改【蒸れ夏スピンオフ】金魚鉢回遊

1

 今年も夏が来てしまうのだ。

 海夜(みや)は上着を脱いだ。季節は徐々に温かくなってきている。
 墓石の前に立ち、ただ立ち尽くすだけであった。線香もあげず、手も合わせず、水をくれも菓子を置きもしない。
 そこにあるのは雨風に晒された石である。この突き立っている石塔を目当てに、またここへ来るのだ。だが、石に関心はない。
 果たしてこの行為に意味があるのだろうか。意味があると思わされているだけではあるまいか。
 答えはない。死者の魂を乗せると言われる風でも吹けばよかった。死者の言霊を代弁するとかいう虫の鳴き声でも、死者の使者だと比喩される飛ぶ鳥でも構わない。何かあれば。あるのは嚔(くしゃみ)。彼女自身の反射であった。花粉症である。  
 彼女は元来た道を引き返していく。反対側から人の気配があった。杖をつき、足を引き摺っている。
「海夜ちゃん……?」
 兄が死んだ遠因なのではないかと、思わないでもない。だが否定したい。けれど確信を揺るがせることはできなかった相手。緋森(ひなもり)祭夜(さや)だ。墓場で笑みを浮かべているが、どうということはない。あるのは石の羅列だ。都会をコンクリートジャングルというのならば、ここは花崗岩(かこうがん)畑だ。
 家に来ることを拒絶してから、彼はぱたりと来なくなった。だが月命日には墓参りに来ているらしい。それが尚のこと、海夜の疑惑を強めるのだった。疑惑ではない。確信だ。確信を、剥ぎ取らせてはくれない。

―月命日に墓参りに来る赤の他人には注意ですよ。罪悪感に浸ったときこそ、最も罪悪感から逃げられる瞬間なんです。

 兄の死後、知り合いの極悪人から受けたメールに書かれていた。その極悪人の死ぬ数日前のメールであった。最初は意味が分からなかった。印象には強く残っている。説教臭いその人の、ありがたく尊い、腹も満ちたり喉も潤う訓戒かと思われたが、海夜はそれを、どこか愚痴めいているように感じていた。
 だが繋がった。いとこのことを言っていたのだ。いとこは赤の他人ではないけれど。
 死してなお、極悪人の力は健在している。
 ただ石と対面し、石に菓子を見せつけてまた回収し、その間に棒に火を点け、両手を合わせる奇行を、彼も足を引き摺ってやりに来た。
 彼は身体障害者である。車も運転できなくなった。昔のように駆け回ることはもうできない。足の速いのが自慢だった。兄と並んで。彼からいえば、いとこと並んで。
 彼の声にも笑みにも応じなかった。羽虫が目の前を飛ぶことよりも、無反応であった。
 幼少期からの付き合いだった。この人物と喧嘩したことなどない。海夜はこのいとこが好きだった。彼に父親はいなかったけれども、祖母と母親、その他親戚、学校の友人たちや保存会の人々に愛されて育った、鷹揚(おうよう)とした人だった。兄と違って。
「海夜ちゃん……」
 すれ違ったとき、いとこは海夜のほうへ向いた。その咄嗟の挙措(きょそ)に彼の杖がついてこなかった。身体の均衡を崩し、尻から地面に落ちる。慌てることもなく、眉を下げて謝る。横たわる杖を拾い、しかしすぐには立ち上がれない。片脚に力が入らないようなのである。
 海夜は惨めなその下肢から目を逸らした。生まれついての障害ではない。その脚が機能していた頃をよく知っている。彼はスポーツマンとして優秀だった。そしてその姿に、幼い頃にしか持ち得ない辜(つみ)のない感情は惹かれていたのだ。彼の片脚に必衰の理(ことわり)を見てしまうのだ。そしてそれがあまりにも唐突に、あまりにも早く訪れた。ゆえに惨めだった。
「海夜ちゃん、恨んでるよね。オレが憎いよね……でも、ここに来るのは赦してね」
 優しい人なのだ。衝突を恐れ、強きに屈し、思想も自我も諦めて捨て去った、そういう弱さを履き違えている優しさではない。
 罪悪感に浸ったときこそ、最も罪悪感から逃げている瞬間……
 海夜は外方(そっぽ)を向いて、墓園を出ようとした。出入り口付近には駐車場があり、その脇を通らなければならなかった。また、出入り口と駐車場のあるすぐ傍に管理事務所があり、喫煙所があった。いくら喫煙所を設けても、風向きによっては通行人は受動喫煙の憂き目に遭う。
「跛行(びっこ)ひいてる人に、冷たいね」
 金髪の背の高い男がたばこを吸っていた。手入れのされていない自然的自然も多い墓場にはそぐわない。俗っぽい外貌であった。都会の夜の繁華街で水商売をしていそうな。 
 海夜はこの男のことも知っていた。車の運転ができなくなったいとこを、誰がここまで送迎してきたのか。
「ボクが君を八つ裂きにしようとしたときに、守ってくれたのは彼だよ」
 彼女にも心当たりがあるのだった。兄が、この男の姪で、いとこの恋人を監禁していた。そのときのことだ。同じ目に遭わせてやる。この男はそういう眼差しをくれていた。
 海夜は兄によく似た面構えで、瀟洒(しょうしゃ)な身形の男を睨む。彼は陰険に口角を吊り上げた。
「お兄さんによく似ているね」
 彼女はそのまま、兄によく似た目元を横に逸らす。それが挑発だと分かっていた。そう直情的な人間にはなれなかった。兄の死に様に唾を吐きかけたようなものだった。
「性格も似れば、よかったんですけれど」
「困るな、それは」
 加害者は兄で、被害者は同性。被害内容が被害内容である。海夜もまたどういう感情を持っていいのか分からずにいた。兄がそういうことをした。そしてその後に死んだ。この事実をそうですか、とただ受け入れたのみである。
「被害者の身内と加害者の身内です。ワタシとそちらの感情は平行線。交わることはないです」
「子供ができたよ」
 どきり、と海夜の心臓が跳ねた。何がそう衝撃を与えたのか、彼女にも分からなかった。
「もうここには来させたくない」
 以前この男から、兄の死のために姪が不幸のなかにあるというようなことを告げられた。高校までやって来て、待ち構えていた。恨みは深い。
「もう来ないでと、伝えておいてくれますか」
「何故、来てほしくない?」
 海夜は胸の重みに言葉が出なかった。喉を迫り上げてくる礫(つぶて)を呑み込む。
「石に掌の皺と皺を合わせると、何か起こるんですか」
 金髪の男は冷嘲している。
「子供、できたけど流れたよ。よかったね。内心、ホッとした? 名前も決めてた。こちらとして残念だよ。一番残念なのは、あの子たちだろうけれど」
 しかし知ったことではない。
「今でも君を、同じ目に遭わせてやりたいよ」
 海夜は振り返る。
「海夜ちゃんは関係ないですから」
 脚を引き摺った祭夜がそこにいた。微苦笑を浮かべる様は、3年前と変わっていない。
「もう気は済んだのかい」
 細い棒切れに火を点け、掌を合わせるだけにしても、あまりにも早い。
「せっかく連れてきてもらったのにすみません、義叔父(おとう)さん」
 あとは家族の団欒だ。付き合う義理はない。海夜は駐車場へ入っていこうとした。
「気を付けて帰ってね」
 返事はしなかった。背中だけ向けていた。




 暑い日だった。敷かれた砂利がよく照りつけて眩しかったのを覚えている。
 海夜が自転車を飛ばしたとき、そこはすでに惨劇の後だった。同級生の南波(さざなみ)瑠夏(るか)が、横たわった女の脇で呆然としていた。
 砂利を踏む足音を殺すことはできなかった。南波瑠夏は、海夜の存在を認めた。赤く染まった包丁を手にしている。
「来たんですね。でもごめんなさい。舞夜(まや)さんの仇は僕が討っちゃいました」
 足元に転がる女は離れたところからみても血塗れだった。
「これでよかったの? 南波くん」
「いいんです、これで」
「これからどうするの?」
 南波瑠夏は呆気にとられた顔を一瞬見せた。
「……死にましょう。死んだほうがいいですね」
 南波瑠夏はふと、気の抜けた表情を見せ、背を向けた。それからまた向き直る。普段の、平生(へいぜい)の、殺人の最中とは思えない、飄々とした顔に戻っている。
「救急車を呼んでください。まずは救急車からです」
 海夜は携帯電話を手にした。番号を押す。その目の前で南波瑠夏は包丁を己の首に突き刺した。顔を上げる。視線は搗(か)ち合ったまま。瞬きが引き攣っている。唇が震えていた。
 彼女は虚ろなっていく瞳を見詰める。
「どうして兄を巻き込んだの……」
「鯉月(あかつき)さん。あの人は気を病んで、落ち込んで、一時(いっとき)の迷いで死を選んだのではありません。あの人は、我に帰ったから死んだのです。人を愛して生きていくには繊細だから。そしてその愛情というやつには鯉月さんも含まれていたと思います。妹を導くに足る兄でないことに、気付いたのでしょう。我欲まみれの、エゴを押し付けずにいられない自分に」
 異常な人間であった。南波瑠夏というのその美貌の裏に異常性を隠していた。否、隠していたわけではないのだろう。隠していると我々が勝手に思い込んでいた。
 尋常ではなかった。刺さった包丁を引き抜き、破れた肉へまた突き刺さす。血が噴き出す。顔色が忽(たちま)ち褪せていく。桜色の唇は萎びて今や紫色に染まった。
 やがて崩れ落ちていく華奢な躯体が熱砂利に転がるのを見届けてから救急車を呼ぶ。



