
一ノ瀬一二三の怪奇譚
「記録に残すべきかどうか」
僕は、怪異を追いかけているわけじゃない。
この世の不思議を解き明かそうとも思っていないし、超常現象を暴くことに興味があるわけでもない。
ただ、気づくと、妙な出来事に巻き込まれている。
◇
僕の仕事は、フリーのライターだ。
人に頼まれた記事を書き、取材をし、情報を整理するのが仕事。
とはいえ、「書く仕事」なら何でも引き受けるタイプだ。
芸能人のゴシップ記事を書くこともあれば、地方のグルメレポートをまとめることもある。
都市伝説や、奇妙な事件の取材をすることもある。
だが、僕自身は特に怪奇現象に執着しているわけじゃない。
それなのに、なぜか――そういう話に巻き込まれることが多い。
◇
たとえば、ある村では「この名前を呼んではいけない」と言われた。
ある町では「四人掛けの席に五人目が座ることがある」と聞いた。
あるアパートでは「昨日までなかった部屋が増えている」と訴える住人がいた。
普通なら、「そんな話があるんだな」で終わる。
けれど、僕の場合は少し違う。
それらの現象が、実際に起こる。
◇
だから、こうして記録を残す。
取材の記録として、記事の一部として、あるいは……忘れないために。
けれど、時々思うことがある。
「これを記録に残していいのか?」
◇
たとえば、写真だ。
僕には、「写真の中に入る」という能力がある。
どうしてそんなことができるのかは分からないし、そもそも、いつからできるようになったのかも覚えていない。
ただ、ひとつだけ言えるのは――
写真の中には、本来いるはずのないものがいることがある。
◇
それを「知ること」は、本当にいいことなのだろうか?
もし、この記録が誰かの目に留まったら?
もし、これを読んだ誰かが、「そちら側」に引き寄せられてしまったら?
◇
……まあ、考えても仕方がないか。
どうせ、興味がない人には関係のない話だ。
けれど、もし。
「最近、奇妙なことが続いている」と感じることがあれば、注意したほうがいい。
それはもしかしたら、すでにそちら側に片足を踏み入れているのかもしれないから。
「微笑む女の写真」
壁には無数の写真が並んでいた。
白黒の古いものから、最近のカラー写真まで、時代もテーマもバラバラだ。机の上には未整理の写真の束。すべてがランダムに置かれ、部屋全体が「記録された時間の倉庫」のようになっている。
「ずいぶん集めたね」
僕が何気なく言うと、佐々木は苦笑した。
「昔から写真が好きなんですよ。僕の仕事みたいなものですし」
「収集家って職業なの?」
「いや……仕事はカメラマンなんですけど、こっちは完全に趣味ですね」
なるほど、と僕は相槌を打つ。
「写真って、いいでしょう?」と佐々木は続けた。「記憶が曖昧になっても、写真があれば、その瞬間が確かに存在したって証明できる」
「そうだね。だから僕の仕事にもなるわけだ」
「ライターでしたっけ?」
「主に取材記事を書いてる。でも、こういう話は個人的な興味で集めてるだけ」
それで、と僕は言った。
「僕を呼んだってことは、ただのコレクション自慢じゃないんだろう?」
佐々木は一瞬言葉を飲み込むような表情を見せたあと、机の上から一枚の写真を抜き取り、僕に差し出した。
「これ……ちょっと見てもらえませんか?」
僕は写真を手に取る。
集合写真だった。十五人ほどの男女が横一列に並び、背景には洋風の建物。観光地の記念写真だろうか。昭和後期あたりの撮影に見える。
「どうですか?」
「……何が?」
「違和感、ありませんか?」
僕はもう一度写真をよく見る。顔ぶれは一見して自然だし、妙な影や写り込みもない。おかしな点は――
「ここです」
佐々木が指差したのは、最前列中央に座る白いワンピースの女性だった。
