新・万花物語 #101-120

新・万花物語 #101-120

春の秒読みなど、20編のアンソロジー、ご堪能ください

●春の秒読み(#101)

 夕べから一睡もしていない。
 九月の朝。
 窓を開けた瞬間、始まりの波が元気出せ、と熱を帯びた風をぶつけてくる。私の体は、むせるような空気に包まれた。

 行った先のホテルで、コウスケはふざけて私の体をもてあそんだ。けっして嫌じゃない。愛があるからうれしい。若い二人はじゃれ合ってシャワーを浴び、もつれたままでベッドに入る。朝起きて微妙な変化を感じた。鞄から体温計を出し、舌の裏に当てる。少し高めだ。不安がよぎる。こんどは妊娠検査薬を出した。トイレに駆け込む。尿をかける。ベッドの上に水平に置いた。判定窓にラインが出た。陽性反応。どないしよう……。顔が引きつる。心がなえた。コウスケに見せられない。背中を向けて寝ていたはずのコウスケが見たとは気づかなかった。ムニャムニャとねぼけ、寝言を言った気がしたから。あのとき、壁一面のガラスに映った妊娠検査薬と私の表情を一瞬でも目にしたのかもしれない。起きたら、急に彼はよそよそしくなった。冷淡な彼の態度に面食らった。抜け殻の愛の巣に漂う、そっけない挨拶。「オハヨー、ミチ」。甘いだけの名もないケーキみたい。
 それが一月前のことだった。

