ピース・ソング
できれば縦書きで読んでくれるとうれしいです なんか文字がガタガタしちゃうのはPDFの設定でなおせるのかなぁ
@1@
両親の喧嘩で目が覚めた。枕もとの時計は5時20分をさしている。最悪の朝。
鼻の奥がもやもやとして、視界がぼぅとしている。眠っていたのだろうか?
耳栓を探す。枕の下だ。つけて、でもどうせ眠れない。まだ早い時間だ。上半身を持ち上げカーテンをあける。
雨。
じゅぅ…っと鬱屈を絞るような寒さ。
ベットの上で毛布を引き寄せると、体がすこしフラとした。
地震?
2011年の5月に私は生きている。
コーヒーのにおい。
ゆっくりと、意識が体に馴染んでゆく。ええと、そう。今は朝の5時。今日から新学期が始まる。
いってきます、と言わず家をでた。
ふらふら電車に揺られながら向かう。
東京の都心からちょっと外れたところ。最寄り駅から徒歩20分程度の距離にある、正門だけはレンガ造りの私立進学高校。共学。クラスの担任はおっさん。廊下はリノリウムで上履きが突っかかりそうになるぐらいに新しい。校舎はコンクリで古臭いのに。
あとは覚えていない。
始業式から2週間、自らの通っている高校について十倉玲佳が語れる事はこれくらいだ。 新学期に浮き立つ心も、期待と興味もそこには無い。
登校はしている。
脳の記憶系統に障害を持っているわけでも、思い出すことを拒否しているわけでもない。
ただ彼女は学校で起きている時間が決定的に足りていない。
登校から着席と同時に机に突っ伏し、ひたすらに眠り、放課後にずるずると起き上がり帰宅する。
そんな生活が続いている。
教師達は何も言わない。有名大学への進学率を上げることに余念の無い彼らはドロップアウトするものに無関心だ。そのほうがより多くの生徒を有名大学に送れる。
合理性。
だから教室の中で、十倉はくぅくぅと眠り続ける。空調のきいた中で、人の体温の生暖かさに触れながら、包まれるように日が落ちるまで沈み続ける。周りの生徒は彼女に関わろうとしない。繭を編むように十倉を除外し、しかし存在は認識しながら全ての人間関係は組まれてゆく。37人のクラスメイトたちは彼女を見えなくしてゆく。問題となる以前の存在として、店内の人とショーケース越しに目が合ったときみたいな気まずさで。
ちょっとした手違いなんだよ、十倉が学校にいるのは。
そう日を待たず、ミスは訂正されるはずだ。
彼女は2学期を迎えられないだろう。
だって、中間試験の成績があまりにもひどければ両親の呼び出し、それで一切の改善が見られなければ自主退学という形に持っていかれるから。体育に一切参加していない彼女は通知表評価3以下の生徒に科される切捨てを免れないから。
そういった思いを十倉は知らない。そんな難しいことまで思考が辿り着かない。ただひたすらに睡眠を欲している。最近は校門が見えてくるとあくびが出るようにすらなってきた…、いや、あくびは常にしている気がする。なんせ眠気と一緒に朝を迎えているような日々なのだ。世間が朝のざわつきと一緒に動き出し、私の中の眠気も目を覚ます。
十倉玲佳は3月11日の地震以降、夜に寝ることができなくなっている。
朝の9時ぐらいに寝て、夕方の15時くらいに起きる。
眠っても取れない睡魔と一緒に、この2ヶ月あまりがそう過ぎている。何かをする気力も、しない気力も、眠気の中に放り込んでただ生活している。
両親には相談していない。彼らに弱みを見せる事は”ありえない”。
今日も一人で帰る。
そのまま6月になる。
例年より早い入梅があってから、ぼろぼろ空気が剥がれ落ちるみたいに、毎日かかさず雨はふり続けている。
第一週月曜日、体育館で毎月の朝礼。
十倉が倒れた。
彼女の中からけだるい合唱の音が消え、ィイイ…、と遠くから耳鳴りが近づいてくるような気がしたときには既に体は傾いていて、「あぁ誰かに寄りかからなきゃ」と足を動かそうとしたら、そのまま膝からカクンとなって、
眠っているときに夢は見ない。
いつも通り放課後のザワメキで目を覚ました十倉は、自分がベットに寝ていることに気がついた。
跳ね起きる。
床まで垂れた垂れ絹に囲まれていた。夕日が透けている。風でカーテンがこちらにしなだれかかるよう揺れる。閉じられている。覆われている。息が詰まった。どう、どうと自分の中で思考が波打っているのが分かる。パニック。瞳孔が開ききったことも、顔がこわばっていることもちゃんと分かっているのに、それが落ち着くという行為に辿り着かない。現実がぬるぬるとしてうまく捕まえられない。西日の差しこむ部屋の中で底冷えしてゆく。体が強張って下半身を思うように動かせず、カーテンをぎぅつと握りしめて引っ張る。呼び鈴を鳴らすように。かたかた。食いしばった歯の隙間から、涎も息も撒き散らして、音を出してなんとかカーテンの外にいる人間に伝えようとする。
音がしない。
耳鳴りが続いている。
誰も居ない?
視界が回転する。
そのまま全部ぐちゃぐちゃになってくれれば。
歪んでいるのに形は解けないまま、ただ十倉の気分を悪くするためだけに光景がうごめき続けている。だんだん、薄暗く、赤黒くなってゆく錯覚。耳鳴りが止まらない。でもなんて鳴っているのか理解できない。鳴っている。自分の腕がベットからダラリ垂れている事に気づく。寒い。視線はほんの少しだけ開かれたカーテンの隙間に注がれる。あそこに誰かが手をかけてくれなければ”ならない”。
再び体を動かそうとする。けれどどうやって動かしていたのか、どうして動いていたのか、乾ききった喉では自分に説明できない。ドライフラワーな感じ。地震の次の日以来の、自分がカサカサの存在に、ごっそり生きてる部分を引っこ抜かれて成ってゆくような、
そのまま誰も来ないまま、十倉は意識が薄れるまで震え続けた。
そして暗転。
チャイムの音がする。
彼女は、自分がベットに寝ていることに気づく。
跳ね起きた。
ブラインド越しの夕日が自分に向かって差し込んでいるのが分かる。窓際のベット。
カーテンは閉まっていない。
頭痛がする。
目をつむって、髪の毛を手櫛で梳く。
夢?
眠っていた。
混乱する。
上履きを見つけ十倉はベットから出る。
眠っているときに夢は見ない。
じゃぁ今のは?
自分がひどく汗をかいていることに気づく。
違う、夢は何回も見る。頭からずるずると実感していた事実が抜けてゆく。
ふらふら隣の部屋へ。
小さな診察室だった。3人も入ればいっぱいになってしまうような広さ。十倉の目が泳ぐ。女性が事務机に座っているのが見えた。白衣。おかっぱ。足音に顔を上げ、十倉をみつける。
「あら、おはよう」
十倉は何か答えようとして、こほこほ咳き込んだ。ラップフィルムが喉にひっついているみたいな感覚。おかっぱの人が立ち上がって背中をさすり、「大丈夫?」と安心させるようにほほ笑んでくる。笑窪がしわになるくらい深い。これで肌の色が真っ白だったら日本人形みたいな怖さがあった、と十倉は思う。「水いる?」という問いにコクと頷きながら、白衣にとめられている名札に気づいた。
【渡辺】
ワタナベセンセー。
ソファーに座らされ、差し出されたコップの水を一息であおってから、十倉は深くため息をつく。消毒液のにおいが口の中にまで入ってきて、自分が倒れたのだという実感がわいた。舌にエグみのようなものを感じて、やっぱり病院とかの空気が私は嫌いで、だからあんな夢を見たのかも。
そのまましばらく、ただ沈黙があってから、
「少し落ち着いた?」と渡辺は十倉にたずねた。「まだふらつくようなら横になっていたほうが良いけれど」
「大丈夫です」そう答えた自分の声の擦れ具合に驚く。「全然」
そう、と頷いてから、渡辺は体温計を差し出した。「夜よく眠れてない?」隈ができてるわ。「ちょっと普通じゃないくらい」
なんだか少し棘のある口調。
「はい」そう思ったけれど、十倉は素直にうなずいだ。「最近よく眠れてない…です」
怖くて。
沈黙。促されている。すこし焦る。十倉は続きをかき集める。
「ええと、その、眠るというより横になって目を閉じるのが」何かが倒れてくる感じがして、その、実際に本棚が倒れて、それで怖くて、「それだけ、なんですけど、でも眠れていません。」
全然、ちゃんと説明できている気がしなかった。状況はそうだけど、上っ面だけを言葉でなぞった感じ。
十倉がいい終わってからしばらく、渡辺は彼女をじっと睨んでいた。
目を逸らし、ぺたりとした爪を眺めて時間をつぶす。聴診器を当てられる直前みたいに息が詰まる。ぴー、という音で自分が体温計をさしていることを思い出した。渡辺は動かない。なんとなく体温計も抜けないまま、二人は向かい合う。
(何か私の体に問題があったのだろうか?)