 いとこを傷付けたことを、あの男はそうとう怒っているらしい。大学の門で待ち構えている者がいる。
「お兄(ぢ)さんとごはん食べない?」
 海夜は大学の友人とそこで別れた。いつものことである。高校を卒業してもまだ、付き纏われている。理由は定かでないが、皆目見当がつかないのでもない。
 後部座席を開けながら雨堂(うどう)緑蔭(りお)は言った。海夜は乗り込む。いつ乗っても内外ともに新車と見紛うが、匂いばかりは保っていられないのだろう。他人の家の匂いが充溢し、そこに香水のわざとらしさも混じっている。
 数秒に運転席が開き、運転手も乗り込む。シートベルトが引かれていく。
「お兄ちゃんみたいにどっかに突っ込まないでね」
 ルームミラー越しに目が合った。この冗談を何度も繰り返している。嗤えばいいものを、嗤いもせず、雨堂緑蔭は沈黙で受け流す。海夜は理由を知っている。彼の前で兄を貶すと、決まって返ってくるのは沈黙であった。静寂であった。無言であった。求められているのは、鯉月家の不幸ではないのか。
「さっきの友達、君の後ろでヒソヒソしていたけれど。軽い友情だな。もうお終いだね」
「パパ活だと思われて終わるのはそちらでは」
「別にボクは、君のお友達に何を言われようが知ったことじゃないよ」
「今の時代は写真撮られて、どこかに掲載(アップ)されるんじゃないですか」
「君の退学ももうじきというわけだね。いい意味だな―と言いたいところだけれど、大切なお婿さんはそうは思っていないようだ。これ以上、彼の傷付いたところは見たくないよ」
 それ即ち、大切な姪と無関係ではないからだ。
「彼は優しい人だよ」
「たとえば?」
 言われずとも知っている。だが、知らないふりをした。
「この時代に妻の苗字になってくれた」
「それだけですか。縁を切りたいだけでしょう。鯉月家と――それから緋森とも」
 杖をつき、不自由になった脚で、傾斜のついた墓園を降りていく。その姿が焼きついている。よく喋る人だったが、今でもまだよく喋るのだろうか。内心を吐露するのだろうか。素直に、無邪気に。何の屈託もなく。変わり者の印象を恐れもせず。
「じゃあ、彼はもう、雨堂家(こちら)の人間だ」
「名実ともに……」
 車窓の外を眺め、海夜は呟いた。兄妹揃ってぼんやりしているのが好きだった。
「何が食べたい?」
「本当にランチだったんですか。本当にランチをするつもりはなかったんですけど……」
「じゃあ、どうするつもりだと思ったの? 本当にパパ活だとでも思っていたの? やめておくれ。姪より年下の女の子は好きじゃない」
 八つ裂きにする、八つ裂きにしておけばよかった、と事あるごとに口にしたのはこの男だった。それで落ち着いた。南波瑠夏を知らないこの男の怒りと憎しみの矛先は鯉月家が受け入れたのだ。だが父と母は知らないだろう。年少者をつけ狙うとは雨堂緑蔭も小物臭い男である。
「イタリアンと和食はどっちがいい?」
「そこのコンビニで降ろしてください。ごはんは行きません」
「そうかい。無理強いはしないよ」
 車は実際、コンビニエンスストアの駐車場に入っていった。
「あの人、本当は妹がいるはずだったんですよ」
 車が停まり、シートベルトが戻っていく。運転席の後頭部がわずかに動いた。
「その子に付くはずだった名前がミヤ。あーしと同い年。後から聞いた話なんですけど。あーあ、妹になりきろうと思ったんだけど。ねぇ、雨堂さん。あたしたちは平行線です。だめですって。怒りに任せて接点持とうとしたら。正論じゃないかもしれないけど、被害者家族には被害者家族の、加害者家族には加害者家族の言い分があって、それはきっと衝突します。そのたびに腹立てて苛立って、付き纏う気なんですか」
 居眠りをして舟を漕いでいるのかと思ったが、雨堂緑蔭は浅く頷いているのであった。だがそれが同意と肯定とは思えない。侮るような色がある。
「彼の立場はどうなる? すっぱりここで距離を置いたら、血を分けてしまっている彼の立場は? ボクは憎悪を以ってしても鯉月家にこだわるよ。彼にはあの子も暑詩(しょうた)もいるし、ボクもいるけれど、所詮は他人。血がすべてとは言わない。でも人は家筋(ルーツ)を捨てきれない。君を憎む柵(しがらみ)を作ってでも、彼を孤独にはしたくないな」
 海夜は首を傾げた。
「大体分かりました。要はこれからもよろしくってことですね。
 車から降りる。


 極悪人の言葉を海夜は信じていなかった。何故、あの極悪人に、小悪人の兄の気持ちが理解できるのだろう。
 学校での海夜の立場は複雑なものであった。兄を事故で亡くし、隣の市で起きた犯人死亡の殺人未遂事件の被害者はいとこであった。腫れ物扱いではなかった。だが空気は変わった。彼女は道化師のようなキャラクターでいた。すらりと手足が長く、色白で、頭が小さく、鼻も小さい。兄によく似た美貌に可憐さも備わっている。自身の外貌を彼女はよく心得ていた。また、女の世界でどのようなことになるのかも予見し、また理解していた。同時に彼女自身の気質も合致していた。海夜は美少女であったが、決して艶福家ではなかった。美少年であるがゆえに不要な衝突を幾度も重ねてしまう兄とは顔以外、まったく違っていた。否、兄の心配を汲み、理解したのだ。そして兄の悩みの種にならないよう、道化師になったのだ。
 兄が生きるか死ぬかというときも何食わぬ顔をしていた。その鼓動が止まったときも然り。何食わぬ顔をした南波瑠夏と何食わぬ顔をしてすれ違う。学校一の美少年と学校一の美少女はまったく互いに知らぬ存在であるかのように。
 兄の死のすぐ後であっただろうか。海夜は淡い恋心というものを知った。 体育祭の実行委員を務めた剽軽な男子生徒だった。惹かれるのみであった。兄のように身を持ち崩すほど煩うことはなかった。憧れと羨望、理想と無理解だけの、上澄みの輝きを求めたのである。
 結果、交際は叶わなかった。望みもしなかった。高校に現れる謎の大人の男との関係が噂になり、初恋は萎びて朽ち果てた。
 兄と同様に、悪鬼になってはいけない。
 ―お兄さんによく似ているね。
 あの男は外貌について言っているのだろけれど。



 "パパ活"か、将又(はたまた)、"ホス狂"か。毎日ではないが、時折り"迎え"にくる謎の男は何者なのか。
 大学一の美女は何かと噂に上がる。化粧も服装も決して派手ではなかった。華やかで小綺麗、垢抜けた大学生女子は他にもたくさんいる。制服も清貧質素を美徳とした校則もなくなった。だが鯉月海夜は骨格から髪質、肌感まで兄によく似て美しかった。炎天下にいても氷室にいるような淑やかがあった。ただし兄のような匂い立つ色気はなかった。彼女は俯くことはなかったし、ふっさりとした睫毛を伏せることもなければ、その眉が悩ましく寄せられることもない。似ているのは外貌だけであった。
 友人はいないわけではなかった。だが距離を置くようになってしまった。海夜から距離を作った。しかしふと話してみたくなる。自己語りは快楽である。何よりの娯楽である。兄の耽溺した性の狂宴より気持ち良かったはずなのである。だが話す必要も必然性もない。
 兄が死に、同級生の1人が殺人未遂事件を起こし自殺し、被害者はいとこで、自身もその場にいたのだと、聞かされた相手はどうなるのだ。
 考え事をしながら大学の構内を歩いていた。どこか無防備に。大したことは考えていなかった。とりとめのない、些細なことであった。兄が死んだことはアイデンティティではない。目の前で同級生が自刃したことも然り。地球からすれば、蚊に刺されてしまった程度の不運なのだろう。
「最近、よく来ますね」
 綺麗にキープされた金髪を一瞥しながら海夜は言った。いつものやり取りをやって、車に乗り込み、ドアを閉める。発車するまで運転手は喋らなかった。
「そろそろ、引っ越そうかと思っているのだけれど」
「そうですか。じゃあ、また随分遠出の嫌がらせになりますね」
 運転手はまた黙った。
「彼の里心が気になってしまって」 
 窓の外に、ソーラーパネルの田園風景と、建売物件の林が見えた。
「別に、今生(こんじょう)の別れでもないでしょう。土地は逃げませんからね。でも、風景が変わっていけば、そのうち気持ちも離れるでしょうよ」
 乾いた笑みが返ってくる。
「君のことだよ」
「ああ、あーしか。2人も3人も"オニイチャン"がいると困るものですね。あーしは妹をやれなかったんですよ。そろそろ見限ってもいい頃なのに、相変わらずお人好しなことで……何をそんな後ろめたく思っているんでしょうね」
 車を買い替えると昨年言っていたが結局同じ車であった。他人の家の匂いが鼻の粘膜に馴染んでしまっている。香水の匂いだけが部外者だ。
「君の生まれたときには、お兄さんやボクの義甥(おムコ)さんがいたただろうけれど、彼等からしたら、君は人生の途中から現れた存在なんだよ。それは曖昧なものだ。いない世界も知っていて、知った以上はもう戻れない。不思議で曖昧な存在なのだろうね」
「雨堂さんは、誰かのお兄さんなんですか」
「そう見えたかい」
「経験者の口振りだったので」
「これでも姪と甥を育ててきた。姪と甥のいない世界も知っているということだよ。それだけさ。ちなみに、ボクは末っ子。君と同じだね」
 ルームミラーに苦みを帯びた微笑が映る。海夜は顔を背けた。
 目印の大通りに入る。ここでこの男は訊くのだ。―何が食べたい?
 海夜は運転手の後頭部を見た。訊かれない。
 大通りを過ぎて、コンビニエンスストア・プチストップで降ろしてもらうはずであった。そこから駅へと歩くはずであった。
 海夜は黙っていた。運転手も黙っていた。
 走行音が冷ややかだった。ウィンカーの音がまぬけだ。
 進行方向からして高速道路へ乗るらしい。
「雨堂さん」
 引っ越すと言っていた。思えば、断頭台に首を嵌めて、談笑しているような3年であった。所詮は罪人と執行人の関係に過ぎない。
 海夜は運転手を瞥見した。
「今年の夏も、暑くなるのかな」
 雨堂緑蔭の独り言が谺(こだま)する。
「冷夏が、いいな」
「天気の冷たさは、脚に悪いです」
 独り会話に、口を挟む。
「梅雨どきは傷が痛むからね。君もそうなんじゃないかい」
「わたしはどこも怪我なんてしてませんよ。毎日ぴんぴんしてます。兄にも、祭夜兄ちゃんにも申し訳ないくらいに、ね」
 この運転手の掌中の珠、目に入れても痛くない姪のことを口走りかけて、彼女はやめた。
「ああ、そう」
「でも暑いのは嫌だな。暑いのは……」
 兄はクーラーが好きではなかった。扇風機もあまり好まない。熱中症になりかけるところを何度も見かけている。冷夏がいい。過ごしやすかろう。だが切望の時期はもう終わった。
 後悔は何もない。後悔があればよかった。自己憐憫に夢中になれたなら。
「猛暑がいいです。猛暑が兄を炙り殺せばよかった」
「お昼ごはん、パン屋さんでいいかな」
「要らないです」
「要らないならよかった。吐くほど食べさせてあげる」
 この男も可哀想な生き物だ。復讐を果たすべき真っ当な相手はみな、死んでしまった。守るものがあるために、代替的な復讐相手を手に掛けることもできない。代替的な……
 海夜はまた車窓の外に目を遣った。代替的ではないのかもしれない。兄に、この男の蝶よ花よと育てた姪の居場所を教えたのは誰だ。兄を止めなかったのは誰だ。見殺しにしたのは。南波瑠夏の悪事を予見していたのは。そして誰にも相談しなかったのは。思いはした。考えはした。ところが反省するでもなく、彼女は自身の幸せを求めた。そうでなくては母はどうなる。父は。

―こんな時はお兄ちゃんを恨むものだ。

 横暴に死んでくれたならよかった。恨もうとはしたが、結局は恨みきれない。けれども恨むよりも酷いことをした。顔面を損傷し、意識のない兄の死を願った。兄とさえ思わなかった。禍いを齎(もたら)す美貌と訣別して兄は逝った。だが醜く生まれても、今度は親を怨み、世を怨むのだろう。南波瑠夏がその最たるものであったのではないか。美貌こそ持ち合わせたが、何かがあの者にとっては醜かったのだろう。一体何が醜かったのだろう。眉目秀麗で人当たりもよく、人望も厚く、艶福家であった。
 あれは異常者なのだ。生まれつきの奇形なのだ。すべて後付けなのだ。すべて、誰もが持ち得る不幸を抽出し、妥協して動機と紐付けたに過ぎないのだ。魂の奇形というものを、優しさこそ強さと正しさと定義したがる社会は受け入れない。
 彼女は車に揺られ、無言に唆され、気付けば眠ってしまっていた。緊張感がなかった。復讐に燃える鷹は爪ではなく怒りを隠すのだろう。走行音が心地良い。

―ごめんな、海夜。こんな兄でも心配してくれて。ありがとう。

『死んじゃいなよ、お兄たむ。きっとお兄ちゃむは耐えられないよ。こんなこと思ってごめんね。幸せになるから。母父(マミパピ)はあーしが幸せにするから。生きちゃダメだよ』