細い肩。端正な顔立ち。黒髪が静かに肩にかかり、カメラをまっすぐに見つめている。
「この人が、何か?」
「この写真を撮ったとき、彼女はいなかったんです」
僕は写真を見つめたまま、少しだけ息を吐く。
「なるほど。それは怖いね」
佐々木は真剣な顔で頷く。
「元々は、彼女が写っていない写真があったんですよ。でも、気づいたらこの写真に変わっていて……元の写真がどこにもないんです」
「それはおかしい」
「でしょう? だから、僕の記憶違いかと思ったんです。でも、当時一緒に写っていた人たちに聞いたら、誰も彼女のことを覚えていなかった」
記憶違いではない。
誰も彼女を「知らない」と言う。
なら、この写真に写る彼女は――
「で、その元の写真は、なくなってしまったわけか」
「そうです。捨てた覚えはないのに」
佐々木は苦笑いし、ポケットから煙草を取り出した。
火をつけようとして、思い直したように手を止める。
「正直、この写真……気味が悪くて仕方ないんです。だって、誰も覚えていないのに、彼女はこっちを見て微笑んでいるんですから」
僕は写真の女性を見た。
確かに、彼女は微笑んでいる。
控えめな、ほんのわずかな表情の変化。
しかし、それは「カメラに向けられた笑顔」ではなく、「写真の外の何か」に向けられたものに見えた。
それが僕の想像にすぎないのか、それとも――。
「ちょっと借りるよ」
「え?」
佐々木が怪訝そうな顔をするのを無視して、僕は写真に手を触れた。
次の瞬間、視界が暗転する。
◇
目を開けると、そこは写真の中だった。
日差しが柔らかく、風が吹いている。
人々のざわめき、地面に影を落とす光。
集合写真が撮影される直前の世界。
カメラマンが「はい、撮りますよ!」と声をかける。
人々が静かに並び、シャッターの瞬間を待っている。
そして――
白いワンピースの女は、いない。
なるほど。
つまり、この写真が撮られた時点で、彼女はここにはいなかった。
なら、彼女はどこから現れた?
僕はふと、視界の隅に違和感を覚えた。
――その瞬間、背筋が冷たくなる。
集合写真の輪の外、少し離れた木陰。
そこに、彼女は立っていた。
他の誰にも気づかれず、ただ一人、僕だけを見ている。
黒髪が風に揺れる。表情は、さっき写真で見たものと変わらない。
しかし、今の彼女の微笑みは、確かに「僕」に向けられていた。
「……また、来たの?」
冷たい汗が流れる。
「また?」
どういう意味だ。
僕は彼女に会ったことなどない。
――はずだ。
だが、頭の奥で、何かが蠢いている。
……この女性の名前は。
――……。
思考が、引きずり込まれるような感覚に襲われる。
その瞬間、意識が弾かれるように現実へ戻った。
◇
ふと、足元を見る。
――影が、もう一つ増えている気がした。
完
「影のない女」
夜の街は、静かだった。
とはいえ、完全な無音というわけではない。
車のエンジン音、遠くの繁華街のざわめき、ビルの隙間をすり抜ける風の音。
それでも、この道を歩くときだけは、妙に世界が遠のいたように感じる。
僕はコンビニの明かりの下で足を止め、スマホを取り出した。
ライターという仕事柄、ニュースのチェックは習慣になっている。
特に、怪談めいた事件や都市伝説のような話には、自然と目が向く。
軽く画面をスクロールしながら、ふと視線を上げた。
道の向こう側から、一人の女性が歩いてくる。
黒いコートに長い髪。
顔はよく見えないが、細身のシルエットと歩調の軽やかさから若い女性だとわかる。
すれ違いざま、なんとなく視線を向けた。
その瞬間、違和感が背筋を這い上がる。
――影が、なかった。
街灯の下を歩いているのに、地面に映るべき影がない。
ありえない。
僕は振り返った。