十倉が沈黙を破るために質問しようとしたとき、
「そう」と渡辺は呟いた。「よかった」ドラックとか、そういうのにストレスから行ってしまう子もいるから、「十倉さんがもしそういう事になっていたら、嫌だなぁって」
飛躍してる。
と思ったけれど、言われて、十倉は確かにと納得もしてしまった。
そういうこともあるかもしれない。
健康な女子高生がボロボロになっていく全な理由。
「ありえません」十倉はいう。学校が始まるまで街にだってろくには出れなかったし、今だって図書館を行き来するぐらいだ。そもそもお金が無い。
「そうね」と渡辺はいった。「アナタはそんなことをする子に見えないもの」どこかお医者さまにかかってる?そうじゃないならちゃんと行った方が良いわよ。「倒れたとき、北極で水泳してきましたってぐらい真っ青な顔色だったから」
そうします、と頷いて十倉は立ち上がった。早くこの部屋から出たくて仕方が無い。
ここは狭すぎる。
週末、父親に風邪をひいたと嘘をついてお金を貰い、十倉は心療内科に向かう。
家からも学校からも離れた所を選んだ。初診の用紙を受付の人に出すときちょっと緊張したけど、相手は特に何も思わないようだった。
休日だというのに待合室は空いている。オルゴールの音でアレンジされたディズニーの曲が流れている。フツーな感じ。想像していた隔離病棟のような不気味な清潔さは無い。
着くまで緊張していたせいでなんだか疲れてしまい、今日は良い天気で部屋がぬくぬくと暖かい事もあいまって、十倉は眠くなる。午前10時を知らせるアラームが鳴り響く。そこからの記憶が曖昧だ。ぱちり、と十倉は自分の部屋で目を覚ます。起き上がり、辺りを見渡すと、ほっぽりだされたカバンや靴下…何で脱いだんだろう…服は着替えてないから完璧にシワになっている。携帯をカバンから引きずりだして時刻を確認する。
午後4時ジャスト。
よろよろと廊下にでる。人の気配はしない。両方ともどこかへ出かけたのだろう。愛人のところ。一階まで降りるけれどやっぱり誰もいなくて、キッチンで牛乳を飲んだ。夕食代として母親が置いていった1000円が机の上にある。
2階の自室に戻ったとき、カバンからビニール袋が飛び出していることに気づいた。
処方された睡眠薬が入っている。
記憶をたどる。中年の男の先生に、診断されて、それで帰ってきた。細かい部分の記憶が存在しない。いつも通りに、昼間の記憶は日差しに溶けてしまっている。
だからいま思ったことについて十倉は考える。
つまり、
こういう風に薬を貰うまで気づかなかったけれど、私はこの生活に社会的側面を除けば困っていない。なんとなく薬を処方されると凄く病気っぽいけれど、私は健康だ、と思いたい。思考がぶちぶちと脈絡なく繋がっている感じ。気分が悪い。
けれどまぁ、なんにせよ。
夜を待たなくてはならない。
十倉玲佳は夜に小説を手にとる。眠れなくなってからの習慣として。
ジャンルはバラバラだ。彼女は本の選別という行為をしない。ファンタジーでも、私小説でも、ノンフィクションでも、とにかく、なんでも。日ごと図書館を彷徨い、適当な重さの本を取って借り、それを一晩かけて消化する。
決まったコースを歩くように、
彼女の行為は読書というよりも視線で文字の上を歩く作業だ。あて無く夜の街を徘徊するように、ただ紙の上にある黒いシミを頭の中に放り込む。内容はほとんど理解していない。常に眠たく霞に漂う感覚と一緒だから。けれど何もしないには夜は長すぎる。
気が狂いそうなほど。
退屈が人を殺すというのは本当だと思う。
部屋に、あるいは世界に、十倉がページをめくる音が響く。息を潜めていたわけでもないのに、なんだか呼吸がし辛く感じる。たまにある。そういう時は一度手を止め、目を瞑る。脳みそから思考が姿をみせる。様子を伺うようにひっそり、静かに。
(私がもし一般的に幸福な家庭に生まれていたら、きっとこんなに苦しくなんか無かったはずだ。夜に居間でテレビをみても怒鳴られず、門限を過ぎてから外にでることに小言を言われることも無く、簡単なアルバイトをする事だってできたかもしれない。
それか、今すぐに誰かが私の部屋の窓に手をかけて、どこかに連れ出してくれなければ”ならない”。)
そうでなければ、このジンセイというものは決定的に不幸を前提として作られている。
まぁそれならそれで、良いかと思う。
幸福を求めるには眠すぎる。
十倉は思考を文字歩きに戻す。カーテン越しに窓から音がする。雨が降り出していた。雨は髪がごわつくから嫌いだ。また一つ憂鬱になる。あぁ、とため息をつくことで思い出す。
睡眠薬を飲むんだった。
そぅ…と扉をあけて台所へ向かった。神経質な両親は本当にちょっとした物音で起きてくる。足音を消して歩くことはすっかり慣れている。ウンザリする。辿り着くと、十倉は蛇口から水をコップに垂らすように注いだ。なんだか水がぬるぬるとして、普段よりも重たいような気がする。部屋までなんとか持ち帰ると、ほぅっとため息が出た。
わくわくしている自分に気づく。
こんな気持ちじゃ何にせよ眠れないんじゃないかしら?と思い深呼吸をする。よし、と口に出してから十倉は睡眠薬を口に含んだ。機械的な甘みを舌先に感じる。水を飲み干してから、明かりはつけたままベットに入る。
しばらくは、何も無かった。ただ自分の心臓が動いているという実感と、眩しくて結構辛い、けれど消して布団に入るのは怖いというジレンマと、ぱたりぱたりと寄りかかるように降りつづける雨の音だけ。
体質的に効かないのかも。私は運が悪いから。と思ったときに、ちゃんとそれは来た。
