サイボーグの目覚め
これは、2006年から2007年にかけての体験を描いたもので、フィクションではありません。心臓手術というと60歳以上の年配を連想するかもしれません。もちろん私がヤングというわけではなく、婦長(今は士長でしょうか。看護婦ではなく看護士)さんと同い年だった事実はあるものの比較的若い方の部類でした。
音楽活動の方でもこの時の体験をもとに「サイボーグ」という曲を書きました。多分どこかの動画サイトで見られるかもしれません。
不安の兆し
人間年をとってゆくといろんなところが悪くなって行くものです。歯が悪くなれば歯医者に通い、近いものが見づらくなってくれば眼鏡屋に行ったり……。治療したり眼鏡を作って済む段階を越えても、一本から数本差し歯や義歯の世話になったり、眼科に行って水晶体などを交換したり……。私に起こったこともそんな出来事の一つだったのです。
心臓という場所は、脳と同様にそこになにか問題があれば気が気でない場所の代表的箇所です。前触れがなかったわけではありません。確か一年前の健康診断で、心電図に異常が見られましたが、たいしたこととは思わずにいました。
そして今回の健康診断では、その場で再検査となり、治療が必要と宣告され、お茶の水にある某クリニックを訪ねることになりました。昨年の8月のことでした。まだ45歳になったばかり(もう45歳?)の私は、頸椎も悪くしていて整形外科にも通っていました。ただこちらの方はあまりに痛ければ痛み止めを飲み、あとは週置きのリハビリという程度だったので、私の中では心臓のことを思いやる比重が高くなっていきました。
そのお茶の水のクリニックにいらしたのが、とある大学病院から出向中のI先生だったという訳なのです。心エコーというもので、私の心臓の状態を丁寧に見ていただくと親切な説明でまず心臓の構造についてお話がありました。それから動脈弁の話になると過去に聞いたことのない三尖弁と二尖弁の話になりました。
一般的に大動脈弁の役割としては、心臓(左心室)から血液を身体全体に送り出すことです。その際血液を送り出し、逆流を防ぐために3枚ある動脈弁が存在するわけですが、なんと私の場合、3枚のうちの2枚が癒着していて十分な働きをしていないことがわかったのです。そして遺伝ではないが生まれつきなのだということが、45歳になって初めてわかったという訳なのです。
1枚と1枚が癒着して2枚の弁として働いている状態を二尖弁といい、100人に一人の奇形だそうです。欠点のまず一つは十分弁が開ききらないので、血液が流れる際無理がかかっていることと、もう一つはきちんと弁が閉まりきらないので血液が逆流してしまうことの二点だそうです。
若いうちは、それでも何とか異常を感じないで暮らしている人がほとんどなのですが、所詮無理をしているわけで他の方よりは寿命が短いらしいのです。心臓が痛んでくれば誰でも起こることが、他の方より少し早く起こっているというわけなのですね。
今現在自分自身に症状はないのです。ただ時間の問題なのでしょう。症状が出てしまってからではもちろん遅いわけで、身体に力があるうちに対処しておくべきだと先生は仰るわけなのです。そしてその対処というのが、大動脈弁を人工弁に取り替えるという方法なのであります。元々生まれ持った大動脈弁を切除して人工弁に交換する手術なのであります。
人工弁については現在二種類あって、機械弁か生体弁を使うことになるそうです。機械弁はカーボンなどの素材で出来ていて、生体弁は牛や豚の内蔵などを使って作られたものだそうです。機械弁それそのものは高性能だが、血液をサラサラにして血栓ができないようにワーファリンという薬を毎日飲み続けなければならないのが欠点と言えば欠点になります。一方生体弁の方はワーファリンを飲み続ける必要はないが、弁自体の寿命は10年くらいと短い。ただワーファリンの持つ奇形特性のためこれから子供を産もうという方にはこの生体弁が使われます。さらに血がサラサラになると、怪我の多いスポーツ選手や冒険家も困ることになるので生体弁を使用するようです。されども大概の方は機械弁になるのだと先生からお教えいただきました。そして私の場合も例に漏れず今から数年の間には、機械弁に交換されなければならないと聞かされたのです。
その日から、私はブロプレスという薬を処方され、朝食後に毎日飲むようになりました。血圧を抑えることで有名なこの薬の本義的な使い方の他に心不全治療薬としての効能が世に発表されたのは、比較的最近だと聞きました。
「血圧がお高いのですか?」
薬局に行くと決まってそう聞かれる。
「そういう訳じゃなくて心不全なんですよ。その治療なんです」
