ヒトナミ
教室という圧迫された水槽になじめないわたしたちは、整列されたクラスメイトたちにひっそりとまぎれ、一見整列しているらしい歪なポーズをとりながら、息も巧くできないままにその場をやりすごしていたのだった。わたしたちはさながらに、内部にいながらも水槽を外から眺めつづけているような心地でいたのだった。
心中の独り語り。その、例。
──ああ、すごいな。そういう風に話すんだ。そうしたら、皆わるい気持がしないだろうな。空気が和らいだ。ふわりと柔らかな布がはためいて、あたたかい空気がふっくらとひろがったように。
──いまの優しさ素敵だな。そういう風に行動してみたいな。けれどもピエロのように真似こそできども、そういう行動をさせる素直な心は、わたしのなかにはたぶんない。…
その水槽に対するわたしのその気持ちには憧れがあり、入ってみたいという欲求があり、馴染めないことによる申し訳なさ、劣等感、僻みがあり、されど染まるもんか、そんないたましいワガママな反発心だってあったのだった。
けれど「わたしたち」と書いたことからわかるとおり、わたしには、唯一のお友達がいたのである。彼女と知り合えたのは、ほんとうに、中学校人生最大の幸運というほかはない。
日浦奈美、というのが、唯一のお友達の名前。「日ト奈美」と書くと、「ヒトナミ」と読むね、と、ナミはよく自嘲する。
夏木海、というのがわたしの名前。こんなにも夏の海が似合わない性格なのに、こんな名前がついている自分を、わたしは恥じる。似合わない夏の帽子と海の靴を身につけられ、はにかみながら突っ立っている、ざらついた木の恥じらい。それこそが、わたし。
ここでは彼女を「ナミ」と呼び、わたしの名前を、「ウミ」と書く。
「わたし、『奈美』じゃなくて、波乗りの『波』がよかったな」
「そしたらわたしたち、海と波でペアだね。苗字も夏感つよいし」
「そうなの。それがいいんだよね。わたしたちウミとナミはね、この教室では不適合なの。わかる?」
「うん、わかる。わかりすぎてるくらい、わかる。だって、在るだけで神経が痛いから」
「その言い方、わたしの小説の真似っこじゃん…うれしいけど!」
ナミは、趣味で小説を書いているのだ。ペンネームは、「日浦波」。本名の雰囲気を残しているのは、もしや「わたしに気づいて」、そういうことでもあるのかしら。
いたましいほどに繊細な、さながらに硝子細工めいた飾り言葉をほどこされている毀れやすい文章表現と、つむがれた言葉の奥から発せられる、耐えられぬ叫びをせいいっぱい抑えて綺麗に美化し、ほうっとためいきされるようにして書かれた、「生きるのが痛い」という、病める感受性による暗みのメッセージ。そうやって織られた小悲劇は、一定の層(いわゆる、ナミに似ているひとたち)の支持を、すこしだけえているようだ。
ナミの日課、SNSのエゴサ。検索してはにまにまし、くしゃりと顔をゆがめてかなしみ、時に、泣き喚く。「わたしはこういう風に書いたつもりはない」「愛読者のいたみまで侮辱するな」、そんな、言訳含む文章を激情のままだらだら涙をながしながらネットに載せ、のちに恥ずかしくなって、消す。SNSは消したりつくったり、それを幾度もくりかえす。ナミは、そんなひとである。
わたしもまた、彼女の小説の愛読者のひとり。彼女の感性が、文章が、すごく好き。
それと比べてわたしは? わたしはなにをもっている?