ガツり、と顔面を氷の板に叩きつけられたみたいな感覚がした。
目を覚ましたとき、呼吸が止まっていたのかと思うくらいに十倉の呼吸は乱れていた。
ぜぇぜぇと耳障りな音が頭に響いている。息が上手く戻せない。自分の体が大げさなくらいわさわさと動いているのを見る。見ている。実感と苦しさが上手く理解できない。
ひどい寝覚め。
バン、と玄関の閉まる音で誰かが出て行ったことを知った。時計を見る。5時。なら父親のほうだ。不気味なくらい布団が乱れていないことに気づく。寝相の悪い私には違和感でしかない。
でも眠気は無かった。すっくと起き上がろうとして視界がブレる。体が朝に生きることに慣れてないような感覚。だっていまはもっとふらふらと動く時間じゃないかと、言われているような気がする。
雨は振り続いている。
高校へ行く準備をしなければ。目覚ましを鳴る前に叩ききる。
その日から学校生活が始まる。
学校に十倉の存在は無い。生徒も教師も彼女はいないという事を信じている。体育において彼女が一人体育館の隅でぼんやりしていても誰も関わらない。授業において彼女は徹底的に指名されない。小テストは採点されて返ってくる。
自分は数値の上だけで存在している。
元からこうなる予定だったのだ。と思う。
私立の受験校を受けることを拒まなかった時点で、あるいはもっと前から。
だって恐らく、この境遇が嫌なら死に物狂いでも起きて学生生活の中にいるべきだったのだ。そういった代償を払わなかったのは私だ。けれど十倉は絶対にそうしなかったろうという思いもある。
ここで生きるということが私の睡眠欲に勝ることはありえない。
漠然と授業を受けているとチャイムが鳴り、昼休みになる。十倉は席を立つ。食欲は無い。図書館へと向かう。廊下を歩いていると、日焼けしすぎた肌を晒している時のように空気がぢりぢりと刺さる。
この世の中に存在していることの違和感が日増して行く。
睡眠薬を飲むことを止め、元の生活に戻ることも考えはした。睡眠薬を飲んで眠ることはひどい気分でもあったから。
あれは睡眠というよりも昏倒に近い。
誰かに夜道でいきなり肩をつかまれ、あわてて振り返った瞬間に誰もいない事に驚いて、それから自分が布団に仰向けだったことを思い出すと、今度は氷の中に無理やり顔を突っ込まされて、そのまま全身が凍ってゆくみたいに意識が無くなる。昔何かの映画で見た拷問みたいだと思う。氷のたぷたぷと浮かぶ桶に顔を突っ込まされて、死なない程度のところで引き上げられる。質問される。また顔面を叩きつけられる。質問をされる。また、また、また、
日々消耗してゆく。
もうため息はつかなくなっていた。ただ朝起きて、夜に寝る。そこには苦痛が常に寄り添っている。生活は苦痛なのだと思う。そういうもので”なければならない”。
今日も十倉は一人、図書館で本を読んでいる。
だから本当にうれしかった。あなたが話しかけてくれたとき。
@2@
三竪純子。クラスメイト。いつもニコニコと笑って一人で椅子に座っている、ちまっと小柄な成績優秀者。
クラスに一人はいる良くできた人間。
それがワタシ。
短めの髪と化粧っ気のない顔は、どこかぼおっと印象が薄い。だから、欠点は無いけれど、これといって接点も無く、ただ必要なときにはちゃんといる便利な女。良い子、省スペース。
それがワタシ。
そうでなくては”ならない”。
高水準で満たさなければ幸せにはなれない。
娘の幸せを願って止まないワタシの両親はそう信じている。
だから今日もしっかりと、三竪は学費の関係で行けなかったもっと上等な高校の制服を着た人影なんて気にもせずに、山手線にのって、遅刻もせずに学校へきて、教室の扉を開けた。
一人ぽつねんと十倉玲子がいる。
起きている。
6月の憂鬱が増した。今日も雨が降っている。
最悪の朝。
三竪純子は十倉玲子が嫌いだ。
この高校に入って、一目見たときからずうっと。
十倉玲子は眠りこけていた。最初の自己紹介くらいはしていたかもしれない。あまり記憶に残っていないのだから。入学式の日はむしろ、5月らしくもない寒さとぎゅうぎゅうと押し付けてくるような雨に不快感を覚えた。「入学式」と書かれた縦看板がガタガタと鳴いて、ずるずると校門に入ってゆく父兄その他諸々の気分を盛り下げていて、憂鬱。だった。他には紅白饅頭と校名の書かれたペンを(コレは母親が妙に喜んでいた)もらった。ぐらいだ。至って、普通。の生徒と教師と学校。
そういう印象だったから、だから、三竪が十倉に、クラスの全員が彼女を認識し、距離を置くようになったのは、初めての体育の授業。その前の休み時間だ。
誰も教室で眠り続ける十倉玲子を起こすことができなかった。
男子の着替える場所は教室では無くなった。
この学校の慣習として、女子は更衣室、男子は教室での着替えを体育前にはすることになっていたから。
以来、このクラスの男子は空き教室で着替えている。
以来、三竪は十倉を視界の端に捕らえることを止められない。
彼女の席は、ちょうどワタシの斜め前で、だから嫌でも目に入る。
気に入らない女。
教師も、生徒も、遠巻きに、嵐がどこかへ去ってゆくのを待つように、何もしない。5月が過ぎ、誰もが教室の椅子の形や気だるげな担任教師の挨拶に慣れてきているのに、余裕があるはずなのに。
間違っている。
イジメラレロ。
”けれど誰かをイジメル事も間違っている”
クソみたいにつまらない価値観だと、三竪は思う。
今頃、家で勝手に人の部屋を掃除したり、のしのしと億劫そうに廊下を歩いてぶつぶつと文句を言っているであろう母を、なんの仕事をしてるのかも知らない、禿げ上がった父親を、くだらない考え方を植えつけ、強制してきた奴らを、三竪は憎んでいる。
