一ノ瀬一二三の怪奇譚

一ノ瀬一二三の怪奇譚

「記録に残すべきかどうか」

 僕は、怪異を追いかけているわけじゃない。

 この世の不思議を解き明かそうとも思っていないし、超常現象を暴くことに興味があるわけでもない。

 ただ、気づくと、妙な出来事に巻き込まれている。

 僕の仕事は、フリーのライターだ。
 人に頼まれた記事を書き、取材をし、情報を整理するのが仕事。

 とはいえ、「書く仕事」なら何でも引き受けるタイプだ。
 芸能人のゴシップ記事を書くこともあれば、地方のグルメレポートをまとめることもある。
 都市伝説や、奇妙な事件の取材をすることもある。

 だが、僕自身は特に怪奇現象に執着しているわけじゃない。

 それなのに、なぜか――そういう話に巻き込まれることが多い。

 たとえば、ある村では「この名前を呼んではいけない」と言われた。
 ある町では「四人掛けの席に五人目が座ることがある」と聞いた。
 あるアパートでは「昨日までなかった部屋が増えている」と訴える住人がいた。

 普通なら、「そんな話があるんだな」で終わる。

 けれど、僕の場合は少し違う。

 それらの現象が、実際に起こる。

 だから、こうして記録を残す。

 取材の記録として、記事の一部として、あるいは……忘れないために。

 けれど、時々思うことがある。

 「これを記録に残していいのか?」

 たとえば、写真だ。

 僕には、「写真の中に入る」という能力がある。
 どうしてそんなことができるのかは分からないし、そもそも、いつからできるようになったのかも覚えていない。

 ただ、ひとつだけ言えるのは――

 写真の中には、本来いるはずのないものがいることがある。

 それを「知ること」は、本当にいいことなのだろうか?

 もし、この記録が誰かの目に留まったら?
 もし、これを読んだ誰かが、「そちら側」に引き寄せられてしまったら?

 ……まあ、考えても仕方がないか。

 どうせ、興味がない人には関係のない話だ。

 けれど、もし。

 「最近、奇妙なことが続いている」と感じることがあれば、注意したほうがいい。

 それはもしかしたら、すでにそちら側に片足を踏み入れているのかもしれないから。

「微笑む女の写真」

壁には無数の写真が並んでいた。

 白黒の古いものから、最近のカラー写真まで、時代もテーマもバラバラだ。机の上には未整理の写真の束。すべてがランダムに置かれ、部屋全体が「記録された時間の倉庫」のようになっている。