彼女は、そのまま何事もなく歩き去っていった。
だが、どう見ても影がなかった。
「……まあ、そんなこともあるか」
ありえないことではない。
光の当たり具合や角度によって、影が見えにくくなることはある。
理屈ではそうだ。
だが、僕の中の何かが「違う」と告げていた。
◇
翌日、ニュースをチェックしていると、見覚えのある顔が目に入った。
『行方不明の女性を捜索中』
昨夜すれ違った、影のなかったあの女だった。
記事によれば、彼女は数日前に突然姿を消したという。
家族も友人も、彼女の消息を知らない。
「影がない人間が突然消えた」
それだけでは記事にするには弱いが、興味を引くには十分だった。
僕は、その足で彼女の家を訪ねることにした。
◇
住宅街の一角にある彼女の家は、ごく普通の一軒家だった。
インターホンを押すと、応対したのは母親らしき女性だった。
「すみません、ライターの一ノ瀬といいます。お嬢さんの件で少しお話を伺えればと思いまして」
母親は不安そうな顔で頷いた。
「……あの子、本当にどこに行ったのか……警察も手がかりがないって……」
「失踪されたのは、何か前兆があったのでしょうか?」
「いいえ、特には……でも、最近、ちょっと様子が変だったんです」
「様子?」
「……影が、薄くなっていたような気がして」
僕は少し息を呑んだ。
「影が……?」
「ええ、なんだか……まるで透けているみたいに」
それは見間違いではないのか――と聞きかけて、やめた。
昨日、僕自身が確かに見たのだ。影のない彼女の姿を。
さらに話を聞くと、彼女は最近、写真を撮られるのを極端に嫌がっていたらしい。
まるで自分の姿が写真に映ることを恐れているように。
僕は母親に礼を言い、その家を後にした。
◇
その夜、調査を進めていると、彼女と同じように「影が薄くなっていた」と証言される人間が何人もいたことがわかった。
そして、彼らに共通していたのは――
全員、ある日突然消えたということだった。
彼らの記録を辿ると、ほぼ例外なく「最近影が薄かった」という証言が出てくる。
だが、彼らが消えたあと、家族や友人は徐々に彼らの存在を忘れていく。
まるで初めから「いなかった」かのように。
もし、これが「何か」による法則的な現象だとしたら。
次に消えるのは――?
◇
深夜。
デスクに広げた資料を見ながら、ふと背後に気配を感じた。
視線を向けると、窓の外。
闇の中に、黒いコートの女が立っていた。
僕は息を呑む。
彼女だ。
影のなかった、あの女。
静かにこちらを見つめ、ほんのわずかに口元を動かした。
「……あなたも、そっちに行くの?」
言葉の意味を考える間もなく、彼女の姿がふっと消える。
夜風だけが、カーテンを揺らしていた。
◇
翌朝。
僕は洗面所で顔を洗い、ふと鏡を見た。
何かが、違う。
――影が、薄い。
昨日までの僕の影は、確かにもっと濃かった。
けれど、今は……光に溶けるように、薄く霞んでいる。
気のせいかもしれない。
ただの光の加減かもしれない。
「……これは、光の加減だろうな」
そう呟きながら、僕は鏡から目を逸らした。
だが、その違和感が消えることはなかった。
完
「扉のない祠」
「神は決して目にしてはならない」
そんな教えを守る村があると聞いた。
その村では、神の姿を誰も見たことがない。
しかし、それこそが信仰の証だという。
「神は、認識された瞬間に消える」
神を見ることができないということは、神がそこにいる証明になる――という理屈らしい。
馬鹿げているようにも思えるが、この村では何百年もその教えが続いている。
そして、最も奇妙なのは、この村で神の存在を疑った者は、決して村を出ることができなくなる という言い伝えだ。
もしそれが本当なら、神とは何なのか?