答え──わたしにはなにもない。
「もうすぐ修学旅行じゃん?」と、ナミが暗すぎる話題(わたしたちにとって、ね)に似合わない、にこにこの笑顔でいう。
「グループ行動、安藤さんたちと離れて二人だけでできないか、安藤さんに聞いてみない?」
「無理だとおもうけど」
「聞くだけ聞くだけ!」
…
「いいよ」
と軽くいわれた。拍子抜けした。いちおう、修学旅行のグループ行動をべつで行動するというのは、ルール違反であるから。
「元々うちら四人グループでふだんいるし、そっちとは人数調整でいっしょになった感じでしょ。うちらもそっちのほうが都合いいよ。ね?」
ほかの三人も、想い深げに、周囲の心情をうかがいつつ、神妙にうなづく。ああ、そうだよね。そうなるよね。わたしも、納得。
ちらりとナミを一瞥すると、自分から提案したのにもかかわらず、傷ついたような、そうでもないような、ほんのすこし怒ったような顔をしている。
ナミは、表情を偽装ることが、できない。つくろうとすればするほどに、彼女の心が、彼女が大切にしたい信条のようなものを含め引っぱられて、裂かれて、大切にしたいものが砕けたことでどうしようもない感情になって、けっきょく、ようやくできあがった作り笑いすら不気味で、歪なものになってしまうらしい。わたし、友達としてそれを「甘え」で片づけたくないけれど、やっぱり、そういうタイプは世間と相性がわるく、生き辛いだろうなとおもう。そんな彼女を許さない、「教室の雰囲気」というものも、けっしてまちがっているわけではない。だって、わたしたちに合わせた秩序は、ほかのひとたちにとって苦しいものにちがいないから。
周りへ配慮して、ひとりひとりが思い遣りをもって社会を構成しなさい、というメッセージを子供たちはうけとっているけれども、わたしたちは、それが苦手だ。
けれどもじつは思い遣りというものはたくさんあって、わたしは、ナミのナミらしい優しさをみつけている、踏まれ煤だらけでころげている綺麗な硝子珠のような、それを。
けれどもそういう意味では、わたし、半端な外れ者なのである。半端に、適合できるところがある。それに、罪の意識をもっている。もっとくるしんで、ナミの横でおなじくらい泣かなきゃいけない、そんな、しごく下らない意識をもっている。
中学二年生まではおとなしめの友達グループにいた、やがて破綻した。わたしのこころが、こわれた。ゆき場を喪失した淋しさは、まるで水のように、こわれた心からただ洩れだった。わたしがわたしとして言動しちゃいけない、わたしの本心はダメなもので、ほんとうのわたしは誰からも受け容れられないんだ。そんな、みんなが受け入れている、多かれ少なかれだれもが我慢している当たり前の事実のようで、わたしにはどうしても現実として受けとめられない、息の詰まるような状況に、耐えられなくなったのだ。自責につぐ自責、当時、わたしは「ごめんなさい」が口癖だった。
孤立したまま三年生になり、ようやくできたナミとは、わたしとして言葉を発せられる。
外れ者どうし。それは、まちがいないことである。けれどもわたしは、”ウミとナミ”を、まっさらな夏の風景の暗い影でひっそりと結びついている、世にもかわゆらしい花のペアリングだとおもっている(秘密だよ)。
*
ヒトナミに、生きなさい。
そんな、よかれとおもって大人たちに発せられる真っ当な言葉が、きっと、彼女には真剣をふりまわすような断罪に感じられていたのだ。その痛みにうめき、くるおしく叫びたい気持になって、その捌け口こそが、小説を書くことであったのかもしれない。
日浦波の小説で、わたしが知らないナミを、いつも発見する。わたしはそれに、淋しさを感じる。わたしに、すべてをぶつけて。にくしみをこめて、殴るようにことばを放って。わたし、あなたにどっと滝のように倒れこまれてみたい。こんな心のうごきをよくないものだと知るわたしは、不幸だ。こんなくだらない悩みをなやめるわたしの幸福を、わたしにはどうしても愛せない。
*
修学旅行当日。
わたしは、ナミにいいかねている一つのことをいついうべきか、思考をさまよわせていた。