「ずいぶん集めたね」

 僕が何気なく言うと、佐々木は苦笑した。

「昔から写真が好きなんですよ。僕の仕事みたいなものですし」

「収集家って職業なの?」

「いや……仕事はカメラマンなんですけど、こっちは完全に趣味ですね」

 なるほど、と僕は相槌を打つ。

「写真って、いいでしょう?」と佐々木は続けた。「記憶が曖昧になっても、写真があれば、その瞬間が確かに存在したって証明できる」

「そうだね。だから僕の仕事にもなるわけだ」

「ライターでしたっけ?」

「主に取材記事を書いてる。でも、こういう話は個人的な興味で集めてるだけ」

 それで、と僕は言った。

「僕を呼んだってことは、ただのコレクション自慢じゃないんだろう?」

 佐々木は一瞬言葉を飲み込むような表情を見せたあと、机の上から一枚の写真を抜き取り、僕に差し出した。

「これ……ちょっと見てもらえませんか?」

 僕は写真を手に取る。

 集合写真だった。十五人ほどの男女が横一列に並び、背景には洋風の建物。観光地の記念写真だろうか。昭和後期あたりの撮影に見える。

「どうですか?」

「……何が?」

「違和感、ありませんか?」

 僕はもう一度写真をよく見る。顔ぶれは一見して自然だし、妙な影や写り込みもない。おかしな点は――

「ここです」

 佐々木が指差したのは、最前列中央に座る白いワンピースの女性だった。

 細い肩。端正な顔立ち。黒髪が静かに肩にかかり、カメラをまっすぐに見つめている。

「この人が、何か?」

「この写真を撮ったとき、彼女はいなかったんです」

 僕は写真を見つめたまま、少しだけ息を吐く。

「なるほど。それは怖いね」

 佐々木は真剣な顔で頷く。

「元々は、彼女が写っていない写真があったんですよ。でも、気づいたらこの写真に変わっていて……元の写真がどこにもないんです」

「それはおかしい」

「でしょう? だから、僕の記憶違いかと思ったんです。でも、当時一緒に写っていた人たちに聞いたら、誰も彼女のことを覚えていなかった」

 記憶違いではない。
 誰も彼女を「知らない」と言う。
 なら、この写真に写る彼女は――

「で、その元の写真は、なくなってしまったわけか」

「そうです。捨てた覚えはないのに」

 佐々木は苦笑いし、ポケットから煙草を取り出した。
 火をつけようとして、思い直したように手を止める。

「正直、この写真……気味が悪くて仕方ないんです。だって、誰も覚えていないのに、彼女はこっちを見て微笑んでいるんですから」

 僕は写真の女性を見た。

 確かに、彼女は微笑んでいる。
 控えめな、ほんのわずかな表情の変化。
 しかし、それは「カメラに向けられた笑顔」ではなく、「写真の外の何か」に向けられたものに見えた。

 それが僕の想像にすぎないのか、それとも――。

「ちょっと借りるよ」

「え?」

 佐々木が怪訝そうな顔をするのを無視して、僕は写真に手を触れた。

 次の瞬間、視界が暗転する。

 目を開けると、そこは写真の中だった。

 日差しが柔らかく、風が吹いている。
 人々のざわめき、地面に影を落とす光。

 集合写真が撮影される直前の世界。
 カメラマンが「はい、撮りますよ!」と声をかける。
 人々が静かに並び、シャッターの瞬間を待っている。

 そして――

 白いワンピースの女は、いない。

 なるほど。
 つまり、この写真が撮られた時点で、彼女はここにはいなかった。

 なら、彼女はどこから現れた?

 僕はふと、視界の隅に違和感を覚えた。

 ――その瞬間、背筋が冷たくなる。

 集合写真の輪の外、少し離れた木陰。
 そこに、彼女は立っていた。

 他の誰にも気づかれず、ただ一人、僕だけを見ている。
 黒髪が風に揺れる。表情は、さっき写真で見たものと変わらない。

 しかし、今の彼女の微笑みは、確かに「僕」に向けられていた。

「……また、来たの?」

 冷たい汗が流れる。

 「また?」

 どういう意味だ。
 僕は彼女に会ったことなどない。
 ――はずだ。

 だが、頭の奥で、何かが蠢いている。

 ……この女性の名前は。

 ――……。

 思考が、引きずり込まれるような感覚に襲われる。

 その瞬間、意識が弾かれるように現実へ戻った。

 ふと、足元を見る。

 ――影が、もう一つ増えている気がした。


「影のない女」

 夜の街は、静かだった。
 とはいえ、完全な無音というわけではない。
 車のエンジン音、遠くの繁華街のざわめき、ビルの隙間をすり抜ける風の音。
 それでも、この道を歩くときだけは、妙に世界が遠のいたように感じる。

 僕はコンビニの明かりの下で足を止め、スマホを取り出した。
 ライターという仕事柄、ニュースのチェックは習慣になっている。
 特に、怪談めいた事件や都市伝説のような話には、自然と目が向く。

