龍虎相搏つ
nemo sine periculo vincere potest.
誰も危険なしに勝つことは出来ない。
九月初旬某日。
眩いばかりのハイヌーン。
長い期間使用されて来たお陰か、其れとも単に雑に扱われたのかは兎も角、ぱっと見煤けた雰囲気満載の「終日貸切」の看板が、所謂オフ・シーズンを迎えたばかりの海沿いのキャフェ・バー『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』の入り口に於いて物憂げな海風に煽られて何となく鈍い音を響かせる中、アンディー・ウォーホルのデザイン風に模写が為されているマレーネ・ディートリッヒ、ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、イングリット・バーグマン、ローレン・バコール、ジュディ・ガーランド、エリザベス・テイラー、ヴィヴィアン・リー、オードリー・ヘップバーン、マリリン・モンロー、グレイス・ケリー、と言った往年の名女優達の肖像画がずらずらっと飾られた店内には、見るからにカタギの人間では無さそうな二人の男が一見和やかな雰囲気を醸し出し乍ら淡々と会話を交わしていた。
へっ、馬子にも衣装たぁ、良く言ったモンだな。
直ぐ側の浜辺の色彩同様、真っ白な色合いのテーブルクロスに敷かれた円卓に運ばれて来たばかりのアップルティーの香りが仄かに漂う中、相席している人物が纏っている紺のタキシードをフッと見遣るなり、三國連太郎ばりの酷く含みのある笑みを浮かべたのは、黒のタキシードを纏った現『スターレス』のオーナーこと羽瀬山であった。
何を言いやがる、と反論したい所だが、喧嘩腰になった所で腹が減るだけだし、何より事実は事実、剣〈つるぎ〉の柄には手を掛けないでおくとするぜ、今日ばかりは。
紺のタキシードを羽織った人物即ち元「スターレス」のオーナーである岩水耕一は、今日は羽瀬山からの「御馳走」に御呼ばれされている身分の手前、羽瀬山からの明らかに嘲りがしっかりと含まれた言葉に対し、厭く迄も「音無しの構え」を貫く素振りを見せた。
へぇ、随分と聞き分けが良いじゃねぇか、矢張り人間、いっぺんでも「どん底」に落っこちるべきだな。
そう言って羽瀬山は、此のキャフェ・バーの支配人曰く、自身の妻の父が経営している農場「パライソ」で今朝収穫したばかりの瑞々しい林檎を使用して拵えたのだと言うアップルパイへ、金色に彩られたナイフの刃をグサリと刺し込み、同じく金色のフォークで其れをゆっくりと且つ慣れた手付きで自身の口へと運んだ。
やけに説得力があるな、其の言葉。
「死にかけて」みた人間が言う言葉だけに。
程良い温度になったのを見計らうかの様にアップルティーで軽く喉を潤した岩水は、天窓から射し込む白茶けた陽を浴び乍ら鈍く光る銀色のフォークを握りしめるなり、酸味の強いグレープフルーツをじっくりと味わい始めた。
因みに今岩水が纏っている紺のタキシードは
『スターレス』の新顔である青桐の「ツテ」を利用して購入をした特注品で、青桐への見返りの品は密談にも使用可能な一見さん御断りの料亭『細雪』に一年間「ロハ」で通える権利書と裏社会に纏わる「一寸した」情報であったのだが、其れ等を用意する為、秘蔵っ子のヒナタと共に東奔西走しまくった事は岩水と青桐だけの「一雫の秘密」である。
お前にも味合わせてやっても良いぜ、クソ味気ねぇ病院食を喰い続けなきゃならねぇ御体験ってヤツを。
そりゃ自慢か?。
こんなおっかねぇツラをしていても、医療関係者とは其れなりに仲が良うござんすって言う。
けっ、どんな教育を施されりゃそんな事をベラベラと淀みなく喋られるってんだ、畜生。親の顔が見てみてぇモンだぜ、立川志の輔の十八番じゃねぇが。
会わせてやっても良いぜ。
と言っても泉下でおネンネしているがね。
赤ん坊じゃあるめぇに、てめぇの親ァ捕まえておネンネもへったくれもあるかってンだ。
はっはっは、其れもそうだな。
