我が子を棄ててでも
我が子を棄ててでも
私は実の両親に棄てられました。
育ての親は、北蘭州の雨中の街道を渡る時に、木陰に置いてけぼりにされた赤ん坊を見つけたそうです。当時の私は、何を想って泣いていたのでしょう。何も想わず、泣いていたのでしょうか。
北蘭の南部、シュウジュと呼ばれる農村で、私は育ちました。同じ黄色人種とはいえ、顔立ちが異なるために、同年代の子供達からは暴力を受けていました。いえ、肉体的な痛みなど、これっぽっちも苦ではありません。最も耐え難い仕打ちは、私が捨て子である事を理由に、侮辱される事でした。
「望んで棄てられた訳じゃない」
その様に叫べたら、どれほど心が楽になったことでしょうか。しかし、私はその悔しさを、罰当たりな事にも、育ての父母に八つ当たりをしたのです。愚かでした。
「なんで私なんかを拾ったんだ、そのまま凍えて死なせれば楽だったのに」
その度に、母は哀しい顔で俯きました。父は、私に道徳を説きました。納得できない不条理に対して、私の忍耐力の不足を正そうと、静めようと努めてくれたのです。ですが、親不孝者の私は、周囲からの侮蔑の言動を受けると、幾度と怒りによって盲目的な心になり、家族を苦しめました。同時に、私自身も苦しかった。いえ、差別を受ける苦痛ではありません。血の繋がりの無い私を拾い、我が子も同然に育ててくれた両親を悲しませている自分に対して、自責の念と葛藤で、闘っていました。
ある日の暮れ方の事です。私は、母から頼まれた西瓜を買い、帰る途中でした。あと数分で家に着くという時に、三つ年上の少年達に囲まれて、顔が腫れ上がるほどに殴られました。今夜、家族三人で食べる筈だった西瓜も砕かれて、踏みにじられて、悔し涙が頬を伝いました。しかし、私は殴り返す気にはなれなかった。何故か、それが人間としての負けだと確信していたのです。
ボロボロの姿で家の戸を開くと、真っ先に母が手拭いを濡らして、顔を拭いてくれました。その時には、涙は既に枯れていた事を覚えています。同時に、西瓜の事を何も訊かなかった両親に対して、言葉にできない喜びがあった。私は、愛されていたから。
私は、ただの一度も「殴り返さなかった」なんて主張しませんでしたが、父は、新聞を読みながら、一言、静かに呟きました。
「殴り返さなかったお前が正しい」
その日の夜、私は全身の痛みに耐えかねて、眠る事も出来ず、軒端から月明りを眺めていました。静かで厳粛な、夜でした。何故、私は産みの親に棄てられたのだろう。それは戦争が悪い、親子の縁を引き裂いた、非情な争いが悪い。いえ、それは解っているのです、ですが、受け入れきれない。今、自分が受け取っている千辛万苦に対して、それを理解してくれる、愛してくれる、血の繋がりが欲しかった。
私は、愚かな凡夫です。血縁さえあれば、私は救われたのでしょうか。まるで、それだけが一切の苦楽の原因であると錯覚しているかの様に、自己憐憫に陥っていました。
「リョウシン」
父の声に振り替えると、彼は続けて言いました。
「少し、父さんと散歩に出るか」
村の人は皆が寝静まっていて、父と私だけの、二人だけが生きている、穏やかな夜半の道は、至る所から虫や蛙の鳴き声が聴こえて、月の明かりだけで、視界が広かった。晴れた夜空には、無数の星々が燦然と煌めいて、それでいて、嘘は微塵も含まれなかった。
「……私は、実の両親が憎い」
思わず、父の目の前で弱音が出ました。思えば、あれは私の本心だったのでしょうか。どうも、疑問なのです。暮らしの中で、今はただ抜け出せないだけの艱難辛苦を相手に、絶望したふりをして、その責任を、血縁者にぶつけているだけではないでしょうか。
「よくも、私を棄ててまで、自分達だけで母国へ逃げてくれた。私を地獄に置き去りにしてまで──」
父に、頬を強くぶたれました。
「お前は、身勝手に自分の苦しみだけを相手にできるだろう。そのお前の命を救う為に、自分達が恨まれる事を、今生の別れになる事を、覚悟してまで惜別を迎えた親の心を、お前は考えた事があるのか」
私は言葉が返せなかった。
「赤子を憎いと思って棄てる親がいるものか。最後の最期まで、子供の幸せを願っている親が、お前を望んで野路に棄てるものか。反省しなさい」
何故だか、頬を伝って滾り落ちる、嬉し涙でした。叱ってくれる父の姿に、知る筈もない実の父の面影が、確かに見えたのです。
その夜は、不思議な夢を見ました。
私は、顔を知らない二人の大人と手を繋いでいました。その男性と女性の声音はどこか懐かしく、また何ゆえか、無条件の安堵を与えてくれました。
「明君、今日の夕飯は、カレーですよ」
女性が、知らない名前で私に呼びかけました。
「明、今度の日曜日に、三人で海水浴に行こうか」
男性も、やはり知らない名前で、呼びかけてきた。
「明……。明って、何ですか」
しかし、不可思議な事に、答えを待たずとも私は知っていました。明とは、私の名前です。実の両親が、私に与えてくれた名前なのです。
思わず、立ち止まりました。
「お母さん、お父さん」
二人は膝をついて、私を抱きしめてくれました。
「どうして、どうして、私を」
「明君、寂しい思いをさせて、沢山、つらい思いをさせて、ごめんなさい」
母は、肩を震わせながら、涙を堪えた声で謝りました。私は思わず、大声で、
「謝るのは私の方です」
込み上げてくる感情は、決して、両親に対する怒りや憎しみ、疑問や猜疑心などではなく、私自身が今まで、どれほど親不孝な思いを募らせていたか、その事実に対する自責の念でした。
もっと、謝ろうと思った。もっと、続きを話したかった。
しかし、喉の奥でつっかえていた言葉が、やっと出たと思いきや、父母の姿は、温かな光の塵となって、消えていくのでした。二人の少し悲し気な、それでいて、愛おしい微笑みが、私の胸の奥に降り積もりました。
陽の光に、瞼を擦り、天井の映る視界には、もう父母はいません。ですが、私が何かを失ったのでしょうか。何かを得たのでしょうか。何かが増えたり、減ったりしたのでしょうか。
いいえ、何も変わってなどいなくて、ただ、私自身が、気づいただけなのです。
我が子を棄ててでも