「美しい國」
秒針
ホットケエキを食べたかったけれど、綺麗な真ん丸が滲んでしまうのは嫌だったから、少し厚めのジャムトーストと温かいココアを頼みました。
木苺のジャムは私が家で作るものと見た目はよく似ていましたけれど、此方の甘いルビーの方がごろごろと実が残ったりはしていないのでとても食べやすくって絹の飴のようになめらかで、おまけにジャムの下にはバターも予め塗られていますから、ほんのりとミルクの湯気甘やかなまろみと可愛いすっぱさが双子の映し鏡のようにちらちらと顔を覗かせます。温かいココアはよく飲んで馴染みのある砂糖と生クリイムたっぷりではなく、珈琲のエッセンスを数滴垂らしたかのような苦みの濃いものでしたので、私はとうとうココアの淹れられていた珈琲カップの丸縁に涙を零してしまいました。
おもいだしてから、すぐのこと。ココアは紅茶に戻りトーストはホットケエキに戻ってゆきます、星に白く輝く蜘蛛糸で紡がれた大時計のような古い羅針盤が蛾の眠る夜の空の天井へとコトリ音を動かしました。
滅びた王国は、毎日こうして朝を迎えるのです。
トネリコ
王国の名は、トネリコ。嘗て世界樹ユグドラシルを育てるのが使命であった此の国に敬意を表し、その芽が潰えぬようにと祈りを込めて託された名前です。トネリコには魔術使いと妖獣と称される王の獣が共に暮らしていました。妖獣の名前はエスメラルダと言って、ふさふさとした大きい真緑の王冠の毛が頭に生えている白く賢い瞳の獣です。彼は一頭の氷柱から削り出された大きな馬に乗り、下りると背丈は私の腰元までしかありませんでしたが、彼はふわふわと浮遊することが出来ましたので、いつも私と目を合わせられる高さに居るのが常でした。
エスメラルダは植物を咲かせる力と、雪を降らせる力、そして人の心を見通す力を持っています。先に申しました通りこの子は王の動物ですから、決めた一人にしか懐きません、けれどもとても心優しく穏やかな性格ですから、主人以外を冷遇する態度は断じてとりません。昔のトネリコ王国を治めていただけあって、彼はよく古い歌物語を聞かせてくれましたが、今では私を気遣ってあまりそのお話をしなくなりました。王国が滅びたのは変えようの無い悲劇ですが、私は私の生れ故郷、そしてエスメラルダと出逢った場所、シャーロットの流れ着いた土地を愛していますから、涙さえ込み上げなければ何回でも彼の歌う歴史を聴きたいのです。それは彼等も、エスメラルダ達も湖の底は同じでありましょう。
私達魔術使いは、生れ乍らに与えられた力を有します。私の場合は鎮めの湖の力が与えられていました。鎮めの湖の力とは、文字の通り争いごとや揉めごとを仲裁する為の能力を意味し、人々の衝突を和らげる静かな水底の力です。この力がエスメラルダの緑と雪を育む力とても相性が良かったので、私が世界樹の新芽から誕生した際、長年行方の知れなかった王の獣が帰って来てくれたと国中が喜びの穏やかな微笑みに包まれたと言います。その際エスメラルダは一匹の幼虫を連れていました。
その虫は新雪が大好物なアザラシのような見た目の白い芋虫でありました。エスメラルダに大人の魔術使い達が質問すると、この子は国の一番北側にある迷子の海辺でひとりぴいぴいと泣いていたと答えました。白くてフワフワの、到底芋虫には見えない外見だから受け入れてもらえなかったのだろうと思います。その子を憐れんだ国民達は、まだ右左も曖昧な幼い私に彼を渡しました。あの温もりは、今までも私とエスメラルダを安眠させてくれる心の拠り所です。私は彼にシャーロットと名付けました。
私達三人は毎日一緒に過ごし、遊び、学び、くすぐったいイタズラ、雪山を駈けまわり日が暮れる迄はしゃいだこと、澤山の湧き水のように眩しい時間に浸りました。トネリコでの日々は、本当に穏やかなものだったのです。
来訪