何時も路地裏或いは『スターレス』で垣間見せるプラスチックな笑顔とは異なり、まるっきり邪念の無い快活な笑みを浮かべ乍ら羽瀬山のツッコミを笑い飛ばした岩水は、首に巻き付けたナプキンで軽く自身の口許の周りに付着をしたグレープフルーツの汁気をさりげなく拭き取ると、事前にテーブルの上へと取り出しておいたシガレットケースの中から紫煙を一本取り出しつゝ、構わんかね、と羽瀬山に質問を投げた。
慇懃無礼な雰囲気の感じられる岩水の許可の取り方に対し、面倒くさい事限り無しと言う感情を抱き乍ら羽瀬山は、酷く素っ気ない口調でひと言、あゝ、どうぞ、と返事をするや否や、感情を掻き消す意味も込めてアップルティーを一気呑みし、自身の手元に置いてあった真鍮のベルを勢いよく鳴らした。
おかわりをお持ちいたしましょうか。
其れとも何か別なお飲み物を御所望で?。
ベルに反応をし、バーの奥からゆったりとした足取りで姿を現れたのは、「鉄血宰相」と言う異名を欲しいまゝにした軍人であり政治家のオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼンを彷彿とさせる立派な髭を蓄えた今年の四月一日に還暦を迎えたばかりの此のキャフェ・バーの支配人だった。
そうさな、ウヰスキー・コークでも呑むとしますかね。
畏まりました。
其方のお客様は?。
ウォッカ・マティーニ、ステアでなくシェイクで。
お摘みは何をお持ちいたしましょう。
フランクフルトを。
其方の旦那は?。
サングラス越しに岩水がチラリと羽瀬山へ視線や向けると、其れを無視する様な淡々とした口調で、ピーナッツを、其処の色オトコの分も一緒に、と支配人へ注文を告げた。
こんなトコロでジェームズ・ボンド気取りかよ。
ご注文の品々、直ぐにお持ちいたしますからして、少々お待ち下さいませ、と両名に向けて告げたのち、軽く頭を下げた支配人が其の場を去った途端、ルイ・ヴィトンのシガレットケースの中から取り出した紫煙を口に咥えつゝ、そんな風な軽口を叩くと、「色男カネとチカラはなかりけり」、ま、ある種の粋がりだと思って一笑に付してくれ、其れも大いにな、と呟き乍ら、岩水は羽瀬山の咥えた紫煙に燐寸で火を点けた。
粋がりだ?。
強がりだろうがよ、お前の場合。
其れとも何かね、負け犬の遠吠えかね。
御返しとばかりに金色のジッポで岩水の咥えた紫煙に火を点けて「差し上げ」乍ら、途轍も無く底意地の悪い笑みを羽瀬山がしてのけると、すかさず岩水は、野良犬って言ってくれ、どうせなら、と注文をつけた。
野良犬だか迷い犬だか何方でも構わねぇけどよ、ウチの若けぇのに変な事吹き込むのだけは止してくれよな、後、直接頼まれたからってタブレット端末に触れるのも禁止だ。
ただでさえバタついてやがる時期だ、変な病気が流行るなんざ真っ平ごめんだぜ。
自身の紫煙から放たれる苦み走った香りを漂わせ乍ら羽瀬山がクギを刺す様な素振りを見せると、バグジー呼ばわりか、腐っても血統書付きなんだがな、此れでも一応、と空調の風を浴びてゆらゆらと揺れる紫煙越しに岩水は反論の言葉を添えた。
そして「笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである」と言うフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの遺した言葉が、筆記体の独逸語で綴られた黄褐色且つ楕円形の造形が特徴的な灰皿へ向け、ポタポタと灰を落とした。
勝つんだな、いっぱしの名前〈なめ〉ぇで呼ばれたきゃよ。
ま、こんな御宅は釈迦に説法、耳に蛸ってトコロだろうがね。
してくれるのか、もうひと勝負。
其れ相応の御褒美ってのを用意出来るンならな、勝った時の。
金持ち喧嘩せずも時と場合によりけり、か。
燐寸の燃え殻と紫煙の灰が混じった灰皿の上に於いてすっかり味の薄れた自身の紫煙の火を揉み消したばかりの岩水が視線を投げかけると、お察しの通り、此方の事情が事情なモンでね、と言い乍ら紫色の煙をぷかぷかと天井へ向け、静かに吐き出した。
羽瀬山の口から吐き出された紫色の煙が、宛ら一頭の龍が成層圏をも突破せん勢いで天井へと登っていく中、先程の支配人の手により其々のアルコールとお摘みが運ばれて来た。