よくそう答えたし、そのたびに主治医のI先生をなぜかしら誇らしく感じたものです。
月に一度お茶の水の聖橋を渡って先生のクリニックに通い続けた私は、完全に治療するわけでもないのに何となくそれさえ飲んでいればその「いつか」は来ないかもしれないと漠然と思っていました。その都度言われる内容は変わらず安心さえ覚え、処方されるブロプレスに満足していました。
年の暮れになると次回は一月跳ばして2月にしましょうと言われ、その分の薬も処方していただき安心は加速していきました。さらに2月に行くと4月にしましょうとなり、4月に行くと6月にしましょうとなりました。一定したそのペースにもう大丈夫かなという気持ちとこれでいいのかなという気持ちが錯綜していました。
束の間の休息
5月のゴールデンウイーク明けに小旅行を計画していました。実家の富山に2泊、岐阜市内の家内の友人宅に1泊というもので実家に顔を出すのは一昨年以来であったでしょうか。母親が一人で暮らす、もう築30年以上経つ建て売り住宅に家族で住み始めたのは、私が中学2年生のときでした。きっかけの一つになったのは私の病気でした。
中学1年の秋、私は盲腸をこじらせて腹膜炎になりました。それは決して環境のせいばかりではないと思いますが、母親がそうだと言って貯金をはたいてアパートから一軒家への移動計画を建てました。たしかに小学6年間住んでいたアパートは家族4人が住むにはあまりにも惨めな2Kというスペースでした。共同トイレでなおかつ外に設置されているのを考えると母の言うとおり環境のせいといえないこともないのかもしれません。
中学2年の春に引っ越しをして、気持ちも明るくなったような気がします。ちょうど思春期で、自分の部屋を持つことが出来、何かしら感じていた負い目もなくなり、ふつうの子供と違わないことに安心を見いだしました。私が実際に住んだのは19歳の春までなので、5年足らずということになるのでしょうか。
私は東京に出て何か大きなことをするのを目標としてましたが、成功しないうちは家に帰らないといったこだわりもなかったので、気が向いたときその両親と妹が暮らす家に年に一度は帰っていました。妹も3年遅れぐらいでやはり東京に出てしまい、家に残された父と母に会うためにやはり年に一度は帰っていました。ただその家で暮らすことと一時的に帰ることは全く違うものだと思います。母はトータル34年その家で暮らしているのです。
父も頑張りましたが9年前にこの世を去り、それ以来母が一人でこの家を守ってきました。今回帰るに当たり、母が私の心臓を気にかけてくれました。遺伝ではないが生まれつきの二尖弁だから、多少なりとも責任を感じているのだろうか?そんな風にも思いました。母親の感覚は、自分には分かりませんが、そういうものなのでしょう。
ちなみに私が20代の頃にあこがれた「大きなこと」は実現せず、20代後半から「小さなこと」をこつこつ積み上げながら現在に至っています。しがないサラリーマンです。とはいえその仕事も20周年を迎えようとしていました。おかげで安定した生活を送れているということになるのでしょう。
今回富山に訪れている最中に家内と動物園に行きました。私が学生だった頃にはまだ出来てなかったその動物園は結構にぎわっていました。地方の動物園の方が土地が豊富にあるせいか、動物たちの表情ものんびりしているように感じました。私にとっても久しぶりに休暇を味わっている感触を得ました。
富山と岐阜は県でいうと隣になりますが、岐阜県自体縦に長いので、家内の友人の住む岐阜市内だと名古屋よりになり日本海に面している富山からは少し距離があります。それでも今回行こうと考えたのは、最近家内を頼って相談の電話を何回も受けていたことと、それに私たち自身行きたかったからに他なりません。
直線距離でもっとも近いのは富山駅から高山本線で名古屋に向かうコースなのですが、地震か何かの影響で事故があったらしく、高山本線は途中で寸断されていました。JRもそれに対処するように米原経由で名古屋に出る列車の本数を増やしたようでした。私たちもそれに従い計画を立てていました。
富山駅と東京のルートは今まで何度も行き来して慣れていますが、富山駅から西の方へ向かうのは今まで数回しかなく、金沢、福井、鯖江といった駅名を目にする度に家内と他愛もなく盛り上がりました。ただ残念なのは、富山を発つ頃から雨が降り始め、岐阜に着くまでの車窓の風景が、どんよりしててあまり代わり映えしなかったことです。それでも時々山中の木々の隙間からわき上がる白いもやが妙に迫力があって、生命の息吹のようなものを感じました。