2


 車は鯉月(あかつき)家に停まった。海夜(みや)は運転手の姿を凝視していた。片想いする中学生女子よりも長いこと見ていたのではないか。あまり熱烈な眼差しではなかったけれど。
「一体どなたの家なんです」
 彼女は恍(とぼ)けた。
「ボクの憎んでいる人の家だね」
 この男は住所まで特定していた。海夜の口元に引き攣った笑みが浮かぶ。感心してしまった。
「どんな極悪人が住んでいるんですかね?」
 彼を信用はしている。この男には最愛の家族がいる。それはつまり社会的な鎖である。手枷足枷を嵌められているのだ。しかし疑念も拭えないのだ。姪と甥を惟(おもん)みることなく、ただ手前勝手な感情に身を任せ、姪のために仇討ちめいたことを画策する。結局、姪のためになるどころか首を絞めることになろうとも。
「もう住んでないよ」
 雨堂(うどう)緑蔭(りお)が言った。
「はあ、それは安心です」
 姪を滅多刺しにし、その恋人にも障害を負わせた高校生より恨まれているらしいのである。兄か自身か。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
「行こうか」
 海夜は意を決した。呼吸が平生(へいぜい)の半分もできていなかったように感じられる。鼻詰まりではなかったし、肺機能に問題はなかった。もしこの男が社会的な信用を裏切ってまで家族に危害を加えるつもりなら、身を以って阻まなければならない。二親はおそらく何も知らない。いとこは何も言わなかった。海夜も何も教えなかった。しかしこの男はどうする気なのか。けれど孤立するのは、この男の姪の恋人だ。無関係だ!
「家の人、いるんですか」
 車はある。母の車だ。海夜は雨堂緑蔭の身体を舐めるように見回した。器物を隠し持っているようには見えなかった。痩身とはいえまだ若い健やかな男性だ。素手が十分、凶器に成り得るのである。
「ご在宅みたいだね」
「巨悪の徒は家に居ないんですよね? 一体何の用があるんですか」
 振り払われるものと分かっていながら海夜は男の細いながらも筋肉のついた腕に縋りついた。
『触らないでよ』
 振り払われるはずだったが、雨堂緑蔭は陰険な微笑を見せるだけだった。海夜は手を放そうとした。しかし今度は腕を取られる。肩から骨を外すつもりなのかと疑いたくなるほどの力加減で引き摺られ、玄関前へ至る。そして無遠慮に、インターホンも押さず、玄関扉を開いた。彼は海夜を三和土(たたき)へ突き出す。家人は驚いたようだ。すぐにやって来た。その無防備さが、海夜は怖くなった。刺されてもいい。守らなければならない。
「あら、海夜。急なお帰りで」
 一体兄は誰に似たのだろう。兄が死んでから尚のこと、よく思うようになった。とても親子とは思えない雰囲気の中年女性が現れる。
「ん、ただいま……」
「そちらの方は?」
 海夜は玄関を塞ぐように立った。不自然だった。気の利かない者を装って、雨堂緑蔭の侵入を阻む。
「この、人は……」
 兄が酷いことをした女性の家族である。しかし兄の悪事をおそらく両親は知らない。息子は事故死したものだと思っている。疑いさえしていないのではないか。否、海夜も兄の死の真相を知っているわけではない。兄は自殺したとは限らないのだ。半ば確信している。しかしその確信は不確かだ。断定できる者はない。
 いとこの義父のようなものだと言えば、無難であろうか。両親は息子を喪ってから甥を気にかけるようになった。けれど両親はやはり甥に大切な人がいることは知らないようだった。仲の良すぎる母親同士にどう戸を立てたのだろう。3年前の事件か。それしかあるまい。甥が娘を危険なことに巻き込んだ。口にはしないが、両親はそう思っている節があるようだった。
「どうも、こんにちは。事前に連絡を入れるべきでした。海夜さんと交際させていただいております。山雫(やまな)緑蔭と申します」
 海夜はひょいと隣に出てきた雨堂緑蔭を胡散臭そうに見上げてしまった。まず疑った。そして深い意味はないのだと己に言い聞かせた。"交際"とはつまり、関わり合いがあるに過ぎないということだ。しかしそれにしても何故、ここで偽名を使うのか。
「年の差があることは十分理解しています。ですからまずは、ご挨拶をしたく、急ではございますが……」
 ただの関わり合いに年齢など関係ないはずだ。海夜は高いところにある笑顔を見上げてしまった。
「ちょっと、何言ってるの?」
 母の顔を見られない。
「ごめん、マム。この人ちょっとおかしくて。すぐふざける」
 雨堂緑蔭の腕を掴み、外へ引っ張り出そうとしたが動く気配はなかった。痩身とはいえまだ若い男だった。力は海夜よりもある。
「照れないで。すみません。海夜さんは嫌がるのですが、年も離れていますし、誠意を見せておきたくて……」
 話は厄介な方向に進んでしまった。海夜の母は、娘の交際相手だという男を疑う由(よし)はなかった。甥の舅と変わりない立場にいる人物だとも知らず、そして己の死んだ息子を恨んでいる人物だとも知らずに家へと上げる。海夜は実家だというのに安らげなかった。この男が何を考えているのか分からない。刺し違えても、母に危害が及ぶことはあってはならなかった。
 母は無難な態度で打ち解けた様子を見せていたが、海夜は長年共にいた勘か、将又(はたまた)、同じ血の勘か。娘の交際を認めていないようだった。父のいる日を指定してまた会う約束も取り付けない。年の差。平凡な男とは思えない巧みな話術。鯉月家の復讐が目的であることまでは見抜けなくとも、娘に相応しい人間でないことは見抜いたようだ。
「この子には兄がおりましてね」
 話が落ち着き、山雫緑蔭と名乗った男が帰ろうとしたとき、海夜の母はどこか一際声を低くした。
「年の割に大人びていました。手のかからない子で。私どもには可愛らしいバカ息子ではありませんでしたが、この子にとってはいい兄でした。倅(せがれ)と同い年のいとことも仲が良いもんですから、この子がもし将来をと考えるのなら、それは年上だと容易に想像はついていました。だから別段驚きはありません。
「それで、その息子さんは?」
 会話の流れとしては不自然ではなかった。しかし海夜は、この男が"兄がどうなったのか"知っていることを知っている。白々しく訊けるその根性に彼女は厳しい目をくれた。
「さっそくご挨拶をしたいのですが……」
「死にました。車の事故で」
 山雫緑蔭は大袈裟に反応するでもなく平然とした顔をしている。
「なんと申し上げたらいいか……」
「紛らわしい言い方をしました。親離れの早い倅でしたから、まだ気持ちとしては離れても元気に過ごしているつもりでいるのです」
 海夜は、このような母親の姿を初めて見た。平生(へいぜい)は剽軽な人物なのである。明るく愉快な母親と生真面目で温厚な父親。兄の性格が不思議だと思うくらい、遺伝の多様性を感じさせた。
「倅が死んだのと同じ年に、この子の同級生が私どもの甥、この子にとってのいとことそのカノジョを滅多刺しにしましてね。私どもはそのカノジョ……今は甥の妻になった方とはまだ会ったことがないのですが。甥っ子は脚の筋肉を刺されて、後遺症がありましてね。倅を失って、甥っ子も大怪我を負ったものですがら、この子にはあまり構ってやれませんでした。それを申し訳なく思っているのもあって、私どもは海夜の思ったとおりに生きさせてやりたいのです。それが倅の本懐でもありましょう。そういう身の上です。今の反応からして、倅のことは海夜の口からは聞いていませんでしたか」
「いとこのお話はよく聞いておりました。よく懐いていたそうで」
 娘との交際を打ち明けに来た若作りの男をただ一点見ていた母親が、海夜を一瞥する。ありもしない話だ。讒言(ざんげん)によって家族を内部崩壊させるつもりなのだろうか。
「倅は人嫌いだもんですから、顔のよく似たこの子を邪険にこそしませんでしたが、気の合うのは甥のほうだったようです。そんな甥が、その子の目の前で同級生に刺されたんです。それも学校が同じなだけではなく、地域振興会で一緒だった同級生に。そういう境遇にあって憐れな娘ですが、手前味噌で恐縮ですけど、誰に似たのだか見目も気立てもいい娘です。幸せにしてくれますね?」
 語尾がさらに低くなる。威圧であった。
「もちろんです」
 胡散臭いほどの即答であった。
「"交際"ということですから、私から申し上げることは何もありません。"交際"ということですから。主人には私から話しておきます。ご足労をお願いするのも申し訳ありませんから。主人もただでさえ親離れの早かった倅を失って、よく懐いていた甥とも結婚を機に少し疎遠になりましたもんで寂しがっているところです。山雫さんにその穴を埋める役目をお任せするわけには行きませんからね」
「いやいや、お望みとあればぼくが……」
 海夜の母親は嘘臭い微笑を貼り付けている。
「気丈に振る舞っていても、この子の心の傷は3年ぽっちでは癒えないでしょう。その年には兄だけでなく、この子の祖母も亡くなりました。いとこも大怪我を負いましてね。私どもの倅の事故死と甥の凄惨な事件は、老いた身体にはたいへんつらく厳しいものだったのでしょう。身内を2人、同じ年に……この子を、支えてくれますね?」
「ええ、もちろんです。しかしいい話というのも不謹慎ですが、為になる話を聞けました。だから理学療法士を目指していたのですね」
 海夜は山雫緑蔭を一瞥する。
「またお邪魔させてください」
 海夜はここに残るべきか、将又(はたまた)山雫緑蔭に付いていくべきか迷った。山雫緑蔭は玄関に向かっていった。
 母は訝(いぶか)るでも、咎めるでもなかった。
「歳の差があるから、あなたにはよく見えるかもしれないけど……」
 母が信じてしまっている。兄より年上の男に恋慕を抱いていると、母は思い込んでしまったのだ。だが今は、弁明するところではない。
「若作りのイタい中年男(おぢ)だね。分かってるよ、大丈夫」
「海夜」
 母の目に雨雲が差す。海夜は口の端を吊り上げた。
「入梅(ついり)じいさん案件ぢゃね?」
 母も笑む。海夜も野鳥に似た笑い声を漏らす。
 玄関へ出ると、年の離れた恋人を騙る男が待っていた。
「少し歩くんですけど、もう1人、挨拶をしたい人がいるんです。時間あります?」
 式台に座り、靴を履きながら玄関扉の把手を握る男を見上げる。不敵な笑みばかり浮かべている目元がわずかに揺らぐ。
「どうしたんですか? 付き合ってるんですよね、アタシたち」
 ドアノブから手が離れる。腕を組み、今から説教でも始まるかのように、胸元を仰け反らせる。
「とりあえず、行ってみようか」
 海夜は右手を構えた。指が悴(かじか)む。しかし勢いに任せた。骨張った腕を掴む。背丈は兄とそう変わらないように思えた。だが体格が違った。兄はシャツに筋肉を透かしていた。ところが恋人を詐称するこの男は、服の形や厚みがあるにしても、筋肉も脂肪も少ないようだった。首元から布が断崖のごとく垂れている。
「どうかしたのかい」
 腕を掴まれても、男は余裕であった。長身痩躯ではあるが、彼は健常な男性であり、相手は小娘。害意を覚えれば簡単に返り討ちにできるという目算がついているのだろう。
「人間ブレスレット」
 海夜は掴んだ手を持ち上げた。山雫緑蔭は目を逸らす。
 鯉月宅を出て、南に5分。田畑のなかに聳え立つ数基の墓石を横目に、土と泥を被った道を歩く。側溝は乾いていた。昔はドジョウがいた。
 目的の家にはミモザの木が待ち構えていた。花粉団子はまだ咲かず、蕾が銀葉の裏に隠れている。
 海夜はミモザを見上げた。花という花の形はしていない。奇特な花だが、雑貨ではよく目にするデザインであった。
 幼少期の兄の後姿が、黄色の球形花序の下に映し出される。まだ兄が、ミモザの銀葉に頭を撫でられていた頃。
「ここかい」
 海夜は振り返る。山雫緑蔭は古い造りの家を見上げていた。2人の姿を認めた薄汚れて草臥れた柴犬は立ち上がって尻尾を振る。番犬にはなりそうにない。
「スイカちゃん、ひさしぶり」
 海夜は手を嗅がせ、胡麻塩を思わせる毛を撫でた。犬は尻尾を丸め、左右に横たえている。
 連れてきた男が、玄関アプローチに上がりもせず、逡巡していることにも構わず、彼女はインターホンを押した。古い呼鈴は掠れていた。
 住人は居間にいるようだ。間もなく応答があった。
「入梅(ついり)さん。海夜です」
 磨りガラスの奥に人影が映り、玄関戸が開く。棗色の肌をした80歳前後の老人が現れ、海夜を見た途端に、笑みが浮かんだ。
「海夜坊、元気にしてたんかい。考え直して、くれたんかい?」
「はい。さっき母のところへ行ってきたんですけど……この人、カレシです」
 まだ外構の階段の下にいる山雫緑蔭は片眉を歪めたが、重い足取りで海夜のもとへ来た。
「山雫緑蔭です」
 はっ、と海夜は咳に似た笑い声を出す。
「おお………おお…………!」
 翁の瞳は忽(たちま)ち光芒を放つようであった。
「兄弟太鼓ができますよ」
 ひゃひゃっ、と海夜は耳を劈くほど甲高い笑いを吐き出した。
「でかしたぞ、海夜……!」
 肩を叩く手は薄く、腕は細い。だが老いではない。長年の盆踊りのために鍛えられていたのだ。夏は踊り、その他三季はトラクターに乗り、鋤鍬を振り上げているのだ。
「ヤマダさんとかおっしゃっられましたな。あーしゃ入梅(ついり)言います。蚊遣(かや)り火囃子保存会の元締めをしております」
 入梅翁は揉み手をしながら眦を下げる。
「もうお聞きかもしれませんが、ヤマダさんには会長と太鼓を叩いてもらいたいんですわ。もう会ってらっしゃましょう?」
 蚊遣り火囃子保存会を生き甲斐にしている入梅翁は海夜の存在など忘れているかのようだった。
「いいえ……まだ。その話自体、今初めてお聞きしました」
 そこでやっと翁は隣で天井を眺めている海夜に気付く。
「海夜坊、話しとらんのけ」
「はい。お母さんに挨拶しておいて、明日にはお別れなんてないでしょう?」
 山雫緑蔭の鋭い眼差しを虚空へ受け流す。
「ほうか、ほうか。いや、分かった。会長というのが緋森(ひなもり)いいまして、蚊遣り火囃子のリーダーじゃわな。海夜坊のいとこですけ。脚を怪我………まぁ、怪我しよりまして、長いことブランクがありますから、そう気負わんで大丈夫ですわ」