というのも、先日、わたしには恋人ができたのである。
相手はべつのクラスの山井くんという同級生で、おなじ図書委員。ときどき、いっしょに受付をすることがあり、山井くんの慎ましいけれどしっかり自分でかんがえて行動を決めるところや、周囲へのこまやかな感受性に、わたしは以前から好感をもっていたのだった。
告白は向こうからで、場所は、だれもいなくなった放課後の図書室。図書の先生が職員室に行っているあいだに、「好きです。付き合ってくれない?」ときりだされ、「すこし考えさせてね」、と大人ぶってみたけれど、その時のわたしのほころんだ顔をみてうれしげに反応するかれの微笑が好きで、「うん、待ってるね」と頷くかれの声色が甘やかで優しくて、「もう考えた、付き合う!」と直後にいってしまったのは、ふたりの笑い話になっている。
「あの顔見て、ちょっと安心しちゃったんだよね。ふられないだろうな、って」という自信のある言葉が、わたしなんかには耳に心地よい。
その後、「修学旅行、どこかのタイミングで二人きりになりたい」、そう真剣な顔でいわれたとき、わたしは想わず「うんなりたい」と返し、そのときナミは完全なひとりぼっちになるだろうということが頭には思い浮かんだのだけれども、そのことは、後で考えるつもりであった。
体操座りで、ナミ含むおなじグループのひとたちと並び、先生の説明をきいているわたしたち。夏、陽ざしはわたしたちを打つような激しさであって、汗ばんだしろい制服が、植えられたアネモネのように爽やかに整列している。
「体操座りってさ、」
と、わたしにしかきこえない大きさの声で、ナミがいう。
「社会に跪かせる練習だよね」
過激。
以前、わたしはこういう独特だけど本質をついてなくはなさそうな、ある角度からみたらそうもいえるかもね、のようなナミの皮肉や風刺を彼女の賢さ、鋭い感受性によるものだとして好きだったのだけれども、恋人のことで頭がいっぱいのいま、怖いと思ってしまった。
ちらちらとかれのほうを見ていたら、眼が合った。はにかみながらも、にっこりしてくれた。折られた脚をきちんと腕でつつみながらも、ゆびさきだけで、ひらひらと秘密の合図のように手を振るしぐさをしてくれる。ドキドキした。わたしの恋人、いいなと思った。
外れ者のわたしと付き合っていることを隠したがらないかれに、ちょっと平常では考えられないくらいの信頼をわたしはもっていた。
「では、出発します。みんな、新幹線に乗ってー!」
…
「なんだか、うわの空じゃない?」
と、不機嫌そうなナミにいわれる。新幹線で、ふたり並びの席をスムーズにあてがわれたわたしたちは、ちいさな声でだったら、好きにお話できる。
「うん、ごめん。緊張してるかも」
「緊張してたんだ。そうは見えなかったけど」
心配そうに、わたしの顔を覗きこむ。
「どう見えてたの?」
「うんとね、熱っぽい感じ。でもきつそうとかじゃなくて、潤んでるような。寝られてる?」
ナミは、へんに鋭いところがある。意外と(というとあれだけど)、わたしのみえにくい苦しさや、耐えがたい切なさを、察してくれるのである。そのとき、ナミは自分のことのように苦しそうだ。そして、教室という全体への細やかな優しさはもてないし(もちたくないし)、ワガママ反骨心バリバリなのにもかかわらず、日陰の外れ者のかなしい痛み・優しさをみつけるのが得意だ。ネットに、ひっそりとそんな文章を載せて、好意的なコメントがつくと、こっちが淋しくなるくらいのまっさらな微笑みを、唇にかたちづくる。
「うん、寝られてるよ」
「そっか。さっきわたしが話したこと、ウミ、スルーしたんだよ」
「なになに?」
「最近、『社会に適合できないわたしたち可愛い』みたいなのが流行ってる風潮あって、それへの批判とかもあるじゃん」
「うん、ある」
「あれってさ、自分や他人から愛されないと生きていけないって思ってる、ギリギリの追いつめられてるひとたちが、どうにかこうにかして生き抜くための、ギリギリの手段でもあると思うんだよね。正しいか正しくないでいったら正しくはない気がするけど、そうでも想わないと、あのひとたちは『いまを生きていい』を自分に与えられない。だから、状況や気持を理解できないひとはそっとしといてほしい」
