百合の君(38)
何の罪もない百姓の村が全滅した。侍女からその知らせを聞くや否や、穂乃は立ち上がった。縁をずんずん進み軍議中の浪親の所に行く。
「殿、あの知らせは本当ですか?!」
浪親は驚いて目を見開き、立ったままの妻を見上げていた。穂乃は叱られるのではないかと思ったが、夫はすぐに平静を取り戻した。
「本当だ、私が実際にこの目で見た。酷いものだった」
話しながら夫の顔はうつむいていた。
「私も出陣します!」
浪親は驚いて、再び妻の顔を見た。
「それは駄目だ」
顔の傷が、氷柱のようなその瞳を一層険しく見せていた。以前見た時にはなかったものだ。目尻から頬にかけて、かなり深そうに見えた。
「殿が戦い民が斃れているというのに、私には奥で物語でも読んでいろと仰せですか」
「そうだ、お前と珊瑚は私が守ると約束した」
「ならば私が殿をお守りします!」
「駄目だ、下がれ」浪親は並作に向き直った。「並作、送ってやれ」
「へい、親分」
立ち上がった時にはすでに、というより最初から並作は神妙な顔をしていなかった。何が楽しいのかニコニコしている。丸い鼻の頭が、脂で少し光っていた。
「お嫁さんの気持ち、俺には分かるなあ」
歩きながら並作は言った。前線からの伝令や訓練する兵達の怒鳴るような声の中で、並作だけはひとり呑気だった。まるで田んぼの畦道で花でも摘みながら歩いているようだ。
「俺も戦ったことなんかなかった。でも親分に拾われて、なんとかお役に立ちたいと思って、色々覚えたんだ」
「そうでしたか」
「あれは、初めて小さな小屋を襲った時だった。炭焼きじいさんは震えてたけど、俺が笑っちまったのは、親分も震えてたんだよ。俺も震えてた。みんなでガタガタしながら、『食い物を出せ』だの『何もねえ』だの言ってんだよ。刀の先が、じいさんを扇いでるみてえに揺れて、それがかえって怖かったのかなあ、じいさんしまいには『分かった、分かったから刀をしまってくれ』なんて泣きながら言い出したんだよ」
並作は子供のように笑う。もうすっかりこのような会話が嫌ではなくなった。以前ならさらわれた恐怖、蟻螂と引き裂かれた悲しみを思い出してしまっただろう。嬉々としてそんな話をする並作を無神経だと嫌っただろう。しかし今、彼女は一緒に笑ってさえいる。しかも目の前にいる男は、穂乃を縛り上げた張本人だ。
穂乃は時の流れの速さを感じると同時に、この変化はそれだけでは生じないことも分かっていた。浪親や並作の人柄があってのことだ。
「お嫁さんは、親分と一緒に戦のない世を作りたいんだろ? 俺にはよく分かんねえけど、そのためにはこの戦に勝たなきゃならねえ」
並作は立ち止った。真面目に考え込んでいる様子は、並作でさえも思慮深い、頼りがいのある男に見せた。いや、盗賊村の、出海家の人はみな頼りがいのある人だ。蟻螂は日中ずっと狩りに出かけているので、あのまま山小屋にいたら、ひとりで珊瑚をみなくてはならない。
「俺の武器を貸してやるよ、全員持ってる必要もねえしな。ただ、兵は貸せねえ、俺の子分だからな」
並作は少し照れた様子で、耳と頬を赤くしていた。
「ありがとうございます!」
「いやいや、俺なんかに頭下げねえでくれよ。まあ、ここまで来たんだし、ついでに珊瑚と遊んで行くかな」
並作は懐からデンデン太鼓を取り出して、二、三度鳴らした。準備が良すぎる、と穂乃は思った。もしこの流れを予測して忍ばせていたのだとしたら、この男、浪親様よりも天下人に近いのかもしれない。
叱られると思ったのか、並作はデンデン太鼓をしまうと、先に歩き出した。
百合の君(38)
久しぶりに並作が出てきてうれしいです。彼とみつが出てくると、楽しい気持ちになってきます。