20240904-花小金井 偏差値40から72の奇跡

0 一浪目

 僕は、二浪した。
 生まれは、北海道別海町西春別という僻地。僻地とは、その土地で一般市民が生活できるかを、国が試した土地である。そこから、姉たちを追って釧路江南高校(偏差値50)へ出て下宿をしていた。だが、ろくなビジョンもないものだから、勉強もせずに、ギターに夢中になり、成績はいつも最下位争い。それでも、いつかフォークの世界で食っていけることを夢見てた。だが、いつまでたっても上手くならない歌とフォークギター。いつのまにか高校生活も残りわずかなって、流石に尻に火がついてきた。このままじゃいけないと。よくて、酪農家の婿養子。最悪、土方でその日暮らしの未来しか見えてこない。
 まず、一浪目に、札幌の代々木ゼミナールへ行った。ここならば有名な予備校で、校長はあの『地球のマグマが……』で有名な地球物理学の竹内均。誰でも信じるだろう。
 しかし、授業が始まると愕然とする。大教室に大量に詰め込んだ受講生と、訳の分からないことを大声で熱唱する講師たち。とても、まともな神経では付いていけない、そう思ったのは、僕だけじゃなかった。同じ青雲寮の仲間たちの青ざめた顔を見てそう思った。(大体、あれじゃ質問があったときに、順番待ちをしてる間に、日が暮れる)
 それで、なにか対策を考えればよかったのに、もともと劣等生の僕たちにできるはずはなかった。それができれば、こんな予備校を頼ったりしない。すぐに近所の雀荘とパチンコ屋を見つけて、毎日通った。この世界で食っていけることを夢見て。ほんとバカだと思う。この世界で食っていけるのは極限られた人たちで、凡人に毛が生えたような僕たちじゃない。精々仲間内で自慢すればいいのにと。今思えば、現実逃避だった。

 どんな風に勉強したのかというと、例えば、
(1)カンチャンやペンチャンをいつまでも持って、振り込んでしまった場合。
 早めに手を決めて、余計な待ちを持たず、安牌を持つ。当然、手牌はスッキリしたものとなる。
 だが、カンチャンやペンチャン引くこともあるだろう。そんなときは、付いていないから振り込みに注意する。
 ここで例外だが、チャンタの時はこの限りではない。
 ※尚、これは、後にプロも言っていたことでもある。

(2)配牌がわるい場合。
 きっと今回は、上がれないから、一九字牌をあつめて、いつでも降りられるようにする。一晩中、頭使って打つのは大変だから、たまに休憩も必要。
 まれに、国士無双が上がれる。

(3)リーチ一発で振り込んでしまった場合。
 一発が付くので、払う点棒は2倍。できるだけ、一発は避ける。特に、引っ掛けはダメージが大きいので、一発目は切らない。

(4)一通や三色にこだわり過ぎて、上がれない場合。
 一通や三色にこだわり過ぎると上りを逃すので、両面待ちにこだわる。

(5)ノーテン罰符を取られすぎる場合。
 普段から、クイタンしやすいように、一九字牌を面子の中に入れないようにする。
 また、役牌のみでも上がることを想定して打つ。

(6)なかなか勝てない場合。
 初めは、安くもいいから、上がることにこだわる。2、3度小さい手を上がって上り癖を付けておけば、大きい手が入る場合があるので。
 いわゆる、上り癖。

 というように、ひとつひとつの事象をノートに書き記した。そのお陰で、瞬く間にうまくなった。
 しかし、仲間内の三人(面前の鬼、清一色の鬼、引っ掛けの鬼)には歯が立たなかった。何が違うのだろうと後ろから見ていると、読みが的確で、その読みを信じていることだった。言い換えると、行くか降りるかを間違えないことだ。それも、レーダーで敵を捕捉するように、正確にだ。センスとも思える能力に、愕然とした。そんな物、僕は持っていないからだ。
 麻雀とは、どれだけ上がるのが多いかを競うゲームではなくて、例え一回の上りでも、半チャン終わったときに、敵よりも多い点棒を持っていた方が勝ちなのだ。
 そして、打つ間に、いかに自分の印象を植え付けるかが、大事だ。
<この相手は、自分の当たり牌を的確に当てる。だから、この相手からは当たり牌が引き出せない>
 あるいは
<この相手は、自分の余り牌を的確に当てる。だから、この相手には勝てない>
 というような印象を相手に与えたら、もうこの相手には、負けない。だが、それもセンスを持った者の前では、すべてが無意味なのだが。。。

 その他、人生で一度だけのツキに巡り合ったのは、もう秋になろうかとしている時だった。その日は、仲間内で、惰性のような麻雀を打っている時だった。確か相手は、偏差値が高めの格好イイ男、清一色の鬼、それに面前の鬼。
 東風一局で、僕がノミ手で上家の親を流して、親になった時だった。僕はダブロンで連荘をした。それも、ダブロン相手の上りを抑えて上がったのだ。そんなダブロンを連続で計7回もしたのだ。パー連荘、一歩手前で上がられたので、悔しいという気持ちは確かにあったが、ダブロンが何時まで続くんだという気持ちが勝っていて、正直ホッとした。尚、この時は普通に打っていて、わざと上がりを逃したのではない。あのままパー連荘を上がったら、悪魔に魂を取られたかもしれない。
 その間に僕が上がった手は、安手とはいえたまに満貫もあったかもしれないので、東風二局目にして五万点ほどになっていたと思う。
 だが、それ以降、僕の手は上りには届かなくて、半チャンが終わってみれば、僅差の二着だった。いいところまで行って負ける。まるで、僕の人生を予感させる出来事だった。