或日、国の外から一人の男性がやって来ました。私達はたいへん驚きました。トネリコは来ようと思って来られる場所ではなく、シャーロットの時みたく自然に外から流れ着く、地図に決して分析出来ない、真綿の国であったからです。
男性の名前はマーガレットと言いました。マーガレットは魔術を使う者ではなく、人間でありました。何かの術を使う訳でもないのに、人間がどうして此方にやって来たのでしょう?私達がそう尋ねますと、マーガレットはニコリと笑って快活に話し始めました。
「私が此処を訪れましたのは、貴方がたに是非頼みたい事があるからです。魔術の国に生きる皆様、我々人間と交流致しませんか。」
交流。交流?ひっそりと世界から隠れて世界を動かす樹を守って来た日々しかしらない私達にとって、その言葉は耳に鋭く刺さりました。いぶかしむ国民に、マーガレットは臆せず更に話を続けます。
「不安を感じられるのも無理のないことです。突然訪れた人間の言う事を信じて良いのかとお疑いになるのは賢い皆様であれば当然のこと、交流とは申しましたが、実のところは私達人間を助けていただきたいのでございます。」
助けてほしいと望むものを放っておくなど、魔術使いには生来出来ませんでした。マーガレットの話は人の世界には資源が乏しいので、それを補う為に私達の力を借りたい、そして願わくば人と魔術師の間に交易を結び、末永く交流していきたい、と言うものでありました。トネリコ王はその申し出を受け入れました。そして王の娘である私は、人間をもてなす為の材料を遠くまで摘みに向かう命を与えられたのです。
遠くへ
王である私の母は、私の出立の準備を家臣に任せることなく、ご自身で整えられました。何故そんなに丁寧になさるの、木の実や清水、枝葉や花を摘みに行くのなら私も何度もしてきたではありませんか、と首を傾げる私に、母は微笑み私の頭を撫でました。
「いつも頼んでいる材料だけでなく、今日行ってもらうのは特別な材料の咲く場所ですから、用心の為ですよ。」
特別な材料。私は聞いたことがありません。けれどこの時は見知らぬものに興味を惹かれて早く見てみたいと心急いたのです。
「どのようなものですか、それは。お母様。」
母は答える代りにこう返事をしました。
「実際に見て御覧なさい。貴女ならきっと、必ず分ります。」
いつもの使いの延長の筈なのに、何故母は私を強く抱きしめたのか、まるで、今生の別れでもあるかのように。
エスメラルダの氷柱馬に乗せてもらい、胸にははしゃぐシャーロットを抱いて私達三人は材料拾集へと赴きました。
トネリコは雪の結晶に愛された国です。エスメラルダがトネリコの王であったのも、その特性による結果だったのでしょう、けれどそう考えれば、私は一つ疑問を抱かずにはいられませんでした。
「エスメラルダ。貴方は何故国から離れていたの?」
彼は氷柱の馬の項を丸い手でぽすぽすと優しく叩きながら静かに答えました。
「私がトネリコの国王であった時、傍には一人の魔術使いが居た。その者は春のひだまりの力を持つ者だった。」
「貴方の雪の力とは相性が悪いのでは?」
「トネリコの雪は人の世界に降る雪とは少し違う。人間達の知る雪は温もりに涙を溶かす脆くも儚いものだが、トネリコを愛する雪はすべて温もりが降らす雨のようなもの。だから溶ける時が来るまで日を浴びても湯を掛けても流れて行きはしないんだ。」
「じゃあ…春のひだまりの魔術使いはトネリコの始祖ということ?」
エスメラルダはにっこり微笑んで頷きました。
「雪若はよく勉強しているから理解がはやいね。そう、彼はトネリコの国を生む為に生れた者だった。彼と私はトネリコをおこしてから王として国を愛し民の草葉を想い続けた。しかし或日、彼は一発の銃弾に倒れてしまった。……銃を撃ったのは彼が助けた人間だった。漂流して来たその者の手を握った瞬間、彼は心臓を傷付けられ、二度と私を見ることは無かった。」
