がつながっているから、パッと見るだけで1つ減っていることにも気づかないんじゃ」

「確かに、鍵束は10個以上ある鍵を、言葉通り束ねたものです。1つ2つ少なくてもよほど注意して見なければまず変化に気付きません。でもそれはありえません。
それは何故か。こちらも今しがた説明したように、『元の場所に戻しに行くタイミング』がありません。鍵束を持ってきてくれた真壁さんは難なく鍵を使って鶴井舞さんの部屋のドアを開けたんですから、その時には鍵は鍵束に戻っていました。
これでは説明がつきません」

部屋からは残念そうな吐息が聞こえる。

「唯ですね、裏を返せば『鍵束で鶴井舞の部屋のドアを開けるその瞬間』前に鍵を返せば貴中さんが言って言葉も、まんざら冗談でもありません」

全員が息をのんだようだった。

「僕は、真壁さんが鶴井さんの部屋のドアの鍵を開ける瞬間までに鍵を真壁さんが持っていれば、何の問題も生じません。つまり良いですか、鍵束から鶴井舞さんの部屋の鍵だけ抜き取っておいて、事件当時に鍵束を取りに行って戻ってくる間に
鍵を鍵束に戻すことができれば、可能かもしれません。」

その言葉でその場に居合わせた全員が身を翻したのがわかる。

「事件当日、鍵を持ち運びした真壁さんなら、錠前を掛けることができる、その可能性があります」

「・・・・・・・ちょっと待ってください」

月並みな言葉だ。劇団員ならもっと気のきいたセリフの1つでも言えないのか。そう思った。

「ただし、これは正解ではありません。何故か、犯人はこの山荘の所有者の親族です。そしてこの山荘で惨劇が行われることも熟知していたはずです。もちろん、このような密室殺人を行うことも。
ならば必然的に部屋の鍵を使うことも当然知っているはずです。ならば、合鍵の1つや2つは用意するものです。律儀に鍵束から鍵をくすねて、なんて危険なことをする必要性は全くありません。
ですので本当の犯人なら、このようなことは起こりえません。
そうです、真犯人は合鍵を持っている可能性は十分あります。むしろ大切なのは、そのあとです。『どうやって閂をしめたか』、これに限ります。僕も試してみました。ドアの隙間に針金を通したり、あるいは磁石や雪を使ったトリック、
そういった類が使われた形跡が全く見つかっていません。雪国使用でドアと壁の隙間はほとんど無い、磁石を使おうにもドアが部厚すぎる、雪を使っても下のカーペットに染みが残る。どれもクレバーなやり方とは言えません。
となるとドアの閂を部屋の外から操作するのは極めて困難と言うことがわかりました。では犯人はどうしたのでしょうか。部屋の中で鶴井舞さんの殺害後、どうやって閂を掛けたまま外に逃げ出せたのでしょうか」

そうだ。その通りだ。鶴井舞の部屋は殺害当日、完全な密室だったんだ。
犯人が外に出れるわけでもない。
さぁ、名探偵。あなたはどんな回答を用意するのかな・・・

「僕の考えを言います。犯人はドアから逃げていません」

なっ・・・・・・!

一瞬、金切り声をあげるところだった。しかし最後の最後でそれを喉の奥に引き留めた。おそらく他のメンバーも同じであっただろう

「じゃ、じゃあ、犯人はあの部屋の中にいたって言うの? 」

「ええっと、すいません言葉が悪かったですね。残念ながらあのとき部屋の中には犯人は存在していなかったと思います。だってそもそも廊下に出てきたときには、鶴井さん以外は全員出てきたんですよね。
犯人はドア以外の場所を使って鶴井さんの部屋を脱出、その後何食わぬ顔で皆さんと合流した。ではどこを通って犯人は部屋を脱出したのか。今説明したようにドアは密室にするために鍵をかけたので使えません」

「・・・・・・まさか窓?」

「御名答。ドアが使えない以上、ドア以外で外界と連絡しているのは、ドアの正面に存在する『窓』、これしかありません。犯人は窓を使って部屋を脱出したと考えるのが妥当です。
消去法であまり説得力がないかもしれません。しかし、実際にこの可能性を考えると、思いのほか悪い考えでもありません。
まずこの窓、今皆さんがとっさに答えが出てこなかったように、盲点になります。
皆さんで協力し必死で押し破ったドアは、そこは絶対的な施錠が施されている、となるとどうしても『ドア』の鍵をどうやって解決すればよいのか、これに思考が偏ってしまいます。冷静なら窓を使ったという可能性に気付いたかもしれないのに、
この特異極まりない状況なら見落としやすい観点ではあります。犯人はそこを狙ったのでしょう。
ただしこれも完璧ではありません。もし誰か一人でも『窓を使ったのでは?』と発言すればすぐにトリックが露見してしまう。そこでよりそんな可能性を潰すために犯人は次のトリックを考えました」

「犯人はまだ何かやったの?」

「ドアを打ち破って無理やり部屋に入ろうとする、犯人はここまでは容易に想像できたはずです。しかし問題はそのあと。部屋の中に入った後、皆さんがどんな行動に出るか、そこまでは流石に想像できなかった。
もしかしたら一人くらい、窓にすり寄ってなにか気が付かれるかもしれない。そんな危険性を排除し様としました。
それが『鶴井舞さんの惨殺死体』です。血だまりのなかに倒れる鶴井さん、誂たように近くにはいかにもと言った感じの拳銃まで落ちている。これで皆さんは倒れている鶴井舞さんに視線と意識が集中します。
そう、これが犯人の狙いだったんです。お蔭で皆さんは『窓を調べる』と言ったごく基本的な作業すら失念してしまった。その証拠に浦澤さんは真っ先に鶴井さんに抱きついていますね。
医学知識も何もないのに、自分が彼女を助けられるわけでは無いと分かっているはずなのに、とっさに飛びついた。これだけでも皆さんの混乱ぶりは伝わってきます」

「それが犯人の思い通りだったと・・・」

「恐らくそうなるでしょうね。皆さんが鶴井さんに注目が集まっているとき、犯人は自然と近づき、窓に残った痕跡を抹消した」

「痕跡? そう言えばそもそも窓を使ったって言いますけど、じゃあ実際どんなトリックを用いたんですか?」

「窓から窓に渡ったんです。この山荘の窓はレバー式。レバーを90度回して開けたり鍵を掛けたりします。まず犯人は自分の部屋に戻るために自分の部屋の窓を微かに開けておきます。同時にその窓のレバーにロープを、まぁかなり太いロープですね、
これを巻きつけて固定しておきます。そのロープの一端を部屋の中でなく、外に垂らしておきます。
次に、1回ターゲットの鶴井さんの部屋を訪れます。暇だから何か話そう、かなにか理由をつけて鶴井さんの部屋に入ります。そこで適当に話をしながら様子を伺ってこの部屋の窓を開けて、
自分の部屋の窓かに着けていたロープを手繰り寄せて、鶴井さんの部屋のロープに括り付けます。これで準備は終了です。このロープをたどって自分の部屋に戻るだけです。
このとき万が一鶴井さんにばれても、まさかそれが自分を殺した後に使う密室トリックだとは思わないでしょう。
さぁ、あとは実行するだけ。隠し持っていた拳銃を鶴井さんの額に当てて引き金を引くだけ。轟音と共に鶴井さんは一瞬でこと切れる。残るは自分の部屋に戻るだけ。これは時間との勝負です。
今の轟音を聞いて、ほかのメンバーが異変に気づき、部屋に強行突入してくる前に、いえ正確には廊下から顔を出すまでに自分の部屋に戻らなくてはいけない。急いで今さっき自分が用意したロープにつかまって自分の部屋に戻ります。
部屋に戻ったら、身体や髪の毛についた雪を払い、同時にロープの回収を行わなくてはいけません。たぶんですが犯人はロープを輪のようにして、自分の部屋の窓と鶴井さんの部屋の窓をつないだのだと思います。
そうすれば、一か所を切ればロープが回収できます。
ここで問題になるのが、『鶴井さんの部屋の窓』です。いくら輪っか状態でロープを回収できても、鶴井さんの部屋の窓自体を閉めることができません。まぁ絶対に不可能、と言うわけではなかったでしょう。
犯人にはいくらでも考える時間があったんですし、道具をそろえようと思えばそろえることはできたはずです。でも犯人は急いで廊下に顔を出して『轟音を聞いて不審に思った人間』を演じなくてはいけません。
時間的にはちょっと無理だったのかもしれません。犯人にはそれが分かっていたので、鶴井さんの部屋に入ったとき、皆の視線が鶴井さんの死体に向くようにして、本当は鍵のかかっていない窓に意識を向けさせないようにしなくてはいけなかったんです。」

「本当に、本当にそれが解答なんですか・・・」

「それ以外考えられないでしょう。錠前と閂、外部から痕跡を一切残さないでこの二重のロックを完成させることは、現状では不可能ですね」

「じゃあ待ってよ。もし今の話が本当なら、それが可能な人間はそういないんじゃ・・・」

「えぇその通りです。窓を使って逃走したとなる以上、まず『鶴井さんと同じ側の部屋の人間』に限られます。窓から逃げても廊下をまたいだ自分の部屋には戻れませんから」

「となると、舞の部屋と同じ側の部屋にいた人間は・・・、貴中、霧、鷹梨、新馬、そして・・・猪井田姫世」


「正確に言えば、猪井田さんは亡くなられていますし、鷹梨愛に関してはその時刻に1階のロビィにいましたから除外してもよいでしょう。となった場合、条件にあうのは『貴中怜』さん、『霧綾美』さん、『新馬理緒』さんの3人になります。
そして実はさらに絞り込めます。
『新馬理緒』さんは犯人ではないでしょう」

「どうして?」

「貴中さん、霧さんは鶴井さんの部屋の隣だ。しかし新馬さんは鶴井さんの部屋から3部屋も離れている。距離にしたら10m以上離れています。10m以上離れた部屋から部屋へ、それも丈夫とはいえロープ一本でしかも猛吹雪の中を這って戻らなくてはいけません。
ならばどんな問題があるか。『鷹梨の部屋の窓のまん前を通らなくてはいけません』もし鷹梨が部屋に帰ってきて窓の外を見られたら、これはもう言い訳の使用がありません。真っ先に事件の犯人として疑われます。
確かに1階のロビィで猪井田さんたちと談笑していたかもしれませんが、いつ帰ってくるかわからない。
まぁそもそも体力がまず持ちません。かりにったところで移動に非常に時間がかかります。みんなが廊下に顔を出したときに間に合いません。以上の理由で、新馬さんがこの犯行を行ったとは言い難いですね。
では、残るは『貴中』さんと『霧』さんです」

「私じゃないし!」

「私だって違う!」

「霧さん、あなたが鶴井さんを殺したんではないですか!」

衝撃の一言だった。それをこの男は何とも淡々といた言葉だった。
しかし、そのぶんプレッシャーも存在した。

「・・・・・・、ば、馬鹿なこと、いわ・・・」

「僕はね、あなたが犯人だと考えているんですよ」

「ち、ちがう、私は・・・・・・」

「犯人はあんただ・・・」

切れ味鋭い声だった。緩やかな口調とは裏腹に剃刀以上の切れ味を存分に発揮した言葉だった。

「霧さん、お聞きしたいことがあります」

その拒絶を許さないという声に、一瞬その場の空気が凍りついた。そんな声だった。

「あなたは銃声を聞いた後、廊下に出てきましたよね」

「も、もちろん」

「その時、『髪の毛をふきながら』部屋を出てきましたよね?」

「え?」

「皆さんは覚えてらっしゃらないかもしれませんが、鷹梨がよく覚えてくれていました。もう一度お聞きしますが、その時髪の毛を拭いてらっしゃいましたよね?」

「・・・あぁそういえば」

誰かのつぶやきがポツリと聞こえる。

「なぜ髪の毛を拭かれていたんですか?」

「シ、シャワーを、あ、浴びて・・・いた・・・」

「本当でしょうか。本当にシャワーを浴びて濡れた髪の毛を乾かすためにタオルで拭いていたのでしょうか? 『髪の毛についた大量の雪をとっていた』んじゃないですか!」

「なっ!?」

「あなたは先ほどの方法で窓と窓をつないだロープを渡って急いで部屋に戻ってきました。そこまでは予定通りだった。しかし予想外の事態があなたを襲った。外の吹雪が予想以上だった。
なんとか部屋まで帰ってくることはできたが、髪の毛に大量の雪が付着していたことは想定外だった。すでに部屋の中の熱で雪も解け始めている。頭をたたいて雪を落とすこともかなわない。
もしこのっま廊下に出れば冷え切っている体に濡れている髪の毛、しかもその紙にはまだ落としきれなかった微量の雪が残っている。もしこれを他人に見咎められたら、不審に思われる。
かと言って、ドライヤーで乾燥させる時間はない。そこであなたはタオルで髪の毛を吹きながら、さもシャワーあがりをアピールした。それにタオルに隠れて微量な雪も見えませんからね。」