 イカサマについては、練習したことはあるが、実戦では、仲間内であってもしたことがない。きっと、バレるのが怖くって、イカサマをしなかったのだろう。
 あれは、12月下旬の雪が降っている時だった。突然、老雀士の笑い声が響いた。振り向くと、大人たちの卓で、老雀士が両手に牌を持っていたのだ。あれは、エレベーターという技で、捨て牌に合わせて待ち牌を無数に変えられるという技である。
 しかし、2牌を山からもって来るとき、一瞬だが見破られる恐れがある。老雀士ほどの腕があれば、バレるはずがないが、年老いたのか。しかも、あの卓ではヒラで打つことが、暗黙の了解になっている。それは、学生に恐怖心を与えないためだ。それをも覆すほどの緊急な入用があったのだろうか。その晩から、老雀士の姿は、見えなくなった。
 後に、老雀士の小さな焼き鳥店に食べに行くと、「生きてりゃ、いろんなことがあるさ」と言って、その時の言い訳を避けた。この老雀士も若いころ、ジュク(新宿)辺りで、肩で風を切って歩いていたのかも知れない。

 成人式が明けた共通一次の当日に、三人の仲間(面前の鬼、清一色の鬼、引っ掛けの鬼)が玄人たちの通常のレートで挑み餌になり、受験料という名目の授業代を数十万払った(ひとり最高額80万だから、単純計算で20校を受けたことになる)。僕は彼らほどの腕じゃなかったので、玄人たちに挑めなかったというのが本当だ。これが、僕が一年間必死で勉強した結果だった。
 そのころ鍛えた腕は、大学や会社の仲間内じゃ数人を除いていつもトップだった。大学では、役満の上がり放題。会社では、黙って打てと言われて10万以上勝ってしまって、僕の勝ち分をチャラにして、それ以来打っていない。

 パチンコについては、高校時代はしたことがなかった。見よう見まねで零戦をやってみる。いきなり、羽が開いてザクザク出てきた。それを、見ていた隣りオヤジが言った。
「ビギナーズラックだね。おめでとう」
 その日以来、チョクチョク行くのだが、出たり出なかったりと、成果は今一つだった。しかし、プロによると僕は目が良いようで、少し釘の変化が分かるらしい。だが、それで得したことがなく、永遠と回り続ける遊び代を見つけるだけだった。台の強さは、釘だけじゃなく、ROMの設定によるものだから。ようするに、パチンコ屋が気に入ったお客の台を出すか、強い台を決めるのだ。

 ここで、唐突だがピッチングの話である。、これは眼鏡をかけたトッポイ男(面前の鬼)が、ある日、ピッチャーのグローブ1個と、キャッチャーのミット1個を持ってきた。趣味なのか、高校時代野球部だったのか分からないが、僕が高校の途中まで軟式野球をやっていたというと、キャッチボールをしようと言った。
「最初は、軽くね」
 と言っておきながら、奴の球はすぐに120kmにもなったように感じた。こちらも負けじと、速い球を投げる。すると、奴が片膝をつき、キャッチャーの補給体制になった。迷わず投げ込んでみる。ズバン、といい音がした。高校時代に計った球速は、120kmだから、それに近い球速が出てると思った。
 投げ込むごとに、もっと早い球が投げたくなった。もっと、左腕を振ってみる。いい感じで、右腕が出るようになった。
「もしかして、ピッチャーだったとか?」
「いんや、マウンドさばき、分からないから」
 これまで、球速を計ってソコソコ速い球がいっていると分かっていたが、それは高校時代に軟式野球をやめた後だった。だから、試合では一度も投げていないし、ピッチャーとして正式に訓練したことがなかったので。
 僕は、たった20球程度でヘバッテしまった。その日から、朝の麻雀明けにピッチングをするようになった。変化球は、このときにいろいろ試したが、カットボールが少し曲がるくらいで、ほかは駄目だった。指導者に習ったことがなかったので。
 それから2年後、ゲームセンターで球速を計ると、143kmが出た。ろくに練習もしていないのに、3回もだ。
 もしも、僕がプロ野球選手になっていたなら、きっと恩師を面前の鬼だと、言っていただろう。だが二浪して、曲がりなりにも千葉の大学に受かってしまう僕には、リスクを考えると、プロにはならないだろう。どうせ、二軍で何年か過ごしたら、実はゲームセンターで計った時が最速だったいう可能性もあるので。
 しかし、千葉の大学に落ちていたら、入団テストを受けて、プロになっていた可能性は、決してゼロではない。

 あの頃、よく行った喫茶店のマスターとママさん、お世話になった青雲寮の寮母さんたち、悩みを聞いてくれた老雀士。思えば、沢山の人たちと巡り合った。その人たちに感謝をする。