岐阜に着くと、雨は嘘のように上がり、雲の隙間から日光が差し込んでいました。ただ風が冷たくて、市内をうろうろしていた私たちは、駅ビルの建物の中へ逃げ込みました。新しい部分と古い部分の同居した町並みに興味を持ちましたが、寒さには勝てませんでした。
友人の仕事が終わるのを待って、友人が案内する居酒屋に行きました。その後勢いに乗ってカラオケにいき夜中まで歌を歌っていました。その後予定通り友人の運転する車で友人宅に向かい厄介になりました。
彼女と家内は学生時代からの友人で、20年以上経っても時々連絡を取り合っている。今回電話で相談を受けていたのは、お父さんのことであった。彼女のお母さんは少し前に亡くなり、今お父さんも具合が悪くて入院中……。私たちが厄介になった2階建ての広い家に彼女一人が暮らしている。介護疲れを少しでも癒せればと思いました。
青天の霹靂
旅行から帰ってきて、また慌ただしい日々が動き出しました。十分休暇を堪能ししばらくは仕事に専念せねばなりません。我々は、仕事の合間合間に楽しいイベントを挿入しながら、暮らしているのだと思います。次のイベントは私の誕生日ですが、それもあと一ヶ月を切っていました。
誕生日の三日後が定休日になっていて、その日は二ヶ月ぶりにクリニックに行く予定でした。あとはバースデーイベントのつもりで家内とカラオケに戯れようとしていました。それまでは地道に仕事をこなしていかなければなりません。心臓が良くないという話は職場にいる大方の人には話してありました。
物心付いたときからタバコを吸っていた私は、この頃もまだ吸い続けていました。百害あって一理なしと言われつづけながら、そんな言葉に背を向けて自分は大丈夫なのだとうそぶいていました。それは7月の半ばまで続いていました。
6月20日、占いでは吉凶入り交じりとでました。そんなわけで、クリニックに行く前に何となく予感めいたものを感じたわけです。誕生日も過ぎ46歳になってしまいました。それでもわずかながら心の中で、手術なんて50歳頃だろう、なんて漠然と思っておりました。
前回同様であれば、
「おかわりありませんか」
そう言って、心音を聴診器でとらえ、
「今回もお薬出しときますので…」
以上で終了なのでした。しかし今回は、前回心エコーを取らなかったので、やりましょうということになったのです。
以前数回受けたことのある検査で、上半身裸になって、先生に背を向けるようにして横になります。バーコードを読みとるようなセンサーの先にジェルをつけて私の胸に当てながら心臓の動きを見るのです。今まで以上に念を入れ、時間をかけながら、先生はある一つの数値を導き出しました。
大動脈弁を境として、その内側と外側の血圧の違いを数値として出したのでした。弁の動きが悪いほど、その数値は高くなるのでした。
「そろそろですかね」
先生が一瞬何を言っているのか分かりませんでした。
「ご連絡いただければ、某病院の方へ予約を入れますから」
事態は急展開していたようです。私の血圧そのものは平均値ですが、心室の方は、それにプラスすることの50以上高いのだとその数値を提示されながら仰ってました。
改めて先生は今までの経過を説明されながら、手術をするなら遅すぎてはいけないと言われました。かといって焦る必要もないのだと仰いました。私は一週間考えることにして、家内と二人予定通りカラオケに行きました。なるべく手術のことなど忘れてしまいたいというときに歌は便利でした。
熟慮して答えを出しました。翌週、先生に、よろしくお願いしますと挨拶に行きました。とりあえずまず検査入院をすることになりました。それもすぐではなく、約一ヶ月後の7月31日です。その期間も仕事には行きます。間違いなく仕事どころではないのですが、それでもスタッフがある程度気を使ってくれるので、なんとか仕事を全うする事ができました。
先生に言われたせいなのか、検査入院までの一ヶ月で、心臓のせいではないかと思われる症状がいくつかわき上がってきました。やはり階段を上りきった時の息の切れがひどくなったことが一つ、それにタバコを吸い込んだときに胸に痛みが走るのでした。
結局タバコは止めざるを得ない状況となりました。それでも吸うとすれば自殺行為以外の何物でもないと思うのです。20代から30代にかけてはいろんな銘柄を楽しんでました。ジタン、ダンヒル、ケント、フィリップモーリス、その後メンソール系でなおかつニコチン、タールとも1mgのものを吸うようになって行きました。ヴァージニアスリムとか、一時国産のべベルフレアにはまってました。