又何かあれば御手元のベルで、と言う言葉を告げて支配人が其の場を去ると、こんな機会は滅多にないから、其の記念も兼ねて乾杯と行こうぜ、と岩水が提案をした。
其れを耳にした瞬間、羽瀬山の頭の中には何を言ってやがる此奴、と言う呆然其の物の言葉がよぎったものの、くだらない事で言い争いを巻き起こした所で一銭の徳にもならない事、此の様な場所に於いて良い大人がみっともない真似は出来ない、と言う羽瀬山なりの
理性が働いたのか、直ぐ様恵比寿様の様な笑顔を繕うなり、其の提案、乗ったぜ、と快く承諾「してやる」素振りをしてのけ、咥えていた紫煙の火を勢いよくグニャリと揉み消すなり、ウヰスキー・コークの注がれたグラスを力強く握り締めた状態で其れを岩水の前へと差し出した。
そして軽く深呼吸をしてから、ではお互いの健闘を祈って乾杯、と言う尤もらしい文句を尤もらしい表情で述べた。
其れから二人は軽い世間話をこなしつゝアルコールとお摘みを嗜んだのち、浜辺を歩く事となった。
尚、支払いの際羽瀬山は支配人に対し、ご興味がおありでしたら是非、と『スターレス』の新たな公演の情報が綴られたチラシとパンフレット、そして其れなりの額の御祝儀を手渡したのだけれど、其れを遠目に見つめ乍ら岩水は、秀吉と遜色の無い人たらしぶりだ事で、と胸の奥でひっそりと呟いた。
石段を降りつゝ向かった浜辺は、オフシーズンを迎えたばかりと言う事もあり実に閑散としており、海鳥の囀り、寄せては返すを繰り返す波と海風の音色、そして互いの革靴の靴音位なモノであった。
流石別荘地、静かなモンだぜ。
羽織ったコートの内ポケットから取り出したスキットル片手に羽瀬山がそう聲を響かせると、ビジネスチャンスが転がってねぇか探す様な眼付きだな、と岩水は咥え紫煙で茶々を入れた。
其の茶々を耳にした羽瀬山はすかさず、こちとら商賣人だ、鵜の目鷹の目は常であり、且つ性分ってモンよ、と啖呵を切り、まるで缶蹴りで遊ぶ童よろしく、勢いよく足元の石ころを海へめがけ、革靴の爪先でカッと蹴飛ばし、スキットルの蓋を閉めて其れを懐に仕舞い込んだ。
蹴飛ばされた石ころは一つ二つ跳ねたかと思うと、あたかも屋島の合戦の際、那須与一宗高が射抜いたかの金色の扇よろしく、あっという間に陽を浴びて煌めく波間へボチャンと言う音一つさせず瞬く間に没していった。
お前も宗旨替えしたらどうだ、面白えぞ、金儲けはよ。
「百万長者」になってから言ってくれ、そう言う誘い文句は。
紫煙と潮の香りが鼻腔を擽る中、岩水がボヤきを入れると、羽瀬山は実に態とらしい口調で、ツレねぇな、相変わらず、と全く残念そうには見えない態度で呟いてから、風に飛ばされそうになった帽子を強く抑えた。
ツる気が無い癖にそう言われてもね。
はっはっは、幾ら落魄れても嗅覚の方は実に冴えていらっしゃる様で。
誰の耳にも褒め言葉には聴こえない台詞を羽瀬山が吐くと、岩水はそう遠くない場所に浮かぶ巨大な船舶を見つめ乍ら、ハイエナか禿鷹と良い勝負なんじゃねぇのか、ソッチこそよ、と御返しの言葉を述べた。
今日の所は勘弁してやるが、若し他の人間が居る様な場でクソ生意気な口を利いてみやがれ、一生出禁だからな。
何だったら街をうろつけねぇ様なカラダにしてやる。
羽瀬山がステッキ片手に軽く凄むと、生兵法は大怪我の元だぜ、御老体と如何にも人を喰った返事をし、羽瀬山の側へと近付くや否や羽瀬山が咥えたばかりの紫煙に火を点けた。
ご機嫌取りならもっと上手くやれよな。
悪い、悪い、どうも減らず口を叩きたくなるモノで。
そんな会話を交わしていると、迎えのクルマのクラクションが鳴った。
其れを耳にした途端、二人はまるで申し合わせたかの様にひと言も言葉を交わす事無く駐車場の方へツカツカと歩き始めた。
歳の頃なら三十代前半のボディーガード兼運転手の眼には、親友とも赤の他人とも言えぬ付かず離れずの距離で歩く二人の姿が、一昨日の晩、コカコーラとポップコーンをお腹に入れつつ劇場のスクリーンと音響で鑑賞した任侠映画『冬の華』の高倉健と池辺良の様に映っていた。〈終〉
龍虎相搏つ