 自宅の居間にいた。
 ホテルでの一件を思い出した。
 押し寄せる感情の波に透明な聖水があふれた。聖水はいやおうなく頬を滑り落ちた。ニキビをよけながら肌を伝う糸筋で、別離の二文字が頭をよぎる。激しい感情は戦国大名のそれのようだ。大名と城が同化し、城全体が生命体の熱に包まれた。このまま外の暑さと同じになったらどうしよう。彼の温もりや息づかいを、私の血、器官、髪の先にとどめておきたい。ふと、蝉の大合唱を思い出す。夏になると恒例のように公園を埋め尽くす、あの大合唱だ。蝉の鳴き声が私の涙声の代わりとなり、城は震えた。城はガタガタと揺れた。天井や壁、床が壊れそうなほどに激しい。私は城になり、その城はメス蝉と化した。オスを求める叫びをしゃくり上げ、ひたすらサイレンのごとくけたたましい音を響かせる。どれほどの年月を重ねたら、私は大人になるのだろう。
 スカートのポケットに、不意打ちの振動が伝わった。感傷的な蝉は凡庸な女子大生に戻った。
【ミチ、どない? 三限目休講やで。カラオケでも行かへん?】
 カオリからのメール。慰めがきた。森野香織は高校からの同級生。同じ大学に通う友人だ。
 鼻から垂れるジュクジュクした泥のような汚物を、白いフワフワしたクリネックスでゆっくりと包み上げる。それを手で丸め、向こうへ放る。無造作に投げ捨てた球体は円弧に沿うように理想的な曲線を描き、落下していく。力加減の良さも加わって、落ちる本体と受け止める側の間に阿吽の呼吸があった。桜色の円筒がナイスシュートと受け止めた。ピンクのゴミ箱にストンと入る。
 さて、ご飯をどうしようか。少し悩んだ。面倒くさい。きょうは朝がゆっくりやし、マクドナルドと決めた。
 マクドナルドに決めたら、高校時代を思い出した。クラブ活動。馴染みのある声。仲間の屈託のない笑顔。放課後の寄り道。
 安心したら腹がへり、床に尻をつけたままで手を伸ばす。丸いテーブルの上に載っかっている食べ物をまさぐる。最初に手が届いたのは、いつものパッケージだ。またか。愛嬌のあるブツブツがたまらなく個性的なのは、歯触りよく口の中を刺激するホワイトチョコレートバー。ペリペリとパッケージを破く。ごつごつしたチョコバーを半分ほど頬張った。ナッツの凸凹がたまらんわ、と呟く。すでに口の中に収まったチョコバーはめっちゃ甘い。その口どけが、いつも若者にある種の幸福感をもたらす。
「ああ、うまいわ。一日の始まりなんてこの程度か」
 ありきたりのひとり言が妄想を頭から追い払った。私は洗面所に向かう。顔を洗った。洗い終えて居間に行く。テレビをつけた。いつもの情報番組がこちらに呼びかけている。
「いったんCMに入りましょう」
 面白くないCMを観たくなくて、すぐに消した。黒くなる直前の光が中央に集まり、輝いたように見えた。
 登校の準備をし、簡単に化粧をほどこした。肩まである茶髪をアップにし、ピンクのゴム紐でくくった。
 大学三年生の私には彼氏がいた。コウスケだ。
 彼は大学を卒業し、アルバイトをしながら専門学校に通っている。そのアルバイトは、飲食店の厨房担当。週三日通う。夕方遅くなっても出勤可能の職場である。四時まで働くパートの人とシフトを交代し、夕方からラストまで働く。昼からたまっている洗い物を二十分で片付け、夕方以降の野菜のカット、テーブル拭きをする。随時運ばれてくる大量の箸や食器、コップの洗い物。閉店後の水回りの清掃に最後のゴミ出しまでを任されている。店長は親切な人。一からやり方を教えてくれた。彼は身振り手振りでそのように教えてくれた。
 彼は、朝早く、新聞配達にも精を出していた。夜は厨房で皿と格闘する日々。来る日も来る日も、汚い皿やどんぶりを洗い続け、大量のゴミを捨てた。二月目に野菜を切るのを許された。
 コウスケはバイト生活をつぶさに教えてくれた。
 あるとき、彼からメールが来た。
【毎、日、厳しい。ミチ、元気か】
 私が二回生の当時、彼はめげていた。アルバイトに行くのが億劫だ。そんな趣旨のメールを寄こしてきた。
【またしくじった。バイトで。きたえられた。ズルルン。慰めてくれ】
 私へのメールが来るたび、画面はぼやきで埋められていた。どこまで本当なんやろ、と思った。
 出会いはコウスケからの誘いだった。春の入学式だった。
「あの。もしよければ、『雅の会』にどないですか?」
 見知らぬ大学生が話しかけてきた。この大学の先輩か。
「いいです」
「まあ、そう言わんと。お嬢さんてば」
 私は逃げ出した。トイレに入った。
 トイレから出てきたら、またあの大学生と鉢合わせた。
「いや、偶然。僕もトイレでして」
 私は不信感と気持ち悪さに見舞われた。後ずさりし、スタコラと足早に去った。
 逃げるようにして、とある建物に入った。
 学生課に寄り、チラシをもらった。該当学年の前期カリキュラムをスマホでダウンロードする。吉都大学一年生のQRコードを、配られたチラシからスキャンした。またあの声がする。
 もう。なんなん、あの人。心で怒った。
「いったい、あなたは」
 振り向くと、コウスケがうれしそうな顔で立っていた。
「いや、いや。ゴメンね。そんなんちゃうねん。僕も三年生のチラシを取りに来た。単位も危ないし。こんどは勧誘でないからね。朝から来よう思てたんよ」
 さっきと今度は単なる偶然の一致か。少し気が緩んだ途端、彼の声がまたかぶさる。
「ねえ。気が合いそうやな。僕、島田康介いうねん。僕んとこのサークルにおいでえな。ええ先輩や僕がおるで」
 急に猫なで声のなれなれしい口調になった。
「しゃあないなあ。『雅の会』って、どんなサークルですか?」
「うん。古き良き日本の伝統文化を研究し、愛でるサークルなんよ。活動は、梅見や茶会。川柳、花見に月見、舟遊び。日本の伝統的な行事を体験できるよ」
「わ、スゴっ!」
「一部でもやってみたくない?」
「そう言われても」
「きょう、時間ある?」
「ええ」
「じゃあ、向こうのカフェで話そか。会の写真もある。先輩方の作られた川柳などを見てもらえるとうれしい。どう?」
「じゃあ。ちょっとだけですよ」
 大学を出た。
 向かい側の細い路地を進む。その先にレストラン『フェニーピア』があった。
 きれいな店内に入る。
 コウスケはズケズケと進んで壁際の窓辺にどっかと座り、「こっちこっち」と私を手招きした。
 彼は慣れた手つきで係を呼び、軽食を頼んだ。私はとりあえずコーヒーを注文し、相手の様子をうかがった。
「話はそれだけですか。なんで、カフェなんかに。もしかして、話って」
「うん。一日にキャンパスで三回も出くわした。運命を感じるわ」
「私、エッグベネディクトを追加します。ええでしょ? そちらのおごりで」
「うむ。仕方ないな。今回だけやで。ところで、名前聞いてへんかったな」
「あ、うっかりしてた。岩川美千留といいます。岩に、三本の川。美しい、千の、書留の留」
 そう言うと、コウスケは鞄からスマホを取り出した。私も成り行きに負け、二人はその場でメールアドレスを交換し合った。
 彼は芸能人に似ていて、ちょっと恰好いい。まあ、タイプやし、ええか。軽い気持ちで付き合いが始まった。ナンパか。サークルの勧誘活動か。相手の真意をはかりかねた。瞬く間にメールが届いた。
【また会おう。フェニーピアで。僕のことを話す。 コウスケ】
 私に惚れたなと思った。ちょっぴりうれしくて、はにかんだ。
 付き合い始めて二月がたった。
 ゴールデンウィークの真っ最中に、二人でUSJに出掛けた。人出が多かった。恥ずかしかった。あんなふうに出会ったとか、カフェに呼び出されたとかが。だから、ちゃんと友人に話せる程度のデートはしてみたかった。大阪人でデートするなら絶対に外せないような場所で、ちゃんとしたデートをした。その日、天気は晴れ渡り、雲が見えなかった。暑いぐらいの陽射しの下に彼はいた。サングラスにパナマ帽。ストライプのシャツにデニムの短パン姿。駅から降りて改札を出たばかりの私に手を振っている。スマホでメールを送らなくてもすぐ分かった。わかりやすいやつ、と思った。
 USJに着いた。
 順番待ちが長かった。彼と話し込んだ。いくつかのアトラクションを楽しんだ。レンガ積みの石垣に腰掛け、また話をした。私は気分が高揚し、舞い上がっていた。
 ほどなく、夕暮れが迫ってきた。
「帰ってええかな?」
 コウスケは申し訳なさそうに呟いた。
「えええ……。まだいたいのに」
 私は眉を寄せた。
「スマン、スマン」
 彼は手を合わせて頭を下げた。私はふてくされ、とぼとぼと駅へ帰った。あとで友人を介して聞いた。バイクのローンがあり、その月は特に財政状況が苦しかった。困った子どものような顔だった理由はそれか、と合点した。きわめて健全な、高校生のようなデートを終え、互いの家路についた。
 それからコウスケのことを次第に理解し始めた。料理ができる。洗濯物をきれいに畳む。服のセンスがいい。女子力も高い。ナンパ紛いの出会いだったが、内心では満足のいく彼氏だと思った。