職場には数名スモーカーがいて、肩身の狭い思いを共有していました。趣味をともにする仲間だったんです。ついに私はその中の裏切り者と化してしまったんです。彼らが寂しそうな顔を見せたことが、私を辛くさせました。
元々吸わない、あるいは禁煙に成功した人たちは、彼らの陣営に組みしたことを喜んでいました。私自身としては、タバコを否定したわけではないので、複雑な気持ちでした。心臓がこんなことにならなければ、吸いたいという気持ちは捨てられなかったと思うのです。
検査入院が近づいてきたある日、岐阜の友人から連絡があり、闘病生活を送っていたお父さんがお亡くなりになったとのこと。お会いすることはありませんでしたが、とりあえずお父様の存命中に彼女を訪ねることが出来て良かったのだと思いました。私は仕事を休めず、家内が告別式等の手伝いにでかけました。
検査入院1
本郷にあるその大学病院にきたのは、初めてではありませんでした。家内が一度外来で検査を受けに来て、その結果を聞くときに付き添いで来たことがあったのです。その時はまさか自分がそこに来ようとは思ってませんでした。
入院手続きの前に指示通り外来の受付をすると窓口で、2階に行くよう指示を受けました。その後採血、レントゲン、心電図の検査を受け、それから入院手続きをしました。今回はあくまでも検査入院、カテゴリー的には循環器内科です。
入院病棟の12階の一室に案内されました。担当看護士が挨拶に訪れました。そしてちょうどクリニックでお世話になったI先生が、今回の検査入院の目的とその流れを説明に来られました。
今回の検査のメインイベントは翌日のカテーテル検査でした。それ以外の検査は頭にありませんでした。レントゲン、心電図、心エコーは被験者がただじっとしていれば、痛くも痒くもないものですが、カテーテル検査は、検査とは名ばかりで「手術」と言っても過言でない内容でした。
入院初日は、翌日のことが頭をよぎりながらも病棟内を楽しんでいました。入院病棟は結構新しいとみえて、内装もきれいでした。また病棟の中央にある食堂は、食事時以外も家族の団欒の場所として利用することができ、窓からの眺望も格別なものがありました。さすが12階だけあって、不忍池の全貌が鮮やかに見えるのです。
カテーテル検査当日は、朝食抜きでスタンバイし呼ばれ次第、ストレーナという簡易異動ベッドで運ばれていきます。前日に買っておいたTGパンツなるものを着用します。T字帯という従来品と違いマジックテープを使用して小綺麗に仕上げてあります。実際はどちらでも良かったんですが、新しい方をとりました。
カテーテルとは血管より細いチューブを、股下のある部位より差し込み大動脈の中を通し、心臓にまで到達させ、薬品等を流し込み心臓の反応をみようとする検査です。カテーテルにはいくつか種類があって、最近耳にするバルーンカテーテルは、血管の閉塞している部位に入り込み、カテーテルの先端に取り付けたバルーンを膨らませ閉塞箇所を押し広げることで治療もしてしまうという代物です。
順番になり手術室のようなところに運ばれます。担当の看護士。なかなか綺麗なお嬢さんでした。その看護士から専門スタッフにバトンタッチされますが、なんとなく不安が押し寄せます。愛想良く振る舞ってますが、何をするのか不気味です。
麻酔の注射は、中学の時の腹膜炎で体験しておりました。やはり今回も痛かったです。ただし注射を打つ場所は違うようで、痛みの種類も若干違う気がしました。腹膜炎は下半身麻酔で背中の方に打ちましたが、今回は局部麻酔なんですね。
不思議なのは、カテーテルの先端が心臓に達しても心臓自体には何の感触もないことです。検査のため冷水を注入したりするのですが、まったく分かりません。ただし造影剤は分かります。これは注入されると身体全体が燃えるように熱くなります。胃や腸で使うバリウムと同じ役割だと思います。
バリウムも検査終了後に大量の水を飲むことをすすめますが、造影剤も大量の点滴で持って尿として排出します。検査終了後に自分のベッドに戻り何食わぬ顔で点滴を受けていました。9時間安静ということで起きあがることは出来ません。
それでも食事はしてよいというので、病院食としておにぎりがでました。まあこれなら寝ながら食すことは可能です。朝食抜きであったため私はそれをぱくつきました。その光景を家内は微笑んで見ていたに違いありません。
異変が生じたのは、その数時間後、ジワリとやってきました。胸のあたり、つまりは心臓の辺りがなんだか痛いのです。担当のドクターがやって来ては心配しながら、採血をしていきます。そして少しして戻ってきて、異常はないと言われます。
私の心の中の声「それじゃあ、何で痛いの?」を