ストレス・フル。
だから十倉玲子が体育館で、目の前でふらと倒れたときに、ワタシはあらあらと思うだけだった。肉の倒れる鈍い音、どよと十倉から距離をとりつつ眺める周り、未だに歌われ続ける校歌、生徒たちの不斉唱を目ざとく寄ってくる生徒指導主任、照明を虚ろにはね返す体育館の床、そういったものをただワタシは見ていた。
そのまま十倉は学校に来なくなる。
となんとなく思っていた。
期待は外れる。
その次の週から十倉玲子は眠らなくなる。
ストンと黒く長い髪を机に散らさずに、すっくと教室のなかに存在するようになった。
それだけ。
季節が梅雨になれば晴天は影を潜めるというように、彼女が起きていることが変化ではなく経過だというように、周りは何も変わらなかった。
この1年D組はじまってからずうっとそのように、彼女は遠巻きにされている。
そんなことは当然で、だから気にもならないという風に十倉は学校に来ている。
平気な面しやがって。
毎朝、教室に来るたびに三竪は舌打ちをこらえるようになる。
なるべく距離をとりたいけれど、何か手ひどく痛めつけたい。
自分がそう考え続けていることに、三竪は正直疲れている。ストーブの横にずっとい続けてるみたいに、じりじり、爛れていくのを感じる。一度も会話した事のない人間を、碌に知りもしないクラスメイトを、どうしてワタシはこんなに憎んでいるんだろう。
分からなくてイライラする。
そんな風に思っていたから、あの日の図書室で起こったことは、当然だと思う。
火曜日の昼休み、三竪は図書室へ行く。今までは一度も行ったことがなかった。普段、机が近いからと言う理由で仲良しグループになって一緒に昼食をとる2人がたまたま今日は居なくなってしまったから。
一人の、めがねをかけて頬にぽっと黒子のある子は昨日何かの折で、
「でね、その人の本は全部すごく面白かったの」と言っていて、今日、風邪で休んだ。
「でもあの作者って一回捕まってるでしょ?」
と答えながら「まぁ、悪くなかったけど」と言って【毎日の野菜】の紙パックを折りたたんだ子は、陸上部の仲間に呼ばれてどこかへ行った。
一人で教室にいるのは息苦しい。
三竪は自分の作った弁当をサクサクと食べ終え、せっかくだし、図書室で件の本を探そうかなと席をたつ。
走り回る生徒たちを避けて目的地に着く。カウンターの図書委員らしき女生徒に検索を頼む。その子は強張った表情をしつつ指で一本一本、慎重にキーボードを押しはじめる。リボンの赤色から同学年と分かった。机を爪でたたきそうになり、寸で止める。
嘆息。
びくりと図書委員がしたことに気づいて、あわてて微笑む。
なに、イライラしてんのよ、ほんと。
手持ち無沙汰になって、ぼうっと後ろを振り返り図書室の中を眺めていたら、彼女を見つけた。
十倉玲子。
本棚の林に入ってゆく。
「あの」
三竪はびっくりして振り返る。
「ありました」
あぁ、ありがとう、と言って番号の印刷された紙を受けとる。
一瞬、このまま図書室を出ようかと考え、やめる。
”人の行為を無下にするべきではない”
ちゃんとこのアホっぽい女の子の前に、検索させた本を持ってきて借りなければ。
三竪は本棚の列に入ってゆく。何かが息を潜めているようで、三竪は図書室が嫌いなことを思い出す。どうして忘れていたのだろう。
そしてしゃがみこんで本を探す十倉玲子を見つける。
ぱらと落ちたプリントを拾うくらい無造作に、三竪は彼女に呼びかける。
「十倉さん」
本棚から本を抜き出しかけていた十倉は三竪を見上げた。
枕になりそうな本なら向こうにあったわよ、とか、今日は起きているのね、とか、結構いろんな種類の言葉を自分が考えていたことに、三竪はそのときに気づいて、
「今って暇?」
十倉は立ち上がって何か言おうとして、黙って首を縦にふった。
二人は無言のまま教室に着く。
三竪が本を探している間じゅうも、それからも、十倉はしゃべらなかった。
でもそれは正しい。
話しかけたのはワタシで、何か言うべきなのはコチラだ。
思いながら三竪は扉を開けて、びりびりと紙が破ける音を聴く。
教室の真ん中あたり。クラスメイトの一人が、背の高い(名前は確かソノザワ、だったと思う…)男子が、誰かのノートを引き裂いていた。ぽっかりと顔を空っぽにして座ったまま見てるのが、たぶん持ち主。サッカー部の…いつもうるさい人だ。
ソノザワが黙ってノートを床に投げて、ワタシたちの横を抜けて教室を出てゆく。サッカー部は、散らばったノートをまとめると机に突っ込み、もう一方の扉から出て行った。小さく、誰もが視線の端にそれら一部始終を捉えていて、けれど何も言わない。
クラス中がなんとか昼休みの建て直しを始める。
三竪は口にする。
「こわ」
十倉は答える。
「なんだろう」
「喧嘩?」
「かも」
沈黙。
こんなことで会話を成立させ始めた自分が堪らなく嫌になった。
二人はそれぞれの席へ向かう。
お互い本を広げて、昼休みが終わるまで読み続けた。ソノザワくんは帰ってこなかった。
2週間が過ぎ、三竪も湿気で髪がゴワつくのに諦めがついてくる頃に、ソノザワ君が学校をやめたという話を陸上部から聞いた。
「ほら、最近学校きてなかったじゃない?」なんかね、やめたんだって。
メガネがたずねる。
「どうして?」
「さぁ?」
もう彼の机はどかされていた。
サッカー部の子は部活をやめてすっかりおとなしくなった。誰も何もしゃべらない。
だってあまりにも唐突で、意味が分からなかったから。
口に出してどうするんだ?