 付き合いだして二年が過ぎた。互いの会話や振る舞いはぞんざいになった。彼女だから束縛して当然と言わんばかりの、彼の言動が鼻についた。私は突き放したり、すねたり、じらしたりした。関係が密になるにつれ、二人はしっくりこなくなった。それらは反省材料だった。致命的ではないと思っていた。
 妊娠事件以来、人が変わったかのように、二人の関係はギクシャクした。あの晩、久しぶりに抱かれてうれしい気持ちと、納得できない不信感を抱いた。妊娠を告げられないもどかしさ、男としての責任を取れと彼をなじる心の声へと変質した。複雑な思いが過去、現在、未来を軸にして、振り子のように揺れては戻り、また揺れた。
 子どもができた私は、一人きりで産婦人科へ行き、赤ん坊を堕ろした。とても情けなく、辛い選択だった。
 別れを真剣に考え出したのは、堕胎してからだ。
「就活がきっかけなんよ。ダンスのインストラクターになる夢をかなえたいの。東京に行くわ」
 コウスケに告げた。
 無理もない。私たちはまだ若い。私は大学三年生。コウスケはアルバイトをする専門学校生の身分だ。妊娠して子どもを育てる選択なんて、当時の私たちにはなかった。急によそよそしくなったコウスケの態度から、別れたくて逃げ道を探しているのは明白だった。悲しかった。情けなかった。私はこんなことで彼を失いたくなかった。本心は別れたくなかった。子どもは堕ろすとして、なんとかコウスケの心をつなぎ止めたかった。努力はした。コウスケとの距離は遠ざかった。ケンカも増えた。けっきょく、無難なウソ以外の手立てはなかった。
 平日の午後、店は混雑していなかった。すぐに部屋が取れた。カオリと一時間だけカラオケボックスで歌いまくった。私はしっとりしたバラードを歌い上げた。曲の最後の方で間があいた。思い切って声に出してみた。
「いずれコウスケと別れる。でも、カオリはずっと友だち」
 決意と感謝の気持ちを、本心を知る友だちに対して口にした。
「気にすることないで。ありがとうな」
 固く握りしめた私の手の甲を見つめ、私の冷たい掌にカオリはそっと触れた。涙が目頭からあふれ、私の唇に達した。
 夜になった。
 パソコンを開いた。以前に始めたブログは、私にとっての〝電脳空間〟だった。私の思いを吐露する場、同じ気持ちを匿名の人と共有し合う大切な場だった。それがひそやかな愉悦になっていた。主として、家で飼うモモンガの日常を綴っていた。最近は、コウスケとの恋愛模様を書くことも増えた。楽しいことや嫌なことを書き出すと、気分がスッキリした。それは心の告白となり、ブログに蓄積された。あとで読み返すと、自分自身の心にまとわりついた気持ちに驚かされた。喜び、悲嘆、葛藤、焦燥感。妊娠を知った日のやるせない気持ちを綴った詩や、別れを意識した詩をしたためたときには、なんど読み返しても思いが込み上げた。そうした気持ちは瞼から聖水を出し、止まらなかった。たくさんの共感や励ましのコメントを匿名の人からもらった。

