百合の君(35)

百合の君(35)

 馬の鼻面をみつばちが横切った。なんとなく目で追うと、溝に咲いている(あざみ)に止まった。来沓(くるとう)の心臓が、大きく脈打った。畑にいる百姓が視界に入る。弓を構えている。ように見えたが、ただ(くわ)を振っているだけだ。
 何を怯えているんだ、来沓は自らを笑った。たまたま少し、敵の妙な作戦に引っかかっただけだ。この百姓は、もうじき我が領民になるのだ。君主として堂々と振舞わねば。
 しかし、目の前で(えびら)から矢が抜かれるのを、来沓は黙って見ていた。それが弓につがえられて、ようやく気が付いた。沼の水をすするような音が聞こえる。
「何をしている!」
 来沓は怒鳴った。そして振り返った兵の顔を見て、ぞっとした。
「若様、あいつらは、危険です」
 嗚咽(おえつ)が混じっていた。来沓は振り返って英勝(えいしょう)を見た。英勝はあの村の攻撃を経験していない。日の光を反射してきらめく狩菜湖(かるなこ)のようなその顔は、故郷を発った時の自分達だ。それが数日で、腐れ水になってしまった。
「ただ畑を耕しているだけだ」
「若様、もう、お忘れですか」
「くどいぞ!」
 音がしたのは、蜂ではなかった。兵の首に、横から矢が刺さった。一度抑えつけた恐慌が、横隔膜を突きあげる。
 矢の飛んできた方角を見る。やはり百姓が弓を構えている。気のせいではない。幻ではない。確かに収穫を待つキャベツを足元に、襤褸(ぼろ)を着た百姓が矢をつがえている。そして兵を見回す。彼らは大将の命令を、今や遅しと待っている。英勝の水も一瞬で濁った。もはや躊躇は許されない。
 刀の(つか)を握ると、籠手(こて)の布地に汗が染みる。
「撃てーっ!」
 来沓は刀を抜いて敵を指した。数十本の矢が畑で丸まっているキャベツに刺さる。武将に必要なのは徳ではなく、恐怖を兵と共有することだったのかもしれない。反撃に遭った百姓達は、次々と逃げてゆく。
「ひとりも逃がすな! 全て焼き払え!」
 泣く子に刃を突き立てる兵でさえ、頼もしく映った。

百合の君(35)

百合の君(35)

あらすじ:出海浪親の治める八津代に侵攻していた別所来沓は、敵のゲリラ戦に苦戦しながらも進軍を続けています。将に必要なのは徳だという自らの考えを、彼はこの先も守り切れるのでしょうか。直接的には、32の続きです。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-12-21

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