そう割り切ろうとして、けれど上手く忘れられず、ズブヌレの靴下を履いているときのような気分の悪さが三竪に付きまとった。
おかしい。
部屋の隅の埃をみて見ぬふりをするようにただ放置しているなんて。
クソみたいな奴ら。
バカみたいなワタシ。
自分がツマラナイ女であることを三竪は自覚している。
苛立ち、暴言、ロクデモない責任転嫁やワガママ。
”そういうことは押さえなくてはいけない”
心は自由でなければならない。
今だって、しっかりとスカートの丈を守り携帯も学校に持ち込まず、騒ぎを起こすことも無く寄り道もせず門限までに家へ帰っている。気に入らない事をする人間をいきなり殴りつけたり、口汚くののしったりしない。ノートだって破かないし、お茶をあびせたり、頬を叩いたりだってしない。アナタタチと違って、
ワタシは正しい。
と思う。
例えば今の、5限目の終わり際、不意に空が晴れはじめ、空気が湿りけに冷たさを含ませながら輝きだした時、こんなに綺麗で終わっちゃいそうな景色なのに、ワタシには家があって帰って寝れる場所があって、でもそれが全然アリガタクなくて、それは思春期に良くあるって言われるような悩みに内包されていて、でも誰も解決してくれなくて、その事実が此処からまだ続いているという未来が、認められないけれど、ワタシは成績優秀な良い子なのだから。
それが現実。
だから全然、何にも、辛いことも楽しいことも、無い。
あれから十倉玲子とは一言もしゃべっていない。
夏休みが近づいている。
クラスに欠員は出ていない。
三竪は今日も1人で帰る。十倉玲子はとっくに教室からいなくなっている。鞄を抱えるようにもって、ふっと窓から外に飛び立つような気軽さで、彼女はいなくなる。溶けて消えるように。三竪は常に彼女の行動を監視している。
タイミングを伺っている。
ナニをするのかわからないけれど。
梅雨の明けを誇るように晴れ続けている空の下、夕焼けと空色の中間くらいの景色を三竪は歩く。予感がする。何かが起こるような。でも知っている。何もない。ただ、毎年この時期になると、無意味にワクワクして失望する。年中行事のようなもの。
地震のあとで、
そういった失望感のようなものは一際に強くなった。こんなに身近に、どうしようもない災害が起こったのに、何もしなかった自分と、ちょっと物が倒れただけの家と、健全な両親なんかに対して、
100パーセントの肯定も、120パーセントの否定もできないまま。
ただ、ごろごろと倦怠が自分の中にたまってゆく感覚。
予感がする。
このままどこにもいけない。
そんな事を考えながうつらうつらと電車で座っていたらS駅を乗り過ごしていた。
このまま、先日かりた本を読み続け環状線を一回りしようかとも思ったけれど、それもなんだか億劫になってしまって、次の駅で降りた。
電光掲示板で次の発車時刻を確認する。もうすぐだ。外はまだ橙になり始めたばかり。もったりとした気だるい夕刻。すこし凝った肩を回していると、視線を感じた。振り返る。人影のまばらなホームに十倉が立っている。三竪を眺めている。心底不思議そうに。
なにしてんの?
あぁ、嫌だな。
知らんふりをしよう、と思って、けれど話しかけないのは負けた気がして、三竪は笑いかけた。「こんにちは」学校ぶりね。
表情を変えずに十倉は答える。
「えと、こんにちは」
おわり。視線をそらされる。なによ、と思う。
「家、ここらへんなの?」
「あ、うん」
ふーん、とうなずいて続ける。
「ワタシはS駅なんだけど、乗り過ごしちゃった。ほら、なんか眠くなるような気温じゃない?電車内って」
そう、だね。と十倉が言ったきり会話は続かない。ホームの向かい側に電車が来る。三竪は小さく息を吐く。「うん、じゃぁさよなら」といって十倉に背を向けた。
「あの」
肩を叩かれた事に驚いて、三竪は後ろを見る。十倉の青白い頬が、じっと赤らんでいる。
「家に来ない?」
冗談だろう?