 一年半が過ぎた。
 春になった。
 私は卒業を控えていた。就活もめどが立ち、東京行きは確実になった。ダンススタジオで働く内定をもらった。一人で上京し、住むところも決めた。卒業論文はなんとか期限までに書き上げた。
 コウスケは大学四年生のときに予備試験に合格したが、卒業後、司法試験に二度挑戦して不合格だった。大阪駅前にある専門学校に通っていた。その年の五月、「三度目の正直やで」と言っていた。別れるつもりだったが、二人の関係は冷えたままで継続した。つかず離れずで、親しい友人に近い関係に成り下がっていた。
 土曜日の夕方だった。二人でコンビニへ向かっていた。夕食を買いに行く途中、カラスの群れが低空飛行で前をかすめた。屈んだところに春風がスカートをふき上げ、恥ずかしくて押さえたのが悪かった。あわてた瞬間、肩に下げていたポーチが落ちた。ポーチを拾ってコウスケに追いつこうと小走りになった。あとで気付いた。ポーチのジッパーが開いていた。どうやら、お守りを落としたらしい。
 コウスケに追いついた。並んで歩く。
「あのぉ」
 おばさんの声がした。
「はい、何か」
 私は明るい声を出した。振り向くと、主婦らしき人が立っている。
「これ、落としました?」
「いえ。違います。私のストラップはアニマル柄のモモンガです」
「ああ。こちら?」
 主婦は、たくさんのストラップを手にしていた。その一つを前に差し出した。
「これですよ」私は指さした。
「正直ね。全部あげます」
「え。いいんですか?」
「私、引っ越すので。それでは」
 主婦は押しつけるように手を伸ばし、私に全部を預けた。くるりと踵を返し、サッサと行ってしまった。
「コウスケ。コレクションが増えてしもた」
「おもろいな。おばちゃんて」
「春先のイタズラかな」
 春の珍事が起きた。立て続けに起きた。発端は落とし物だった。あとから思うと合図のようであり、単なる偶然でもあった。
 自宅に戻った。
 夕食を食べ終わり、二人は私の部屋にいた。
 妙な一日が三・一四のリニア開業日だった。それが一つ目のカウントダウン。
 夜の七時五十九分。あと一分で八時だ。
 パソコン画面の右下を凝視した。デジタルの時刻を見つめ、腕時計とにらめっこする。三月十四日は女性アイドルの引退記念ライブの当日だ。夜八時に東京で行われる予定である。それが二つ目のカウントダウン。それをコウスケは知っていて、私に教えなかった。
「三、二、一、スタート」
 テレビ画面でアナウンサーが叫んだ。リニア開業の祝砲ベルが聞こえた。コウスケはニュース番組をつけていた。
「ついにつながったで。東京と名古屋が。リニアで」
「うん」
 私は生返事をした。なぜなら、私の興味はリニアでも、アイドルでもない。そっちとちゃう。私は、インターネットの画面を食い入るように見つめた。
「あれ? 開業時刻って朝の八時ちゃうかった?」
 コウスケは頓狂な声を出した。
「そうなん? 知らん。どうでもええやん。コウスケ、鉄オタちゃうやん」
「まあ、そやけど」
 コウスケはニュース映像からBS放送で流れるアイドルのライブに切り替えた。彼はアイドルを見たがっていた。
 とにかく、夜八時。
 私はインターネットで、リアルタイムの開票速報を目で追った。それが三つ目のカウントダウンである。しかし、開票率一桁台では、候補者の当落なんて判明しない。
 アイドルの登場に熱狂するたくさんのファン。名古屋駅プラットホームにあふれる鉄道マニア。大阪府議選の実況中継会場の支援者たち。三つ巴が東京、名古屋、大阪で同時刻にそれぞれの熱気をかもしている。私は妹の彼氏の知人が府議に立候補し、その結果報告を妹に頼まれていた。妹はいま彼氏とデート中。まったくもって、無責任なカップルだ。「インターネットを見ぃへんと当落がわかれへんねん。お願い、お姉ちゃん」と妹は私を拝んだ。私はしぶしぶ左手を差し出した。「五百円やで」とぶっきらぼうに言った。妹は、「恩に着るわ」と恵比須顔で財布から五百円を出し、私に渡した。あとで父に聞くと、「その手の選挙結果はすぐに出てこえへんぞ」と笑われた。
 そのときだった。
「あれ? なんか変」
 言葉を失った。同時に、違和感も覚えた。
「なんや、この曲は。入っとったかな?」
 私は首をひねった。パソコンの音楽フォルダに、『彗星は巡る』など、見たことのない名前の音楽ファイルがいくつもあった。おかしい。でも、得やなと思った。再生してみた。

