
百合の君(43)
その時、ばあさんは生駒屋の持って来た櫛を挿して、鏡に見入っていた。外が騒がしいのには気付いていた。しかし、戦が始まって以来、騒ぎのない日はない。凱旋や負傷兵の帰還、あるいは新たな出征を送り出す声などは、上噛島城の新たな日常になりつつあった。
しかし、
「奥方様が!」
とみつが襖を開けて叫んだ瞬間、その日常も崩れ去った。舶来の化粧をしてにったりと笑った顔を鏡の中に置き去りにして表に出ると、百合隊の女達に囲まれて、芽衣が百合の君を背負っている。その脚に巻かれた布は真っ赤に濡れて、点々と続く血の跡は、固く閉ざした門によって断たれていた。
「みつ! 台所まで走って、お湯を持ってくるんじゃ!」
ばあさんは知らず叫んでいた。走り出すみつの背中に、声を追わせる。
「きれいな手ぬぐいもじゃよ!」
そして芽衣の背中に回ると、
「奥へお連れするんじゃ、こんな所でおみ足をさらしてはいかん」
喋りながら君を支えた。
傷はかなり深かった。しかも悪い事に、城には浪親がいた。ばあさんは駆けつけた城主を部屋には入れず、廊下で応対した。
「なぜ私を入れんのだ」
ばあさんを踏みつぶしてでも部屋に押し入りそうだった。
「浪親殿がおられると、みなが手当てに集中できんでの」
「怪我の具合は?」
大事ない、と言おうとしてばあさんは思いとどまった。
「ぬーむ、治っても、前のように歩くのは難しいかもしれん」
「だから言ったのだ! 私があれほど止めたのに!」
震える浪親をしばらく見つめて、ばあさんはようやく叱責されているのが自分ではない事に気が付いた。おずおずと口を開く。
「並作を恨んじゃいかん」
「分かっている!」
暴れ馬を制するように、浪親はその荒い呼吸を鎮めようとしていた。そして、つぶやくように言った。
「戦を、なくすと誓ったのだ」
その声は泣きだしそうだった。ばあさんは、そんな浪親の声を初めて聞いた。自信を失い、ただ立ち尽くすしかないその姿を見て、ばあさんは息子に捨てられたときを思い出した。
「おっかあ、すぐ帰って来る。ちょっとだけまっててくれな」
息子はそう言った。その顔は浪親とは全く似ても似つかない、母親譲りの目玉の大きな、どこかうすぼんやりとしたいかにも田舎の百姓といった顔だった。
ばあさんは息子の姿が見えなくなると、すぐに歩き出した。そしてちょっと行っただけで、
「迷子になってしもうた、すまんのう」
と息子の去った方に向かってつぶやいた。めずらしく雀が二羽足元まで近づいて来た。
声がして、ようやくばあさんは我に返った。
「妻に怪我をさせておいて、自分が五体満足でいるようでは武士の名折れだ。私自ら出陣し、刈奈羅の兵を皆殺しにする」
浪親の目を見てばあさんはぞっとした。そのつららのように吊り上がった目の、黒い瞳の奥には、青白い炎が浮かんでいた。たとえその身が滅びたとしても、怨霊となって敵兵を焼き尽くすつもりだ。
「浪親殿、それはおやめなされ、浪親殿が討ち死にしたら、誰が百合の君をお守りするのじゃ」
「ではこの私に、妻や家臣が討ち死にするのを黙って見ていろと申すか!」
浪親の声は無数の針となり、ばあさんに襲って来た。ばあさんは喉の奥からなんとか声を絞り出した。
「い、いや、実はの、まだ申し上げておらなんだが・・・」
「何だ」
「都に使者を遣わしておる、もうじき帝から戦をやめるよう、詔がいただけるはずじゃ。どうかそれまで待ってくれんかの」
「帝だと?」
ようやく浪親の瞳に理性が戻ってきた。さすがは元五明剣なだけあって、帝への敬愛は深い。
「そうじゃ、もう三度関白様に使者を送り、段々と信頼されるようになってきておる。もう少しじゃ」
「なぜそれを私に言わなかった?」
「浪親殿は戦の指揮で精いっぱいだったじゃろう、わしに出来るのは裏方だけじゃて、それを一生懸命やったまでじゃ」
「まあいい、しかし穂乃に万一のことがあったら、出海は私が先頭に立ち、総攻撃を仕掛ける」
「分かった、分かったから今は辛抱してくだされ」
返事もせず立ち去る浪親を見送り、ばあさんはその場にへたり込んだ。いつの間にか額だけでなく脇やら首筋やら体中が汗でびしょびしょになっている。浪親がここまで感情的な人間だとは思わなかった。あるいは立場が、穂乃への愛情が、その性格を変えてしまったのかもしれない。いずれにせよ、君を回復させねば国が滅びかねない。
「お前たち! 自分の子だと思って看るんじゃよ!」
ばあさんは振り返ると女衆に檄を飛ばした。
そのとき芽衣は、ばあさんが左だけアイシャドウをまだ塗っていなかったことに初めて気が付いた。
百合の君(43)
やっとばあさんを主人公にしたエピソードが書けて嬉しかったのか、いつもよりやや長めとなってしまいました。