たぶん、自分の小説の愛読者たちへの批判のことを言っているのだ。ナミは、自分を好きでいてくれるひとに、愛着をもちすぎる。かなしいくらいに、自分と同一視して、似た他人のいたみを、流れ込ませるように想像しすぎてしまう。それが歪で、独り善がりで、きわめて主観的なのも、重々彼女は承知している。
わたしは、ナミのような優しさが、なかなか評価されないのを知っている。だって、おそらくほとんどのひととナミは、ずれた世界で生きているのだから。ナミの、和よりも優先させようとする独り善がりな優しさが、「自己中が優しい自分に酔っているだけ」にしか見えないことひとたちがいるのも、仕方がないことだと思う。実際、そういう行動だって、べつのいたみをむしろ多くのひとに与えるのだから。ナミも、そしてわたしだって、やっぱり問題児。「ナミは変だ」、そうみなしてとにかく仲間に入れることを拒むひとたちだって、必ずしも悪気はない。
「可愛くなくったって、愛されなくったって、生きていていいに決まってるのにさ。生きてちゃダメな生物なんていないよ。」
「うん、ナミのそういう考え方、好きだよ」
「あのね、生物で一番愚かなのは人間だから。覚えて」
「ナミ、過激過激」
わたしたちの会話は、大方こんな感じ。ナミのマイノリティな批判に、わたしがうなづいたり、相槌を打ったり、時々、過激だとつっこむ。わたしからは、あまり、意見をいうことはない。わたしは、意見をもつことが怖いタイプだ。注意ぶかく物事を考えていると、なにもわたしに決定していいことなんてない気がして、現実に尻込みし、たたずんで、うごけなくなるタイプ。
そういえば、恋人に、わたしのどこを好きになったのか気になって尋ねると、
「思慮深くて、差別用語をかるがるしく使ったりしないところかな。考え方が寛容な感じもする。一緒にいると柔らかい気分になれるんだ」
といってくれ、物事は、視点や見る角度でずいぶん変わると学んだ。ごめん、惚気た。
そうこう言い合っていると、やがて、旅先の「古い文化を保護された海辺の町」にたどり着いた。
*
「夕ご飯のあとの自由時間、庭園でいっしょに過ごしませんか。恋人より」
わたしは、この簡潔ないいかたが、好き。彼氏・彼女って言い方じゃなくて、「恋人」って言葉をえらぶかれの品のよさが、好き。
このメッセージ、どう返信しようか迷って、決まるまで大切に秘めていたつもりだったけれども、いかんせんナミとずっとふたりきりだし、「いっしょにすごす」をどうやって実現しようかも考え中だったから、返信できずじまい。
「とりあえず、海行こう!」と、天真爛漫ただ漏れのナミに合わせ、
「ウミとナミだもんね!」
「そのとおり!」
わたしたちはバスに揺られて、海にたどり着いた。
めいっぱいの真夏の陽に照らされる海は、あまりにも澄んだ青みを、めざめるようにさらしていた。波うちはゆるやか、海面の奥に睡(ねむ)る青の粒子が跳ねては踊るようにさまざまな陰翳をうつろわせていて、波は、青空に憧れ腕をのばすようにすくと立つ。地元にも海はあるけれど、なんだか激しくて暗い、日本海とくゆうの雰囲気があるから、こんなにも穏やかで澄んだ海は、わたしには新鮮だった。
ふたりで、砂浜に立つ。
「安藤さんたち、言い方つよかったね」と、会話を切りだしたのはわたし。
「でも、ああいう風にいわれてもなぎ倒されないくらいつよくならないと、生きていけないのかな」
「生きていけなくてもいいよ」
「え?」
真夏の太陽と海、そんな絢爛な印象すらある明るい光景で、むしろきわだつような仄白い翳りとでもいうような佇まいで、消えてしまいそうに透明な眸をほうっと浮ばせて、ナミは、砂浜に立っていた。いまにもくずおれてしまいそうな淡い姿、しかし、むりに背骨を後ろへしならせ、顎をふるわせていた。
「つよくなって、もしわたしの文章を読んでくれるひとのいたみを軽蔑するような人間になるんだとしたら、わたし、ぜったいにつよくならない。わたしはわたしがひとのために生きられないのを知っている。そんな自分を壊してでも他者のために戦う人間になりたいとおもうし、それが全部、独善だってことも、多分それが無理だってことも、わかってる」