きょうの きれいな 夜空を
星になった 私が 駆けてゆき
彗星は巡る じゃあ また いつか♪

 感心した。女性のボーカル。聴いたことはない。なんか新しい曲調だ、と思った。
「なあ、ミチ。コンビニ、行くか」
「え? アイドルのライブはええの?」
「うん。最初だけ見たかった。曲自体はどれも知っとる」
「さよか。ほな、行こう」
 パソコンの電源を切り、外へ出た。三つのカウントダウンが重なったからなのか。得体の知れない力が絡み合い、摩訶不思議な夜は説明不能な状況で進行していた。
 次の日、パソコンを起ち上げようとした。うまくいかない。真っ黒な画面にチカチカと彗星の軌道のようなものが動いている。意味不明の英文メッセージが垂れ流しになっている。ブログを掲載した〝電脳空間〟へ気軽にアクセスすることはできなくなった。ちょっとショックだった。
 どうしようと焦った。コウスケの顔が浮かんだ。とりあえず電話した。
「ああ、コウスケ。ちょっと頼みがあるんよ。今夜も私の家に来られる?」
「うん、僕でよければ」
 電話口のコウスケは朗らかに答えた。
 晩になって彼が家に来た。
 事情を話し、パソコンを調べてもらった。
「パソコン、変やろ? 直る?」
 私は彼の手元を覗き込んだ。
「分からん……。もう寿命ちゃうんか」
「買って八年になる」
「ほな、寿命や」
「なんか壊れる前に、ええ曲が入っとってんけどな」
「そうなんや」
「そう。一度は聴けたのに。もったいない。どないしたらええ?」
「起きたことを、そのままに受け入れたらええ」
「起きたことって、何?」
「パソコンが壊れて直らんことや」
「受け入れる、か」
「だって、しゃあないやろ。なにかの不運やと思えよ。それを受け入れんねんて」
「それで?」
「そしたら、気持ちが切り替わる。スーッとするわ」
「そうなん?」
「そやで。ええ曲聴けて、よかったやろ? でもパソコンは壊れた」
「うん、壊れた」
「起きたことを起きたままに受け入れる。壊れる前に一つええことがあった。もともと寿命で壊れる寸前。ええ曲が紛れ込んでたのは、なにかのメッセージ。ただ壊れてしもただけ、とは違う。なにかがミチにメッセージをくれた。ありがたく思わんと。それが大事。心のゆとりが次の結果につながる」
「なんか分からん。でも深そう」
 私は腕組みし、彼氏の顔を尊敬の眼差しで見た。
 しばらく無言のときが訪れた。それは、まるで、サラサラとした細かい砂粒の砂漠を吹き抜ける一陣の風のようだった。
 コウスケの瞳が輝きを増し、私に訴えている気がした。私の心を読んだような面持ちの彼は、両手で私の腕をしっかりつかまえた。
 五年がたち、久しぶりに電話の声を聞いたとき、コウスケはこう言った。
「あの会話が終わる頃かな。ミチの顔って妙にすがすがしかった。まるで、沐浴した女みたいやったで」