 山雫緑蔭は帰り道、無言だった。30代後半、或いは40代に差し掛かっているこの男を若者と括れるのか、海夜には分からなかったが、しかし広い意味でいえば、若者は伝統芸能に興味がないのだ。娯楽は年々増していき、科学技術は日進月歩。景気は悪く、税率も高い。若者は忙しく、やることがたくさんあり、何もしないのが安上がりなのだ。山雫緑蔭のような外貌から俗物にまみれた俗人が、地域の伝統芸能に身を費やせるとは海夜には思えなかった。
「どうして"彼"の決心がつかないのか、分かった気がするよ」
 綺麗に磨かれた革靴では砂利敷の庭も、土に汚れた道も歩けないだろう。香水の淡い匂いは田畑から漂う肥やしの臭気と混ざり合い、悪臭を助長する。  
「あの人は、あーしのことは気にせず、故郷と決別したらいいのに」
 海夜はふと立ち止まる。山雫緑蔭が振り返る。
「緋森の血を継ぐ男の子が同年に2人も生まれたの、保存会的な意味合いでも嬉しかっただろうな。マムも、おばも、さっきのじいさんも。でもそれが悲劇のはじまりだね」
 養鶏場の裏を通る。機械が唸り、何千羽というニワトリの息吹が聞こえる。
「兄弟太鼓がね、目玉だったんだ。納涼祭と地区のお祭り2ヵ所所だから、見せ場は全部で3回あるんだけど。あの人も入梅じいさんから色々お願いされたんだろうな。多分、あーしと兄妹太鼓やれ……とか。苗字を変えたってずっと緋森だから。あーしなんか、緋森海夜なんて一度も書いたことないのに、保存会での扱いは緋森」
 地元の空は広い。寂れた公園の前を通る。空き地といって差し支えない。しかし四阿(あずまや)があり、トイレがあり、雑草がある。遊具はほとんどない。
「山雫さんがあーしと夫婦太鼓を叩けば、あの人は柵(しがらみ)から解放されるよ。入梅おじも念願の、似非(えせ)緋森のペア太鼓観られるわけだから。逆を言えば、引き受けなければあの人はこれからも頼まれ続ける。あーしと兄妹太鼓か、結婚相手との夫婦太鼓か。改姓したって逃れられないのは分かってるはずなのにね」
「断れないのかい」
 断れたなら、山雫緑蔭も辞退できるわけだ。その細腕に、和太鼓は不釣り合いであった。海夜は口角を吊り上げる。
「あの人とのペアはあーしが断ってる。あの人は夫婦太鼓を断ってる。夫婦太鼓っていうか、相手の方を表舞台に出すことを。あーしにもあの人にもペアがいない以上、兄弟太鼓はナシ。現状維持。ウザいお為倒(ためごか)しを躱すだけだよ
 山雫は首を傾げている。疑問を呈しているのではない。蔑んでいる。
「じゃあ、君はどうするんだ」
「田舎の情ってものがあるからさ。伝統を潰す責任っていうか。あーしもお囃子に参加することで決着してる。でも、もし山雫さんが嫌がらせにあーしに付き纏うなら、山雫さんは男性だし免許持ってるから、保存会の役員になれって言われると思う。車出しとか荷物持ちとか、そういうやつね」
 若く壮健な男児2人は、さぞや組織には頼り甲斐のある存在だったことだろう。車に機材を乗せ、会館に運び、降ろしていく兄たちの姿を思い起こしていた。懐かしい記憶に吹かれ、海夜は目の前にいる者のことを忘れかけていた。
「あーしとは関わんないほうがいいって、これで分かったっしょ? マムにも入梅じいさんにも曖昧(テキトー)に言っておくからさ」
 まだ夏の夜の思い出を吹き飛ばしきれていなかった。一度広がっては容易に払拭できない。下瞼が滲みる。兄に会いたい。穏やかな蒸し暑い夏の夜に帰りたい。
 海夜は蹲(うずくま)る。まだ肌寒い季節であるからだろうか。夏が恋しい。しかし今年の夏を待ち焦がれているのではない。戻らない夏を求めている。
「どうしたの」
 山雫緑蔭の声は救いである。灼熱地獄だか八寒地獄だかしらないが、そこに天から垂らされた荊のようである。
「思い出は優しいですな」
 海夜は努めておどけた。
「優しい記憶を思い出と呼んでいるだけさ」
 所詮、平行線を生きる相手である。同意は返ってこない。
「先に帰っていてくださいよ。っていうか、電車で自分で帰ります」
 遠いは遠いが仕方がない。
 山雫は両手を広げた。
「君には知り尽くした土地かも知れないけれど、ボクには初めてきた土地だよ。ここで1人にするなんて酷いな」
 過去に耽ることは赦されないらしい。山雫の声が、懐かしい夏の日々をワイパーのごとく払い除けていく。
 海夜は実家の庭に辿り着き、家屋を凝らしていた。暮らしているときは然程(さほど)感じもしなかったが、外から見ると小さく思えた。兄は父よりも背が高かった。息子が自身の背丈を追い抜いたとき、母や父は何を思ったのだろう。一度も兄より背が高かった時代などなかった海夜には知らない感覚である。兄が身罷(みまか)ったとき、父と母は何を思ったのだろう。兄の話題は時折出るが、父母からその時の感慨を言語化して聞いたことはない。感情を見せるのは恥ずかしいことだ。兄はよく言っていた。
 海夜は息が苦しくなった。
「帰ろうか」
 山雫の手が肩に置かれる。あまりにも自然に、そうするのが当然であるかのような所作で、触れている。邪な気も躊躇も遠慮も好奇心も感じられない。掌の柔軟性に慣れがある。姪を大切に育ててきたのだろう。それか経験が豊富なのだ。
 海夜は冷たく薄い手から逃げた。
「はい」
「夕食は何にしよう」
 帰る頃には確かに夕食の時間帯である。 
「何が食べたい?」
「アタシも一緒なんですか」
「地域を案内してもらったからね。それに疲れただろう」
 山雫は車のほうに向かっていく。車は軽快に鳴って、一瞬ライトを光らせた。
 目映(まばゆ)さが、幻を見せる。兄の愛車一産(いっさん)HORIZON(ホライズン)がそこに在る気がした。夢はすぐに覚めるものだ。一産HORIZONは運転手と共に散った。拉(ひし)げたボンネットとフロントガラスを見なかったのか。海夜は見た。兄を押し潰したダッシュボード、インストルメントパネル、ハンドルも見た。
 視界に黒い靄が残る。庭に敷かれた砂利を眺めた。気付けば植え付けた当時、なかなか繁茂しなかった芝生が勢力を拡大している。
『ごちゃごちゃ言ったって、アンタの姪は生きてるじゃん』
 海夜は喉の痛みを呑み込む。
「オムライスにしよう。苦手かい?」
 運転席の横に佇んでいる山雫はスマートフォンを覗いている。