「どうしたの?急に」それに悪いわよ、「何ももって来てないから…」
気にしないで、と十倉は手を振る。
「どうせ誰もいないわ」それにほら、この前いろいろあって、全然話せなくて、「それから機会もなかったじゃない?」
駅の南口へ向かう十倉のあとを、三竪は着いて行く。
じゃぁ、是非、行ってみたいわ。
じゃぁ、何かおやつでも買って帰りましょ。
「家は北口なんだけど、あっちのほうはなーんにも無いから」
言いながら十倉はエスカレーターを歩いて降りる。先に地面に降りて三竪を仰ぐ。はやく、と促すように手に持った鞄を揺する。ワタシは仕方なく歩き出す。
なんだかキモチ悪い、と感じる。十倉は妙に行動的だ。詐欺に引っかかった鴨にうかれてるように見えて、先の見えない洞窟に入ってゆくような気分。彼女の家に酸素はあるのだろうか。さっきだって、あれ以上いっしょにいたら窒息すると感じたのに。
駅一体型スーパーにつく。中は全身舐めるような冷気に満ちている。
何か好きなお菓子を入れてよ、と十倉は篭を持つ。
好きなお菓子なんて無いわよ、と三竪は思う。
上機嫌で十倉は何かをしゃべっていて、ワタシは適当に相槌を打つ。会計は彼女が持った。嫌味な女。と思おうとして、彼女が財布から紙幣を出すときにズルりと皮がむけるように暗い表情をしたせいで、それもうまくいかずに、三竪は曖昧に「ありがとう」と言う。
一人で誰かの家に遊びに行くということをしなかったから、どういう立場でいればいいのかわからない。
帰りたいな、と切に思える。
隣の家のテレビの音が聞こえそうなくらいに静まり返った住宅地に、十倉の家はあった。
どうぞ、と促されて玄関に入ると中は薄暗く、誰もいないようだ。無言でぱちぱちと電気をつけて進む彼女について2階へ。ここが私の部屋、と言って無造作に十倉は扉を開けた。
冷めた部屋。
というのが第一印象だ。
締め切られたカーテンの薄青色や、本棚の嘘くさい白や、机におきっぱなしの透明なコップの虚ろ。崩れたベットの上や、床に置いてあるクッションなんかから生活感は感じられるけれど、実際に十倉が生活している実感がわかない。そんな、必要なものはあるけれど、それ以外のものが無い、手摺のない橋を渡っているみたいな、ぐらついた不安な、
灯りがつけられる。
カーテン越しに入る夕焼けの赤黒さが減る。
クッションをこちらに渡して、じゃぁ、何か飲み物とってくるね、と十倉が出て行く。
三竪はため息をつく。
なんとなく、そうだと思ってたけど。
この部屋には住んでいる人間を幸福にしようだとか、リラックスしようだとか、そういった感情の部分が欠落している。何の取っ掛かりもない壁に向かって爪をたてるみたいな無力感に襲われる、からっぽな部屋。
ばっかみたい。
「おまたせ」
お盆に過剰なぐらいのお菓子と2Lペットボトルのお茶を乗せて十倉が戻ってくる。あわてて立ち上がって、一緒に支え持つ。勉強机の上によいしょとおろしたとき、処方袋が目についた。
「まぁ、何もないところだけれど、ゆっくりしていってよ」と十倉は笑う。「どうせ両親は今日帰ってこないだろうし」
慣れなれしい口調。三竪は彼女との距離が上手くとれない。
「えっと、うん。ありがと」その、「いつもご両親は遅いの?」
そうね、とコップにお茶を注ぎながら十倉は答えた。
「日によるけど、結構」
一方のコップを三竪に渡して、それよりも、と言う。
「乾杯」
「かん…ぱい」
三竪が戸惑いながらコップを合わせたとき、チャイムが鳴った。触れ合った十倉のグラスが不自然に大きく揺れる。
@3@
ミズモトさんだった。母親のほうの愛人。喉を締め付けてくるぐらいに濃い香水とタバコのにおいがする、がっちりした人。たぶん、いい人そうにな顔立ちをしていると思う。会うときはいっつも紺色のスーツと毒っぽいネクタイを着ている。彼の手にした袋からお弁当を買ってきてくれたということが分かる。
ありがとうございます、と小声で言って受け取る。
自分にはコレを、目の前で踏み潰すほどの気概は無い。
「小枝子さんは今日遅くなるから」
知ってる、と十倉は思う。家をでるときに言われたから。
(今日は遅くなるから)
じゃぁ、と去っていく彼を見ながら、毎回、一体どういう気分でこの家を訪れるんだろうと十倉は思う。もし父親とであったら気まずくなるとか、そういったことを彼は考えないのだろうか?
もっとも、そうなったことは十倉の知る限り無い。彼になったのは中学2年の頃だから、つまり2年間。他の人のときも、無かった。
家に監視カメラでもあるんだろうと思う。
どっかのよくわからない高そうなお弁当を台所へ放り、十倉は二階へ戻る。親戚のおじさん、という事にしておこう。
部屋に戻ると、三竪はきっちりと正座しながらクッションに乗っかっていた。
バランスとるの大変そう。
よいしょと対面に座り、十倉はお茶を一気に飲み干す。けぷ、とゲップがでそうになる。押さえて、さて、と思う。
三竪は何も言わない。
十倉はぽつりと尋ねる。
「あの日さ、何を聞こうと思ってたの?」
すこし、棘のある言い方になった。動揺する。口の中が干上がる前に続ける。
「いや、その、あの時ね、私うれしかったから、その、上手く話せなくて」それで、なんか緊張しちゃって、だから、「ごめんなさい、上手くいえなくて」ただ、うれしかったのよ、話しかけてもらえて、怖かったけどね。
十倉が言い終わってしばらく、二人は見つめ合っていた。部屋の影がまた一段と濃くなって行く。遠い雪崩の音に耳を澄ませるようにただ息遣いがあり、
「特に、何かがあったわけじゃないの」三竪は答えた。「ただ、なんとなく」
話しかけてみようかなって。
なんとなく。
変な人、と十倉は思う。
それで手持ちの会話はなくなって、仕方なく十倉はポテチの袋を開ける。ばっつんと大げさな音がして、二人してびくりとなった。顔を見合わせて、お互い肩をすくめて、それをみて笑う。
なに、やってんのよ、って。
ほんと、ばっかみたい。
そのあと、図書室で三竪の借りた本の話で少しだけ盛り上がって、そろそろお暇するわという彼女の言葉でお開きになる。
駅まで二人で歩く。霞むように蒸し暑い、夏の夜になる気配。外灯の輝きやアスファルトを擦る自分たちの靴音が、漠然としている。暑いねぇ、とか、今日はゴチソウサマ、だとか、そんな言葉を撒きながら進む。改札で別れるまで、会話らしい会話は無かった。
「じゃぁ、また明日学校で」
「うん、じゃあね」
三竪が去ってから十倉はヒドイため息をつく。気持ちを切り替えようと大きく息を吸って、睡眠薬の小さな甘みを口に思い出して堪らなく嫌になった。
どこかに行ってしまいたい。
だから電車に乗った。
いつも人がたくさん降りて乗ってくる駅で下車する。
人の流れに身を任せて、とりあえず駅を出る。大きな交差点で並んでいる人にまぎれる。信号が青になる。また流されて、ウロウロとさまよって、見知ったファーストフード店に入った。とりあえず、フライドポテトとジンジャーエールを頼む。人が2人ようやく通れるくらいに細い階段を昇り、二階に上がる。知らない学校の生徒たちが屯している。カウンター型の窓際の席に座る。隣の席でイヤホンをしながら何かの参考書を開いていた女の人が、こちらを横目で見た。細い手首、神経質そうなメガネ、何も塗られていない爪。
なんでこんなうるさい所で勉強してるんだろう?