ドクターには言えず、家内に別な言葉で言ってしまいます。
「何かあったら、すぐお袋と妹に連絡してくれ」
家内は、心配そうに見ています。
胸の痛みとは別に安静状態による床ずれの痛みもあり、これは看護士に言って、腰や尻の辺りにクッションを入れて傾きの方向を変えると数10分は耐えられました。それを何度と無く繰り返し、胸の痛みに耐えながら夕方を迎え、午後8時には面会終了時間となりました。
規則とは言え、帰って行く家内を恨めしそうに見ながら、自分の行く末を不安に思っていました。担当のドクターが3人まとめて登場し、そろそろ安静時間終了だからと、可動ベッドの上部を持ち上げ、腰回りにあった固定布を取りました。なんとなく気分が楽になり、いつのまにか胸の痛みは消えていました。
四六時中心配していた家内の顔を思い浮かべ、メールを送りました。昔からPHSを愛用しており、携帯電話に比べ、電子機器に与える影響も少なく、病院内でも多少大目に見てもらいました。通話は御法度ですが、メールのやりとりは可能でした。家内にメールを送ると今度はお腹が空いてきて、日中買い置きしておいた総菜パンを食べました。
翌日やってきた家内は、ほっと胸をなで下ろしたのでしょう。放心したような顔をしていました。あるいは、私の痛がりぶりがあまりにも大げさだと思ったのでしょうか。しかし本当に痛かったのです。これでもし手術にでもなったら耐えられるのでしょうか。
一大イベントを終えた私はだいぶ気持ちに余裕ができ、院内を自由に動き回っていました。あと残っているのは食道エコーとCTスキャンでした。
検査入院2
入院3日目は、特に何もなく少しのんびりしていました。昨日の苦しみが嘘のようでした。検査入院の大目的であるカテーテル検査を終えて気が楽になったのでしょう。後に残る二つの検査を軽く考えていました。
翌日の食道エコーですが、やはり昼食抜きとなり、午後から徒歩で検査室に向かいました。
「痛いですか?」
私の問いかけに神経質そうな担当者は真面目に答えます。
「喉に麻酔の入ったジェルを垂らして、挿入しますが違和感を感じる方は、いらっしゃるみたいです」
早速そのジェルが運ばれてきて、私の喉に満たされました。指示通り飲み込まず、しばらくして何かの容器の中にそれを吐き出しました。
そこで私の飲み込むべきものが登場したのです。胃カメラなのでしょうが、心臓をスキャンするためのエコーのついたカメラなので、とにかく太い。直径1.6センチメートルはある大蛇のようなものが、連れてこられ、即座に私の口の中に放り込まれました。
「さあ、そのまま飲み込んで」
容赦ないその台詞に負けまいとして、せーので飲み込んだのです。
何とか飲み込むことは出来ました。カテーテルとは違う種類の苦しみです。カテーテルは入り口だけの勝負だったのですが、食道で暴れ回るエコーは、何となく胸をむかむかさせました。違和感というよりも、圧迫感といったほうがいいのかもしれません。
私の苦しみを余所に、講師のような人が、数人のいつの間にか集まってきた若者に講釈を垂れています。私の心臓の様子を見ながら、何やら専門用語を繰り返していました。私の頭の中にモルモットという言葉が浮かんですぐに消えました。マイナー指向は良くないのです。
翌日はCTスキャンで、カテーテル検査で使った造影剤をまた使用することになりました。今回はやたらアレルギー反応にこだわります。そのために昼食を抜き、抗生剤を含む点滴を受け、その後CTスキャンに行くという流れになりました。昨年頸骨の診断で受けたMRIに比べれば、音もうるさくなく、時間も短く、気持ちとしてはあっさりと終わりました。もちろんまた大量の点滴を受けて、造影剤を尿として排出しなければなりませんでした。
最終日の夜、明日は退院という時に、お世話になった先生方が、挨拶に訪れました。循環器内科の先生方の中に初めて見る先生がいらっしゃいました。実はその方こそ心臓内科の実際メスを振るうことになる担当医だったのです。
循環器内科の先生が一目置く心臓外科のその先生の言動に注目せざるを得ませんでした。突然手帳を広げて、スケジュールの確認をされ、空いている日、すなわち私の手術日を決定することになりました。提示された中で最も近い8月20日を選択しました。一度入院を体験し慣れたこともあります。心境は、「早いに越したことはない」という感じでした。
その後大まかな予定が決定され、8月15日が再入院日、14日に貯血のため一度来院となりました。貯血とは手術中に輸血で使う血をプールすることで
す。赤十字の輸血用血液というものもあるのですが、やはり自分のものが一番相性がいいのです。