太古のトネリコの歌の中で、エスメラルダが歌えなかった過去を私は初めて知りました。そして同時に、何故愛する国から離れ続けていたのかも、感じ取れたように思いました。
「国を離れている間も、貴方の雪が降り続いていたのは、相棒の魔術使いとの大切な場所だったからなのね。」
エスメラルダの頬は温かでありました。その時、シャーロットがひょこりと服の中から顔を覗かせ、私の唇にキスをしました。
「その者の呼び声が聞こえて、千年ぶりに目を覚ますと、雪若。君の生れたことを知った。迷子の海辺は春のひだまりの彼と私が別れた場所でもあった……随分驚いたよ、こんな所でいつまでも何してるグズグズするなと…そう頭をはたかれたような気がしてね。」
「では、シャーロットがエスメラルダを連れて来てくれたのね。」
「そういうことであろうな。」
蛾は口が退化している為エスメラルダや私のように言葉を話すことは出来ませんが、言葉を伝えることが出来ます。けれどその技術は成虫となり羽に氷の鱗粉を纏わせるようになってから覚えるものですので、まだ幼虫の彼には難しいからシャーロットはぴいぴいと愛らしい鳴声とにこにこした表情で私達に感情を教えてくれます。
「シャーロット、もうすぐ翼の孤島に着くからね。」
「着いたらおまえの大好きな新雪をたっぷり使ったランチをしよう。」
故郷を遠く離れて、私達が最初に到着したのは翼の孤島と名の付く無人島でした
廃墟
無人島とは、私達の文化の中に於いて、“昔は人が暮らしていた場所”を意味します。
「人間の世界では意味合いが少し異なるのでしたっけ?」
「そうであるな。人間界で無人島と言えば海に浮ぶ原生林の島を指す。我々は人の嘗て住んでいた今では寂れた建物を指す。人が其処に居ないという点は同じである。」
少し休めそうな隙間をシャーロットが見つけてくれたので、私達は早速お昼ご飯にしました。木の実と新雪をたっぷり使ったサンドウィッチをもくもくと食べるシャーロットを微笑ましく眺めながら夕景の淡いレモンティーを注いでいますと、歌声が聞えてきました。
わたしの金魚 かわいい金魚
あちこち歩いて何處へ行ってしまったの
あなたには頑丈な両脚は無いのに
大きく振るための両腕も無いのに
柔らかい尾鰭で飛べはしない
優しい水槽で眠らないで
如何して雲を追いかけたの
もう一度答えてわたしの金魚
返事を聞かせてかわいい金魚
わたしの金魚 かわいい金魚
歌は繰り返し同じ言葉を続けています。まるで子供の旅立ちを寂しく感じる親の哀歌にも聞えますが、恋人を失った悲しみにも聞えました、いずれにせよ胸を塞ぐ泣声であるのは確かなようで、私は思わずポットを傾ける手を止めました。
「エスメラルダ、あの歌は…」
「無人島の歌だ。」
彼も私と同じような面持ちをして、声のする朽ちた建物を遠く見ています。
「人が恋しいと呼んでいるのね。」
「だがもう此処に人間は戻らないだろう。もう島が、白と灰色の翼に変わりつつある。此の場所もやがて物語の中にしか存在しない架空の土地へと昇天する日も近いであろう。」
翼の孤島。それは天使や鳥達のような美しい羽が雪の如く舞い降る景観を持つ証ではなく、これから跡形も無く雲になろうとする無人島を意味する名称であり、やがては霧へとなるこの動作は、島の意図に関係無く発生するものなのです。
「翼の孤島を無くすことは我々では止められない。」
人間が移動し新たな文化を築くのを止められないように。私はローブの中から水色の三日月形をした小瓶を取り出して栓を開けました。すると廃墟の歌声は瓶の底に白い風船のクッキーとなってころんと沈みます。此れが母の仰有っていた特別な材料集め、魔術使いの中では“読みかえし”と呼ばれる作業なのです。
ガラクタより
私達が日常を温和に過ごしている間に、幾つもの土地が無人島となり、翼の孤島へと羽化していったのでしょう。お腹が満たされてお昼寝を始めたシャーロットを起こさないように気を付けながら、私とエスメラルダは氷柱馬に乗り次の目的地へと移動しました。