不穏な静寂だった。問題解決を喜ぶ一瞬の静寂ではない。ただの身近の殺人犯を恐れる静けさだった。

「犯人は霧綾美さん、そう考えると第二の事件も簡単に説明ができます。第二の事件の概要は以下のようなものでした。
皆さんが初めての食事をとることになった。席順は一切決まっていませんでした。キッチンに到着した順番に各々好きな席に座るというもので、来た人から順番に席を詰める、と言うわけでもありませんでした。
ちなみに当時の席順は


                 新        浦       
                 馬        澤       
            ――――――――――――――――――  
            |                           |   
            |                           |   
        鷹梨 |                           |田子  
            |                           |   
←           |                           |   
ロ           |     テーブル         |   
ビ           |   (見た目は四角形ですが    |   
ィ       知尻 |    読者の皆さんは円形だと   |霧                          
            |    考えてください。)     |   
            |                  |                         
            |                  |  
            |                  |                      
         真壁 |                  |貴中                      
            |                  |           
            |                  |                      
            ――――――――――――――――――      
                猪       不   
                井       二
                田       見


とこんな感じでした。



よって誰がどこに座るかは全く不明。料理と言っても缶詰や市販の保存食を並べたものですので、ここに個別に用意した毒物を混入させるということは考えにくい。
そんな状況にも関わらず事件は起こった。
メンバーの一人である、『田子藍那』さんが倒れた。急にのど元を抑え始めてもがき苦しみながら椅子から倒れました。そしてそのままこと切れた。
誰も毒を仕込めないはずなのに、田子さんは倒れた。
さらに不思議なことが。そのあとの霧さんが持ってきた犯行声明文です。


    お前は追放者なる存在だ
    お前の罪は死に値する
    お前は今宵、神の名の下にその裁きを受けることだろう


そんなことが書かれた文書が姿を現しました。
霧さんは「田子さんから相談された。食事の前に田子さんのもとに届けられていた」と証言されました。
ここで更なる謎が提示されました。
『犯人はどうやって田子藍那さんにだけ毒を盛れたのか?』です。
そもそも食事の内容物に毒物を盛ることすら困難を極めます。それに加えて、10人の中の1人にだけピンポイントで毒を盛る。
誰がどこに座るかわからないし、食べるもの食べないものも存在するでしょう。一人だけに毒を盛るという不可能犯罪ができあがりました。
たしかにこの話だけを聞くと、誠に無理難題だと思います。
しかし先述したように、『霧さんが犯人』と言う前提があると、この謎も解けます。
まず霧さんは何をしたか、この山荘に到着した直後に密かに用意していた毒物を持ち出してキッチンに移動します。
しまってあった食器、たとえばスプーンや箸ですね、これらの1つに毒を仕込みます。そして何事もなかったように元の場所にしまいます。
そして食事が行われる時間になるまで待ちます。
そしていざ食事の時間になると、仕込んでおいたスプーンか箸が配られ、誰かのもとに届きます。それも1人分だけ。
誰に届くかわかりません。しかし誰かには届きます」

「誰かに届く?」

「えぇ。このとき毒の仕込まれた食器が誰に届くかは関係ありません。霧さんにとって誰が死ぬかはどうでもよかった、『無差別殺人』であった可能性が高いんです。
そして今回はそれが運悪く、田子藍那さんだった。田子さんはそうとも知らず毒の仕込まれた食器を何の疑いもなく使用してしまい、毒物を口にした。そして死に至った、と言うわけです」

「でも、それじゃ犯行声明文はどうなるのさ。田子が死ぬか分かんないのに、わざわざ犯行声明文を田子に出したっての?」

「いいえ。そもそも霧さんは田子さんに犯行声明文なんて出していませんよ。当然田子藍那さんもそんなもの受け取っていません」

「ん? どういうこと?」

「分かりませんか。そもそも田子さんに元に犯行声明文など届いていませんでした。あの犯行声明文は霧さんが用意したものです」

「そんな、嘘だ」

「いいえ事実です。では聞きますが『田子さんが犯行声明文を受け取った』と言う事実を口にした人は他にいますか・・・・・・。いませんね。そう霧さんだけです。あなたしか『田子さんが犯行声明文を受け取った』と証言していないんですよ。
逆に言えば、『田子さんから犯行声明文を受け取った』と言えば皆がそれを信じてしまいます。そう、簡単にでっちあげることができるんです」

誰も何も答えない。

「そう霧さんしか知りえない事実なんです。ではそれを霧さんしか知りえない事実となるとどんな利点があるか。
霧さんは誰かが毒を口にするまで、『誰のもとに毒の仕込まれた食器が渡っていか』は分かりません。誰かが倒れるまでそれを知るすべは分かりません。まぁもし10分の1の確率で自分のもとに毒の仕込まれた食器が運ばれる可能性はあります。
その時のために、自分にしかわからない目印か何かは付けていたかもしれませんがね。まぁ、そんなこんなで事件当日は田子さんが倒れた。
そうしたら、部屋に戻り『田子さん用の犯行声明文』を持ち出して、さも食事の前から田子本人から受け取ったとみんなに話をすれば良い」

「え、じゃあ田子以外の人に毒が当たったら?」

「その時は毒が当たった人用の犯行声明文をみんなの前に持っていくだけです。ですのでこの中にいる人誰が当たっても良いように全員分の犯行声明文を用意したんだと思います」

「・・・・・・じゃあ最悪私たちにも毒入りの食器が運ばれてくるかのせいも」

「充分あったでしょうね」

その場にいた全員の血の気が引く音が聞こえた、そんな気がした。

「そこで第三の事件、浦澤瞳さんの事件です。皆さんが憔悴しきっているときだった。浦澤さんは今回の事件の真相が分かったと言います。しかしその準備として少し時間がほしいとも言います。
自分の部屋に戻って準備する、そう言い残して1人部屋に戻ります。その間皆さんはキッチンで時間が来るのを待ち続けます。その間、このキッチンを抜けた人はゼロ、誰一人いませんでした。
そして、浦澤さんがキッチンを後にしておよそ30分後、流石におかしいとおもい全員で浦澤さんの部屋にやってきた。ここで部屋のドアを開けたら、天井の梁から首を吊った浦澤さんを発見した。そういうことです。
さぁこれもかなりの難問です。犯人は浦澤さんの部屋に入ることなくして、どうやってこれほどの凶行を行えたのか。共犯者がもしいようとも、その共犯者となりえる人もみなキッチンにいました。全く持って不可能犯罪です」

「勿体ぶるなよ、でも霧ならできたんだろ?」

「えぇ。可能です。と言っても再三申し上げていますが可能性の話ですがね。霧さんも皆さんと違わずずっとこのキッチンにいました。しかしです、ずっと皆さんの視界に入っていたかというと、それは疑問です。
霧さん、あなたキッチンで待機しているときキッチン内を移動しましたか?」

「・・・・・・」

何も答えない

「では代わりに僕が答えましょう。あなたは飲み物を用意した。そのときどこに行くか、キッチンの奥の冷蔵庫のもとに向かいます。冷蔵庫はみんさんが食事をされた場所から見ると、ちょうど死角の場所に当たります。
と言うことは飲み物を取りにいっている間は、皆さんの視界から消えていたことになります。その間だったら、浦澤さん殺しのトリックを使えたのではないか、そう考えました」

「まさかキッチンの窓を出て2階の浦澤の部屋に行ったのか」

「それは無理でしょう。窓を開ければ急に冷たい風も入りますし、強風の音も皆さんに聞かれてしまいます。しかし窓を出て、他の場所から侵入しなおして、静かに階段を上り、浦澤さんを殺害して、また戻って、キッチンの窓から入りなおす、
これほどの作業を飲み物を取りに行く時間で仕上げることは、流石に無理でしょう。
ではどうしたのか。この場合も準備が必要です。簡単に言えば浦澤さんの部屋に分からないようにロープを仕掛けておきます。そしてそのロープの他端を窓から外にだし、キッチンの窓まで伸ばしておきます。
と言っても、これだけの説明では分かりませんよね。詳しく説明します。
まず浦澤さんがいない時を見計らって部屋に侵入します。ここで設置するものは、首つり用のロープです。まず予め用意してあったロープを天井の梁にひっかけます。
もちろん、その梁から降りているロープは先が丸になっていて、すぐに首を通せるようになっています。そして梁から垂らしたロープの反対側をそのまま窓の外、ではなくて1回ほかの柱に巻きつけます。
ただし巻きつけると言っても、本当に巻きつけるわけではなくて、『そう見える』ように簡単に巻きつけておきます。では次はそのロープの端を今度は細くてしかも頑丈な線、たとえばピアノ線のようなものを結び付け、
このピアノ線を窓の外に出します。偶然にも浦澤さんの部屋は、キッチンのほぼ真上、伸ばしたピアノ線を真下に垂らせば、キッチンからつかむことができます。霧さんはこのピアノ線をキッチンの、皆さんから見たら死角の窓に分からないように
括り付けておきます。あとは浦澤さんがロープの輪に首を突っ込んだときにタイミングよくキッチンのロープを引けば、浦澤さんは部屋にいながら、犯人はキッチンにいながら首つり死体を作り上げることができます。
そもそもなんで太いロープだけではだめだったのか?
なぜ太いロープに細いピアノ線を括り付けたのか?
やはり『窓を通すためです』。人ひとりを吊し上げるとなるとそれ相応の太さのロープが必要になります。タコ糸なんかでは到底無理ですね。しかし太いロープを使うと今度は、窓が閉まらなくなる。
皆さんが浦澤さんの部屋に駆け付けたとき、窓が思いっきり開いていて、そこからロープが出ていたら流石に誰でも不審に思います。今回も最初の鶴井さんの事件のように、『窓に注意を向けない』仕掛けとして、
太いロープの端に細いピアノ線を巻きつけて、それを引っ張るというまどろっこしい方法を取りました。ピアノ線なら太さはほんの数分の1mm。窓は完全に閉まらなくても、ほんのわずか開ければピアノ線は通ります。
パッと見たとき、目の前の浦澤さんの死体に意識が集中して、窓の微かな開閉に気が付かない、そんな人間の心理を利用したトリックを使いましたね。」

「でも、」

「勿論、タイミングよくロープの輪っかに首を突っ込んでくれるとは限りません。太いロープなら重くて揺れに気付きませんが、軽いピアノ線なら首が引っ掛かったわずかな振動に対して分かるくらいの揺れを生じさせます。
霧さんは1階の、皆さんの数m離れたキッチンの死角で、飲み物を準備するふりをしながら、垂らしてあるピアノ線が揺れるのを待ったんです。
そしてピアノ線が揺れた。その瞬間、霧さんは渾身の力を振り絞ってピアノ線を握り引っ張ります。ピアノ線を通じて2階の浦澤さんがもがくその振動が伝わってくるでしょう。
しばらくそれを耐えていれば、次第に振動はなくなります。要は浦澤さんがこと切れた瞬間です。そのあと、ピアノ線をまたみんなに見えない位置に隠したのか、あるいはさらに引っ張って、太いロープから引きちぎったのか、
それは分かりませんが、1階のキッチンにいながら、2階の部屋の浦澤さんを殺害できた、となるわけです。なので鶴井さんの部屋は密室だったのに、浦澤さんの部屋は密室でなかったのは何故か、と言う謎がありましが、簡単です。
犯人は部屋の中に入っていなかったからです。ですので、鍵まで閉めることができなかった。と言うわけです」

誰も何も返さない。
その答えにただただ衝撃を受けているかのようだった。

「そして最後の猪井田さんの殺害事件です。僕が思うに、この事件に関しては霧さんには不測の事態だったのではないか、そう思います。何故か。
この事件に関しては他の事件に比べて、ほとんど細工が見られませんでした。
急に山荘全体の前期が消えたと思ったら、しばらくすると猪井田さんの部屋から悲鳴が聞こえた。皆さんで猪井田さんの部屋に行くと、腹部をナイフで刺された猪井田さんを発見する。
しかし猪井田さんはそこではまだ生きていた。死んではいなかった。でも見るからに品詞の猪井田さんは、苦し紛れにこういった。
『アオ』と・・・。猪井田さんはその言葉だけ残して息絶えた。これは猪井田さんが残した最期の言葉、所謂ダイイングメッセージだといえます。
では猪井田さんは、このとき何を言い残そうとしたのか。もちろん皆のなかに『青』が付く人はいません。ではこの『アオ』は何を意味するのか。
当然とは思いますが、この最後の言葉である『アオ』は猪井田さんが死ぬ淵野の言葉であり、犯人を指し示す以外の意味はまずを持ってないでしょう。では『アオ』は誰を指し示すのか」