ちなみに貯血する場所は、輸血部と言い3階にあります。そこで十分な説明を受け、私は横になりました。1時間くらいかけて、400CC抜かれるのです。人によってはフラフラになるようです。抜かれた分を新たに体内で生成するのに1週間はかかるらしいのです。ましてさらに400CCが必要なのだそうですが、手術当日に、オペに入る直前に貯血をするとのことでした。
いったん検査入院を終えた8月4日に話を戻します。退院後、再入院までの約10日間の猶予期間を穏やかながらも黙々と過ごしておりました。会社にも手術予定日、再入院日を伝えて、友人にアドバイスを請うたり、インターネットで情報を入手したりしました。
長い入院になることも確実でしたから、ノート型のコンピューターを持って行こうかどうか迷いましたが、PHSの機種変更でいわゆるスマートフォンなるものを購入することにしました。前回の検査入院でPHSが役に立ったこともあり、前から欲しかったこともあり、自分へのご褒美という考えにも後押しされました。
仕事にも数日出ておりましたが、もう身が入りません。最期に自分のロッカーをきれいにし、扉の表面にメールアドレスとメッセージを残しました。メッセージは自分への応援も込めて「I'll be back.」としました。シュワルツネッガーの頼もしい言葉です。
いよいよ手術入院。生きて帰れるかどうか。やりのこしたことはないか。人生最大の山場を迎えて、私は不安でいっぱいでした。多くの人から激励をもらいました。とにかく前向きに考えることだけを意識することにしました。
CCU(集中治療室)の怪
目を覚ますと眩しい蛍光灯と目の大きな男性の看護士の顔があった。口には呼吸器の管が入っていて喋ることができなかった。生きていたのだと思った。眼鏡をしていないせいか全体的に朧で、そこが集中治療室であることを理解するのに10数分かかった。
蛍光灯を見ていると黒い虫がうようよしているのが見えた。飛蚊症というやつだ。血中の雑物が目の中の硝子体になだれこんだのかと勝手に解釈した。そして頭の中にカチカチと響く音。なるほどこれが機械弁の音なのだ。生まれ変わったわけだ。
機械に囲まれ、その機械に私は繋がれている。腹部に刺さった管、胸に残った管、首に刺さった管、手首の動脈に入っている管、静脈に入っている管そして尿道に入っている管。その管の一本一本に私の命が繋がれている。私は未熟児として生まれた赤ん坊のように機械によって生かされているのだと思った。
目を覚ましてほっとした私は、胸の痛みに愕然とした。こんなにも痛いのか。どうしたんだ。手術はうまくいったのか。そして目を閉じるともうこの光景は見られないのではないか、そんな不安さえ覚えた。時間の感覚もなかった。手術後何時間、いや何日経過しているのか。家族は今どうしてるのか。
もしかするとこのまま死んでゆくのではないか。私は願った。もし死なずに済むなら、このままでもいいぞと。そんな下降思考の中で聞こえてきたのは、看護士同士の会話だった。私の担当だと名乗った目の大きな男性看護士が、少し先輩と思われる女性看護士にやたら間違いを指摘されているのである。
「やめてくれ!」
私の心の声を彼らは聞かない。そんな間違いの多い看護士など勘弁してくれ。私の願いが叶わない以上、自分の命は自分で守るしかない。私は苦しみの中でその看護士の一挙手一投足を見つめていた。
「おい!ほんとにその点滴でいいのか?」
声が出ない。
私はもしかするとこの看護士に殺されるのではないだろうか。そんな危険を感じた。眠ったら負けだ。少し安心したのは、他の看護士やドクターにもチェックされていることが分かったからだった。その都度間違っていれば修正され、間違ってなければ確認だけしていた。
実際には二日間しかいなかったこのCCUでの生活は、眠れなかったせいもあるが、四日にも五日にも感じた。確かに夜になれば明かりが消されるが、一般の病室と違って、結構明るいしいつまでも起きている人の声が聞こえた。仕事を終えたドクター達がたむろし、反省会などを行っている雰囲気もあった。
時間の感覚がないせいもあるが、何となく夜更けに宴が開かれていたような気もするし、本当の深夜には、静寂が訪れていたような気がする。静寂と言っても私に繋がれた管の先にある機械の私に働きかける音だけが異様に響いていた。何かある数値が下がると危険信号を発し、誰かが駆け寄ってきて機械を調整していくのだ。
そう、その誰かは、おそらく白衣を着た女性と思われるが、私の視界からわざと外れるように近寄ってくるのだ。さらに私が目を開けたことを悟るとさっとベッドの横にかがむのだ。まるで忍者のようだ。彼女たちは人との接触を避けているようだ。実際に体の向きを変えてくれたり、氷枕を取り替えてくれたりするのは、看護士だった。