 そういう訳で、二浪目に行った予備校は、東京の早稲田ゼミナール。ここは、兄の探してくれた予備校で、元早大の教授もいる少人数制のまじめな予備校だった。


1 花小金井、寮の隣人

 1982年、東京都小平市花小金井。そこへ僕は下宿した。牛が人口の10倍ほどもいる北海道の別海町出身の僕にとっては、何もかもが新鮮だった。例え、釧路や札幌で免疫が着いた僕でも。
 西武新宿線の高田馬場までの30分の息もできない満員電車。空高くそびえる高層ビル。流行りのファッションであるく若者たち。エアロビで汗を流す女性達のデモストレーション。
 そんな都会で初めて話したのは、早稲田ゼミナールの寮(名前を完全に忘れてしまった)の管理人夫婦だった。旦那さんは、普通の体格だが、パンチパーマに薄く白髪があって、サングラスが板に付いている、ヤクザのような風貌だった。しかし、物腰は柔らかく、言葉使いの優しい人だった。そして、奥さんは眼差しが優しい人で、二人はよく似合っていた。一度も確かめなかったが、夫婦は寮のオーナーだと思う。
「田口君? よく来たね。僕は管理人の青木です。そして、妻だから」
「よろしくね、田口君」
「田口新です。お世話になります」
「北海道から随分かかったんじゃない? 疲れたでしょ?」
「いいえ、それほどは」
「そう、若いんだね。じゃあ早速、案内するね」
 旦那さんのあとについて、寮の紹介をしてもらいながら、これから僕の住む住居に案内された。二人一組が隣の部屋に住む、コテージ風の建物がいくつも並んでいる。そのひとつに着いて、旦那さんはドアを開いた。
「北野君、こちらは田口君。仲良くしてね」
 そう言って旦那さんは早々に行ってしまった。多分、新しい寮生の受け入れに忙しいのだろう。
 左の部屋で、段ボールの荷物を解いているずんぐりとした人物は、手を止めて部屋から出てきた。その風貌は、角刈りの白髪交じりで、僕と同じ銀縁のメガネを掛けている。はじめ会ったときは、ひとつ下の19歳だとは思わなかった。
「初めまして、わしゃ北野勇作。高知の安芸の出身じゃ。どうぞよろしゅう」
 そう言って、右手を差し出した。
「僕は田口新。北海道の僻地、別海から来ました。どうぞよろしく」
「え! 牛の町、別海やて? 毎日、牛乳飲んで牛肉食べているんか?」
「うちは確かに酪農やってるけど、そんなに毎日は食べないんだ。ごく普通の食生活だと思うよ」
「そうか、酪農家かー。牛も土地もようけ持っているんか?」
「牛が80頭で80ヘクタール。1ヘクタールが100x100mだから、とんでもなく資産家だと思うけど、1ヘクタールが50万くらいだからたいしたことなくて4千万。そして、大規模化と機械化で数千万の借金があるみたいなんだ」
「……そうか、どこも大変なんやな」
 お互いに、しんみりしてしまった。酪農家は、裕福だという思う人が多いから、実情を話すことにしている。変な、ねたみやわだかまりを生まないためだ。 
「うちは、代々造り酒屋で、酒を造っている。経営は苦しくて、樽をやめてホーローにしようかともめている。樽は独特の深みはあるが、品質が安定しない。父と祖父がもめて、取っ組み合いの喧嘩や。そんな場合やないのに」
 そういうなり、北野は少しの間黙った。きっと、今も思い出して、心痛んでいるのだろ。
「そんな中、わしゃは役者になるために、親をだまくらかして東京にでてきた。目標は早稲田の第二文学部。役者を多く出しているところや。どうや、親不孝やろ?」
 そう言って北野は、自嘲するように、乾いた笑いをした。造り酒屋もいろいろ大変なのだなと感じた。
 そして、いきなり志望校宣言。たしか夜間で偏差値60のとこである。理系の偏差値40の僕には、堂々と志望校を言える北野が、うらやましかった。
 僕の志望校は偏差値60の東京理科大。夏目漱石が教鞭をとったことのある大学で、昔は東京物理学校と呼ばれていた。そして、そこは私立のくせに、学費が非常に安いところだった。
 あのころ、実家は決して裕福ではなかった。その上、3人の姉兄たちは、みな大学に行っていたので、両親は酪農のほかに副業をして仕送りに苦労していたのだ。
 そんなだから、大学に行くには、理科大しか選択肢がなかった。国立大は、今までろくに勉強をしてなかった僕には、どうひっくり返っても無理だから。
「郷里は岩崎弥太郎の生地じゃが、わしゃは坂本龍馬が憧れなんじゃ。役者になって、世の中を変えるぜよ!」
 思わず拍手をしてしまう。北野は、腰を折って役者がするような挨拶をした。しかし、風貌はズングリムックリで岩崎弥太郎の方が似ていた。
 北海道は、歴史が浅く、古い建物や偉人にあこがれる。その中でも坂本龍馬は、日本を代表するひとりとして、僕も強く印象に残っている。そんな土地から来た北野を、又もうらやましく思った。
 それにしても、北海道と高知が東京で出会う。お互いに、ずんぶん遠い所へ来た。果たしてふたりとも志望校に引っかかるかわかわからないが、あらためて握手をして、お互いにエールを送った。もちろん、役者の成功も期待して。
 30分ほど話して、お互いに荷解きをする。机、本棚、タンス、ベッドなどが個室にそなわっているので、荷物はすぐに収まった。
 そして、ふたりの共有スペースには、洗面所、トイレ、ガスコンロ、小さい冷蔵庫、茶だんすがある。カップラーメンを好きなときに食べられるという、便利さなのだ。風呂は別棟の20人は入れる大浴場に入りに行く。
 荷解きの最後に、ラジカセを出して、テーブルの上に置いた。
「あれ、ラジオ聞くの?」
 いつの間にか、覗いていた北野が、眉を寄せる。
「クラシック音楽だけだよ、聴くのは。話に夢中になると、勉強にならないし。それに、クラシック音楽は頭にいいって言うし」
「そうなんだ。俺にも聞かせてくれ」
 ホッとした。但し、音量は控えめにと、追加される。
 頭がよくなる本によると、クラシックのピアノを習ってる人は、おおむね高学歴だという。単に頭のいい親がピアノを買えるほど裕福で、子供が頭がよかったのかもしれないが、クラシック音楽を植物に聞かせると、成長が良いことからも、自分で試すには十分だった。