「でも霧は、名前に『青』なんて言葉は入ってないぞ」

「えぇ。名前には入っていないでしょう。しかし霧さん、あなたの耳についているのはなんですか?」

「えっ!?」

「あなたの耳についているのは、『青』色のピアスじゃないですか? 僕が見る限りでは、僕がここに到着したときからずっとそのピアスをしていますよね。
おそらくこの山荘に着いた時から、あるいはその前から青いピアスをされていたのではないですか?
そして猪井田さんが霧さんに襲われるとき、猪井田さんはあなたの顔をもしかしたら見れなかったのかもしれない。あの時は山荘全体が暗く目の前に立ている人の顔も認識できなかった。そしてナイフで腹部を刺される。
その時、もしかしたら何かの光、もしかしたら月の光かもしれません、それで青いピアスが反射してかすかに見えたのでしょう。そして犯人が去り皆さんが駆けつけてきたとき、最後の力を振り絞って、見えた『青』いピアスのことを口にした。
そう考えると全ての事実が説明できます」

「理由は?」

「ふむ、事件の動機ですか。それに関しては僕は何とも言えません。殺人に至る動機ですので、簡単なものではないでしょう。先ほども申した通り、今回の準備が一ヵ月も前から進められています。
と言うことは少なくとも一か月以上前から殺人の動機を抱えていたと思われます。そこは僕のは分かりません。
さぁ、どうでしょう霧さん。自らの犯行を認めてもらえますか?」

「いやだ・・・、私は何もやってない」

「まだ言うんですか」

「だって本当だもん。私はやってない、本当に知らない!」

「ふむぅ、しょうがありませんね。ではこうなったら警察の科学捜査を待つしかありませんね。明日を待ちましょう。このところ天候も安定してきています。明日、早ければ今夜遅くにでもになれば天候も回復して地元から救助隊がやってくると思います。
そしたら警察の捜査も始まります。そこで僕の推理を検証してもらうとしましょう。我々では見落とすような証拠も発見されるでしょう。多少の違いはあれど僕の推理はあってると思いますよ」

「・・・・・・そんな」

「では救助隊がやってくるまで、最低限霧さんの身柄は拘束しなくてはいけません。ちょうど我々のいるロビィのはじには簡単な収納スペースがあります。まぁ、と言っても要は物置ですけどね。そこは外から鍵を掛けられます。
そこで静かにしてもらうしかありません。先ほど中を見ましたが、特に危険なものは入っていませんでした。一応の水分と簡単な食べ物を置いておきますので、救助隊が到着するまでおとなしくしていてください」

「何で私が!」

「お分かりになっていないんですね。あなたは今や『容疑者』です。殺人の疑いを掛けられている立場です。あなたの理解があろうとなかろうと、身柄を拘束させてもらいます」


・・・そんな

その言葉がただゆっくりと、木霊するように渦巻いていた。
後何が話されたか、よく覚えていない。これで事件がようやく終末を迎えた、そんな思いでいっぱいだった。
視線を外に向ける。まだゆるやかではあるが、吹雪は止んでいなかった。



*   *   *



息を殺した。一歩踏むたびに足に全神経を集中させた。
ゆっくりゆっくり、足音を立てないように『私』は目的地に近づく。
目的地、それはロビィ脇の収納スペース、いわば「霧綾美の拘束されている場所」だ。
『私』は嬉しかった。彼の推理を聞き終わったとき、心の中で小躍りした。


―――的外れな推理も甚だしかった



犯人は霧綾美ではない。この『私』だ。
一連の殺人事件の首謀者であり実行犯はこの『私』であり、霧綾美はなんら無関係である。
それをあの男ときたら、なんとまぁ馬鹿な論理を、いけしゃあしゃあと述べてくれたのもだ。
突っ込みどころ満載であったのが聞いてて笑えたし、それを真に受ける皆も皆だ。あまりの可笑しさに吐き気がしてくる。
吹雪の中、颯爽と登場したとき、正直困惑した。
最初、予定外の登場人物に戸惑った。それまでは何とか予定範囲内で収まっていたのに、ここで計画が一気に台無しか、そう思った。
もし計画に支障があるなら、しょうがない、あなたに罪はないが消えてもらうしかなかった。
でもふたを開けたらどうだろう。
いかにも偉そうなこと並べておいてそれがこの様かよ。

まぁ、そのおかげで『私』が犯人であるという事実に誰も気づかなかったんだから。僥倖僥倖。
あとは霧綾美を始末すればよい。
霧綾美、あなたみ恨みはない、妬みもない、ただ邪魔なだけだ。
あなたが犯人でないことは『私』が良く分かっている。しかしあなたが生きて帰ってもらうと、必ず警察による科学捜査が行われる。
警察も馬鹿じゃない。恐らくあなたが犯人でないということが白日の下に晒される。
となると、一から犯人探しが行われる。となると再び『私』に捜査の目が向く。いつまで逃げ切れるか分からない。
なら、ここで霧綾美にはこんかいの舞台から退場してもらおう。
あなたが死ねば、「犯人の自殺」となって警察の捜査も最低限で終わらせることができる。

手にぎゅっと力を込める。この日のために用意した皮の手袋越しに麻縄が食い込む。
物置に掛かっている鍵も大丈夫だ。ちゃんと合鍵を用意している。
準備は完了だ。
物置の前に到着する。確認のため周りを確認する。ロビィには誰もいない。例の男も安心して開いている部屋で寝ているのだろう。
もし誰かいたらそいつも殺さなくてはいけなかった。つくずく運のいい奴だ。
念のため、ドアに耳を欹てる。

「・・・・・よ、・・・じゃ・・・・・に」

不鮮明でいかにも蚊の鳴くような声だが、しかし中に人はいる。
ジャケットの内ポケットから鍵を取り出す。鍵穴に差し込むときに要注意だ。カチャリと音が鳴れば中の霧に気づかれてしまう。
しばらく耳を澄ます。しかし中から聞こえてくる声に何の変化もない。
それを確認すると、ゆっくりドアを開ける。背に光はない。大丈夫、光が漏れることはない。
必死で自分に言い聞かせる。
今更、人ひとりを殺すことになんら恐怖はない。そんな自分が頼もしかった。

暗闇になれた目を必死でこらす。小さくそして乱雑に荷物が置かれたスペースの奥から、霧の声が聞こえる。

「違うよ・・・、私じゃないよ・・・、」

弱弱しく聞こえる声が目印になる。
霧綾美はそこにいる。今一度両手に力を込める。この右手と左手を結んでいるロープで霧の背後から喉を締め上げる。気道を強圧すれば助けての声すら出せない。
他のメンバーに気付かれることなく、ことを終えることができる。
そして予め用意してあった、自白文を置いておけば、すべて終了。

―――待っててね、おじいちゃん

目の前の毛布の中から、霧の声。

「バイバイ、綾美」

驚くほど冷たい声で最後の口にした。



その時だった。




明かりがついた
パチ、と言う乾いた音が鼓膜を震わせた。
一瞬何が起こったのか。分からなかった。気が付けば物置の中、いやそれだけでなく山荘全体に明かりがともされたようだった。

「いらっしゃいませ」

男の声だった。
物置の入り口からだ。
身体をそちらに向ける。
いるはずのない人間だった。だってすでに寝入っているはずだ。さっきだって山荘に明かりはなかったし、物音を立てないように細心の注意を払ってきた。
なのに、なぜ?

「お待ちしておりましたよ」

はめられた。
瞬時に思った。
待ち伏せられていた。

「あんな話をして霧さんをここに閉じ込めておけば、あなたは必ず最後に始末しにくると思ってましたよ」

こちらの神経を逆なでするような柔和な声だ。
しかしそれ以上に自分に腹が立つ。
最後の最後でしくじった。

「ちなみにそこに霧さんはいません。本物はこちらです。もちろん他のメンバーの方も皆そろっております」

こう言うと、男の影から小さな体躯の少女が顔を出す。目があった。今私が殺そうとした人物と目があった。
驚きと、そして寂しさが入り混じった目だった。
たまらず視線を外す。
毛布をめくってみれば、ボイスレコーダだ。ちっぽけな機械が馬鹿の一つ覚えのように「違うよ私じゃないよ」と繰り返している。

「さぁ、真犯人さん。聞かせてもらいましょう。なぜ『あなた』がここにいるのか。ねぇ・・・


『田子藍那』さん?」



*  *  *

目の前には田子さんが立っていた。全身を黒のジャケットで覆い、手には新品の革製の手袋、そしてその手にはロープが巻かれていた。
一度『死んだ』はずの田子藍那さんが、なぜそこに立っているのか。私には全然わからなかった。
食事のときに毒を口にして倒れた田子藍那さん。しかし生きていたのなら、精いっぱいのハグで迎えてあげたかった。
しかしそんな雰囲気はない。田子さんの表情は明らかに曇り、そして苦虫を潰したような表情だった。
明らかな敵意がこっちに伝播してくる。

「田子さん、あなたは何故そこに立っていらっしゃるのですか? あなた一度毒を口にして倒れてらっしゃいますよね?」

田子さんは何も答えない。
ただ鋭くとがった視線を投げつけてくるだけだった。
すると、手に持っていたロープを投げ捨て、物置の中にあった木の箱に腰を下ろした。

「毒を口にしたけど奇跡的に一命を取り留めて、嬉しさのあまり霧さんの閉じ込められている物置に、しかもご丁寧に合鍵を使って入った、なんて言いませんよね?」

「さっきの推理ショーは演技?」

「そういうことになりますね。真犯人を油断させておびき寄せるための、まぁ古典的ですけどね。あなたが山荘内の会話を聞いてることは分かりました。この山荘のいたるところに盗聴器を仕掛けて、集まった声を外のあのプレハブ小屋で聞いていたんですね」

「良く分かったわね」

「まぁ何となく。確信はありませんでしたけどね。ただあなたが犯人ならこの山荘の内部の動きを把握する必要がある。自分ならどうするか。もともと自分の用意した舞台なら盗聴器を使うだろうなと思っただけです」

「探して見つけたところでどうにもならないでしょう。むしろこちらの動きに気づかれるだけです。ですので音声だけで犯人を騙させてもらいました」

「なるほど」

「宜しければ、本当の解答編を上映したいんですが」

「お願いするわ」

「では、まず田子さん、あなたはこの山荘のもともとの所有者の『黒川影夫』さんの親族の方ですね?」

「黙秘権」

「なるほど。取り敢えず話を続けます。あなたはずっと前から今回の殺人事件を計画した。その準備に電力会社や水道局に連絡して一時的にライフラインを通してもらった。
そして今から一ヶ月ほど前、一度ここを訪れている。食料や水の置きにくるためと、盗聴器の設置、そして実際に事件を起こすときのシミュレーションのため。
それらが済み、さぁ本番です。しかし本番を行うに当たって、欠かせないものがあります。」

「協力者のことね?」

そう答えたのは田子本人だった。

「えぇ、そうです。今回の一連の事件は田子さん、あなたが確かに主犯ではありますが、でもしかしあなた一人のチカラでは決して成し得なかったはず。そう、あなたの犯行に力を貸した人間は必要です」

鷹見の言葉にその場にいた全員ががっと、互の顔を見合わせた。何人かの視線が私のそれと交差した。

「正確に言えば、『協力者だった人間』といったほうが良いでしょう。その人間は確かにいました」

「ふうん。で、誰?」

田子本人はまるで他人事のように口から紫煙をふかした。その紫煙自体も我関せずと言わんばかりに霧散していった。

「まずは、『白川光一』さんです。確かあなたがたのマネージャーさんだとか。なんでも話によると、皆さんがこの山荘に到着したあと、自ら麓の村に救助を求めるため下山を試みて、そしてその麓の村で亡くなった、そうですね」

「さぁ・・・」

「否定も肯定もしませんか。まぁ良いでしょう、話を続けます。自分はこの白川光一氏を知りません。会ったこともありません。どのような人物なのかはここにいる皆さんの証言でのみ推測せざるを得ません。しかしそれを承知の上で断言します。
白川光一氏の思考・行動は矛盾だらけである」

「例を挙げて」

田子のその端的な言葉には、しかしどこか淡々とした口調が消えていた。彼女が必死でその高ぶる感情を無理に押し殺している、そう思った。

「彼は本来の目的を達成していない。その一言に尽きます。彼はなぜこの山荘を飛び出したのですか。もちろん、救助の要請のためです。雪深く半分幽閉されている職場の同僚をいち早く助けるために、自らの身体が危険にさらされてもお構いなしに、
単身麓の村まで駆けつけた。道もわからず、途中でバスが立ち往生してしまう可能性もあります。そうなれば自分は助けを求めることもできずに、そして同時に職場の同僚の精神的負担を少しでも軽減させてあげる、と言う仕事もできなくなります。
しかし彼はそれを顧みず、救助を呼びたい、の一心でこの山荘を飛び出しました、そこまではよろしいですか?」

「間違いではない」

「では、ここで問題なんです。その彼はやっとの思いで麓の村に到着しました。命からがら、まさに九死に一生を得る思いだったんでしょう。ではその彼が次は何をしたでしょうか。『何もしなかった』んです。
これは猪井田さんが電話で確認したことです。今から何時間も前に偶然携帯電話がつながったそうです。そのとき白岡さんの持っている携帯電話から着信があり、確認が取れました。
村人に救助を要請するわけでもなく、事情を話す訳でもなく、ただつ数十時間前まで村に逗留していただけでした。なぜでしょうか。半死半生な思いをしてまで救助を求めに行った彼は、どうしてこのことを話さなかったのでしょうか」

「忘れてたんじゃないの?あなたも言ったように半死半生な思いで精神が高ぶっていて、本来の目的をつい忘却してしまった、そんなことじゃなくて?」

「田子さん、あなたのような人間がそんなことを言われるのですか。確かに白岡さんが半死半生の思いをして村にたどり着いたかもしれません。その時にはもしかしたら自分の目的を一時的に忘れていたかもしれません。ですが、気分が落ち着いたら
いくらなんでも思い出すでしょう。『自分は何しにここに来たのか?』と。そうでなくても地元の村の人は『どうしたんだ?』『なんでこんなところにいるんだ?』と一言聞くでしょう。なにのもかかわらず、彼は何一つ答えませんでした。
なぜでしょう?」

「私には想像できないわね」

「そうですか。僕にはできます。『もともと彼は山荘で皆さんが幽閉されていることを伝える気は無かった』、そう考えると納得がいきます」

「はぁ! なんでさ!」

不二見さんだった。おそらく不二見さんが叫ばなかったは私が叫んでいただろう。そのくらい衝撃的な言葉だった。
あの白岡さんが、どうして、そう思えてしょうがなかった。

「それは白岡さんが紛れもない『協力者』だったからですよ。おそらく白岡さんは今回の一連の騒動を予め知っていた。そう、真犯人の口から伝えられていたに違いありません」

「今回の連続殺人を・・・?」

「ううん・・・、難しいですがそれは多分ないでしょう。おそらく真犯人から『知り合いの山荘が雪山にある。そこでサプライズパーティをするから私たちだけにしてほしい。大丈夫、変なことはしない。
白岡さんは助けを呼ぶふりをして麓の村まで移動してください。3日もあれば私たちで勝手に下山できます。もちろん助けを呼ぶ必要は無いです』なんて言葉をかけたのかもしれません。
その言葉を間に受けた白岡さんは、その言葉通り、バスを使って麓の村まで降りた白岡さん。
しかし村人には言いつけ通り、何も伝えなかった。真犯人の言葉通りそのまま麓の村で時間を潰した。まさか、その山荘で凄惨な殺人事件が起こっているなど露知らずに。そして犯人は白岡さんの口から真実が漏れることを懸念して、口封じを行った」

「要は、殺したってこと?」

「そうなります。彼はここから何キロも離れた村で殺されました。死因は毒物による中毒死だと聞いています。毒物死ならこの山荘にいても実行できます」

「ほう、どうやって」

「彼が普段口にいしているものに毒を仕掛ければいいんです。毎日少しずつ口にしているものの中に1つだけ毒物を混ぜておけば、いつかはそれを口にして息絶える。そのとき仕掛けた真犯人は全く別の場所にいる、よって疑われることはない。
そんな算段です。どうです。これなら無理ではないでしょう?」

「そんなもの彼にあったかしら?」

「あると思いますよ」

「どうしてそう言えるの?」

「地方の小さな一劇団とは言え、その運営を任されたマネージャーは、それはもう多大な精神的ストレスが大きかったと思います。そんな人物が共通して持っているものといえば『胃薬』があります」

私は小さな口の中で、あっ、と叫んだ。
見たことがある。大きな公演の前や、問題が起こったときなんか、第一線で白岡さんはその解決に尽力していた。そしてそのときには必ずと言って良いほど『小瓶から胃薬』を出して飲んでいたのを覚えている。
そう、そして山荘に着く直前でも同様に胃薬を飲んでいた。

「その胃薬に1つだけ毒物を含ませていたら、その毒物を知らずに飲んだとしたら。白岡さんは訳も分からず死に至る、と言う訳ですね」

「それって証明できるの?」

「愚問を。白岡さんは現地の医師の手によって『毒物死』と診断を受けています。当然、近くの病院で検死が、死因の特定が行われます。本来体内で生成されない物質が発見されれば、それが死因と断定されますよ」

田子さんと鷹見くんはその言葉でしばしにらみ合った。

「じゃあ良いわ。百歩譲って白岡さんが皆をわざと置き去りにした、としましょ。でもそれだけじゃあ今回の事件を起こせたかしら?」

「無理でしょうね」

「でしょう」

「『それだけ』しか協力しなかったら、という意味です。僕は思いますね。山荘から皆さんを置き去りにするなら同時に、『皆さんをこの山荘に連れてくる』のも協力していたのではないでしょうか。ふむ、続きを聞かせろと言わん表情ですね。
いくら仕事の同僚に『私たちをここに置き去りにして麓の村で待っていてくれ』と言われても、普通の人間は首を縦に振らないでしょう。『そんな危ないことはできない』と拒絶するに決まってます。
恐らくですが、『この山荘に道に迷ったふりをして着いて欲しい』とお願いしたのではないでしょうか。
最初、今回の真犯人に『この山荘に道に迷ったふりをして着いて欲しい。その山荘は私の家の所有物であり、水や食料はある。そこでサプライズをしたい。だから白岡さんは山荘についたらなにか理由をつけて山荘を離れて欲しい。
大丈夫、ここに地図がある。この地図を頼りにすれば麓の村に着ける。麓の村についたら今回のことは言わずにそこで待っていて欲しい』と言ったんでしょう。白岡さん本人も最初は訝しんだかもしれませんが、最初から本人の所有物であり、
山荘の場所も分かっている。こまめに連絡を取りもし何かあればまた戻ってくれば良い、ということでその場でオーケーを出したんでしょう。
では白岡さんは迷いながら、いえ正確には迷うふりをしながら、少しずつこの山荘に近づいてきました。
みなさんが乗っていたバスを運転していたのは誰ですか。おそらくマネージャーの白岡さんだと思います。
当然バスの進行方向の主導権はハンドルを持っている白岡さんになります。吹雪で道に迷ってさまよっている、と思いきや白岡さんの計画通りにこの山荘に向かっていたんです。」

「・・・そ、そんな。じゃあ私たちは白岡さんにだまされてここに来たってこと?」

「言葉は悪いですが、そうなりますね。ただその白岡さん自身も真犯人にだまされていた事には変わりありません」

田子さんはゆっくりと紫煙をふかしたあと、携帯灰皿にしまった。

「でも、白岡さんはなんで私のいう事を聞いたのかしらね。今あなたは『職場の同僚』って言葉で片付けたけど、職場の同僚だからって言って何でもかんでも言うこと聞いてくれるとは限らないでしょ」

「その通りなんですね。白岡さんが『いくらなんでもそんな危険なことに力を貸せない』と言ってしまえばそれで終わり。真犯人の企みは露と消えます。しかし実際にはそうはならなかった。なぜでしょうか。理由は単純明快です。
あなたと白岡さんはただ単に『同僚の職場』という関係ではなかった、そう言えますね」

声が出なかった。
劇団の先輩である田子藍那さんと、マネージャーの白岡光一さんの、通常ではない関係、その言葉に息を飲んだ

「とは言っても、普通の人が想像するような年の差の離れた恋愛関係、といった類ではないでしょう。もっと明確な上下が生まれる関係があったんだと思います」

「千里眼でも持っているみたいね」

呟くように、そのまま二本目のタバコを取り出す。

「白岡さんは、あなた、田子藍那さんに非常に大きな負い目を感じていた。だからこう言ったお願いを無下に断るわけにいかなかった。ではその負い目とはなんでしょうか。勿論『田子さんのおじいさん』に関することです。
そう、つまり田子藍那さんの祖父、『黒川影夫』さんに関することです」

「ふうん、ところで君は私が『黒川影夫』の親族だって決め打ちしてるけど、そもそもそんな証拠があるの?」

「あなたがこの『黒川影夫』氏の山荘で事件を起こしたからでは不十分ですか?」

「不十分」

「『黒川影夫』氏の本名が『タゴ シンタロウ』氏だから、では不十分ですか?」

田子さんの目が一瞬鋭くなった。まるで猛禽類のそれだった。

「・・・どうしてそれを」

「あれ、ご存知ではありませんでしたか。『黒川影夫』さんの作品、全部で7作品あります。黒川氏は生前から自分が書き上げる作品は7作品だけであると公言してありました。なぜでしょうか。
最初から自分の書く作品数を限定することはさして珍しいことでありません。ただそれが『7』作品というのはどうも中途半端です。ではこの7作品にはどんな意味が込められているのでしょうか。
黒川影夫作品愛好家の間では有名は噂話ですが、1作品が一文字、自分の本名を表しているのでは、と。
一作品目が『猛き月』、二作品目が『地獄の死神』、そして『哀しい追放者』、『不可侵な聖域』、『残された遺産』、『漆黒の牢獄』、世に出ていない幻の作品と言われているのが『凍てつく虚空』。
それぞれを平仮名に直して順番に並べてみると、
・たけきつき
・じごくのしにがみ
・かなしいついほうしゃ
・ふかしんなせいいき
・のこされたいさん
・しっこくのろうごく
・いてつくこくう
これを一作品目は一文字目、二作品目は二文字目をとって順番に読んでいくと・・・。みごと『たご しんたろう』となります。これは黒川氏のちょっとした洒落のつもりなのかもしれません。
黒川氏の苗字が「たご」、そしてあなたの苗字も「たご」、これは偶然じゃないですよね」

「苗字が一緒なだけ。そんなこと言ったら「佐藤」なんて苗字が日本全国に何万人いると思ってるの」

「でも「たご」なんて苗字は数多い部類には入りませんよ」

「確率的にはゼロじゃない」

「・・・そんなこと言ったらキリがありませんが。まぁここでは黒川氏の本名が『たごしんたろう』であり、あなたがその孫ということでとりあえず話を続けます。ええっと、何の話でしたっけ。
そうそう、白岡さんはなぜ田子さんに負い目があったかって話でしたね。そもそも、白岡さんはなぜこの劇団のマネージャーになったのでしょうか、真壁さん」
 
「前に勤務していた会社をクビになったから、その会社で大きな失敗をしたから、って姫世からそう聞いてるよ」

「そのようですね。ではどんな失敗をしたんでしょうか、そしてなぜクビになってこの劇団だったのでしょうか、それについて猪井田さんから何か聞いていますか?」

真壁さんは黙って首を横に振る。

「これは完全僕の予想です。しかし最後まで聞いて欲しい。白岡さんは以前、大手の出版社に勤めていました。その出版社では『黒川影夫』さんの作品を扱っていて、そして白岡さんはその『黒川影夫』さんの最初からの担当者だった。
その為、『黒川影夫』と言う名前も担当者の『白岡光一』さんからとったのではないでしょうか。担当者の『白』『岡』『光』『一』のそれぞれ対応する漢字を当てたんだと思います。
『白』に対して『黒』、『岡』に対して『川』、『光』に対して『影』、そして『一』に対して『夫』を当てた。『一』に対してなぜ『夫』なのか、まぁ恐らく昔から男性の名前によく使われてきた言葉ということでしょう。
そう考えると、『黒川影夫』さんと『白岡光一』さんは全くの無関係ではないのでしょうか」

「飛躍のし過ぎじゃないかしら」

「そうかもしれません。たがしかしその白岡さんがなぜこの劇団にやってきたのでしょうか。そもそも白岡さんがした大きな失敗とは何だったのでしょうか。これは容易に想像できますね。そうです、黒川影夫さんの謎の死です」

「じゃあ、白岡さんが黒川影夫さんを殺した犯人ってことですか!?」

「いえ、そういう訳ではないでしょう。日本の警察もそこまでバカじゃないですし、もしそれが真実ならもうとっくに逮捕されて大問題になってますよ。僕が言いたいのは、白岡さんが間接的に黒川さんの死因を作っていたのではないか、という事です。
黒川さんの持病、田子さんなんでしたっけ?」

「・・・・・・心臓病よ」

「らしいですね。これは黒川影夫さんの作品に心奪われた人間ならほとんど知っている公然の秘密のようなものでした。ではその心臓病、なぜそこまで悪化したのでしょうか。もしかしたら生まれつき心臓が弱かったのかもしれません、
あるいは年齢もあるかもしれませんし、またあるいは長年の執筆活動で体を壊していたのかもしれません。そして担当者の白岡さんの度重なる原稿の催促も一因かもしれません。小説家にとって原稿の締め切りは必ずついてまわるものであり、
担当者からの催促はもはや宿命です。黒川さんは元来、それほど多くの作品を書く人物ではありませんでした。自分の納得した作品を納得いくまで推敲しそして納得がいったら発表する、そんな人でした。
しかし出版社としてはそうは言ってられない。この本が売れないと言われている時代に、発表すれば必ずベストセラーになる作家がいるんです。その売上は計り知れないものです。ならば質よりもやはり量を売りたい、そう思うのは無理もありません。
5年に1度、10年に1度では例え売れたとしても長い目で見たらトントン、いやむしろマイナスになることもあります。出版社は度重なる作品の量産化を押し付けます、担当者を通じてね」

「白岡さんが黒川さんに無理矢理作品をかけ、と言ったんですか」

「おそらく行ったと思いますよ。だって上司からの命令ですから。ただ勘違いしないでいただきたい。僕はその白岡さんは決して冷徹無比な人間だったとは思えませんよ。上司からの催促と担当し同時に尊敬する作家の思いとの板挟みにあったんだと思います。
自分の担当している作家がどんなタイプの作家かも熟知していたと思いますよ。目の前にいる作家は現代にして稀有な作家であり、一作一作に全精力を傾ける文豪。
作品1つ1つをまるで我が子のように思い可愛がり、そして鍛え直していく。そんな人間。黒川影夫をだれよりも理解していたからこそ、作品の催促には誰よりも気を使って神経をすり減らしたんだと、そう思います。
そしてかの文豪も自分を最も理解してくれる担当者の境遇も理解していた。自分の作風を理解してくれながらも、上からの圧力で身を粉にして働いている相方を思い、同時にその身を捧げた。それが結果として自らの寿命も縮めることとなった。
そんなことだと思います。
そして黒川影夫さんは非業の死を迎えた。直接的な死因は発表されていませんが、持病の心臓病だと考えて良いでしょう。日本が誇る文豪、そして世界が認める文豪がなくなったのです、誰かがその責任を取らざるを得ません」

「それが白岡さんだったってわけ?」

「憶測ですけどね。事故死や寿命による衰弱ならまだしも、心臓病による、それも謎の死。各方面からは「無理な執筆催促が原因ではないか」と揶揄されることもあったでしょう。
こうなってくると出版社としても何かしらの責任をつけなくてはいけません。そこで当時担当者だった白岡さんに白羽の矢が立った」

「ひどい!」

つい思わず声を上げてしまった。しかしそれが私の正直な感想だった。それに追随するかのように知尻さんも続いてくれた。

「自分たちで作品を量産しろと追い立てていたくせに、その作家が亡くなったら担当者に罪を着せて責任を擦り付けるなんて、どうも私は許しがたいね」

しかしその言葉に彼は眉毛を下げ嘆息した。

「まぁ、落ち着いてください。あくまでも僕の推測です。これが絶対的な真実だとは思わないでください。
それに必ずしも出版社が悪者と言うわけでもないんですよ。出版社だって、慈善事業じゃない。会社の生計を立てる義務がある。そして何百人いる従業員を養う義務がある、そしてそれは従業員分の家庭を守る責任があります。
つまり社長を筆頭に出版社の人間にも、この不景気の中でなんとか売上を伸ばさなくてはいけないんです。出版社もバカではないでしょう、黒川氏のことも重々承知の上で、しかしそう言った指示を出していたんだと思いますよ。
そしていざ黒川さんが亡くなれば、今度はその上、例えば政府や国民から責任追及の声が上がります、『黒川影夫を追い込んだ』、『世界的な財産を失った』なんてね。そんな声が上がった以上、誰かしらを『責任を取る』と言う形で処分しないと、
他が納得しません。その時泣く泣く対象になったのが、白岡氏本人だった。でも出版社としてもなんの落ち度もない彼を処分するのは忍びない。そこで彼を解雇する、と言った形をとって次の就職先を都合してあげた」

「なるほど、それがうちだったってわけだ」

「そういう事になりますね。たぶん出版社の上部の人間は黒川さんと田子さんの関係性も知っていた。そしてその孫娘が小さな劇団で役者をやっている、そこまで知っていたんでしょう。そこで以前仕事をしたこともある名目上、
その劇団にマネージャーという形で新しい職場を斡旋したんだと思います。おそらく猪井田さんには、田子さんと黒川さんの関係は伏せて話を通したんでしょう。
また、それだけではなくて彼女の祖父を失わせた償いとしても、出版社は劇団トワイライトの広告を優先的に行った。格安の広告料で劇団トワイライトの名を広めた。だから最近になって、こう言ってはなんですが、弱小劇団が有名になったんだと思います。
さぁどうでしょうか。ここまでは推測、証拠のない御伽噺ですが、でもどうして筋が通っていると思いませんか?」

「推測だけだったら、なんとでもできるわね」

あくまでも冷ややかな口調で田子さんは返す。

「そうですね、あくまでも推測ですね。でも筋道自体は矛盾がないので、とりあえずこのまま話を続けさせてもらいます。
白岡さんは黒川さんの遺族に、田子さんに負い目があった。だからこう言ったことにノーとは言えなかった。つい軽はずみに仕事を引き受けてしまった」

田子さんは何も喋らない。
ただ手を優しく鷹見くんに差し伸べる。「続けろ」と言うサインだ。

「さぁ、ここまでは白岡光一と言う協力者の話でした。ですがこれだけでも今回の事件を完成させることができません。では質問です。不二見さん?」

「わ、私?」

「なに簡単な質問です。田子さんが事件を完成させるのはあと何が必要でしょう」

「んと、急にそんなこと言われても・・・・・・。凶器の準備とか」

「違います。もっと他の、この山荘に着いてからの必要な準備です」

「・・・・・・まさか、他の『協力者』って言いたいのかい」

答えたのは不二見ではなく、その背後に立っていた真壁だった。

「ご名答。田子さんには他の協力者が必要です。それは『山荘内の協力者』です。つまり劇団メンバーですね。
先程も言ったようにこの事件は協力者なしでは実現できません。では誰が協力者だったのでしょうか?」

一瞬冷たい空気が流れた。
この山荘内に協力者がいる・・・。
それは殺人の片棒を担いだ人間がいるということ。
この中に、今まで仲間だと思っていたメンバーに、殺人者が。

真壁冬香、
知尻マリア、
不二見未里、
霧綾美、
新馬理緒、
貴中怜、

彼女たちの顔を思わず見回す、皆私と同様の仕草をする。
この中に、
この中に、動揺した表情を見せながら、私たちに牙をむく殺人鬼が・・・

そう思った時だった。

「断っておきますが、皆さんの中に殺人に手を貸した人間はいません。全てはこの田子藍那さんによる事件なんです」

私はあっけにとられる。
だって今、協力者がいるって・・・

「鷹梨さん?」

「へ?」

「マジックや手品で、最も『騙しやすい』のはだれだかご存知ですか?」

「マジック? 手品?」

急に何を言い出すのだろう。そう思った。だって、今回の事件とマジックと何の関係があるのか全くわからなかった。しかし聞かれた以上答えなくてはいけない

「ええっと・・・、マジックを全く知らない素人、とか・・・?」

「残念ながら違います。マジックでは『自分は仕掛け人だ、騙している側だ』と思っている人間ほど、騙しやすいんです。彼らこそ、最も油断している人間だからです。
ふむ、説明がまどろっこしいですか。では本題に入ります。

まず確認しましょう。最初の事件は、密室での鶴井舞さんの殺害でした。錠前と閂の二段構えの部屋の中には、額を拳銃で撃ち抜かれた鶴井さんが倒れていた。
また浦澤さんは、一人二階の部屋に戻っていたら最期、誰も二階に登っていないのに、首吊り死体として発見された。猪井田さんは、部屋で胸のあたりを刺されて謎の言葉を残して亡くなった。
ここで注目するべきなのは、鶴井さんと浦澤さんです。
僕がこの話を聞いたとき、信じられませんでした。この極寒地方での超密閉された部屋の中での密室殺人と、互が互いの証人である完全アリバイ殺人。これを打ち崩すのは非常にこんなんであることを。
僕は自称ミステリマニアと嘯いていますが、その2つをクリアできる方法はついに看破できませんでした。いえ、過去にはエドガー・アラン・ポウの『モルグ街の殺人』と言う創始作から始まり何千何万と言う探偵小説推理小説が世の放たれれきました。
もしそれらの全てを網羅すれば事件は解決できたかもしれません。しかし僕も一応の学生という身分を持っている以上、それらの作品全てに目を通すと言うことは叶いません。
もしかしたらもっと完璧な回答が用意できたかもしれませんが、これは僕の1つの回答だと思って聞いていただきたい。

おや、前フリが長いですか。では率直に述べましょう。
僕はこの鶴井舞さん、浦澤瞳さんの殺人事件を実行するのは『不可能』だと思っていました。いえ、森羅万象の知恵を持ってうすれば不可能ではないかもしれませんが、この限られた環境、限られた資源、そして限られた時間の中で、
これほどまでに完全に証拠の1つも残さないで全てを完了するのは、ほとんど不可能だと考えています。
だとすれば、どんな答えになるか。『どこかで我々は勘違いをしているのではないか』という事です。所謂、数学の世界で言う背理法と言うものですね。矛盾があるという事を前提で論理を進めていくとき、最終的に矛盾が生じたとき、
もともとの前提が間違っていた、という事になります。今回はそれとおなじようなことになります。

そもそも僕が最初におかしいと思ったのは、今回の事件を最初に聞いた時でした。
そう、鶴井さんの密室事件を聞いた時からです。鶴井さんは自分の部屋の中で錠前の鍵と閂と二重の鍵を掛けられた状態で死んでいたということです。
そして続けて田子さん、浦澤さん、そして猪井田さんと連続した殺人事件が起こりました。

なぜ鶴井さんを密室で殺害したのでしょうか。これが私が最初に心に浮かんだ疑問でした。
ここで問題なのは、何故鶴井さんが、ではなく、何故密室なのか、という事です。密室殺人というものは皆さんが思うほど有用なトリックではありません。

他のアリバイトリックや凶器の消失と言った類とは違い、『密室トリックを使った』という事がわかった段階で犯人にとっては非常に不利になります。
これが密室の中で自殺死体があれば話は別ですが、密室の中に明らかな殺人死体が横たわっていて、その後連続殺人が発生すれば少なくとも関係者は「密室死体は自殺ではなく他殺、つまり密室トリックが使用された」と考え、
密室トリックが使用されたと言うことが露見されてしまいます。
だったら、せめてすべての殺人を終えたあと、全ての罪を鶴井さんに着せて密室自殺だと思わせれば、まだ丸く収まりました。でも犯人はそうはしなかった。
これは明らかに愚策です。ここまで綿密に殺人計画を練った人間にしては、非常に抜けているところだと言わざるを得ません。

とここまでは最初に僕が感じた違和感でした。しかしここで再び思考を巡らせました。
もし、その「いかにも愚策と思えた計画」そのものが犯人の本当の計画だとしたら。
その愚策で、我々がどこか間違った答えにミスリードさせられているとしたら。そう考えました。
ふむふむ、この突飛な答えですが、さらに考えを突き進めていくと、すると新しい答えが浮かんできました。
一見すると、愚策極まりないこの殺人順序、じつはこれで我々はある固定観念に囚われました。それが何かわかりますか?」

「・・・・・・・」

誰も何も喋らない。皆次の一言を待っているようだ。

「ふむ。では答え合わせをしましょう。皆さんはこの鶴井さんから始まった事件により、これらが『連続殺人事件』である、と勝手に考えてしまった」

「ちょ、ちょと待って、鷹見くん、君一体何言ってるの? 勝手に考えるもなにもこれは連続殺人じゃ」

「そう。犯人はそれを狙った。犯人が何も言わないで、鶴井さん、田子さん、浦澤さん、猪井田さんと次々と倒れれば、誰だって一連の連続殺人だと思ってしまう。
これで犯人は我々に目の前で起こっていることは『殺人』だと錯覚させることができる。つまりどういう事か、『殺人』と錯覚させることが目的なら現実は『殺人なんて起こっていない』という事になります。
ふんふん、皆さん呆然となられていますね。まぁそれも無理はないでしょう。それこそが犯人の意図、そう邪悪な糸でした。
最初これを考えたとき、自分でも少し背筋が冷たくなりましたよ。さすがにこの仮説は怖いな、と。
でもね、大学で教授からもよく言われるんです。新しい論文、新しい研究、新しい見識を生み出すためには、そもそも自分の土台を疑ってみろ、とね。
今までの常識は大切です。我々の社会は常識で大体90%出来上がっています。でもね、残り10%は常識を疑って壊さなくてはいけないんです。
それが学問というものなんです。ん、話が逸れてしまいましたね。

