ジャックジャックと音がする。風は凪いで、風鈴が鳴ることはない。ツクツクボウシが血色を変えるようにして鳴く。近くで。遠くで。その声に混じってジャックジャックという音。
 犬に噛まれたときのことを兄が話す。従兄弟がその話にうなずく。篤の姿が見えない。ジャックジャックと音がする。その音は、どうやら庭から聞こえてくるらしい。
 優は立ち上がる。台所に向かう。台所では妻と兄嫁とが話をしていた。どうやら梨をむいていたらしい。器に容れられたままの梨。陽を受けてキラキラと輝くスリガラス。優はふたりをそのままに網戸を開け、サンダルをひっかけた。
 庭は緑に包まれていた。もみじ、薔薇、その他にも名前を知らない木々。その木々に囲まれるようにして、ひとりの男の子がうずくまっていた。白いシャツの男の子、篤。
「何をしてるんだ」
 優は篤の背中に声をかける。篤は振り返らない。返事もしない。ジャックジャックという音だけがする。
「暑くないか」
 篤は首を振る。優は篤に近付いてみた。黒い髪、白いシャツ。優はそんな篤の上から覗くようにしてそれを見た。篤は穴を掘っていた。スコップを右手に篤は宝物なら隠せそうな穴を掘っていた。
「穴を掘っていたのか」
 篤はうなずく。
「何か埋めたいのかな」
 篤は何も返さない。
「手伝おうか」
 首を振る。
「ひとりより、ふたりの方が、はかどるかもしれないぞ」
 篤はまたも首を振る。優はかがめていた身を起こした。太陽は家の向こう側だから、直接射してくるわけではない。庭木が茂っているのだから、そんなにうるさく言う必要もないだろう。それにしても緑の豊かな庭だ。深緑に囲まれた庭。それでいて草は刈られている庭。おそらく木々はそれぞれに剪定されていることだろう。乱雑かもしれないが、枝が伸びすぎないようにと苦心のあとが見られるかもしれない。あの木なんて、形がいいのではないだろうか。優はその木に近付いてみようとする。そのときだ。
「ダメ」
 鋭く篤が言った。優は反射的に足を引く。そして見た。茶色の地面に黒と黄色の縞模様がいる様を。黒と黄色の縞模様、オオスズメバチ。優は跳びすさるようにしてオオスズメバチから距離をとる。しかしオオスズメバチは動かない。お腹を上に向けたままだ。ひとつの単語が浮かぶ。だが、それは言ってはいけないものなのかもしれない。
「動かないな」
 代わりに優はそう言ってみた。
「埋めてあげるのか」
 篤はうなずく。
「だったら、オオスズメバチはお父さんに任せなさい。オオスズメバチには毒針があるから」
「知ってるよ」
 篤は返す。それでも篤は穴を掘る。ジャックジャックと音がする。
「そんなに深くなくてもいいんじゃないかな」
「アリが来るから」
 篤は顔を上げない。優は、そんな息子のことが分かる気がした。この子はこの子で乗り越えようとしているのだろう。
「葉っぱを敷き詰めてあげたら、どうだ。隙間がなかったら、アリだってやって来ないかもしれない」
 庭木の葉を取る。
「この葉を敷き詰めてみたら、どうかな」
 篤のとなりに座り、庭木の葉を見せる。篤はそれをチラリと見て、スコップを置いた。無言のままに葉っぱを受け取り、一枚一枚を並べるようにして穴のなかに敷いていく。
「よし。じゃあ、篤は葉っぱを集めて来なさい。お父さんはスズメバチをスコップの上にのせて運んでくるから」
 篤がこちらを見る。
「大丈夫。スコップは鉄だから、刺されることはないよ」
 優は息子に笑みかける。息子は無言でうなずいた。
 篤の白いシャツ。大きめのサイズだったはずの白いシャツ。そのシャツも、やがて小さくなる。優は篤を見る。篤はもみじの葉を選んで取っていた。深い緑色のもみじ。
「もみじばかりだと可哀想だからな」
 篤に声をかけて、優はスコップを手に取る。そして枯れ枝を探した。それはどこかしらに落ちているはずなのだ。この庭で遊んだむかしを思いながら優は木の根元を探す。そして細い枯れ枝を見付けると、その枝でオオスズメバチに触れてみた。オオスズメバチは動かない。お腹を上にしたままのオオスズメバチは羽ばたこうともしない。優は枯れ枝でオオスズメバチをスコップの上にのせる。塗装のはげたスコップの上でオオスズメバチは、羽根をわずかに開いて固まっていた。
 篤が穴に葉っぱを敷き詰める。優はそのなかにオオスズメバチを入れる。篤が残りの葉っぱでオオスズメバチを隠す。篤は合掌した。優も手を合わせる。そうしてから優は、葉っぱに埋もれた穴に土をかけていった。
「これでオオスズメバチも天国に行けるだろう」
「うん。これでもう誰にも踏まれないから」
 息子は言う。
「オオスズメバチは毒があるんだから。踏んだら大変だから」
 だから埋めてやろうとしていたのか。優は息子の頭をなでる。
「そうだな。踏んだら大変だったからな」
 ツクツクボウシが鳴いている。太陽は家の向こう側だ。庭は緑に包まれていた。もみじ、薔薇、その他にも名前を知らない木々。庭は緑に包まれていた。

篤は穴を掘っていた。スコップを右手に篤は宝物なら隠せそうな穴を掘っていた。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-02-14

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