 春休み中、家にあるカワイのアップライト・ピアノ(ピアノは母の夢で無理して買った)に向かい、教本の最初、バイエルを弾いた。思ったよりも、簡単に弾けてしまう。きっと、姉や兄の弾く音を覚えていたのだろう。それに、小5のとき土方のアルバイトをして買ったフォークギター、ヤマハのL6を弾いてるせいで、指が動いてると思った。
 どんどん弾けて、すべての教本、バイエル、ブルグミュラー、ソナチネ、ソナタまで弾けてしまった。この間、1か月弱。今思うと、すごい集中力だと思う。起きてる間、食べる以外はずっとピアノを弾いていたから。
 調子に乗ってベートーヴェンのピアノソナタ「熱情」と「月光」を弾いてみた。熱情ははじめから弾けなかったし、月光は第1、第2楽章はどうにか弾けたが、第3楽章はまったく弾けなかった。なんなんだ、この教本は! 全然、弾けないじゃないか! 教本を床に投げすてた。ソナタの教本を弾ければ、ベートーベン ピアノソナタ「熱情」も「月光」も弾けるものだと信じてたのに。この辺が馬鹿。
 それは、そうだろう。練習時間が10000時間と言われる難曲である。1時間や2時間で弾けるはずもない。初見で月光の第三楽章を弾ける奴がいたら、ぜひ教えてほしい。でも、世の中の天才は、1時間や2時間で弾いてしまうのかも知れないが。
 あのころ、それを知っていたなら、と思うこともある。しかし、千葉の大学にどうにか引っかかった今となっては、知らずによかったと思う。20歳から弾き始めたピアニストは、クラシック界ではいないであろうから。
 それにしても母は、なぜ僕にピアノを習わせてくれなかったのだろう。もし、習っていたなら、有名なピアニストになれたかもしれないのに。でも、それはないか。この指は速くは弾けないから。

 とりあえず、頭がよくなる本を信じて、クラシック音楽のテープとラジカセを、寮に送る段ボールにつめた。


2 予備校選びは成功

 朝7時に起きて、空を見上げると霧雨だった。昨日、傘を買っていてよかった。
 7時半、食堂に行ってトレイに乗った朝食をいただきますと言って、好きな席に座っていただく。総勢40人ほどが食べられる学食のような食堂である。食事はとてもおいしかった。この朝食を食べるために、朝が弱い僕でも遅刻が一度もなかった。
 ちらっと眺めて知ってる顔はいなかった。北野は、もう食べたのだろう。随分、早いなと思う。できる奴は、何事にも余裕を持つものだと感心する。しかし、これ以上起きる時間が早くなることはなかった。
 8時に寮を出て、西武新宿線の準急電車に乗る。初めての電車通学は、満員電車に揺られてとても疲れた。大体、見目麗しい乙女たちが、19才のやりたい盛りの男子の脳髄を刺激して、なにもできないなんて、……拷問だ! 電車が高田馬場につくと、疲れを忘れてしまった。
 改札を抜けると、一面の霧だった。見通しが悪かったので、ガスだったかもしれない。東京でガスなんてと思うが、雨、そして河が幾本も流れる三角州のような地形では、不思議ではない。東京のガスも、故郷の別海のガスも、同じ匂いだと感じる。深く息を吸って、それを確かめてみた。思わず口が動く。
 母さん。僕は、東京で生きてゆくよ。

 前日に、寮から予備校への道を下見したので、予定通りの時間で着いた。少し高いところにある早稲田ゼミナール高田馬場校。1階がエントランス、2階以上が30人ほどが入る教室のおよそ5階建ての白壁の建物。この校舎で僕は一年間勉強する。緊張で身震いした。
 私立理系コースの授業は、英語から始まった。40才位の男性教師が、文法の基礎をひとつひとつ潰してゆく。そのひとつひとつが、実に合理的な教え方だ。この分なら、苦手な英語も伸びると思った。
 2講目は、数学だった。数学の老教師はすばらしく、わかりづらい問題をまるで簡単な足し算のように解いていった。
 早稲田大学を定年までつとめ、その後、予備校に高収入でまねかれたそうである。バイタリティに満ちていた。
「数学は美しく解かねばならない。どうだ、僕の答えは美しいだろう」
 そんなことを言って、ハイライトを吸いながら、ハゲ頭をポンポンとたたく人でした。
 今でも、顔が思い浮かぶ先生で、生まれて初めて数学の模試で100点(偏差値76)を取らさせてくれた先生だ。とても感謝しているが一度もお礼に行ってない。もう、亡くなったと思うが、この場を借りて言いたい。ありがとうございました。
 3講目は、化学。この人も高齢で、化学方程式に線を引いて、わかりやすく教えてくれる人でした。
 物理は、1年間では伸びそうもないので、そうそうにすてた。簡単に書いたが、物理ができる方が、進学の幅ができて、電子工学、機械工学、等の方面にも行けて、非常に興味をそそるのだが、苦渋の選択だったのだ。
 一日を終えて、帰り支度をする。予備校選択は、成功だと思った。