看護士は、昼夜交代制のようで、初日の夜には女性の看護士に代わり、次の日にはまた例の目の大きな男性看護士に変わった。昨日と違うのは私の口に刺さっていた呼吸器のチューブが取れて、マスクタイプの酸素吸入器に代わり、必要な時に話が出来るようになっていたことだ。
話が出来るというのは、安心するものだ。話してみれば真面目な看護士だったりする。信用できなくて御免と言いたい。が、それほどかぼそいものなのだ、手術直後というものは。
集中治療室での記憶は、時間的な順序が曖昧である。先にも書いたがまるで4?5日いた記憶も実際には2日しかおらず、早くそこを出たいという想いが通じて、通常の病棟に戻ることになる。
テレビなどのメディアは一切ないはずだったが、ベッドの横の離れたテーブルにCDラジカセが置いてあった。2日目の朝だったか、看護士が気を利かせてラジオを付けた。DJがスピッツの「ロビンソン」を紹介した。懐かしさもあったが、また音楽を聴くことができるのだと急に涙があふれてきた。
また別なときに、確か義弟夫婦が面会のとき、他の患者の所から「千の風になって」が流れてきた。縁起でもあるまいに…。今でこそ笑い話にはなっている。感動的な曲にさらにおまけがついた形だ。もちろんいつかは千の風にはなるが、もう少しこの世にいさせてくれ。
集中治療室に居る間は、やはり完全な状態ではなく、もちろん家族に面会できた時はうれしかったが、心配をかけたくないという想いとこのまま悪化して最悪の事態になったらどうしようという気持ちが錯綜していた。
入退院騒動記
5日間の検査入院から10日経って、またこの病院を訪れることになったJだった。2度目であり、比較的間隔が短いので、手続きに関しては自信があった。8月15日の入院当日慌てることなく入院病棟に向かいナースセンターを訪ねた。看護士長はJと同い年であることを強調しながらフレンドリーに接してくれた。
Jはその手術前夜に看護士から手渡された睡眠剤を飲み、比較的早く眠りについた。そのせいでもないが、朝6時前には目を覚ましていた。PHSのカメラ機能を使って、自分の顔を映したJは、「やつれているな」と思った。
時間が来て、ストレーナと呼ばれる搬送用ベッドで手術室に運ばれてゆく。Jの妻、母、妹、そして義父が見守る中、点滴に含まれた麻酔剤が徐々に効き始めていた。手術室の入り口はなぜか手術待ち患者でごった返しているようなちょっとした喧噪があったが、静寂は次第に訪れていった。
Jの記憶は、あのドラマの中で見るような手術室の天井と、それを囲む医師であった。医師が何か説明したような気がするが、聞き取れなかった。またその記憶と前後して、周りに家族がいる場面。手術が終わったときなのだろうか。彼の記憶が確かなのは、手術の翌日の朝、目を覚ました時だった。
Jの家族は、成功率90パーセント以上のこの手術を疑うことなく見守っていた。家族の団らんの中、夕方になってやっと手術の第1報が届いた。執刀医からの「成功しました」の言葉にとりあえずほっとした家族だったが、それから数時間たってもJは戻って来なかった。
慌ただしい第2報が届いたのは、ちょうど日付の変わる頃だった。第2執刀医が血相を変えて言った。
「血が止まらないので、再開胸術を試みます」
誰もが冷静さを失った。Jの母は力を失って床にしゃがみこんだ。またJの妻も姪と戯れていた手がとまり、その場で号泣した。それを見た姪が事の重大さを知ったようだった。
Jの妻は実家に連絡を取り、応援が駆けつけた。とりあえず医者からも説明があり、少し落ち着きを取り戻した。再手術は思ったほどかからず、深夜2時頃に終了報告があり、家族はやっとJの顔を見ることが出来た。状態に異変が起こる心配もあり、妻が一人泊まり込んだ。
集中治療室は、面会時間が限られていて、午後2時から3時と6時から8時の一日2回だった。手術後初めて面会できたのは、結局手術翌日の午後2時であった。家族に心配をかけたくないという気持ちに反して、気分が優れなかったJは暗く沈んだ様相だったかもしれない。特に初日は人工呼吸器が口を封じ込めてしまって、言葉を伝えることはできない。集中治療室での面会は計4回、日増しに回復していく様子は、人工呼吸器が外され、それが酸素吸入器に変わっただけでも明らかだった。ひとまず、富山から出てきた母は、安心して帰路についた。すべてをJの妻に託して……。
