『小西真奈 wherever』展

一部、追加修正しました(2025年2月21日現在)。



 開放感に満ちた風景画。それが府中市美術館で初めてとなる大規模な個展を開催中の小西真奈(敬称略)の作品に覚えた第一印象である。
 小西の絵画作品には額縁がない。キャンバスがそのままの状態で壁に展示されている。画面に描かれている風景も都内の植物公園や旅先で訪れた温室といった日常的なものが多く、展示室から地続きの感覚でその風景の中に入り込めるような開放感を生んでいた。2023年から2024年にかけて制作された風景画は特にそうで、ふらっと出掛けられそうな気軽さがあって実に鑑賞しやすい。
 誤解を恐れずに書き記せば、いわゆるヘタウマな面白さが画面から感じ取れる一面も「絵画鑑賞」という字面からして肩肘張りそうな構えを解きほぐすのに一役買っていると筆者は思う。1994年から開催され、絵画といった平面作品を対象に国際的に活躍する将来性をもった若手作家を選出するVOCA展で小西が大賞を受賞した「キンカザン」(2006年)を描いていた頃の作品も『小西真奈 wherever』展で鑑賞できるが、その時期の緊張感に満ちた画風と見比べると画家の内面に訪れたその変化の柔らかさに気付ける。
 出産、育児に時間を取られ、またコロナ禍の到来により余儀なくされた隔離生活により当たり前に行えなくなった「絵を描く」という行為は、けれど画家の中でより身近なものとなり、想像的に飛躍した。コーコラン・スクール・オブ・アートで写真も学んでいた小西は手元にある取材写真をも画題にして、キャンバスに自由な絵筆を思う存分乗せていくのだが、作風の変遷について、小西は目録に収録されているインタビューで「以前ならかっちり描いていた部分で、もっと描かないようにする。それでどうなるかを楽しんでる」という趣旨の言葉を語っていた。
 ここに表れる実験的な試みが意味するものの実態は、風景画の数々にあえて接近することで露わになる。例えば「池」と題された一枚。池が張られた温室に差し込む日差しの温もりと池の中を泳ぐ錦鯉たちの鮮やかな姿を対照的に描いた風景画で、色覚と触感の双方に働きかける素晴らしい一枚であるが、ぐっとその画面に近付いた途端に「錦鯉」はただの絵筆の痕跡に立ち戻り、眩しさすら覚えていた「日差し」はそこに何も描かれていない空白としてこちらを激しく動揺させる。その時の「えっ!?」という驚きと共に画面から距離を取れば「池」は再び「池」を中心とした素敵な風景画に戻り、先ほど覚えたものと何ひとつ変わらない感動を鑑賞者に齎す。絵としての実際と、イメージとして認識できるもののギャップが凄まじいのだ。
 これと似たような経験は印象派の絵画表現でも得られるが、印象派の場合、筆触分割という究極的には絵の具が人間の身体に及ぼす物理作用に還元し得る技術の妙味を伝えるのに対して、小西の場合は「絵画」という画面ないし空間の創造を果たしている。ここで思い出す岡崎乾次郎(敬称略)の主張、すなわち「空間は、それ自体を明らかな事実として描けない」という一文は、遠近法の生みの親と評されるジョット・ディ・ボンドーネ(敬称略)の仕事を誤解したルネサンス期以降の絵画表現を批評するものであったが、小西真奈の絵画表現をその文脈に乗せると成程!と得心できるものがあって、非常に興味深かった。
 ジョットの絵画表現について、岡崎がその著作、『而今而後』(「空間の捻挫」の章)で論じたことを素人なりに理解すれば以下のようになる。
 まず最初に岡崎はジョットが画面に描く「モノ」と「モノ」との関係に注目する。それまで連続した一枚の平面=キャンバスの上に塗られる装飾として隙間なく描かれるに止まっていた中世までの絵画との大きな違いがそこに認められるからだ。「モノ」単位で分解され、それらを再配置して再構成されるジョットの画面には「モノ」同士の即物的な関係が現れる。経済的用法に基づく「モノ」と「モノ」との主従関係や聖書の教えに従った人物配置などがそれに当たるのだが、これらのリンクに基づき鑑賞する側が一枚の絵から感知するもの=奥行きといった空間的な要素は直接に描かれないからこそリアルになる。その場、その場で経験する不在は体感として説得力を持つためだ。故に覗き穴=視点の置き方次第で絵画空間はどこまでも広げられる。その可能性を生み出し、キャンバスの上で保ち続けた。それこそがジョットの仕事の真価である。いわゆるルネサンス期の遠近法は確かにその可能性が結実したものの一つではあるが、その成功を岡崎は認めない。予め「こうあらなければならない」ものして論理的に作られる空間構成により押し潰されたものが余りにも大きすぎるからである。実際、絵画はすっかり中世と同じく平面に戻ってしまった。ジョットから始まった可能性は終ぞ生かされることがなかった。岡崎はそう評する。
 かかるジョットの仕事を小西は引き継いだ、という大言壮語を吐く気は筆者には元よりないが、けれども空間の創造という点でいえば、本展の第二部で鑑賞できる小西真奈のドローイングがその技量の高さで注目に値するのは間違いない。
 小西のドローイングはシンプルだ。鉛筆を持って紙の上に直線と円を描くのみ。ささっと引かれた音が聞こえてきそうな線の勢いと、密度を推し量るような様子でぐるぐると渦巻く鉛筆の軌道は極めて簡素。にも関わらず、そこに認められる青写真はほぼ完成といえるぐらい対象の存在をはっきりと浮かび上がらせる。その雄弁さは来場者一般に向けて冷静に書かれるべきキャプションにおいても熱く語られるほどのもので、筆者にとっては驚異そのものだった。学生時代に師事したグレース・ハーティガン(敬称略)から小西がしきりに「前景とか後景とかじゃなくて、空間を作りなさい」と教えられたというエピソードも腑に落ちるものであった。
 紙面の上で擦られる炭素、それだけあれば小西真奈という画家は上質な絵画空間を生み出せる。そこに向けて、しかしながら現在の小西がストレートに絵の具を乗せないのは前述した通り。下絵も描かずに試みられる即興的で、かつ挑戦的な色の表現はドローイングの段階で強固に見定められた対象物の実在に触れては離れ、触れては離れを繰り返す。その「景色」は決して十全じゃない。もっと描き込めばいいのに、と不安になる箇所だって沢山見つけられる。にも関わらず画家が描きたいと望むその光景の美しさや豊かさが鑑賞者にも「分かる」し「見える」し、そこに「感じる」。画家だけじゃなく、鑑賞者も絵に向けて想像的かつ能動的に関われる。そこに行けるという感覚が風景画というジャンルの枠組みを融解する。絵画を成り立たせるための必要最小限を見極める、というような学究的な試みとは一線を画す小西のアプローチは、だからこそ絵画表現の内実を探り当てるようで面白い。空間はそこにないから「ある」といえるのだと深く納得する次第である。
 本展の開催期間は来週の2月24日まで。住んでる場所によっては府中市美術館までのアクセスに難儀するかもしれないが、展示会自体は興奮必至の素晴らしいものだったので是が非でもお勧めしたい。当該美術館は常設展示も充実しているので、そちらにも足を向けて頂けると幸いである。

『小西真奈 wherever』展

『小西真奈 wherever』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-02-19

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