 寮に帰り、おいしく夕食いただく。頭を使ったせいだろう、お代わりをした。あの頃、体重は計ったことはなかったが、きっと筋肉が着いて増えていただろう。
 夕食を終えロッジに戻ると、隣の北野の電気が点いていた。ただいまと声をかけると、おかえりと返事があって、ふすまが開いた。
「どうだった、先生は?」
「数学の先生が、すごくよかった。英語と化学も、マーマーよかった」
「そうか、よかったね」
「北野は?」
「どうだろ、普通かな。でも、嫌いなタイプの先生じゃないから、いいのかな……」
「いいと思うよ。僕の先生も冴えないオジサンだったけど、不思議と頭に入ってきた。それは、嫌な印象を与えないからじゃないのかな」
 気休めかもしれないが、とりあえず励ましてみた。どうせ、講師は選べないから。
「そうか、そう思うと元気出てきた。頑張ろう」
 そう言って、北野はお礼にエロ本を差し出し、隣の部屋に消えた。プレイボーイだった。
 このときから、エロ本の貸し借りが始まった。北野のお気に入りは、平凡パンチの児島美ゆきだった。泥臭い顔に、むっちりとした体。お尻の軽い田植えをするお姉さんだと思った。僕のお気に入りは、河合奈保子だった。むちっとしていて、胸とお尻が萌えた。

 部屋に帰って、ベートーヴェンを聞いて目をつむると、一日の疲れがどっと押し寄せる。ちょっと横になると、眠ってしまいそうになる。眠気覚ましに、コカ・コーラを自販機で買ってきた。効果抜群で、復習ははかどった。特に数学が先生の言葉とともに浮かんできて、2回書くと覚えてしまった。
 それでも、集中力が続いたのは、1時までだった。隣の北野はまだ起きているみたいだったが、僕はメガネを机の上に置き、ジャージで眠った。


3 青梅街道の暴走族、私立理系の友達

 いつからだろう、暴走族の騒音が気になりだしたのは。地図で確かめると、寮から青梅街道の距離は、数十メーターとわずかだった。よくも、こんな所へ予備校の寮を造ってくれたなと、恨んでももう遅い。青梅街道はよく暴走族が出没する道で、騒音が酷いところで有名なのだ。こんな場所だと知っていたなら、違う予備校にしただろう。
 しかし、どんな道でもすくなからず暴走族がいるものだとしたら、仕方がないのかもしれない。それに、寮の敷地は寮の管理人の土地で、前は工場か何かだったのかもしれないと考えると、溜飲が下がった。
「頭来るなー、暴走族」と僕。
「ほんとにね。他にすることないのかな」
「ロープ張って転ばすのは?」
「それ、ヤバイよ。警察に捕まっちゃうよ」と僕たちは悩んだ。
 その日はいつものように暴走族がうるさかった。夕食後、18時にふて寝をすると21時に目が覚めた。もう、暴走族の騒音は聞こえない。机に向かってみると、思いのほか頭が冴えて、いつもの復習がはかどった。しかし、4時頃に再び眠気に襲われ、7時まで眠った。睡眠時間の合計は、いつもと同じ6時間だった。
 大体、このサイクルを受験の日まで続けた。予備校の疲れも取れて復習できるし、暴走族の騒音も熟睡してるから聞こえない。そして、復習の疲れが取れて、予備校の授業が頭に入る。いいこと尽くめだった。
 これを、睡眠時間分割法と名付けた。誰にでも合うとは思わないが、僕には合った。暴走族に、感謝する。
 このことを、北野に教えると、しばらく考えて、
「わしゃは、やめとくよ」
 と言った。 
 ところで、早稲田ゼミナールを見つけてくれた兄は、こんなこと思ってこの予備校を選んだのだろ。成績の低い生徒でも受け入れてくれるところ。少人数制で授業の聞き取りやすいところ。勉強方法や受験校選択に相談に乗ってくれるところなどである。
 確かに予備校の選択はよかったが、寮の場所が前述のように悪かった。それさえよかったなら、もっと偏差値が上がったかもしれない。だが逆に、睡眠時間を分割しないで成績が伸びなかったかもしれない。正解は数学のようには、いかない。

 予備校生活も1か月すぎて5月になったとき、僕にはじめての私立理系コースの友達ができた。多分、予備校の疲れをまぎらすために、友達が必要だったのだろう。言わば愚痴を言い合う仲間だった。
 その友人は、僕と同じ西武新宿線で、所沢から通ってた自宅組だった。どうでもいいことを話して帰りの電車通学の時間を過ごした。ある時などは、BIGBOX前でデモをしているエアロビのお姉さん達のはち切れんばかりの股間に目を奪われた。又ある時は、合格したら外人の恋人を作って、英語を習う夢を語った。そんな風に、勉強疲れをいやしていた。
 その日、友人は体調が悪かったのか、帰りの電車で座るために、一駅前の西武新宿駅に行き、並んでいる列の前に割り込みをするという技を見せた。その行為はすぐに駅員に見つかって、ふたりは駅長室に連れていかれ、大目玉を食らったのだ。一駅の無賃乗車と、列の割り込みという罪だった。
「どこの予備校だ!」
「親を呼べ!」
「警察に行くか!」
 などと厳しく言われ、僕たちはすぐに声を上げて泣いた。反省したと思ったのか駅員は、僕たちに「もう、するんじゃないぞ」と言って、冷たい缶コーヒーを渡し、僕らはどうにか解放された。社会のルールを始めて意識したときだった。
 さらに、このあとの模試で僕がちょっといい偏差値を取ると、僕と距離を取るようになった。その後、彼がどこの大学に受かったのかわからない。名前も覚えていない友人だったから。以後、予備校の友人は作っていない。
 こんな僕は、冷たい奴かもしれない。