この限られた環境・資源・時間の中で連続殺人と言う完全犯罪が実行可能である、と仮定して論理を進めて言っても、結局は全て不可能だという結論に達した。という事は、そもそも『連続殺人自体無かったのではないか』と言う新しい仮説に達します。
いつの時代も新しい着眼点は得てして不評を買うものです。
とりあえずこれで話を進めていきます。もし『連続殺人自体無かった』と仮定しましょう。では鶴井さんたちはどうだったのか、これは答えが簡単です。死んでいなかったのだから『死んだふり』をしていた、という事になります。
そうです、『彼女は死んでいなかった』。錠前と閂の二重ロックがかかっていた部屋の中で彼女は特殊メイクを施して倒れていただけ、ということです。
でもそう考えるといろいろと辻褄があってきます。

まず鶴井さんの部屋の鍵です。
外からだとキッチンに収納されてある鍵束の鍵と、そして部屋の自体の閂の2つがネックになってきます。鍵束を使えば返しに行く時間がない、閂を締めようと思っても、雪や磁石を使えばみんなに気づかれてしまう。
その片方だけならまだごまかしは効くかもしれないが、両方となると仕掛ける側も非常に困難になります。この二重の鍵を克服するのは並大抵のことではないと考えられます。
ではこれがそもそも『部屋の内側にいる鶴井舞さんの仕業』ならどうでしょうか。これなら何一つ問題がありません。錠前は部屋の内側からかけられますし、閂も同様に内側からかけられます。
あとは額に恰も銃で撃たれた特殊メイクを施して部屋の真ん中で寝ている、これで準備OKです。あとは部屋の外でドアを打ち破ろうとするのを音と声で確認しながら、今か今かと待っていれば良い。
では浦澤さんの事件の時はどうしたか。
事実上の容疑者である皆さんをキッチンに置いたまま、自分だけは2階の自分の部屋に戻りました。そして、何故か誰もキッチンを移動してないのに、何者かに殺害されていました。
そもそも浦澤さんは、本当に事件を解決できたのか、トリックが本当に思ったのか、2階登った時に用意した準備はなんだったのか。それが謎でした。
これも、半分までは解決できます。
そうですね、皆さんがおおよそ予測したとおりです。『浦澤さんは最初から犯人なんて知らなかった』という事になります」

その時だった。
鷹梨くんの体が少し宙に浮いた。
真壁さんだった。真壁さんが顔を俯いたまま、t悲しくんの胸ぐらを掴んでいた

「・・・・・・勝手なこと言うなよ」

ひどく弱々しい声だったが、それでもきちんと聞き取れた。憎悪とも悲しみとも取れる声であった。湧き上がる怒りと悲しみをとりあえず誰かにぶつけたいと思ったのであろうか。

「舞と瞳が死んでなかったって・・・。よくもそんなことが言えるな。でもな、あいつらはもう死んでるんだよ・・・。もうこの世にはいないんだよ!」

「・・・・・・わかっています」

「分かってるなんてどの口が言うんだ! 分かってたらそんなこと言えないはずだ! 舞と瞳の死を・・・」

「瞳さんの部屋には何もありませんでしたよ」

「あぁん!?」

「失礼とは重々承知でしたが、事件のあったあと、浦澤さんの部屋を拝見させてもらいました。ええっと、あの、このままだと喋りにくいので、一度離してもらっていいですか。どうもすいません。んと、何の話でしたっけ・・・?
そうそう、浦澤さんの部屋の話でしたね。浦澤さんは当時犯人が分かったと言って部屋に戻られた。しかしその部屋の中には、何か時間を掛けて準備するものは無かった。では浦澤さんは何のために部屋に戻ったのか」

「それがどうした!!」

「鶴井さんもそうだ。なぜわざわざ特殊メイクまでして、皆さんを騙そうとしたのか」

「貴様!」

真壁さんが再びその喉元に爪先を伸ばしたとき、

「犯人に言われたんですよ。『皆を騙すために協力してくれ』と」

「あん?」

「恐らく鶴井さんも、浦澤さんも、言い出したのは彼女たちではない。二人ではない誰かほかの人物がこう持ちかけたんですよ。そして鶴井さんと浦澤さんはその言葉に乗った。被害者の2人は軽い気持ちだったのかもしれません。
しかし、犯人はそうではなかった。
最初、犯人は鶴井さんと浦澤さんにこう持ちかけた『この山荘は自分の家の持ち物。ここで皆を驚かすためにちょっとしたサプライズをしよう。鶴井さんと自分が殺されて、浦澤さんが探偵役で解決、その後鶴井さんと自分はみんなの前に姿を現す』、
なんていう具合にね。最初は、2人も良い顔をしなかったかもしれないが、すぐ終わる、ほんの冗談だから、なんとか言って今回のドッキリに強力するよう言いくるめた。鶴井さんも浦澤さんも、別にそれだけならと渋々納得したのかもしれない。
しかし実はそうでは無かった。皆さんを騙す立場という事で油断していた2人を、本当に殺害することによって、本来なら摩訶不思議な不可能状態を作り出すことが、彼女の狙いだった。
分かりますか? 鶴井さんと浦澤さんは別荘に着く前か、あるいは着いた直後に田子さんに話を持ちかけられた。私立探偵よろしくドッキリ推理ショーをする、と言う名目上2人を操って本当に2人を殺してしまうのが、彼女の狙いだったんです」

「は・・・、まさか・・・」

「先程も言ったでしょう。マジックで一番騙しやすい人は、って。『自分たちが騙している側だ、仕掛け人だ』と思っている人間ほど騙しやすいとね。同じですよ。何も知らない皆さんを一時的に騙す人間は、最も騙されやすいんです。
犯人はそこをついた。
まず鶴井さんには部屋で先に額に特殊メイクを施してもらう。そして時間が来たら用意してあった爆竹か何かを爆発させて、音を出す。皆はそれを聞いてドアのすぐそばまでやってくる。
あとは鶴井さんにはできるだけ呼吸などをしないように部屋の真ん中で寝ててもらう。その後、皆さんでドアを打ち破れば、そこには横たわった鶴井舞がいる。
もうお気づきでしょうが、みなさんがドアを打ち破った時点で鶴井さんはまだ生きていました。まだ生きていたどころか、意識もはっきりしていて、皆さんの行動や会話を一部始終聞いていたことでしょう」

「でも、舞はあの時死んでるって・・・」

「ふぅん、だれがそんなことを?」

「ええと・・・・・・、瞳、だけど・・・」

「でしょうね。死んでいない鶴井さんを抱きかかえた場合、その脈拍や呼吸でまだ生きていることが分かってしまう。それでは困る。ではどうするか、共犯が庇えば良いわけです。ではこの場合の共犯とは誰か。もちろん、仕掛け人仲間の浦澤さんです。
浦澤瞳さんは、誰かが鶴井さんに近寄る前に自分から鶴井さんに近寄り、その生死を確認する。『もう死んでる』とさえ言ってしまえば、あとは誰も近づかなくなるだろうと思った。あるいはこれも田子さんの命令かもしれませんが。
とにかくみなさんは、浦澤さんの言葉でてっきり『鶴井舞』は死んでしまった、と思い込んでしまった。その後、玄関外のプレハブ小屋に運んでしまえばOK。第一段階終了です。
では第二段階はどうでしょうか。言わずと知れた田子藍那さん本人の事件です。
皆さんが食事であると言うことで、キッチンに集合します。そこでは丸いテーブルに、どこに誰が座るかわからない状態でした。早く来た人から好きな場所に座る、という事で中の良い人間が隣同士に座ることはあっても、
ピンポイントで誰がどこに座るかは全くわからない状態でした。そこで田子さん本人が毒に倒れました。
そしてその後、霧綾美さんが犯行予告分なるものを持ってきた。あたかも田子藍那さんを狙ったかのような文章でした。
これにより、どこに座るか分からない田子藍那さんをどうやって殺害するのか、が焦点になりました。
これこそが田子さんのマジックですね。これまでの話を分析すると、田子さん1人を狙うことは不可能であり、もし出来たとしたら、それは『霧綾美』だけである、と偽の結論に達することになる。
誰に毒が当たるかわからない、そして実際に毒に当たった人間用の犯行予告分を、さも事前に相談させた、とみんなの前に持ってくると言った形をとるしかない。そうなった。
こうすれば、大勢の中から田子藍那だけを狙った計画殺人、のように思える。
しかし実際はそうではなかった。
もう1人、事前に毒をもられることを知っていた人間がいた。誰であろう、田子藍那本人である。自分が今回の首謀者である以上、食事で誰かに毒をもらせて事件を起こそうと考えているのも自分であった。
当然自分で自分に毒をもることも簡単に出来た。正確に言えば最初から食事に毒なんて入ってなかった。自分の口の中に入れた血糊を潰すだけで、恰も本当に毒を口にしたかのように見せ付けられる。
あとは、協力者の浦澤さんがなんとかごまかしてくれる。実際、田子さんが倒れたとき、最初に駆け寄ったのは、誰でしたか。恐らく浦澤さんのはずです。
浦澤さんは被害者ではなく、全てを片付ける探偵役、それと同時に後片付け役だったはずです。協力者が倒れた時の真っ先に駆けつける役を請け負っていたことでしょう
その後、田子さんも生きて意識がはっきりしているまま、例のプレハブ小屋に戻りました。
さぁ、ここで田子さんの最初の大きな仕事が残っています。プレハブ小屋には現在、鶴井さんと田子さん本人が残っています。ここに運ばれても死なないように、最低限の水や食料を備蓄しておきました。鶴井さんが寝静まったとき、そのまま
鶴井さんが生きていては困る、なのでそこで改めて鶴井さんを射殺した。プレハブ小屋の中でです。周りに断熱効果と称してブルーシートか何かを敷いておき、油断したところで、隠していた拳銃で死体役をしていた時と同じ額を打ち抜いた。
返り血は全部ブルーシートで処理しました。匂いも、極寒地ということで然程苦にならなかったでしょう。
田子さんはしたいと一緒に数日感、プレハブ小屋で過ごしたはずです。
でも浦澤さんはそうとは知らないはずです。
さぁ、鶴井さんは始末しました。あとは浦澤さんです。
この事件は鶴井さん以上に不可解な不可能事件でした。浦澤瞳さんは一人自分の部屋に戻りました。少し時間をくれと言って。その後、ほかの皆さん、猪井田さん、真壁さん、知尻さん、霧さん、不二見さん、新馬さん、貴中さん、そして鷹梨さん、
皆さんがキッチンで浦澤さんの帰りを待っていた。その間キッチンを出た人は誰ひとりいなかった。しかしあまりにも時間がかかりすぎだという事で、皆さんで浦澤さんを迎えにいきます。そこで浦澤さんの首吊り遺体があった。
ここでの謎は以下のとおりでした。即ち、『誰が犯人なのか』、『浦澤さんは部屋に何を準備に行ったのか』、『鶴井さんの部屋には鍵がかかっていたのに、浦澤さんの部屋に鍵がかかっていなかったのは何故か』、です。
最初の質問は勿論、田子さんです。ではその他の2つの謎はどうでしょうか。じつはこれも田子さんが犯人という事実があれば簡単に分かります。
つまり、『浦澤さんは部屋に何を準備に行ったのか』の答えは『なんの準備もしていない』です。僕は鷹梨さんに今回の事件のあらましを聞いたあと、浦澤さんの部屋に赴きました。浦澤さんがどんな準備をしに部屋に戻ったのか、
それがわかれば今回の事件の謎を解く鍵になると思ったからです。しかし部屋を探しても探しても、ヒントになるものは何一つ見つかりませんでした。
その時思いました。『浦澤さんは何をしにこの部屋に戻ってきたのだろうか』と。何か準備とかではなく、ほかの目的があったのなら・・・」

「田子を待ってたんだ。いや正確には舞も一緒に」

「知尻さんご名答。浦澤さんは自分の役目を終えて、自分の部屋で協力者と首謀者の現れるのを待っていたんです。そして首謀者の田子さんからのネタばらしがあるので自分は特に準備するものもないので、リラックスした状態で待っていました。
さて一方の田子さんもその状況を把握していました。
浦澤さん含め、山荘内の他のメンバーがどんな事を考え、どう動いているのか、それを知る必要があった。わざわざ浦澤さんに報告にこさせるのもできない。そこであなた、田子藍那さんはは前もって、
この山荘のいたるところに盗聴器を仕掛けた。どこに誰がいて、どんな話をしてどこまで現実を知っているのか、それを探るためにも声を聞ける盗聴器は必須でした。そして盗聴器から、浦澤さんに言ったネタバラシの時間になりました。
ここで田子さんは、次の作戦に出ます。
先程も言っていましたが浦澤さんは思っていました。自分は探偵役であり、このあと田子さんと鶴井さんが元気な顔をして、2階の自分の部屋にこっそりやってくる。そして3人でみんなの前に、ドッキリでした!、と言ってネタばらしをすると」

「でも実際はそうじゃなかった・・・」

「えぇ。事実その頃は鶴井さんはプレハブ小屋で殺害されています。そして田子さんは、盗聴器で皆さんはキッチンにいることを知っていました。ですので音を立てないようにゆっくりロビィを横切りました」