――オムライスでいいか。それなら作れるから……

 感情を見せるのは恥ずかしいことだ。
「オムライス、嫌いなんです」
「焼肉にしようか。たまには脂っこいものが食べたいからね」
 海夜は車に乗せられる。来た道を戻っていく。



『鯉月さん。僕が舞夜さんの仇を討ってしまったについて怒っていますね』
 首から下を真っ赤に濡らした元同級生が前屈みに立っている。艶のない髪は百舌鳥の巣と化して、真っ白い顔は蝋燭を思わせる。開いた口からは次から次へと血が滴り落ち、暗視カメラで見た人間の目のように瞳孔は開き切っていた。生きた人間ではない。実際、元同級生は目の前で事切れた。
 海夜は刹那、浮遊感を覚えた。
 事切れたのを見て、然るべき行動に出たのだ。
『だから代わりに、舞夜さんの願いを、僕が聞き届けてあげます』
 死骸は生者のように笑った。しかし海夜は生前の元同級生の笑い方など知らなかった。微笑ばかり浮かべているが、気を緩めて笑っているところは見たことがない。
『舞夜さん達っての願いですからね……』
 この元同級生に、一体兄の何が分かるのだろう。
『きっと、鯉月さんの願いでもありますよ』
 皆目、思い当たるところがない。

 最近流行りのアイドルグループの厳めしい楽曲がカーオーディオから流れてきていた。寝ていたらしい。
 冴えない頭で瀟洒(しょうしゃ)な音楽を聴いていた。囃子など流行らない。緋森がいなければはじまらない。伝統を守らないのは共同体への裏切りだ。緋森の正当な血を引く男児が保存会から背を向けたときにかけられた擁護と批難の声がハエよろしく頭上を渦巻く。
「"おはようございます"」
 流行りの曲が止まる。運転席から嫌味が聞こえた。

3


 何でもかんでも血塗られて見えた。初潮を迎えた間もない頃の強迫観念に似ていた。
 他人の血を触った真夏の昼間からしばらくの間、汚れてもいない手や触れた物に、赤い染みを見るようになった。その癖(くせ)がまた出始めている。
「いつまで洗っているの」
 洗面所を山雫(やまな)緑蔭(りお)が覗き込んだ。交際しているのだから家へ上げろ、とばかりに彼は問答無用で一人暮らし先のアパートへ踏み込んできた。
「ああ、すんません。使いますか」
 海夜(みや)は自身の赤らんだ手を見た。無心でいた。手指用洗剤の練られていく音によって煩わしい声が遮断されていた。
「違うよ。手、洗いすぎじゃないかい。荒れるよ」
「ああ、ごめんなさい」
 特に考えもなく、何の指摘を受けているのかも聞き取らず 、音吐(おんと)から咎められていることは読み取れた。
 泡を洗い落とす。元同級生を揺さぶり付いた血は、いとこの恋人の止血のためについた血は、まだ落ちていないように思われた。兄に似た白い肌に、赤い色を探している。
「保湿なさいな」
「へ? ああ、はい……」
 ワンルームに入ると、眉間にチューブ型のハンドクリームを押し当てられる。
「借りまつ」
 無香料の、粘度の高いクリームはバターやクリームチーズのようだった。上等な品質であることが窺える。
「意識高いんですねぃ」
「手と首には年齢が出るからね」
 個人的なこだわりであろうか。将又(はたまた)、職業のための努力であろうか。
「お仕事、何されてるんでしたっけ」
「ナイショ。けれど、先に言っておくけれど、ホストではないよ」
 予想は外れた。
「仕事の問題ではなくて……うちの可愛い子たちに悪いからね。親ではないし、保護者ではあるけれど……せめて世間は、ボクを2人の兄だとでも思っていればいい。後ろ指を差されるのは、ボクではなくて、あの子たちだから」
 海夜の眼差しは渋くなる。"あの子たち"と言えどもすでに成人している人々だ。しかしまた別の考えが芽吹いた。"保護者"にはいつまでも子供に見えるのであろう。保護者気取りの兄がそうであった。高校生の妹を、まだ未就学児のごとく扱う。
「田舎は、二親主義ですもんね」
 緋森(ひなもり)がいなければはじまらないと普段は言っておきながら、いとこの素行不良とまではいわないが、品行方正とはいえない有り様について、地域の連中は父親がいないことを論(あげつら)っていた。その父親は、確かに問題のある人物だったようだが、保存会を厭うて出ていったのだと昔に母が零していた。
「批難されるのは、親とボクであるべきだけれど……」
 海夜は山雫緑蔭の涼しげな瞳に感情の澎湃(ほうはい)を見た。
「お酒でも飲まないかい」
「車で来たんですよね?」
「泊まっていこうかな」
 海夜は小首を捻り、クリアケースの箪笥を引いた。黒いシャツを出す。
「いくらボクが細くても、女の子の服は入らないな」
「アタシのじゃないですね」
 常時、人を小馬鹿にして往なしている微笑が消え失せる。
「元カレの?」
 海夜は嗤ってしまった。
「兄のです」
「君のお兄さんの遺品を着ろと? ボクに?」
「物に罪はありませんからね。ユニークロゥに恨みがあるなら別ですが」
 服にこだわりのない兄のシャツは、大概、ファストファッションブランド・ユニークロゥのものだった。無地が多く、比較的安価で肌触りも柔らかく丈夫であった。
「差別容認企業とかってSNSで騒がれていますもんね」
 海夜は、山雫緑蔭も時折ユニークロゥを着ていることを知っていた。山雫緑蔭どころか、彼の可愛い姪の夫も愛用者である。生成り色のポシェットが、確かそうであった。そこからガムだの飴だのチョコだのが出てきていた。思い出のいとこは、2本足で立っている。
「でも着ないならいいです」
 しまおうとしたとき、山雫の手が黒い布を掴んだ。
「着ないとは言っていないよ。けれど、アパートにもお兄さんの物を持ち込んでいるんだね」
「大きいから防寒着になるんですよ。暖房とか節約したいし」
 家族を、同胞を失った人々の予後を海夜は知りたくなった。自身は兄離れできない異常者なのであろうか。大切な姪は結局生きているというのに、まだ被害者としての効力はあるものとして、加害者の妹に付き纏っているこの目の前の男は異常者ではないというのか。
「本当に、いいのかい。ボクに貸してしまって」
「いいですよ。汚れたり、破けたりしても、それが服というものの運命ですから」
 人も然り。人もそのようにして死にゆく。そうであろうか。
 海夜の背筋に焔が奔(はし)る。兄はまだ生きていてもおかしくないはずだった。否、あの繊細さではいずれ淘汰されていた。自殺を先延ばし、先延ばし、先送りし、やっと散るべきときを理解したのだ。
「お酒でも飲みなさい」
 山雫は玄関からビニール袋を運んできた。
「アタシを酔わせて何する気ですかァ?」
 感情を見せるのは恥ずかしいことだ。
「ボクの見立てでは、君のいとこより君のほうがお酒に強いようだけれど」
 山雫緑蔭の前で酒を飲んだことはある。
「あの人が、弱いんですよ」
 成人した歳、保存会の"ジジイ連中"に酒を勧められていたときのことを思い出す。断れないいとこの力になりたくて、首を突っ込んだ。いとこは肝を潰し、兄が代わりに飲み干す。交わす言葉こそ少なかったが、仲は良いものだと思っていた。
 感情を見せるのは恥ずかしいことだ。
 彼女は背負ってしまった焔が鎮まるのを待っていた。アルコールは具合が悪い。