「わたしにとっては、ナミは優しいよ」
「わたしなんかにそう言ってくれるのはうれしいけど、わたしが自分の優しさを認めると、わたしの大切にしたい生き方が、ほつれるの。揺らぐの。わたし、つよくなんてならないよ。つよくなるくらいなら、生きていけないくらいまで破綻して、生きていけなくなればいい」
くぐもって出た息は苦痛によじれていた、彼女はしろい頬をてのひらで覆い、膝を折って嗚咽しはじめた。
わたしは泣きながらナミを抱き締めた、彼女の言葉を、肯定や否定する言葉をもてないままに。まっさらで、健全そのものの夏の風景は、急に迫るような重みでわたしたちに蔽いかぶさってきた。
*
そのあとはなんとなく暗い雰囲気、わたしの住む田舎町にすらある、適当な安い飲食チェーンで食事をして、「同じ味」「うん」「逆にすごい」「それね」、みたいな会話をぽつぽつして、定時に集合して、教師にはバレずに、自由行動を終えた。
「ウミさ、恋人できたんでしょう。なにかに気を遣って、言ってないでしょう」
ナミが、まっすぐにわたしをみつめる。
「うん、できた。知ってたんだ」
「山井くんでしょう。山井くんが、ぜんぜんそういうこと話してるらしいから。耳にしたの。どうして、わたしに言わなかったの?」
わたしたちには、たくさん隠し事がある。踏み込んでほしくないときは、「言いたくない」という権利を、お互いに認めている。けれども、暗黙の了解というか、完全な嘘をつかないでね、というような、ナミからの悲願のようなものを、わたしは守っている。
「山井くん、修学旅行でわたしとふたりきりになりたいって言ってくれたんだけど、ナミを一人にするのが、嫌だったから」
ふっと柔かく微笑むナミは、我の強い気張ったイメージのある彼女の、べつの一面である。
「そんなこと? いいよ、わたし、その時間ひとりで中原中也を読んでやるから」
「わかりにくい反抗だね」
「わたしたちにしか、わかんないね」
そういって、笑い合った。
「青鯖がそらに浮かんだような顔しやがってー!」
急にそう叫んで、自分でけらけら笑っているナミ。
「誰に言ったの?」
「なんか想いだしたから言ってみたら、楽しくなっちゃった!」
「急に?」
わたしも、引きずられて笑ってしまう。いまのは、中原中也が大嫌いな太宰治にいった詩人的語彙のすさまじい悪口で、すこし、マニアックなネタかもしれない。
「ありがとう」とわたしが伝えると、
「ううん。こちらこそだよ」と、手をにぎにぎしてくれた。
あったかかった。柔らかいのに奥に硬い骨があって、汗ばんでいて、くるしくなるくらい、生きているそれだった。
*
夕食後、公園内の待ち合わせ場所、入り口から右側の何番目の木、というのを探していると、いま自分がどこにいるかわかんなくなって、「あれ?あれ?」と唸っていたら、「俺だよ」と山井くんが肩をぽんと叩いてくれた。
「山井くん」
自分の、宇宙級の方向音痴を呪っている気持が、一瞬ではなやいだ。
「一時間くらいで、戻んないとね」
「…うん」
「緊張してる?」
「してるよ」
キスとか、するのかな。早いよね。山井くんなら嫌じゃないけど、でも、そこまで早く山井くんは求めないとおもう。そう、信じてる。でも、わたし、山井くんと手をつなぎたい。
「手、つなぐ?」
テレパシー? うれしいな。柔らかそうな黒髪のしたで、おそるおそるといった雰囲気で高い位置から下りてくるこちらをうかがう目線は、かれだって、緊張していることをわたしに理解させた。
「うん、つなぐ」
「たまに、言い方子供っぽくなるよね。付き合う!とか。かわいいな」
「こ、子供っぽくないよ…」
わたしは、こういうことをいわれるのに慣れていない。頭が爆発しないのがふしぎ。もう、恥ずかしくて、立ってられないくらい。山井くんには、元恋人がいる。わたしなんかとは、ドキドキさせるスキルがちがうのだ。ドキドキさせたい。そう思って、
「えい」と、自分から手を繋いでみた。
驚く顔、そののちに、ふにゃりと柔らかくゆるむ笑顔。わたしなんかより、山井くんのほうが、可愛い。
