相席
頬張ったものの量に合わせて咀嚼に時間をかけたい時は持ってきた本のページを捲る。カバーはかけていない。自費出版した自作の詩集なんて誰も気にしないだろうと思っての選択。けれど自費出版した自作の詩集を持ち歩く者同士の間でそれをすると、見たことも聞いたこともないそのタイトルと著者名が気になって仕方なくなるのだと知る。態勢を変えたりするタイミングで視界に入れるその字面を追っても中身の検討はつかない。大量のイメージ群だけが喚起されて、自分で書いた表現の端に染み入る。そうじゃない、ここはこういう意味なんだ!と憤るのは詩表現において何の意味を持たないから、鼻に触れるぐらいに本に顔を近付けて、取り敢えずスプーンでかき混ぜるように眼球をぐるぐる回し、欠伸をしてましたと言い訳できるぐらいの涙を浮かべてから本から顔を離し、一から十まで全てを読み直す。正午を過ぎるあたりで日当たりが格別に良くなるテーブル。同じ食べ物を食べて、同じ飲み物を飲む。好みも似通ったもの同士。書き手としての特権を捨てて、読み手としての自由を選んだ。目の前にあるこの本はもう私のものじゃないし、著者名を掲げる彼ないし彼女のものでもない。文として綴られ、単語として解体できる記号の連なりが印字された紙の上で始める挑発、それに弄ばれる者を詩人と呼ぼうか。個々それぞれであって、個々それぞれのままでは成り立たない総体としてどこまでも鈍く、ニッチに鋭く、交感し合ってバラけていく。その実態を上手く把握できないなんて私たちが大好きな表現そのものじゃないか。一度も蓄えたことのない髭を撫でつけるようにして私も彼も、あるいは彼女も劇的に笑って黙り合う。混み合う店内にたった一つ空いていた机の上。押しても引いても減らない椅子。何回使用されても変わらない匙加減を楽しげに記録して、記憶して、加工して、表す。そのタイミングでまた増える客のために席を空ける。その瞬間に生まれる不在になら私は命を惜しまない。あなたもそうだろうか、という期待を共にし合えるのもまた大切な旨み。もう一杯、と鳴らせる喉を使わずに全てを後にできる、そういう姿が大好物だから。甘くも苦くもないままに。本を閉じて、トレーに乗った食器を鳴らして、片付けて。行こう。行こう。
相席