「んん、ってことは私たちがキッチンで瞳を待ってたとき、その扉一枚隔てた向こうには・・・」

「恐らく田子さんが音を立てずに横切っていたんだと思います。皆さん疑心暗鬼になっていましたし、キッチン内にみんながいたので、そちらに集中力が注がれていましたから。
さて、皆さんに気づかれずに部屋に入り込みました。浦澤さんは普通に田子さんを出迎えました。しかしそこで変なことに気づきます。鶴井さんがいないんです。浦澤さんは不審に思い田子さんに聞こうとした、その時だった。
隠してあった麻縄を手に食い込ませて、油断していた浦澤さんの首元に引っ掛けた。そして一気に絞り上げる。ここで注意しなくてはいけないことは、浦澤さんの口から苦痛の声が漏れてはいけないということ。
多少の声は、分厚いドアで遮られるとしても、あまり大きな声で叫ばれては一巻の終わり。そこで麻縄を閉めるときは、頚動脈を閉めるよりまず気道の狭窄に尽力しなくてはいけませんでした。
機動を塞いで声を出したくても出せない状況にします。確かに脳に酸素を供給する頚動脈をしめればほんの数分で終わりますが、それでは大声を出される可能性があります。そこで意識を失うまでのおよそ5分間、それこそ死に物狂いで抵抗すし、
自分の体型の一回りも大きな浦澤さんを相手に対抗し続けます。
そしてなんとか息の根を止めると、ようやく天井の梁に括りつけます。
さぁ、予定の計画は終わりましたが、これでのんびりこの場に留まっているわけにはいきません。ここでメンバーの皆さんに見つかれば、自分が生きていることがバレてしまいますし、一発で犯人だとされてしまします。
ですので疲弊した身体に鞭を打って、部屋を出ます。ここでそのままロビィを横切ってプレハブ小屋に戻ることもできますが、予想外のことが起きた。
皆さんがキッチンを出てき始めたんです。自分が浦澤さんを手にかけるのに時間がかかりすぎたせいか、このままではロビィを横切ることができない。ではどうするか。
一旦ほかの部屋に隠れるしかなくなりました。そして浦澤さんの部屋で遺体を発見したその瞬間に、音を立てないように部屋を出てプレハブ小屋に戻りました。新馬さんが聞いたドアを開ける音は、この時の音だと思われます。」

「へぇ。面白いわね。破天荒な推理だけど、でもそれなりに筋が通ってもいる。悪くないわ」

改めて次のタバコでも、と思ったのかマイルドセブンのパッケージを取り出すが、中身が空なことに気づいて、クシャりと潰した。

「ねぇ、タバコ持ってない?」

「あいにく禁煙家なもので」

あっそ、と吐き捨てて足を組み替える。

「そして最後の猪井田さんです。ここでの謎はただ一つ。『青というダイイングメッセージは何を意味していたのか』です。これは案外簡単でした。ダイイングメッセージとは、死に行くものが最期に残した言葉、そこまで多彩な選択肢があるわけでない。
一見すると『青』としか聞こえなかった最期の言葉。それに振り回されてしまいます。田子さんにわざと聴かせる推理の中にも『霧綾美さんが青色のイヤリングをしていたから』なんて稚拙極まりない推理を晒してしまいましたが・・・。
でもでもよくよく考えてみれば、もう死んでしまうと思っている人間の身からすれば、そんな犯人が身につけているイヤリングの色なんかで犯人を差ししめたりはしません。
そんな分かりにくいもの、そして犯人がイヤリングなんて取ろうと思えば簡単に取れるものなんて、ダイイングメッセージで残そうとは思わないはずです。
かと言って、猪井田さんが何かを言いかけて息を引き取った、と言う訳でもありません。アノ馬に僕も居合わせましたが。猪井田さんは死の淵まで『アオ、アオ・・・』と『アオ』と言う言葉を繰り返していました。
これは『アオ』という言葉に意味があるはずです。
ではそれはなにか。
よく推理小説や推理漫画では、複雑でひねったものが多いですが、あれは犯人にこれがダイイングメッセージだと悟られないため、という心理が働いてできたものです。しかし今回は違います。
襲われた猪井田さんは犯人の顔を見ています。そして皆さんが駆けつけてくれたとき、その犯人が周りにいないということも知っていた。ではこのとき、猪井田さんはわざわざ遠まわしなメッセージを我々に贈るでしょうか。」

「それが私の名前ってわけね」

「そうです。猪井田さんは最後の最後まで『田子・タゴ』と言いたかったんです。それを自分の息が続く間、ずっと口にしていました。我々に『田子藍那が犯人だ。田子だ』と言いたかったんでしょう。しかし不運が訪れた。
猪井田さんが刺されたのが、ちょうど鳩尾のすぐ下、横隔膜の辺りの位置でした。横隔膜は肺を動かす筋肉。これが傷つき動かせないと、肺自体が動くことができません、肺が動かないとなると、呼吸そのものができません。
非常に苦痛な酸欠状態の中で、猪井田さんは『タゴ! タゴ!』と言い続けた。しかしそれを聞いていた我々は、『T・A・G・O』のうち、子音の『T』と『G』が聞こえなくなり『A・O』とだけ聞こえたんです。
我々が『アオって何ですか!?』と問いかけても猪井田さんは困惑したはずだ。『アオなんか言ってない。タゴだ!』と言いたかったはずだ。しかしその言葉が届くはずもなく、そのまま息を引き取った。という事になります」

その後、鷹見くんは何も喋らなかった。
ただ目の前の田子さんの動きを見ているようだった。田子さんも田子さんで、特に動き出す様子もなく、逃げ出す姿勢も見せず、ただ座っているだけだ。
あぁ、雪が優しく積もっていく。

「推理ショーは終わり?」

「一応。何かご不満でも」

「そうね、特にないわ。あなたが言ったことは大体あっている。ま、最後の猪井田さんが横隔膜を損傷したってのは、勿論偶然じゃなくて意図的だけどね。人体のどこに横隔膜があって、その横隔膜をどのくらい損傷すればどのくらい言語行動に
支障が出るか、母音は喋れても子音は喋られなくなる、っていうのは理解してたし。あとは合ってるわ」

「ありがたきお言葉です。では犯行を認められるんですね」

「ん? あぁ、認めるよ。そうだよ、私だよ。私が4人を、私自身を入れたら5人を殺害した本人だよ。完璧な計画だと思ったんだけどね。やっぱりばれちゃうのか。
何でだろう。これでもいろいろ我慢したんだよ。拳銃を調達するにもアシが付いちゃいけないし、白岡さんや舞ちゃんも瞳も、言うこと聞かせなくちゃいけないし。プレハブ小屋だって、血の匂いが無いわけじゃないからね。これも我慢するのに苦労した。
ううん、でもなんだろうな。一番の敗因は・・・。やっぱり、君、鷹見君だっけ、君を生かしておいたことかな。なんか飄々として掴みどころがないし、それに何を考えているか喋ってさえくれない。実態もつかめないから、
リスクは最小限、って思ったのがそもそもの間違いだったね」

「よく言われます」

「最期に聞かせて、いつ私が怪しいって思ったの?」

「最初から」

「嘘」

「えぇ、嘘です」

「本当は?」

「本当はもっと後です。つい最近です。猪井田さんの遺体をプレハブ小屋に運んだ時です」

「あれ、あの時バレたの。おかしいな、ちゃんとした死体役で動かなかったはずだけど」

「えぇ。あの時は自分も騙されましたよ。てっきり自分もすべて本物の遺体だと思ってました。流石は役者です、こちらも完全に騙されました。でもそれ以外のものは正直でした」

「それ以外のもの? まさか瞳や舞が喋ったかい?」

「いえ、僕が目についたのは『氷柱(つらら)』です」

「『氷柱』・・・・・、あぁなるほど、そういうことか」

「氷柱は、寒い地方、雪の降る地方にできます。でもあれ、寒い地方ならどこでもできる訳ではありません。屋根の上に積もった雪が何らかの熱で一度溶け、その後再び冷えて固まらなくては氷柱はできません。
あの時、プレハブ小屋は氷柱ができていました。このとき思いました。『プレハブ小屋の中で何か熱源が存在しない限り氷柱はできない』はずだと」

「はっはそうか。私は死体役を演じているだけで実は生きている、だからその生命活動を維持するために点けていた小さな暖房器具のせいで氷柱ができたって訳か」

「そうなりますね。小屋の中は息を引き取った遺体だけのはずなのに氷柱ができていた。誰かが暖房器具を作動させたってことです。そこで初めて全ての点と点がつながりました。中に生きた人間がいると」

「・・・・・・そっか」

田子さんは天を仰いだ。
何を見つめているのか、私には分からなかった。

「どっちにしろ、私の役目はこれで終わり。役目を終えたピエロはこのまま舞台を去るとしましょう」

「役目?」

「どのみち、私はこのままみんなと一緒に帰るつもりはなかったわ。あなたが現れようとそうでなかろうと。でも予想と言うか予言というか、あなたが現れた」

「はい?」

「全てが終わったら、全てにけりをつけるはずだった。だからこれで終わり」

「?、何を言ってるんですか」

「最期に問題」

「?」

「この山荘で、皆の前で、田子藍那はどんな死に方をした?」

どんな死に方?
何を言ってるんだ?
そう疑問が頭に沸いた時だった。

カリッ!

田子さんが何かをかんだ。
口に仕込んでいた何かを、思いっきり噛み砕いた。
その時だ。

田子さんは首元を抑えて、倒れこんだ。
足を見苦しいくらいにばたつかせ、奇人のように暴れまわる。
最初、何がなんだか分からなかった。
皆が見つめる中、自らをピエロと名乗った人物は、そのまま動かなくなった。




*  *  *



救助隊が山荘に到着したのは、それから半日後だった。
雪風ではない、人工的な風が山荘を覆った。それとともに、地鳴りのような爆音も。それがヘリのプロペラ音と気づいたのはすぐのことだった。
ドアを乱暴にノックする音が聞こえたかと思えば、大柄でヘルメットをかぶった救助員が何人も押しかけた。
皆、大丈夫ですか、けが人は、しか聞いてこなかった。
昨夜の猪井田さんの携帯で、麓の村に殺人事件が起こったことは、承知済みだった。
表のプレハブ小屋に案内し、まとめて置かれていた遺体を運搬していった。
山荘に残っていたメンバーは皆、検査入院ということで、その数時間後には大学病院に担ぎ込まれた。

皆、体調不良や精神的ショックということで1~2日ほどの入院生活を余儀なくされた。
特に鷹梨は元々体調不良だったのが悪化したということで、さらに長く一週間の入院だと聞かされた。

自分は自分で、卒論の研究が一向に進むこともなく、教授にまた叱責を受けるな、とぼやいていた。
もしかしたら留年かな、まぁそれはそれで学生生活が一年延長されたんだから、良いっちゃ良い。
学生生活が終われば社会人生活に入る。それはそれで夢見る時間すら奪われる。すでに卒業した過去の同級生を見ればそれは火を見るより明らかだ。
今回の夢のような事件の余韻を一年間楽しもう。それだけで旨い酒が飲めそうだ。
そんなことしか考えていなかった。

事件が終焉を迎えてから、一ヶ月が経過した。
当初は連日連夜ニュースやワイドショーが例の事件を熱っぽく語っていた。
現代の教育が抱えた闇だとか、残虐殺人の山荘だとか、まるで本物のミステリのようだとか、まぁ安っぽい謳い文句だなとしか思わなかった。
2週間もすれば熱は引いていき、一ヶ月もすれば過去の産物だ。もうだれもあの事件のことを気にも止めようとしない。
手元の携帯でインターネットのサイトを一通り見て、自分は顔を上げた。


郊外の寂れた公園だった。
滑り台に、砂場に、ベンチに、申し訳程度の噴水がちょこんと置いてあるだけの質素な公園。
そこに僕はいた。
ペンキの剥がれたベンチに腰を下ろす。事件が終わって一ヶ月といってもまだ2月。カラカラに乾燥しきった寒風が頬に当たる。妙に底冷えがした。
こんな公園に遊びに来るもの好きもいない。
子供は風の子、ねぇ。


独り言をつぶやいていると、向こうから一人の来客があった。
こんな寂れた公園にやってくるもの好きはいない、いるとすれば待ち合わせをした場合だけだ。

「早いね」

鷹梨だった。山荘の事件以来でこれまた一ヶ月ぶりだった。
大きめなダッフルコートに、髪の毛を後ろでまとめてしばっている。風の吹くたびに棚引いていて少し邪魔そうだった。