 母から連絡があった。海夜は直接には何も聞いていなかった。交際相手を名乗る山雫緑蔭が、入梅(ついり)の翁に"色好い"返事をしたようなのだ。
 海夜はワンルームに置かれた座椅子に身を預けた。付き纏う気なのだ。気紛れでも脅しでもない。心底、憎んでいる。兄が何をしたというのか。確かに恨まれることをした。罪を犯した。だが刑事事件にはならなかった。被害者が呑み込むしかなかった。血脈の柵(しがらみ)のために。それさえなければ、今頃は犯罪者の妹であった。
 山雫緑蔭は白刃を直接振り下ろした高校生よりも、命を奪いはしなかった兄のほうを憎んでいる。
『でもアンタの姪っ子ちゃんは生きてるじゃん……』
 感情を見せるのは恥ずかしいことなのだ。海夜は爪を噛んだ。端が折れ、血が滲む。研ぎ澄まされた小さな痛みは心地良い。


 見殺しておけばよかったのだ。


 元同級生が嗤っている。真っ暗な空間は広く、天井は分からなかった。灰白色の瓦礫によって、足場の判別はつく。そこが地獄なのだとしたら、地獄とは殺風景で寒そうなところである。血の池も餓鬼も閻魔大王もいないようである。兄もこの地獄に落ちれば、或いは、自らを雁字搦めにした矜持(きょうじ)から解き放たれるのではあるまいか。
『鯉月(あかつき)さん。ボクが舞夜さんの願いを叶えてあげます』
 喉笛に穴を開けた元同級生は、首から下を真っ赤に染め、真っ白な歯すらも赤汁で染めて嗤っている。



 派閥がある。蚊遣(かや)り火囃子保存会は、白絣(しろがすり)爽嵐節(そうらんぶし)連盟に入っている。しかし敵対勢力に、潮彩(しおさい)奏乱節(そうらんぶし)連盟がある。元は同一の組織だが、あるとき分派した。前年の祭の投票と評価、スポンサーの数や支援金が、翌年の尺を決める。
 暫くは白絣爽嵐節連盟こと白嵐連(はくらんれん)が優勢であった。蚊遣り火囃子保存会の兄弟太鼓がたいへんに好評であったのだ。ところがこの主軸であった兄弟太鼓は3年前に活動休止し、また主体であった緋森家も無期限的に活動を停止した。ここ3年、蚊遣り火囃子保存会の活動内容は本番のない稽古ばかりである。大きなスポンサーも失った。保存会の一員であり、スポンサーの関係者の家族が殺人未遂事件を起こし、風評被害を考慮して翌年から辞退した。
 日々通った公民館はまだ予約を押さえられず、場所は町民会館だった。
 和太鼓を前に佇む山雫(やまな)緑蔭(りお)はシンプルなシャツに、ジャージ姿だった。夏を知らない色白の長身痩躯が貧相に見える。
 彼は一体、どういった職に就いているのか、入梅翁の家に寝泊まりし、兄弟太鼓の稽古に励んでいるらしい。春休みに入った海夜は母から事情を聞くと、初日から実家に戻った。そして実際、話に聞いたとおり、山雫は撥(ばち)を携えている。
「分かってるの、山雫さん。今年1回だけなんて、多分そんなふうにはいかないよ」
 この保存会の成り立ちはすでに話した。この男の可愛がっている姪とその夫に危害を加えた高校生の保護者がスポンサーであったことも、包み隠さずすべて話す必要がある。
「多分、ずっとこれからも、兄弟太鼓にでてくれ、保存会を継いでくれ、指南役になってくれって言われるよ。断われるの?」
 山雫の麗らかな眉間に皺が寄る。
「君はそう言われたのかい」
 海夜は頷いた。大学進学を機に地元から離れたのは、この柵(しがらみ)も理由のひとつにある。
「じゃあ、あの子もきっと言われたね……?」
 鯉月は所詮、緋森の金魚のフンのようなものだ。兄はその外貌で飾り物としての役を全うした。太鼓の打ち手としてもその他鳴り物奏者としても、客寄せパンダとしても優秀であった。
 しかし正当な継承者は緋森だ。その長男をみすみす逃がすはずはない。実際、姓を捨て、家を出たいとこを批難する声はあった。
「もし、これがあの子の蟠(わだかま)りならいいんじゃないかい。支えてあげるのが家族だ」
「廃れる伝統に、柔軟に対応しないで緋森、緋森言ってるのなら、真っ当な淘汰だと思います」
 海夜は山雫緑蔭の双眸に挑んだ。カラーコンタクトレンズは嵌っていないはずだが、青みを帯びたグレーの瞳が構えている。
「少しだけ、憧れるんだよ。ボクは結婚もしないし、子供も要らないからね。伝統とか、そういうの。新しい世代に、一体何を残せるんだろう、とか」
 山雫は、やはり平行線を行く人間なのだ。未来のある人間を通して、未来に想いを馳せることのできる人間なのだ。可愛がっている姪とその夫の間に、一先ず子が宿った側の人間なのだ。
 感情を見せるのは恥であり、海夜もまた自身の性分(キャラクター)ではないと理解していた。
「忠告はしましたよ」
 海夜は町民会館を引き返す。田園風景のなかにある寂れた小屋といって差し支えない。今や荒れ地だが、ネギ畑が懐かしかった。視界は拓けているはずだが、土手が遮った。その奥には国道がある。南に都会、西に都心と分岐する。
 誰も見てはしない。海夜は側溝を覗くふりをして蹲(うずくま)った。幼い頃は水が
流れ、ザリガニやドジョウがいた。いとこは捕まえるのが上手かった。兄は傍で見ているだけだった。兄は妹を危ないところに誘い、危ないことに巻き込むいとこをよく叱っていた。穏健で寛容な父と剽軽で陽気な母よりも口煩い兄であった。
 山雫とは同じ傷など持ち得ない。山雫緑蔭には未来のある若者が生き残ったではないか。いとこは確かに走ることはもうできない。車の運転も容易ではないだろう。しかし子を成す能力はあり、父親をやることもできる。その妻も然り。
 海夜はスマートフォンでメッセージアプリを取り出した。ライバルの潮彩奏乱節連盟こと潮乱連(しおらんれん)の1人に、以前、声を掛けられたことがある。蓮池(はすいけ)夕涼(ゆり)という同い年の人物で、出会ったばかりの頃は互いに互いの立場など知りはしなかった。彼は関係者テントの下にいた海夜を祭運営そのものの関係者だと勘違いし、何故今年は白嵐連の兄弟太鼓がないのか、という話を振ってきた。兄弟太鼓がなければ、張り合いはないが、潮乱連の一人勝ちであり、来年の催し物に向けて腕が鳴る。彼は朗らかに未来を語る。
 海夜は自身の立場を明らかにしなかった。

[今年は兄弟太鼓、あるみたい]

 俗物的な若作りの"若造"は、果たして夏まで持つのであろうか。


 家に帰ると、リビングには母がいた。母には部屋がない。だが父にもない。兄妹の部屋と寝室と、誰のものでもない部屋が2つ空いている。長男のいなくなった今は3つ。
「嫌なら辞めちゃえば」
 母親は誤解しているようだ。それならば幸いな誤解である。長男の死は、保存会の責務もわずかばかり関わっているのではないかと、疑っている節があるように海夜には見えた。兄には確かにファンクラブがあった。若い子たちまでもが伝統芸能に関心を持つことを保存会の連中は喜びもした。けれどそのような切り口は、得てして短い命なのである。兄は人より、落胆され離反される数の多い道を往った。
「辞めるかァ……、そうだね。辞めよう」
 海夜は自分の部屋に上がった。兄の部屋だった今や物置を覗く。あとは粗大ごみに出すだけの勉強机に細長い箱がある。中には黒地に赤を差した笛が入っている。太さは均一ではない。能管(のうかん)だ。手に取った。兄はこの笛の音色があまり好きではなかったようだ。夜間に暗躍する侍や、井戸から這い上がる怨霊の登場を思わせる。
 自死したレイコンは、ジョウブツできず、コノヨを彷徨い続けるらしい。
 海夜は歌口を一度指で拭ってから唇を当てる。兄が出していた不穏な高音は出ない。