 軽く画面をスクロールしながら、ふと視線を上げた。
 道の向こう側から、一人の女性が歩いてくる。

 黒いコートに長い髪。
 顔はよく見えないが、細身のシルエットと歩調の軽やかさから若い女性だとわかる。

 すれ違いざま、なんとなく視線を向けた。
 その瞬間、違和感が背筋を這い上がる。

 ――影が、なかった。

 街灯の下を歩いているのに、地面に映るべき影がない。
 ありえない。

 僕は振り返った。
 彼女は、そのまま何事もなく歩き去っていった。
 だが、どう見ても影がなかった。

「……まあ、そんなこともあるか」

 ありえないことではない。
 光の当たり具合や角度によって、影が見えにくくなることはある。
 理屈ではそうだ。

 だが、僕の中の何かが「違う」と告げていた。

 翌日、ニュースをチェックしていると、見覚えのある顔が目に入った。

『行方不明の女性を捜索中』

 昨夜すれ違った、影のなかったあの女だった。

 記事によれば、彼女は数日前に突然姿を消したという。
 家族も友人も、彼女の消息を知らない。

 「影がない人間が突然消えた」
 それだけでは記事にするには弱いが、興味を引くには十分だった。

 僕は、その足で彼女の家を訪ねることにした。

 住宅街の一角にある彼女の家は、ごく普通の一軒家だった。
 インターホンを押すと、応対したのは母親らしき女性だった。

「すみません、ライターの一ノ瀬といいます。お嬢さんの件で少しお話を伺えればと思いまして」

 母親は不安そうな顔で頷いた。

「……あの子、本当にどこに行ったのか……警察も手がかりがないって……」

「失踪されたのは、何か前兆があったのでしょうか?」

「いいえ、特には……でも、最近、ちょっと様子が変だったんです」

「様子?」

「……影が、薄くなっていたような気がして」

 僕は少し息を呑んだ。

「影が……?」

「ええ、なんだか……まるで透けているみたいに」

 それは見間違いではないのか――と聞きかけて、やめた。
 昨日、僕自身が確かに見たのだ。影のない彼女の姿を。

 さらに話を聞くと、彼女は最近、写真を撮られるのを極端に嫌がっていたらしい。
 まるで自分の姿が写真に映ることを恐れているように。

 僕は母親に礼を言い、その家を後にした。

 その夜、調査を進めていると、彼女と同じように「影が薄くなっていた」と証言される人間が何人もいたことがわかった。
 そして、彼らに共通していたのは――

 全員、ある日突然消えたということだった。

 彼らの記録を辿ると、ほぼ例外なく「最近影が薄かった」という証言が出てくる。
 だが、彼らが消えたあと、家族や友人は徐々に彼らの存在を忘れていく。

 まるで初めから「いなかった」かのように。

 もし、これが「何か」による法則的な現象だとしたら。
 次に消えるのは――?

 深夜。

 デスクに広げた資料を見ながら、ふと背後に気配を感じた。

 視線を向けると、窓の外。
 闇の中に、黒いコートの女が立っていた。

 僕は息を呑む。

 彼女だ。

 影のなかった、あの女。

 静かにこちらを見つめ、ほんのわずかに口元を動かした。

 「……あなたも、そっちに行くの?」

 言葉の意味を考える間もなく、彼女の姿がふっと消える。

 夜風だけが、カーテンを揺らしていた。

 翌朝。

 僕は洗面所で顔を洗い、ふと鏡を見た。

 何かが、違う。

 ――影が、薄い。

 昨日までの僕の影は、確かにもっと濃かった。
 けれど、今は……光に溶けるように、薄く霞んでいる。

 気のせいかもしれない。
 ただの光の加減かもしれない。

「……これは、光の加減だろうな」

 そう呟きながら、僕は鏡から目を逸らした。

 だが、その違和感が消えることはなかった。


「扉のない祠」

 「神は決して目にしてはならない」

 そんな教えを守る村があると聞いた。

 その村では、神の姿を誰も見たことがない。
 しかし、それこそが信仰の証だという。

 「神は、認識された瞬間に消える」

 神を見ることができないということは、神がそこにいる証明になる――という理屈らしい。

 馬鹿げているようにも思えるが、この村では何百年もその教えが続いている。
 そして、最も奇妙なのは、この村で神の存在を疑った者は、決して村を出ることができなくなる という言い伝えだ。