 大都会の中に私はいた。
 小さいダンススタジオでインストラクターをしている。他のインストラクターと一緒に子どもらに流行のダンスや基礎ステップを教えている。
 当時の三・一四以来、ブログはやってない。しばらく引っ越しや仕事で忙しくして、仕事以外でパソコンを使う生活から離れていた。数年前のブログに登録したパスワードを忘れた。仕事とプライベートはスマホで事足りている。かつての〝電脳空間〟は、もう遠い昔になった。失恋の感傷にひたるのはよせ。夢に向かって自分の道を歩め。そのように命じる暗示だったのかもしれない。あの頃の思い出は、インターネットのデータに埋もれているに違いない。
 コウスケとは疎遠になった。あえて連絡を取る気はない。しっかりと私の腕をつかまえたのが最後の姿。別れ際の優しさだったと思いたい。男女の付き合いは解消した。
 三月十五日の晩、壊れたパソコンを見捨て、深夜の公園に行った。
 空を見上げると、街のネオンで薄白い帯に漆黒の闇夜が分厚く積もっているように映った。白い雲は少なかった。星空を眺めた。ああ、久しぶりにきれいな星空だと思った。いつもよりずっときれいに見えた。コウスケの台詞のお陰で心がスッキリしたからかもと思った。 
「星が輝いている」私は立ったまま、瞬く星を見つめた。
「ああ、一番星みたいなんがあるな」
「きれいね」
「うん。めっちゃきれいや。夜空はロマン」
 隣のコウスケは法律の勉強で疲れた脳を休め、くつろいでいるように見えた。
「星ってな。なんで、止まってるのと動くのとあるの?」私は訊ねた。
「さあな。天体のことは難しくて、よう分からん。願いをかなえるためやろか」
 そのときの私は、東京に行く願いをかなえようとしていた。
「この春から東京や。東京行ったらしばらく会えんようになるね」
 しばらく二人は無言になった。
 コウスケは私の妊娠と堕胎を知っている――そのとき直感した。背けた顔を見て分かった。彼はせめて一緒に産婦人科へ付き添うぐらいはできたはずなのに、それすら実行しなかった。ずっと知らないふりを貫いた。大人のやり方なのかもしれないが、ズルいと思った。冷淡な態度を取ったのも、私に真実を言わせたかったに違いない。受け入れたのだろう。二人の間で起きたことを。憎い気持ちとまだ諦めきれない気持ち。相反する両極が心をかき乱し、尾を引いたままで一年半を過ごしてきた。
「さあ。夜もふけた。どないする?」
 コウスケはなにかしたがっていた。
「どこ行く? いま何時?」私は訊ねた。
「十一時。開いてる店かコンビニ、探そ」
「うん。ビールで祝杯しよ」
「よし」
 とにかくいまは夢を見て前へ進みたい。夢を諦めずに上京しようと心に誓った。
 店は見つからず、コンビニでビールとつまみを買い込み、公園に戻ってきた。
 二人はひとけのない真夜中の公園のベンチに腰を降ろし、缶ビールを開けた。
 コウスケとの別れが迫っていた。肌寒い夜は長い。新たな出会いと慣れ親しんだコウスケという存在との別れを再認識し、酔いにまかせてぼんやりと夜中から朝方までを過ごした。
 だんだんいい気分になってきた。文字通り「春の曙」が近づいてきた。朝だ。白み始めている。空を見上げる。空は複雑なグラデーションを二人に見せていた。
「さあ。僕、家に帰って少し寝てから専門学校へ行かな。じゃあな」
「うん。しばらく連絡せえへんよ」
「ああ。それでええ」
「うまく行ってからメールするね」
「気長に待つ」
「じゃあ、またいつか」
「さよならは言わへんぞ」
 コウスケは踵を返し、朝の駅へ向かった。私もそうするつもりが、照れ隠しに反対へ歩き出した。先の角を曲がり、〝珍客〟に遭遇した。
 キャッ。思わず叫んだ。見知らぬ老人が目の前に立っている。
「すんません。驚かせてしもて」
「もしかして、それ」私は〝珍客〟を指さした。
「イグアナです」
「おじいさん、ペットと?」
「はい、コイツと二人で散歩ですわ」
「長生きして下さいね。じゃあ」
「ありがとう。じゃあ、またいつか」
 老人は奇遇にも先ほどの台詞を口にし、ペットを連れて角を曲がった。 (了)

●????(#102)

新・万花物語 #101-120

新・万花物語 #101-120

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-12-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 春の秒読みなど、20編のアンソロジー、ご堪能ください
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