 感情を見せるのは恥だ。
 いとこが練習場にやってきたとき、海夜は仮面を付けた。入梅翁は何の事情も知らない。ただ保存会の一員が巻き起こした事件によって、緋森の長男は不具になってしまった、そしてその原因は保存会の指導ではないかと外野からは疑われている。その程度の認識であるから、緋森の長男と鯉月の長男の間にどういった確執があったかなど知らないはずだ。緋森の長男が練習場に顔を出すという一報を態々(わざわざ)、いとこの海夜に伝えることのほうが野暮である。
 ところが練習場のスロープを上がるいとこの姿を認めるまで海夜は知らなかった。知らなかったが、知ってしまった。仮面を嵌める時間があった。
 太鼓の音にいとこは吸い込まれていく。杖が脚に代わり、一歩一歩踏み締めてスロープを登る。彼は海夜には気付かなかった。そのために様々な逡巡を打ち消し、その場に適当な仮面を捏ね回すことができたのだった。何も知らない素振りをして靴を脱ぎ、公民館へと入った。やっと予約が取れたのである。
 いとこは太鼓を叩く山雫の元へ向かっていくところだった。山雫は掌中の珠である姪の夫に夢中で、海夜には気付かないようであった。能管の稽古は同じ部屋だが隅である。体育館を思わせる広い一室であるから、互いに気付かなかったという理屈も通る。自ら出向き、挨拶をすることはない。海夜にとって彼は兄を出し抜いて妻を得たいとこであり、彼にとって海夜は妻を危険に曝した男の妹である。血の繋がりはあるけれども、彼もまた山雫緑蔭と同様、平行線を行くことになった人間だ。
 能管の講師は中年の女性だった。海夜の復帰を喜ばしく迎えた。海夜は睫毛を伏せる。兄とよく似る所作であった。
 今年で、保存会を辞めるのだ。それを言い出せなかった。



 元同級生の墓の場所を知ってはいたが、来るのは初めてだった。悪いことは何ひとつしていない。法を犯してはいない。しかし後ろめたさがあった。すれ違う人物が、後ろから来ている人物が、知り合いではないかと探ってしまう。何よりも海夜は、自身を問い質そうとしていた。本当に良いのか、こんなことをして……だが同時に、自己弁護に転じようともしていた。元同級生の墓参りに、そこまで狼狽する必要はない。よく磨かれ成形された石を前に、掌を合わせる行為に善悪はない。そこで臭い棒切れを燃やすことのどこが、喫煙と違うのだろう。
 管理人から教えられた区画に入ると、墓石が倒れていた。端から数を数える。数え直す。だがやはり、倒れた墓石が目的の場所であるようだった。墓石が倒れるほどの地震はここ3年、なかった。台風はあったが、墓石を倒すほどの威力であっただろうか。何より、半年以上も前のことであるから、管理人がそのまま放置するとは思えなかった。倒されて時間はそう経っていないのではあるまいか。
 海夜は矛盾していた。石に問答をしようという肚でいた。厳密にはその石の下に置かれたリン酸カルシウムの欠片に問いたいことがあった。答えなど返ってくるはずがない。しかし突っ伏したような墓石とアイスの棒よろしく折れた卒塔婆を見ると、とても訊ける状態ではない。
 冷静になった。あの元同級生はどこにも存在しないのだ。どこにも存在していないのならばどこで問うてもいい。
 帰りに管理人事務所に寄り墓石のことを話すと、管理人はすでに知っていた。だが伝え忘れていたようだ。数日前に来た若い男が倒して帰ったらしい。山雫緑蔭の他に、あの元同級生に恨みを抱く人物がいたのだ。否、山雫緑蔭を恨んでいるのは直接白刃を振り下ろした高校生のほうではない。
 真っ直ぐ家には戻らなかった。表札の外された空家の前に車を停める。門から玄関にかけての道を作る花壇は荒野と化して、掃き出し窓を外から剥き出しにしている。人が住んでいた頃は、植物が人目を隠していたのだろう。
 人が住まない家は忽(たちま)ち煤け、カビが生え、萎びて草臥れる。
 娘と息子の2人を失った両親の悲しみはいかばかりか。そして息子のほうは加害者でもある。だが息子の凶行の真の理由を、遺書で知ってはいるのだろうが、おそらく理解できないだろう。
 目の前に聳えるこの立派な空家も、3年前までは人が住んでいた。どのような営みがあったのかは海夜には分からない。しかし人が住んでいた。悲喜交々(ひきこもごも)あったはずだ。人間の暮らしとは動(やや)もするとそういうものなのだ。特別、鬼一族が住んでいたのではない。共に地震に遭い、台風に吹かれ、政権交代を経た、同じ空の下、同じ地の上、同じ情勢の中を暮らしたのだ。
 空家もまた、海夜の問いには答えなかった。
 家へ帰ると、山雫緑蔭が我が家のごとくリビングのソファーに座っていた。母親の車はなかった。山雫が来ていることは靴の母からのメッセージで分かっていた。母は表立って邪険にはしなかったが、山雫緑蔭を好きではないようだった。連絡をよこしたのもただ一報を入れるだけ入れたのではなく、よく注意して2人きりになるな、そういう意味なのであろう。
「ただいま」
 疲れたような山雫緑蔭の姿を見たとき、潮乱連の蓮池に先立ってメッセージを送ったことを後悔した。
「辞めてもいいんですけどね」
 ソファーに凭れている山雫は首を据わらせた。
「どこに行っていたの」
 平生(へいぜい)の人を喰った温容な語気が、今日は張り詰めた弦のようだ。
「訊かなくても知ってるような口振りですね」
 海夜はGPSを持たされている。束縛の厳しい男なのだと山雫は自身で語っていた。
「ボクは嫉妬深い男だからね。お兄さんのお墓ならとにかく、君が死んだ人相手でも、他の男に会いに行くのは赦せないな」
 海夜は目を逸らす。
「お墓倒したのって、山雫さん?」
「何を言ってるの……」
 山雫緑蔭は鼻白む。語気が消え入る。面倒事を避けるかのような響きがあった。
「違うならいいんですけど」
「ボクは墓の場所さえ、今日君が"教えて"くれるまで知らなかった始末だよ。でも、今後は分からないね。今後は……」
「ただの石にブチギレられるのは異常者ですけどね。ただの石に掌を合わせに行くアタシも異常者ですが」
「石に掌を合わせてるんじゃないよ。この世はお気持ち社会だからね。ボクは君等が水とタンパク質だから愛しているんじゃない」
 海夜は長く溜息を吐いた山雫を乾いた眼差しで捉える。
「で、だからアタシに、あの高校生の墓参りには行くなって?」
「行けばよろしい。そしてボクの不機嫌に付き合えばよろしい」
「不機嫌になってくれるなら、アタシゃ毎日行かなきゃなりませんな。でも、もう行きません。アタシも虚しくなるんでね。どんな豪勢な映画よりもドラマよりも、石を見てアタシは虚しくなれるんですから、エンターテインメントの衰退を感じるなァ!」
 海夜の荒げた声がリビングに染み渡っていく。山雫というやつは気が利かない。
「虚しくなるの?」
 山雫の片眉に稲光が走る。
「そりゃ……どんな顔して死んでいったかまで見てるんですよね」
 噴水よろしく血を垂れ流す首の穴を塞げば、元同級生はまだ生きていたのではあるまいか。あの出血量では助かるまい。しかし求めていた答えは聞けたのではないか……
「違うか。死ぬまで待ってたんです。もっとやるべきこと、あるはずなのに」
 その場には脚を数カ所切られたいとこと、滅多刺しにされた山雫の姪がいた。
「迷うよ。ねぇ、君」
「なんです」
「あの可愛い子たちのおじさんとして、君を咎めるべきか、あの子たちより年下の、まだ高校生のクソガキだった頃の君を咎めることのほうが愚かだというもうひとりのボクでいるべきか」
「被害者家族だという立場を、存分に振るってください」
 山雫緑蔭は眉間を揉み拉(しだ)く。
「入梅さんから聞いたよ。今年はお囃子に参加するんだってね」
「はあ」
「それで辞めるんだってね」
「開けなければ閉められませんね。作らなければ壊せませんや。辞めるには、挑みませんと。逃げたのでも、諦めたのでもなく……」
「意思を持って辞める、と?」
「義理立てですな。アタシゃ、あの人を疎外して迫害していじめたいワケじゃないよ」
 山雫はソファーの背凭れから身体を引き剥がすと、前のめりになって項垂れる。
「本当は弁護士を目指してたって、お母様から聞いたよ。でも、理学療法士を目指してるっていうのは、やっぱり……」
「それならアタシは、バリアフリー推進協会に入って、凄腕の外科医を目指していますよ」
「目指しておくれよ。ボクは、信じたいけれどね。信じちゃうんだな。今もリハビリは続けていて、通院もしている。あの子の脚はきっと好くなる。好くなってほしい。理系に進んだ君には、非論理的に映るだろうけれど……」
 山雫緑蔭は疲れているのだ。海夜は横目で睨み、2階へ上がった。



 赦すか赦さないか。その選択が己のうちにないことを海夜は知っていた。気に入るか、気に入らないかを見定める自由しかない。
 気に入らなかった。いとこの姿を見るたびに、兄が死んだことを思い知る。いとこの結婚が、兄の"敗北"を理解させる。しかし思い出にはいとこがいる。おそらく憎めやしない。しかし祝うこともできない。兄に背を向けることができない。

改【蒸れ夏スピンオフ】金魚鉢回遊

改【蒸れ夏スピンオフ】金魚鉢回遊

書き直し版

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2025-02-03

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