「暇なんだよ。特に無気力学生はね」

「卒論の研究は?」

「頓挫中。教授からも呆れられてる状態だね。そっちこそ劇団は?」

「ほとんど解散に近い状態だよ。メンバーがあんな状態だもん」

自虐的な笑しかなかった。
鷹梨は無言で隣に座る。
デートでもなければ、山荘事件の推理の感想戦でもない。

鷹梨はカバンから冊子を取り出す。原稿用紙をただ大きなゼムクリップで止めただけのものだ。しかし枚数自体は多いようで数百枚はあるように見えた。

「はいこれ。黒川影夫さんの最後の作品。まだ下書きだけど一応完結はしてるわ。字の汚さを我慢すれば読めると思う」

「サンクス。これはどこに?」

「田子さんの荷物の中にあったそうよ。理緒からちょっと拝借したの。勿論本物じゃないわよ、コピーね、コピー」

「理緒・・・、あぁ、親が警察だったて子か。納得納得」

原稿用紙の一番には『凍てつく虚空』と書かれていた。
ゆっくりとページをめくる。次のページ次のページと指が動いていく。
これを読んでいる時は風の冷たさなど全く気にならなかった。
一時間だっただろうか、二時間だっただろうか、それともほんの数十分だけだっただろうか。
紙面から目を上げた。横に首を曲げれば、心配そうにこちらを伺う鷹梨がいた。

「どう?」

どう、というのは今読んだ黒川影夫の遺作の内容のことであろう。ゆっくりとかぶりを振った。

「どうもこうもないね。この作品は、とある雪深い山中のとある推理作家の山荘。そこに迷い込んだ、女子大生のサークルメンバー。
遭難しかけたところに山荘を見つけ命からがら逃げ込んだは良いものの、正体不明の連続殺人事件が起こる。密室殺人、毒殺、アリバイ工作、そして謎のダイイングメッセージ。
皆が疑心暗鬼になっていることに現れる青年探偵。そして犯人の正体は・・・」

「毒殺で殺された女の子」

「できすぎてるねぇ・・・。今回の僕たちの事件とまるっきり一緒じゃないか。違う点といえば、女子大生のサークルじゃなくって小さな劇団員であり、青年探偵じゃなくって無気力学生」

「青年探偵は、ある意味正解じゃない?」

僕はふん、と鼻白ばんだ。
とにかく僕が思ったことは、今回自分たちが経験した連続殺人と全くと言っていいほど酷似した作品であったことだ。
今回の作品は他の作品と比べ、いやに平凡だった。設定から状況からストーリーから全て凡庸だ。
だがしかし、それらを全て凡庸の一言で片付けるわけにも行かない。
黒川影夫氏がなくなったのは今から5年ほど前、5年前に5年後に起こる殺人事件を予告したというのか?
いや、それはないだろう。
黒川氏は推理作家であり、決して予言しではなかった。だとすれば・・・

「田子さんが、真似をしたんだ。これを読んで」

「やっぱりそう考えるしかないよね」

鷹梨も一足先にこれを読んで、自分と同じ結論に達したのだろう。
それで納得がいった。田子さんが最期の最期に、『予想』『予言』という言葉を用いたのがなんとなく分かった。
そう思える程に、この作品の存在は異質だったのだ。

「でも、なんで田子さんはこの作品の真似をしたんだろう。確かに、自分の祖父の作品かもしれないけど」

「・・・」

自分は答えない

「最後の作品かもしれないけど、それでも実際に自分で殺人事件を起こすなんて・・・」

「自分が殺したからだろ」

その言葉に鷹梨ははっとしたようだった。

「田子さんが自分の祖父、黒川影夫氏を殺してしまった。最後の作品が世に出てしまう前に、その作者を殺してしまった。だから自分はその償いとして作品で出てきた設定そのものを真似して実際に事件を起こした。ある種の弔いかな。
黒川氏が亡くなったのが、今から4年前。そして田子さん本人が自殺未遂をしたのが4年前。見事に合致している。自分の祖父が亡くなった同じ時期に自殺を図ろうとしている。
これは偶然じゃないと思ってる。田子さんが黒川氏の死に関係している、そしてそのことを悔いて田子さんは自殺しようとしたんじゃないかな」

「田子さんが殺したってこと?」

「明確な殺意があったとは言ってないよ。おそらくは偶発的なものだったんだろう。黒川氏は心臓に生まれつき持病を抱えていた。発作が頻繁に起こり、その常備薬もあったはず。田子さんはそれを持ち出したんだ。
ここからは僕の空想の世界でしかない、それを承知で聞いて欲しい。
田子さんは当時、両親から勘当状態であった。両親の教育方針に反発したのか、勝手に家出をした状態だったのか、それは分からない。ただ問題の4年ほど前は劇団でお世話になっているから、その段階では両親とは疎遠状態だったんだろう。
しかし祖父、つまりは黒川氏とは仲がよく繋がっていた。例の山荘にも遊びに行ったんじゃないかな。両親なしで祖父と2人きりなんかで。
祖父は書斎で執筆活動に勤しんでいるとき、たまたま田子さんがその書斎を覗いた。書斎に祖父はいるが、仕事中で手が離せない。ひとしきり部屋の中を見て回ったら、ふとあるものが目に付いた。小瓶に入った錠剤だ。
恐らく心臓病の薬だったんだろう、それを黒川氏は棚の上に置いていた。そして田子さんはそれを見つけた。
錠剤の中には飲みやすくするため、表面を甘い素材をコーティングしているものもある、俗に言う糖衣錠のことだ。田子さんはそれを薬と思わずに、お菓子だと思った。それを持ち出した。
それを持ち出したことも忘れて、寝入ったか何かをしたんだろう。目を覚ましてみれば、持病の発作で倒れている祖父を見つける。そこで初めて自分が持ち出したものが祖父の薬であることを知った。
田子さんは怖くなり、その場から逃げ出した。季節が冬でなければ、走って麓の村まで逃げた。両親はそもそも自分の子供がこっそり祖父の山荘を訪れていることは知らないだろうし、連絡がないから心配して言ったら、既に事切れている黒川氏を発見した。
そこにはあるはずの持病の薬はない。なぜなら田子さんが持ち出してそのまま逃げたから。
状況としては、普段持ち歩いているはずの薬がない不可解な変死事件になった。こう考えると、一応の説明はつく」

「本当にそんなことが」

「さっきも言ったように、あくまで空想さ。田子さんはその意識がなかったとは言え、結果的には田子さんが黒川氏を殺すことになってしまった。
そしてこの事実は警察など表沙汰にならない。なぜならそれを感じ取った遺族が表に出したがらないからだ。自分の娘が、黒川氏の孫娘が、意図的じゃないとは言え間接的に殺人を犯したんだからね。
田子さんはそのことがずっと頭に残っていたんだろう。どんなに悪意がなかったとは言え、自分が殺してしまったことには違いがなかった。それが良心の呵責に耐えかね自殺を図った。そう考えると、つじつまは合う」


寒かった。
底冷えがした。
西から吹く寒風はコートの隙間という隙間から入り込み、体温を容赦なく奪っていく。
陽はとうに傾き、ビルとビルのあいだにゆっくりとその身を隠そうとしていく。
冷たく塵や埃の少ないこの時期、その太陽はまん丸と、その紅さを誇示し続けた。
血のように真っ赤な、そう滴るような赤だった。
誰かが言ってたな、夕日が赤く見える原理を。確か空気中の気体の粒子に、本来は含まれているはずの紫や青や緑と言った光が乱反射して、結果的に赤い光だけが目に届くって。だから赤く見えるんだて。
そういえば今朝のニュースで、数年ぶりに雪が降るとか言ってたっけ。

全くやだな。
そんな現実も
そんな空想も
どれだって後味が悪いや。

「ついでなんだが、もう1つ聞いてくれ。僕が思った感想なんだが、この作品、ほかの作品に比べて、非常に凡庸だ。黒川影夫さんに申し訳ないが他の作品に比べて完成度はあまり高くない。
いや、そう言う言い方は正しくないな。この作品だけ、『実行しようと思えば実行できる作品』なんだ。何が言いたいかって?
僕はこの作品、『最初から誰かに実行してもらうために作った作品』じゃないのかって思うんだ。狂気の警察官と正気を取り戻し始めた殺人犯や、社会から拒絶された主人公のように、意図的に作り出すことが困難な環境ではなく、
やろうと思えば、再現しようと思えば再現可能な世界のミステリだと思う。
田子さんが実際にこのミステリを再現しやすいように・・・。
そう考えると、さっき僕が話した空想もおかしいところはある。いくら田子さんとは言え、祖父の持病について全く知らないなんてことはないはずだ。祖父と自分の2人きりで山荘に赴いた以上、何かあったら頼むぞ、の一言もあっても良いもの。
しかし田子さんがもし持病の薬を何も知らず持っていったことを考えると、黒川氏本人が『そこに飴玉あるからもって行って良いよ』なんて嘯いたのかもしれない、と穿った考えもできる。
どういう事か。黒川氏は我が孫に、自分の最期の作品を実際に現実世界で実行して欲しいと思った。そのためにも、孫娘が『自分が祖父を殺した』と言う自責の念を持ってもらいたい。
ではどうするか、わざと自分の持病の薬を持ち出させて、それが原因で自分が死ぬ。そうすれば孫は自分が祖父を殺した、と思い込み、その弔いと思い最期の作品を現実に実行するだろう、と考えた。
そして黒川氏はそれを実行に移した。自らの命と引き換えに。
そうすれば全て辻褄が合う。
そもそも、両親なしで孫娘一人だけで山奥の山荘までこさせること自体、本来はおかしいんだ。最初から黒川影夫と言うモンスターが仕組んでいたこと、なのかもしれない。
・・・信じられないって顔してるね。自分の作品を本当に実践して欲しいなんて思う作家がいるか、なんてね。
僕は思うね、ミステリ小説を何冊何十冊読んでいると、本当にこんな世界を味わってみたい、言葉が悪いかもしれないが、本当に事件が起こってくれないか、そして自分がその場に居合わせて見事解決させてみたい、ってね。
読者がそう思うんだ、作り手側、つまり作者も、実際に自分が考えた作品を現実世界で行ってみたいと思うかもしれない。いや、絶対思うね。黒川氏も例に漏れないと思うよ。だから黒川氏は最期の最期に、孫娘にそれを託した。今回はそんなは話しさ」

僕はゆっくりと立ち上がる。手に持っていた『凍てつく虚空』のコピーを力いっぱい破り捨てた。
四方八方に紙編が飛び散るくらい、それこそ力任せに。
緩やかな西風に乗って、小さくなった紙くずは、意志を持ったかのように右へ左へゆれながらその短い一生を終えた。
白い紙切れがまるで降る雪のようだった。
あぁ、もう雪なんかみたいないのに。
冷たい風はまた頬を掠めていった。






―――了

凍てつく虚空  

と、言う訳で長編ミステリを書かせていただきました。処女作の短編小説は既に掲載しましたが、長編作品はこれが一応の処女作になります。まぁ、過去にみかんの長編ミステリ書きましたが、やはりそれは未完は未完、完成した長編ミステリはこれが最初です。自分はもともと長編ミステリを書きたかったので、ある意味長男であり、まぁ次男でもあるわけです。

さて、この作品を呼んでどんな感想を持ったでしょうか。
おそらく100人いて120人は「くだらん」「駄作」「読んで損した」と言うかもしれません。いや絶対に言うでしょう。
でも良いんです。この作品は「完結」させることに意味があったんです。先ほど言ったように、この作品は「長編発完結作品」です。長い時間をかけてついに完結した最初の作品なんです。構想は高校生の時から考えていました。その時は大学受験を控えており、またミステリ小説もほとんど読んでなく、本当に独学で考えたトリックやロジック目白押しの作品でした。正直ミステリ小説なんかを世に公開する程度ではなかったんです。でも僕は毎日毎日、「ここのトリックはこうしたら良いかな」「あそこの表現はもっと変えてみようかな」とか常に考える日々でした。どんなに新しいことを考えようにも、『完結していない作品のことをどうしても考えてしまうんです』。僕はこんな状態に終止符を打ちたいと思いました。それにはどうするか。「小説をまずは終わらせることが一番だ」と考えました。まずはどんな稚拙でも、そんな青い作品でも、まずは一旦終わらせることが次の作品を書く一歩になるんだ、そう考えました。
ですので、この作品、一ヶ月もすれば「ここをこう直せばよかった」「ここでこの表現はないだろ」と思うこともあるかもしれませんが、それはそれ、これはこれ。これで一区切りつけたいと思います。
この作品を最初から最後まで読んでくださった方が何人いるかは分かりませんが、この作品の産みの親として一言。


ご愛読ありがとうございました

凍てつく虚空  

密室殺人、不可能毒殺、完全アリバイ成立殺人、大イングメッセージ、そして極めつけたクローズドサークルもの。どんなくだらないミステリでも読んでやると言うもの好きなかた、気が向いたら一読してやってください。

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-26

CC BY-NC
原著作者の表示・非営利の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC
  1. 人物紹介
  2. プロローグ
  3. 第一章
  4. 第二章
  5. 第三章
  6. 第四章