集中治療室3日目の朝、取りあえず一般病棟に異動となったJだったが、まずはナースセンターに近い救急病室であった。さらに2日後には、普通の一般病室に移された。その間に身体につながれた管という管が次々と抜かれていった。それは経過の順調さを物語っていた。まず集中治療室を出るときに、胸の管と首に刺さった管が抜かれた。いずれも抜くとき、刺し口に麻酔薬をつけ、ゆっくりと引き出していくという感じだ。同様に腹部に刺さった管も抜かれ、最後に尿道に刺さっていた管も抜かれた。
点滴用の注射針は刺さったままではあったが、何度も刺されるよりは良かった。手術後は頻繁に採血をしていたせいか、わざわざ注射をしなくても良いようにその針を使用していたようだ。採血は次第に二日に一度になり刺さった注射針は点滴専用となって、採血の度に注射をされるようになっていった。
その頃から病院内を歩き回るようになったJ。まずは同フロアの食堂まで、それからエレベーターで1階へ、さらには売店やコーヒーショップと徐々に行動範囲は広くなっていった。身体にはホルター心電図の無線機が付いていて、違うフロアに行く際には、その旨をナースセンターに言っていかなければならなかった。そんなリハビリに励む中、彼の妹家族や妻の父、弟夫婦などが見舞いに来てくれた。Jの妻にいたっては、毎日かかさずお昼時にはやってきて面会時間ギリギリの午後8時まで彼の面倒を見ていた。
担当の看護士が日替わりと言っていいほど変わった。年数もあるだろうが技術的なレベルの違いは素人目にも分かった。かといってたいへんな内容の職種であるだけに、感心せざるを得ないJだった。最初など身体拭きさえ自身で出来ず、拭いてもらうことになるが、それこそ尿管が刺さっている部位にも及んだ。当たり前かもしれないが、たいへんでろうと思う。また頭を洗うのは、美容室のような洗髪の出来る部屋があり、美容師さながらに看護士による洗髪がなされた。Jは、洗髪に関してはやはり美容師に軍配があがると判定した。数日後には、足の傷(冠状バイパス手術も平行して行い、右足から静脈を摘出したため)と手に刺さった点滴の針に気をつけながら、シャワーを浴びられるようになり、その都度胸帯とパジャマを着替えた。
採血、レントゲン、CTスキャンといったイヴェントが日替わりで行われていた。CTスキャンの度に昼飯抜きとなり、抗生剤の点滴を受けそれに望むことになる。それ以外は歩行訓練とコーチという肺機能を鍛えるための小道具を使って呼吸訓練をする。このコーチという器具は1階の売店で購入できる。これは自分で購入しないといけないのである。
また日々の記録も大事な仕事である。まず朝は体重を量ることから始まる。リハビリも兼ね、ナースセンターに置いてある体重計で測定し、側にある記録用紙の自分の名前の横に記入する。看護士は日に3回まわってきて、その都度、体温、血圧、脈拍をはかり、飲むべき薬がきちんと飲まれたかを確認する。その上自身でも、飲んだ水の量、出した尿の量を記録する。まあ水の量は自分で記入するが、尿の方は貯めていくだけだ。トイレに尿を貯める容器が設置されてあるので、便器に流さず、そこに入れていく。記録するのは看護士だ。
採血の結果で、退院の予定日が決まってくるのだが、なかなか良くない状態が続いた。それでも手術して3週間目のその日が退院予定日となった。退院したいという気持ちもあったが、こんなんで退院して大丈夫なのかという不安もあった。もちろん自宅療養も1ヶ月くらいする予定ではある。でも何かあったらナースコールできる環境と言うわけではない。
何はともあれ、Jは9月10日に退院して我が家に帰ってきた。妹夫婦が車を出してくれた。見慣れたドアを開け、久しぶりにパソコンをあけ、メールをチェックしてウェブサイトを更新した。妻の煎れてくれたコーヒーに口を付け、何気にエディターを立ち上げる。新規作成ファイルのタイトルを「サイボーグの目覚め」としながら、キングクリムゾンの「ポセイドンの目覚め」を思い出した。
サイボーグの目覚め
確かに心臓は以前にも増して元気活発になり、ドクターには怒られるかもしれませんが、酒にも強くなりました。ただ誰かが言ってましたが、「目の前のリスクを遠ざけた結果、新しいリスクを背負い込む」ということで、毎日欠かさず飲まなければならない薬があったり、けして口にしてはいけない食物があったりします。社会的にも身障者の扱いとなり、上野動物園や各美術館等が無料で入場出来る、JRやメトロが半額で利用出来る、といったメリットもありますが、たとえばマンションを購入するときにローン申請が降りなかったりするデメリットがあります。まあ今のところメリットを活用するケースが圧倒的には多いです。