*
部屋に戻ると、ナミが泣いていた。「どうしたの?」と駆け寄るわたし。安藤さんたちはわたしが戻ると話をやめ、ちらりとわたしたちを一瞥し、ふいっと壁に向かって会話を再開した。
「どうして泣いているの、ナミ。ナミ」
「なんでもないよ」
なんでもないはずない。想わずわたしは、激情に駆られて安藤さんたちに向かって叫んでいた。
「ナミになんて言ったの!」
「こっわ」
と安藤さんが言って、
「日浦さん、自分の立ち位置自覚してないみたいだから、ちゃんと教えてあげただけだよ。なにも悪いことしてない。クラスみんなのためだよ」
「ナミは、ナミは…」
また、ナミはなにか安藤さんたちになじられ(先にナミが乱すような言動をしたのかもしれない)、ナミは言いかえし、そして、もっともっとつよい否定の言葉を投げられたのだろう。ナミにも悪いところはある、きっとある、でも、こんなに苦しんでも当然な人間であるはずはないと、安藤さんに対する怒りなんかじゃなくて、なにか巨大なものへの悔しさを感じていた。
「ナミは、ナミだって」
わたしは、臆病だ。戦い切れない。威勢よく啖呵を切っても、やり抜くことが、できない。勇気を、ください。勇気への憧れは、少年の特権なんかじゃない。少女だって、勇気をもとめる。少女には少女の、ささやかな小世界における、血みどろの闘いがあるのだから。
「ウミ」
と、力なさげに、わたしの頭を撫でてくれる。
「だいじょうぶ。ありがとう」
その後の修学旅行はどんよりと暗鬱、ナミと安藤さんはギスギス。わたしもまた無口になったナミの横で、ぐったりと疲れてしまった。
一泊二日であってよかった。金曜日の夕方に学校に戻って、ナミと無言で家に帰り、「またね」のわたしの声に、彼女、「うん」というだけ。土日は、ラインの返信もなかった。
*
月曜日、ナミは登校しなかった。
わたしは放課後に電話をかけたが、出てくれない。小説投稿サイトに行き、ナミの小説が載っているアカウントをみると、「ヒトナミになります」というタイトルで、本文のない投稿の日付が、今日の昼。
学校が終わり、わたしはある想いつきにしたがって、地元の海へ自転車を走らせた。やっぱり、ナミがいた。曇り空の下の、どこか貧乏ったらしい地元の海は、干からびているような光景。それなのにやたら荒々しい硬い風景は、まるで突き放すような素っ気なさ。
ナミは、そこに置かれたように座っていた。
「ナミ!」とわたしは叫び、
「ウミ。ごめんね」と、なんの感情もよみとれない顔を向ける。
わたしは自転車を停め、ナミの横に腰をおろした。
「海激しいね」とわたしがいうと、
「現実みたい」と、ナミらしい返し。
「わたしね、明日からは学校行くよ。つよくなろうと思うんだ」
「ヒトナミに?」
「ヒトナミに」
わたしはわあっと激情に駆られて、
「ナミはナミでいいの!」
「わたしね、『火ト波』に生きる、そういう意味で言ってるの」
発音が、すこしちがう。「え?」とわたしが訊き返すと、
「わたしは、『火』のようにわたしを炎えあがらせて、それを良い心、良い行動にするように気をつけて、そして、それを『波』のように現実へ打ちこむの。しんどくても、怖くても、現実とできるだけ関係していくの。染まれなくっても、染まりたくなくっても、わたしという一条として、編まれようとするの。たとえ編まれなくてもね。わたしはそううごきつづけることしかできないし、けれどぜったいに、わたしの火を殺しはしない。そのうごきをしつづけていれば、わたしは、わたしの守りたいものを磨きながら、強くなっていける」
せつな、そっけなかった海の情景が、どぎつく生々しい、わたしたちどうようの命をもったものとして巨大な波をあげ、わたしたちと合わさった。飛沫に濡れるナミは、みじめったらしいほどにまっさらで、きわだつように綺麗だった。
ナミは、弓を吹く威勢のよさで、「つよくて優しいひとになりたい!」と叫んだ。それはどこにいっても外れてしまうナミが、しごく平凡な人間であることを証づけた、正直な声だった。
ヒトナミ
お引越ししてます。来てくれたらうれしいです。