次の無人島はガラクタの集められる場所でありました。其処では昔人と生活をしていたであろう道具や器材、人形にぬいぐるみ、おもちゃや本が寂しい歌を語っていましたが、旋律は言葉で聞き取れない歔欷となって低いヴィオラの溜息のような声が街中に谺しておりました。言葉を失くした悲嘆は、もう間も無く羽化するサインなのです。
「雪若、小瓶を。」
呆然とする私にエスメラルダは指示をして、私達の任務を思い出させました。小瓶を出して滴した水晶はやがて黒いシルクハットのチョコチップクッキーへと成りました。
「こんにちは。あなたがたもガラクタになりに来たのですか?」
一番星の金平糖。私達に声を掛けてトコトコ歩いて来たのは、そう名告るうさぎのぬいぐるみでした。その子の片耳は綿がお菓子のようにふわふわと零れ、生地は綿の重さに耐えきれずぺたんと垂れ下がっていたので、エスメラルダは一番星の金平糖の下垂れる片耳に手を当てて、トネリコの古い物語を唱えました。
月影の街、遠い都
瞳を開けて地面を見つめた記憶は何處に
湖水の空はまだ口をつぐむ
莟はまもなく気づくだろう
海の水底忘れじの涙が
夕日影に包まれることを黄昏の喜びを静かに歌え
月影の街、遠い都よ
昔を想う言葉の調べは、一番星の金平糖の耳のほつれを縫い直し、以前のように綿をきちんと閉じさせました。すっかり軽くなった元通りの耳をぴょこぴょこさせるミント色の子兎はエスメラルダに抱きつききゃっきゃとはしゃぎます。
「おまえも一緒に来るかい?こうやって話をしたというのも何かの縁に導かれてのものであろう。」
「うれしい!」
こうして私達の仲間に一番星の金平糖が加わったのです。
「もう喋られるものは貴方だけなの?」
一番星の金平糖は私の頭の上でこくりと頷きました。
「みんな音楽になってしまったの。ねえねえって話し掛けてもヴィオラの音しかしなくなっちゃったから、羽化するまでにもう一度誰かとお話がしたくってあっちこっち歩いていたら、雪若達を見つけたの。」
羽化して空へ舞い踊って昇っていく誰かの故郷を眺めながら、私達四人は次の場所を目指します。
ところで、私は此の時どうも引っ掛かっていることが一つあったので、一番星の金平糖に尋ねました。
「ねえ、先程の質問はどういう意味?」
「先程の質問……ガラクタになりに来たのか、と言ったこと?」
「そう。」
エスメラルダも同じ考えだったらしく、私をちらと見て小さく頷きました。シャーロットは行手をほけっと眺めています。
「噂話を聞いたんです、だから事実かどうかは分らないけれど…わざわざ羽化すると決まった土地を訪ねている方達がいるらしいと、人間が立ち去る前に話していたのを耳に挟んだから。」
「それは我々のことか?」
「いいえ、その方達は全く人間なんですって。エスメラルダさんやシャーロット君のような獣ではない、雪若さんのような魔術を用いる人でもない、昔此処に暮らしていた者達と変りの無い人間らしいのです。
「人がわざわざ翼の孤島へ?」
確認すると一番星の金平糖はまたもこくりと頷きました。
何故人間の世界から存在出来なくなる場所に人間が赴くのか。私は嫌な想像をしました、とても不吉な仮説です。人は、もう生きていくのが嫌になって、本来の命を投げ捨てて踏みつけにし、自分はガラクタだと偽って死んでいるのではないか…あゝ、今、此等の文字をしたためていても手が震えます、指先を霜に喰わせたように痛みと震えが襲って来ます。冷たい壁に四方を囲まれながらでもまさかそうではあるまいと鼓舞する胸はエスメラルダがトネリコ王国を去った原因を再び読み聞かせている。
思い出せ、春のひだまりの魔術使いが亡くなった理由を。相棒の悲しい過去を聴いた時に一瞬確かに感じた激しい怒りを。
人間なんて迷惑なだけだ!
本当に?
私は次の島へ到着するまで、何も言えませんでした。どれほど怖い顔をしていたのでしょう。
「美しい國」