4 復習の鬼

 この頃の3教科の偏差値は、50前後であきらかに応用問題ができなかった。それは、授業で主に基礎をやっているせいだろう。基礎は、確実に身についている。焦らないでいこうと思った。
 この頃になると、周りで時々起こる議論にも付いていけるようになった。
「この問題は、Aの公式を使うんだっけ?」
「いや、そこはBの公式が当てはまるよ」
「そっか、ありがとう。昨日解けなくて、寝不足になったよ」
 こんな会話の意味が、6月なってようやく分かってきた。そうなると、議論を聞くだけではなくて、口を出したくなる。
「そうかな? 僕はCの公式を使うと思うけど」
 そんな僕の言葉に、周りの人たちは顔を見合わせ、冷笑をした。しまった、調子に乗って的外れの意見を言ったのだろと思い、恥ずかしい気持ちだった。だが、次の模試で僕の偏差値が、僕を冷笑した者を抜いた。どうやら、僕の方が正しかったようだ。
 大体、問題を解く作業なんて、受験には必要ない。問題の解き方を覚えればいいのだと、思っていた。僕は、この作業を完全に覚えるまで何度でも書いた。
 そして、試験問題を見て解き方が分からないときは、その問題は捨てればよいと思っていた。土台、限られた時間の中に、考える時間はないほどの問題数なのが受験なのだから。そして、分からなかった問題の解き方を覚えるのだ。
 しかし、世の中に天才はいるもので、初めての問題でも、スラスラと解いてしまう者がいる。そういう者たちには、凡人の僕などは、バカに思えるだろう(理科大で卒研が一緒だったSY君IQ130?)。しかし、天才が、全員真面目な勉強家とは限らない。IQ180の友人を見てそう思った(高校時代の友人HA君)。
 それと、来年に遭遇する理科大の神楽坂での受験でも、天才を求めていることが分かった。なぜ、よりよって来年なんだと思う。いつもの問題なら、本命も受かっていたのに。もしかして、2浪目の罠か?

 雪印のバニラアイスにコカ・コーラが僕のお気に入りだった。そして、西武球団が前期優勝した時に西友で買ったNEC製の扇風機。これで東京の暑い夏を乗り切った。隣の北野は、「いいなー」と言って翌日、西友で扇風機を買ってきた。
 そう言えば西武球団の前期優勝で思い出す。高校の途中まで軟式野球をやっていたことを。中3のころ家にお金がないために体が157cmと小さくて、硬式野球をあきらめてのことだった。あのころ、少しの勇気があればと思う。下宿生活に入った高校時代には、すぐに170cmになり、大学1年のころろくに練習もしてなかったのに、ゲームセンターで球速が143km出てしまったから。それも3回も。
 だがもう遅いと思った。受験に失敗した僕の体は、不摂生でボロボロだったから、とてもプロ野球の練習にはついていけない。だから、体も作り直すこともできないと。それに、大学をやめてプロ野球に挑戦するほどの才能はないと思った。などと、言い訳をして挑戦しなかった。
 だがそれは結局、僕に勇気がなかったせいだろう。


5 バイオリン工房

 7月の梅雨が明けたある日、予備校のベランダで休憩していると、バイオリン工房をみつけた。こんな都会でやっているのかと少し驚く。僕の印象では森の中でやっているものだと思ったから。
 5階建てのマンション最上階、日当たりのいいテラスで、アゴヒゲをはやした人が、丁寧にニスを塗っているところだった。そして、全体に塗り終えると次のバイオリンを塗ってゆく。その作業を延々と続けていた。
 色の薄いのがニスの回数が少ないようだ。色が濃淡なバイオリン、ビオラ、チェロなどに囲まれ男性は、青の繋ぎを着てまるで異国の人のように思えた。
 あるとき、男性は出来上がったばかりのバイオリンを弾いた。その音色は、どことなく硬かったが、素人の僕にもわかるほど美しかった。そして、美しいバイオリンに囲まれて、幸せそうに見えたのだ。
「いいなー、僕もバイオリン工房で働いてみたいなー」
 と思わず声に出てしまいそうになった。
 すると、隣でタバコを吹かし、バイオリンの演奏を聴いていた予備校生が言った。
「俺もだよ。そしたら、受験勉強をしなくていいから」
 ふたりは、たがいに笑ってベランダを離れた。
 そうか、これは逃げなのかと思ったが、それもありかなと。それにしても、奴は超能力者と思ったが、僕の表情を見てのことなのだろうと考え直した。
 しかし、バイオリンも弾いたことがない僕が果たして食べてゆけるものなのか、と考えた。予備校をやめて弟子入りしても、一人前の職人になるには幾年もかかるだろう。その上、腕のいい職人になる才能が果たして僕にあるのか疑わしい。そう考えると、予備校をやめてこの世界に足を踏み入れることは躊躇してしまう。大学に入って弟子入りして、才能があるかどうかを確かめる、という都合のいいことを自分勝手に考えていた。
 今思えば、馬鹿な妄想だと思う。大体バイオリンを弾いたことがない人間ができる職業ではない。おとなしくフォークギター作りに挑戦すればいいのにと。しかし、フォークギターは作る気はおきない。やはり、バイオリンがいいのだ。
 結局、妄想は夢で終わり、東京の志望校に落ちた僕は、遠い千葉の大学へ進んだ。

