百合の君(36)

百合の君(36)

 正退元年五月十四日、その日は朝から雨で、ただでさえ泥道に馬が沈むのが不快だった。隣の盛継(もりつぐ)を見ると、雨がその高い鼻先からぽたぽたと垂れている。どれくらい歩いただろうか、雨に死臭が混じり始めた。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。戦のない世を目指していたはずなのに、なぜこんなことに。
 抵抗したからだろうか? 百姓まで抵抗したから、こんな目に遭わされたのか?
 馬の足が泥に沈む感触が、不快だった。膝くらいまで埋まっているのではないかと思われた。しかし、侵略に対し抵抗しないなどということはできない。私のとった策は、間違ってはいないはずだ。
 足を取られた馬は遅々として進まなかった。墨色に煙った景色、空、雨に遮られた音。浪親(なみちか)は同じことを繰り返し考えた。
 戦のない世をつくるはずが、なぜこんなことに。いっそのこと城を捨てて、夢塔(むとう)に返してしまおうか。しかし、主が夢塔になったからといって、別所(べっしょ)八津代(やつしろ)への侵略をやめるわけではない。
 では別所はなぜ戦をするのか? 領内が貧しくて、奪わねば食えないわけでもないのに。
 雨は降り続いている。浪親は、ふと気づいた。私が戦のない世を目指すのと同じように、別所には別所の理想があるのだ。
 一瞬、静寂が訪れた。敵の理想がどれだけ高潔なものであったとしても、それを認めるということは、自分が滅びるということだ。自分だけならいい。隣にいる盛継も、城にいる穂乃(ほの)珊瑚(さんご)も滅びるということだ。
 だから、やはり、抵抗しないわけにはいかないのだ。
 雨は降り止まず、浪親は同じことを繰り返し考えていた。やがて、遠くに崩壊した百姓家の影が見えるようになった。
 ああ、あそこにたくさんの死体と、わずかな生き残りがいるのだ。感謝されるだろうか、領主自らが来たことに、領民から感謝されるだろうか。ぼんやりとした期待が湧いたが、すぐに打ち消した。
 むしろ、恨まれているだろう。馬は腹くらいまで泥に浸かっていた。私を殺そうとする者が、あの村にはいるかもしれぬ。そう思った。
 その時、私はどうするだろう? 詫びとしてこの命をくれてやるだろうか? それとも、自らの領民を斬るだろうか?
 戦のない世。浪親の思いは再びそこに降りた。私が守りたいのは誰だろう?
 真っ先に思い浮かんだのは、穂乃だった。ああ、そういえば、あの女は、山に住む猟師から奪ったのだった。きっと私を恨んでいるだろう。
 ぬるい雨が体中を濡らしていた。浪親は、乳の池に沈んでいくような気になった。この心にある愛情が、恨みを呼び、戦をさせるのだ。
 馬が泥に沈んで、浪親の足は止まった。そのまま行くのをやめようかと思ったが、引っ張り上げると首をなでてやり、ふたたび跨った。誰も望んでいなくとも、領主として行かねばなるまい。

百合の君(36)

百合の君(36)

あらすじ:別所の侵略を受けている八津代国。領主の出海浪親は被害に遭った村に向かいます。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-12-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted