死生観
句読点の位置などを一部修正しました(2024年12月21日現在)。
一
人は死んでからが本番。そう言葉にされる死生観は、君のことを並々ならぬ興味と関心をもってクラシックな作品を中心とした映画趣味に走らせたけど、本については僕との共同作業でのめり込んでいく感じだった。そう思い出せるきっかけ。劇場案内される頃合いに飲み物を買って、長い入場列に並ぶ君がペラっと頁を捲る。そこに挟まれていた栞はいつも適当に仕舞われ、入場前には失くしものになってから鑑賞後の支度を整える際に無事に見つかったけど、ときに思いもしない所から出てきては君の読書記録を最新にする栞の様子自体が一つの冒険に思えた。だから、僕がドキュメンタリーとして撮ってあげる。そう軽口を叩いただけなのに、面白そう、と瞳を輝かせた君が今まで以上に目の前の本にのめり込むようになった。君は言う。作り物は要らないし、嫌い。だからこれまで以上に真剣に読書するのだと宣って、カメラモードを起動するように指示を出した。僕と二人。映す側と映される側に分かれた日。上映は既に終わっていて、前評判以上の面白さの余韻に浸れる劇場のシートの隣に座っていた君が、読んでいる本の表紙を見せながらそのタイトルを口にする。その日の栞はもう見つかっていた。他人のポケットに忍ばされ、2時間近くも声を上げなかったのだ。それに倣って、声だけの存在にもならなかった僕がただひたすらに映し続ける。スマホ程度の画面からも直に伝わる、楽しい!というその気持ちに応えたくて僕はまた、一生分の笑顔を使い果たしたんだ。
二
映画は、そこに誰ひとり観客がいなくても流せば始まるし、物理的な条件を整えれば永遠に流し続けることだってできる。機械で動くから。観られて完成する表現だと思うけれど、その成り立ちは確かに自律している。
本はそうじゃない。書かれた内容が印刷されて、本として装丁されて、物として朽ちない限りいつでも読めるものではあるけれど、映画と違って、読む人なしに成り立つものでは決してない。文字の連なりが文章となって、その意味内容の総体が物語や評論といったものとして誰かに認識されてやっと本は「始まる」。ここに認められる差がね、なんか嬉しくて切ない。二人でやっと一人前みたいな、どっちがが欠けると死んじゃうみたいな。本は、だから側に置きたくなるよね。気になるあの人といつか話せる機会を手放したくないのと同じで、沢山積み上げたくなる。上映作品がない映画館は寂しいでしょ?でしょ?君にも通じた「それ」と、感覚的には一緒なんだよ。
映画を動かす機構。それを活かして経営される映画館。その映画館と並べられた読者の一人として私がまた本を手に取り、少しだけ立ち読みしてから買おうと決める。そういう本が増えていく。満足はしていない。だから君を引き連れたまま一歩ずつ奥へ、奥へと進んでいく。
君に撮られ続けた日々の愛おしさは、どの動画を再生しても現れてくれない存在感で知れるものだった。
本を読む前に確認する栞の位置。それをどこかに仕舞う私。その答えをうっかり記録しないように外された画角の内側で、その日に訪れた映画館の様子が映し出される。話題作に賑わう人々。黙読されるパンフレット。自然に生まれては延びる列。スマホを持ち直す君。読書する私。動かない画面。そんな様子を、近くの人が怪訝そうな顔で見つめてる。それに動じた様子は一切記録されていない。そりゃそうだ。君も私も、本当に楽しかったんだから。撮って撮られる。その幸せの間に誰かが入り込むことを『映画』の神様が許さなかった。
ついに失くした栞を買い直そうとして、出掛ける準備を整えていた私の前からいなくなる姿。そんな予感に打ち震える私が、スマホのバッテリーが切れそうだからと私の読書を必死に止めようとする、そんな君の様子を逆取材の形で記録しようと思い付いては実行する。ルール破りの例外。アドリブだらけの質問事項。そこに不真面目な答えが重なって、その詳細は無事に見失われる。残るのはもう君と私の笑い声、笑い声。抱え切れないから取りこぼし、きっと、ポップコーンみたいに後ろの誰かに踏み潰される運命を辿った「それ」らを携えて足を踏み入れた劇場。明るい気持ちのままで迎えてしまう、暗転。
私の心臓を掴んで離さない。
そんな気持ちの終わりは、想えないよ。ずっと。
だから指で挟んだ。その続きのように、君の隣で生きていたんだ。
死生観