 その大学で出会ったのはクラシックギターだった。開け放たれたセメントブロック作りの4畳ほどの部屋で、パイプ椅子に座って、バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の「シャコンヌ」を弾いていた。バイオリンではなく10弦のクラシックギターで奏でるその音は、荘厳で美しかった。特に低音弦がフーガを美しく刻み響いていた――バイオリンにも負けないほどに。
 演奏が終わるまで15分ほど、そのバッハのような天然パーマのごつい男の演奏に聞き入った。
「どう、うちの部に入る?」
 とニコニコとした顔で言われ、すぐに「はい」と言った。
 それからというもの、僕はクラシックギターに夢中になり、バイオリン工房をあきらめた痛みは、少しずつ薄らいでいった。


6 有頂天

 8月になり、急に3教科の偏差値が57にあがった。多分、応用問題に入ったせいだろう。特に、数学が上がった。
 そうなると、勉強が楽しくなり、勉強がはかどる。そのせいなのか益々偏差値が上り10月には、3教科の偏差値が一気に72になって、規模は小さいが全国で1位だった。数学が100点で偏差値76、化学が98点で偏差値68、そして英語の偏差値が62だった。数学の模試で生まれて始めて100点をとったのだ。
 それを確かめるように、志望校の赤本の5年間の過去問を、時間を計って解いてみると、ほぼ満点だった。ついでに、昨年の共通一次のうち英数化の3教科をやってみると、これもほぼ満点だった。これで、志望校には絶対に受かると思った。さらに、あと1年浪人して東大に挑戦しようか、それよりも医学部にしようかなどと考えた。
 このあと、予備校から話があり、早稲田ゼミナールの私立理系コースから早稲田大学正門前校の慶応早稲田コースに移らないかと言われた。その誘いはうれしかったが、環境が変わることを恐れて、断ってしまった。それに、もう10月だしいまさらと思った。あとで思うのだが、もしかして上級コースでは、新しい問題を習うのではと。
 その後、模試で全国1位になることは多分なく、偏差値65前後を行ったり来たりした。

  その勢いで、2月の受験シーズンに入った。まずはじめは、本命の東京理科大理学部化学科(偏差値63?)。入試当日、花小金井の寮から飯田橋を目指す。体調はいい。忘れ物はない。工場のような受験会場について息を吸い込む。いつものように集中できてる。と自分に案じかけるようにした。
 だが、いざ試験が開始すると、まったく解けなかった。それは、出題の傾向が変わったのか、見たことがない問題が出たせいなのか、プレッシャーのせいなのか、それさえもわからなかった。ただ、時間だけがジリジリと過ぎていった。結局、数学がまったくダメで、英語も化学も多分ダメで、当然のように不合格だった。のちに思うが、きっと、絶対受からなければならないというプレッシャーに、負けたのだろう。僕がチキンということだ。
 さらに、ガッカリしたせいか、東京理科大理学部応用化学科(偏差値61?)と東京理科大工学部工業化学科(偏差値61?)にも落ちてしまう。結果、神楽坂は全滅で僕の1年の苦労が無駄になった。試験日にやっていた東京国際マラソン(1983.2 2:08:38当時日本記録)で快走をする瀬古利彦のように、足早に幸運の女神がすぐ近くを通り過ぎて行った。そして、東大を受ける夢も、医者になる夢も、完全にあきらめた。自分はたいしたことはない人間なんだと。
 こういう時に、凡人と天才の差が、はっきりと分かるのだろ。自分はどこまで行っても、凡人なのだ。

 余談になるが、東京理科大の神楽坂入試会場に、サリドマイド児がいた。彼らは、2~3人いて、問題用紙を短い手足を器用に使って配っていた。彼らを見て、僕たち受験生は何を思っただろう。「自分にはまったく関係ないこと」。それとも「自分に被害がなくてよかった」だろうか。
 wikipediaによると、サリドマイド薬害事件は、世界では1万人、日本では生きてるだけで309人の被害者が出た。この薬が日本で販売されたのが1958年1月20日から1962年9月なので、恐ろしいことに、僕が胎児だったころにちょうど当てはまる。幸いにも、僕は被害を免れたが、一歩間違えたら僕が被害者になっていたかもしれない。だから、決して他人ごとではない。
 なお、微量の服用によって、どんな障害を生むのかは、僕は医者じゃないので分からない。