 もしそれが本当なら、神とは何なのか?
 ただの概念なのか、それとも――。

 僕は、その村を訪れることにした。

 村は、山奥にひっそりと存在していた。

 舗装もされていない山道を抜けると、古い日本家屋が並んでいるのが見える。
 入り口には鳥居が立っているが、神社ではなく、村全体の門のようなものだった。

 門をくぐると、数人の村人がこちらを見ていた。

 「お客さんかい?」

 そう声をかけてきたのは、白髪の老人だった。
 他の村人たちは無言のまま、じっとこちらを観察している。

 「この村の信仰について調べているライターです」

 そう言うと、老人は微笑んだ。

 「ようこそ。ここでは、神の御加護を受けられるだろう」

 村の中心には、大きな祠があった。

 しかし、奇妙なことに、祠には扉がなかった。

 普通、神を祀る場所には祭壇があり、その奥に本尊や御神体が置かれている。
 だが、この祠は違った。

 入り口がぽっかりと開いていて、中を覗くと――何もない。

 ただの空間だった。

 「神は、ここにいるのですか?」

 僕の問いに、老人は頷く。

 「神はそこにいる。だが、見ることはできない」

 「見えないのではなく、いないのでは?」

 そう返すと、老人は微笑みながら首を振った。

 「神を見ようとすること自体が、無意味なのだ」

 「なぜです?」

 「神は、人が認識した瞬間に消える」

 僕は村の中にある古い書物を見せてもらった。

 中には、神に関する記録が書かれていた。
 しかし、違和感があった。

 神の姿についての記述が、一切ないのだ。

 普通、信仰の対象には何かしらの形がある。
 それが動物でも、人の姿でも、抽象的な象徴でもいい。

 だが、この村の記録には「神」の概念はあっても、その姿に関する情報は欠落していた。

 ……もともと「なかった」のか?
 それとも、「意図的に消された」のか?

 夜になり、僕は村の長老の家に泊まることになった。

 床に就いたあとも、祠のことが気になっていた。

 あれは、本当にただの空の空間なのか?

 何か証拠を掴めるかもしれない――。

 僕は写真に映された祠をじっと見つめ、意識を集中させた。

 次の瞬間、視界が暗転した。

 ――僕は、写真の中にいた。

 いや、正確には「精神だけ」が写真の中に入り込んでいた。

 そこは、過去の村 だった。

 周囲を見ると、村人たちがいる。
 しかし――異変に気づく。

 村人たちの顔が、塗りつぶされている。

 いや、塗りつぶされているのではない。
 最初から存在しなかったように、空白になっている。

 さらに、神の祠を見た瞬間、息を飲んだ。

 今の時代にはないはずの扉が、そこにあった。

 つまり、過去には「扉があった」のだ。
 では、なぜ今はないのか?

 僕は祠の扉を開けようとした。

 その瞬間――村人たちが、こちらを向いた。

 「見てはならない」

 どこからともなく、声が聞こえた。

 いや、声ではない。
 村そのものが僕に訴えかけているような感覚だった。

 ――これは、まずい。

 僕はとっさに集中を解き、写真の世界から抜け出した。

 翌朝、僕は村を出ようとした。

 しかし、ある違和感を覚えた。

 村人たちが、不自然なほど親しげに話しかけてくる。
 まるで――僕がずっとここに住んでいたかのように。

 「一二三さん、今朝の祭りには来なかったのね」
 「今日は一二三が祠に祈る日だろ?」
 「どうした? 体の具合でも悪いのか?」

 僕は昨日ここに来たばかりのはずだ。
 しかし村人たちはまるで、僕が最初からここにいたかのように話す。

 出口のはずの道が、見つからない。
 いや、出口という概念そのものが、頭の中から抜け落ちているような感覚だった。

 どこに向かえばいい?
 どの道を歩けば、この村から出られる?

 考えるほど、頭が混乱する。

 再び祠の前に立つ。
 あれほど不気味に感じた空間が、今は妙に落ち着いて見えた。

 神は、認識された瞬間に消える。
 では、この村にいるのは何なのか。
 僕の目の前にあるものは、神なのか、それとも――。

 ――僕は今、どこにいる?

 ……それすら、考えることが許されていない気がした。

一ノ瀬一二三の怪奇譚

一ノ瀬一二三の怪奇譚

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-02-19

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 「記録に残すべきかどうか」
  2. 「微笑む女の写真」
  3. 「影のない女」
  4. 「扉のない祠」