ハイリ ハイリホ(29)(30)

一―十五 パパ・二―十五 僕

一―十五 パパ

 竜介のかぼそい声がする。そうか、声まで遠くなってしまったのか。頭を雲に突き出して、富士山二世になろうとしている以上、竜介の顔はもちろんのこと、体だってまともに見ることができない。まともに見ることができないのは、竜介だけじゃない。自分自身だって、雲の上の水平線からでは、全体像が掴めない。道路の穴に足を突っ込み、つめをはがし、後から生えてきたものの、いびつな成長を繰り返して、盛り上がったままの右足の親指。子供の頃、自転車で転がり、何度も血を流し、その度に、自分のつばやよもぎの汁をつけて応急処置をして、かさぶたの再生を繰り返した膝っ小僧。
 ビールの飲みすぎか、運動不足なのか、腹筋が弱り、ぼてっとたるみ出し、幾重にも海溝ができたお腹。大笑いすれば大地震が起きそうだ。そこに、晩酌のビールがこぼれたら、大自然が堪能できる。親指の爪よ、膝っ小僧よ、筋力のないお腹よ、今も元気でやっているのか。
 俺のからだであって、俺が関わりを持てない。目の前にありながら、どこか遠くへ行ってしまった俺のからだ。それとも、俺の意識だけが、どこかへ封じ込まれたのか。肉体だけの成長。しかし、今、生きていると認識できるのは、俺の意識でしかない。俺は、俺のこの頭の中で、勝手に生きていると言い放っているだけなのだろうか。
 だが、現実を直視すれば、このまま、さらに身長が伸び続ければ、俺の頭は大気圏を突入し、宇宙へ解き放たれる。宇宙さん、こんにちわだ。宇宙には空気がない。大気圏から顔を出しても、すぐさま、亀のように体の中へ首を引っ込めなければならない。それでも、我慢できるのは、一分間か二分間くらいだろう。
 我慢と言えば、小学生の頃、水泳の練習ため、風呂場でたらいに水を張り、顔を突っ込み、息がどれくらい持つのか練習をしたことを思い出した。新聞の広告の裏に、日記のように、毎日の記録を書き続けたものだ。
俺だけの、個人記録であり、日本記録であり、世界記録。その記録を破ることに達成感・満足感を得た。一日一日のささやかだが、着実な進歩。俺は、こんなにすばらしいのだと。自分で自分のことを褒めてやりたい
肉体への誉れ。自己実現がこんなに楽しいものだとは。十歳足らずで、既に、人生の仕事をすべて成し遂げてしまった充実感。これまで生きていてよかったと思える最高の瞬間。練習の成果で、二十五メートルぐらいなら、潜ったまま、手は平泳ぎ、足はバタ足で、泳ぐことができた。プールの中間地点では、息も苦しくなく、全く、平気だが、さすがに、ゴールの目前になると、もがきながら、五、四、三、二、一、ゴールと、自分で自分を励ましながら、最後の一手で水をかき、指の先を精一杯伸ばし、コンクリートの壁にタッチする。
と、同時に、プールの底にしっかりと足を着け、顔を水面から持ち上げ、口を始め、体中の穴という穴を全開する。あたり一面の空気が俺の肺、俺の皮膚に急激に流れ込み、小腸、胃、食道までもがみるみると膨れ上がる。このまま、体全身が膨らんだら、風船となって空に浮かび上がるのではないかぐらいの勢いで。
 そうか、俺は、この頃から、空を目指していたんだ。宇宙を目指していたんだ。水から空へ。身長が伸びて家を突き破ろうが、風船となって浮かび上がろうが、どちらにせよ、俺は、地球の外にでたかったのだ。宇宙飛行士ではなく、別の、俺だけのオリジナルの方法で。
 だが、地球の外へ一歩でも出れば、命はない。しかし、地上にいたままの俺では、生きている資格がない。生きている意味がない。俺の頭の中を、矛盾が駆け巡る。その間、俺の背は、休む間もなくぐんぐんと伸びていく。これはどうすることもできない流れなのだ。勢いなのだ。俺の中の成長ホルモンが、俺自身を滅亡させるために、加速しながら流れ出している。俺が死ぬことで始めて、成長ホルモンを止めることができる。成長ホルモンの流出を防ぐ唯一の手段が、俺の死だと皮肉なことだ。成長ホルモンよ、何故、そんなに生き急ぐのだ。
 ほら、昼なのに、一番星が見えてきた。手を伸ばせば、届く距離だ。あの星は時限爆弾だ。俺が、あの希望を掴んだ瞬間、自爆する。竜介、いざさらば。お前と出会えてよかった。感傷的な言葉も、もう、ここまで頭が到着したからには、俺から見るとミクロの世界にいる竜介の耳には届かないだろう。辞世の句をしたためる。大人になったら、もう成長しなくていいのだ。進歩と成長は異なるのだ。
 その時、俺の歴史が動いた。いや、俺の、身長が動いた。目の前まで、見えた星がどんどん遠ざかっていくではないか。あっという声を出す間もなく、雲の上にまで、頭が降りて来た。成長ホルモンから短縮ホルモンに変わったのか。世界平和と称して、各国の力を誇示し、相手国から脅威を得るために打ち上げられた観測衛星とさよならし、時間短縮のために、そして自らの寿命を縮めることにもなる、空を我が物顔で飛ぶ航空機に再び、こんにちは。俺の体は、宇宙の灯台から空の道標に格下げだ。なんと喜ばしいことだ。その空の道標も雲の中に隠れ、電波塔と肩を並べるほどの高さになった。


二―十五 僕

 あんな風に言ってはみたものの、やっぱり別れは辛い。僕がパパの許から離れて行ったとしても、やがては、パパの許に帰るのだろう。それは、いつのことだろう。これから、僕が中学生となり、高校生となり、大学生となり、就職して、自分の道を歩み始め、お盆や正月などたまの休みに帰省し、パパが若い頃はああだったとか、竜介が小さい頃はこうだったとか、お互いにとりとめない会話をして、生きている存在、生きてきた道程を確認しあう。 
たった、それだけの行為だけど、ああ今年も、親許に帰ってきたという満足感。今の僕にはちょっと解らないけど、ゴールウィークなどの長期休暇には帰省をするのが国民的行事として認知されている以上、何かの意味があるのだろう。人は、何か大義名分的な理由がないと動けないのだろうか。でも、動機はどうであれ、自然と、ゆるやかに、流れていくのだろう。それとも、パパが僕の場所に訪れるのだろうか。どちらにしても、必ず再会の機会が来る。その時を再現して、パパに言葉を掛けてあげよう。
「パパ、パパ、パパの顔が見えてきたよ。戻ってきたんだね」

ハイリ ハイリホ(29)(30)

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パパと僕の言葉を交わさない会話の物語。一―十五 パパ・二―十五 僕

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-24

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