7 後の祭り

 そのあと、東京理科大理工学部工業化学科(偏差値58?)の試験が千葉県野田市であったが、東京から遠く離れた田んぼばかりの田舎にあって、まったくやる気が起きなかった。運河沿いをのどかにブルドックを連れて散歩するお爺さんの姿が、40年たった今でも思い出せるほど強烈に記憶に残った。この試験は、力が抜けたせいか受かってしまう。実は、田舎だったこと以外に、行きたくない訳があったのだが、それは言えない。
 この試験のすぐあとに、ツタよく似合う立教大学(偏差値58?)の試験が池袋であって快調に解いていったが、数学の配点が大きい問題の最後に、ケアレスミスをして落ちてしまった。そのことを帰りに寮の近くで気づいて頭を抱えてうずくまった。だから、試験官が再三答案用紙を覗きに来たのかと。時間はあまっていたのに、見直しを怠った、完全な油断だった。
 青山学院大学理工学部化学科(偏差値57?)の試験が渋谷であったが、緊張せずにスラスラ解けたから、多分満点に近い点数を取って合格したと思う。この大学はサザンオールスターズの母校だが、そのせいで偏差値が低く思われて仕方がない。受験当日、渋谷駅の歩道橋を芸能人の誰かが通ったようだが、僕は残念ながら見つけられなかった。
 その他、滑り止めで東京電機大学と東海大学を受けたが、苦も無く受かった。日大も受けたかもしれない。浪人はもうできないから、たくさん受けたのだ。
 結局、目ぼしいところは、理科大の理工学部と青学のふたつしか受からなかった。完全な失敗だった……。いや、凡人の僕には、上出来だろう。
 それでも、どちらかを選択しなければならない。もう、これ以上親に迷惑をかけられない。さて、ここで非常に悩んでしまった。どちらにしようかと。
 東京理科大理工学部工業化学科は偏差値58で、田舎にあって工業高校の化学の免許しか取れないが、初年度の学費が55万と非常に安い。
 青山学院大学理工学部化学科は偏差値57で、初年度の学費が110万と高いが、都会にあって普通高校の化学の免許が取れる。当然、バイオリン工房には近い。
 偏差値が近いことが悩みの発端だった。なによりも、学費と普通高校の化学の免許、そのどちらを取るのかが最大の問題だった。自分が凡人だってことを自覚して、この選択になった。
 グジグジと悩みながら、日本体育大学に行っている兄に、合格の報告行くと、兄は学費稼ぎにパチンコをやっていた(やはり、血は争えないということか?)。僕が千葉の理科大の理工学部に受かったと言うと、兄はパチンコ店に響き渡るような大声で
「理科大! エリートじゃん!」
 自分の弟はすごいと思ったのか、それとも自分は弟に初めて負けたと思ったのか、複雑な声で言った。兄は、中学時代から長距離に秀でて、出る大会にすべてに優勝していた。それが、大学に入ってからは、箱根駅伝の選手にもなれず、くすぶっていたから。
 世間一般では、千葉の理科大でもエリートと言われるんだと思った。学費の安い東京理科大理工学部工業化学科に行くことを、やっと決心した。そして、初年度の授業料55万を払ってくれと電話で母に告げた。あの時の僕の声は悲しみに震えていただろう。それでも、母は何も言わずに払ってくれた。

 この進路を北野に言うと、「すごいなー。俺に青学を譲ってくれ」と言った。彼は、残念ながら早稲田の第二文学部(偏差値60?)に落ちて、法政の第二文学部(偏差値50?)に決めたから。なぜ、彼がそんな所へ行くことになったのかは、分からない。もしかして、どこかの劇団に入って、勉強は二の次だったのかもしれない。彼がその後役者になったのかわからない。もしかしたら、時代劇に出でいたかもしれない。
 寮の管理人にも報告すると、破顔してよろこんでくれた。そのとき、わかった。早稲田ゼミナールでは、たいした大学には受からないと。早稲田ゼミナールは、名前負けだと。
 東京を離れ北海道に一時帰省する日に、早稲田ゼミナールを訪れたが、壁一面に合格者の名前があった。上智、東京女子大(or日本女子大)、お茶の水女子大、法政2部などで、あとは僕が受かった理科大理工、青山のほかに、目ぼしいところはなかった。そう言えば、あの早稲田大学正門前校の慶応早稲田コースは不発だったのだろうか? そんなことを考えてたら、合格の挨拶を忘れてしまった。あんなにお世話になったのに、つくづく自分は冷たい奴だと思う。
 高田馬場の早稲田ゼミナールを後にして、山手線に乗った。新宿、渋谷と目に焼き付ける。そう言えば、観光旅行もしてない。はとバスに乗っておけばよかった。そんなことを、考えてる間に、浜松町に着いてしまった。モノレールに乗ると、女性客が大勢乗り込んできた。慰安旅行かなにかなのか、体をぴったりとくっ付けて熱し線を送ってくる。もしかして、風俗関係の慰安旅行かもしれない。そんな夢のひと時は過ぎ去って、羽田に着くと発着案内板を必死で探して、釧路空港行きの旅客機に乗った。
 こうして、僕は都落ちをして、二度と東京に住むことはなかった。

 あとで理科大の友達に聞かされるのだが、早稲田ゼミナールのパンフレットに僕の写真が載っていたのだそうだ。一度、見てみたかったが、あまりいい思い出はなかったので、それに1時間ほどかかるので、とうとう行かずに終わった。それにしても、なぜ友達は一部持ってきてはくれなかったのか疑問が残る。
 北海道に帰り、釧路江南高校の担任にも報告に行くと、顔を引きつらせて、よろこんでくれた。彼にとっては、なぜ、劣等生の田口が? と思ったのかもしれない。しかも、担任の母校青山学院大学をけって東京理科大に行くなどとは、プライドの高い担任にとってはこの上ない屈辱だったに違いない。
 いずれにせよ、僕は少しもうれしくなかったのに。理科大合格おめでとう言われるたびに、心がひりひりと痛んで、とても笑えなかった。

 ところで、今の早稲田ゼミナールは、私立文系と日大の芸術学部に特化した予備校になってしまったらしい。非常に残念である。


(終わり)

20240904-花小金井 偏差値40から72の奇跡

20240904-花小金井 偏差値40から72の奇跡

51枚。登録日2025/01/31。僕の予備校時代の話。偏差値40から72の奇跡。その成功と失敗。

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  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-01-31

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