不思議だったけれど、まぁ、邪魔する気は無い。十倉は壁のほうに身を寄せながら、外を眺める。すごい速度で人ごみが移動している。なんだか肩の凝る光景。フライドポテトを一つつまんでから、あぁ、パイだとかパンケーキとかだってあったんだなと思い出した。
薄暗い店内でこれからどうするか考える。
特に、何も。
帰りたくないけれど、やることもない。
無為な時間。
もう、注文したもの全部をゴミ箱にぶち込んで帰ろうか。としたときバツン!という音がして店内の照明が落ちた。
BGMもざわめきも一瞬かんぺきに止まり、それから囁きが満ちる。窓の外の人々がこちらを見上げている。誰かが、
「火事だ!」
と叫んだ。一瞬ホワイトアウトする意識。ひゅううと喉を空気が通過する音が嫌によく聞こえて、立ち上がろうとしたときに腕を掴まれる。
隣の知らない女の人が、この暗がりでも知れるくらい真っ青な顔で、目を開ききってこちらを見ていた。
怖い。
振り払って、階段に人が殺到しているのを見て、ただ呆然と呼吸する。
火事?
警報機が鳴っていることにいまさら気づいて、力が抜ける。
どうして。
「嫌だ」
@4@
十倉玲子が火事で死んだ。
担任から伝えられた朝のことを、三竪は爪の内側に刻まれるように覚えている。
…非常に残念なことです。葬儀は親族のみでとのことで…
という担任の声だけしか聞こえない。ほんとうにほんとうにほんとうに何も、クラスメイト達はしゃべらなかった。ただ重く、三竪の前でだけ、空席の机があるだけで、だから、これが何かもっと十倉の主体的な死だったら、違ったのかもしれないけれど、どうしようもないくらいに事故で、どこまでも希薄な状態で、彼女は死んで、
十倉に最後にあった人間ということで、ワタシは何回か担任や警察に話を聞かれた。
ただ、クラスメイトの家に遊びに行っただけです。
関係性は無いと判断され、それかびっくりするぐらい何事もなく、ワタシは2年生になった。
春だ。
桜の花びらが道の横に寄せられて茶色く変色しているのを眺めながら、三竪は校門へと入ってゆく。今日は入学式で、4月。学年ごとの成績最優秀者たちの言葉を新入生に与える、ということでワタシはこれからスピーチをする。周りにはスーツを着た大人たちがウロウロとしていた。全体的に黒が多い。陽光のなかをそぞろ歩いている光景はどこか陰鬱に見える。スピーチの内容を頭で反芻しながら体育館へ向かう。
【これから新しい季節を迎えるあなた達に】
言いたいことなんて何もない。
興味もない。
入学式が始まる。
ワタシには全然共感できない、未来だとか将来だとかの明るさや、立ち上がってゆく強さだとかのロクデモない言葉が壇上から父兄にあびせられる。みんな満足そうにそれを聞いている。
ワタシの番がきて、原稿用紙に書いた同じようなことを言う。まるで心ないピース・ソングみたいな嘘。
それが求められている。
ワタシのコトバで、誰かはきっと幸せになっている。
じゃぁ、ワタシは
あるいは十倉玲子は
不意にパタパタという音で、自分が泣いていることに気づく。
声が詰まり出なくなる。おもむろに誰かが拍手を始めてそれが広まってゆく。吐き気がして、頭痛がする。顔を手で覆って、涙を漏らさないようにする。嗚咽がただ自分にフィードバックしていく。響き続ける。キレそうになる。都合の良い奴ら。ワタシの涙だって、誰かの悲劇だって、利用して、お腹いっぱいになって、見ない振りをして、悪意なく。呪詛が体中に反響する。歯を食いしばって、震えて、だから本当にこの世の中も、周りの奴らも、ワタシ自身も、クソだな、と実感して、自分の顔の火照りで何かが溶けてゆくような気がして、息を吸い込んで、吐いて、また、父兄に向かい合って、言う。
「これから、共に学び成長して行く…」
スピーチが続く。
時折、三竪のコトバに震えが混じり、それは形にならず流れて行った。居眠りしていた誰かが、ピクリと体を震わせて起きたのが視界の端に写った。
了
ピース・ソング
久々に書いたので少し疲れました