ただの概念なのか、それとも――。
僕は、その村を訪れることにした。
◇
村は、山奥にひっそりと存在していた。
舗装もされていない山道を抜けると、古い日本家屋が並んでいるのが見える。
入り口には鳥居が立っているが、神社ではなく、村全体の門のようなものだった。
門をくぐると、数人の村人がこちらを見ていた。
「お客さんかい?」
そう声をかけてきたのは、白髪の老人だった。
他の村人たちは無言のまま、じっとこちらを観察している。
「この村の信仰について調べているライターです」
そう言うと、老人は微笑んだ。
「ようこそ。ここでは、神の御加護を受けられるだろう」
◇
村の中心には、大きな祠があった。
しかし、奇妙なことに、祠には扉がなかった。
普通、神を祀る場所には祭壇があり、その奥に本尊や御神体が置かれている。
だが、この祠は違った。
入り口がぽっかりと開いていて、中を覗くと――何もない。
ただの空間だった。
「神は、ここにいるのですか?」
僕の問いに、老人は頷く。
「神はそこにいる。だが、見ることはできない」
「見えないのではなく、いないのでは?」
そう返すと、老人は微笑みながら首を振った。
「神を見ようとすること自体が、無意味なのだ」
「なぜです?」
「神は、人が認識した瞬間に消える」
◇
僕は村の中にある古い書物を見せてもらった。
中には、神に関する記録が書かれていた。
しかし、違和感があった。
神の姿についての記述が、一切ないのだ。
普通、信仰の対象には何かしらの形がある。
それが動物でも、人の姿でも、抽象的な象徴でもいい。
だが、この村の記録には「神」の概念はあっても、その姿に関する情報は欠落していた。
……もともと「なかった」のか?
それとも、「意図的に消された」のか?
◇
夜になり、僕は村の長老の家に泊まることになった。
床に就いたあとも、祠のことが気になっていた。
あれは、本当にただの空の空間なのか?
何か証拠を掴めるかもしれない――。
僕は写真に映された祠をじっと見つめ、意識を集中させた。
次の瞬間、視界が暗転した。
◇
――僕は、写真の中にいた。
いや、正確には「精神だけ」が写真の中に入り込んでいた。
そこは、過去の村 だった。
周囲を見ると、村人たちがいる。
しかし――異変に気づく。
村人たちの顔が、塗りつぶされている。
いや、塗りつぶされているのではない。
最初から存在しなかったように、空白になっている。
さらに、神の祠を見た瞬間、息を飲んだ。
今の時代にはないはずの扉が、そこにあった。
つまり、過去には「扉があった」のだ。
では、なぜ今はないのか?
僕は祠の扉を開けようとした。
その瞬間――村人たちが、こちらを向いた。
◇
「見てはならない」
どこからともなく、声が聞こえた。
いや、声ではない。
村そのものが僕に訴えかけているような感覚だった。
――これは、まずい。
僕はとっさに集中を解き、写真の世界から抜け出した。
◇
翌朝、僕は村を出ようとした。
しかし、ある違和感を覚えた。
村人たちが、不自然なほど親しげに話しかけてくる。
まるで――僕がずっとここに住んでいたかのように。
「一二三さん、今朝の祭りには来なかったのね」
「今日は一二三が祠に祈る日だろ?」
「どうした? 体の具合でも悪いのか?」
僕は昨日ここに来たばかりのはずだ。
しかし村人たちはまるで、僕が最初からここにいたかのように話す。
◇
出口のはずの道が、見つからない。
いや、出口という概念そのものが、頭の中から抜け落ちているような感覚だった。
どこに向かえばいい?
どの道を歩けば、この村から出られる?
考えるほど、頭が混乱する。
◇
再び祠の前に立つ。
あれほど不気味に感じた空間が、今は妙に落ち着いて見えた。
神は、認識された瞬間に消える。
では、この村にいるのは何なのか。
僕の目の前にあるものは、神なのか、それとも――。
――僕は今、どこにいる?
……それすら、考えることが許されていない気がした。
完
一ノ瀬一二三の怪奇譚